月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
Nekuron様、烏瑠様、AYM様、誤字報告ありがとうございました!
『この世界において、彼をフィルターの存在を無視して見れる者は一人だけ。何故なら彼女は、最初から彼の理解者であり味方だったのだから』
side遊星
「……パリか」
花の都。芸術の都。『パリ』。
僕は今、『世界で最も美しい通り』と称えられるパリの大路を歩いていた。
正直感動した。日本の表参道とはスケールが違うパリの大路に。
例えるならパリの大路は、上品で懐の深い貴婦人の美しさを雰囲気から感じる。
パリには過去に何度か訪れた事があった。でも、あの時は特別使用人の授業の一環だったり、お兄様のショーを手伝う雑用の一つだった。
余裕がある今なら、喜んでこの大路を歩めると思ったが、気持ちが高揚する事はなかった。
……今の僕にはこの通りを歩く事さえ分不相応に思える。
自然と顔が俯いて行き、人の目に映らないようにして歩こうとしてしまう。
周りにいる人々の目が僕を見ているように思えて来た。しっかりしないと行けないのに、顔を上げる事が怖い。
「君、日本人?」
「は、はい!」
いきなり声を掛けられた僕は、思わず日本語で大きな声を上げてしまった。
しまった。これじゃまるで初めての海外旅行に脅える旅行客みたいだ。もしかしたら鴨だと狙われたのかも知れないと思って、大切な母の形見の鞄を強く握って警戒する。
声を掛けてくれた相手は、仕立ての良いスーツを着た年配の男性だった。
「そんなに暗い顔をして下に俯いたりしていたら、いい鴨だと思われるよ」
「す、すみません。ありがとうございます」
「良いよ。同じ日本人だからほっとけないと思っただけだから」
どうやら本当に親切で声を掛けられたみたいだ。
まだ油断は出来ないけど。改めて相手の顔を見てみると、相手の男性は何故か懐かしそうに僕を見ていた。
「あ、あの? 私の顔に何かついていますか?」
「ああ、すまない。もう十数年前になるかな。君と同じようにこの通りで肩に力が入った日本人の女性に声を掛けた事があるんだ。その時の事を思い出してしまったんだ」
「そうでしたか」
どうやらこの人は親切な人らしい。
なら、その親切を大切にする為にも顔を俯けたりしてはいられない。
「改めてありがとうございました。もう大丈夫です」
「いや、気にしなくて良いよ……正直、まさかまた此処で会えるとは思って無かった。運命と言う奴かな」
急に男性は僕の顔を見ながら小声で話し出した。
良く聞き取れなかったけど。もしかしてやっぱり危ない人なのかと思い、警戒心が戻って来た。
だけど、男性は片手を上げて軽い挨拶をする。
「もう、大丈夫そうだね、じゃ」
「えっ? あ、はい」
僕が警戒するまでもなく、挨拶を終えると男性は去って行った。
……ちょっと悪い事をしてしまった気がした。
あの人は本当に親切で僕に声を掛けてくれたのだろう。
悪い事をしてしまったと思いながら、僕はコートの中からファッションショーのチケットを取り出す。
「……行くしかないのかな」
サーシャさんに渡されたのは、パリ行きの航空券とこのファッションショーのチケットだけ。
衣遠父様からの連絡は無い。最低でもこのファッションショーの会場付近まで僕は行かなければならない。
「……近くまで行くだけ……ファッションショーは見ない」
機内の中で考えた末に決めた事だ。
正直、りそなには悪いと思う。だけど、駄目だ。
見たりしたら服飾に戻りたくなってしまう。
サーシャさんが言っていた。僕の手は服飾の手じゃなくなっているって。
其処までになっているんだ。だからもうすぐ捨てられる筈なんだ。
残滓のようになっている服飾への想いを。
チケットにはファッションショーの開催時間が書かれている。
この時間が終わるまで、近くで時間を潰していよう。
僕は決意を固めると、地下鉄の入り口に入って行った。
「……」
チケットに書かれた会場の場所にやって来た僕は驚いた。
ファッションショーとなる会場は大きな場所で、沢山の人々が会場に入って行く。
年始という事もあるだろうが、此れだけの人々がりそなの作品を見に来ている。
感動した。あのりそなが、これだけの人々に見たいと思わせるほどの衣装を作り上げている事が。
もしかしたら他の人の衣装もあるかも知れないけれど、りそなの衣装を見に来た人も必ず居る筈だ。
「……見たい」
自然と僕の足は会場に進んでいた。
此処に来るまでの決意なんて吹き飛んでしまった。ただ今は、りそなの、僕の妹が作った衣装を見たいという気持ちで溢れている。
見終わった後に、惨めな思いを抱いてしまうかも知れない。止めろと僕の心が何処かで叫ぶ声が聞こえる。
でも、駄目だ。他の人の衣装のコンクール。たとえルナ様の衣装でも、僕は見ようとは思えなかった。
だけど、りそなの作品だけは違う。僕はりそながどんな生活を送っていたのか知っている。
そのりそなが、此れだけの人々に見たいと思わせる衣装を作り上げた。
きっと衣遠父様は知っていたんだ。今の僕の心を動かせる者が誰なのかを。
悔しいという気持ちは無かった。只今は、僕の妹の衣装だけが見たいという気持ちに突き動かされ、僕は会場内に入って行った。
気がつけば、ショーは終わって会場内には僕だけが残っていた。
久々に見た衣装の数々に魅了された。時間も忘れて僕は魅入ってしまった。
その中でもりそながデザインしたという衣装が出て来た時は、言葉も失うほどに感動した。
ショーを見に来た人達全員が歓声を上げていた。誇らしかった。
僕の妹の描いた作品が作られ、人々の歓声を受けている光景が。気がついたら涙を流していた。
今まで流していた悲しみの涙じゃない。感動の涙が溢れて溢れて仕方がなかった。
こうして席に座っている今も、心の中に暖かい余韻が残っている。
「どうでしたか、妹の作品は」
きっと来ると思っていた。
「ルナちょむがイギリスに向かったと聞いた時は、焦りましたよ。このショーに来れなくなるんじゃないかって」
僕が知っているりそなの声とは年月を経て変わってしまっているけど。
「でも、来てくれて良かったです」
背後まで来ている。
でも、僕は席に座って前を向いたまま口を開く。
「……本当はね。此処には入らないつもりだった」
「えっ?」
「僕は夢を捨てた。だからもう服飾に関わる物には手も触れないし見もしないようにして来た」
「……」
「でもね。沢山の人が会場に入って行くのを見ていて、我慢出来なくなった。どんな作品が出て来るのかって、久しぶりにワクワクしたんだ」
「……どうでしたか?」
「最高だったよ!」
僕は勢いよく席から立ち上がり、背後を振り向いた。
其処に立っていたのは長い黒髪で、イギリスで見た桜小路遊星に似た美女だった。
告げられた言葉に女性は嬉しそうな笑みを僕に向かって浮かべた。
「この場合……初めましてと言うべきなのでしょうか?」
「知っている相手に他人行儀で呼ばれるのは嫌だな。でも、僕よりも年上になっているから目上の人みたいに扱った方が良い?」
「ああ、止めて下さい。貴方にそんな風に扱われるのは何だか嫌です。後、歳の事は言わないで下さい。結構妹気にしてますから……お久しぶりです、下の兄」
「久しぶり……りそな」
この世界に来て僕は初めて自覚しながら浮かべた笑顔で、成長した妹に向かって微笑んだ。
「ウッ! な、何ですか? えっ? 笑顔なんて浮かべられないんじゃなかった筈では? 上の兄から見せて貰った写真には笑顔なんてありませんでしたよ。ドキドキが止まりません。こ、コレはもしやギャップ萌えと言うやつなのでは? な、何て恐ろしい技を身に付けたんですか、この下の兄は」
どうしたんだろう?
僕の顔を見たら急にりそなが後ろを向いてしまった。
何か喋っているようだけど、小声のせいで良く聞こえない。
……もしかして。
「あっ……ごめん、りそな。せっかくのりそなのショーだったのに、こんな格好で来ちゃって」
今の僕は小倉朝日の姿だ。
つまり、女装。そんな姿で妹の大切なショーを見に来るなんて失礼だった。
僕が申し訳なさで落ち込んでいると、りそなが慌てて振り向く。
「いやいや、問題無いから構いませんよ。あの屑の上の兄のせいで、貴方は小倉朝日という女性という立場で大蔵家に認められてしまったんですから。寧ろ男だとバレるのは前よりも危険です」
「屑って……流石にそれは言い過ぎだよ」
「妹が最初に見かけて、半年間も探させていたのに、見つけたのをずっと黙っていたんですよ、あの上の兄は。しかも捜索を依頼して間もなくに見つけていたらしいじゃないですか。それを『晩餐会』で報告されて、養子の件まで急に持ち出された私の気持ちが分かりますか?」
不機嫌さに満ちた顔をして、りそなは衣遠父様に対する愚痴を溢した。
「思いっきり『晩餐会』で恥をかかされたんですよ。だから、一か月分の仕事を押し付けて来てやりました」
「それで衣遠父様から連絡が来なかったんだ」
「父様って!? ……いえ、立場上仕方がないんですけど」
「ごめん。僕からすれば衣遠父様は衣遠兄様とは別人にしか思えなくて」
「ああ、確かにそうですね。あの頃の上の兄しか知らない貴方からすれば、今の上の兄は別人にしか思えないでしょう……それに私からすれば今の貴方は甥という形になります。妹では難しかったですが、この立場なら」
「僕は近親婚は反対だからね。それにそういう形になるんだったら、りそな叔母さんって僕は呼ぶ事になるよ?」
「うわぁ~。止めて下さい。止めて下さい。妹が悪かったです。あの人の事は父と呼んで構いませんが、妹の事は妹という形にしたままでお願いします」
「うん。そうさせて貰うよ」
僕はりそなの言葉に笑みを浮かべながら頷いた。
何でだろう? 衣遠父様とやり取りする時は、何処かで心が痛んでいたのに、りそなと会話するのは心が痛まない。
どうして? と考えた。そして気がついた。
元の世界でルナ様の屋敷に行く前から、唯一僕が本心から接する事が最初から出来ていたのがりそなだけだった事を。桜小路遊星という存在を介さずに、りそなは僕を見てくれる。
そう信じる事が僕には出来た。
「さぁ、行きますよ。人がいなくなったとは言え、此処は会場ですから。私が借りている部屋で話しましょう」
「うん。久しぶりのりそなとの話。楽しみだな」
「クゥ~、何ですかこの下の兄は。胸のドキドキが止まりません……フフッ、ルナちょむ。逃げられた貴女と違ってこの下の兄は私から逃げませんよ。絶対に逃しませんからね。下の兄」
何だか猛禽類が獲物の動物を狙うような目でりそなから見られている気がする。
だけど、そんな事が気にならないほどに、僕は久しぶりのりそなとの会話が楽しみで仕方がなかった。
りそなが借りている部屋に移動した僕達は、夕食を取り終えると話を再開した。
僕がこの世界に来る前に起きた出来事を聞いたりそなは。
「だからあれほど気を付けろといったでしょう。お風呂場で居眠りをするなんて見つけてくれと言っているようなものです。妹、呆れて、言葉も罵倒も叱責も蔑んだ目すらもありませんよ」
「ハハッ。その言葉、絶対にりそなに言われると思っていたよ」
「そうですか? やっぱり妹と下の兄は心が通じあっているんですね」
りそなは嬉しそうに笑みを浮かべた。
こんな風に相手と気軽に話せるのは何時以来だろう。
多分、この世界に来てからは初めてのような気がする。今まで会った人達とは、何処かで壁が出来てしまっていたように感じていた。
だから、今しているりそなとの会話は本当に楽しかった。
「そう言えば」
「何ですか?」
「確かりそなが一番最初に僕を見つけたって聞いているけど、それって何時の話? この一年間殆ど桜屋敷で過ごしていて、出来るだけ人と会うのは控えていたんだけど」
「……アレは、夏頃でした。時間帯は夜で、仕事の帰りに桜屋敷付近を通りかかった時に、荷物を持って街中を歩く貴方をみたんです」
「夏頃……あっ」
覚えがあった。
夏頃に、僕は一度夜に荷物を持って桜屋敷を出た。
その日は……僕が桜屋敷を追い出された日だった。
「ほんの僅かな間でしたけど、私が見たあなたは酷い顔をしていました。それこそ今にも自殺しそうなぐらいに」
「……」
あの日、僕は最後の望みに賭けていた。
同じ日。同じ時間帯。条件さえ整えば、元の世界に戻れるかもしれないと考えた。
だけど、やっぱり無理だった。朝まで街を歩いたが結局、僕は戻れず、桜屋敷に戻るしかなかった。
「すぐさまアメリカにいるルナちょむに連絡を取りました。下の兄が日本に来ていないか?って 下の兄はアメリカにちゃんといました。ですけど、私は自分が見たのは間違いなく下の兄だと思いました。だから、上の兄に捜索を願い出たんです」
「そうだったんだ」
「あの、今にも自殺しそうな貴方の顔が忘れられませんでした。怖くて怖くて仕方がありませんでした。もしかしたらテレビや新聞に貴方の顔が映ってしまうんじゃないかって、見るのも怖くなっていました。だから、夢だという確信が欲しくて、私は上の兄に捜索を依頼したのに……それなのにあの上の兄は。私に貴方の存在を隠していました」
「……りそな。勝手な事だけどその事で衣遠父様を責めないで欲しい……本当の事を言うけど、僕は昨日のお母様の墓に行った時に……自殺しようという気持ちが無かった訳じゃないんだ」
「なっ!?」
「……僕はあの方に……ルナ様の人生に消えない傷をつけかけてしまった。ずっとその事が頭に残ってた。お母様との約束も僕は破った。この世界に本当の意味での居場所も無かった。だから、僕は死にたいと心の何処かで願っていた」
「……ごめんなさい。私が……私が……あんな提案をしたばかりに貴方はこんな事に……ごめんなさい」
「違うよ、りそなは間違ってない。現に桜小路遊星様は幸せな日々を送っている。だからりそなのやった事は間違いじゃないんだよ……失敗してしまった僕が悪いんだ」
「いいえ! こんな風になってしまう可能性を考えなかった私が悪いんです!」
「誰もこんな事になるなんて予想出来ないよ。別の時代、しかも別世界に移動するなんて……物語の話だしね」
実際に僕に起きた現象を説明する事は誰にも出来ない。
それにりそなを恨む気持ちは全く無い。りそなのおかげで僕は桜屋敷で幸せな日々を送る事が出来たんだから。
寧ろ今も涙を流しかけているりそなには、感謝の気持ちしか抱けなかった。
僕は思わずりそなの顔に手を伸ばし、涙を拭ってあげる。
せっかくの綺麗な顔が涙で濡れるのは嫌だった。
いきなりの僕の行動にりそなの顔は赤く染まった。やっぱり、兄妹でも恥ずかしかったかな?
「話は戻すけど、自殺を踏みとどまらせてくれたのは、衣遠父様のおかげなんだ。あの大蔵家を相手に頑張っているあの人の努力を無駄にだけは出来ない。だから、死ぬ事だけは許されないと思ったから」
「上の兄……本当に助かりました。正直今の話を聞くまでは怒りを抱いていましたが、良いでしょう。あの人への怒りは忘れてあげます」
「ありがとう」
良かった。
僕のせいでせっかく良好だった家族関係が、壊れるなんて耐えられない。
本当に良かったと思い、何故か笑顔が浮かんで来てしまう。
「ウゥッ! ……もしかして今この笑顔を向けられている相手は、世界で私一人だけですか? ……独占してしまいたい」
「どうかした、りそな?」
「いえ、何でもありません……そ、そうだ。今日の私の描いたデザインから作られた衣装はどうでした?」
「凄く良かったよ! 確かゴスロリはフランスじゃあんまり理解されて無かった筈なのに、あんなに沢山の人達から喜ばれるなんて本当に凄いよ!」
「フフン、当然ですよ。妹、このパリのフィリア女学院を主席卒業しました。在学中はパリコレで最優秀賞を取った事もあるんですから」
「最優秀賞!? ……本当に凄いね、りそなは」
「まぁ、其処に行くまでには色々とありました。本当に色々と」
僕は我が事のようにりそなの頑張りが嬉しかった。
やっぱり僕の妹は、頑張れば出来る子だったんだと心の底から誇らしかった。
……正直、桜小路遊星には嫉妬を覚える。この妹の頑張りを、彼は見る事が出来たんだから。
複雑な気持ちを抱いていると、りそなが真剣な顔を向けて来た。
「ただ不満もあります」
「不満?」
「えぇ……私の作品は全て上の兄が依頼してくれたパタンナーがしてくれています。専属と呼べるパタンナーが私にはいないんです。だから、下の兄……もし良かったら、私の専属のパタンナーに」
「ごめん……それだけは出来ないんだ……僕は服飾を捨てたから」
「……えっ?」
りそなの提案は嬉しい。
この妹の頼みならどんなお願いでも聞いて上げたいと思ってる。
だけど、服飾に関わる事だけは、願いを叶えて上げることが出来ない。
「……会場でも言ったけれど、僕は夢を捨てた。だから、もう二度と服飾には戻らない」
「……嘘ですね」
「えっ?」
「妹、貴方の事なら分かります。貴方が服飾への夢を捨てられる筈がありません」
「な、何言ってるのさ? 現にこの一年間、全く服飾関係には関わってないんだよ。服の手直しもしてないし、鞄の中にあった服飾関係の本も全部燃やしたし、ファッション雑誌も見てないんだよ。プロのサーシャさんにだって、服飾をやっている手じゃないって言われたんだから」
これ以上にないほどに僕は服飾を離れたと言い切れる。
もう二度と関わりたくない。今日確かにファッションショーを見たけど、それはりそなの作品が出るからだ。
第一、僕にはそんな資格は……。
「貴方は夢を捨てたんじゃなくて、夢から逃げたんです」
何処かで罅割れるような音が聞こえた気がした。
「妹。今日貴方を見て確信しました。貴方が昔の私みたいになってしまっている事に」
「な、何を言って?」
「昔の私は学校に行くのが怖かったです。下の兄も知っての通り、立派な引き篭もりでした」
そうだ。僕が知っているりそなはそうだった。
部屋に閉じこもり、月に二回学校に行ければいい方だった。
その原因は、りそなが大蔵家の人間だった事。学校という特殊なフィールドの中で、特別視される視線に耐え切れなかったからだ。
大蔵家の人間というだけで、教室内でりそなは目立ってしまった。テストでたった一つミスをする度に、陰口は増えて行き、兄がデザイナーとして地位を高めてからは尚更にりそなへの陰口は増えて行った。
耐え切れなくなったりそなは、外界から目を閉ざし、遂に外界すらも閉ざした。
「色々あって今の私は、外に出る事が出来ました。だから、私には分かります。上の兄からも聞きました、貴方が何故服飾への熱意を失ってしまったのかも」
「……て」
「最初は違ったんでしょう。純粋に好奇心。或いは期待感。それらの感情が貴方を突き動かした」
「…めて」
「今の桜屋敷にいるあのメイド長も、貴方に元気になって欲しくて見せてしまった」
「止めて!!」
「いいえ、止めません! 貴方は見た。アメリカにいるもう一人の下の兄。桜小路遊星がルナちょむの為に作り上げた衣装を! 貴方が服飾から逃げた本当の理由は!!」
「もう止めてよ!!」
「『桜小路遊星と比較される自分になりたくない』! だから、貴方は小倉朝日になり切る事で服飾から逃げたんです!!」
……何処かで割れる音が、僕の耳に届いた。
必死にりそなの言葉が聞こえないようにする為に、耳を押さえていた両手が力無く下がった。
今、りそなが言った言葉が、僕の根幹を確かに貫いた。
「……な……何で……分かったの?」
隠していた筈なのに。この感情だけは、誰にも、りそなにも知られたくなかったのに!
「妹も同じだったからです。特別視される視線に耐え切れなかった。貴方の場合は、きっと私以上に怖かった筈です。同じ人間の筈なのに、成功した自分がいる。なのに、自分は失敗した側。正直その辛さは想像する事も出来ません」
「……そうだよ……りそなの言う通り、僕は怖かった。自分じゃないのに、自分を通してその相手に見られる視線が」
この感情が決定的になったのは、この世界のルナ様達が学生だった頃の一年目のフィリア・クリスマス・コレクションの作品が写っている写真を見た時だった。
それまでにも漠然とした不安をずっと抱えていた。僕が知らない人なのに、僕に対して親身になってくれた八十島さん。彼女には感謝しかないけど、やっぱり何処かで違和感を抱いていた。
そんな僕の不安が仕事に出ていたのか、八十島さんは元気づけるつもりでフィリア・クリスマス・コレクションの写真を見せてくれた。
その時の僕は楽しみだった。どんな衣装が出されたのか楽しみで仕方がなかった。
……だけど、その衣装を見た瞬間……僕は絶望した。
桜小路遊星がルナ様の為に作り上げた衣装は、言葉も失うほどに綺麗だった。
敬愛するルナ様をこれ以上にないほどに輝かせている衣装。ソレを作り上げたのは、この世界の自分。
「……無理だって思った……僕にはあんな素晴らしい衣装は作れないって、心から思ったんだ」
それからは八十島さんの視線が怖くなった。
出来るだけ、人と接触しなくなったのも、ずっと小倉朝日として過ごしていたのも、大蔵遊星としての自分が、桜小路遊星と比較されるのが怖かったからだ。
服飾から離れたのも、自分が作る物が桜小路遊星の作るものと比較されるのが何よりも怖かったからだ。
だから、燃やした。
……この世界に来る時に、鞄の中に入っていた服飾に関わる全てを。涙を流しながら、燃やし尽くした。
燃やし尽くした後は、家事に熱中した。他の事に熱中すれば、服飾を忘れられると思ったから。
夢を捨てられたと思った。
これで桜小路遊星と比較されずに済むって、心の何処かで安堵していた。
なのに。
「衣遠父様がやって来た! あの人は僕を見てない!! 僕じゃなくて僕を通して桜小路遊星を見ている! 一番見られたくない視線で! 僕を見ているんだ!」
最初にやって来た時から怖かった。
元々あの人には畏怖と恐怖しか僕は抱いてなかった。八十島さんから衣遠兄様は変わったと聞いていた。
現に僕も変わったと思った。優しいお兄様になっていた。
そして、拠り所の無かった僕に居場所を作ってくれた。でも、それは……本当に僕の為なのか分からなかった。
桜小路遊星と同一人物だから、助けているだけなのかもしれないと考えると、悲しくてたまらなかった。
「……衣遠父様には感謝してる。この世界で居場所を作ってくれた。あの人の頼みなら、りそなと同じように叶えたいと思う。だけど、服飾だけは……服飾だけは出来ないんだ」
服飾だけは桜小路遊星と関わってしまう。
今の僕には、ソレが耐え切れない。彼が作り上げた衣装と、自分の作った衣装が比較されるのがたまらなく怖かった。勝てないと心の何処かで思っているから。
「だから、ごめん。りそなには悪いけれど、僕はもう服飾には……」
「貴方は! 貴方はあのルナちょむが着た衣装がどんな経緯で作られたのか、知っているんですか!?」
「……えっ?」
一瞬、言われた言葉の意味が分からなかった。
あのルナ様の衣装が作られた経緯? 普通に製作したのではないのだろうか?
「桜屋敷にいるあのメイドは、あの出来事を知りません。彼女が桜屋敷に入ったのは、あの出来事の後だったんですから」
「……何があったの?」
「あの出来事の発端は、貴方が『フィリア女学院』に入学した年の11月の下旬ごろでした。ルナちょむ達はフィリア・クリスマス・コレクションに向けて三着の衣装を作っていたんです」
「三着? えっ? でも?」
それは可笑しい。
僕が見たのは、ルナ様が着ていた衣装一着だけ。残りの二着は何処に行ったのだろう?
「ルナちょむが着たのは、アメリカにいる下の兄が内緒で作っていた四着目の衣装です。最初に製作していた三着の衣装は……盗作されてしまい使用出来なくなってしまいました」
「盗作!? 一体誰が!?」
「……本人からも言っていいと言われているので教えます。上の兄です」
「衣遠父様が!?」
ありえないと思った。
プライドの高い、あの衣遠父様が盗作などするとは思えなかった。
だが、りそなの真剣な目が事実だと僕に伝えて来ている。
「そもそも発端はルナちょむの生家である桜小路家が原因です。下の兄も多分知っているでしょうが、あの家はルナちょむが表に出る事を嫌っていました」
「あっ」
ルナ様が応募していたクワルツ賞の時の出来事を思い出した。
あの時もルナ様の生まれた家である桜小路家が介入して来て、最終的にルナ様はクワルツ賞を辞退した。
「当時のフィリア・クリスマス・コレクションは、フィリア女学院の創立者であるジャン・ピエール・スタンレーがショーに来るという事で注目度を上げていました。それに気がついた当時の桜小路家当主はルナちょむを表舞台に出さないように上の兄に訴えました。それを上の兄は了承し、ルナちょむの注目度を上げない為に出展する予定だった三着の衣装のデザインを盗作して、自分の作品だと公表したんです」
……言葉が出せなかった。
ルナ様の生まれた家である桜小路家が、まさか其処まで介入して来るとは思っても見なかった。
そしてそれに手を貸した衣遠父様も信じられなかった。
僕の顔から考えを察したのか、りそなが説明してくれた。
「あの頃の上の兄は、どうしても大蔵家の当主の座が欲しかったんです。その為なら、どんな手を使っても構わないと考えていました。桜小路家への協力もその一つです。勿論、ルナちょむ達は毅然として上の兄に挑みました。だけど……勝てませんでした。ルナちょむ達には弱点があったんです。決定的な弱点が」
……ソレが何なのかりそなが言わなくても分かった。
ルナ様達の決定的な弱点。『小倉朝日』。つまり、当時の大蔵遊星の存在がルナ様達の弱点になってしまったに違いない。
用意周到な衣遠父様なら、『小倉朝日』の存在も利用するだろう。
「そして『小倉朝日』は学園を退学になり、下の兄は私の下に連れ戻されました。だけど、下の兄は諦めていませんでした。希望が残っていたんです。限りなく小さな希望。ルナちょむ達にも秘密で作っていた四枚目の衣装が。だけど、本当に小さな希望でした。だって、裁断までしか終わってなかったんですから」
「裁断までって!? 確かその出来事が起きたのは、11月の下旬だったんだよね!? フィリア・クリスマス・コレクションが開催されるのは12月の下旬だから……間に合う筈が」
「普通なら間に合いません。でも、下の兄は間に合わせました。心身を削って、妥協も一切せず、何時倒れても可笑しくないのに……やり遂げてあのルナちょむの衣装を作り上げたんです」
……あの素晴らしい衣装が作られた裏に、そんな経緯があるなんて考えても見なかった。
だけど、同時に納得も出来た。それだけの出来事があったのならば、あの素晴らしい衣装が生まれても可笑しくない。
僕は深々と椅子に座り込み。顔を上に向けて、片腕で目を隠した。
「……ハハハッ……勝てない筈だよ……悔しいな……悔しいよ」
悔しいという気持ちを抱いたのは、久しぶりだった。
ずっと勝てないと思って諦めていたから。
「……ねぇ、りそな」
「何ですか?」
「……りそなは、僕を見て桜小路遊星が見える?」
「見えません。っと言うか、妹。ルナちょむの所に行くまでの貴方を、ずっと見ていたんですよ。私には弱かったあの頃の貴方がいるようにしか見えません」
「……ありがとう……あぁ、思い出しちゃった」
「何をですか!? もしや妹への愛情ですか!?」
「違うよ、ジャンに言われた言葉を」
「ウワッ! 慰めたの妹ですよ! 妹! なのに他の人の事を思い出すなんて!?」
「ごめん……でも、ずっと忘れていたんだよ。あの言葉を」
『自分がこうだと思う意思。意思が希望を生んで、希望が夢を育てて、夢が世界を変えるんだ』
ずっと忘れていたあの言葉を思い出してしまった。
そして今、僕の内に宿った意思は一つだけだ。
「……挑みたい」
「えっ?」
「……届くか分からない。貴重な時間を一年も無駄にした。だけど、挑みたいって思った。桜小路遊星の作った作品に挑みたい」
それが今、僕の胸の内に宿っている意思。
彼に勝てるかは分からない。一年も離れていたんだ。
簡単に服飾の技術が戻るとは思えない。だけど、どうしてもこれだけはやり遂げたいと思える意思が抱けた。
力強く握る僕の拳に、りそなの手が重なる。
「妹。協力しますよ」
「良いの? 相手は桜小路遊星なんだよ?」
「構いません。向こうにはルナちょむがついているんですから。こっちに私がついて上げます」
「……本当にありがとう、りそな」
申し訳ありません、僕の主人であるルナ様。
貴女にした事が、赦される日はきっと来ないでしょう。
ですが、僕はもう一度だけ夢に向かって歩ませて頂きます。
人物紹介
名称:大蔵
詳細:『乙女理論とその周辺』のヒロインの一人。大蔵遊星の異母妹。現大蔵家当主であり、総裁と呼ばれている。
極度のブラコンで、遊星に対して恋愛感情を抱いている。その為に桜小路遊星と親友である桜小路ルナとの間に生まれ、二人の容姿が合わさったような桜小路才華には複雑な感情を抱えている。本人は才華の事を甘えた人間だと表し、才華が唯一苦手としている。半年前に朝日(遊星)を目撃し、衣遠に捜索を依頼していた。
と言う訳で、りそなが朝日こと遊星を前に向かせました。
これに関してはバッドエンド後から遊星が来ているので、『乙女理論とその周辺』に至れなかった事もあったので、当初から彼女が遊星を立ち上がらせる事を決めていました。
ただ決めていても、ルートが確定している訳ではありません。この作品はつり乙2なので。