月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
『祝え! 時空を超え! 性別の概念を超越し! 過去と未来にその名を残す者!
『小倉朝日』の再誕を! 新たな伝説の始まりである!』
と言うのは冗談です。遂に入学式とタイトル回収です!
烏瑠様、lukoa様、獅子満月様、誤字報告ありがとうございました!
四月上旬1
side遊星
遂に来てしまった。
この日が……僕の新しい学院生活が始まるフィリア学院入学式の日が遂に訪れてしまった。
フィリア学院の制服も既に身に着けている。昔とデザインが変わってしまっているけど、また学院の制服を着られるのは嬉しい。
……いや、着ているのは女子の制服だから喜ぶのはどうかなと思ったけど。
本当なら、前の時の様に心の底から喜んで学院に行きたかった。
なのに、今僕は……。
「小倉様。動かないで下さい」
「……はい」
従者としてフィリア学院に一緒に通うカリンさんに、メイクを施されていた。
その様子を楽し気に眺めている二人の声が聞こえて来る。
「ククッ、妹よ。どうだ、我が娘の姿は」
「フフッ、言うまでもなく最高ですね。まぁ、ちょっと複雑な気持ちはありますけど、我が物顔でフィリア学院にやって来るあの甘ったれの驚く顔が楽しみです」
うん。もう思いっきり楽しんでいるよね、お父様とりそな。
こんなに仲良さそうにしている二人の姿は喜ばしいけど、その対象に僕が入っているのは、非常に複雑だ。
結局、住む為の準備や入学の為の手続きの為に3月中に『桜の園』に訪れるのは無理だった。
何とか時間を作って行こうとはしたんだけど、りそなに止められてしまった。
どうやら僕と才華様を入学式で会わせて、その驚く様子を楽しむつもりらしい。お父様にお願いしても、こっちはこっちでその時の光景が見たいのか、りそなの提案に乗ってしまった。
……あの頃の二人を知っているから、本当に二人が仲良くなってくれたのは嬉しいけど、こんな事で連携しないで欲しかった。
「遊星」
「はい、何でしょうか、お父様」
「事前に言っておいたが、ラフォーレには気を付けておけ。奴は間違いなく才華を狙うだろう」
「ラフォーレさん……ジャンの友人で、開業の頃にジャンを支えた『伝説の七人』の一人でしたね」
「その通りだ」
八千代さんが嫌っていた『ラフォーレ』という人物の話を、お父様から聞いた時は驚いた。
本名は、『ラフォーレ・ハンデルスバンケン』さん。僕の憧れの相手で友達であるジャンの友人。開業当初の会社を支えて、『始まりの二年』を駆け抜けた『伝説の7人』の筆頭。お父様とも学生時代に付き合いがあったらしい。
『伝説の7人』と呼ばれている人達は、お父様が言うには、現在では表立って活躍している人達はラフォーレさんと後一人だけらしい。ラフォーレさんは今でもジャンを支えている凄い人だ。
だけど、そんな彼には裏と呼ぶべきなのか、もう一つの顔がある。
それは。
「奴は才能を求めている。そしてジャン以上の天才を人工的に作りあげることが自らの野望となっている。才華の才能は、確実に奴の目を引くだろう」
「それは……」
「皮肉だと思わないか? 奴の考えを否定する存在が、この世界にいる。お前だ、遊星」
スカートの上に置いていた手を思わず握ってしまった。
僕は確かにお父様の言う通り、ラフォーレさんの考えを否定している。彼は優れた才能さえあれば、ジャンのようなデザイナーを作れると思っている。だけど、それは無理だ。誰よりも僕が証明している。
僕が桜小路遊星様の技術を全て得ても、桜小路遊星様には成れない。それを誰よりも実感させられた。
だけど、ラフォーレさんを説得出来るとは思えない。何故なら彼にとって、もう既に自分の人生を捧げて行なっている行為なんだから。だから、お父様も、そしてジャンも止める事が出来ない。
彼自身に与えられた呼び名は『狂信者』。この言葉だけでも不穏を感じる。
「あの甘ったれの事ですから、楽観視して挑発なんてしそうですね」
「ククッ、どうかな? 余程俺の豹変が怖かったのか、以前までの才華と違い、己の行為に責任がある事を理解したようだ。確かにまだ危ない面はあるが、奴は確実に成長して来ている」
「そうですかね? 私にはそう思えないんですけど」
「りそな。才華様を信じよう。最悪の場合は僕が助けるから」
「簡単には行きませんよ、あの総学園長は。私が幾ら嫌味を言っても、全然気にしていませんからね。それに学院で唯一調査員の存在を知っていますから」
「確かに。奴を相手にするなら油断は出来ん。それこそ愚かな行為だ。最悪の場合、奴は才華だけではなく、お前にも目を付けるかも知れん」
「……僕にもですか?」
一瞬言われた意味が分からなかった。
だって僕には才華様ほどのデザインの才能は無い。型紙だって多分、才華様の方が上だ。
お父様も才華様の型紙の腕は直接見た事が無いらしいけど、才華様は自前でオリジナルデザインのメイド服を二週間で作製したらしい。
……血の繋がりで言えば、実の子供に当たる相手にさえ負けてしまった事実と、メイド服を進んで着ている才華様には落ち込んだけど。
「奴は裏方の存在の重要性も理解している。お前ほど支える才能を持った者はいない。その才能に目を付ける可能性は充分にある。気を付けるのは才華だけではない。お前も警戒だけは怠るな」
「……」
「ん? どうした?」
「……いえ……お父様が僕に才能があるって言ってくれて、嬉しくて」
本当に嬉しかった。
この人に認めて貰えるのはやっぱり嬉しい。
……せっかくカリンさんがしてくれたメイクを台無しにする訳にはいかないから、涙は流せないけど。メイクがなかったら涙を流していたかも知れない。
僕の嬉し気な様子に、お父様は不機嫌な顔をする。
「チッ、失言だった」
「ムフゥ、上の兄。照れてますね? だから、私は昔から言っていたんです。下の兄には才能があるって」
「黙れ、妹。俺が認めているのはあくまでアメリカにいる我が弟の方だ。同一人物だから、その才能があると言っているだけだ」
何時か。そう何時か。
桜小路遊星様も加えて、四人だけで食事を取ってみたい。
本当は入ったらいけないのかも知れないけど、僕は三人の輪に加わりたい。
その為にもお父様に認められるように頑張らないと。
「終わりました」
……だけど、楽しい考えはカリンさんが差し出して来た鏡を見て砕け散った。
鏡に映った僕の顔は……綺麗だった。これで男なのかと自分でも思ってしまうぐらいに、綺麗だった。
……泣きたい。本当に戻れないところまで来てしまったと感じた。
桜小路遊星様。もう貴方に顔向けできないと思います。どうかお許し下さい。
「ククッ、コレならば入学式で多くの者がお前に視線を釘付けにするだろう。この俺の名も再びフィリア学院に轟く」
「……いや、ほんと。こんな光景を見る日が来るとは思ってませんでした……自分で提案した事が、こんな結果を生んでしまうとは……最早ドン引きを超えて、逆に感心するレベルです」
「難儀ですね」
……もう覚悟は決まった。
こうなる事は先月から分かっていたし、今更だ。学院に着いたら男子学生から目を向けられるだろうけど、その覚悟も出来ている。
……ただ告白とかラブレターとかがあったら、心が折れそう。街にでるとナンパされるのは日本に戻って来てからも変わらなかったので、結構怖い。
今の僕の気持ちはカリンさん風に言えば。
「はい。難儀なんです」
準備を終えた僕はカリンさんを伴って、お父様が用意した高級車に乗ってフィリア学院に向かう。
個人的には車じゃなくて徒歩で学院に行きたいんだけど、提案したらお父様のお叱りの言葉が待っていた。
『この大蔵衣遠の娘が、庶民のように歩いて通うなど、断じて認めん』
という訳で、僕はカリンさんを伴って高級車での学校通いが決まった。
……何処かでメイクを落としてフィリア学院に向かうという僕の考えは見抜かれている。だって。
「ククッ」
「ムフフッ」
もうこれ以上に無いと言うように楽しく笑っているりそなとお父様が、後部座席に座っている僕の左右に座って退路を塞いでいた。
りそなはフィリア学院の理事なので、今日の入学式で挨拶をする。現在のフィリア学院は部門ごとに学院長が居て、それらを纏めているのが総学院長であるラフォーレさん。
彼は言うまでもなく服飾部門の入学式での挨拶を行ない、りそなはお爺様からの頼みでピアノ科の挨拶を。
……そしてお父様は僕の保護者として、入学式に参列する。
アトレ様の方はどうなのかと聞いたけど、あくまでアトレ様と才華様は日本での保護者役に過ぎないから、お父様は参加が出来ないらしい。でも、僕に対しては養父という立場がちゃんとしているので、保護者として入学式に参加するのは問題ない。
もうこの時点で、僕は平穏で静かな学院生活を諦めた。
今でこそ趣味でしかデザインを描かないらしいけど、僕が知るお父様は服飾界では有名人物だ。
そんな人物と一緒にフィリア学院に入ったら、それだけで目を引く。
無名だった小倉朝日は、今日限りで有名になるだろう。既に政財界や服飾界の間では、あの大蔵衣遠が養子を取ったという話が流れているらしい。
……嫌だな。女装姿の、朝日としての自分が注目されるのは。
以前にフィリア学院に通った時は、ルナ様の付き人という立場でいられたから余り注目されなかったけど、今度の僕は令嬢という立場で通う事になる。
想像するだけで震えが来る。えっ? 立場が違うだけで、こんなに緊張感が変わるの?
「フフッ、今更分かりましたか、下の兄? 妹がどれだけ学校に行くのが辛かったのか。でも、妹は許して上げます。だってぇ、下の兄も同じ立場になったんですから」
「ごめんなさい、りそなさん。私が悪かったですから、虐めないで下さい」
指摘されると、更に緊張してくる。
誰かに助けを求めたいけど、この場で僕を助けてくれる人はいない。
「見えてきました」
助手席に座っているカリンさんに言われて、僕は座りながらりそな越しに見える窓からフィリア学院校舎を見た。
今日から僕は再び、フィリア学院に通う。こうしてまた通える事に高揚感を感じた。
何だか緊張感も薄れてきたような気がする。
これからの日々が楽しみだ。
「あっ、言い忘れていましたが、朝日。貴方が入る特別編成クラスの担任は、『小倉朝日』の事を全部知っていますから会った時は気を付けて下さいね」
「序でに言えば、一般クラスのデザイナー科の担任は、お前がフィリア女学院に通っていた頃の同級生だ。会う時には注意しておくんだな」
「ええええっ!?」
「難儀ですね」
side才華
寝起きなのに頭すっきり。
今日は頭の中が澄んでいるかのようにクリアだ。朝が弱い僕にしては珍しい。
寝不足という訳でも無い。昨日の夜もデザインしていたから、決して早く眠れた訳じゃないんだけどな。
寧ろベッドの中に入った後の方が苦労した。
失敗すれば今日で僕の人生だけじゃなくて、エストの人生まで終わってしまうかも知れないんだ。その不安が忘れられず、中々寝付けなかった。
睡眠時間はやや足りないけど、起きても意識がハッキリしているという事は、自覚は出来てないけど緊張しているんだろう。
日本での通学が初めてで、エストのフォローをしなくてはいけなくて、何より女性として学院に通う。
そして学生に紛れた調査員を見つける。恐らく今日中にエストと僕に接触して来る可能性が高い。
友好的な雰囲気を装って近づいてくるか、それとも距離を取って様子見をするのか。
どちらかは分からないけど、正体がバレる前に僕が先に調査員を見つけなければならない。
「朝陽、オッケー」
その為に自分の女装が完璧なのかをチェックし、鏡に映る髪を素敵に仕上げた。
鏡に映る僕はまるでお母様だ。はっ、それだと世界で一番素敵だと言う事になってしまうね。
「……って、見惚れている場合じゃない」
フィリア学院の女子制服を身に纏い、最後にもう一度鏡に映して自分をチェックする。
……うん。問題ない。これなら早々に僕が桜小路才華という男だという事がバレる事は無い筈だ。
……他に問題があるとすれば、やっぱりあの弱点。名字で呼ばれると動揺する弱点だろう。
「3月中に小倉さんが来てくれたら、良かったのに」
結局、3月に小倉さんが『桜の園』にやって来る事はなかった。
何時来ても良いように準備をしていたのに。
恐らくは総裁殿が、小倉さんが此処に来るのを阻んだんだと思う。総裁殿が小倉さんを大切に思っているのは、先ず間違いない。それが『小倉朝日』さんに対する感情なのか、小倉さん自身に対する感情なのか分からないけど、もしも僕が小倉さんを傷つけた事を総裁殿が知っているなら、同じ事をされるかもと警戒する。
……もうあんな事をする気はない。寧ろ謝りたくて仕方がないぐらいだ。
「……行こう」
小倉さんの事は気になるけど、今は入学式だ。
決意を固めた僕は部屋から出た。
「え?」
「あ」
部屋から出た直後に出会ったのは、アトレとルミねえ……それに変態だった。
「アトレ様とルミネお嬢様と、それに変態様がお揃いでいかがされたのですか?」
「ゾクリと来た。そういうのIYAじゃない」
「いや、今日は入学式だから、どうしてるかな? と思って」
「いやああああああ! 制服を身に纏ったお姉様、す、す、すて、すてーきいいいぃぃぃ!!」
「ウェルダン!」
「なんてレアな光景……こんな素敵なお姿を拝見できるなんて、ステーキ過ぎてこの身が焼け焦げそうです」
「焦がすならウェルダン!」
流石は入学式直前。映画女優として場慣れしている筈の八日堂朔莉でさえテンションが高い。
後、アトレ。別段僕の制服姿はレアじゃないよ。問題さえ解決すれば、毎日のように見られるようになるんだから。
「ま、きちんと起きているみたいで良かった。入学式に寝坊されたら、紹介した私の顔が泥だらけに……え、なに? ジッと見て」
てっきりルミねえは、僕の態度を厳しくチェックする為に来たのだと思っていた。
勿論それもあるだろうけど、どうやら僕の顔が見たかったのもあるようだ。だって、ルミねえの顔は自分でも気づいていないようだけどニコニコしてる。
なんだかんだ言って、彼女も新生活の始まりに胸をときめかせているらしく、誰かと会話したくなったのだろう。
その相手に僕を選んでくれた事は至上の……
「あっ、ちょっとリボンが曲がってる」
ルミねえは急に僕に近寄ってきて、リボンに手を延ばした。
……可笑しい。何度も鏡の前でチェックした筈だから、曲がっている筈がないのに。
疑問に思っていると、八日堂朔莉に聞こえないように小声でルミねえが話しかけてきた。
「今日の入学式。ピアノ科の方にお父様が来るから。後、総裁殿がピアノ科の入学式の挨拶をするよ」
……事前に教えて貰えて良かった。
部門ごとで入学式の会場は違うけど、ウッカリ鉢合わせしてしまう可能性はある。
服飾部門の入学式が終わったら、速やかに指定された教室に移動した方が良さそうだ。
「はい。直った」
「ありがとうございます、ルミネお嬢様。お嬢様の制服姿は凛としてご立派で、一個の女性として頼り甲斐が感じられますね」
「そ、そう? ありがとう」
他人にとって誉め言葉になるか分からないけれど、僕に頼られたいルミねえにとっては嬉しかったみたいだ。
「アトレお嬢様はMOFに選ばれたパティシエの作る極上のフレジエのように可憐です」
「お姉様……そのような賛美の言葉を私に……私は、アトレは、生涯の純潔をお姉様へ捧げると誓います……他の誰にも……そう忌々しいあの人にもお姉様は奪われたくありません……ただ、ただ、お慕い申し上げます……」
……一瞬アトレが黒くなったのは見間違いじゃない。
どんどんアトレの中で小倉さんに対する敵愾心が強まっている。あの人は何もしていないのに。
小倉さんとアトレが会う時は、気を付けないと。
「最後になってしまい、ついでのように聞こえてしまうかもしれませんが、八日堂朔莉様。そのお姿で、いつか虐めて差し上げます」
「私の嗜虐心を燃え上がらせてくれてありがとう。こちらこそ、いつか、貴女をその格好で穢してあげる。聖なる学び舎の、敬虔なる芸術の僕である事を示すその服装でね」
三人ともそれぞれ喜んでくれたようだ。
さあ、僕の主人であるエストを起こしに行こう。
インターホンを押しても当然のように返事がない。
流石はエスト。入学式でもブレないね。仕方がないから合鍵を使って部屋に入った。
当然のようにエストは全裸で寝ていた。この人は本当に凄い。ふてぶてしいと言うか、肝が据わっている。この点だけを見れば、僕以上の大物かも知れない。
「お嬢様、おはようございます。全裸で寝る時は、せめて靴下を履いて下さいといつも言ってるでしょう?」
「く、苦しい」
寝間着を着せようとしたら、それだけでエストは嫌がった。
この人の前世はナメクジだ。
「なんと言いましょうか、身体を休める為の服ですら窮屈に思うなんて、最早衣服の否定ですね。デザイナーの存在を全否定ですよ、我が主人」
「その声は朝陽さん?」
「えっ、服まで着せようとしているのに今更?」
「おはようございます……昨日は、早くに寝なくちゃいけないって分かってはいたの……だけど『初登校』をテーマにしたデザインを思いついたら、寝られなくなって……」
いい度胸しているなあ。
「……それに……朝陽さんが……驚くのが楽しみで……」
「ん?」
今何かエストは言わなかっただろうか?
だけど、当のエストはまた眠ってしまいそうにうつらうつらと船をこぎ出していた。
「さ、シャワーを浴びて、目を覚ましましょう。その間に朝食の準備をしておきます」
「……バスルームまで運んで」
「分かりました……本日はせっかくの入学式なのですから、優しい私で対応を」
「ノオォォォォ!!」
エストが起きた。
そのまま自分の足でバスルームまで逃げるように走って行った。
うんうん。それで良いんだよ、エスト。
このまま君を誇り高く教育してあげるよ。
「温かい紅茶がとても美味しい。登校前にゆっくりした朝の時間を過ごすのは最高ね」
とてもナメクジのようにさっきまでベッドの上で丸まっていた生き物の言葉とは思えなかった。
「どうぞ、塩です」
「紅茶に塩は合わないと思うけど?」
そうだった。ナメクジに塩は、元気をなくさせるだけだ。
塩もしまい、改めてエストと紅茶を楽しむ。
「朝陽さんがいてくれて良かった。一人では早起きなんて出来ないし、何時もギリギリに起きていたんじゃ、こんな時間は過ごせないもの。天気も快晴だし、今日は素敵な一日を過ごせそう。学院生活の始まりを良い形で迎えましょう」
穏やかで、機嫌も良さそうだ。最近はこんな朝が続いてる。
ここ数日の様子を見る限り、僕が送ったメールの内容は気にもしていないようだ。それともまだ見てないか。
或いはエストからすれば、既に桜小路才華はその程度の人物なのか。
……いや、それは仕方がないかも知れない。彼女が知っている桜小路才華の最大の情報は、小倉朝陽の評価を奪っていたという事実だ。この上で、現状を教えれば、桜小路才華は嫌われるでは済まないだろう。
恐らくだけど、彼女は僕がフィリア・クリスマス・コレクション後に全てを話せば……二度と顔も見たくないと言うに違いない。ソレだけの事を僕はしてしまった。
僕はもうそれを甘んじて受けるつもりだ。勿論本音を言えば、エストとはずっと仲良くしたい。
彼女とデザインの勉強をする日々は、至福の時だった。この日々を失いたくないと思うほどに。
だけど、それは駄目だ。たとえ彼女との関係が全て終わってしまうとしても、僕は真実を全て伝える。
それが僕に示せる最大の誠意なんだから。
でも、今だけは彼女との日常を楽しもう。
「目が覚めて日本語を使っている限り、本当に優雅で可憐な人だ。これで中身が伴えば、この人の隣で歩けることに、誇りすら覚えるだろう」
「思っていることが声に出ているよウフフ」
「申し訳ありません、余りに爽やかな外見と、さっきまでベッドでのたうっていた姿のギャップが激しくて、つい本音が漏れてしまいましたウフフ……ただ、そんな事を考えてしまうほど、制服を着たお嬢様は清々しいです。これがアイルランドの貴族なのかと、誰もが感嘆の息を漏らす事でしょう」
「ありがとう。だけど私も本音を漏らすと、実はとても心配なの」
「何が心配なのでしょうか?」
「朝陽さんに風格がありすぎて、どちらが主人か分からないと言われるのが心配なの」
「そんな事はありませんよ。当然の事過ぎて、今更心配するものではありません」
「またこのメイドは生意気でもう……でも、今は良い。フフッ、学院に着いてあの人に会えれば、この生意気メイドも驚くから、その時が楽しみ」
……どうにも今日のエストからは不穏な気配がする。
僕が目立つのは、あの美しい両親の血を引いているんだから当然だけど、それ以外にもエストが何かを隠している気がする。
その事を問いただしてみようと思ったと同時に、エストが口を開いて出鼻を挫く。
「でも最近ちょっと思うの。この自信に満ち溢れた朝陽さんが、私のデザインを見て心から感服をしたら、とても気持ちいいだろうなって」
「お嬢様は中々のSですね」
……この僕を心から屈服させようとは良い度胸をしている。そのくらいの気概のあるエストが、僕は大好きだ。
「そうだ。デザインで思い出した。今までデザイン画を描くのはこの部屋で事足りたでしょう?」
「はい?」
突然話が僕の想像しない方向へ転がり始めた。
「これからデザインをするのに、この部屋では手狭……という事でしょうか?」
服飾のデザイン画を描くだけなら、机と椅子があれば他にスペースはいらない。
エストの意図を図りかねた僕は、間違いだと分かっていながらも質問した。
「ううん、描くだけならここで良いの。私達はこれまで形ばかり考えて、実際に衣装は作ってこなかったでしょう? 授業が始まれば実際に服を作っていかなくちゃいけない。だから私達専用のアトリエとして、隣の部屋を改造したの」
「いつの間に」
毎日通っているのに、僕はまるで気づかなかった。
恐らくは僕が帰った後に、少しずつ作業を行なっていたんだろうけど。
「朝陽さんに知られると、貴女好みにカスタムされそうだからね。アトリエは私の好きなようにさせて貰ったの」
ご尤もだ。やっぱり作業するなら、自分好みにしたい。
二か月ほど付き合って、エストは僕の事を理解し始めているなと感心した。
エストに案内されて隣の部屋に移動した。
「この部屋。どう?」
「素敵です」
エストの言った通り『僕ならこうしたい』と言う希望は、頭に浮かんでいる。
だけどこの部屋がエストの理想としたアトリエで、この空間は彼女の創造を一番掻き立てる為の場所だと思うと、そのデザインの一端に触れた気がして胸がときめいた。
「世辞ではありません。このアトリエが出来上がる過程を見ずにいて、良かったと思うほどです。こうして完成形を見る事によって、なんの邪な感想も無く、お嬢様の創造の世界へ足を踏み入れた錯覚が出来ます。これからこの場所で、私達の夢の積み木を幾つも組み立てましょう」
「良かった。私の意思で最初にこのアトリエを見せた貴女が、喜んでくれる人で」
僕達はこの場所で、暫らく何も話さずに立っていた。
夢の始まりにこういう空気は合っている。
……だからこそ僕の決意は固まった。調査員を見つけたら、エストの安全だけは最初に懇願しよう。
彼女はあくまで被害者で、僕が加害者として利用していたに過ぎないと。
この隣に立つ人の未来だけは、護りたい。
「さて、気持ち良く部屋を出発したのは良いけれど……」
「どうしたのですか?」
せっかくいい出発が出来たと思ったのに、マンションから外へ出たところでエストは表情をゲンナリとさせていた。
「学院へ入る前の時点で、誰もが朝陽さんばかりを見ている」
「私が美しいだけですよ。ですがお嬢様も負けじとお綺麗です。さ、自信を持って」
日本人からすれば外国籍にしか見えない黄金と白銀の髪をした美人が二人歩いていれば、それは目立つだろうと我が事ながら思う。大変気分が良い!
でも本当にエストは心配しないで欲しい。確かにお母様譲りの美しい髪をした僕に視線を向けられる数は多いけど、エストにもちゃんと視線は向けられている。僕と並んでもエストが全く見劣りしていない証拠だ。
二人で歩けば、今日フィリア学院で入学を迎える誰よりも輝けるはずだ。だから胸を張って歩こう。僕達は無敵なんだから。
「フフッ、もうすぐもうすぐ……このメイドが驚く顔が見物。早くあの人と会いたいな」
……あの人?
「お嬢様。今の言葉は?」
「さ、行きましょう」
僕の疑問に答える事無く、エストは先に進み、慌てて付いて行った。
あの人とは誰の事なんだろう?
「きゃーーー!!」
「え? 何? なに今の悲鳴は?」
「悲鳴と言うより歓声に聞こえなかった? え、もしかして山県先輩やジュニア並みの美形がまた登校してきたの? 見たい見たい!」
「何だ? この俺ですら歓声までは受けてないぞ? 美形って一体、どれだけの奴が現れたと言うんだ? 興味があるな。どれ、俺も見に行って……ん? あれは!? おんっ……なのこおぉ!?」
「え、なになにあの人、外国の方? 綺麗綺麗髪の毛真っ白で肌も真っ白で、それなのに瞳は燃えるように紅くて何あれ天使? 妖精? 空想上の生物?」
「日本人じゃない……よね? カラコン? 髪は染めてるの? あの子が私達と同じ学院で勉強するの? 演劇部門の女優科の子じゃないよね?」
「オー……マイガー!! 何だ……何だよあの髪、あんな綺麗な髪、見た事ねえよ! 一本だって無駄にしたくない……触りたい……いや、俺の理想の形にしてみたい!」
「女の人? ……どんなクラシックでも表現する事が出来ない程の……透き通るように綺麗な……きっと、心も清純な泉のように澄みきった……」
大変気分が良い!
最高だ! 状況の悪さは分かっているけど、それを思わず忘れてしまうほどに大変気分が良い!!
僕の故郷、日本! やはりこの国へ帰って来て良かった。
好奇心や差別は覚悟はしていた。それとは別に、女性の振りを見抜かれる怖さもあった。
だけど、そんな事を全て忘れてしまいそうになるほどの大歓迎。
そして絶賛の声も聞こえる。両親から授かったこの顔、身体を、何よりも大切なこの白い髪を、彼らは美しいと誉め称えてくれている。
僕の愛する祖国は、土地も人も、全てが桜小路才華こと小倉朝陽を受け入れてくれた。これほど嬉しい事は無い!
ありがとう大好きな日本。その大地に住む人達!
僕は今多くの感動を覚えているよ!
「はあ」
だけど、隣で歩く僕の主人は憂鬱な顔をしていた。
「どうなさいましたお嬢様? こんなに多くの人から憧れの眼差しを受けているのに。此処は素敵な学院ですね」
「やはりと言うか、予想通りと言うか、皆が朝陽さんを見ているじゃない。この子がメイドなんて知られたら、主人の方が不釣り合いだと言われそうで怖い」
「お嬢様も充分にお綺麗だと言ったではありませんか」
「だけど自分の方が綺麗だと思っているでしょう?」
「滅相もございません。私は貴女の従者ですよ。誇り高きエスト」
「その気もない癖にこのメイドは! 皆が天使だと錯覚しているこのメイドの自分信仰とドSぶりを白日の下へ晒してしまいたい……でも、もう直ぐ驚く顔だけは見れるフフ」
……まただ。此処に来るまでの最中にエストは、何度も意地悪そうな笑みを僕に向かって浮かべていた。
それに誰かを探しているのか、視線を彷徨わせている。
実を言えば、それは僕もだ。確かに周りの人達の反応は大変気分が良いけど、それに浸っているのは不味い。
この人達の中に調査員が紛れ込んでいるかも知れないんだから。だけど、今のところ、探るような類の視線は感じられない。向けられる視線は、好奇や感嘆の視線だけ。
やはり本番は教室に入ってからなのかも知れない。
しかし、エストは誰を探しているのだろうか? エストの知り合いと言えばルミねえ達だけど、ルミねえ達は僕らがフィリア学院に入る前に入って、既に自分達の部門の入学式会場に向かっている筈だ。
他にいるとしたら梅宮伊瀬也とその付き人の大津賀かぐやだけなんだけど、それらしい人影は見つからない。
これは尋ねた方が良いだろうか?
でも、その前に吹っ切れたのか、何時もの笑みをエストは浮かべた。
「もういい。貴女が周りのイメージを大切にするなら、私は貴女のイメージを大切にしてあげましょう。つまりは、理想の私でいてあげる。貴女の主人に相応しい、アイルランド貴族の私。エスト・ギャラッハ・アーノッツとして胸を張ってあげる」
「……心から貴女を美しいと思います、誇り高きエスト」
エストが顔を上げると周りで見ていた皆が気付いた。
僕とエストは、黄金であるエストの方が主であって、白銀である僕を従えているのだと。
何しろ僕は、これでも初めから立場を弁えて、慎ましく歩いているんだから。
黄金の貴族と白銀の従者。堂々と廊下の中央を並んで歩く僕達を遮る生徒は誰もいなかった。
「ま、待ったあーーー!!」
と思っていたら一人いた。
正面に立つまでは及ばなかったものの、白いワイシャツを着崩して着ている金髪碧眼の男子生徒が、自分の目の前を通り過ぎる寸前に待ったをかけた。
……見覚えがある顔だ。直接見た事はないけど、アトレが調査してくれた結果の写真で見た顔。
事前に把握出来ていた大蔵一族の一人。
「俺は大蔵アンソニー
僕の髪の美しさを理解出来るとは大変に好ましい人だ。それも全てを捧げるとまで言われれば、気分は悪くない。
……そして彼は調査員で無い事も確信出来た。なら、僕の答えは一つだ。
「この髪も含めて、全て主人に捧げておりますので、お断りします」
男性に身体を好きにさせるつもりはない。なので、丁重にお断りした。
「マイガッ! ……それでも俺は、諦めないぜ!」
「あの人、アメリカで暮らしていた頃に、見た事があるかもしれない。結構な有名人だったと思うよ。私の立場では、声が掛けられないくらいの」
「そうですか。ですがそれに関わりなく、私にとって尊い方はお嬢様一人です」
……あの人は、従者の枠ではなく個人としての枠にいるからね。
「嬉しい事を言う。それと、その身体を全て捧げる、って言うのも嬉しかった。でも、という事は、私の好きにしても良いという事かなフフフ?」
「余り意地悪な事を言うと、泣いてしまうかもしれませんよフフフ?」
「あ、あの!」
殺伐と朗らかな会話をする僕達に、またしても今度は別の男性が声を掛けて来た。
……この人にも見覚えがある。先ほどのジュニアと同じ大蔵一族だ。
まさか、初日の、それも入学式すら始まっていない内から関係者二人に声を掛けられるなんて、今日は良い日なのかツイてないのか微妙なところだ。
……こんなに大蔵家の関係者に出会えるなら、一番僕が会いたいあの人にも……いや、無理だ。今の僕はフィリア学院女子制服を着ている。
そんな姿をあの人に見られたら、また恥ずかしくて固まってしまう。フィリア学院内に居る訳ないから大丈夫に決まっているけど。
「音楽部門ピアノ科の山県です。貴女が彼女の付き人だという事は分かりました。ですがその、貴女の名前だけでも教えて頂けませんか?」
質問する相手をエストにすれば済むのに、彼は僕の下へ真っ向勝負で尋ねてきた。その点は評価するし。言葉遣いが丁寧なのも評価に値する。
「でもごめんなさい、無条件でお断りします」
関係者と知り合いになっても、僕が得るものは無いから丁重にお断りした。
友達は欲しいけど、これ以上リスクは背負いたくない。それにこんなに堂々と探る様子も見せずに接触して来る相手が、調査員の訳がない。
なので、距離を取らせて貰う。
「白い、天使が居た……」
「朝陽さん、もしかして今の二人は、貴女とお近づきになりたかったのでは?」
「まさか、お二人に失礼ですよ、誇り高きエスト」
だって僕は男性だからね。恋愛感情まで抱かれる事は無いよ。
「それに、もしそのようなお誘いがあっても、デザイナーを志す人間にとって、衣装の創造以外に使う時間の余裕は僅かもありません。私がデザイン以外に時間を割く事があるのだとすれば、それは貴女へ尽くす為の時間ですよ我が主人」
「そう。貴女が良ければそれでいいの」
エストは少し気の毒そうに後ろを振り返っていた。
だからね。ないよ恋愛は。あったとしても、相手が男性では僕の創造に結びつかない。
性別を捨てても、男性と交際するつもりは全く無い。同性同士の恋愛は確かにあるらしいけど、僕の場合は悲しみしか生まれないからね。
女性として思っていた相手が、男性だったなんて知ったら、あの二人もショックを受けるよ。
だから、恋愛は無い。
「凄い……」
「すこぶる美形を二人纏めて……瞬殺していった……何者なのあの子……」
「恐らくはそれ以上の相手に、恋を求められたんじゃないかな……一国の主とか、世界有数の大富豪とか……」
「だって同性の私ですら恋をしましたから……ああ、白銀のお姉様……」
「今年、学年で一番人気は決まりね」
「……違うわ」
「はっ? 貴女何を言って……嘘」
「……黒い……女神」
「……オー……マイガッ!! ど、どうなっていやがるんだ……この学院は……あの白く綺麗な髪だけじゃなくて……俺が探し求めていた最高の黒い髪まで……」
ん? 何だか先ほど背後から聞こえてきた歓声が聞こえなくなったような。
もうそろそろ入学式の時間が近くなって来ているから、移動を始めたのかな?
気にはなるけど、今はそれよりも。
「う~ん。いない。もう会場の方に向かったのかな?」
僕の主人であるエストの不審な行動の方が重要だ。
「お嬢様。先ほどから誰を探しているのですか?」
「知り合いの人」
「それは誰でしょうか? ルミネお嬢様達は別の会場ですから、このまま進んでも会う事はありませんよ」
「違うの、ルミネさん達じゃなくて、服飾部門に入って来る人」
「でしたら梅宮さん達でしょうか?」
「ううん……もう良いかな。ソレによくよく考えてみれば、朝陽さんに許可を貰っておいた方が良いだろうから」
「何がでしょうか?」
「名字の方で呼ばないといけないから」
「……はっ?」
一瞬、言われた意味が分からなかった。
名字で呼ばないといけない? 僕の今の名字は『小倉』だ。
だけど、それで呼ばれてしまうと僕がどうなってしまうのか、エストは知っている筈。
なのに、何故名字で呼ぶなどと言ったのだろうか? ハッキリ言ってそれは困るどころの騒ぎじゃ済まない。
「お嬢様。どうか名字で呼ぶのだけはご勘弁を。それで呼ばれたら、私がどうなってしまうのかはお嬢様もご存知の筈です」
「勿論分かってるよ」
「でしたら」
「でも、あの人を名前で呼んだら朝陽さんと混乱しちゃうから。だから、あの人の方は名字で呼ばないとね」
……待て。この主人は何を言っている?
僕と言うか、『小倉朝陽』と同じ名前の相手? しかもエストが知っている相手。
……そんなの一人しか僕は知らない。
身体が震え出す。この僕の主人は……エストは何を隠していた?
「ど、どういう事でしょうか?」
「朝陽さんにも話したでしょう? 私を『桜の園』の地下カフェで助けてくれた人の話を」
「え、えぇ……お、覚えています」
心臓が早鐘を打ち始めた。
鼓動が聞こえて来そうなほどに、早く動いているのを感じる。
このままエストの話を聞いてはいけない。そんな予感を感じて、僕は口を開こうとする。
だけど、僕が口を動かす前にエストが口を動かした。
「その人ね。言っていたの。フィリア学院服飾部門の特別編成クラスに自分も通うって」
……ありえない。
だって、あの人の名前は事前に調べた名簿には載っていなかった。
あの人が服飾部門の特別編成クラスに居る筈がない。なのに、エストはあの人が今日此処に来ると確信している口調で話した。
……まさか。いや、違う! あの人が此処に居る筈が!
「あっ!」
突然エストが僕の背後を見て、喜びの声を上げた。
同時に背後から足音が二つ聞こえて来た。
気がつけば、周囲の生徒達は誰も言葉を発せず、呆然と僕を……いや、僕の背後を見ている。
僕の時のような歓声は聞こえない。だけど、周囲の生徒全員が感嘆の吐息を発して、時間も忘れて何かに見入っている。
……何だこれは? 背後を振り返るのが……怖い。
二つの足音だけしか聞こえない静寂に満ちた空間の中、その静寂を僕の主人が砕く。
「小倉さん! 久しぶり!」
絶対にしないでくれと頼んでいた名字で呼ぶ事をしながら、エストは僕の横を通り過ぎた。
名字で呼ばれた事に僕の身体が反応しかけた瞬間……背後からずっと聞きたかったあの人の声が聞こえて来た。
「あっ、エストさん」
……声が聞こえた瞬間、僕の手から力が抜けた。
荷物を入れた鞄が落ちる音が聞こえて来たけど、僕は気にも留められなかった。
だって、そうだ。僕はずっと、この声の主に……会いたかった。
会ったらどうしようとずっと悩んでいた。この声の主の人に、僕は許されない事をした。
酷く傷ついているのを知っていたのに……僕はその傷を踏み躙った。二度と会う事は出来ないのではないかとさえ考えた。でも、会いたかった。
会って、この人に……。
「お久しぶりです、エストさん。入学式前に会えて嬉しいです」
「こっちも。元気そうで良かった。でも、驚いた、小倉さん前に会った時よりもずっと綺麗になっているから」
「そ、そんな私なんて……私なんかよりもエストさんの方が制服が似合っていて綺麗ですよ」
「今の小倉さんに言われても」
「本当ですよ。それに何だか私が歩くと周りの人達が遠巻きに見て来て……私変なのかなって不安になっていたんです。だから、話しかけてくれたエストさんがいてくれて安心しました」
「はぁ~、この人、朝陽さんと違って気がついていないよ。しかも天然で」
「何がですか? それに朝陽さんって?」
……背後からエストとあの人が仲良さそうにしている会話が聞こえて来る。
心臓がバクバク言っているのを感じる。ふ、振り返りたいけど、振り返る事が出来ない。
だ、だって、今の僕の顔はきっと真っ赤になっている。あの人に今の自分の姿を、小倉朝陽としての姿を見られるのが……は、恥ずかしい!!
こ、こんなの僕じゃない! そう、思い出せ! 僕はあの素晴らしき両親の息子。桜小路家の跡取り。桜小路才華だ!
じょ、女装した姿を見られるのが何だ!? い、今までだって沢山の人々に見られていたじゃないか!
……そう。何を焦っていたんだ僕は。さっきまでの余裕の態度でいれば良いじゃないか。
さあ、後ろを振り返ってあの人と向き合おう。
「あっ、エストさんの従者の方ですね、私の名前は小倉朝日と言います」
……。
「あ、あのどうされました?」
「朝陽さん、どうしたの?」
振り返った先にあの人は……居てくれた。
僕と同じフィリア学院の制服を纏い、両手で鞄のフックを持ってさっきまでの僕と同じ持ち方をしている。
最初に会った時と同じように背の半ばまで届くほどに長い黒い髪を棚引かせている。
制服を盛り上げている胸はスタイルにあった大きさ。何より顔。
以前は薄いメイクしかしていなかったのか、本格的なメイクをしたこの人は、美の女神としか表現出来ない。
……明らかに僕が知っているあの人よりも、今目の前にいるこの人は……綺麗だった。
何よりも、今のこの人の顔には、あの悲しみに満ちた表情は無く、花咲くような笑顔が浮かんでいた。
……ああ、そうだ。この笑顔だ。僕があの日見た笑顔は、確かにこの笑顔だ。
ルミねえや壱与が言っていた通りだ。この人の笑顔は、暖かな気持ちを抱かせてくれる。
……うん……無理です。
「えっ? あ、朝陽さん?」
「だ、大丈夫ですか?」
心配する僕の主人とあの人の声が聞こえたと同時に……僕の思考は停止した。
……綺麗に……なり過ぎです……こ……く……ら……さ……ん。
暗転。
喜劇、桜小路才華の夢。
おしまい。
この番組は大蔵グループの提供でお送りしました。
嘘です。まだまだ物語は続きます。
人物紹介
名称:
詳細:フィリア学院音楽部門ピアノ科一般クラス2年生。大蔵日懃の次男である大蔵富士夫の妾の子。今だ認知はされておらず、母親も遊び回っている。その為、大蔵次男家の長男である大蔵駿我にアメリカで育てられた。酷い家庭環境にも関わらず、真っ直ぐに育ったのでりそなに気に入られている。現当主の力で大蔵家入りを提案されたが、本人は拒否した。穏やかな性格で人気は高く、2年女子の間では抜け駆け禁止の協定が結ばれているほど。ただ父親だけではなく祖父である日懃にまで疎まれているので、フィリア学院内の裏で教師達にお金がばら撒かれて、目立たさせないようにされている。ピアノ科のフィリコレのソロ演奏への参加は絶望的である。入学式で小倉朝陽に一目惚れしてしまった。
名称:大蔵アンソニー
詳細:フィリア学院美容部門美容師科一般クラス所属。愛称はジュニア。
母親は『生涯独身主義』を貫いた恋多き世界的なスーパーモデル、ビッチーノ・バッチコイーノ。父親は大蔵次男家の次男である大蔵アンソニーなのだが、2年前にビッチーノの遺書が発見されるまで存在を知らなかった。存在を知ったアンソニーに認知され、援助されるようになる。しかし本人は大蔵家に興味は無く、一族として認められながらも大蔵家の『晩餐会』にも出席したことがない。美容師の腕は免許がないにもかかわらず予約待ちの状態であるほどの一級品。朝陽の誇る白い髪を見て一目惚れするが、次に目にした朝日の黒い髪にも興味が惹かれている。