月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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今回は基本原作通りです。
それだけだとちょっと味気ないので、あとがきに一つの話を書きました。

三角関数様、烏瑠様、誤字報告ありがとうございました!


二月上旬(才華side)4

side才華

 

 遂にこの日が来た。

 僕のこれからの命運を分ける日が、遂にやって来た。

 努力した。アトレや九千代、そしてルミねえに協力して貰い、外出を何度もして僕の女装は完璧なものになったと言える。

 伯父様から譲られた66階の高層マンション。『桜の園』も完成した。

 今、僕は『桜の園』の最上階にあるアトレの部屋にいる。これから面接があるからだ。

 僕、桜小路才華の……いや、違う。

 今日から僕は。

 

「これまでは練習期間として、心から『なりきらず』に、時折、自分を確かめるようにしていました。ですが、今日この日よりフィリア・クリスマス・コレクションの時まで、一切の迷いを捨て、いかなる時も『小倉朝陽』でいる事を心掛けようと思います。大蔵ルミネお嬢様、親愛なる家族の皆様。どうぞよしなに」

 

 呆然と僕を見つめるルミねえと九千代に挨拶をした。

 そして僕の妹は。

 

「あーヴぁヴぁヴぁばばばばばばばばばばっ! ぶるっ、ぶるわああああああああっ! うつっ、うつっつつっつっつ、美しゃああああああああっ!」

 

 ……僕の妹は壊れたように意味が分からない事を叫んでいた。

 

「吾輩は死ぬ。死んで天上界にこの美しさを喧伝する。この愛を三千大千世界へあまねく訴えたい。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、ありがたやありがたや」

 

 まるで仏に出会ったかのように、アトレは僕を見て拝んでいた。

 褒めてくれているんだろうけど、死んだら駄目だからね。

 

「お兄様……いいえお姉様。素敵です、私は、アトレは、こんな姉が欲しかったのだと胸を張って言えます! ああ、なんて美しいお姉様……たとえ使用人の身に窶していても、気品と麗しさが華々しく輝いて、傅きたい衝動にかられます」

 

「ありがとうございます、お優しいアトレお嬢様。その喜び方を見ていると、まるで私は女性として生まれて来た方が良かったかのようですね」

 

「はい! その通りです、お姉様! もうお兄様はいらないんじゃないでしょうか?」

 

 はははアトレは無邪気で可愛いなあ。

 そんなに褒めて貰えると自信が付くよ。

 ……だけどね。あんまり邪気がなく言わないで欲しい。お兄ちゃんが傷つくから。ぐすん。

 心の中でアトレの言葉に、僕は涙を流した。

 

「……確かに美人ではあるけど」

 

 無邪気なアトレに対して、ルミねえは険しい顔をしていた。

 

「いかがなされました、ルミねえ様? 美し過ぎる私のお姉様を直視出来ませんか?」

 

「もしかして冗談で言ったのかもしれないけど、半ば正解。美人過ぎるのが問題。これが演技だなんて犯罪だと思う。判決、市中引き回しの上に、美術館に禁固10年」

 

「はい。今回の行動の反対派だった私ですら、圧倒されてしまうほどの美しさです。我が主は女性だったのかと錯覚するほどに唖然としています」

 

「世界で一番美しい女性は私の母ですと、断言します」

 

「普段なら『その通りでございます』と頷くのですが」

 

「申し訳ありませんお姉様、そしてお母様。私は、アトレは、桜小路家の歴史の中で、お姉様こそが最も美しい方だという考えを改める事が出来ません。今までお兄様に抱いていた想いは思慕、そして尊敬の念だったのに。私は、アトレは、たった今、恋と言う感情を知りました。今なら『晩餐会』で駿我さんが言っていた言葉の意味が分かりました。私はもう、この素敵なお姉様以外に愛を抱けません」

 

「大げさ……と言いたいけど、実際にそれだけの美人だと思ってしまう自分が危うい」

 

「隠そうとしても溢れる貴人の風格。若に使用人をさせる訳にはいかないという自分の言葉を撤回します。桜小路才華様は、女装をしていても王者たる者として立派なままです。いいえ、より輝きを増したように思えます」

 

 うん。褒めてくれるのは嬉しいよ。

 だけどね、君達。其処まで言ったら、男性としての僕の批判になるから止めて欲しい。

 顔は笑顔を浮かべているけど、心では涙を流しているからね。今の僕は。

 

「ええ、九千代さんの言う通り、今までの試験的な外出は、あえて気軽にしていたのがよく分かります。本番へ挑むために覚悟を決めた今は、迂闊に声をかけられないオーラを感じます」

 

 ……そろそろ口を挟まないと、僕の心が限界だ。

 

「皆さんの言葉を胸に、私は私らしく振舞おうと思います。桜小路家の一員でいる事を常に心掛けて行動します。これまでのご協力に感謝します。ありがとうございます、お優しい家族の皆様。この胸から溢れんばかりの愛を捧げます」

 

 皆に心からの愛を捧げる事が出来て幸せだ。

 やはり僕は人に愛を与える為に生きたい。

 ……それなのに、僕はあの人を傷つけた。愛ではなく、傷を与えてしまった。

 思い出せなくなってしまったあの人の笑顔を思い出す為にも、今日の面接は必ず成功させないと!

 

「まだ体に硬さはありますが、程良い緊張感の中で面接の本番に挑めそうです。やる気マンゴスチンです」

 

「緊張してるんですか? どう見ても堂々としていますが」

 

「寧ろ、この風格にあてられて、相手が委縮してしまわないか心配。使用人として扱って良い相手じゃない事は一目で分かるし、一緒にいて息が詰まる相手だと思われたら採用されないかもしれない」

 

「それは困ります。隙あらば場を和ませるジョークを口にして、お相手の方に笑って貰おうと思います」

 

「ジョーク? ……たとえば?」

 

「実は私、男の子なんです」

 

「笑えない」

 

 ルミねえは半目になって、僕のジョークを批評した。

 ……そ、そんなに笑えないのだろうか?

 け、結構自信があったのに。

 

「お姉様は大変に素敵ですが、笑いのセンスが致命的にない事が欠点ですね」

 

 ……アトレにも駄目出しされた。

 

「それ、それでは、胸を張って面接に挑んでまいります。や、やる気マン、マン、マンゴスチンチンです」

 

「動揺してる。しかも女子が絶対言わないような事まで言ってるし」

 

「ですが、親しみやすさが出来ました。新人メイドとしては、この方が良いのではないでしょうか」

 

 そうか! きっとルミねえとアトレは、風格が漂っていたから親しみやすさを教える為に、心を鬼にして僕のジョークをつまらないと言ってくれたんだ。

 だって、本当は面白い筈なんだから。僕のギャグは。

 だから、些細な心の傷なんて忘れよう。今日の面接次第で僕の命運は決まる。

 幼い頃からの夢を諦めて一生劣等感を抱いて行くか、輝かしい戦場の舞台となるフィリア学院に通えるかの命運が。

 

「それでは行ってまいります」

 

「……あっ! 小倉さん!?」

 

「……はい? いかがなさいましたか、ルミネお嬢様?」

 

 玄関に向かおうとしたところで、いきなり背後から呼ばれた僕は、ゆっくりとルミねえに振り返った。

 振り向いて見ると厳しい目をしたルミねえが僕を見ていた。

 

「ちょっと反応が遅かった」

 

「いきなり呼ばれたのですから、動揺はするものです」

 

 僕は冷静にルミねえに返事を返した。

 でも、ルミねえは信用していない目で僕を見ている。だ、大丈夫だ。

 今だってちょっと動揺しただけなんだから。僕は小倉朝陽なんだから、名字で呼ばれても慌てる訳が無い。

 これで大丈夫だと思ったところで、内線を握っていた九千代が叫んで来た。

 

「た、大変です! 今1階にいる八十島メイド長から連絡が来て、このマンションに小倉さんがいるそうです!」

 

「えっ!? 嘘!?」

 

 九千代の報告に、僕は思わず素の声で反応してしまった。

 同時にルミねえ、アトレ、九千代が、ジッと僕に視線を向けて来た。

 

「……あっ」

 

「本番でも弱点克服ならず」

 

「お姉様……」

 

「致命的ですね。まさか、自分の名字である小倉に反応してしまうなんて」

 

 三人の何とも言えない雰囲気に、僕は床に膝を突いてしまった。

 そう、僕は自分の名字として名乗る筈の『小倉』を聞くと、思わず小倉さんが近くにいると考えて動揺してしまうという弱点が出来ていた。

 この弱点に気がついたのは、アトレと九千代と共に女装して外出した時。ルミねえやアトレは僕を朝陽と名前で呼んでいたので気が付けなかったけど、九千代が名字の方で僕を呼んだ瞬間、僕は慌てて周りを見回してしまった。

 すぐにその場から離れた事で問題は無かったけど、由々しき事態だ。

 何せ自分の名字なのに、呼ばれると過剰に反応してしまうなど、どう考えても可笑しい。

 

「今の面接への意気込みに燃えている状態なら、克服出来ると思っていたんだけど」

 

「トラウマと言うほどではないでしょうが、やっぱりあの件はこ、小倉様に効いていたんですね」

 

「憎い! アトレは初めて嫉妬と憎しみを覚えました! 私のお姉様に此処まで想われている小倉さんに嫉妬を覚えます!」

 

「アトレさん。流石にそれは駄目だよ。でも、ちょっと驚き。朝陽さんなら表面上は平然としていられると思っていた」

 

「……思えば、小倉様をあそこまで強く叱ったのは家族や叔母を除いたら、小倉さんが初めてかも知れません」

 

「なるほど。初めて他人に叱られて、しかも相手を泣かせてしまったから、罪の意識を自覚してる。これは朝陽さんを小倉さんに会わせて謝罪させるのが一番の薬になるんだろうけど」

 

「いまだに小倉さんの居所は分かりません。アメリカの桜小路家の方も、急遽大切なお客様をお迎えする事になって、捜索している暇はないと屋敷のメイドが言っていましたから」

 

 九千代の言う通り、小倉さんの捜索で唯一当てに出来たアメリカのお母様達も当てに出来なくなっていた。

 何でも大切な客が2月に来る事になって、その対応で屋敷は大忙しらしい。何時もは電話を掛ければ出てくれるお父様も対応出来ず、それどころか九千代の叔母である八千代までも僕への応対をしてくれなかった。

 他の屋敷に勤めているメイドが応対してくれるんだけど、どうも詳細を知っているのはお父様とお母様、そして八千代だけらしく、詳しい事は何も分からなかった。

 どんなお客様なんだろう? 気にはなるけど、何もこの時期に来て欲しくはなかった。

 小倉さんの居場所に関しては、伯父様は教えてくれないだろうし。と言うよりも、伯父様とは本当に1月の最後の連絡から、一度も電話がかかって来ない。ちょっと寂しい。

 ……いや、今はこんな事を考えている場合じゃない!

 

「だ、大丈夫です! た、確かに名字を呼ばれると動揺をしてしまいますが」

 

「あっ、認めた」

 

「ど、動揺はしますが、元々使用人が主人に名字で呼ばれると言うのも可笑しい事です! そう、これは寧ろチャンスです! 相手と親密になる為にも、名前で呼んで貰えば良いのです!」

 

「……まぁ、その方向で行くしかない」

 

「ですが、本当に気を付けて下さい、お姉様。その弱点さえ隠せれば、後は笑いのセンスが無い事以外はお姉様は完璧なのですから!」

 

 うん。嬉しい事を言ってくれるけど、笑いのセンスが無い事は言わないでアトレ。

 もう心だけじゃなくて、実際に涙を流してしまいそうだから。

 

「では、面接に行ってまいります!」

 

 覚悟を決めて僕は、アトレの部屋から出て面接の場へと向かった。

 とは言っても、僕の覚悟に対して、あっけないほどに目的地はすぐ其処だ。今僕達がいる部屋のフロアから一つ下の階。階数にして65階に、僕の面接の場所がある。

 伯父様から贈られた総工費550億円のマンションである『桜の園』は、先日正式に内縁会を終え、入居者達が入って来ている。

 僕とアトレ、そしてルミねえは、先月の後半から引っ越しして入居していたけど、面接相手は先日の内縁会後に入って来たので、今日が面接日となった。

 頼もしき家族に見送られて先ず僕が向かった先は、マンションのエントランス。内縁会を終えた後なので、人がまばらにいるけど、僕の姿に違和感を覚える人はいない。

 『小倉朝陽』を完璧に演じていると感じながら、桜小路家が依頼したコンシェルジュに呼びかける。

 彼女は書類整理でも奥でしていたらしく、大きな体を広いエントランスに現した。

 

「あら朝陽さん。日傘を持っているなんてお出かけですか? 車が必要ならお呼びしますが?」

 

「いいえ、これから面接ですので、外からインターホンで連絡する私は、日傘を持っていないと違和感が出てしまいますから」

 

 事前にこれからは、『桜の園』では女性として扱って欲しいと壱与に頼んでいたので、その通りに対応してくれる壱与に感謝する。

 ……僕の弱点の事も知っているので、朝陽で呼んでくれた事にも感謝だ。

 

「それでしたら、紹介者のルミネお嬢様もご一緒の方が宜しいのではないでしょうか? 何かあった時のフォローをしてくれる方がいた方が安心出来ます」

 

「これからフィリア学院に共に通う方かも知れない相手です。一対一で挨拶をしたいと思ったんです」

 

「まるで果し合いに挑むみたいね。この緊張感、まるで桶狭間に挑む覚悟を感じるわ。今川義元、ドン!」

 

「これから壱与さんにも多くの部下が付きます。仕事も楽になる分、どうか私を陰ながら支えて下さい。毛利新助、ドン!」

 

「本能寺の変にて討ち死にィ!」

 

 やっぱり壱与との会話は楽しい!

 緊張も解れたから、ルミねえから教えて貰った部屋の番号をインターホンで押そうと手を伸ばす。

 

「あぁ、そう言えば、これは朝陽さんじゃなくて、若にご報告を」

 

「何でしょうか?」

 

 急に小声になった壱与に違和感を覚えて、僕は顔を近づける。

 と言っても、壱与の方が背が大きいから屈んでもらう形になってしまったけど。

 

「実は先日、若達がいない時に桜屋敷に大蔵駿我様がお訪ねになりました」

 

「駿我さ……様が?」

 

 予想外の人物の名前に思わず、馴れ馴れしく呼びかけてしまったけど、何とか堪えた。

 何故あの人が桜屋敷に?

 

「訪ねられた理由は、小倉さんが本当に屋敷にいたかどうかの確認でした」

 

 納得した。

 小倉さんは大蔵家に認められたけど、僕達を除いて直接会った者はいない。

 本当にいるのかどうかの確認の為に、桜屋敷を訪ねに来たんだろう。

 だけど……。

 

「桜屋敷を訪ねられたのなら、『桜の園』に訪ねられても構わなかったのに」

 

「私もそう思ったのですが、才華様達はマンションのオープンで忙しいだろうからと言って、確認が終わったらお会いもせずにすぐにアメリカに帰国されてしまいました」

 

 駿我さんも良い人なんだけどな。

 でも、あの人は伯父様と違って僕やアトレを甘やかしたりしない。忙しい僕らを思って、邪魔をしない為に挨拶もしないで去ったんだろう。

 そう納得した僕は、今度こそ部屋の番号を押してインターホンを鳴らす。

 彼女とはメールでのやり取りはあったけど、音声付きで会話をするのは初めてだ。

 

『はい』

 

 ……おや、日本語が聞こえて来た?

 とは言え、相手は英国人。此処は英語で返事を返すべきだろう。

 

「こんにちは、本日の面接に参りました小倉朝陽と申します」

 

『ん? 貴女は日本人だと聞いていたけど、英語を喋るの?』

 

 確認された。もしかしたら失敗したかも知れない。

 相手がアイリッシュだからと思って、英語で会話すべきだと思ってしまった。

 でも、よくよく考えてみれば此処は日本だ。日本の学院に通うのに、日本語が出来ないと不味いに決まっているのに。

 

「失礼いたしました。日本語は問題なく喋れます。英語の方が慣れているのではないかと思い、要らぬ気遣いをいたしました」

 

『私に合わせてくれたの? そう、ありがとう。それなら良いの、大丈夫。貴女は親切な人ね。安心した』

 

 会話から推測するに、不審を覚えても、その事を引き摺らずに、相手の良い部分を見つけられる人のようだ。こちらこそ安心した。

 ただ、この時点で僕という人間を審査していると見るべきだろう。

 先ほどの言葉遣いでの件に関しては厳しかった。恐らくは人を見る目に長けているのかも知れない。

 だとすれば、注意しないといけない。正体がバレた時点で終わりなんだから。

 

『その親切に甘えて申し訳ないんだけど、まだ全然準備が出来てなくて、だらしない性格だから許してね」

 

 ……。

 

『と言うよりも、準備どころか、今はまだシャワーを浴びている最中なの。面接の時間の事をすっかり忘れていて、慌てて身嗜みを整えていて』

 

 ………。

 

『めんごめんご』

 

 ……何だろう? 彼女の言葉を聞く度に、気が抜けて行く。

 これが僕のライバルで、ご主人様(予定)である人物?

 僕の想像の中にあった『エスト・ギャラッハ・アーノッツ』像が聞くたびに崩れていく。

 この人、いい加減にも程がある。このまま面接は楽勝になるかも知れないとさえ、思ってしまう。

 ……いや、駄目だ! そんな甘い考えのせいで、僕は何をしてしまった!?

 油断をしたらいけないんだ桜小路才華改め、小倉朝陽!

 もしかしたら他人には厳しい人なのかも知れないじゃないか!

 気を引き締め直さないと。

 

「それではエントランスでお待ちいたします。準備が出来たら、コンシェルジュにお知らせ下さい」

 

『私の部屋の番号を伝えて、飲み物を頼んで待っていなさい。エントランスには大抵の有名な本は置いてあるみたいだから、時間はそれで潰して。今髪を拭いているから、20分くらい後にこの階まで上がって来なさい。鍵は開けておくから勝手に入って』

 

 指示を出すのが好きな人のようだ。

 それだったら時間指定せず、支度が整ってから連絡を寄越した方が良いのでは?

 と思うけど、それはあくまで僕が桜小路才華という主人の立場での話。

 今の僕は使用人なんだから、彼女に返せる返事は一つだけだ。

 

「分かりました。20分後にお伺いします」

 

『時間きっちりに来なくて良いからね』

 

 その返事を返す前に通話が切れた。

 ……少なくとも今の会話の中で、不快感を覚えるような事はなかった筈だ。

 ただ、最後の会話だけは気になる。相手からすればなんとなく口にしただけかも知れないけど、もしかしたら短いやり取りの中で、僕が時間に細かくて厳しい人間だと思われたのかも知れない。

 相手は自称だらしない人らしいから、一緒にいて窮屈だと思われたら採用されないかも知れない。

 だとしたら、『20分』丁度には行かず、21分後に部屋を訪れた方が良いだろう。

 こうやって他人とのやり取りに考えを巡らせるのも楽しい。自分とは違う考え方の相手と接する事が出来て幸せだ。

 だからこそ、注意も必要だ。相手の気持ちを上辺だけで考えたら、どうなってしまうのかもう僕は思い知っているんだから。

 

「朝陽さん。嬉しそうですね」

 

「はい。良き出会いに巡り合えそうで、大変気分が良いです。エレベーターが65階まで移動する時間を教えて下さい。それとアントン・チェーホフの『桜の園』を貸して下さい」

 

 これから会う人にも愛を与えたい。その喜びを想像すると胸が躍った。

 だけど指定された通りアバウトな時間で訪れて呼び出しても、彼女からの返事はなかった。

 

「ん?」

 

 ドアに手を伸ばしてみると、鍵がかかっていない事に気がついた。

 そう言えば、『鍵は開けておくから勝手に入って』と言っていた。

 もしかしたら返事が無いのは、僕が彼女の意思を無視していると思われたからかも知れない。

 それなら今はこちらの気遣いよりも、彼女の意思を尊重するべきだ。一瞬だけ迷ったものの、結局僕は彼女の許可を得ずにドアを開く事にした。

 

「失礼します。本日の面接にまいりました、小倉朝陽です。よろしくお願いします」

 

 返事はなかった。もしかしたら部屋を間違えたのかと思い確かめたけど、エレベーターの脇にある表示板を見てみる。

 表示板は間違いなく65階を示していた。このフロアには、この部屋しか存在しないから間違いはない。

 もしかしたら僕を迎える気になって、エントランスに向かってしまい、すれ違ったのだろうか?

 いや、このフロアに来た時にエレベーターは他に動いて無かった筈だ。

 

「お邪魔します」

 

 考えても分からないと思い、僕は部屋に足を踏み入れた。

 僕の主人(予定)にお尻を向けないよう、靴を脱ぐ時は体を横向きにして揃える。

 よし。この数か月で九千代の指導を受けたから、メイドとしての心得は完璧だ。その教えを実践しつつ、部屋の奥に更に足を踏み入れた。

 だけど、その矢先に、爪先へ何かが当たり、僕は躓きかけた。

 何だろうと思い足元を見て、僕は驚愕した。

 

「えっ? ……エストさっ……お嬢様!?」

 

 僕の主人(予定)となるべきエスト・ギャラッハ・アーノッツが、全裸で廊下に転がっていた。

 いや、これはどう見ても彼女の意思で寝ている訳じゃない。プロンドの髪は床に広がっているし、隠すものすらなく胸や肌を晒し、足は大きく開いたままという格好で横たわっている彼女は、気絶していたんだから。

 女性として、余りにも気の毒な体勢のままでいさせることに耐えられず、僕は彼女の肩と膝に手を当てて、そのまま一気に彼女を抱え上げた。

 気を失っている人間を持ち上げるのは、本来なら相手が抱えられる意思を持っている時に比べて重いと聞くけど、今は火事場の馬鹿力でもこの腕に発生しているのか、彼女の体は紙のように軽く感じた。

 見たところ大きな外傷はない。その事に多少安堵しつつ、とりあえず柔らかい場所はないかと部屋の奥へ進んで行く。

 

「お嬢様、お気を確かに? 意識はありますか? 私の声は聞こえていますか? 今すぐコンシェルジュに連絡を取り、すぐに病院に運びます。どうかご無事で」

 

「……待って……」

 

 僕の声に意識を取り戻したのか、彼女は英語で返事を返してくれた。

 

「びょ、病院は駄目……この格好で運ばれるのだけは……勘弁勘弁マジ勘弁勘弁……」

 

 意識を取り戻してくれた事に安堵しながら、僕は英語で答える。

 

「お嬢様、目が覚めたのですね……良かった。ですが、恥ずかしいなどと言っている場合ではありません。何が起こったのか分かりませんが、気絶して倒れていたのですから。適切な治療を受けていただかなくては、万が一の事態にもなりかねません」

 

「わかった……それならとりあえず服を着せて……その前に体を拭いて……シャワーから出たばかりだったから……この格好のまま男性に運ばれるのなら、私もう生きてられない……帰国する」

 

 それは非常に此方も困る!?

 もう貴女しか僕には希望がないんだから!

 

「わ、分かりました。先ずは体を拭いて、服を着せてからコンシェルジュに連絡を取ります」

 

「ありがとう、私の体を任せた……部屋に来てくれたのが貴女で良かった……かくっ」

 

 僕の腕の中で、その言葉を最後に彼女は再び気絶した。

 すぐにでも病院の手配をしたいけど、彼女は息が絶え絶えになりながら、それでも『男性に全裸を見られたくない』と口にした気持ちは理解出来る。

 名誉よりも死を選ぶ事の出来る誇り高き人だ。自分の主人(予定)となる人に、また一つ好感を覚えた。

 彼女の意思を優先して、ソファに彼女を寝かせると、タオルで丁寧に体を拭いた。

 次にワードローブの中から適当な服を見繕って、彼女に手早く着させる。意識が無い人に着させるのは難しかったけど、女性物の服を着るのは慣れているので、ちょっと手間が掛かったぐらいで済んだ。

 そのまま壱与に連絡を取ろうとしたところで気がついた。

 よく考えたら男性に全裸を見られたくないのなら、彼女の名誉をいま正に犯しているのは……僕だ。

 

「……来年、僕はもしかしたら海の底にいるかもしれない」

 

 使用人として認められたら、フィリア・クリスマス・コレクションまでに彼女との強固な信頼関係を築かないといけない。

 ……男だと知っても、壊れないほどの強固な関係。

 果たしてそんな関係を僕は、彼女との間に築けるのだろうか?




因みに才華達は全く実家があるアメリカの桜小路家に朝日がやって来る事を知りません。
これに関してはアトレが受験を控えている事と、才華の体を思っての判断。後、暴走しそうなルナ様の警戒やら大蔵家との打ち合わせで本気で忙しかったので、連絡を忘れているからです。と言うよりも、僅か一日ぐらいしか会ってないんだから、其処まで重要な存在に朝日がなっているとは夢にも思ってないからです。

人物紹介

名称:エスト・ギャラッハ・アーノッツ
詳細:『月に寄りそう乙女の作法2』のヒロインの一人。アイルランド共和国のアーノッツ子爵家の四女。ブロンドの髪が特徴で、スタイルも良い外見上は非の打ちどころのないお嬢様。だが、性格はずぼらでだらしない。実家が裏社会と繋がって他人を苦しめている事に抵抗を覚えている。性格は優しくて、底抜けに親切。
才華とはアメリカ時代でのライバルで、竜虎相打つ関係。才華曰くエストは虎で、自分は竜らしい。因みに隠れS。彼女にはある秘密があるのだが、その詳細は本編で。


『大蔵駿我の独白』

 最初は衣遠の奴の質の悪い冗談だと思った。
 この世に彼女がいる筈が無い。何せ彼女は彼に戻ったんだから。現に『晩餐会』の時に彼はあの場にいた。
 居る筈がない。最初の頃の衣遠の話も、またかと言う気持ちしかなかった。
 親父のように誰かがミスを犯した程度の認識だった。
 それが一変したのは、彼女の写真が飾られた時だ。正直怒りしか最初に俺は覚えなかった。
 何せ写真に写っていた彼女の顔には、俺が知っている彼女の明るい笑顔なんてなかった。寧ろ逆の、行く当てもない今にも消え去りそうな悲しさしか無かった。
 冗談抜きで潰してやろうと思った。穏やかな暮らしを望んでいる俺としては嫌だが、大蔵家が荒れようと構わないと本気で思ってしまった。
 衣遠を潰す。そのつもりで質問してみたが、予想に反してアイツの目にはふざけている気配はなかった。寧ろ逆。全力で養子として認めさせると言う覚悟を感じた。
 才華君やアトレさんの証言を聞いて、半信半疑な面もあったけど彼女の養子入りを認めた。
 何より、総裁になってからは全く見られなくなったりそなさんの動揺。彼女があれほど動揺するとすれば、彼に関わる事だけだ。
 『晩餐会』が終わった後、俺はすぐに部下に連絡をしてりそなさんのスケジュールを調べさせた。そして『晩餐会』後に、りそなさんの描いた衣装が主役のファッションショーがパリで開催される事が判明した。

 俺は確信した。彼女が本当に居るなら、必ずパリに現れると。
 そして予想通り彼女は現れた。パリの大路で会ったのは偶然だけど、俺がパリにいたのは偶然じゃない。
 パリで開催されるファッションショーの会場を張る為に、俺はパリに行ったんだ。
 正直嬉しいと言う気持ちよりも、弱り切った彼女の姿に悲しみを覚えた。俺が気に入っていた彼女の笑顔は何処にもなかった。
 そのまま浚ってしまおうかと言う考えが脳裏に浮かんだけど、りそなさんに任せる事にした。俺と彼女は初対面なんだから。大蔵の名を名乗っても、俺の顔を見て何の反応も示さなかった事から、彼女には俺との面識がない事は明らかだった。
 なら、衣遠の計画通りに進ませてみようと思った。悔しかったけどな。
 そして出会ってから10日ぐらい後に、パリでの用事を仕事で作り、彼女を様子を見に行って見た。
 驚いたよ。何せ悲しみしか顔になかったのに、改めて会った彼女の顔には俺が気に入っていた笑顔が戻っていた。りそなさんがやってくれたんだと嬉しくもあり、悔しくもあったね。
 何か悩んでいる様子だったので聞いて見たら、思っていたよりも難しい問題だった。なるべく問題を抑えられるように、俺なりにアドバイスをしてみた。
 アドバイスを聞いた彼女は笑顔を浮かべて礼を言ってくれた。この笑顔は俺が浮かべたんだと思うと、嬉しくて心が躍った。
 全く……彼女には本当に困らされる。穏やかな暮らしを望んでいる筈なら、心は落ち着いていた方が良いのに。だけど、悪い気もしないから本当に困る。
 それからりそなさんから急な連絡が届いた。
 どうやら彼女がアメリカの桜小路家に訪問する事になったらしい。
 俺はすぐにりそなさんの頼みを引き受け、すぐさま彼女を迎え入れる準備をしながら、パリでの彼女の悩みに関して気になっていた。
 どうにも気になり、日本にわざわざ訪れて桜屋敷に訪問してみた。才華君達から情報を得られないかと思ったからだ。だが、予想に反して才華君は桜屋敷に居なかった。
 聞いて見れば、衣遠の奴が総工費550億円のマンションをプレゼントしたらしい。
 心の底から呆れたよ。アイツは才華君とアトレさんを甘やかし過ぎている。昔、遊星君やりそなさんをどんな風に扱っていたのか知っているだけに尚更にね。
 最もだからこそ、彼女には自分から何かを命じるのを控えて、距離を取っているんだろう。遊星君の才能を発揮出来る場を整えたのは、りそなさんだ。
 彼女の事も、りそなさんに任せた方が良いと思っているに違いない。
 とは言え、才華君達にした事に呆れ、そのまま帰ろうとしたが、ふと衣遠が与えたマンションの建築場とフィリア学院が建っている場所の近さが気になった。
 不動産屋に行って、パンフレットを調べて見れば、建築される予定のマンションの地下には、フィリア学院との直通通路がある事が判明した。
 その瞬間、俺は才華君達が何を考えているのか。そして彼女が何を悩んでいたのか悟った。
 才華君達は、遊星君と同じ手段でフィリア学院に入学するつもりだと。
 なるほど、コレは伝えるのを悩む筈だ。りそなさんは才華君に複雑な気持ちを抱いているし、彼女からすれば才華君は憧れた人と遊星君の息子なんだから。
 俺も波風をたてる気はなかったから、そのままアメリカに帰国した。才華君のこれからがちょっと気にならないと言えば嘘だが、今は彼女を迎え入れる準備の方が優先だからだ。
 特に桜小路さんは、彼女も手に入れようとするだろう。悪いがそれは認められない。
 遊星君が桜小路さんと一緒になったのは良かったと思っているけど、彼女まで渡すつもりは無いからね。

 そして遂に彼女がアメリカにやって来た。
 事前にりそなさんからくれぐれも頼むと言われていたので、彼女に幾つかのアドバイスもした。
 俺が大蔵の人間だと知った時の彼女の顔には、思わず笑ってしまった。
 意地悪だとは思ったけど、昔、俺も遊星君に驚かされたからね。その仕返しと言う訳だ。
 桜小路家で聞いた彼女の話を聞いて、俺は一つの確信を持った。
 『彼女の世界の大蔵家は潰れる』。
 恐らくは桜小路さんも気がついているだろう。だが、この件を彼女に伝える訳には行かない。元の世界に戻る方法なんて分からないんだから。最悪死んだら戻れるかも知れないなんて考えたら、最悪だ。だから黙っている事にした。
 遊星君は恐らく気がついていない。自分が成し遂げた事の難しさと重要性を理解し切れていないからだ。
 彼女がいなければ、りそなさんは立ち上がれず、衣遠も止まる事が出来ずに進む。
 そして俺も、親父から与えられた強迫観念を晴らす事が出来ずに進んでしまうだろう。
 とは言え、これに関してはどうする事も出来ない。残念ながら運がなかったと言うしかない。彼女の世界の大蔵家は。
 夕食の時に伝えられた事実には、正直眩暈を覚えかけた。
 才華君は大蔵日懃と言う人間を、ルミネさんなら制御出来ると思っているようだが違う。寧ろルミネさんの存在こそが、大蔵日懃の逆鱗だ。ルミネさん自身も気がついていないだろう。
 本格的に老い先が短いあの爺は、ルミネさんの人生に一点の曇りも無く輝かしい人生を生きて欲しいと願っている。その為なら例え自分が嫌われたとしても、爺はルミネさんの人生に汚点になりそうな相手を消し去るだろう。それが例え、身内だとしてもだ。
 彼女が才華君を止めてくれた事を桜小路さんや遊星君は感謝しているようだけど、恐らく彼女が才華君を叱った本当の内容は違うだろう。
 俺は才華君のやろうとしている事を知っているからね。
 そして彼女も恐らく、フィリア学院に通うつもりだ。才華君達を護る為に。
 ……世界は違っても彼女の本質は変わっていない。心が惹かれてしまうよ。
 部屋に関して、彼女は気がついていないだろう。本気で俺の好意だと思っているに違いない。
 本来今回の桜小路家への短期で、一か月もアメリカに滞在する予定はなかった。
 だから、ミシンなんて用意する必要性は無い。
 俺は、桜小路さんが必ず彼女をアメリカに滞在させると確信していたからだ。
 これからの一か月が楽しみだ。だけど、油断は出来ない。
 桜小路さんは彼女を諦めていないだろう。味方がいない孤立無援の状況だけど、彼女が諦めるとは思えないからね。どんな手を使って来るか?
 とは言え、彼女を渡すつもりは無い。彼女は大蔵家に正式に入って貰う。
 今のところ俺と彼女の関係がどうなるか分からないけど、それは先の話だ。
 明日から始まる彼女との生活を楽しもう。
 明日の朝食が楽しみだよ、小倉さん。

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