月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
漸く下旬開始です。先ずは才華sideから。
烏瑠様、七號様、秋ウサギ様、えりのる様、誤字報告ありがとうございました!
side才華
「非常に残念でならないと思っています」
約束通りの衣装の点検を終えた後、総学院長は心から悔しいと言うように呟いた。
フィリア・クリスマス・コレクションが行なわれるまでの残り数日。事実上の最後の点検。
僕とエストが製作していた服飾部門用の衣装は
この後以降に衣装の最後の仕上げを行なって提出しても、彼が点検する事は出来ない。
審査員としてフィリア・クリスマス・コレクションに参加しなくても、彼はフィリア学院の総学院長。世界的著名人であり、彼の信仰対象であるジャン・ピエール・スタンレーを迎える準備やその他のフィリア・クリスマス・コレクションを開催する為の準備で本格的に忙しくなる。
だから、彼にはこれ以上僕らの衣装を点検している余裕は無い。
総学院長の発言は、その意味があったからだ。
「君達がこうして私に魅せてくれた衣装は本当に素晴らしい出来です。だからこそ、残念でならない。出来る事ならば、この2つの衣装の完成を目にしたかったと思っています」
僕とエストが製作した衣装は、どうやら彼の目に心から適う衣装のようだ。
お世辞ではなく、本当にそう思ってくれているのが彼の様子から分かる。だけど、彼は僕とエストが漸く探し求めていた新たなジャン・ピエール・スタンレーに適う存在だと思っている面が強い。
今日が彼に衣装を見せる最後の点検。
それが分かっていながらも、僕とエストは衣装を
だから、彼は残念に思っている。衣装の完成を目に出来なくて。
「言うまでもありませんが、私もこれから忙しくなりますので君達が衣装に手を加えても点検は出来ません。なので、非常に残念に思いますが、点検を頼むのならば担任である樅山教諭にして貰うように」
「分かりました」
「ご期待頂いていたのに、今日までに衣装を完成させる事が出来なくて申し訳ありません」
本当は狙ってだけど、此処は嘘をつかせて貰う。
「構いませんよ。君達の実力は今日までの点検でハッキリと分かりましたから。やはり君達は素晴らしい才能を持っている……ただ最後に入れるつもりの
『っ……』
見抜かれている。そう、僕とエストが衣装に最後に加えるのは
刺繍を入れるのは、エストの衣装を製作する事になってから決めていた。エストが着る衣装。デザインも彼女が描いた。
そして必ず彼女の製作した衣装には刺繍が入っていた。なら、衣装を完成させるには刺繍は絶対に必要だと僕は思っている。
本当だったら刺繍を入れるのなら、以前僕がエストに言った通り、全体の工程の初期が望ましい。刺繍を入れれば生地が縮んでサイズが変わってしまう。
だけど、僕とエストは敢えて初期の頃に刺繍を入れなかった。何故ならフィリア・クリスマス・コレクションが始まる前に彼に完成した衣装を見せては、好評で終わってしまう恐れがあったからだ。
八千代が言っていたように、好評じゃ駄目なんだ。好評ではエストや僕が望む結果は訪れない。
最悪……本当に最悪の場合、僕とエストは総学院長が望む新たなジャン・ピエール・スタンレーに成り得る存在で終わりだ。そうなれば、これ以上に無いほどの弱みを持ってしまっている僕は彼に逆らう事が出来ない。
だからこそ、刺繍を入れた完成した衣装はフィリア・クリスマス・コレクションの舞台で彼に初めて見せるつもりだったんだけど……プロの目は誤魔化せなかったようだ。
「流石は総学院長先生ですね。仰る通り、私とお嬢様はこれから刺繍を入れるつもりでいました」
「俺の目は誤魔化せませんよ。君達の体格に対して、衣装のサイズが僅かに大きい。サイズの調整では合わし切れない大きさとなれば、これから生地が縮むような作業を行なうつもりなのだと分かりました。何よりも文化祭の衣装では入れられていた刺繍が入っていませんでしたからね」
僕らの狙いは読まれてしまっている。
それに敢えて彼は文化祭の時の衣装を口にしているけど、それだけじゃない筈だ。だって、今の彼の目は僕の衣装じゃなくてエストの衣装に目が向いている。
エストが製作する衣装には、必ず刺繍が入っている。これはアメリカに居た頃に賞を取った衣装を含めてだ。なのに、今回の衣装にはまだエストは刺繍を入れていない。
彼の観察眼は間違いなくプロの世界で生き抜いてきた事を示す目。小倉さんとカトリーヌさんが教えてくれたやり方をやって見たけど、彼には通じなかった。
「刺繍が入った衣装をフィリア・クリスマス・コレクションの時に見られるのを楽しみにしていますよ」
「……ご期待に添えられるように頑張ります」
「失礼します」
僕とエストは手早く衣装を回収して、彼のアトリエから出た。
時刻は夜だから、僕が歩いても問題は無い。タクシーを呼んでも構わないけど、僕もエストも少し歩きたい気持ちだったので歩いて帰る事にした。
「プロの人って、本当に凄いよね」
「はい。改めて自分達の未熟さを痛感させられました」
プロの世界でも自分なら通じると思っていた頃が懐かしく思える。
実際のところ、入学した頃はカトリーヌさんの実力を僕は甘く見ていた。だけど、一緒に作業をしてみると、僕の方が助けられている事もあった。
総合部門の衣装だってそうだ。僕とエストも頑張ったけど、フィリア・クリスマス・コレクション前に完成させる事が出来たのは、パル子さん達の協力があったから。
小規模ながらもブランドを開いているパル子さん達の実力は確かで。一般クラスに不信感を抱いていた筈の梅宮伊瀬也も、今では素直に彼女達の実力を受け入れている。
アメリカで賞を取っていた僕とエストだけど、本当のプロから見ればまだまだアマチュアと言う事だ。ましてや相手はあのジャン・ピエール・スタンレーの補佐を創業以来ずっと続けて来た相手。
数ヶ月前に教わったやり方は通用しないみたいだ。
「とは言え、流石の彼もどんな刺繍を私達が入れようとしているかまでは見抜けない筈です」
エストは頷いてくれた。
そう。この最後の作業。『刺繍』こそが僕とエストの真の切り札だ。
以前は刺繍ぐらいでなんて思っていたけど、エストとの付き合いと夏に皆で製作した衣装で僕の考えは大きく変わった。手間暇をかけてでもやる価値は充分にある。
「皆に本当に感謝だね」
「はい。総合部門に協力してくれた皆様には、本当に感謝の念しかありません」
これが僕達が積極的に総合部門の方の衣装に集中しないといけなかったら、間違いなく服飾部門の方の衣装を諦めるしかなかったよ。
だけど、総合部門と服飾部門。両方の衣装はどちらも僕が製作してきた衣装の中で最高の出来だ。どっちの方が良い衣装なのかなんて誰かに聞かれても答えられない。
フィリア学院での最後の思い出を飾るに相応しい衣装を製作出来たって、胸を張って言える。
その為にも服飾部門の衣装を完成させないと!
「でも、結局総学院長から才華さんの話題は出なかったね」
エストの部屋に戻ると共に口にされた話題に、少し落ち込んだ。
余り思い浮かべたくない話題だ。ただ浮かべない訳にもいかない。
防音が完璧な桜の園に戻るまで話題にしないでくれたのを感謝しよう。
「仕方ありません。総学院長は『桜小路才華』が製作した事になっている衣装を目にしていませんし……彼の中での『桜小路才華』の印象は変わらずに最悪なままなのですから」
彼の中での『桜小路才華』の認識は破格の温情を与えながらも、直接言いに来る事もなく間接的に、しかもゴーストをさせていた『小倉朝陽』を通して自分の要求を伝えた相手だ。
……好かれる要素なんて何処にもないよね? 自分でそんな状況にしてしまったけど、普通にこれじゃあ嫌われるよ、『桜小路才華』は。
「実際、お嬢様も『桜小路才華が小倉朝陽に自分のゴーストをやらせていた』と聞いた時はお怒りになられていたではありませんか?」
「そうなんだけどね……最初に聞かされた時は確かに共感よりも先に怒りを抑える事が出来なかったから」
将来的にあの姉のゴーストを行なうつもりだったエストだってこうだ。
プロの世界で生き抜いてきた彼が抱いた悪感情は、僕らが想像しているよりも大きいに違いない。
「本当にゴーストって危ないんだね。朝陽……才華さんの事を知ってから改めて自分が軽く考えていた事を実感してるの」
分かってくれて嬉しいよ、エスト。
本当に、本当に! ゴーストの事を軽く考えていたあの頃の自分が恥ずかしいよ! アレ? そう言えば……。
「今更ですが、お嬢様? アメリカではご自身のお名前を出していましたよね? それでエステル・グリアン・アーノッツ様のゴーストにどうやってなろうとしていたんですか?」
「あっ。それね……日本のフィリアに通っている3年の間に、私の名前でデザインが出なければ誤魔化せるかなって思ってたの。デザイナーとして活動するのは欧州方面にするつもりだったし」
「なるほど」
確かに流行の流れが激しい服飾業界で、3年の沈黙はデザイナーとしては痛手だ。
だけど、エストがあの姉のゴーストになるつもりだったのならば痛手とは言えない。実際、僕やエストは活動していたアメリカでは『若き2人の天才』なんて持て囃されていたけど、日本での知名度は無いに等しい。
欧州方面で僕らの知名度がどれだけあるのかも謎だ。
……あったらそれはそれで困った事になっていた事は、今は考えないようにしよう、うん。
今はそれよりもだ。
確かにエストの考え通りに進める事が出来れば、3年後には名前も忘れられて欧州方面で『エステル・グリアン・アーノッツ』がデザイナーとしてデビューする事が出来ていたかも知れない。だけど、誰も知らない日本にエストの事を、正確に言えばアーノッツ家の事を知っている欧州方面の人物が同じように留学して来てしまった。
「そうなると、お嬢様が以前仰っていたようにジャスティーヌ様に本来のデザインの事は知られる訳には行きませんね」
「そう。だから、入学式の日にジャスティーヌさんと話した時は慌ててたの。家の事を知られているから、もしかしたらアメリカの頃の私の事も知っているんじゃないかって」
「確かにあり得るかも知れませんね」
ただ幸いな事にジャスティーヌ嬢は家としてアーノッツ家の事は知っていたけど、エスト個人の事は知らなかった。
恐らく留学する前のジャスティーヌ嬢は、パリを中心に活動するつもりだったから外国の服飾雑誌に余り目を通さなかったのかも知れない。今は日本に居るから日本の服飾雑誌には目を通しているみたいだけど。
「ジャスティーヌさんが私の個人の事は知らないって分かった時は安堵したの。もし知られていたら朝陽には申し訳ないと思ったけど、通う学院を変える事を考えていたかも知れない」
「そうならずに済んで本当に良かったと思います」
気付かないところで、僕のフィリア学院での生活は危機に瀕していたみたいだ。
本当に今日までの自分の生活が、一歩間違っていたらあっさり崩壊していたものだと実感出来て心臓に悪いよ。
「今度は私から質問だけど、例のメイド長さんとはその後どうなの、才華さん?」
……あんまり聞かれたくない話題だけど、質問されたから答えるしかない。
「一度桜の園に訪ねに来てからは、アトレの部屋に同じように一度だけ訪ねて来たそうだよ。その時の事をアトレから電話で伝えられた」
「アトレさんから? 確か今は才華さんとは距離を置くようにしているんだよね?」
「うん、そうだけど……九千代は八千代に相当叱られて、僕に電話できない程に落ち込んでいるらしくて今回ばかりはアトレがしてくれたんだよ」
「うわっ……本当に怖い人なんだね。そのメイド長さん」
「普段は厳しいけど、優しい人だよ……ただ今回ばかりはね」
九千代には本当に申し訳ない事をしてしまった。
幸いと言うべきか、親戚の縁こそ切られなかったそうだけど、代わりに学院が冬休みに入ったらメイドとしての再教育を八千代が直々にするらしい。
アトレも今の八千代を説得するのは無理だったそうだ。
「それとその八千代からはメールが届いて、フィリア・クリスマス・コレクションが終わるまでは桜屋敷に戻って来ないでくれって指示が来たよ」
「え~と……才華さんの家だよね?」
「そうなんだけど、実はこれは八千代の嫌がらせじゃなくてちゃんとした理由があるんだ。ほら、フィリア・クリスマス・コレクションには特別な審査員の人達が来るだろう? その人達の宿泊先が桜屋敷だから」
「なるほど……そう言う事情じゃ仕方ないよね」
学院では『小倉朝陽』を名乗っているとは言え、審査を受ける立場にいる僕が審査員である人達と事前に会うのは色々と不味い。
僕とエストだってその辺りを気にして、点検をしてくれていた総学院長に大丈夫なのかどうかを確認した。なので、事前に審査員である瑞穂さん達と会うのは不味いので、八千代から桜屋敷に近づかないように頼まれてしまった。
考え過ぎだなんて思わない。僕の立場は非常に危ういんだ。
僅かでも危険があるなら今は渡れない。これが審査を受けない立場に僕がいるんだったら、家の体面もあるから会いに行ったけど、審査を受ける立場にいる以上、不正を疑われるような事は出来ない。
それに総学院長なら瑞穂さん達の宿泊先を知っている筈だ。後から実はグルだったなんて疑われる可能性を無くす為にも、八千代の指示に従った方が良い。
その辺りの事情もエストに説明すると、納得してくれたのか頷いてくれた。
「確かに疑われるのは不味いよね」
「うん。普通だったら問題は無いかも知れないけど」
「才華さん達の事情は……ふ、普通じゃないからね」
本当だよ。
自分でも本気で後悔しかないけど、こんな不自由な立場になるなんて夢にも思ってなかった。それに……。
「衣装の完成もあるし。総合部門のショーの最後の練習もあるからね」
刺繍を入れるのが大変な作業なのは当然として、僕やエストには他に総合部門のショーの練習も大事だ。
服飾部門の方では学院が時間を使ってくれて制服でのリハーサルがあるけど、総合部門の方にはない。だから、残りの時間で入念に練習を重ねないといけないんだ。
ファッションショーと言う舞台を開くんだから妥協は許されない。演出担当の八日堂朔莉の厳しい指導は、本当にありがたいよ。ただ……駄目出しは本当にきついんだよね。
……おっと、長話をしてしまった。そろそろ僕も部屋に戻ろう。
「では、お嬢様。そろそろ私は部屋に戻らせて貰います」
「あっ。そうだね……部屋に泊まってくれてもいいのに」
いや、それは不味いよ。だって、僕は男女的な意味でエストにドキドキする事が増えてしまっている。
仕事の時間内なら耐えられるけど、それを超えて一緒にいたら我慢できる自信がない。ただでさえもうすぐ……エストとはお別れなんだから。
「では、失礼します」
名残惜し気に僕を見つめるエストを振り払って、僕は部屋を出た。
部屋に戻ると、すぐさま持って来た衣装を広げて刺繍を入れる準備を始める。
今日の為に準備をした僕の正真正銘の切り札を取り出す。この切り札はエストにも話していない。
最初は衣装に入れる刺繍は、エストに頼んでパリの縫製店から取り寄せた特注の糸を使うつもりだった。エストもそのつもりだと思っている。でも、僕は見つけてしまった。
特注の糸よりも素晴らしい刺繍を入れるに相応しい素材を。
本当はその素材よりも良い物があるけど……流石にそれは使えない。彼女になら捧げても構わないとは思ってる。でも、それを使ってしまえば他の人達に迷惑が掛かる。だから、この素材で我慢だ。
「……本当に
予想していたよりもずっと良い物だった。
急な依頼で、しかも依頼してからの期間は短かったのに、最高の物を用意してくれた。これなら僕も納得出来る。
納得出来ない物だったら最悪……本当に最悪の場合は、代用品である
エストに悲しみを与えることなく、心から楽しめる舞台が開かれるに違いない。
今なら分かる。お父様が教えてくれた言葉の意味が全て。
この衣装を着たエストが心からの笑顔を浮かべてくれて、僕と一緒に歩いてくれる。そんな光景を思い浮かべるだけで胸が躍り出しそうだ。
鋏を握って、手に持つそれに切り終える。針に通して、衣装に一針一針入れていく。
大好きな笑顔を浮かべてくれるように願いながら。大切な人の隣で僕も笑顔で立って並ぶ光景と、今日まで彼女と一緒に過ごした日々を思い起こしながら作業に没頭した。
才華の切り札はちゃんと伏線を張っておきました。
因みに切り札が不満だったら別の物を使っていました。そうするとエスト達に大変怒られます。最高の物を急いで用意してくれた彼には感謝するしかありません。
次回は遊星sideで遂に彼女達が桜屋敷にやってきます。
そうなると当然……家の主の夫妻もです。