月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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原作で言うオープニングまで終了です。
遊星sideが短くなってしまったのが残念でならないけど、どうしても才華sideで進ませるしかなかった。本当に残念でならない。
因みに本当に過去最長の文字数。どうしても切れる箇所を見つけられなかった。

秋ウサギ様、烏瑠様、dist様、笹ノ葉様、獅子満月様、イヌ様、誤字報告ありがとうございました!


四月上旬5

side才華

 

「部屋へ帰る前に学院の中を一通り見ておく? 保健室の場所とか知っておいた方が良いと思うから」

 

「良いですね。そうしましょう。日の当たる場所には行けませんが」

 

 自己紹介や明日からの授業の簡単な説明が終わり、昼過ぎの時間に初日は終了した。

 だけど僕とエストもすぐに部屋へ戻りたくなかったのか、それとも気持ちを明るくしてくれる何かを求めたのか、何となく学院内を探検する事にした。

 ……流石に伯父様と総裁殿が学院内に残っているとは思えない。あの人達は忙しい人達だから、きっともう学院から出て別の仕事に向かっていると思いたい。

 

「小倉さんも誘えれば良かったんだけど」

 

「アレでは無理だと思います」

 

 どう考えても無理だ。

 HRが終わった後、教室内の僕らを除いた女生徒達が一斉に小倉さんの傍に近寄ったのだ。

 あの小さな暴君。ジャスティーヌ嬢の暴挙を止めた小倉さんは、クラス内では英雄扱いだ。相手の立場を考えても、大蔵家に関わりがある小倉さんだけがジャスティーヌ嬢に今のところ対応出来る。

 小倉さんの次に家柄が高い梅宮伊瀬也とエストでは、残念ながらジャスティーヌ嬢を止めることは無理だ。相手は旧伯爵家の人間で、フランスの大使館の書記官が叔父の相手なのだから。

 失敗したら国際問題にまで発展しかねない。

 

「かなり困っているようだったけどね」

 

「あの方は、その辺りの対応に慣れていないのでしょう」

 

 何せこの間まで使用人だった人なんだから。

 いきなり大勢のお嬢様方に頼りにされるなんて経験もした事が無いに違いない。助けてあげたいけど、今の僕の立場は一介のメイドだ。

 立場的にもエストの方を優先しないといけない。エストもさっきの教室内でのやり取りがあるからなのか、教室には残りたくなさそうにしていたし。

 

「そう言えば、朝陽さん。名字を呼んでも大丈夫になっていない?」

 

「どうやらショックが強過ぎたようで、トラウマが吹き飛んでしまったようです。これも全て小倉様の存在を隠していたエストお嬢様のおかげです。ありがとうございます、お優しきエスト」

 

「うぅ、ごめんなさい。まさか、あんな事になるなんて思ってもみなくて」

 

 嫌味を聞いたエストは、身体を震わせながら謝った。

 教室内でジャスティーヌ嬢から護ろうとしてくれたのは嬉しかったけど、それと小倉さんの存在を隠していたのは別だ。もしも事前に知っていたら、恥ずかしさは感じても気絶まではしなかったと思うから。

 

「でも、自己紹介の時は教室の皆、やっぱり驚いていたよね」

 

「同じ名前の人間が二人クラスに居る訳ですから、仕方がありません」

 

「あの人、何で大蔵の名字を名乗れないんだろう? お父様の大蔵衣遠さんは家庭の事情があるって言っていたけど」

 

「……私には分かりません」

 

 大蔵家の前当主であるひい祖父様が許可していないからとは言えない。

 しかし、同じ名前が二人もクラスにいると言うのは少し混乱しそうだ。多分、従者である僕の方が名前で呼ばれる事になるとは思うけどね。

 

「思ったよりも入れる場所は限定されているのですね」

 

「保健室の場所とかは分かったけど、他の入れる場所はサロンとかみたいだし。つまんないね」

 

「初日ですから仕方がないかも知れません」

 

 探検の結果は振るわず。大した収穫もないまま、僕達は『桜の園』に戻る為に地下通路に向かう事にした。

 

「そうだ、お嬢様。せっかくなら学院の食堂を利用してみますか? 丁度時間はお昼時です」

 

「わ、見たい! 日本の学食は賑やかなんだよね? 話には聞いた事があるから楽しみだな」

 

 フィリア学院の食堂は学院全体が共通で『服飾部門の棟の最上階と2階』にあると学院の説明に書いてあった。

 二つ食堂があるのは、特別編成クラスと一般生徒に分ける為で、当然、位置の高い最上階の方が特別編成クラス、2階の低い方が一般クラス。

 この区分けで行くと、世界有数の大富豪の娘であるルミねえでも、一般試験で合格しているので一般の食堂へ行かなければならない。特別編成クラスの生徒と一般クラスの生徒が一緒に入るのならば話は別みたいだけど。

 その規模や質はと言えば、一般の食堂ですら関係者ではない近隣の住人が食べに訪れるほど。本当は一般には開放していないけれど追い出したりはしないらしく、ネットで評判になっているほどだ。とは言っても、あくまで一般クラスの食堂だけだ。特別編成クラスの食堂には一般は入る事は絶対に出来ない。

 しかし、一般の方でも近隣の住人が来るほどに美味しいのだから、特別編成クラスの食堂は推して知るべし。和洋中の料理が揃ったビュッフェ形式で、それも一流のシェフの手で用意されている。

 食事が大好きならエストも喜んで元気を取り戻せる……と思ったけど、入学式の今日は最上階の食堂はお休みだった。

 一般の方は初日にして超満員。食堂のシステムすら分からない僕達は食券すらロクに買えず、あっさり撤退を余儀なくされた。駄目な時は何をやっても駄目なものだ。

 

「人間、諦めが肝心だね」

 

 何か悟ったように呟くエストの声には説得力があった。ひとつ大人になった我が主人。

 それが日本の詫びさびと言うものだ。良く成長したねエスト。注意しても地下カフェに行って、甘い物を隠れて食べていた君とは思えないよ。

 

「あ、やっぱり待って、諦めるのはまだ早かった」

 

 前言撤回。それこそ高速の早さでだ。所詮外国の人間に、和の深みを知って貰おうとすること自体が無謀だったのか。深い悲しみを僕は覚えた。

 僕の悲しみに気がつかないエストの視線の先を追うと、建物の外へ向いている。僕が歩けない太陽光の下には、見た事のある顔が並んでいた。

 

「ないわー。あの食堂の混み方ないわー。この学院って、いったい全部で何人いるの? てか明らかに生徒じゃない人もいたし。各棟ひとっつずつに食堂あって良いよね」

 

「んでもコンビニ近くて良かったよねえー。んまいー。ラーメンんまいー。飢えた心と身体に染みわたるラーメンんまいー。ずびずぱー」

 

「でもさ、ぜったいさ、あれさ、コンビニもさ。今日はさ、入学式だから空いてたんだよ。明日から行くの遅れたらお湯なくなってるよ」

 

「だけどもさ、だったらさ、ちょっと遠くのコンビニまで行けば大丈夫だよね。まあガッコの中ではたべらんなくなるけどもさ、都会だからコンビニくらいいっぱいあるよね。最悪さ、地下通路を通ってあの地下カフェに行けば良いし」

 

「あそこ高いからあんまり行きたくない。てかさ、あれだよね。都会ってか大都会の、それも多分、一般的にはセレプリティナなこの近辺で、カップ麺地べたに座って食べてんの私らくらいだよね」

 

「でもさ、なんかさ。逆にシャレオツってゆか、普通じゃしない事してるから、ちょっと他では成し遂げられない事をした感があるよね」

 

 相変わらず愉快な二人だ。会うのは久しぶりだけど、二人の事を僕は忘れてないよ。

 特に銀条さんは入学式で歌を歌ってくれたから。新入生代表の挨拶で歌を披露されるとは思っても見なかったな。

 

「何だか食事をしているみたいだけど、手に持っている物はなんだろう?」

 

「お菓子ではありませんか? あ、だけどお箸を使っている?」

 

 二人が食べている物は何だろうか?

 見た事もない形をしている。形状としてはコップに近いけど、あんな手に握って箸を持って食べる物を僕は見た事が無い。

 彼女達が楽し気に会話しながら、食べているという事は美味しい物なんだろうけど。ちょっと気になる。

 

「せっかくだし声を掛けてみましょうか」

 

「そうだね、こっちから行く事は出来ないし……ハルコさん、キュウさーん!」

 

「お?」

 

「あ! エストギャラッハさんとメイドさんだ! パル子です!」

 

 僕らに気がついた銀条さんは元気よく手を振ってくれた。

 対して隣に座っている一丸さんは、困惑したように僕らを見ている。

 

「え、あれ……前に地下のところで会った? ここの生徒だったんですか?」

 

「まあな」

 

「何でパル子が答えるの?」

 

「さっき舞台に上がった時、二人の顔が見えたから。あ、このガッコの人なんだと思った。後、黒髪の人も隣に座っていたよ」

 

「あの人か……、まあ、あの人は言っていたから驚かないけど、この二人までこの学院の人だったなんて」

 

「偶然てすげえなー」

 

 気になる会話をしている。

 僕らの隣に座っていた黒髪の人って……小倉さんしかいない。あの人、銀条さんと一丸さんにも会っていたんだ。

 偶然だと思うけど、良く僕と会った人と会うね。

 

「私達の顔が見えていたんですね。挨拶、とても素敵でしたよ」

 

「いやーお恥ずかしいです」

 

「うん。私も自分の席から見てて本当に恥ずかしかった。何であれ歌った?」

 

「いやね。一度、原稿用紙忘れたまま舞台にあがってみると分かるよ。何か言わなきゃって焦るし、先生も急かすし、正直逃げたくなるし、アレが精一杯でしたすよ」

 

「絶対に目を付けられたと思う。暫らくは大人しく……あ、無理だ。来週販売の雑誌にパル子のスナップ載るから、また目立つね」

 

「不幸にタイミングが被り過ぎっす」

 

「や、目付ける人達は不幸とかタイミングとか考えないから」

 

「うひぃ」

 

 銀条さんは淋しげに手の中のものをもそもそ食べた。

 ……美味しそうにやっぱり食べている。気になってしょうがない。

 

「その手に持っている食べ物はなんですか?」

 

「え、カップ麺……てゆか、それ本気で聞いてるん、ですか?」

 

「あ、それがカップ麺。ごめんなさい、初めて目にしたもので」

 

 カップ麺という食べ物がある事は聞いた事がある。

 だけど、身体には余り良くない物らしいから、僕は食べた事が無い。こうして実物を見るのも初めてだ。

 

「私もです。話には聞いた事がありますけど、本物を見るのは初めてです」

 

 どうやらエストもカップ麺を見るのは初めてのようだ。

 

「貴族のお嬢様って本当にカップ麺を食べたりしないんですね。いやあ、ちょっとかなり驚いてます」

 

「良かったら一緒にどうですか」

 

「ごめんなさい。私は健康上の理由があって、お日様の下には行けない身体なんです」

 

「えっ」

 

 僕の発言に銀条さんが驚いて動きが止まった瞬間、僕らの背後から声が聞こえて来た。

 

「ちょっと其処の貴女達! 学院の敷地内で地べたに座って食事をするなんて……何を考えているの!?」

 

「げ。うわこれやば。初日からマジ気味に怒られるかも知れない、パル子、行こ!」

 

「え? あ、え、あ、はい、うん」

 

 教員の人が僕達の背後から現れた為に、銀条さんと一丸さんは別の建物へ駆けていってしまった。

 

「うん、あの二人と話したら心が明るくなって来た。学院を探検してみるものだね」

 

「そうですね」

 

 気分が明るくなった僕達は、漸く部屋へ戻る気持ちになれた。銀条さんと一丸さんには感謝だ。

 それにしても、彼女達は一般クラスの生徒だったんだ。それも新入生代表という事は、銀条さんの入試の成績は一位。一度、彼女のデザインを見てみたい。

 お互い服飾部門の生徒だと分かったし、次に出会った時は尋ねてみよう。

 明るい気持ちになりながら、僕とエストは地下通路に向かって行く。

 

「あれ?」

 

「どうされました?」

 

「あれって、小倉さんとカリンさんじゃない?」

 

「……あ、本当ですね」

 

 フィリア学院と『桜の園』を繋ぐ地下通路の入り口の傍に、クラスの女生徒達に話し掛けられて身動きが取れなかった筈の小倉さんとカリンが立っていた。

 ……不味い。また小倉さんに、『小倉朝陽』としての僕が見られるのが恥ずかしくなってきている。

 落ち着け。落ち着くんだ。隣には僕の主人であるエストがいる。一日に二度も迷惑をかける訳にはいかない。

 ……良し。何とか恥ずかしさが落ち着いて来た。

 だけど、小倉さんがどうして此処にいるんだろう? 壱与に会いに『桜の園』に行くなら、此処に立っている必要なんてないのに。まさか、僕らを待っていたのだろうか?

 

「小倉さん!」

 

「あ、エストさんに……あ、朝陽さん」

 

 ……言い辛いですよね。自分の名前と同じ名前を呼ぶのは。本当にすいません。

 内心で頭を下げながら僕とエストは、小倉さんとカリンの傍に近寄った。

 

「こんなところでどうしたの?」

 

「実は人を待っていまして」

 

「それって、私達じゃないよね?」

 

「はい。私の家族です。今、この学院に通っている親戚の人を連れて来るらしくて、此処で待っているように連絡があったんです」

 

 心臓が跳ねた。

 小倉さんの家族に、親戚の人って……そんな相手を僕は良く知っている。

 

「小倉様。来ました」

 

 カリンが報告すると共に、小倉さんの視線はエストから僕達の背後に向いた。

 エストと僕も其方に視線を向けてみると。

 

「朝日。待たせましたね。中々見つからなくて困りましたよ。この二人には」

 

 ……見間違いだと思った。この人が此処にいる筈が無いと思いたかったけど、僕の視界の先には、笑顔を浮かべた僕が唯一苦手にしている女性が立っている。

 僕の叔母にして大蔵家の総裁殿が、背後に顔を暗く俯かせて、まるで死刑執行前の死刑囚の表情をしているアトレと九千代を従えて歩いて来た。

 二人を良く知っているエストは、思わず二人が発している空気に顔が引き攣っている。多分、僕の顔も同じになっていると思う。

 小倉さんも一瞬、アトレと九千代の様子に口元をひくつかせたけど、すぐに表情を戻して総裁殿に近寄った。

 

「そんなに待っていませんから、安心して下さい、りそなさん」

 

「それは良かった。もしも貴女を待たせる羽目になっていたら、話す事が増えていましたからね」

 

 ビクッとアトレと九千代の肩が跳ねたように見えた。

 この様子だと、今までアトレと九千代は総裁殿から逃げ回っていたようだ。僕と総裁殿が学院内で会うのを防ごうとしていてくれていたんだろうけど……ごめん。エストと学院内を探検していて今まで残っていたんだよ。

 タイミングが悪過ぎると内心で頭を抱えていると、小倉さんが総裁殿にエストを紹介していた。

 

「りそなさん。此方が私のクラスメイトのエストさんです」

 

「初めまして、エスト・ギャラッハ・アーノッツです」

 

「大蔵りそなです。朝日の日本での保護者をやっています」

 

「大蔵りそな!? あの大蔵家の当主で、フランスでも有名なゴスロリファッションのブランドをやっていて、フィリア学院の理事もやっている方ですか!?」

 

「まあそうですね。ただ、堅苦しいのは嫌なので普段通りで構いませんよ」

 

「あ、朝陽さん! ど、どうしよう!? 大蔵衣遠さんだけじゃなくて、大蔵りそなさんにまで一日の内に会ってしまうなんて!?」

 

「お、お嬢様。気持ちは分かりますけど、落ち着いて下さい」

 

「朝陽?」

 

 総裁殿はエストの僕の呼び方に、首を僅かに傾げた。

 

「此方の方はエストさんの付き人で、小倉朝陽さんと……言うそうです」

 

「はっ?」

 

 総裁殿は呆然とした顔で、僕を見て来た。

 ですよね。自分のお気に入りの相手である小倉さんの名前を、僕が使っている訳ですから。

 呆然から立ち返った総裁殿は、小倉さんを呼び寄せるように手を振るい、小倉さんは近寄って僕とエストに背を向けた

 

「あの上の兄……隠していましたね」

 

「最初に聞いた時は、私も驚きました。お父様の最後の嫌がらせだと思います」

 

「後で問い質しておきます」

 

 小声で会話しているから内容は聞こえないけど、多分僕の名前に関してだと思う。

 ますます総裁殿の印象が悪くなると感じていると、話が終わったのか、総裁殿はいまだ動揺しているエストに顔を向ける。

 

「確かエスト・ギャラッハ・アーノッツでしたね?」

 

「は、はい!」

 

「貴女の噂は聞いていますよ、何でも私の甥とはアメリカではライバルだったとか?」

 

「甥?」

 

「エストさん。桜小路才華さ……んの事です。りそなさんの二人目の兄の息子が桜小路才華さ…んなんですよ」

 

「あんな人、ライバルじゃありません」

 

 グサッとエストの発言が僕の胸を貫いた。

 ……や、やっぱり、そう思っていたか。だよね。

 エストの認識だと、僕は朝陽を利用して名声を得ていた人間なんだから。

 小倉さんと総裁殿はエストの発言に驚いた顔をしている。どうやら二人の中ではエストは僕のライバルと思っていたようだ。総裁殿は多分調べて、小倉さんはアメリカにいたから、お父様かお母様に聞いたのかも知れない。

 お父様は僕の作品が出た雑誌は大切に持っているし、その中にはエストの作品も写っていた筈だから。

 総裁殿の視線が僕に向いた。意味が分かる。一体何をやらかしたと言いたいんだろう。

 溜め息を吐いた総裁殿は、ゆっくりエストに顔を向けた。

 

「どうやら甥が何かやらかしたようですね」

 

「いえ、大丈夫です」

 

「まあ、その件は甥と会った時にでも詳しく聞きますから。それじゃ、朝日。行きましょう。其処の二人も」

 

『……はい』

 

 暗く沈んだ声だった。

 これから待っているアトレと九千代に起きる事を思うと、今すぐにでも助けたいけど、総裁殿が厳しい視線を僕に向けて動きを制している。

 少なくともこの場で僕の正体を明かす事はしないようだ。僕が動かないと判断した総裁殿は視線を外し、小倉さん達を引き連れて『桜の園』に向かっていた。

 ……アトレ、九千代。助けられない僕を赦して。本当にごめん。

 

「だ、大丈夫かな? アトレさんに九千代さん」

 

「……大丈夫だと願いましょう、エストお嬢様」

 

 

 

 

side遊星

 

 地下通路を通って『桜の園』にやって来た僕らは、そのまま最上階の66階のアトレ様の部屋に向かおうとした。

 だけど、1階のエントランスに辿り着いた時、りそなが。

 

「朝日はカリンさんを伴って、あの巨人のメイドの人に会ってきなさい」

 

「宜しいのですか?」

 

 八十島さんには会いたかったが、今はアトレ様と九千代さんの方が先だと思っていたんだけど。

 

「貴女の事だから、私が叱っている最中にやり過ぎだと思って口を挟んで来そうですからね。今回の件は私も思いっきり頭にきているので、邪魔されたくありませんから」

 

 と言われて、僕とカリンさんは1階で降ろされた。

 ……エレベーターが閉まる直前に見たアトレ様と九千代さんの顔は、更に暗く落ち込んでいた。

 助けてあげたいけど……今回ばかりは僕が何を言ってもりそなの耳に届かないと思う。

 りそなは確かに僕の幸せを願ってくれている。でも、それは僕だけじゃなくて桜小路遊星様にも同じ願いを抱いている。今回の件は失敗すれば、桜小路遊星様の人生にも影響が出てしまうほどの大事だ。

 たとえ相手が甥や姪でも、りそなが絶対に赦せない事に触れてしまったんだから怒りを覚えても仕方がない。

 恐らく僕を叱る場から外したのは、やらかしてしまったアトレ様や九千代さんを庇うのを見たくないからだと思う。

 ……或いは、アトレ様か九千代さんの口から、僕を傷つける言葉が出てしまうのを恐れているのかも知れない。

 二人の事は心配だけど、今から向かってもりそなを刺激するだけだと自分を納得させて、僕はエントランスに向かった。

 

「すみません」

 

「はい」

 

「コンシェルジュの八十島壱与さんに会いた……」

 

「小倉さん!?」

 

 言い終わる前に、受付の奥の方から八十島さんが慌ててやって来た。

 ……良かった。八十島さんが元気そうで。

 アメリカでルナ様から話を聞いてちょっと心配だったけど、僕を助けてくれた八十島さんは元気だった。

 

「お久しぶりです、八十島さん」

 

「あっ……ああ……取り戻せたのね……笑顔を」

 

「はい……ご心配をおかけしてすみませんでした」

 

「……良いのよ。グスッ……こうして元気を取り戻せた小倉さんの姿を見られて……私、嬉しいわ」

 

 八十島さんは涙を溢しながらも、桜屋敷に居た時に見せてくれた笑顔を僕に向けてくれた。

 この人に出会えて……本当に良かった。もしもこの人に会えなければ、きっと僕は今日まで生きていなかった。

 行く当てもなく路頭に迷って死んでいたかも知れない。仮初だったけど、桜屋敷に居場所を作ってくれたこの人には、感謝の気持ちしかない。

 あの写真の事だって、僕は何も思っていない。自分でも見たいと思っていたし、八十島さんが元気づけようとしてくれていたのは分かっているから。

 何時までもエントランスで話している訳にはいかないと思った八十島さんは、従業員用の部屋に案内をしてくれた。気をつかってカリンさんは、部屋の外で待機している。

 何か緊急の用件があったら、すぐに伝えてくれるみたいだ。

 そして二人だけになった僕は、八十島さんにこれまでの事を話した。

 

「……そう。りそなさんの衣装が小倉さんを立ち上がらせてくれたのね」

 

「はい。本当に素晴らしい衣装でした」

 

「私もそうすべきだったのね。過去の衣装よりも、今の衣装を見せていれば、あんな事には……」

 

「いえ違います。僕が服飾に戻ろうという気になったのは、りそなの衣装だったからです。他の誰の衣装を見ても、今のルナ様がデザインした衣装を見ても、僕はきっと……服飾を捨てていたと思います」

 

 これだけは間違いないと断言出来る。

 あの頃の僕は、服飾に対してどうすべきなのか悩んでいた。続けて行くべきなのか、たとえ続けたとしても意味があるのかとずっと悩んでいた。だって、そうだ。表にも出られず、自分の才能にも自信を失いかけていた。

 何よりも、僕がルナ様に仕出かした事が赦されるのかとずっと悩んでいた。あの方の人生に消えない傷を付けかけた僕が、服飾を続けて良いのかとずっと悩んでいた。

 だから、服飾を捨てたのは八十島さんのせいではない。僕の心の弱さが本当の原因だ。

 

「フフッ、小倉さんの優しさはどんな時でも変わらないわね。それに小倉さん……りそなさんを説得してくれてありがとう」

 

「大したことはしてません。それにりそなは口では不満を言っていますけど、才華様とアトレ様の事を大切に思っていますから。フィリア学院に通うのは辞めさせられたかも知れませんけど、才華様達に類が及ばないように全力で護ってくれていたと思います」

 

 これも間違いない。

 りそなは嫌っている相手には、本心からの感情を絶対に表に出さない。でも、才華様達がした事を知ったら感情を顕わにした。この事だけで、りそなが才華様達を大切に思っている事が分かる。

 尋ねても本人は絶対に本心を言わないだろうから、口には出さないけど。寧ろ口に出した方が怖い。

 否定する為に即日才華様をアメリカ送りにぐらいしそうだからね、りそなは。

 

「そう言えば小倉さん。まさかとは思うんだけど、今回の件はアメリカの旦那様達には……」

 

「言ってません。と言うよりも、何て言ったら良いのでしょうか? 親子二代でこんな事をやっているなんて桜小路遊星様が今知ったら気絶じゃすみませんよ。そもそも言っていたら、八千代さんが日本に来ています」

 

「……そうね。山吹メイド長が来ているわね」

 

「八千代さん、桜小路遊星様、そしてルナ様に本当の事を言えなかったのは辛かったです。しかも僕が叱った件を誤魔化しましたから、三人の感謝の言葉を聞く度に辛くて」

 

「ごめんなさい、小倉さん。もう言わなくて良いわ……確かにそれは辛かったと思う。本当にありがとう」

 

 察してくれたのか、八十島さんは涙ぐみながら僕の肩に優しく手を置いてくれた。

 本当に辛かった。ルナ様達が本気で感謝してくれているのが分かるだけに、何度辛さで胃が痛くなったか分からない。

 

「来年……僕はきっと八千代さんに土下座する事になると思います」

 

「その時は私も一緒にするわ。二人で謝れば、山吹メイド長も……許してはくれないでしょうね。これはいよいよ覚悟を決めておかないと! 筋骨隆々! ボン!」

 

 八十島さんは急に身体を動かし始め、何らかのポーズを取り出した。

 ……懐かしいな。桜屋敷に居た頃も、時々こうして僕を元気付けようとしてくれた。

 嬉しい気持ちで僕は、あの時とは違って笑顔を浮かべて八十島さんを見つめた。

 

「コンシェルジュさん!! 60階のプールで人が溺れてる! 早く行って!!」

 

『えっ!?』

 

 扉の外から女性の悲鳴のような声が響き、僕と八十島さんは慌てて外に飛び出した。

 同時に『桜の園』内に、非常用の災害が起きた事を知らせるサイレンが鳴り響いた。

 外にはカリンさんも立っていて、声が聞こえて来た方と思わしき通路の方を険しい目で見ていた。

 

「カリンさん。今の声は!?」

 

「事情は分かりませんが、かなり切羽詰まった様子でした。恐らく事実かと」

 

「八十島さん!」

 

「ええ、プールに急いで行きましょう!」

 

「カリンさんは救急車の手配を!」

 

「了解しました」

 

 カリンさんに指示を出して、僕と八十島さんは駆け出した。

 ……嫌な予感がする。急いで行かなければ、取り返しのつかない事が起きるという嫌な予感を、何故か僕は感じていた。

 

 

 

 

side才華

 

「ただいま。挨拶をしても、私達以外に部屋には誰もいないけどね」

 

「そうですね、私達だけです。ですが私はこうしてお傍にいます。おかえりなさいませ、エストお嬢様」

 

「うん、ただいま」

 

 『桜の園』の65階にあるエストの部屋に、僕らは帰って来た。

 アトレと九千代の事は心配だけど、小倉さんも傍にいるだろうから多分大丈夫だと思う。

 あの人の優しさに甘えるのは申し訳ないと思う。それに、総裁殿も流石に手は出さない筈だ。言葉ではそれこそトラウマになりかねない程に叱られるとは思う。

 僕らが……正確に言えば僕がしてしまった事は、総裁殿の怒りを買うのに十分な行いだ。

 本当ならエストと一緒に部屋に来るなんて余裕はないけど……僕の内の何かがエストから離れるなと言っている。

 絶対に此処で離れてはいけないと、漠然と感じる。

 ずっと掴めそうで掴めなかった何かが漸く掴めそうな気が……。

 

「ん? 朝陽さんは自分の部屋に戻らなくて良いの? 自然と私の部屋まで一緒に来てしまったけど」

 

「お嬢様の鞄をお持ちするのは、従者である私の役目です。こうして、お部屋までお運びするのは当然です」

 

「それもそうか。じゃあこの後は部屋に戻ってしまうのだよね。それともアトレさん達の方に行くの?」

 

 ……そうだ。自由にして良いなら、今すぐにでもアトレ達の方に。

 だけど……。

 

「いえ、お嬢様が一人になりたいと仰らない限り……就寝の時刻まで行動を共にします」

 

 何を言っているんだろう僕は?

 デザイナーを目指している僕とエストの就寝時間は遅い。小倉さんにエストと一緒にいるのは八時頃までと言ったじゃないか。なのに何でこんな事を言っている?

 逃げようとしているのか? 小倉さんや総裁殿から。その為にエストを利用しようとしているのか?

 

「これから毎日?」

 

「そうです、毎日です」

 

「そう」

 

 エストは疲れたのか、ベッドへ腰かけた。

 僕は彼女の鞄をフックに掛けると、自分の鞄を手にしたままドアの脇で待機した。

 

「あ、朝陽さんも鞄を掛けなさい。それと、立っていては疲れるだろうから、椅子にでも腰掛けなさい」

 

「ありがとうございます、お優しきエスト」

 

「疲れたー」

 

「身体を横にするなら、部屋着に着替えましょう。明日も学院に行くのですから、制服に皺を付ける訳にはいきません」

 

「よし。起きよう! 起きよう!」

 

「ですから、皺がつくのでゴロゴロしないで下さい。先ずは上半身を起こしましょう」

 

「地球の重力には誰も逆らえないと思うの」

 

「縄で椅子に縛り付ければ重力に勝てるでしょうか」

 

「ひぃ!」

 

 縄を探す為に僕が腰を浮かすと、エストは慌ててがばりと上半身を起こした。うん、やれば出来るじゃないか。

 

「良かった」

 

「何がでしょう?」

 

「朝陽さんがこれから毎日側にいてくれると言ってくれて」

 

「一人はお嫌ですか?」

 

「ううん、ニューヨークでは使用人を雇わずに暮らしていたから、一人が嫌ではないの。でも日本では、朝陽さんが居てくれて良かったと思う」

 

「それは……ニューヨークの時とは違い、周りにいるクラスメイト全員が日本人だからでしょうか」

 

「そうかも知れない。でも、大丈夫だと思っていたのだけど」

 

「はい。お嬢様は大丈夫だったのだと思います」

 

 教室でジャスティーヌ嬢からの言葉を聞いて、ダメージを受けるまでは。

 エストは、本当に大丈夫だったと思う。アトレやルミねえ、八日堂朔莉に囲まれても楽しそうにしていたし、日本へ来てから二か月と半月近く過ごして、この国の風土にも慣れて来た。

 不安で押し潰されそうだった僕を助けようとしてくれた時もあった。

 だけどそれは『大丈夫』であって、心から安堵出来ている訳じゃない。

 エストは僕を驚かそうとしたのもあったけど、一度しか会っていない筈の小倉さんを探していた。あれは服飾部門で、僕以外の知り合いがいる事を確認したい意味もあったのかも知れない。

 それに入学式の後の教室で、梅宮伊瀬也から『他に海外の人間が教室にいる』と聞かされた時に、思わず零れた表情を見て僕は察した。無意識の内に何処かでは、エストは自分と同じ地域を故郷とする相手を求めていたのだろう。

 だけどその相手は、エスト自身、またはその家族の好ましくない事情を知る人間だった。

 同郷の士を得る筈だった喜びが、その大きさの分だけ落胆としてのしかかり、見えずにいたストレスが、期待の大きさだけマイナスの心となって、エストを疲れさせてしまったのだと思う。

 何時も明るい心でいた彼女だから、気づいてあげられなかった。

 本当なら気付かないといけなかったのに。僕はエストに幾度も救われている。

 面接で採用して貰った時。現状を知って不安に押し潰されそうになった時。他にも彼女と過ごす日常の中で、僕は救われていた。

 フィリア学院に通うのは年末のショーに参加して、嘗ての劣等感を払拭し、自らの栄光を掴む為の筈だった。

 その為に一枚でも多くデザインを描かないといけない。なのに。

 

「お嬢様」

 

「なに?」

 

「私はお嬢様に申し上げたい事があります」

 

「何でもどうぞ。言って」

 

「ありがとうございます」

 

 あの時、僕は嬉しかった。

 本当はそんな資格なんて無いのに、彼女が教室で両腕を広げ、この身体を庇ってくれた時に、僕はエストの為に心から何かをしたいと思った。

 故郷の近い親しみを覚える人間を相手に、僕の誇りを守ってくれた。自分の立っている場所の高度を知りながら、それでも立場が上の相手に立ち向かってくれた。

 同じ高度で争える小倉さんに任せれば良かったのに、エストは任せたりせずに自分の身を挺して僕を守ってくれた。

 恩を返したい。これまで何度も僕を助けてくれたこの人に、恩を少しでも返したい。

 その為なら小倉さんや総裁殿の印象が悪くなるのも構わない。

 

「どうしてお礼を言ったの?」

 

「教室で庇ってくれたお礼。それに……今日まで従者として過ごさせてくれたお礼です」

 

「大げさだよ。当然の事をしただけだから」

 

「人を守る事が当然だと思える貴女の側にいる事が出来て良かった」

 

「そう。それなら少し甘えて良い? 肩を貸して」

 

 肩を貸す。それは寄りそうという事だ。

 戸惑った。エストが言いたい事は分かる。これが何の事情も無ければ、僕はエストに肩を貸していたかも知れない。

 弱っている彼女を少しでも安心させようとする為に。だけど、僕には其処までの事を彼女にして良いのか分からなかった。

 女装している事もあるけど、一見すれば恋人だと見えるような真似をエストに対して僕なんかがして良いのか。だって、僕は無関係な彼女を含めた家族までも危険に晒してしまう事をしているんだから。

 

「あ、そうだ! 私、泳ごうかな」

 

 僕の迷いを抵抗だと捉えたのか、エストは先ほどの願いを撤回した。

 また、気を使わせてしまった。ごめん、エスト。

 

「泳ぐのですか?」

 

「そう。下のフロアに、住人専用のプールがあったでしょう。泳げば気持ちがすっきりするかも知れない」

 

「私は塩素による目や肌への影響が恐ろしいため、ご一緒出来ませんが」

 

 それ以外にも水着を着れば、性別がバレてしまうかも知れない。

 ただでさえ僕は痩せ型だったけど、最近は食事を取れる量が少なくて、以前よりもかなり痩せてしまってウェストが細くなってしまった。水着なんか着たら、一発で正体がバレてしまうと思う。

 勿論、目や肌の事情もある。エストと一緒に泳いでみたい気持ちはちょっとあるけど。

 

「朝陽さんは泳がなくていい。プールサイドにいてくれるだけで嬉しい」

 

 それなら断る理由はない。タオルと彼女の着替えを用意して、60階へ移動した。

 プールの造りは太陽の光を遮断するように出来ていた。たとえ自分が泳ぐことはないと分かっていたとはいえ、本当に良かった。

 『桜の園』のプールに来たのは久しぶりだ。管理会社の人と一緒に見学した時以来かも知れない。本当に肌の事情があるから、僕は此処で泳いだりする事はなかった。

 だけどエストは一人で来て、時々泳いでいたらしい。この建物の(本当の)所有者である僕よりも脱衣所やシャワーの場所に詳しく、一人で準備を済ませて飛び込んでしまった。

 この時間帯に他の住人は居なかった。僕はプールサイドへ体育座りをして、水に浮かぶエストを眺めていた。

 

「あー……気持ちいい」

 

 エストは素人目にも綺麗だと分かるフォームで、端から端を何度か往復していたものの、今は何もせずにただ水に浮いていた。

 僕は泳いだ事がないから分からないけれど、身体って水に沈まないものなんだ。練習した経験もないから僕は泳げないけど。ただお父様は泳ぎも得意らしい。お父様とお母様の友達でもある柳ヶ瀬湊さんは、実家がある滋賀県の湖を往復で泳ぎ切って、『滋賀の河童』と呼ばれていると自慢していた。

 身体の事情さえなければ、僕も練習して挑戦してみたいと言って見たら、お父様とお母様が揃って止めてくれと言っていたなと思い出した。

 浮き輪を使えばとは思うけど、かっこ悪くて嫌だ。綺麗なエストの泳ぎを見た後だと尚更に。

 プールサイドに置いてある浮き輪を横目で見つつ、意識を水に浮かんでいるエストへ戻した。

 

「すっきりしましたか?」

 

「うん」

 

「元気は出そうですか?」

 

「もう少しすれば」

 

「明日は今朝と同じように登校出来そうですか?」

 

「問題ないと思う」

 

 広い空間に二人きりで会話をするのは楽しい。他愛ない内容でも、時々エストに質問を投げかけて、その返事を楽しんだ。

 とは言え楽しんでばかりはいられない。大切な質問もしなければならない。

 明日も今日と同じ事が起こり得る可能性を考えて,彼女がダメージを受けた原因を尋ねておかないといけない。

 

「お嬢様」

 

「ん、何?」

 

「ジャスティーヌと言う方が言っていた、お嬢様の実家に対する言葉は、どういう意味ですか?」

 

 本当は知っているけど、知らない事にしておかないと。

 エストだって、自分の家の事情を何故知っているのかと疑問に思うだろうから。

 

「私が知る必要がなければ、重ねて質問はいたしません」

 

「ううん。朝陽さんが聞きたければ話すよ。とは言っても彼女が口にした通り、私の実家は犯罪同様の行ないをして、何とか家名を保ってる。そのままの事だよ。私も、パパやその部下が、誰かに迷惑をかけたお金で生活して、こうして学院へ通ってる。贅沢な暮らしもしてる。それについては非難されたら何も言い返せない。あ、でも、朝陽さんに支払っている給料だけは、事情を話して別の仕事をしている兄から借りているの。だから貴女が気にする必要は全くない」

 

「お兄様だけではなく、ご実家からの仕送りも、いずれ返すつもりでいるのでしょう?」

 

「うん。そうだね」

 

「高い部屋で暮らすのも、ご実家がそれを望んでいるからでしょう?」

 

 家の格式が高ければ高いほどに、それに合った格式を持つ部屋を使わなければならなくなる。

 上流階級の世界は、舐められたら其処で終わりという部分がある。だから、どんなに苦しくても格式を落とさない為に見栄を張る家はある。

 エストの実家もその類の一つで、家族を守る為に形振り構わないという事だ。褒められた事では無いのは確かだけど。

 

「家を保つために、家族を守る為の選択を取った両親を、娘が責める事のないようにしているのでしょう?」

 

「お菓子も食べてるよ。良い服も着てる」

 

「何れ両親に返す意思があるなら、私は貴女がご実家のしたことで責められる謂れはないと思います」

 

 エストが教室で酷く落胆した理由も理解出来た。

 

「アイルランドから離れて暮らしている理由も理解しました。本国に居れば何が行なわれているかがその目に映り、両親の陰口も耳に入ります。それに耐え切れず、ニューヨーク、そして日本へ留学したのですね。ニューヨークでは、ご実家の事が周囲に知られてしまいましたか?」

 

「うん。そう」

 

 やっぱりそうか。いや、当然かもしれない。

 だって、僕もニューヨークに居る時点でエストの実家の黒い噂を聞いた。

 エストはニューヨークで、デザインで有名になった。有名になれば有名になるほど、その人物の事を詳しく知りたいと思うのが人だ。僕だってそうだ。

 ライバルだと思ったエストの事を知りたくて調べて、実家の黒い噂を聞いてしまった。僕は別に気にしなかったけど、他の人がそうだとは限らない。だから、彼女は日本に来た。

 

「それで日本に来たのですね。ご実家の事が知られにくく、有名な服飾の学院がある国へ。何時もアナタは明るかった。私もそれに救われた事があります。だけど故郷の事を知る人間が現れてしまいました。新天地に期待を寄せていた貴女には辛かったでしょう。もう日本には居られませんか?」

 

 今日のHR中や放課後の事が過ぎったのか、エストはすぐに返事をしなかった。

 

「お嬢様の返事がある前に、私の意思をお伝えします……私はまだこの国で、貴女と共にデザインの勉強がしたい。私が此処にいたいのもありますけど……何よりも私自身がお嬢様と共に服飾を学びたいと思っています」

 

「……」

 

「お嬢様は私を『お互いの成長の為にかけがいのない人』と言ってくれました。私はそれを否定しません。悩んで苦しんでいた時、お嬢様は私に手を差し伸べて下さろうとしました。握る事は出来ませんでしたが、その優しさが私には嬉しかった」

 

 ……ああ、そうか。どうして僕がエストの側から離れなかったのか漸く分かった。

 心の痛みを感じているエストを放っておけなかったんだ。

 

「お嬢様。以前から私には探している人がいると言いましたね」

 

「うん。覚えてるよ」

 

「私は……その人に決してしてはならない事をしてしまいました。苦しんでいた事を知っていたのに、私はその人の心を踏み躙ってしまったんです。謝っても許して貰えるか分かりませんでした。たとえ許してくれたとしても、私自身があの人にした事を許せないと思っています。ですから、お嬢様。もし貴女の事情を知り、貴女の暮らしを否定する者が現れても、私はお嬢様の意思を尊重します。私は貴女が今いるこの場所を全肯定します」

 

 本当は僕だけじゃなくて、ルミねえも、アトレも、僕の性別を知る関係者は、エストの家の事情を知っていた。

 そして小倉さんもきっと知っている。だけど、あの人は打算とか関係なくエストと仲良くなっていた。その証拠にジャスティーヌ嬢が言った後で会っても、あの人は何も変わっていなかった。

 僕が見た限り、実家はどうであれ、エスト自身を否定する人間には今のところ会っていない。

 

「これから先も、この国でどうか私と共に学んでください」

 

 真実を告げるその時までは。

 

「うん」

 

 エストは頷いてくれた。

 これで大丈夫だ。もしジャスティーヌ嬢がまたエストの事情を明かしたりしても、それで動揺したり、挫けたりする事は無い筈だ。彼女は僕なんかよりもずっと強い人だ。

 どうかエストには三年後に『日本で学べて良かった』と言って欲しい。その言葉を僕は聞く事は出来ないだろうけど。フィリア・クリスマス・コレクションが終わった後、僕が学院を去ってからもどうか彼女に楽しい学院生活が送れる事を願った。

 ……流石にそろそろプールの中に居過ぎでは無いだろうか。会話をして温かな気持ちにはなれたけど、気持ちを真面目にぶつける行為は、案外精神を消耗する。

 一声掛けて、部屋で休もうとエストに進言する為に様子を窺った。

 

「ごぼっ」

 

 ……あれ?

 

「お嬢様?」

 

「ごふっ! んぐ! 体勢を、保っていたら、足が攣って……ごぼっ!」

 

 溺れてる!?

 人間の身体は浮かぶんじゃなかったのか!?

 落ち着け。動揺したら冷静な行動も取れなくなる。

 エストは顔と手を辛うじて水面に出してもがいている。迅速に、かつ正しい行動を選択をする必要がある。

 先ずは壱与に連絡だ! 泳げない僕がプールに入って、二次災害を引き起こしたりしたら、誰も助けが来なくなる。

 壁に掛かった電話を取り、すぐに緊急事態である事を伝えようとした。だけど何故か連絡に出ない。

 タイミングが悪く他の用事でエントランスから離れているのかも知れない。やむを得ず災害時用の緊急ボタンを押した。だけどこれではいつ到着するのか分からない。

 今正に溺れているエストを救う為に出来る事はなんだ!

 ……浮き輪だ! サイレンが鳴っている中、僕は急いで拾い上げて、エストが居る場所に放り投げた。

 ところが無様にも、エストの手がギリギリ届かない地点に浮き輪が落ちた。救命具を放り込む事すら出来ないのか僕は!?

 エストも気がついているけど、足が動かないのか手を伸ばしても届かない。後僅かな距離さえあればと思った瞬間、僕は着ていた制服を脱ぎ捨てた。

 女性下着だけの姿と言う情けない格好である事など構わず、なりふり構わず僕は水の中に飛び込んだ。

 頭の中にあるだけの滅茶苦茶なフォームのバタ足で進む。初めてで中々な前に進まなかったけど、手は届いた。

 

「エスト! 掴まれ!」

 

 僕自身、死に物狂いで浮き輪へ掴まりつつ、彼女が伸ばしていた手を思いっきり引いた。

 エストの手が浮き輪に届くと、彼女は自らの意思で大きなビニール袋の上へと身体を乗せた。それを確かめた僕は、とにかく最悪の危機は脱したのだと安心する事が出来た。

 

「えっ? ごぼっ!」

 

 安心したと同時に身体から力が抜けて、僕の身体が水の中に入った。

 苦しい! 何で!?

 疑問が脳裏に募る。だけど、そんな事さえ忘れそうになってしまうぐらい苦しかった。

 握っているエストの手から力が抜けていくのを感じる。このままだとエストもまた水の中に!?

 そう考えた僕が手を放そうとした瞬間。

 

「若!?」

 

 壱与の声が聞こえた。同時に苦しんでもがく僕の耳に、誰かがプールの中に飛び込む音が聞こえた。

 その人は僕がエストのところに辿り着くよりも、ずっと速く辿り着いて僕を引き上げて、エストも落とさないように浮き輪を支えてくれている。

 それどころか、遅れてやって来た壱与と一緒にプールサイドに運んでくれた。

 誰だろうか? 何だか懐かしい温かさを感じる。

 初めて感じた苦しさで意識が定まらない。

 

「八十島さん! 早くAEDを!」

 

「分かったわ! 取り敢えず、若! これを! 後の処置をお願いします!」

 

「はい!」

 

 この声は?

 ……お父様? 若かりし頃のお父様の声が聞こえた気がした。

 そんな筈が無いのに。確かに聞いた時がした。

 目が痛い。塩素の影響が少し出ているのか、ぼやけて見えてしまう。

 でも、誰かが必死にエストの胸に手を当てて救命処置をしている。

 ……エスト。無事でいてくれ。エスト。

 僕は君に謝りたい。君に僕は許されない事をした。だから、どうか無事に助かって!

 

「エスト」

 

「……大丈夫です。きっと助けて見せます」

 

 今の声は小倉さん?

 小倉さんだったのか。さっき僕とエストを助けてくれたのは。

 お父様じゃなかった。僕の聞き間違いだったみたいだ。

 でも、今はそんな事はどうでも良い。

 エストの無事が何よりも優先だ。この身体を晒した時点で、エストには性別を隠すつもりはない。

 それでも君が許してくれるなら、交わしたばかりの約束を守りたい。君と共にフィリア学院で学びたい。まだこの国で君とデザインがしたい。

 何よりも僕は君を。

 

 支えたい!!

 

 ……ああ、そうか。そうだったんだ。

 僕はずっとこの答えを探していたんだ。だけど、この答えを受け入れる事が出来なかった。

 だから、目の前にずっと在ったのに掴む事が出来ず、いや掴む事を心の奥底で拒んでいた。

 この答えをずっと僕は否定していたから。絶対に相容れないとさえ思っていた答えだから、僕は受け止め切れなかった。

 

「コフッ!」

 

 僕の耳にエストの口から水が吐き出される音が聞こえた

 

「エストさん! 確りして下さい! 苦しいでしょうけど、もう少し頑張って!」

 

 小倉さんは更に力を込めてエストの胸を押し、水を吐き出させようとする。

 

「うっ、うぅ……あ、あっ……アサヒ」

 

「エスト?」

 

 喉の奥で溜まる水に苦しみながら、それでもエストは言葉を発した。

 呼んだのは小倉さんではなく、僕だった。エストは小倉さんを名字で呼ぶから、アサヒと呼ぶ相手は僕しかいない。最も頼れる人の名を口にする場面で、僕を呼んでくれた。

 この国の生活の中で、頼るべき相手だと認めてくれた。

 

「エスト……無事で 私は、此処に!」

 

 もう何も要らない。君が助かれば、それだけで良い!

 エストの手を強く握って祈るような気持ちで、僕は願った。

 小倉さんが頑張って救命処置をしているけど、喉の奥に溜まった水が苦しいのか、エストは何度も音を立てて咽せていた。

 水を……喉の奥にある水を吸い上げる事が出来れば。

 

「ッ!? 何をして!?」

 

 小倉さんが止める声が聞こえる。

 だけど、少しでも早くエストの苦しみを取り除きたかった僕は、エストの唇に自分の唇を当てた。

 

「んっ!」

 

「んむ!」

 

 人工呼吸の経験なんてない。知識はあっても、練習をした経験もない。

 だから、僕は彼女が吐き出そうとしている水を思いっきり唾液ごと吸い込んだ。

 

「んっ、んうっ!」

 

「んんっ! んっ! ちゅうっ」

 

 少しでも楽になるならと、僕は全力で水を吸い上げた。

 不思議な感覚を感じる。救命行為のつもりだったのに、エストの舌が絡まって来て段々と夢中に。

 

「駄目えぇぇぇぇ!!」

 

「こっふ!」

 

「才華様は素人なんですから人工呼吸なんて駄目です!」

 

「小倉さん! AEDを持って来たわ! 救急車も到着して、今カリンさんが案内して来てくるらしいから!」

 

「分かりました!」

 

 小倉さんの手でひっくり返された僕の横で、壱与と小倉さんがエストの処置をしている行為が聞こえる。

 

「若。取り敢えず制服を着て下さい。もうすぐ救急隊が来ますから、そのお姿を見られる訳にはいきません」

 

「あ、うん」

 

「若?」

 

「大丈夫。ちょっと脱衣所の方に移動しているから」

 

「……分かりました」

 

 その後、二人の処置で意識を取り戻したエストは、後から駆け付けた救急隊に運ばれて、病院に搬送された。

 僕は脱衣所の方に移動して、その様子を確認し安堵の息を吐いた。

 ゆっくりと自分の唇に触れる。

 エストに口づけをした瞬間、今まで目を逸らしていた感情を更に自覚した。

 助けたい。無事でいて欲しい。

 謝りたい。償いたい。借りを返したい。

 尽くしたい。誠意を見せたい。捧げたい。愛しい。

 様々な感情が渦巻いたけど、結局はたった一つの場所に帰結した。

 

 彼女の、エストの為になりたい。

 

 その気持ちを自覚した時、ずっと共感できずにいたお父様の言葉を思い出した。

 

『誰かの為になるのは立派な事』。

 

 言ってる事は正しくても、僕の目指す道ではないと思っていた。

 あの人の発想はお母様を中心として生きている従属した人間の発想だと思っていた。

 お母様のような王者の道を行きたいと考えていた僕には、お父様の言葉は受け入れられないものだと考えていた。何よりも、それが創造の世界に繋がるとは思えなかった。

 だけど、違った。そんな事は関係なかったんだ。

 大切な人の為に、大切な誰かの為にする事は、尊いものだと理解した。心から実感した。

 ずっと……それこそ自信を失う前から手の届かなかったものの一端に触れた気がした。

 

「才華様」

 

 呼ばれて顔を向けてみた。

 立っていたのは小倉さんだった。全身びしょびしょだった。制服を脱いだ僕と違って、小倉さんは制服のままでプールに飛び込んだのか、制服も濡れきっていた。

 服を着たまま水の中に飛び込むなんて、危険なのにこの人はきっと迷わなかったと思う。

 

「エストさんは無事に救急車に運ばれました。詳しい事は検査しないと分からないそうですけど、後遺症の恐れはないそうです。頑張りましたね、才華様。ご立派です」

 

「……ヒクッ、あ、あああああああっ!!」

 

 言われた言葉に嬉しくて涙が零れた。

 この人は違うと分かっているのに、嬉しくて仕方がなかった。

 あの人に、お父様に認められたような気持ちを感じながら僕は暫らく泣き続けた。

 小倉さんはそんな僕を優しく、まるで誇りにするかのような目で静かに見つめてくれていた。




原作で思うのですが、良く才華初めて泳いだのに溺れているエストのところまで辿り着けたなと思う。普通なら泳げずに入った時点で溺れているのに。
因みに朝日が服を着て泳げたのは、あの大蔵家なら服を着て主を助けろと教えかねないと思ったので服を着たままの泳ぎの練習をさせられていたという設定です。本当にやりかねないからね。遊星を認めていなかった大蔵家だと。
後、才華には正体はバレていません。

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