月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
本年もどうかよろしくお願いいたします!
水上一佐様、烏瑠様、Almeca様、誤字報告ありがとうございました!
予定通り日記ファイナルとそして後半にIFがあります!
『小倉りそなの日記ファイナル』
【六月上旬】
あの部屋で見られる夢の不安定は変らないどころか悪化の一歩を辿ってしまっています。
それでも何とか重要と思える部分だけは見られている事に安堵すべきでしょう。
ただどうやら彼方も不穏な空気が出ているみたいでした。断片的な部分もありますが、どうやら下の兄は彼方の上の兄に誰かのスポンサーになるように依頼していたようです。
此方の上の兄を知っている身としては少々信じ難いですが、本当に彼方の上の兄は下の兄の事を家族して受け入れていて、本当に驚きしかありません。
下の兄は『ジャスティーヌ・アメリ・ラグランジェ』のクアルツ賞での衣装製作を正式に受けたらしく、衣装のモデルになれる相手を探しているようです。
服飾生として本格的に私も歩み出したので、衣装製作の難しさは結構思い知らされています。
そして下の兄が選んだ候補の1人が、どうやら彼方の私の叔母にあたる『大蔵ルミネ』。
下の兄の性格を考えればお爺様へのゴマすりとかあり得ない。
案の定、夢の中で彼方の上の兄が質問したら、純粋に彼女が候補に挙がった理由は、元々のデザインイメージとして選ばれていたモデルに一番近い相手だったから。下の兄が製作しようとしている衣装のモデルは、何とあの彼方の私の甥で……彼方の下の兄とルナちょむの息子である『桜小路才華』が女装した姿。
……色々と頭が痛くなりそうな話です。現に話を聞いた此方のルナちょむは頭を抱え、メイド長は深い溜め息を溢していましたから。それで大蔵ルミネのスタイルを参考に、桜小路才華は女装のスタイルを決めていたらしく、デザインのイメージに一致するスタイルの持ち主が彼女。
私も服飾を学んでいる身ですから、下の兄が彼女を選んだ理由に納得しました。
……で、問題は2人目の候補者。
此方の相手は私としてはかなり複雑な相手。あっちの私の姪であり、下の兄の心の傷を抉ってくれたあの『桜小路アトレ』。
ルナちょむにこの事も話したら、かなり複雑そうな顔をされました。私も少し複雑です。
下の兄と仲直りしたのは分かっていますけど、夢として直接見たのは京都の人と従者の人だけですからね。どうやっても姪としては見られません。私の下の兄への想いのこともありますし。
【六月上旬】
下の兄の事も重要ですが、私も今はフィリア女学院に通う服飾生。
毎日学院にルナちょむ達と通っていますが、大蔵家にいた頃に通っていた学院と違って今はとても快適に過ごせています。
上の兄の妹とか大蔵家の人間だからとか、変な期待を向けられないのがやっぱり過ごしやすさの理由でしょう。
ただ……まさか、授業の内容を聞きに来るクラスメイトが私に出来るなんて夢にも思っていませんでした。首席合格なんてしてしまったばかりに……。
【六月上旬】
どうやら例の彼方の学院で起きた問題は解決出来て、遂に下の兄が本格的なクワルツ賞の衣装製作を始めました。モデルに選ばれたのは、あのアトレ。
複雑な気持ちはやっぱり拭えませんが、下の兄がアトレをモデルを選んだ理由を知って納得出来ました。
クワルツ賞でアトレにモデルを務めて貰って、彼女が抱えている心の問題の一端を解消して貰いたいと言う気持ちからのようです。
そして桜屋敷の中でも下の兄が本格的に製作に入った事で、ルナちょむとスイスの人が俄然やる気を見せ出しています。二人とも疑似的な形とは言え、下の兄と競い合える機会が出来た事を嬉しく思っているようです。
『大変気分が良い。ユーシェには今年も勝つつもりだったが、まさか、形は違っているとは言え朝日と対決出来る日が来るとは思っていなかった。この機会を逃したくないから、全力でやらせて貰おう』
『ルナには勿論負けるつもりはありませんが、更に朝日とも競い合えるなんて大変喜ばしいですわ! 世界は違っても朝日もクワルツ賞に参加すると言うならば負けるわけにはいきません! あの時の約束の為にも、今年こそ必ず最優秀賞を獲得して見せます!』
っと言って、ルナちょむとスイスの人はクワルツ賞に向けて衣装の製作を行なっています。
取り敢えず私とミナトンは今のルナちょむの従者である樅山紅葉と一緒に衣装の製作の手伝いを。スイスの人の方には京都の人とその従者の人がついて、桜屋敷にいる全員が来るクワルツ賞に向けて衣装製作に没頭しました。
因みに私は夜遅くになるとルナちょむから、あの部屋で寝るように厳命されています。不安定だとは言え、下の兄の衣装の製作の進展具合を知りたいのでしょう。
【六月中旬】
夢で見られる内容の殆どが朧気になって来ています。四月に夢の様子が変化するまでは、彼方での一日分の内容が見る事が出来たのに、今では夢の内容が途切れ途切れになったり、確かに見た筈なのに起きたら覚えていない事が当たり前になってしまっている。
本当の夢と言う形としては正しいのでしょうが……私達にとっては絶望です。本当の意味で下の兄との最後の細い繋がりが消えようとしているんですから。まるでもう時間は残されていないと誰かが伝えているかのような気がして不安が募って行きます。
不安に思っているのは私だけではなく、屋敷にいる全員です。まだ下の兄の心は回復し切れていない。
それに……これまでの夢の内容からすると……彼方の私達は何か重要な出来事を下の兄に隠している。
下の兄を蔑ろにしている訳じゃなくて……きっとその内容は下の兄にとって致命的な何かに違いありません。
私は……(此処から先は何も書かれていない)
【六月下旬】
遂に彼方ではクワルツ賞の本番の審査が始まるようです。此方でもスイスの人が朝からソワソワしています。同じように参加するルナちょむは何時もと変わらずに、朝食の席についていました。
私達も製作には手を貸しましたが、大勢で行くのは駄目ですし、何よりも学院があるのでクワルツ賞の審査会場には行けません、なので、朝の食堂でルナちょむとスイスの人にそれぞれ激励の言葉を送りました。
2人とも喜んでくれて、従者を連れて会場に向かいました。身体の問題がある、ルナちょむですが、この日ばかりは、下の兄との対決の意味もあったのか珍しく自分で賞の結果を聞きたいと思ったのか会場に向かって行きました。
結果はどうなるのか楽しみです。こんな風に誰かと一緒に作業した結果が気になるなんて、引き篭もっていた頃の私では想像も出来ませんでした。
『ルナちょむ達と一緒に服飾をやりたい』
何時の頃からか下の兄への想い以外で、私は明確にやりたい事を見つけてしまったようです。
そして帰宅したルナちょむとスイスの人からクワルツ賞の結果を聞きました。結果は……何とスイスの人が僅差でルナちょむを上回り、最優秀賞を受賞したそうです。とても嬉しそうな顔をしながら、最優秀賞を受賞した証である賞状を、スイスの人は私達に見せてくれました。
ルナちょむは準優秀賞だった事に少し悔しそうでしたが……。
『今回は私の負けを認めよう。改めて言うが、ユーシェ。やはり君は最高のライバルだ。今回の敗北の借りはフィリア・クリスマス・コレクションで必ず返すから楽しみしていてくれ』
素直に敗北を認めていました。直後にクワルツ賞の結果発表で嬉しさの余りにスイスの人が泣き出した事を、私達に話してスイスの人を恥ずかしがらせましたが。
とにかく報告を聞いた屋敷にいた全員が大喜びし、すぐにパーティーが始まって楽しかったです。
下の兄の方はどうなったんでしょうか? ルナちょむ達も気になっていますが、今現在下の兄の傍にいるのは彼方の私か彼方の巨人のメイドだけなので、私か彼女があの部屋で眠るしかありません。
巨人のメイドは私と一緒に寝るのは不味いと思ってくれているので、私1人があの部屋に入りました。今日だけはハッキリと彼方側の様子が見える事を願いながら、私は眠ります。
【六月下旬】
今日は朝から喜ばしい気持ちで一杯でした。
何とあの下の兄が、デザインは別の誰かが描いた物だとしても、何度も応募して一次審査で落選していたクワルツ賞で最優秀賞を受賞出来たんですから!
ずっと傍で下の兄の努力を見ていましたから、本当に心から嬉しくて仕方なくて起きた時は思わず泣いてしまいました。本当におめでとうございます、下の兄。
食堂で皆にも話したら全員が大喜びして朝から騒がしくなってしまいました。ルナちょむとスイスの人も、本当に嬉しそうで改めてこの桜屋敷にいる人達は良い人だと実感します。
此処で過ごせるなら大蔵の名を捨てた事は間違っていないと心から思いました。
……ですが、どんどん夢を見られる時間が少なくなってきています。今回の夢で見られたのは、ほんの数時間。しかも彼方の私と下の兄が一緒にいる時だけでした。
夢の終わりが近い。そんな不安で胸が張り裂けそうです。
【七月上旬】
遂に七月になりました。下の兄が彼方の世界に移動してしまった月。
私にとっては、ルナちょむ達のところに来るまで悪夢が始まった月でもあります。
そして何よりも…………夢を見られる時間が一時間を切りました。誰が夢を見ても、四月に不安定になる前のような長い夢を見る事が出来ません。
何時か来ると不安に思っていた事が現実になろうとしています。
夢は……もうすぐ終わってしまう。
【七月上旬】
日に日に桜屋敷にいる誰もが不安を募らせていきます。
僅かに残っていた下の兄との繋がり。それがもうすぐなくなってしまう。
下の兄の姿が見えなくても、ルナちょむ、ミナトン、京都の人、スイスの人、そして私はあの部屋で寝るようにしています。京都の人は少しでも不安を無くそうと……。
『こうして友達皆と一緒の部屋で寝るのって、何だか本当のお泊り会みたいね』
そう言って明るい話題を出してくれます。
だけど……やっぱり京都の人も不安を隠せないのか一緒に眠っていると寝言で『朝日』と呼んでいます。
私と同じように下の兄に想いを寄せているミナトンなんて、『ゆうちょ』と言いながら布団を涙で濡らしています。ルナちょむもスイスの人も元気がありません。
多分ですが……夢が終わるのは下の兄が桜屋敷から追い出された日。その日は……もうすぐ訪れてしまいます。
【七月中旬】
明日……遂に明日が下の兄が消えた日です。
夢はもう今日の時点で30分も見られなくなってしまいました。屋敷の中は全員が意気消沈しています。
せめて……せめて私達が下の兄に書いた手紙が届いているのかどうかだけでも分かれば気持ちは違ったかも知れませんが、届いているのかどうかさえも分かりません。
いえ、手紙は消えているので届いている可能性はあると思います。でも、それに下の兄が気付いていなければ意味はありません。
……私達……いえ、私に残された最後の方法は1つ。下の兄が消えた日にとった行動と同じ行動する。
それ以外にもう方法はないのに……今の私にはその方法を取る決意が出来ません。
下の兄同様に……私も沢山この屋敷に来て大切なものが出来てしまったから。
(此処から先は涙で滲んでいる)
【七月中旬】
夢は……終わってしまいました。
下の兄……どうか……幸せになって下さい。
(ページは涙で濡れ切っていて判別はこれ以上不可能)。
『選択が違っていたら』
sideりそな
桜屋敷のリビングには屋敷にいる全員が集まっていて、屋敷の主であるルナちょむとその隣に立っている私を見ています。ルナちょむも含めて、リビングにいる全員が不安と心配に満ちた目で私を見ています。
「では、本日朝日消失の謎の解明の実験を行なう訳だが……改めて確認するが良いんだな、りそな?」
「ええ、もう覚悟は決めました……もし成功して私もいなくなったら、お世話になったルナちょむや皆さんには大変申し訳ないんですけど……可能性があるなら試してみたいと思います」
例の謎の夢が見られる下の兄が使っていた部屋が、その力を失いかけているのは明らかです。
これまで夢と言う形でも下の兄の現状を知る事が出来ていました。その夢が見られなくなったらと思うと不安で仕方ありません。
結局……私はどうしても下の兄に会いたい。ルナちょむ達やフィリア学院でそれなりに親しくなったクラスメイト達と服飾をやりたいと言う気持ちもあります。
でも……その感情を上回る程に、やっぱり私は下の兄に会いたいんです。
だからこそ、去年から考えて唯一の可能性。下の兄が世界を渡った時と同じ行動をしてみる事にしてみました。
「ですが、りそな様。私が小倉さんを屋敷から追い出した後に、あの人がどのような道を歩いたのか分かりません」
メイド長の言う事も尤もです。
ですが、日本に来てからずっと下の兄を見て来た私にはどんな行動をするか自ずと見当はついていました。
「多分ですが、下の兄は追い出されたショックでまともな精神状態ではなかった筈です。私のところに戻るよりも先ずは1人で考えたい気持ちが強かったと思います。でも、夜遅い時間帯に大荷物を持って歩くのは不審者と思われかねませんから……」
「なるほど。となれば、朝日は屋敷を出た後に夜遅くても人通りが多い場所を目指した可能性が高い訳か」
「それだったら渋谷だよね」
ミナトンの発言に全員が頷きました。すぐにテーブルに置かれている地図に、屋敷から渋谷までの道に線を引きました。
「上の兄は屋敷を出てから少しの間は、下の兄を把握していたような事を言っていました」
そうでなければ、上の兄が下の兄が桜屋敷を出た事を知っている筈がありません。
「大変気分が悪い。あの男の部下が、私の屋敷を監視していた訳だからな」
「雇われていたのはかなり腕の立つプロでしょうね。悔しいけれど、私と北斗が気付けなかったんだから」
「目的が朝日の監視だったのも気付けなかった要因の一つですね。学院に行くまでの極短いだけの監視だったのでしょう」
……何だか別世界の話をされています。いや、私も桜屋敷に連れて来られる直前にアクション映画的な出来事に遭遇しているんですけどね。
「取り敢えずりそな。流石に朝まで歩かせる事をさせるつもりはない。屋敷を出て二時間経ったら、北斗とサーシャを迎えに行かせる」
「ええ、それでお願いします」
私の方が補導されませんからね。その辺りが妥協でしょう。
ただ……。
「不審者に思われかねない理由は、荷物の量も原因ですけどね」
食堂の端に置かれている荷物の数々に私は目を向けました。
背中に背負う事になる大きめのリュックに、両手に持つボストンバック。背中のリュックにはもし世界を渡った時の為の私の服と彼方での活動資金用に用意した十万円分のご銭。下手にお札を持って使ったら不味いかも知れないので、ご銭にしました。
両手に持つ予定の荷物には、新しい下の兄への手紙。以前と違い、屋敷にいる1人1人が手紙を書きました。他にはミナトンを除いたルナちょむ、スイスの人、京都の人が描いたデザインです。下の兄が一番喜ぶ物と言ったらデザインでしょうし、何よりも下の兄に自分達は許していると示す証拠にもなります。
一応、もし彼方に渡ったら先ず『フィリア女学院』……いえ、彼方では『フィリア学院』ですね。其処を目指し、次に彼方のルナちょむ達の息子たちが暮らしている『桜の園』を探す。
場所はフィリア学院から歩いて五分のぐらいの場所らしいので、探すのには苦労しない筈です。66階の高層マンションなんですから、尚更に目立っているでしょう。
別段、彼方のルナちょむ達の子供に会うつもりはありません。『桜の園』には下の兄に起きた事情を知っている巨人のメイドがいます。
彼女に会って事情を説明すれば、力を貸してくれるはずです。
それは下の兄を保護してくれていた事からも間違いありません。
「まあ、そもそも成功するかなんて分かりませんからね」
「藁にも縋るような行ないだからな」
非現実的な行ない。オカルトに縋って世界を渡ろうとするなんて、普通じゃ思いつきません。
あの部屋でそういうオカルトの類を経験していなかったら、こんな方法を実行しようと思いませんでしたよ。
そう思いながら食堂の時計を見てみると、メイド長が教えてくれた時間が近い事に気付きました。
「じゃあ、そろそろ行ってきます」
「気をつけてな、りそな。なに。駄目で元々な行ないだ。失敗したら、そのまま残念会でもしよう」
「ルナ様。一応まだ終業式前なのですから。やるのならば、夏休みに入ってからにして下さい」
そんな2人のやり取りを聞きながら、私はリュックを背中に背負い、両手に鞄を持ちます。
引き篭もりだった私には少し重労働ですが、下の兄に会えるかもしれないんですからこれぐらいは我慢出来ます。
そして皆に見守られながら、屋敷の入口に向かって歩いていると、ミナトンが声を掛けて来ました。
「り、りそな。や、やっぱり私も!?」
「湊様。それは……」
「ミナトン。駄目です」
ミナトンには大切にしてくれている家族がいます。
私には……そんな家族はいません。上の兄とは決別しましたし、大蔵の名も捨てました。
「それにミナトンがこっちにいないと、将来的にルナちょむの会社が大変そうですからね」
聞いた話ですが、彼方の世界ではミナトンは営業部長をしていて、ルナちょむを助けてくれています。
こっちでもルナちょむは既にミナトンを雇うつもりでいるんですから。
「それに失敗したら、私もルナちょむの会社でゴスロリ系のデザイナーをやるつもりでいるんですから、ミナトンには残って欲しいです」
「……う、うん……りそな。もし成功してゆうちょに会ったら……『幸せになって』って伝えてね」
「ええ、必ず伝えますよ」
私は微笑みながら告げると、屋敷の入口の扉を開けて外に出ました。
先ずは予定通り渋谷への道を進み……そして私は……『世界を渡りました』。
side才華
エストの部屋から出た僕は、そのまま自分の部屋に戻って年末に向けてのデザインを描こうとしたけど……思うように描けず頭を悩ませていた。
どうにも先ほどのエストとの会話が頭から離れない。それと言うにも、あんな告白みたいな言葉を口にしたエストのせいだ。空調は効いている筈なのに、身体が火照っているような気がする。
「……そうだ。少し夜風に当たって来よう」
明日からは本格的な夏休み。少し夜更かしするのも良いと思った僕は部屋から出て、一階のホールに出た。
「あら、朝陽さん。こんな夜遅くに一体どうされたんですか?」
ホールに出ると、受付に壱与が居た。
人がいなくても朝陽として対応してくれる壱与に内心で感謝しながら、僕は口を開く。
「少し夜風に当たってこようと思いまして」
「こんな夜更けにですか?」
「ええ、駄目でしょうか?」
「いえ、構いませんよ……あの人のような出来事がそうそう起きるとは思えませんし」
ん? 何だろう?
僕の返答の後は小声で良く聞き取れなかったけど、どうにも壱与の様子がおかしい気がする。そう言えば、もう11時過ぎなのに壱与がホールにいるのも今更ながらおかしいよね。
「そう言えば、八十島さんはどうして此方に?」
「あっ、いえ……実は今日は
あっ! そうなんだ。
確か小倉さんは屋敷の前にいたところを壱与が保護したんだっけ。その時の事を思い出して、壱与も寝付けなかったのかな?
「なので、少し思い出していました。朝陽さん。外に出るのは構いませんが、くれぐれも遠出などしないで下さい」
「はい、分かりました」
少し心配性だなと思ったけど、心から僕の事を心配してくれている壱与に感謝しながら僕は外に出た。
渋谷に来てしまった。
遠出をするつもりはなかった筈。なのに適当に歩いていて、辿り着いた場所はまさかの渋谷。
壱与の言葉を護れなかった事を反省しながら辺りを見回す。
既に夜も更けているのに、この街は賑やかだ。多くの人が今も行き交い、車の交通量も多い。せっかく来たんだから、何処かのお店でお茶でもしようかなと思った時……。
「姉ちゃん、金くれや」
声を掛けられたので振り向いてみると、煤けた肌にボロを纏った男性が立っていた。初めて見る、もしかしてこういう人がホームレスと言う人だろうか?
「あの、どういう事でしょうか? もしや財布を落とされたのですか?」
「いやよぅ、川崎まで帰りたいんだけど、財布落としちまって……」
やはり財布を無くしたんだ。それは大変だ。警察まで連れて行ってあげなくては。
「では、私が案内します。どうぞ、此方へ」
「……う、うえっ!」
「えっ……」
急にどうしたんだろうか? 何だか凄く顔色が悪いような?
そんな風に何故か次の出来事がスローモーションになったように感じた瞬間……。
「フンッ!!」
「ぎゃいんっ!」
「ええっ!?」
突然大きめのリュックが横合いから飛んで来て、僕の目の前に立っていた男性の横顔にぶつかった。
驚く僕だけど、リュックを叩きつけられて地面に倒れた男性はまるで限界を迎えたと言うように……。
「うえっ! うえええっ! うえええええぇーーっ!」
「ええええええーーーっ!!」
思いきり吐瀉物を地面に撒き散らした。
流石の僕も汚いと思って後ろに下がる。あ、危ないところだった。もう少し遅れていたら、あの吐瀉物が自分で作ったお気に入りの服に掛かっていたと思うとゾッとする。
「だ、誰だ!? 物をぶつけて来やがった奴は!?」
吐き終えた男性は怒りに満ちた声を上げて、リュックが飛んできた方に顔を向けた。
僕も釣られて其方に目を向けてみる。
「えっ? ……アトレ?」
目を向けて驚いた。リュックが飛んできた方向には、僕の妹に良く似た顔をした少女が立っていた。
背中の辺りまで届いている黒い長い髪の左側に赤いリボンを付けた少女。着ているのは黒いゴスロリ服。何より一番驚いたのは、僕の妹であるアトレに良く似ている顔立ち。
一体この少女は? って、今はそれどころじゃないよ!
「おう、嬢ちゃん。人に物をぶつけるなんて、どうなるか分かっているんだろうな?」
立ち上がったホームレスの男性が、謎の少女に近寄っている。いけない! そう思っていたら……。
「ああ、良いですよ。じゃあ、其処の……女性と一緒にすぐ其処の交番に行きましょうか」
「こ、交番!?」
「何だったら携帯もありますから、警察を呼んでも構いませんよ」
「い、いや……チィッ、酔いが冷めちまった」
警察を呼ばれるのは困るのか、ホームレスの男性は悪態をつきながら去って行った。
少女は安堵の息を吐くと、地面に落ちていた重そうなリュックを確認する。
「良かった。汚れていません。咄嗟でしたから、最悪な可能性を考えていましたが無事で良かったです」
「あ、あの……」
「……はぁ~、何ですか?」
凄く不機嫌そうな声が返って来た。いや、声だけじゃなくて顔も不機嫌そうだ
だけど、危ないところを僕はこの人に助けて貰ったんだからお礼を言わないと。
「危ないところを助けて頂きありがとうございました」
「本当に危なかったですね。もう見ればすぐに不審者だって一目で分かりそうなものなのに……だから……こっちの…に」
「えっ?」
何だろう? この人には初めて会ったはず。なのに……何故か僕は何処かでこの人に会ったような気がする。アトレに似ているからそう思うんだろうか?
「……まあ、感謝しているんだったら『桜の園』と言うマンションに案内して貰えると助かります」
「『桜の園』ですか? あ、あのどうして其方に?」
「其処に私の知り合いがいるからです。正確に言えば、私の……
「お姉さんですか?」
誰だろうか?
よく見れば、目の前の少女は大きめのリュックだけじゃなくて、両手に鞄まで持っている。もしかしてこれがドラマとかでよく出て来る家出少女なんじゃ?
だとしたらすぐ交番に彼女を送り届けた方が良いのでは? そう思うけど、彼女には危ういところを助けて貰った恩もある。それに桜の園には壱与もいるし。何かあったら彼女を頼ろう。
「分かりました。ご案内します」
そう告げて歩き出した僕の後を彼女は付いて来た。
何か話すべきかなと思うんだけど……どうにも彼女は苦手だ。不機嫌そうでもあるし、此処は黙って案内しよう。
「……本当に来れました……待っていて下さい、下の兄。妹は必ず会いに行きますから」
『IF小倉りそなルートが発生しました』
因みに世界を渡った事をりそなが気付いたのは、所持している携帯が繋がらない事に気付き、才華に会う前に道行く人に今は何年ですかと確認していたからです。
そしてタクシーを探してフィリア学院に向かおうとしたところで、ホームレスに迫られている才華を確認。危ないと思ったところで咄嗟にリュックを投げて救助しました。
本人は最初に会えた相手が才華であることに、凄く不満を持っている事は言うまでもありません。
今年もよろしくお願いします!