月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
次回、漸く彼が目覚めます。そして今回のラストでは……。
三角関数様、えりのる様、秋ウサギ様、烏瑠様、キンジット様、誤字報告ありがとうございました!
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大蔵家本邸。
今年の3月まで私が暮らしていた屋敷に戻って来ました。
何度かは重要な話し合いの為に戻って来たことはあっても、やっぱり私にとってこの本邸は帰る場所には思えない。あっちの下の兄と暮らすようになってからは尚更に思うようになりました。
何よりも今この本邸は……敵地です。
「入るぞ、りそな」
「失礼いたします」
控室に扉が開き、秘書である上の兄とスーツ姿のカリンさんが入って来ました。
「アメリカに帰国した富士夫殿と、出席を拒否したルミネ殿、そして桜小路家に婿入りした遊星を除き、全員屋敷に集まった」
上の兄の報告に私は頷いた。
当主を継いでからは使わなくなった当主権限に因る大蔵家緊急集会を、私は発令した。目的は言うまでもなく、お爺様への追及の為だ。
お父様やお母様、そしてメリルさんも今日は本邸に来ている。
本当ならメリルさんにはあっちの下の兄の傍についていて貰いたかったんですけど、後からお爺様に何か言われないようにする為にも、メリルさんにも参加して貰った方が良いと私達は判断した。
あっちの下の兄の看病は、駆け付けてくれた京都の人とアメリカの下の兄、そして元桜屋敷に勤めていた人達が見てくれている。
富士夫叔父様を除外したのは……あの人もやらかしている側なので、お爺様を追求する場だと連座で追及しないといけなくなりそうなので。
先ずは本命のお爺様を相手にしてからです。
ルミネさんが出席を拒否したのは……今、お爺様に会って冷静でいられる自信がないと言われたからだ。
まあ、今回は私もそうした方が良いと思ったので許可しました。
「いきなりの緊急集会に爺は面を食らったようだが、ルミネ殿に会社を長期休暇するようお前が命じた真意を聞くために参加するそうだ。此方の思惑通りに」
緊急集会と言っても、既に経営から一線を引いたお爺様が出席するとは限らない。
お爺様が当主だった頃なら、家族に会いたいという気持ちで、此方の都合も気にせずに年に何度も(自主的という形で)呼び出されましたが、今のお爺様なら参加を拒否しかねない。
なので、ある意味ではルミネさんが文化祭後も会社に通っていてくれたのは助かりました。
内心で安堵してる私に資料を手に持ったカリンさんが近寄って来ました。
「此方が集まった前当主が行なったフィリア学院に関する不正の数々が書かれた資料になります」
「ありがとうございます」
渡された資料を手早く確認し、頭が痛くなりそうでした。
よくもまあ、こんなに不正をしてくれたものだと身内ながらに恥ずかしくなりますよ。この資料がマスコミになんて渡ったら、即座にフィリア学院の音楽部門は破滅する。
他にも、何百万、何千万単位でお爺様の個人資産が音楽界に流れている事も記されていた。この資料をルミネさんが見たら卒倒しかねませんね。それほどに酷い。
「……行きましょう」
これ以上お爺様の問題を放置できないと改めて理解した私は、上の兄とカリンさんを伴い、会場に向かいました。
「この度は、私の急な呼び出しに応じて貰って感謝します」
会場に集まっている面々に私は社交辞令として先ずは挨拶をしました。
全員が神妙な顔をしています。その中で真っ先に私に声を掛けて来たのは……お爺様でした。
「りそな。この度の緊急集会。一体何があったのだ?」
私が当主になってからは行なわれた事がなかった緊急集会。
一見すれば、それが開かれた事に焦燥感を持っているようなお爺様ですが。
「それとルミネが来ていない。りそな。よもやこの度の緊急集会に、ルミネを呼ばなかったのか? 儂の下にお前の指示で会社をルミネが長期休暇する事になったと報告が届いている。一体どういうつもりなのだ、りそな?」
本当に蔑ろにしているなら許せないと言わんばかりに、私を睨みつけて来ました。
懐に手を入れて、事前にルミネさんから預かって来た手紙を取り出す。
「そのルミネさんからお爺様宛に手紙を預かってきました」
「手紙だと? 何故手紙など回りくどい事を? ルミネとなら何があってもすぐに会うと言うのに」
不満そうに呟くお爺様に構わず、私は内容を読み上げる。
「『私こと、大蔵瑠美音は父である大蔵日懃に対するフィリア学院における現当主である大蔵里想奈が行なう不正の処罰に関して、一切の異議申し立てをいたしません』」
空気が一瞬にして固まった。
その中心にいるのはお爺様。その隣に座っている、ルミネさんの母親も唖然とした顔をして固まっている。
私を含めた全員の非難する視線がお爺様に集まった。
「今回の緊急集会の議題を発表します。『数々の不正を行なった前当主大蔵日懃に対する処罰』。これが今回の議題です」
「……な、何だと!? り、りそな!? この儂を処罰するなど、気でも狂ったのか!?」
お爺様は、まるで起こる筈が無い事が起きたと言わんばかりに声を張り上げました。
逆に私が聞きたいぐらいですよ。こんなにも不正を行なっていて、処罰されずに済むと思っていた貴方の方がおかしいんです。
視線で脇に控えていた上の兄に合図を送る。
上の兄は頷くと、手に持っていた資料を席に座る皆に手渡して行く。
「此方が現当主であるりそなが、理事長を務めるフィリア学院で行なわれていた前当主の不正に関する資料となります。先に申しておきますが、これは捏造の類ではなく、フィリア学院理事長である現当主が送り込んだ調査員から上がった報告ですので」
「衣遠!?」
「何かご不満でもあるのですか、前当主殿? 確かフィリア学院内に調査員を送るようにと、総裁殿から貴方の方からも頼まれたとお聞きしていますが?」
「う、む……!」
「まさか、ご自分が行なっていた不正は見逃して貰えるとお思いだったのでしょうか? 不正を正そうとする者が身内だからと言って不正を容認する。それでは下の者達に示しがつきません」
「ぐっ、ぬぅ!」
上の兄の正論に、お爺様は唸り声を上げるしかありませんでした。
これまで追及されなかったから大丈夫だと思っていたんでしょうが、今回ばかりは私の我慢の限界を超えた。
資料を読んで、初めてお爺様が行なっていた不正の数々を知った面々は顔を青褪めさせていた。
「お義父様!? これは一体どう言う事なのですか!? 現当主でりそなが理事長を務める学院だからと言って、この不正の数は余りにも多すぎます! これでは理事長であるりそなの立場が無くなるに決まっているではありませんか!?」
一番最初に叫んだのは、血の繋がった母でした。
事前に上の兄からお爺様の不正を追及するという話は聞いていたでしょうが、その余りにも多い不正の数々には悲鳴を上げたくなるほどだったみたいです。
当たり前ですけど……。
「父上。私からも言わせて頂きますが、この不正の数々は余りにも酷い。これではルミネが先ほどのような手紙をりそなに渡すのも無理はないでしょう」
「真星!?」
「歳が離れ、暮らす国も違うので兄らしい事など何もしてやれなかった私ですが、ルミネが『規則』を大事にする妹だという事は分かっています。そのルミネがこの数々の不正を知れば、どれほどショックを受けると思われていたのですか?」
「わ、儂は裏から手を回してなど……」
「じゃあ、大瑛に関する件はどう説明するのか教えて頂きたいところですね、前当主殿」
「すっ、駿我!?」
無表情で問いかけて来た上の従兄弟に、お爺様は慌てて顔を向けました。
「百歩……いや、千歩譲ってこの資料が総裁殿とその秘書の衣遠の捏造だとしても、大瑛に関する事は俺の方でも調べがついている。何千万単位で金を方々にバラまいて大瑛を評価しないように依頼したそうじゃないか?」
「グゥッ……あ、あの者は……」
「大蔵の人間としては認めないと言いたいんだろうが、だとしたら尚更に外聞が悪くなる。仮にも大蔵家の前当主が縁も所縁もない人間を個人的な悪感情で、金をバラまき評価させないようにした。大蔵家の評価はがた落ちになるだろう。加えて言えば……アンソニー」
上の従兄弟の指示に従って、隣に座っていたト兄様が席から立ち上がりました。
「前当主殿! 数日前の文化祭の日に、俺は確かに貴方に確認した! ルミネ殿の衣装の製作者を学院の教師から聞いたと! その時は何とも思わなかったが、後から総裁殿に確認したら学院内での衣装の製作者に関する案件は部外秘だそうではないか! これは貴方が確かに不正を行なった証拠だ!」
「儂はルミネの父親じゃ! 娘の衣装の製作者を知って、何が悪いというのだ!?」
「方法が不正だと言っているんだ! 更に俺を含めた全員があの場で聞いたぞ! 小倉朝日ちゃんがルミネ殿の衣装を製作した事を、『遊星君の真似事』としか思っていなかったと!」
「な、なんと言う事を!?」
「本当なのですか!? 父上!?」
あの場にいなかった血の繋がった母と父が、非難する声と視線をお爺様に向けた。
「お義父様! あの娘は精神的な事情で療養中だと衣遠から説明を受けていた筈です! 現に私も真星さんも直接話し、確かに精神的にまだ回復し切れてないと思いました。お義父様はあの時の様子で察せられなかったのですか!?」
「ル、ルミネの衣装を作れるほどに回復していたのだ。問題が起きることなど」
「しかし、衣遠から聞いた話ではあの子は文化祭の日からずっと病院に入院しているとのことですが、父上?」
「入院じゃと!? そのような報告は聞いておらんぞ!? 衣遠、どういう事じゃ!?」
まるで報告しなかった上の兄が悪いと言わんばかりに、お爺様は上の兄を睨みつけた。
対して上の兄は涼し気な顔をしながら、お爺様の質問に答えました。
「報告をしなかったのは謝罪しますが、我が子を思えばこその事です。前当主殿。貴方はあの場においてハッキリと、我が子が私の傀儡となっていれば、現当主であるりそなに反旗を翻しても私ともども大蔵家を追い出すつもりだったと仰られた筈ですが?」
「そ、それは……いや、その後に儂はあの者の大蔵家入りを認めると宣言した筈だ。それで何故倒れるなどという事が起きるのだ?」
「……確かに認めると発言しましたが、それは我が子が叔母殿の衣装を製作した事に因っての発言。では、もしこの度の叔母殿の衣装の製作に関わっていなかった場合、貴方は今年初めの『晩餐会』で決まった決定を、個人的感情で破るつもりでいたと?」
「ぬぅっ……」
「『晩餐会』で決まった事に関しては、当主においても覆す事は出来ない。それは家族間での話し合いの結果を蔑ろにする事と同じ。よもやそのような大それた事を、前当主殿が企んでいたとは思いませんでした」
「わ、儂は……な、何も家族の意見を蔑ろにした訳では……」
「そうでしょう。ですが、前当主殿が仰ることも尤もな部分は確かにありました。急な形で私が養子を取ったなどと報告した事は謝罪いたしましょう。故に! 現当主である大蔵りそなに改めてお願いする! 我が子、『大蔵朝日』を私の養子とし、家族の一員と認める裁決を『家族会議』にて行ないたい!」
「許可します」
大蔵家の最高権力者となっている当主の決定を、唯一覆す事が出来る『家族会議』。
家族一人につき一票を与えられ、その採決には何者でも覆せない。苦虫を噛み潰したようにお爺様は顔を歪めた。
まさか、自分が嘗て決めた取り決めが、自分に牙をむくなんて思ってなかったでしょうからね。
そしてこの『家族会議』の結果はどう足掻いても決まっています。
「ま、待て! 家族であるならルミネの票はどうなるのだ!? それに富士夫も!?」
「父は急に体調を崩されたのでアメリカに帰国しました。この場にいない人間の票は無効投票。確かそう言う取り決めだった筈ですが、前当主殿?」
「加えて言いますが、ルミネさんの手紙にはまだ続きがあります。『もし小倉さんの家族入りに関する『家族会議』が執り行われた場合、私の票は『規則』によって無効投票とするか、或いは賛成票にして下さい』だそうです」
お爺様は椅子に座って項垂れました。
どうやら漸く、この場にいる大蔵家の面々の中で、味方と言える相手が妻であるルミネさんの母親以外にいない事に気づいたようですね。
その人にしても、お爺様のやらかしには言葉もないのか、資料を見つめながら顔を青褪めさせて身体を震わせています。
「では、採決を取ります。朝日を家族の一員として認める者は右手を。認めない者は、左手を上げなさい」
一斉に右手が上がりました。
唯一遅かったのはお爺様とルミネさんの母親でしたが、この2人にしても左手を上げる事は出来ない。
上げたら、お爺様の発言には真実味が無いとされてしまうんですからね。家族から常に疑いの目を向けられるなんて、『家族主義』のお爺様には耐えられないでしょう。
……尤も、もう遅いんですけどね。寧ろ此処から本番ですよ。覚悟するんですね、お爺様。
「出席していないルミネさんと富士夫叔父様の票を無効投票としますが、賛成多数で朝日の大蔵衣遠への養子入りは正式に大蔵家内でも決定しました。以後この件で不服申し立てをする事は許しません」
今更ながらもっと早くこの『家族会議』を行なっておくべきだったと後悔する。
……いや、こうして『家族会議』が出来たのは、お爺様のミスがあるからだ。
お爺様の事です。夏に行なわれた『晩餐会』で、下の兄に関する『家族会議』なんて行なっていたら、『儂の言葉が信じられないのか?』とか言うに決まっていますからね。
……さて、これでお爺様は下の兄に余計な事が出来なくなりました。本番に入りましょう。
「……では、次は最初の議題に戻りましょう。前当主大蔵日懃の数々の不正に関する処罰に関してです」
「総裁殿。前当主はご高齢だ。余りキツイ処罰はしない方が良いのでは?」
「おお。駿我!」
まるで自分を守るかのような発言にお爺様は嬉しそうにしました。
……甘いですね。既にお爺様に対する
「昔前当主は真星殿がマンチェスターの屋敷に籠りきりの扱いを容認していた時期があった筈でしたね。ならこの屋敷に軟禁と言うのはいかがでしょうか? 今屋敷に勤めている人員を総入れ替えして」
「な、何じゃと!? ま、待ってくれ駿我!? それはならん! この屋敷に勤めている者達は長年儂に仕えてくれている者達だ!」
ええ、そうですね。
ご高齢で一人では動けないお爺様の代わりに動いてくれる人達ですよ。ルミネさんに関する事では、間違いなくその内の誰かが動いていたんでしょう。尤も、その相手は近日中に警察に捕まります。
フィリア学院内の事を教師に金を渡して買った犯罪者として。
今までなら何かあってもお爺様が守ってくれたのでしょうが、今回ばかりは無理だ。他の大蔵家の面々がお爺様がした事を非難しているんですから。
「あ、あの駿我さん。流石に辞めさせるのは可哀想ではないでしょうか?」
「安心してくれ、メリルさん。別に辞めさせるつもりはないさ。彼らには他の別邸の業務を与える予定だ。勿論此方の都合で移動して貰うんだから、今よりも良い待遇を約束しよう」
「そうですか。良かった」
本当に彼らの事を安堵しているメリルさんに少し罪悪感を感じます。
上の従兄弟の言葉には嘘はないんでしょうが……管理されるのは先ず間違いありません。とは言ってもこのまま放置しておく訳には行きません。
彼らの忠誠は、大蔵家ではなくお爺様個人に向いている面が強いですからね。せっかく此処でお爺様に関する処罰が決まっても、彼らを放置していたら同じ事を繰り返しかねません。
「フフッ、駿我君。幾ら何でもそれは前当主殿に対して余りな行ないではないかね? 彼らは長年前当主殿に付き従っていた者達だ。その者達を前当主殿から引き離すというのはいささか酷だと思うが」
「い、衣遠!?」
まさか、嫌っている上の兄が自分の味方をするような発言をするとは思ってなかったのか、お爺様は目を剥かんばかりに驚きました。
「ククッ、ではお前ならどういう罰を与えるんだ、衣遠?」
「彼らが前当主殿の力に従ったのならば、その力を今後行使できないようにすればいい。前当主殿が現在持つ権力の全てを放棄するという事が妥当ではないだろうか?」
「なっ!? 儂の持つ権力の全ての放棄じゃと!? い、衣遠、貴様! そのような事をすれば今後のルミネのっ!?」
失言に気がついたのか、お爺様は慌てて口元を押さえました。
ですが、もう遅いです。ゆっくりと私は椅子から立ち上がり、口を開く。
「たった今、前当主自らがその口で不正に関与していたと表明されました。これ以上は身体に障ると思いますので、今日の所は此処までとしますが、前当主には明確な処罰を行なう事を現当主である大蔵りそなの名を持って宣告します」
今度こそお爺様は力を失ったように項垂れました。
メリルさんはその様子に、何とか大事にならずに済みそうだと安堵している様子ですが、私と上の兄、そして上の従兄弟は見逃しませんでした。
……僅かに見えた諦めきれないというような、お爺様の意思が篭った瞳の輝きを。
side遊星
暗転
悲劇、■■■■の生涯
『走馬灯R・Ⅲ』
お母様から部屋を出たらいけないと言われたけど、何時も行なわれている僕への授業は変わらずに行なわれた。
屋根裏部屋に来る事になって不満そうにしていたアイリス先生が帰って行った後、僕はテキストを開いて因数分解の復習をしていた。
そんな時だった。階下から幼い子供達の舌足らずな罵声が聞こえて来た。
このお屋敷には住み込みで働いている使用人家族が複数居る。同じ年頃のやんちゃ坊主が集まれば、時には諍いだって起きる。
僕は参加した事もないけど、何度か遠目に見た事があるので別に珍しくもないことだ。
その内にどちらかの親が仲裁に入って終わる。それで何時も終わるんだから、気にする事はない。
何よりも、お母様から絶対に出たらいけないって言われてる。
……約束を破ったらいけない。だって破ったら……何だろう? 何かとても悲しい事が起きる。
そう感じるのに……そうなる理由が……思い出せない。思い出したらいけない。
だから僕は、難解な公式とのにらみ合いに戻った。
なのに……。
『うえぇぇーん……えぇーん……』
小さな女の子のむせび泣く声まで聞こえて来た。
どうやら大人達は近くにいないようで、幾ら待っても騒ぎは一向に収束しなかった。
……興味を覚えたらいけない。そう思った僕はまた難解な公式に意識を戻す。
『えぇーん……うあぁぁーーん……』
……何でだろうか?
この耳に届いて来るむせび泣く声を聞くと、胸がとても痛い。
止めてあげたい。止めなくちゃいけない。
だから僕は……戸口へ寄って小さくドアを開けてしまった。
『てめえ、女のくせしてオレらに逆らうんじゃねえよ!』
『1ポンドで許してやるって言ってんだろ、早く出せよ!』
金額的にはジュース一本分の値段だとしても、床に膝をついて泣く少女に対して男子達が集団恐喝を行なっていた。明らかに『諍い』の範疇を超えている。
『彼女』は泣いている。誰かに助けを求めている。
「……っ!」
動こうとして僕は止まった。
動かないといけないのに……僕の身体が動かない。
お母様に言われた通り、僕は誰かの為になれる大人になりたいのに……身体が動く事を拒絶していた。
だって……僕は居ない方が良いから。
きっと……此処で動いたら、僕はまた誰かに迷惑を掛けてしまう。誰にも迷惑なんて掛けたくないのに……僕は居るだけで誰かに迷惑を掛ける。
それにきっと他の誰かが彼女を助けてくれる。僕よりも……ずっと凄い人がいるんだから。
その人がきっと彼女を……。
『ひぐぅ……うぐっ……うううっ……うっ……』
……ごめん。ごめんね。
ドアの向こう側から聞こえて来る泣き声に、言葉もない謝罪を僕は繰り返す。
この扉を開けたらいけない。開けたらきっと僕は……。
『意思だよ、意思。自分でこうだと願う意思。意思が希望を生んで、希望が夢を育てて、夢が世界を変えるんだ』
「……えっ?」
誰かの言葉が僕の頭の中に浮かんだ。
『君は誰と戦ってるんだ、自分だろ、それ?』
また誰かの言葉が浮かんだ。
自分? 今更気がついた。僕は……誰?
思えばお母様が僕の名前を呼んでくれた時も……その名前が聞こえなかった。
僕は……僕は……一体誰?
……知らなくちゃいけない……思い出さないといけない。
それに……ずっと聞こえてるこの泣き声を止めなくちゃいけない。
……違う。僕が
いる筈の凄い人は……来ない。だから……。
動かなかった筈の身体が動いた。僕は扉を開けて、その先にあった階段を駆け下りた。
きっとその先で辛い事が待っていると分かりながらも、僕の足は止まらなかった。
side
本邸でのやり取りが終わり、上の兄と上の従兄弟と今後について話し合った後、私は自宅に帰宅しました。
本当なら病院に寄って下の兄の様子を見に行きたかったんですけど、残念ながら本邸を出た時にはもう面会時間が終わっていたのでこうして帰宅する事にした。
桜屋敷に寄ってアメリカの下の兄とルミネさんに今日の事を話しても良かったかもしれませんが……そんな気にはなれずこうして自宅に帰って来ました。
……誰の返事も返って来ない一人きりの自宅に……。
「……ただいま」
『お帰り、りそな』
私が帰ってくれば必ず返って来た筈の返答がない事が……寂しい。
向けられていた筈の笑顔がない事が……悲しい。
でも、立ち止まる事が出来ない私は、家の奥へと進んで行く。
「……お風呂が沸くまで、デザインでも描いていましょうか」
唯一私がフィリア学院に理事長として残れた理由です。
それに……もしかしたら起きた下の兄がデザインを見て、服飾への熱意を前の時のように思い出してくれるかも知れませんから。
そう思ってアトリエに置かれている机に座って、デザインを描こうとしたのに……全然良いデザインが描けませんでした。下の兄と一緒にいた時は、何枚だって描けたのに……今は一枚も描けない。
「…………」
私がペンを動かす音しか響かないアトリエの中。
静かで集中できるはずなのに、幾ら集中しようとしても集中できなかった。だって、この数ヶ月でこのアトリエの中には沢山の下の兄との楽しい思い出が出来たんですから。
……望んでいた夢のような日々。
それを……私はまた失った。きっと彼はもう……立ち上がれない。
「……あっ」
デザインを描くための用紙が濡れてしまった。濡らしたのは……私の涙でした。
「……うぅっ……あああああっ!!」
分かっていました。
きっと彼はもう……立ち上がれない。本当に最後のチャンスだったのに……その最後のチャンスが失われた。
もう彼が服飾に戻る事はない。だって、戻るという事は、彼方のルナちょむへの罪を忘れるという事だ。
そんな事は彼には無理だ。誤魔化す事で耐えられていた彼の心は、誤魔化しが効かなくなった時点で崩壊した。加えて彼が望んでいた私のデザインを衣装にして輝かせたいという気持ちも、アメリカの下の兄のパリでの功績を知った今では消え去っているに違いない。
彼は……あっちの下の兄は再び全てを失ってしまった。
「どうして……どうして……何んですか!? どうして彼だけが失うんですか!? 奇跡が起きるんだったら、こんな残酷な奇跡じゃなくても良いじゃないですか!? 私が下の兄と暮らしたいと願っていたから叶えたって言うんだったら! 今すぐに願いを変えます! だから! だから! ああああああああっ!?」
どれだけ泣き叫んでも現実が変わらない事は分かってます。それでも……。
「……寝ましょう」
お風呂に入りたい気持ちもありましたが、そんな気分にもなれず私は椅子から立ち上がってアトリエから出ようとする。
「あっ……」
移動する時にうっかりアトリエの中に掛けられていた下の兄の桜屋敷のメイド服に気がついた。
ここ数日何もしてなかったせいか、若干埃が付いてしまっていた。
メイド服ですが、この服は下の兄の大切な物。それに埃が付いているのは、私も嫌だったので服から埃を払いました。
「ん? 何でしょうか?」
埃を払っている時に、メイド服の内ポケットに何かが入っている事に私は気がついた。
気になったので取り出してみると、それは手紙を入れるサイズの茶色い封筒でした。
「これは……そう言えば、下の兄があっちのルナちょむに宛てた手紙でしょうか?」
送る事も差し出す事も出来ない手紙。
前に下の兄に聞いた話では、桜屋敷にいた頃は必ず毎日彼方のルナちょむに手紙を書いていたらしい。尤も、その手紙は全て焼いて破棄し、唯一服飾に戻る決意を固めた内容の手紙だけは大切に保管してあると言っていました。
つまり、この手紙がそうなんでしょうけど……。
「何だか一枚しか手紙が入ってないにしては重みが違うような気がしますね」
微妙な感触ですけど、どうにも厚みがあるような気がします。
まあ、あの下の兄なら自分の主人である、あっちのルナちょむへの気持ちが止まらず2枚ぐらいは普通に書きそうですけど……。
「……少し開けて見ましょうか」
思えば下の兄が目覚めたらこの手紙を破棄しかねない。それならいっそ、この手紙の中身を入れ替えておくのも良いかも知れません。
服飾へ戻る決意を固めて書いたこの手紙を燃やしてしまった事を、何時か下の兄が後悔しない為にも。
「下の兄……ごめんなさい」
謝罪しながら丁寧に封を切り、私は中にある手紙を取り出した。
「……………えっ?」
取り出した手紙を見た私は、信じられないものを見た。それは丁寧に折られて白紙しかない裏の部分に書かれていた文字。
その文字は下の兄が、ルナちょむに送る手紙には書くはずのない文字でした。
慌てて取り出した
「あっ……あああああああっ!?」
私は知った。
奇跡は既に起きていた。彼に起きた残酷な奇跡とは違う。でも、少し意地悪で小さな奇跡。
だけど、その奇跡には……優しさが満ち溢れていました。
漸く回収できなかったあの伏線回収です。
奇跡の詳細は次回で明らかになります。
因みに遊星sideが落ち着いたら長い間伏線の為に掛けなかった『続々・りそなの日記』を書こうかと思っています。詳細はアンケートで。