月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

32 / 234
過去最大の文字数になってしまいました。
次回で漸く二月の才華sideは終わりです。

Nekuron様、烏瑠様、ちよ祖父様、獅子満月様、誤字報告ありがとうございます!


二月中旬(才華side)7

side才華

 

「……明日?」

 

「そう。音楽部門は明日が入試。午前中が学科で午後が実技」

 

 伯父様との会談が終わってから数日が経ったある日。

 珍しくルミねえが才華として会いたいと言うので、アトレの部屋へ集まっていた。

 ……本音を言えば、今はルミねえとアトレ、九千代には会いたくなかった。

 此処数日は、内線で会話する以外は距離を取るようにしていた。理由は言うまでもなく、伯父様の件だ。

 僕らのしている行為が、原因でエストの実家であるアーノッツ家が危機に瀕している。

 その危機の正体がルミねえの父親であるひい祖父様だなんて、説明出来る訳が無い。その上、ルミねえとアトレにはフィリア学院の受験が控えている。

 伯父様から絶対に二人には伝えるなと言われているし、もしも二人が受験に落ちたりしたら、その時点で僕はアメリカに送り返されてしまう。

 最早僕には後が無い。そしてこの件に関しては、この場にいる誰にも協力は求められない。

 失敗したらどうしようという不安で、デザインにも影響が出てエストに心配されているぐらいだ。

 調子が悪いだけだと今は誤魔化しているけど、結構内心では辛い。

 僕の人生だけではなく、エストの人生まで掛かっているのだから。

 その不安が表情に出ていないか心配だった。僕の事を大切に思っているこの三人なら、今の僕の変化に気がつくかもしれない。

 でも相談は出来ない。だから、今、僕は小倉朝陽ではなく、三人が知る桜小路才華を演じながら口を開く。

 

「じゃあ今日は『桜の園』の部屋へ泊っていくの? 歩いて三分だから、遅刻はありえないよ」

 

「そうしたかったけど、お父様が明日の入試に備えて本家の方に豪華な料理を用意してくれてるらしくて、用が済んだら、今日は実家へ戻るよ」

 

 是非戻ってひい祖父様を安心させて下さい。

 ルミねえ自身も、久しぶりに両親に会えるのが嬉しいのか、何処となく嬉しそうにしているから、少なくとも険悪な雰囲気にだけはならない事を願う。

 ……でも、本家に戻るんだったら、少しでも情報を得たい。

 

「そ、そうだ、ルミねえ!」

 

「なに?」

 

「こ、この前伯父様から聞いたんだけど、パリで休暇をしていた総裁殿が日本に戻って来てるらしいんだ。もしも本家にいたら、それとなく様子を窺ってくれないかな?」

 

 伯父様の話では、フィリア学院に入って来る調査員は総裁殿が選ぶらしい。

 その権利を伯父様は得ようとしているようだけど、『晩餐会』で伯父様がやった事を考えれば、多分通らない。

 一番良いのは、伯父様の手の者が調査員になる事だけど、それに期待している訳にはもう行かない。

 正直ルミねえに頼るのも危ないけど、大蔵本家に行けるのはルミねえだけだから、頼むしかない。

 その為にも総裁殿がどうしているのかを知りたい。

 でも、ルミねえは僕の頼みに、僅かに驚いていた。

 

「珍しい。才華さんが、苦手な総裁殿の事を気にするなんて」

 

「い、いや! ほら! 『晩餐会』であれだけ慌てていたからさ! もしかしたら小倉さんに繋がる何かがあるかもしれないから!」

 

「ああ、なるほど。確かにあの慌てようだったから、もしかしたら総裁殿なら小倉さんの居所を知っているかもね。分かった。それとなく聞いてみるよ。才華さんの名字呼ばれの弱点を克服する為にも」

 

「う、うん。お願い」

 

 と言っても、小倉さんを警戒しているルミねえの事だから、居場所が分かったら先ずは自分で向かいそうだ。

 だけど、今、僕が総裁殿を気にしているのは、もしかしたら調査員に任命された人物が会いに来るかも知れないからだ。

 見慣れない人物が総裁殿に会いに来ていただけで、その人物が候補になる。会社経営に関わっているだけに、ルミねえは人の顔を覚えるのが得意な筈。そうじゃなくても、特徴だけでも掴んで来てくれれば助かる。

 祈るような気持ちで僕が願っていると、九千代がルミねえに質問する。

 

「それでルミネお嬢様。用とはなんでしょうか?」

 

「今日はバレンタインだから才華さんに。はい、チョコレート」

 

「どうして僕に? それもチョコレート?」

 

「アメリカのバレンタインが日本と違うのは知ってる。だから才華さんも日本式のバレンタインを理解して。日本の場合は、女性から男性に贈り物をする日なの」

 

「ルミねえが僕に? ……嬉しい」

 

 確かに嬉しいよ。だけど、正直言って、大蔵家のもう一つの顔を見てしまった後じゃ、素直に喜び切れない。

 アメリカのバレンタインは、特別な男女が贈り物をする日だ。ひい祖父様がアメリカ式ではなく、日本式の方だと理解してくれる事を願う。

 

「それとこれがアトレさんと山吹さんの分」

 

「あれれ」

 

「え、どうしてあからさまに残念そうな顔?」

 

「ルミねえが僕の事を特別な人だと認めてくれたかと思って」

 

「大切に想ってるけど?」

 

「もっと恋人的な意味で」

 

 ……自分で言っていて胃が痛い。

 でも、普段の桜小路才華ならきっとこう言う筈だ。今の僕は普段の桜小路才華。

 ……今にも不安で押し潰されそうな僕なんて、この場には居ない。

 

「才華さんは性別を捨てたんじゃなかったの? 先ずは女性の恰好を……と言うかメイド姿を止めて貰わないと、そもそも男性として見られない。男性じゃない相手に恋愛感情を持たない。前にも言ったけど、私はノーマル」

 

 とても嬉しいよルミねえ!

 今だけはメイド姿をしていて良かったと心から思う!

 

「私は逆です。お兄様にはいつもお姉様でいていただきたいです」

 

 ……アトレ。今のは逆に僕が傷ついたよ。

 

「アトレまで酷い事を言い始めた。外見は変わらない筈だよ」

 

「なんでしょう。溢れ出るオーラが違います。私もルミねえ様と同じほどにお兄様を大切な人だと想っていますが、今は一分でも長くお姉様に会いたい。きっと私は、アトレは恋をしてるんです。兄妹相手に恋愛感情は持ちませんが、お姉様が相手なら話は別です。お慕いしています」

 

「アトレさんの言う通り、私も肉親相手に恋愛感情を持つのは難しい」

 

 アトレが小倉朝陽を慕っている点は、スルーするんだねルミねえ。

 うん。僕もそうしよう。

 

「桜小路才華は人気がないね」

 

「そもそも私に恋愛感情を持ってもらおうだなんて図々しい。罪状、傲慢の罪。判決、私にプリンを作るの刑」

 

 人気がないどころか罰まで加えられた。

 だけど、今はちょっと嬉しい。もしもルミねえに恋愛感情を抱かれていたら、今の僕じゃ耐え切れなかったかも知れない。

 

「あの、ルミネお嬢様は……チョコレートを渡す為だけに、入試の前日に此処へ?」

 

 九千代がもっともなツッコミを入れてくれた。

 チョコレートが貰えたのは嬉しいけど、これが原因で入試に落ちたりしたら大変な事になってしまう!

 何時もルミねえを困らせて喜んでいたけど、今日だけは違う!

 お願いだから、入試に集中してルミねえ!

 

「いえ、もう一つの目的は、聞かれなければ口にするほどのものでもなかったので。入試前に、才華さんと話したかっただけです」

 

「どうして僕と?」

 

「合格する自信はあるけど、それでも緊張はするから。才華さんと話せば力になると思って」

 

 ……普段の僕ならちょっと嬉しく思っただろう。

 だけど、今の僕には辛い。その優しさに甘え過ぎたせいで、今僕は大変なものを背負ってしまっている事に気づいているから。

 でも、今僕が抱いている不安を悟られる訳にはいかない。

 

「や、やっぱり僕の事が大好きなんだね」

 

「そうだよ。チョコレートを渡した時も、大切に想ってるって言ったつもりだった。恋愛的な意味じゃなくて、私を慕ってくれている弟として大切に想ってる」

 

 ……嬉しい事を言ってくれるけど、素直に喜べないよ。

 自分で言って少し照れている様子のルミねえを見ながら、僕は内心で苦い思いを抱いた。

 

「弟と言っても、才華さんの方が年上なんだし、女の人の恰好はやめて、もっとしっかりして欲しいけどね」

 

「分かってる。もっとしっかりするよ」

 

 そうだ。しっかりしないといけない。

 今回の件は、僕自身で何とかしなければならない事なんだから。

 ルミねえばかりに頼り過ぎた結果、今僕は崖っぷちにいる。これからは自分で進まないといけない。

 

「ルミねえ様はお兄様を大切に思っているのですね。見ていて微笑ましいです」

 

 そして朝陽だと嫉妬するのに、才華の事だと大らかな僕の妹だった。

 

「ところで他人事みたいに聞いているけど、才華さんとエストさんの二人は入試に参加しないの?」

 

「うん」

 

 僕とエストは特別編成クラス入りが決まっているから、受験をするまでもなく合格は決まっている。

 だけど、特別編成クラスの人間の中には、あえて試験を受ける生徒がいるのだ。

 その理由は、学院側は明言していないものの、入学式で代表の挨拶を務めることになるのは、入試の成績が1位の生徒という事になっている。

 つまり、あえて入試を受ける特別編成クラスの生徒は、自分の腕に自信があり、実力を誇示したい人間という事だ。確かに何時もの僕なら受けそうな話だ。ただ、今の僕は無理だ。

 

「僕の場合は、自分で決められることじゃないからね。エストは入試をするつもりがないみたいだ」

 

「才華さんなら、受けた方が良いと勧めるんじゃないかと思って」

 

「勧めたよ」

 

 伯父様と話をする前にね。

 

「だけどエストにその気はないみたいで断られた。今はあまり良いデザインが描けないからって」

 

 今思えば、入試を受ける選択をエストが選ばなくて良かった。

 正直言って、今の僕の心理状態じゃ入試に集中出来るとは思えない。入試会場にいる受験者全員を調査員じゃないかと思って疑い、入試に集中出来ずに酷い成績を晒すだけだ。

 それはアーノッツ家の息女であるエストの恥にもなってしまう。使用人の技量も主人の名誉に響くんだから。

 

「良いデザインが描けない? 確か彼女は、お兄様とデザインの交換をしていましたね。あまり出来が良くないのですか?」

 

「ううん、僕は良いものだと思っているよ。以前にコンクールで入賞した彼女のデザインと比べても遜色のない出来栄えだと思う。だけど、主席を取れる実力じゃ無いから今は良い、とエストに言われたら、僕はそれ以上強く求める事は出来ない」

 

 あの時は内心では不満に思ったけど、今はエストの判断を心から称賛する。

 冗談抜きで、今の僕じゃ入試なんて受けられない。失敗したら不安で倒れて、そのまま病院に運ばれて正体がバレていたかも知れないんだから。

 

「まあ、そう……なるね。拒否している相手に重ねて勧めたんじゃ、才華さんが受験させたいだけになるね」

 

 僕はあくまで従者であり、エストが主人。この関係を壊す訳にはいかない。

 それに、入学式で挨拶をすれば、教室内での『格』が上がり、僕の主人として相応しい視線を浴びることになると考えた。ただ『格』には、実力と同等に本人の意思が必要だ。

 エストにその気がなければ、意味が無いんだ。

 これ以上はエストがいないこの場では無意味だと思い、アトレに同じ質問を向けた。

 

「私も学年の代表には興味が無いので入試は受けません」

 

 アトレはフィリア学院調理部門パティシエ科特別編成クラス。確かに入試を受ける必要は無い。

 彼女はその都度、周囲と比べて実力を計りたい僕やお母様タイプの性格ではなく、自分の技術と向き合う事が好きなお父様に似た性格だ。

 

「服飾部門の入試は明後日だって」

 

「そう……合格者が決まったら、アトレに調査をお願いしたい。桜小路や大蔵の関係者、その他にも僕が生活する上で危険を及ぼす人物は居ないか。限界はあるけれど、入学までに出来るだけのことはしておきたい」

 

「分かりました。お兄様の望みを叶えるのは私の喜びです。役目を与えて頂いた事に感謝します」

 

 本当にお願いするよ、アトレ!

 多分調査員は、調査の優先対象であるエストがいる服飾部門の特別編成クラスに入って来るだろうけど、意表をついて一般クラスに入って来るかも知れない。

 総裁殿の権限があれば、一般クラスの方に合格者と偽って調査員を紛れ込ませる事ぐらいは簡単に出来る。そもそも調査員に関しては、学院からの派遣者という立場があるので、それこそ男性でも問題は無い。

 ……いや、無理かも知れない。今の服飾部門には男子部が無いんだから。

 僕並みかそれ以上に女装が上手い人でもない限り、服飾部門に男性が入って来るのは無理だ。

 自慢じゃないけど、僕が知る限り、女性と見間違えるほどに女装が上手いのは僕本人と、トラウマとなっているあの日のお父様ぐらいだ。もしも壱与みたいな体型の男性が、女の園と言える服飾部門にいたら、即座に調査員だと分かってしまって、調査員の意味がない。

 ……僕的には凄く助かるけど。

 後は……。

 

「そうだ、ルミねえ?」

 

「何?」

 

「ほら、確か僕をエストに紹介する時に、服飾部門の特別編成クラスを志望している人を調べたんだよね。だったら、その時のリストとかないかな?」

 

「あるけど……どうしてそれが必要なの?」

 

「今アトレに頼んだ合格者の名簿と照らし合わせれば、誰が特別編成クラスを志望しているのに入試を受けたのか分かると思うんだ。全員じゃないだろうけど、少しでも早く同じクラスになる人達の名前は知りたいから」

 

「なるほど。分かった。本家から戻って来たら渡すね」

 

「うん、お願い」

 

 恐らくルミねえの事だから、個人的な資料を複数コピーしている事はない筈。

 今言った確認の為や、もう意味はないかも知れないけど少しでも証拠となる物は処分しておくべきだ。

 これで話は終わりだと思い、ルミねえと僕は椅子から立ち上がろうとする。

 

「あっ!」

 

 立ち上がろうとしたところで、アトレが口を開いた。

 あ、危なかった。後ワンテンポ遅れていたら、無駄に立ち上がって座り直すところだったよ。

 

「どうしたの、アトレ? まだ、何か僕とルミねえに話があるの?」

 

「はい。明日はマンションの内覧会があります」

 

「うん。先月から何度もやってるね」

 

 大家の一人として予定表を受け取っている僕も日程は知っている。

 だけど、それはもう何度もやっている事なんだから、今更気にする事じゃない。

 

「明日の入居予定者の中に、フィリア学院の生徒がいるんです」

 

 それは聞いておくべきだ。

 同じクラスとなる人間が居た場合は、接し方に気を付けなくてはいけない。何しろ僕は、一度見ただけでも忘れられない特徴だらけの人間だ。

 他の部門の生徒や一般生徒なら、問題はないけれど、このマンションに入る人間は富裕層なのが前提だ。つまり、特別編成クラスの可能性が高い。

 ……伯父様から教えられたこのタイミングで、『桜の園』にフィリア学院の生徒が来る?

 もしかしたら入学を待たずに、調査員が動き出しているのだろうか。

 いや、そうとは限らない。伯父様の話が本当ならあくまで調査員の目的は、『此処最近のフィリア学院内における生徒同士の競争の激化に関する問題』に関してだ。

 エストを調べるのなら、態々フィリア学院に生徒に扮して調査員を送る必要は無い。それこそ、探偵でも雇えば良い筈なんだ。

 ……疑心暗鬼になっているのを感じる。このままだとこの場にいる三人か、壱与やエストしか僕は信じられなくなってしまうかも知れない。

 とにかく、今はアトレの話を聞こう。

 

「何科の生徒?」

 

「演劇部門の女優科です」

 

「なんだ女優科。それなら仮にマンション内で僕と会話があっても、学院内で出会う事はなさそうだね」

 

 心の底から安堵した。

 服飾部門に入る人物だったら要警戒対象だったけど、他の科なら問題は無い筈だ。

 ……だよね?

 

「どうなんでしょう。何分有名な方なので、近づかないことに越したことはないのかもしれません。才華お兄様やルミねえ様も名前ぐらいはご存知の筈です」

 

「私も知っている……と言う事は、大蔵家と繋がりの家の方?」

 

「どうでしょう。大蔵家との関わりまでは存じませんが、八日堂(ようかどう)という家に聞き覚えはあるでしょうか?」

 

「名前程度は。確かそれなりに大きな学校法人だよね。ただ大蔵家とは繋がりは薄かったと思う」

 

「僕の記憶では、規模は桜小路本家と同等ぐらいだった覚えがあるけど」

 

「それは間違いないようです。大蔵家と比較になるような規模の家ではありません。ただ、マンションに入居するフィリア学院生という事で念の為に彼女の実家を調べましたから」

 

「あれ? でも、アトレさんはその八日堂家の者を、私や才華さんが『ご存知の筈』って言わなかった? 悪いけど、私八日堂家の人間に知り合いなんていないわよ」

 

「僕もだよ」

 

「その八日堂家のフィリア学院生には本名以外にもう一つ名前があるんです。お二人は『イトウ・サクリ』をご存知ですか」

 

「『イトウ・サクリ』!?、私じゃなくても、今は日本人の殆どが知っているあの人が!?」

 

 ルミねえが驚いている。

 僕も驚いた。『イトウ・サクリ』は全米を震撼させたり泣かせたりした映画に出た女優の芸名だ。

 日本のメディア事情は詳しく知らないけど、アメリカでは子役の頃から注目されていた。日本人の子供が海外で活動している時点で貴重だったからだ。

 まさか、その人が明日の内覧会に来るなんて!?

 

「彼女の本名は、『八日堂朔莉(ようかどうさくり)』です。歴史ある名家の一員でありながら、海外で活躍する映画女優でもあって、更に今回は何故か日本の一演劇学校へ進学するという。型破りな一風変わった性格の女性です」

 

「何その聞いているだけでワクワクする楽しそうな性格の女の人」

 

 正直、今の状況でなければ直接会ってみたいと思えるような人だ。

 

「普通は逆の感想だと思う。明らかに偏屈で気難しそうに聞こえる。良く言えば天才だけど、悪く言えば……変人?」

 

「変人なのは僕もルミねえも同じだよ。類は友を呼ぶ」

 

 ……グハッ!

 思わず自分の言った言葉に、内心で血を吐きそうになった。

 今更ながら、何時もの僕がルミねえに言っている言葉に胃が痛い。

 こんなに何時も甘えていたんだね。ごめん、ルミねえ。

 僕の心情を知らないルミねえは、半眼になって睨んで来た。

 

「え。私の変人度、女装してる男の親戚と同じ扱い? どういう基準? 私何かした?」

 

 何もしてません。でも、何時もの僕なら。

 

「ルミねえは困った顔が一番可愛い。僕はルミねえを困らせるのが大好きなんだ」

 

 ……ハハ、こんなのひい祖父様に知られたら、僕の命はないよ。

 

「頭大丈夫?」

 

 ご尤もです。

 

「今この場にいるのがお兄様で良かった。もし朝陽お姉様が他の女性を指して可愛いだなんて言ったら、嫉妬に狂って脇腹にダイレクトアタックもありえました。九千代、包丁の仕舞ってある場所をあらかじめ教えておいて」

 

「殺人の罪は死刑又は無期若しくは5年以上の懲役!」

 

 鬼気迫るアトレの様子に、僕とルミねえは肩を抱き合って震えあがった。

 じょ、冗談だよね! さ、流石に冗談だと思いたい!

 

「そう言えば八日堂朔莉さんに関しては、同性愛のケがあるという噂を聞いた事があります。ゴシップ記事程度の信憑性のない話ですが。そんな訳で、朝陽お姉さ……才華お兄様は近づかない方が良いかも知れません。恋愛対象としてみなされたら脇腹の可能性もあります」

 

「お父様やお母様に似ている僕は美人だろうけど、それでも恋愛対象となることはそうそうないと思うよ。同性愛というものは、相手の中身を重要視するんじゃないかな……後、そろそろ本気で怖いから脇腹ネタは止めて」

 

「外見のみで恋しているアトレさんの前で、その言葉は説得力がないよ」

 

 うん。言われてみればそうだね。

 後、ルミねえ。多分冗談なんだろうけど、そろそろアトレの朝陽に対する恋ネタも止めて欲しい。

 アトレが本気の訳が無いじゃないか。ただの場を和ませるだけの冗談だよ。

 ……さっきの包丁と脇腹のネタは本気で怖かったけどね!

 

「分かった。明日は部屋で大人しくしてるよ」

 

 よくよく考えてみると、相手は本物の女優なんだから演技の天才だ。

 もしかしたら僕の正体に気がつくかもしれない。君子危うきに近寄らず。

 さて、そろそろ本当にお暇しよう。

 ……だけど、その前に一つだけ確かめておこう。

 

「ところでアトレ?」

 

「何でしょうか、お兄様?」

 

「……まさか、小倉さんに対しても包丁はやらないよね」

 

「いやですね、お兄様」

 

「そうだよね。良かった」

 

「朝陽お姉様を惑わす小倉さんに対しては、包丁なんて生温い刃物じゃなくて、切れ味抜群のサバイバルナイフをご用意してあります」

 

『……』

 

 僕とルミねえは無言で立ち上がり、九千代は背後からアトレを羽交い絞めにした。

 そのまま僕とルミねえはアトレの部屋の中を家探しして……本当にサバイバルナイフがあった!

 ……拝啓、アメリカにいるお父様とお母様。最近僕の妹が、怖いです。

 

 

 

 

「地下のカフェのコーヒーゼリーが話題みたいね」

 

 ……先日会った銀条さんがそんな事を言っていた気がする。

 もうこの時点で嫌な予感がして来た。

 

「早速行きましょう。朝陽さんには、私がご馳走してあげる」

 

 今日は見知らぬ人。しかも女優さんが来るから、外へ出たくないと思っていたのにこの主人は。

 

「コーヒーゼリーなら私が作って差し上げましょうか? 美味しいですよ」

 

「コーヒーゼリーの味って誰が作っても似たようなものじゃない?」

 

「意味がわかりません。それならお店で食べるのも、私が作るのも同じと言う事じゃないですか。味がそれほど変わらないのなら、部屋で寛ぎながら食べましょう。わざわざ地下へ行くだけの労力を使う必要はありません。さ、ぐーたらしますよ」

 

 何時も君がやっている事だろう、エスト。

 今日は幾らぐーたらしていても良いから、部屋に居よう。

 願う僕に対して、エストは数枚のデザイン画を差し出した。

 ……誰が描いたものか言うまでもない。僕が描いたものだ。

 

「朝陽さん。本当に此処数日どうしたの? 正直何時もの朝陽さんのデザインとは思えないぐらい酷いよ」

 

 うん。僕自身も分かっている。

 消えない不安のせいで、デザインが上手く描けなくなっているのが分かる。

 だけど、その理由をエストに語る事は出来ない。

 僕のせいで、貴女の実家が消えるかもなんて、口が裂けても言える訳が無いよ。

 

「……申し訳ありません」

 

「何か悩みでもあるの? もしかして私が入試を受けるのを断った事が原因?」

 

「いえ……」

 

 本当の事は話せない。

 だけど、親切なエストが、僕を本当に心配している事は良く分かる。

 ……小倉さんが言っていたのは、この事だったんだ。エストが本気でデザインに取り組んでいるのは、充分に分かっている。そのエストの人生が、僕という存在のせいで傷をつけてしまう。

 本当に僕が立っている場所は、崖っぷち寸前だったという事を思い知らされた。

 前に進んだとしても、その崖は僕を追って来る。

 

「ねえ、本当にどうしたの?」

 

 エストの優しさが辛い。

 でも、本当の事を言えない僕は、彼女を誤魔化す。

 

「その……実は私、今……あ、あの日(・・・)なんです! それで私、結構重いものですから!」

 

 ウワーー!!

 この手だけは使いたくなかった! 事前の予定だと軽いものにする筈だったのに、重くしてしまった!

 結構恥ずかしい!

 エストは僕の言葉に考え込むような顔をして、注意深く見つめて来る。

 頼む! どうかこれで通って!

 

「……そうなんだ。分かった。そういう事にしておくから、気分転換に地下のカフェに行こう」

 

「……はい」

 

 流石に無理があり過ぎた。

 でも、深くは聞いて来ないエストには感謝したい。

 

「悩んでいる事があったら、相談には乗るからね」

 

 ……本当にエストの優しさが今は辛い。

 こんなに良い人を騙している事実は、心が痛くなる。まだエストと直接会ってから、一か月も経っていないのにこれほどに痛みを感じるなら、もっと長く一緒に居たらどれほど辛くなるんだろう?

 

『共に過ごして行けば必ず信用や信頼は培われます。そして真実が明らかになった時に知るんです。『何て事をしてしまったんだろう』って』

 

 ……小倉さん。貴女は正しかった。

 地下に向かう為のエレベーターにエストと共に乗りながら、背後から圧し掛かって来る不安に僕は耐える。

 

「あ、降りて来たついでにコンシェルジュさんに買い物を頼んで来る。朝陽さんは日の当たらない所で待ってて」

 

 完全に油断してしまった!

 エストがパネルに手を伸ばした時点で止められなかった事を悔やみながら、僕もエントランスに足を踏み出した。

 従者という立場上。主であるエストを残して、一人だけで地下に行く訳には行かない。せめて目立たない場所に移動して、後はアトレと客人がエントランスに居ない事を願おう。

 

「お姉様!?」

 

 ナイスタイミング。声のした方には、僕の妹であるアトレと、脱色しているのか青紫っぽい髪の毛の女性が立っていた。

 会ってしまったのなら仕方が無い。極めて事務的な挨拶をして乗り切り、可及的速やかに地下のカフェにエストと共に行こう。

 妹の隣に立っている女性は、間違いなく映画で見たままの『イトウ・サクリ』こと『八日堂朔莉』だ。映画で見た時は黒い髪だったけど、今は青紫っぽい髪をしている。髪の事で人の事は言えないけど、随分と目立つ色に変えたものだ。彼女自身の趣味だとしたら、やはり少し、変わっているのかも知れない。

 その件の八日堂朔莉が僕に視線を向けて来た。

 

「桜小路さん、彼女はお知り合い?」

 

「あ、はい。ごめんなさい、私のお姉様と言うか……お慕いする方です。あああ、見ているだけで跪きそう。好き好き大好きなお姉様ぁああん」

 

 お願いだから、初対面に等しい人の前で言わないで。

 後で兄として『人前で過剰な憧れを見せるのはやめよう』と教えよう。相手が真っ当な感性を持つ人物なら、今のアトレの言動は確実に良い印象に繋がらない。

 相手が変人ならば別だろうけど。

 

「そう、桜小路さんのお姉様。挨拶の途中でごめんなさい。彼女と少し話したいのですけど構いませんか?」

 

「あ、構いませんよ。お姉様は人と話す事が大好きな方なので喜ぶと思います。どうぞ」

 

 ……ごめん、アトレ。

 今は初対面の人とは話をしたくないんだよ。相手を先ず疑ってしまうから。

 だけど、僕の心情を知らない八日堂朔莉は、不敵な笑みを浮かべながら僕に近寄って来た。

 

「お互い同性として妊娠してくれませんか」

 

 あ! もうこの言葉だけで分かった。

 この人、ただの変人だ。しかもアトレが言っていたゴシップ記事程度の噂は真実みたいだ。

 本気の目をしている事から、同性愛者である事は疑いようがない。僕を男だと見抜いていなければだけど。

 でも、僅かに安堵も覚えた。こんな変人の人が調査員として使われる訳が無い。

 因みに、僕は変人には偏見がない。お母様も変人だし、幼い頃からエキセントリックな人は山ほど見て来たからだ。

 

「あなたに一目惚れしました。私の子供を産んでください」

 

「申し訳ありません。同性間で子孫を残す事は、現在の医療技術において不可能です。それと今の告白は、一昨年公開された『マツオカが退場するぞ』にあった映画のセリフでしょうか? あの映画は大変素晴らしかったです」

 

「私の演技に感動したという事は、極めて肉体的に私の求婚を受け入れて頂けるという回答ですね」

 

 そんな事は言ってません。

 どうやら僕は彼女に愛されている事だけは理解出来たけど。本来ならそれだけで好意を持つに値する。

 だけど、今は警戒心の方が強い。積極的に迫っているのは、僕の正体を探る為ではないかと疑ってしまう。

 面白い人だとは思うけど、距離を置いた方が良い人なのは間違いない。

 

「求婚を受け入れてもらえるのなら、私達が次に取るべき行動は徹底的に一つです。非常にセンシティブな問題となりますので、他に人のいない場所で生物学的に自然な求愛行動をしましょう」

 

「申し訳ありません、私は今業務中です。雇用主の許可なしに勝手な行動は取れません」

 

 何より、求愛行動なんてしたら正体がバレてしまう。

 ……やはり、この人は調査員なのだろうか?

 

「業務中? 雇用主? あなたを買えるのなら金に糸目はつけない。今支払われている金額の倍の給料に、性的奉仕代ぶふっ! ごめんなさい、ちょっと下品な物言いだった。特殊個別奉仕業務料金を上乗せする」

 

「私は現在の雇用主と契約を交わしています。一度仕える事を誓った以上は、金額の多寡に関わりなく、今の主人の下を離れるつもりはありません」

 

 何より離れたりしたら、エストを調査に来る調査員を見つけられない。

 八日堂朔莉が入る科は演劇部門だし。確かに彼女に雇われれば、僕は逃げられるかも知れない。

 そんな事は許されない。エストを護る為には、僕が調査員を見つけて説得するしか手段はないんだから。

 

「何だか中世の侍のような事を言うけど、それは相手から良いように……うん? その目。まさか、何かその雇用主から離れられない事情でも本当にある」

 

 この人、鋭い!

 一見すれば痛い言動しているだけの人に見えるけど、世界的に認められる演技力を持つ人だ。

 今の彼女の言葉に、僕の主人であるエストが訝し気な視線を向けて来ている。此処は誤魔化さないと、今後のエストとの関係に影響が出てしまう!

 

「私が今の主人に仕えているのは、同じ夢を目指し、その目標を叶えるだけの実力を彼女が有しているからです」

 

「フッ」

 

 八日堂朔莉は満足そうに笑った。この手の理由もなく勝ち誇った笑みを浮かべる人種は嫌いじゃない。

 やすやすと折れない心を持っていると尚好ましい。

 

「誇り高い女性が好き。簡単に屈しないプライドを宿していると、より好き。屈服させて従えた時の高揚と爽快感が得も言われぬものになるから」

 

「あ!」

 

 今の言葉でハッキリした。八日堂朔莉は共通の趣味を持つ同志だった。

 思わず警戒心が下がってしまい、喜びの声を漏らしてしまった。

 僕の声に彼女も察したのか、僕達は同じ愉しみを分かち合える人間と巡り合えた事を互いに祝した。

 

「私の変態的な言動に付き合ってくれる相手は日本だと初めて。こんなに嗜虐心をそそる相手も初めて。貴女が自主的に跪いてくれるのなら他には何も要らない」

 

 そのお気持ちを理解した上で無視するのがたまらなく快いです。

 という意味を言外に込めて微笑みで返した。

 ……ちょっと危ないという気持ちはあるけど、彼女との会話は楽しかった。

 

「ぜひ貴女の雇用主とお話ししたい。金銭で折り合いが付くのなら、それが一番手っ取り早いでしょう。貴女が抱えている事情にも、力になれるかも知れない」

 

 ……警戒心が戻った。

 この人はやっぱり油断ならない。

 もしかしたらと思った瞬間、彼女から薄ら笑いが消えた。

 やっぱり、この人が!?

 

「あ、だけど一つ確かめさせて。その、貴女の、なのだけど」

 

「……な、何でしょう?」

 

 僕の正体に気がついたのか?

 だとしたら、すぐにエストを引き寄せて逃げよう。その後にもう全ての事情を話して……どうすれば良いんだろう?

 悲壮な決意を固めきれない事に僕は苦悩する。

 

「気を悪くしないで貰いたいのだけど、私にとって、とても大切な事だから」

 

「……な、何度も性的な欲求を一方的に告白されているのですが、それ以上に遠慮を覚える質問とはなんでしょう? 寧ろ気になりますから……ど、どうぞ何でも聞いて下さい」

 

「じゃあ聞くけど、その髪の色は地毛? それとも脱色して染めたもの?」

 

「……髪の色ですか?」

 

 予想外の質問に力が抜けそうになってしまった。

 どうもこの人は僕の髪に興味を惹かれているみたいだった。目に至っては真剣のようだけれど、これはどちらだ?

 結果が悪きならば極めて、今後彼女には事務的な対応に終始しよう。ただしこの彼女の興味が良きもの。好意的なものであったのなら……彼女への警戒心を弱めよう。

 

「私の髪は生まれつきのものです」

 

 どちらだ?

 彼女は大切な質問だと言った。もしかしたら彼女の青紫色の髪も地毛? 近い髪色の人間に出会えて嬉しかった?

 ……いや、それはない。人間の髪に青紫のような寒色が備わる事はありえない。暖色か、僕と同じ特別な体質で色が全く無いかのどちらかだ。

 青紫色の地毛は無い。つまり、彼女は髪を染めている。

 しかも、僕の髪に興味を示したという事は、自分の髪の色素を出来るだけ抜いている。という事は。

 

「私の髪をジッと見てどうしたの? これは地毛ではなく染めて出した色。脱色を二回して、その上に色をのせてそれでもこれが限界だった私の到達点」

 

「もしかして『白髪性的嗜好(フェチ)』の方ですか?」

 

「心からのイエス」

 

「映画に出演した時は、テンプレ的な日本人像を必要としたから、黒く染めたのですか」

 

「イエス。理解が早くて素敵」

 

 八日堂朔莉は自分の髪を一束摘んで僕に差し出して来た。

 

「この色は驚くほどの早さで褪せて行くから、二週間に一度はカラーリングをしてる。瞳の色も髪の色に合うコンタクトを使ってる。みんな綺麗だと言ってくれる。でもね、比べれば一目で違いが分かる。見て、私の色は偽物。そして貴女の色は本物。とても綺麗。普段から大切にしているのも伝わってくる。私はその髪に恋したの」

 

 あっ、不味い。今胸がきゅんとした。

 『白髪性的嗜好(フェチ)』の相手も変態だと思うけれど、僕は僕で『自分の髪を誉められたい性的嗜好(フェチ)』の変態だ。

 僕の髪、と言うかお母様の髪は世界一美しいのだから、誉められるのは当然だと言える。

 その髪に『綺麗だね』以上に、此処まで興味を持って貰える事は珍しいので、多少なりとも僕は興奮を覚えた。

 

「本物と出会えた興奮に感動しているの。あらゆる体液が全身から溢れそう。人間はね、敵わない美しさから逃れられないと自らを貶めるの。汚くなれば浅ましさを隠す事が出来るでしょう。でも同時にね、うちょくしさ……ごめんなさい、興奮して噛んだ。私は俗に言う変態ではあるけど、軽い気持ちでナンパしたのではなく、貴女の美しさ。主に髪だけど、その磨かれた白さに心から惹かれて告白したのだということ。もう一度言うけど、貴女に一目惚れしました。乱れあいましょう」

 

 ……いよいよ何を言っているのか良く分からないぞ、この人。

 だけど、間違いなくこの人は調査員ではない事は確かだ。これまでの言動が証明している。

 その事実に内心で安堵しながら、この人が向けている好意に関して悩んでしまう。

 全肯定したい所ではあるし、この髪を認めてくれたからお友達になっても良い。だけど、一目惚れと言うか、恋に関する部分は僕には無理だ。元々僕自身が女性に対して性的興奮を覚えられないのもあるけど……今はあの人の顔が浮かんでしまう。

 ……最近思う。僕はあの人を通して、お父様を見ているのだろうか?

 それとも……あの人自身を見たいと思っているのだろうか?

 答えはまだ出ない。だけど、今、僕が八日堂朔莉に対する答えは一つだ。

 

「申し訳ありません。お友達としてならともかく、性的関係に及ぶ関係は無理です。何より今は仕事中ですので」

 

「仕事中?」

 

 八日堂朔莉は、僕の背後に立っているエストに顔を向けた。

 

「貴女が彼女の雇用主? 薄汚い大人の話をしましょう。ん?」

 

 名乗りもしないまま、僕の主人に向けて三本の指を立ててみた。三百万で僕を買うつもりだ。

 

「3億?」

 

「ん?」

 

「3億で彼女を買うの?」

 

 八日堂朔莉はニッコリと笑った。少し悔しさの滲み出た笑顔だった。

 

「朝陽さん。3億も貰えるのなら、一度くらいはお相手してもいいんじゃない?」

 

 ただでさえ非常識な値段にも関わらず、エストが認めたのは一夜の夢だった。

 一晩のお相手としては歴史上最高額かも知れない。

 

「エストお嬢様。残念ながらどれだけ積まれようと、金銭で誇りを売るつもりはありません。たとえ3億ユーロだされても拒否させて頂きます」

 

 日本円にして425億円ほどになる。このマンションが丸ごと買える値段だが、僕はたとえ一夜でも誰かに体を渡すつもりは無い。

 此処で更に追い打ちを掛けて、八日堂朔莉に金銭では無理だと思わせなければ!

 

「失礼。お嬢様のご実家は、現在ロンドンにありました。3億英ポンド、日本円にして517億ですね」

 

 これなら流石に変態の八日堂朔莉でも諦める筈だ!

 ……因みに、小倉さんに会えるのなら、僕は3億英ポンドを支払う気はある! 貯金は全然足りないけど。

 

「このように言っています。当家は従者のプライベートな時間にまでは干渉しない方針ですから、合意の上なら恋愛はご自由にどうぞ」

 

 ……酷いです、僕の主人。せっかく八日堂朔莉の手から逃れられそうだったのに。

 ほら、貴女の言葉を聞いた八日堂朔莉が笑みを浮かべてますよ。

 

「ありがとう。この方の雇用主だけあって素敵な人。むしゃぶりつきたくなってしまう」

 

「私なら3億ドルでお相手します。何でしたら主従共々可愛がっていただいても」

 

 ……すいません、エストお嬢様?

 僕の言葉を聞いていましたか? 僕は幾ら積まれても体と誇りを売らないと言ったんですよ。

 それなのにセット販売みたいに言ったら……。

 

「お姉様にお相手して貰える……それがたとえ一夜限りの恋でも、夢をお金で買えるのなら……伯父様に500億を前借して、私の純情をお姉様に捧げて……きゃっ!」

 

 ほら、勘違いする子が出て来ました。

 後でアトレには注意をしなくちゃいけない。

 九千代に羽交い絞めにされているアトレのあるまじき顔を見ながら、僕は思った。

 ……羽交い絞め?

 

「アトレお嬢様は、何故羽交い絞めにされているのですか?」

 

「あ、朝陽さんが告白された時点で、包丁を探し始めたからです。お嬢様、お客様に対していけません!」

 

「はっ、そうでした……八日堂様、人のものに手を出そうとするのは失礼です」

 

「はい。私はエストお嬢様の従者です」

 

「いえ、私のお姉様です。あらかじめ言っておいたのに、八日堂様ったらぷんすかアングリー」

 

「靴を舐めれば許していただける?」

 

 それで本当に屈辱になるのならやらせてみたいけど、この人、SだけどMも兼ねていそうだから、逆に悦ばしかねない。中々に手強い人だ。

 

「この女性は新しくこのマンションへ入居するお方?」

 

「そうなんです。今日は部屋を見て貰う予定で……あ、まだ案内を始めていませんでした。申し訳ありません、お時間は大丈夫ですか?」

 

「勝手な行動をとったのは私でしょう。それでも謝りたいと言っていただけるのなら、跪いて靴をお舐め」

 

「八日堂のお嬢様。冗談にしても度が過ぎるのではありませんか」

 

「ごめんなさい、包丁を持ち出そうとしてるだなんて聞こえたから。この程度の冗談は許して貰えると思って、つい」

 

 これは言い返せない。

 明らかにアトレの方が、冗談では済まない事をやろうとしていたんだから。

 九千代が、悔しそうに俯いた。

 

「でも、それが普通の感覚だと思う。真面目な人は好き。ええと時間? 畠山さん、この後のスケジュールは?」

 

「15分後には出版社へ着いている予定でした。部屋の確認は30分で終える計算でしたから、いま担当者に謝っています」

 

 待機していた管理会社の人と一緒に居た金髪でスーツ姿の女性が、八日堂朔莉に報告した。

 

「そう。ただ、遅刻は免れないけど、大幅な事にはならないと思う。桜小路さん、せっかく時間を取っていただいたのに申し訳ないのだけど、次の予定が押してるから、部屋の確認は止めにしていい?」

 

 アトレよりも、待機していた管理会社の人間が驚いた。

 オーナーの知人と聞いてコントが終わるのを我慢して待っていたのに、それで契約の済んでいない入居の申し込みを取り消されたらたまったものではないだろう。

 でも、そんな事にはならないと思う。何せ、契約主である八日堂朔莉は不気味なほど機嫌が良さそうな薄ら笑いを浮かべているんだから。

 契約の成否はもう決まっていると見て間違いない。

 

「どんな部屋でも、来月から此処でお世話になる事にする。これほどのアバンギャルドな方たちがいるなら、日本での暮らしが楽しくなりそう。念の為に確認するけど、貴女達はこのマンションに入る予定? それとももう入居しているの?」

 

「はい、私達はもう此処で暮らしています。65階が私の部屋です。従者の朝陽は2階に部屋があります」

 

 僕の部屋を教えるな!

 ほら、八日堂朔莉が自分の唇をじゅるりと舐めまわしているじゃないか!

 ……ストーキングには気を付けよう。最近、アトレも怖いし割と本気で。

 

「朝陽さん。そのお嬢さんの名前は朝陽さん。名字じゃなくて名前を知られるなんて嬉しい。今日の夜を一人で過ごす寂しさは、貴女の名前を叫びながら絶頂する事で慰める」

 

 お願いです。その名前で、その行為をするのは本当に止めて。

 小倉さんが知ったら、僕は確実に嫌われるから。

 ……あっ、もう嫌われてるよね。だから、あの人はお父様やお母様から逃げたんだろうし。

 ……本当にどうしよう。

 

「あ、朝陽さん? 急に顔を壁に押し付けて、どうしたの?」

 

「……す、すみません。お嬢様。少し休ませて下さい」

 

 もう罪悪感とか申し訳なさで、本気で辛い。

 再会した時に、本当にあの人にどうやって謝ったら良いんだろう。

 

「桜小路さん。悪いんだけど、時間が押してるから、失礼するわ。後でお詫びに私の実家の名物をお送りする。此処にいる皆さんで食べて。ままかりの酢漬け……それと」

 

 八日堂朔莉は急に僕の耳もとに近づいて来た。

 

「一つ忠告。そんなに周囲を警戒ばかりしていたら、貴女……潰れるよ」

 

 ハッとして僕は八日堂朔莉に顔を向けた。

 だけど、当人である八日堂朔莉は既に僕から離れていた。

 

「事務手続きはマネージャーに任せるつもり。じゃ」

 

「うちの朔莉がお世話になりました」

 

 マネージャーさんに背中を押される形で、八日堂朔莉はこの建物から出て行った。

 八日堂朔莉。……言動は変態的だが、彼女は間違いなく世界に評価された女優なのだと僕は感じた。




現在の才華の状態は、『乙女理論』の遊星に近い状態です。
ただ彼方と違って明確な悪意が襲い掛かって来てないだけちょっとマシぐらいです。

人物紹介。

名称:八日堂朔莉(ようかどうさくり)
詳細:『月に寄りそう乙女の作法2』のヒロイン。青紫色の髪をした美少女なのだが、言動が変態的。世界的な映画女優である『イトウ・サクリ』でもある。才華同様のSであるが、一方で若干ながらMの一面も持つ。本来の髪の色は黒なのだが、幼い頃に出会った『白銀の君』に初恋をして、その髪に少しでも近づけようとした結果、青紫色の髪になった。実家は岡山県で、中世の頃から教育に携わる八日堂家の娘。学校法人のある地元では最も権力がある名家である。桜小路本家とは仲が悪い。


『もしも三億英ポンドで朝日を一夜貸してくれと言われた人達の反応』

『敬愛する主人』
「ふざけるな! 朝日をその程度の金で貸せるものか! 例え幾ら積まれても、朝日は渡さない!」

『一途な幼馴染』
「駄目。絶対にゆうちょって言うか、朝日は渡さない」

『アイドル好きなお嬢様』
「朝日はお金で買えないわ! そんな最低な行ないをする人に、朝日を渡せない!」

『スイスの人』
「ふざけるのも互いしてくださいませ! 朝日は絶対に渡しませんわ! 欧州のジャンメール家を敵に回す覚悟は出来てますのね!」

『修道院の真心の人』
「人はお金では買えませんよ」

『黒いスーツの紳士』
「……追いつめて後悔させよう」

『お兄様』
「この屑があぁぁぁぁぁ!!」


「……大人気ですね、下の兄」

「ハハハッ、喜んで良いのかな?」

「因みに妹は、そんな事を言っていたあの甘っ……失礼。どこぞの誰かを二度と立ち上がれないように現実を叩きつけてやりますから、安心して下さい。具体的には今の女装姿の誰かをリボンでラッピングしてルナちょ……失礼。母親の下に送り返して上げます。妹、優しいですね」

「りそなが一番怖くて辛くて危険だよ」

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。