月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
今回は遊星sideで。
dist様、笹ノ葉様、lukoa様、烏瑠様、秋ウサギ様、くららん様、誤字報告ありがとうございました!
side遊星
「才華様。取り敢えず、このタオルで髪を拭いて下さい。そのままではお身体に障ります」
僕はプールの更衣室の中を探して見つけたタオルを、更衣室の中に置かれている席に座っている才華様に差し出した。
タオルを受け取った才華様は身体を拭いていく。僕も取り敢えず髪と顔だけは拭く。
制服はびしょ濡れで、身体に張り付いて嫌な感じだけど、才華様の前で脱ぐ訳にはいかない。
カリンさんが急いで替えの服を用意すると言ってくれていたから、それが来るまではこのままでいるしかない。
「……小倉さん」
「何でしょうか、才華様?」
「……ごめんなさい!」
振り返ると共に、才華様に頭を下げられた。
「謝って済む事じゃないのは分かっています! でも、幾ら考えても……僕には……貴女の心の傷を踏み躙った事に対する謝罪が思い浮かばない」
「……」
「貴女が言った通りだった……エストと小倉朝陽として過ごしていく日々の中で、僕の中でエストに対する信用と信頼が得られていく日々に喜びを感じていました。それと共に……痛みも感じていました。エストを騙している罪悪感が募っていくのを実感していた。だけど何時の間にかエストとの楽しい毎日を過ごしている内に」
「自分がしている事を、忘れてしまったんですね?」
才華様は顔を暗くしながら頷いた。
エストさんと過ごす日々は、才華様にとって新鮮だったんだろう。ルナ様と同じように、才華様は自由に陽の光の下に出られない。
事情は違うけど、僕と似ている。僕はお兄様と大蔵家と言う籠の中に居て、初めて得られた本当の自由と呼べる日々に浮かれて喜んでしまった。
そして何時の間にか、あの日々がずっと続くと思い込んでいた。どれだけ自分が危険で許されない行為をしているのかも忘れて。
「以前にも言いましたが……私は才華様の為されている事に何かを言う資格はありません。同じ事をした私には、才華様を非難する資格はありません。ですが、今の立場を以てお伝えさせて貰います。私、小倉朝日はフィリア学院の理事長大蔵りそな様の命により、学院内での問題を調査する為に派遣された者です」
……今、微かに更衣室の扉が動いた気がした。
「……やっぱり」
才華様は気がついていない。
そっと更衣室の扉の方を見てみる。
……あの人だ。でも入って来ないところを見ると、様子を見ているようだ。
なら、話を続けさせて貰おう。
「調査員の件はお父様が事前に伝えたと聞いています。それが私だとはお伝えしていなかったようですが」
多分、この指示を出したのはりそなだと思う。
お父様は才華様達に甘いから、りそなが釘を刺すという意味もあって調査員が僕である事を隠させた。
正体が分からない調査員の存在は、才華様達にとって不安の種でしかなかったと思う。だったら最初から伝えていればと思うけど、今のりそなは才華様達に怒りを抱いている。
もしもお爺様がルミネ様のしている事を知らず、何も起きる事無くフィリア・クリスマス・コレクションで才華様が最優秀賞を得る事が出来ていれば、りそなは叱っても怒りまで覚えなかったと思う。同じ事をしたんだから、本来ならりそなは、不満はあっても怒りを覚える筈が無い。
だけど今の状況は別だ。事は桜小路家や大蔵家だけじゃなくて、無関係なアーノッツ家まで巻き込む大惨事が起きかねない状況になっている。
だからりそなは怒ってしまった。自分達が漸く得られた家族を大切に思う大蔵家を崩壊させ、桜小路遊星様の幸せを失わせかけている才華様達に。
「既に分かっていると思いますが、りそなさんは才華様達の為さろうとしている事を全て知っています。私が……パリで知り得る限りの事を全て話しました。申し訳ありません」
「……その切っ掛けを作ったのも、僕ら、いや僕なんですよね?」
「そうなります。パリで服飾の勉強をしている最中に、りそなさんからルミネ様が裏社会と繋がりのある家と接触したという話を聞かされました。私がルミネ様と一緒にいたのは数時間にも満たない間でしたけど、あの方が規則を大事にしている方だという事は良く分かりましたから。そんな方が裏社会と何らかの繋がりのある家と接触するのは可笑しいと言われ、何か知らないかと問い詰められました」
本当はルミネ様の件が無くても、りそなは調査員の派遣を考えていた。
とは言え、その事まで才華様に教えなくても良いと思う。僕の正体を知られる訳にはいかないから。
「ごめんなさい。貴女に迷惑をかけてしまって」
「迷惑だなんて思っていません」
「でも!?」
「りそな様は才華様の件が無くても、調査員として私をフィリア学院に入れるつもりでした」
「……えっ?」
「元々調査員の話はりそなさんの最後の悪あがきでもあったのです。りそなさんはなんとか服飾部門の男子部を形は違っても、残せないか考えていたんです。その方法が共学化です。ただその為には現在の服飾部門の女子生徒達の心情を確認しなければならない。他にも調査する事はありますけど。りそなさんは服飾に戻る決意を固めた私に、少しでも早く服飾の勉強が出来る環境をと思って、調査員の話を提案してくれていたのです」
女装してだけど。
「……どうして総裁殿は貴女に其処まで」
「その理由を教える事は出来ません。私とりそなさんのプライべートな事なので……話は戻しますが、もしも才華様が主人であるエストさんを、桜屋敷で言っていたような利用する相手としか見ていなかったら……才華様。私は貴方を学院から追放するつもりでした」
「……」
「ですが、先ほどの事や教室の件で、才華様とエストさんには確かな絆があると分かりました。私の心配は無用でした。才華様……改めて言います。ご立派でした」
僕はゆっくりと椅子に座っている才華様の肩に手を置いた。
本当に立派だと思った。体の都合上、才華様はきっと泳いだことは無いに違いない。
なのに、性別がバレてしまうかも知れないのに、プールに飛び込んでエストさんを助けようとした。
初めて水に入った事で、体力を失って溺れかけていたけど、冷静に判断して緊急事態である事を知らせ、浮き輪を投げてエストさんを救うのに最善を尽くした。
八十島さんと僕が間に合って助けられたのは、間違いなく才華様の頑張りがあったからだ。
「後でりそなさんと話す事になります。それまではどうか休んでいて下さい……ルミネ様。其処にいますよね?」
呼びかけると共に更衣室の扉が開き、申し訳なさそうな顔をしたルミネ様が入って来た。
「ルミねえ」
「ごめんなさい。盗み聞きするような真似して……その、小倉さん?」
「何でしょうか?」
「……私、まだ何処かで貴女を疑ってた。だけど、今の才華さんとの会話を聞いて、もう貴女を疑う気はない」
「……才華様の事をお願いします」
「うん。分かった。それと小倉さん。私の事はもう様付けで呼ばなくて良いから。貴女はもう使用人じゃなくて、大蔵家の一員だから」
「分かりました、ルミネさん。これで良いでしょうか?」
ルミネさんは笑みを微かに浮かべて、才華様を伴い更衣室から出て行った。
僕はそのまま更衣室に備わっているシャワー室に足を運ぶ。
びしょ濡れの制服が気持ち悪い。八十島さんがエストさんの付き添いに行く前に、部下の人に命じてプールには暫らく住人が入られないように指示を出してくれた筈だから、制服を脱いでも大丈夫だ。
……家に予備の制服があった筈だから、明日の登校には問題は無い。
シャワーを浴びながら、先ほどの光景を思い出す。
才華様の立派な姿を見られて嬉しかった。
あの方は間違いなく桜小路ルナ様と桜小路遊星様のご子息だ。
エストさんを助けようとした才華様は必死だった。途中で気道の確保もせずに人工呼吸をしようとしたのは慌てたけど、アレはエストさんを少しでも早く助けようとしたからだと思う。
「流石にあれには驚いたけど」
人工呼吸と言うよりも、濃密なキスにしか見えなかった。
……そう言えば僕って、外国生まれだけどファーストキスはまだなんだよね。相手も居ないし、今の状況だと見つけられそうにないから、もしかしたら才華様がご結婚するよりも僕の恋愛は後になりそうだなと、他愛もなく笑ってしまう。
シャワーを浴び終え、タオルで身体を拭いていると、更衣室の扉をノックする音が聞こえた。
「小倉様。お召し物をご用意して参りました」
「ありがとうございます」
大きなタオルを巻いて身体を隠し、更衣室の扉を少し開けて、其処から差し出された着替えを受け取った。
……序でにメイク道具も渡されてしまった。
これはメイクをしろという意味なのだろうか?
正体がバレる訳にはいかないから、取り敢えずメイクを薄くし、受け取った着替えを手早く身に着けていく。
……その中にパッド付きのブラが普通にある事は頭が痛くなりそうだったけど。
いや、仕方がないのは分かっているんだけど……男として着る服が全て女性物になっているのは、やっぱり思うところがある。
「小倉様。準備は終わりましたか?」
「はい。終わりました」
濡れた髪もタオルで拭いて乾かしたし、もう大丈夫だろう。
ドライヤーがあれば良いんだけど、流石に其処まで更衣室の中には用意されていなかった。
「朝日。一体何があったんですか?」
カリンさんを伴って更衣室から出ると、アトレ様と九千代さんと一緒に最上階の部屋にいたりそなが一人でやって来た。
何か事件があったのは分かっているんだろうけど、詳しい話はまだ聞いていないようだ。
カリンさんは僕の服の用意で忙しかったし、八十島さんはエストさんの付き添いで病院に向かったから。
才華様はルミネ様の部屋で着替えをしているだろうし、りそなが事情を詳しく聞けるのは僕しかいない。
通路で話せる内容ではないので、カリンさんにまた見張りを任せて二人でプールの更衣室の中に戻った。
この更衣室の中なら、話せない事も話す事が出来る。此処に来れるとしたら、才華様、ルミネさんやアトレ様と九千代さんぐらいだ。他の人は八十島さんの指示があるから来る事は出来ない。
僕の正体をバレないようにする為の配慮もあったと思う。やっぱり、八十島さんは良い人だ。
「実は……」
誰にも話を聞かれなくなった僕は、りそなにプールでの出来事を説明した。
聞き終えたりそなは最初は慌てたけど、才華様もエストさんも無事だと知って心から安堵した。
やっぱり、りそなは才華様を大切に思っている。その事が嬉しくて思わず笑顔が浮かんでしまった。
「しかし、そんな状況だとあの甘ったれの正体はバレてしまったのでは?」
「うん。それは僕も心配している」
制服を着たままの僕と違って、才華様は制服を脱いでプールの中に入った。
溺れかけていたエストさんが何処まで冷静に状況を判断出来ていたのかは分からないけど……才華様の正体に気がついている可能性は高いと僕も思う。
命の恩人だからと言って、エストさんが性別を偽っていた事を許すとは思えない。特にどういう訳か、エストさんは才華様に対してかなり悪い印象を抱いている。一体二人の間に何があったのか気になる。
後で話すから、その時にでも聞けたら聞いてみよう。
「と言うか、貴方も無茶をしますね。制服のまま水の中に飛び込むなんて」
「ごめん。二人が溺れかけているのを見て、我慢出来なくて」
「そのまま貴方も溺れてしまいかねないのに」
「だって、大蔵家の使用人の教育を受けていた時に服を着たままの人命救助の訓練も受けていたから。主人の命を第一にって言われてたし。昔の事だけど」
「うわ~、今更ながらに知りたくもなかった我が家の闇。しかもそれを平然とこなしていた訳ですか」
「そのおかげで才華様とエストさんが助けられたんだから、本当に訓練していて良かった!」
「この兄は……まあ、本当に無事で良かったです。ただ無茶は止めて下さいね。妹、貴方に何かあったらと思うと心配でしたから」
「僕だけじゃなくて才華様も心配じゃないの?」
「はぁ? 何で私があの甘ったれを……まあ、無事だと聞かされて安堵は少ししましたけど」
素直じゃないね、りそなは。
しつこく聞くと僕じゃなくて才華様に累が及びそうだから聞かない事にするよ。
此処は話を変える意味で別の話題に触れよう。
「それでりそな。アトレ様と九千代さんはどうしたの?」
「あの二人ですか……本気で叱ってやりましたよ。何時もは優しくしてあげていましたけど、暫くはアトレにも厳しくいきます。止めても無駄ですからね」
「……具体的には?」
「アトレとあの甘ったれを最悪の場合、引き離します。あの子にはこれ以上に無いほどの罰です」
「……意味が分からないんだけど、どうしてそれがアトレ様の罰になるの?」
「あの子は私にちょっと似ている部分がありましてね。ただあの子の場合は私よりも深刻と言うべきか。まさか、此処まで悪化してしまうとは思っても見ませんでした」
「どういう事、それは?」
「……貴方には少しキツイ話かも知れません」
「……聞きたい。ううん。聞かないといけない気がする。だから、話してりそな」
「分かりました……実は」
りそなから聞かされた話には驚いた。
アトレ様は自分の人生が才華様を幸せにする為にあると考えているらしい。確かにりそなと似ている。だけど、どうしてその考えがあの幸せな桜小路家の中で生まれてしまったのか僕には分からなかった。
その原因もりそなは教えてくれた。アトレ様の考えの根幹にあるのは、才華様と自分との容姿の違い。
才華様と違って、アトレ様は日本人寄りの、正確に言えば僕や桜小路遊星様寄りの容姿をしている。
その事をアトレ様は『押し付けた』と考えているようなのだ。幼い頃、才華様が陽の光の下へ出られなかったり、外見で苦しんだ事も影響し、アトレ様の中で容易に消せない問題になった。
当時の桜小路遊星様は、まだ子供だからと考えて好きにさせてしまい、八千代さんも家の体面を考えて様子見という形にしていたようなんだけど、アトレ様の考えは変わらないどころかより強い鎖という形で強固になってしまった。
「あの甘ったれが私が認められるだけの結果を出せなければ、アメリカに送り返すって言った時に何て言ったと思います?」
「……分からない」
「じゃあ、自分もアメリカに戻るって平然と言ったんですよ。友達とかどうするんだって聞いたら、お兄様の方が大切ですって言われて頭が痛くなりました」
重い。重すぎる。
才華様が聞いたら、言葉を失うんじゃないだろうか? と言うよりも、何でそんな事になるまで桜小路遊星様もルナ様も放置してしまっていたんだろう。
これはかなり深刻な問題では無いだろうか?
「あの子の幸福はあの甘ったれの役に立つ事だと本気で思ってます。それこそあの甘ったれが引き篭もりにでもなったら、自分も学院に行かずに四六時中あの甘ったれの側にいそうです」
「……何でそんな事に」
頭が痛い。子育ての難しさを実感する。
いや、アトレ様は僕の子じゃないんだけど。
……けど、確かに言う通り、りそなにアトレ様は似ているけど決定的にりそなと違う点がある。
それはりそなは僕とある程度離れても居場所さえ分かっていれば大丈夫だけど、アトレ様は居場所が分かっていても才華様から離れる事が出来ない。勿論、りそなも不安を感じてはいるけど、それに耐えることが出来る。アトレ様にはそれが出来ない。
もしも自分の見えないところで才華様が不幸になっていると考えるだけで、心がハラハラして落ち着く事が出来ないらしい。
……重症だ。深刻なまでにアトレ様の想いは、向けられる相手にとって辛さを感じかねない。幸いと言うべきか、向けられている才華様は、アトレ様の想いの深さを今のところ自覚はしていないようだ。自覚していたらその重さで、才華様は潰れていたかも知れない。
「このままずっとアトレ様は才華様の側にいるつもりなの?」
「本人が言うには、あの甘ったれの人生が輝きと祝福に彩られて、生涯のパートナーを見つけて、常に喜びに満ち溢れれば自分に出来る事はないと言っていました」
……アトレ様の考えは間違いなく善意から来ている。
確かに立派な事だとは思うけど……これは何よりも才華様を優先するという事だ。
りそなも僕を優先するけど、アトレ様の方はもっと深刻だ。思えば、才華様が女装して学院に入り込むと提案した時、アトレ様は悩む事なく才華様の提案を了承した。お父様と八十島さんは、桜小路遊星様の事もあったから話を聞いていたけど、その事を知らないアトレ様が才華様の提案を自然に受け入れたのはこういう事だったのかと今更理解した。
「妹。アトレを見て、子育ての難しさを改めて知りました。私に子供が出来た時は、ちゃんと育てたいと思います」
頑張って良い人を見つけてね、りそな。
「取り敢えずアトレの方は叱ったので、後は甘ったれの方ですけど」
「こんな事があったから今日は流石に止めておこう。エストさんの事も心配だから、もう少し此処にいるつもりだけど」
「私は明日から仕事がありますから……出来れば今日中に話をしておきたいですね。まあ、貴方の話を聞いてあの甘ったれがあの主人を大切に思っているのは間違いないようですから、最悪の場合、私から事情を話す事も必要かもしれません。全く……本当に困らされます」
「りそな」
「えっ? ……何ですか、その我が子の成長を喜ぶような眼は。止めて下さい、本気で」
「ごめん。そうだよね。りそなの成長を見たのは、桜小路遊星様だったよね」
「うぉっ! 今度は嫉妬するような目を。ムフフッ、こんな目をしてくれるなんて、妹嬉しいです。これだけでも喜びを感じます」
また桜小路遊星様に嫉妬を覚えてしまった。
りそな関係にはどうしても嫉妬心が湧き上がって来る。あの方にこんな感情を抱くのはいけない事なのに。
ごめんなさい、桜小路遊星様。
「総裁様、小倉様。八十島様からお電話です」
通路で見張りをしていたカリンさんが扉を開けて、僕の携帯を差し出して来た。
前は僕が所持していたんだけど、携帯などの連絡手段は家以外ではカリンさんに持たせるようにりそなとお父様に言い渡されていた。おかげでプールに飛び込んで、携帯を壊す事はなかった。
壊れていたらお父様にも説明しないといけなかったと思いながら、僕は携帯を受け取ってハンズフリーにしてりそなにも聞こえるようにする。
「はい、小倉です」
『ああ、小倉さん。今は大丈夫かしら?』
「大丈夫です。八十島さんのおかげでプールの更衣室の方には人は来れませんから。りそなも一緒にいます」
『そう。総裁殿もいるのね。それじゃ若にも既に報告したけど、エストお嬢様には問題は無いそうです。医者からも後遺症の心配はないと言われました』
良かった! エストさんは無事なんだ!
心配していたから八十島さんの報告は、本当に嬉しかった。もしも後遺症が残ったりしたらどうしようかと心配だったんだけど、こうして報告が聞けて心から安堵した。
『それでエストお嬢様からの頼みで、出来ればマンションに戻るまでいて貰いたいとの事です』
ん? 今八十島さんは何と言っただろうか?
「えっ? あの、病院に入院した方が良いのでは?」
幾ら助かったとは言え、油断する事は出来ない。
もしもの時を考えて、今日は病院に入院すると思っていたんだけど。
『若にも言いましたが医師の診断を頂いています。搬送後の経過を観察して、歩行、会話に問題はなく、回復していると判断されました。今日は部屋に戻って良いとの事です』
「それでも不安は残ります。もしも何かあったらと思うと……」
『それなのですが、小倉さん。エストお嬢様が部屋へ帰ろうとしている理由は、若に外出させない為なのです』
「才華様の為ですか?」
『はい。自分が入院していては若が必ず病院に来るとお考えなのです。それと……どうやらエストお嬢様は若の正体に気がついていないようなのです』
「えっ?」
『それとなく確認してみましたが、どうやら溺れかけた事で記憶がぼんやりしているようで。男性に助けられたのは覚えているようなのですが、それが若だとは思っていないようです』
これは……判断に悩む事だ。
才華様の正体がバレなかった事は安堵すべき事だけど、僕個人としては残念ながら判断に悩んでしまう。
僕は……やっぱり才華様の為されている事を完全に肯定する事だけはどうしても出来ない。他の皆は、きっとりそなも桜小路遊星様の成功を知っているから、才華様の為されている事を肯定寄りに見てしまう。
だけど僕にはどうしても肯定し切る事が出来ない。今もこうして女装してフィリア学院に通う事を選んだけど、それはりそなが言ったあの言葉があるからだ。
『私の為にフィリア学院に通って下さい』
りそな本人も言いたくないと言ったあの言葉。
アレが僕を動かしている。もしもその言葉が無ければ、僕は真実を告げてもフィリア学院に通う事はしなかったと思う。りそなの頼みなら何でもしたい。
だからトラウマになっていても、フィリア学院に通う事が出来ている。
心の奥底。今は耐えられている罪悪感。その罪の意識がふとすれば、自分のしている事は間違っていると告げて来る。
前と違って女性戸籍を持っていて法的には何の問題も無い事になっているけど……どうしてもあの時の事が脳裏から離れない。ほんの少し前まで親しかった人が豹変して、敵意を向けられた恐怖。
……トラウマになっている自覚はある。
『とにかくこれからエストお嬢様と『桜の園』に戻ります。最初は若と話したいそうなので、小倉さんには待って貰う事になるでしょうが』
「構いません。私もエストさんの無事な姿を確認したいです。才華様との話が終わったら、この携帯に連絡を下さるように伝えて下さい。番号の方はお伝えして構いませんから」
『分かりました。それでは失礼します』
電話が切れて、会話を聞いていたりそなが悩むように両手を組んで動かしている。
「この場合、本当に分かっていないか、分かっているのに誤魔化しているのか判断に悩みますね」
「うん。だけど、エストさんは才華様の事を……あ、性別は知られても正体までは知らないんだよね」
「そもそも一体何をやらかしたんですか、あの甘ったれは。かなり敵意を抱いていましたよ」
「そうだね」
エストさんが、小倉朝陽ではなく桜小路才華様を嫌っている事は同意するしかない。
でも、幾ら考えても答えは出ない。やっぱり後でこの件も才華様達に確認した方が良いかも知れない。
「重要な報告をするのを、一つ忘れていました」
カリンさんが更衣室の中に入って来た。報告? 何だろうか?
僕とりそなはその報告を聞き、カリンさんに案内されて『桜の園』の44階に向かった。
「此方になります」
44階にある部屋の前に、僕とりそなは立っていた。
この部屋の中にいる人物が、僕と八十島さんにプールでの出来事を伝えてくれた人らしい。
何故カリンさんがその人を見つけられたかと言うと、特徴がある髪の毛をしているらしく、またその人物も有名な人らしいから、僕と八十島さんが居た従業員用の部屋に走って行くところを『桜の園』の住人に目撃されていた。
カリンさん自身も、あの声が聞こえた時に特徴的な髪の毛を目撃したようだ。
……本当に優秀な人だ。立場的には僕が主人だけど、後で服飾部門を調査する時の為に、アドバイスを聞いておこう。
でも、今はそれよりも優先して確認しないといけない事がある。
「りそなさん」
「良いですよ」
「では」
インターホンを押す。部屋には間違いなくいるらしい。
『どちら様かしら?』
「小倉朝日と申します」
『小倉朝陽さん? 可笑しいわね。私が知っている朝陽さんとは声が違うのだけど』
「その方と私は別人です……お話があります。プールでの事と言えば分かるでしょうか」
『プールの事? 何の事かしら? 何かあったようだけど、私は何も知らな……』
「私の従者が貴女を目撃しています」
『……分かったわ。扉を開けるから、ちょっと待っていて』
どうやら了承してくれたようだ。
少し待っていると部屋の扉が開き、中から特徴的な青紫の髪の毛をした女性が私服姿で出て来た。
……なるほど。確かにカリンさんの言う通り、特徴的な髪をしている。
地毛とは思えないから、脱色した髪の色だとは思うけど。
「初めまして、私、八日堂朔莉」
「小倉朝日と言います」
「ワオッ! ルミネさんが言っていた通り、本当に黒髪の小倉朝日さんが居たんだ。困ったわ。本当に困った」
「何がでしょうか?」
何か僕の名前で困る事が、彼女にあるのだろうか?
「だって、私の最近の夜の盛り上がりを維持していたのは、白髪の小倉朝陽さんがいたから。それなのに黒髪の小倉朝日が目の前に現れたおかげで、今後の夜の盛り上がりの維持が出来なさそう」
「夜の盛り上がり? ……ああ、もしかして何か夜に朝陽さんとお食事でも作っているんですか?」
「えっ?」
「どんな食事を作っているんですか? 夜に盛り上がっているという事は、もしかして毎日二人で食事を作って……」
「嘘、嫌だ。もしかして、本当にこの人も分かってないの? ルミネさんに続いて想像以上の純粋培養な人」
「何がでしょうか?」
二人で食事を一緒に作っているんじゃないのだろうか?
夜に女性と二人だけで一緒にいると言うのは、才華様の事情を考えると危ないと思うけど、それだけ二人が仲良くしているという事ではないのかな?
疑問に思っていると、僕の横からりそなが一歩前に踏み出し、僕と八日堂さんの間に割って入った。
「この子にその辺りのネタは止めて下さい。本気で分かっていませんから」
「マジで!?」
「マジです。で、そろそろ演技は止めてくれると助かります」
「えっ?」
演技? 何を言っているのだろうかりそなは?
だけど、りそなの発言を聞いた八日堂さんは先ほどまで余裕そうな雰囲気だったのに、渋い顔をした。
「ごめんなさい……私、正直言って素だと、貴女とは話せなさそう。でも、私の演技を見抜くなんて……流石は大蔵家の総裁殿ね。結構本音も混じっているんだけど」
「年季が違うんですよ。こっちは笑顔で本性を隠して接近して来る相手と長年やりあっていましたから」
「演技力には自信があったのに自信を少し無くした……部屋に入って。誰かに聞かれたら不味い話。貴女の甥。桜小路才華さんの話なんだから」
原作ではアトレに甘いらしいりそなですが、この作品では共犯の一人なので、才華同様に怒っています。
この作品には才華にとってのラスボスがいます。次の内誰でしょう?
1、ラフォーレ。
2、大蔵衣遠。
3、山吹八千代。
4、大蔵りそな。
5、桜小路ルナ。
さあ、一体誰なのか!?