月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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一日が長い。四月は何話で終わるのか分かりません。
皆さま、感想、お気に入り、評価をありがとうございます!

秋ウサギ様、dist様、烏瑠様、lukoa様、笹ノ葉様、獅子満月様、ちよ祖父様、何時も誤字報告ありがとうございます!


四月上旬(才華side)8

side才華

 

「何処でも良いから座って」

 

「ありがとう。だけどまだ髪が乾いてないかも。ソファーまで濡らしちゃわないかな」

 

「そんなの濡れてもすぐ乾くよ。ああ違う、ソファーは良くても、髪が濡れたままじゃ風邪ひくね。ドライヤー持ってくる」

 

 ルミねえは気持ちが焦っているみたいだ。それでも走ったりせず、ドアの開け閉めも丁寧なのが彼女の好ましい部分だ。品性がある。

 許しを得たので僕は取り敢えずソファーに座って、携帯を取り出す。制服に入れていたので、携帯は無事だ。

 操作して画面を見てみると、壱与からメールが届いていた。

 

『お医者様からも一先ず安心との言葉を頂きました。これから本格的な検査に入ります』

 

 メールの内容に多少安堵した。

 小倉さんも後遺症の心配はないと言ってくれていたけど、やっぱり病院の医師の言葉があれば安堵が増す。

 だけど、そもそも彼女を心配する資格が僕にあるのか。緊急事態だったけど、僕は彼女の前で裸に近い恰好を見せてしまった。それは即ち僕の性別に彼女が気がついたかも知れないという事だ。

 彼女が目を覚まして状況を徐々に把握すれば、僕が男性である事に考えが行き着いた時、何かしらの動揺を見せるだろう。そんな時に僕が目の前に居たら、いきなり顔を叩いて来るかも知れない。

 その辺りも考えて、付き添いから僕を外して壱与が行ってくれたに違いない。あの二人には本当に感謝だ。

 もしもエストに何かあったらと思うと……身体が震えて仕方がない。

 

「はい毛布って! 身体を震わせてどうしたの? もしかして寒くなった? お風呂の方はもう少し時間がかかるんだけど、どうしよう」

 

「……大丈夫だよ、ルミねえ。エストの事が心配だったから」

 

「……そういう事」

 

 ルミねえは僅かに眉を顰めた。

 ……もしかして嫉妬したのかな?

 疑問には思うけど、ルミねえは構わずに僕の隣に座り、ドライヤーを使って髪を乾かして、整えてくれた。

 

「髪を乾かして、梳いて貰うだなんて恋人同士みたいだね。照れちゃうな」

 

「そういうの良いから大人しく座ってて」

 

「冷たい。この部屋にある、ルミねえが普段使っているものに触れると、生活を共にした気持ちになるね。何だか恋人同士みたいだな。照れちゃうね」

 

「良いから」

 

「冷たい。優しくしてくれても良いのに」

 

「優しくして欲しいなら、後で温かい飲み物をいれて、お風呂にもいれてあげるから」

 

 冷たいようで、ルミねえは過保護だ。嬉しいな。

 

「で、茶化して話を逸らそうとしているようだけど、これからどうするの?」

 

 それでいて冷静だ。僕の本心を見抜いている。

 

「……出来ればこのままエストの付き人を続けたい。調査員が小倉さんとその付き人だって事は分かった」

 

「それには驚いた。ピアノ科の方にまで噂になっていた。黒髪の女性に、気絶した白い髪の女性がお姫様抱っこで運ばれた話がね」

 

「止めて、ルミねえ。それを言われると、恥ずかしくてまた気絶しそう」

 

 指摘されると改めて恥ずかしくなる。この件でからかわれるのは、本当に恥ずかしいよ。

 

「その場面、私も見て見たかったけど……これから小倉さんに会って大丈夫?」

 

「名字で呼ばれるのは克服したよ。ただ恥ずかしさの方は……」

 

「無理だったんだ」

 

「うん」

 

 小倉さんに女装姿を見られるのは、どうしても恥ずかしい。

 ただこれに慣れれば、フィリア・クリスマス・コレクションの舞台に立つ時の度胸が得られるかも知れない。

 普通に女装して暮らすのには慣れたけど、よく考えてみると女装して舞台に立つ時は別の緊張と恥ずかしさが湧いて来る。

 小倉さんに女装して会う恥ずかしさを克服すれば、それは間違いなく僕の力になる。

 だけど、その前に解決しないといけない問題がある。

 エストだ。僕の性別に彼女が気がついていた場合、伯父様が用意してくれた偽の診断書を使って説得を試みる。

 桜小路才華だという事を明かすのは無しだ。

 彼女の中ではいまだに桜小路才華の好感度は、最底辺どころかマイナスのままだ。

 性別が男性である事までは受け入れてくれるかも知れないけど……桜小路才華だという事実だけは隠さなければならない。

 その旨をルミねえに伝えた。聞いたルミねえは真剣な顔をして、僕を見つめる。

 

「確かにそうね。最低でも正体が桜小路才華さんである事は隠さないといけない。エストさんだけじゃなくて、私達の為にも」

 

「調査員が学院に入った日に、調査の優先対象から付き人が離れたら、間違いなく怪しまれる」

 

「うん。だからもし性別がバレていたら、私が保証人になる。これで少なくともエストさんが抱くかも知れない不信感は和らぐと思う」

 

「ありがとう、ルミねえ。これで僕がエストを支える事が出来る可能性が増えるよ」

 

「支える?」

 

「うん……漸く触れられたんだ。僕が捜していたものに」

 

 エストを支えたい。その気持ちは今もまだ胸の内にある。

 ずっと否定していたから、この気持ちを自覚する事が出来なかった。今の僕は皆に支えられている。

 だから、立っていられた。僕も誰かを支えられるようになりたい。

 愛を与えたいと思っていたけど、その一歩目がお父様が言っていた言葉の中にあったんだ。

 軟弱な考えだとずっと思い込んでいた。だけど、こうして支えたいという気持ちを持つと、それがどれだけ難しい事なのか分かる。

 伯父様の言っていた通りだ。お父様は……認め難いけど軟弱ではなかった。

 

「弱気になっている訳じゃないよね?」

 

「違うよ。ルミねえが僕に協力してくれるような事だよ。それに。アトレも」

 

「アトレさん?」

 

「そう。あの妹は、自分の容姿が極めて日本人的に生まれた事で遠慮してる」

 

 遠慮する事じゃないと、何度も言ってるんだけど。

 

「いつだったか本人から言われた。僕が陽の光の下へ出られなかったり、外見で悩んだりしている事は、自分が押し付けてしまったものだと、彼女は本気で思ってる。僕にしてみれば、今となっては、この肌も髪の色も自慢の一つだ。アトレが『押し付けた』だなんて思う理由もなければ、それは寧ろ大いなる誤解、言い方を悪くすれば失礼だと言える」

 

 だけど、アトレの中でその考えが容易には消せるものでは無かった。

 その事に気がついた僕は、好意を甘んじて受け入れた。受け入れすぎて、甘え過ぎになっていたんだけどね。

 

「彼女が幸福を覚えるなら、尽くして貰おうと思うんだ。それがいずれ、アトレが僕に遠慮を覚えなくなる事にも繋がると信じて。そうやって思えるのも、僕とアトレの間には信頼、家族愛があるからだよ。アトレが僕に尽くしたいと思ってくれる気持ちは独り善がりじゃない。そう認めるのもお互いの為だと思う」

 

 あの妹を通して、尽くす事を望む相手には、感謝が一番の救いとなる事を僕は知った。

 自分ではどうしようもない感情も、お互いの望みを受け入れあえれば、限りなく薄める事は出来ると思うんだ。

 

「それでアトレさんは、才華さんの為になることを望んでるんだね。納得した……ただそれで何で小倉さんには、あんなに否定的な感情を向けるのかしら? サバイバルナイフやスポンジ弾とは言え、銃を用意して小倉さんを才華さんに会わせないようにしようとしたし。冗談だとは思いたいけど、どうにもアトレさんは小倉さんに対して否定的な面があると思う」

 

「それは多分……小倉さんが以前の主人を傷つけかけたからじゃないかな。その時みたいな事が、今度は僕に起きてしまうかも知れない事を、警戒しているのかも知れない」

 

 アトレは僕に尽くす事で幸福を感じている。

 小倉さんも使用人だったからなのか、前の主人を大切に思っているようだった。それなのに小倉さんは、自分の為に前の主人の人生に消えない傷をつけかけてしまった。

 お父様がお母様に尽くしているのは、お母様の笑顔が好きだからと以前に聞いた事がある、その事をお父様から学んだアトレからすれば、小倉さんの事を尽くす者として不誠実だと考えているのかも知れない。

 しかも今の小倉さんは総裁殿のお気に入りだ。アトレは総裁殿に気に入られてたけど、今の総裁殿のお気に入りの対象は小倉さん。しかも大蔵家総裁の立場にいるのに、大蔵本家から出て別の場所で一緒に暮らし始めるほどだから、そのお気に入りの度合いはアトレとは比べ物にならない。

 好きだった叔母が、ぽっと出た相手に取られてしまった気持ちも少しあるのかも知れない。

 僕の考えを聞いたルミねえは、納得したように頷いた。

 

「なるほど。だとすると小倉さんとアトレさんは、暫くの間は仲良く出来ないかもね」

 

「小倉さん本人には、アトレには何の悪感情もないんだけど。それにあの人はもう充分に苦しんだと思う」

 

 あの笑顔が浮かべられなくなるほどに、小倉さんは苦しんでいた。

 それに今の小倉さんの立場なら、前の主人に謝りに行くことだって出来る筈だ。正式には大蔵の名を名乗れないけど、もう伯父様の娘として周囲には認識されている。

 何時か、前の主人とも和解出来ればいい。そうすれば、もっとあの人は元気になってくれるだろうから。

 

「……何だかちょっと胸が少し嫌な気持ちになる」

 

「ん?」

 

「だから才華さんが、他人の為に自分を捧げるなんて告白は受け入れ難い」

 

「ルミねえ?」

 

「少し生意気でも、プライドと自信に溢れていた才華さんの事を私は大切に思っていた。だから、前のようにプライドと自信を取り戻して欲しいと思っていたんだけど、その才華さんが易々と他人に心を預けるのは、複雑」

 

 ルミねえは僕の肩に優しく手を乗せてくれた。

 

「ルミねえが嫉妬してくれるなんて、想像もしなかった、嬉しい」

 

「良く一緒に買い物してた弟が、男の趣味を見つけて、休日に遊ぶ事がなくなった姉の感覚。嫉妬とは違うかな」

 

「人をときめかせては落として、ルミねえは一体何がしたいの?」

 

「胸が少し嫌な気持ちになったから、八つ当たり」

 

 酷い。僕の心は深く傷ついたよ。

 でも、次の瞬間、ルミねえの手が目の前まで伸びて来て、僕の頭を抱え込んだ。

 その力が強く締め付けられるほど、柔らかい肌に身体が包まれて行く。前にも感じた温かさ。

 女性の包容力とはこういうものか。男性の僕には決して出来なくて、何時までも感じていたい温もりだ。

 

「冗談……才華くんが無事で良かった」

 

「ルミねえ」

 

「初めてプールに入ったんでしょう。もしも溺れたりしていたらって、心配だった」

 

 実際に僕は溺れかけた。

 エストを助け出せたと思って、安心したと同時に力が抜けて水の中に入っていた。

 溺れるというのは、あんな風な事を言うんだろう。小倉さんと壱与が来てくれなかったら、本当に危なかったと思う。

 僕に対して過保護なルミねえは、きっと話を聞いた時に気が気じゃなかったに違いない。

 

「ごめん。ルミねえに心配をかけて」

 

「無事なら良い。だけど、余り心配はかけないで」

 

 大好きな姉の温もりを感じる。やっぱり僕は、この人が大好きだ。恋愛感情としてではなく、親愛としてだけど。

 そのままルミねえの好きに抱かせていると、電話が鳴った。

 

「あ、電話が鳴ってる。八十島さんじゃない?」

 

「うん……はい、小倉です」

 

『八十島です。私は今会話を聞かれる危険のない場所にいますが、其方は?』

 

「今はルミねえの部屋にいるから大丈夫だよ。それでお嬢様の容体はどう? 結果が出るにはまだ掛かりそう?」

 

『いえ、先ほど全ての検査が終わったところです。これからマンションへ戻ります』

 

「そう、マンションに……え、どういうこと? まだ駄目だ。入院した方が良い」

 

 後遺症の心配はないらしいけど、やっぱり心配だよ!

 

『医師の診断をいただいています。搬送後の経過を観察して、歩行、会話に問題はなく、回復していると判断されました。今日は部屋に戻っても良いとの事です』

 

 搬送後の経過って……と思い時計をみたらルミねえと会話している間に、それなりの時間が経っていた。

 

「それでも入院出来るならした方が良い。何かあった時に医師が近くにいた方が安全だ」

 

『私もそう言ったのですが、エストお嬢様本人が部屋へ帰ると強く希望しているんです』

 

「僕が説得しようか?」

 

『いえ、恐らく若の言葉でも無理です。エストお嬢様の部屋へ帰る理由が、若に外出をさせない為だからです。自分が入院していれば、朝陽さんは必ず病院に来てしまうからと仰られました。まだ太陽は沈んでいません』

 

 言われて、カーテンで閉められている窓に目を向けてみる。

 カーテンの隙間から見える陽の光の明るさを確認すると、今は夕方に近いぐらいだ。確かに陽が沈むのには、もう少しかかりそうだ。

 

『若の健康を考慮して、エストお嬢様は帰ると決めたのです。若の身体が大事だと言われて、私が止められる筈もありません。そして彼女は、若が説得したとしても、あなたが病院へ来ないと約束しない限り、マンションへ戻るでしょう』

 

「彼女が其処まで」

 

 嬉しい気持ちが湧いて来た。出来れば病院へ残って欲しい。

 だけど、僕が病院へ行かないという事は出来ない。少しでも早くエストの無事な姿をこの目で見たい。

 お互いの身体を想っての事だ。一方的に此方の要望だけ聞いてくれと言うのは無理がある。

 

「分かった。エレベーターホールで……いや、エストの部屋の前で待ってる」

 

『わかりました。ああ、それと小倉さんは今若と一緒に居られますか?』

 

「いないよ。あの人は付き人のカリンが替えの服を持ってくるから、プールの更衣室で離れた」

 

 小倉さんは女性だから、男性の僕の前じゃ濡れた制服も着替えられなかっただろうし。

 更衣室で離れるしかなかった。通路を濡れた制服で歩く訳にもいかない。でも、僕と違ってルミねえが来るまで、濡れた制服を着ていたから風邪をひかないか心配だな。

 

「小倉さんがどうかしたの?」

 

『エストお嬢様が小倉さんにもお礼を言いたいと言っていましたので、若のお側にいるか確認したかったのです。いらっしゃらないのでしたら、電話が終わった後に小倉さんの電話にご連絡してみます』

 

「それが良いよ。小倉さんもエストの事は心配だろうから。僕からもお願い」

 

 後で壱与に小倉さんの電話番号を聞こう。

 思えば、お母様から連絡があった時に、小倉さんの電話番号を知らないか尋ねておくべきだった。電話番号さえ分かれば、連絡が取れたのに。

 今更ながらに気がついた事に後悔を抱きながら通話を切った。

 

「私も行く」

 

 ルミねえは当然の如く同行を申し出た。

 エストが僕の性別に気がついていて、会った瞬間に暴力を振るって来る事を警戒しているのかも知れない。

 でも。

 

「ごめん。先ずは一人で行きたい」

 

「大丈夫?」

 

「当事者は僕だし、あの場にいなかったルミねえが一緒に来たら逆に怪しまれるかも知れない。それにルミねえに聞かせられない話もするから」

 

「は?」

 

「いや、さっき、僕が他の人に尽くすのを見ると、胸が嫌な気持ちになるって言ったよね?」

 

「言った。そういう話をするの?」

 

「うん。よりいっそう尽くしたいという話をするよ」

 

 ルミねえは、とても複雑な顔をした。彼女が言う嫌な気持ちと、納得がいかないのと、でも仕方ないのと、何種類かの感情が混ざった顔だった。

 

「話が一段落したら、電話で連絡する。その後で僕のご主人様と話せばいい」

 

「……いってらっしゃい」

 

 玄関まで見送ってくれつつ、ルミねえはまだ複雑な表情をしていた。

 僕も後少し、ルミねえに甘えたい気持ちはあったけど、それに甘え過ぎる訳にはいかない。だから、ごめんね、ルミねえ。

 

 

 

 

「あっ」

 

 エストの部屋の前で待っていて、その顔を見た瞬間、胸に熱がジワリと広がるのを自覚出来た。

 胸から広がる悦びを受け入れながら、エストの反応を僕は待つ。性別に気がついているのか、気がついていないのか。

 それが君と僕との今後の関係を決めるんだから。

 

「……朝陽さん?」

 

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 

「此処でずっと待っていたの?」

 

「ずっとと言っても、検査が終わった連絡を八十島さんに頂いてからです。そんなに待たされてはいません。何よりもお嬢様をどのような顔で迎えれば良いか、その事を考えているだけで時間が過ぎてしまいました」

 

「良き従者」

 

 珍しく日本語に困ったのか、僕の主人はそう口にした。英語でも良いのに。

 ……いや、エストの英語は汚いから、逆に悪い印象を与えかねないか。

 

「部屋へ入りましょう。話をしたい」

 

「はい。私もお嬢様との対談を望んでいました」

 

 急いでカードキーを取り出すエストは、今までよりも僅かに背が高く見えた。イメージだけど。

 

「八十島さんとは下で別れたのですか?」

 

「そう。マンションまで来れば、倒れる心配もないかと思ったの。感謝の言葉を伝えてエントランスでね」

 

「私からもお礼を申しあげるつもりでした」

 

「私の話が終わった後にして。今は何よりも貴女と二人で話をしたかったの」

 

 この人は、診察や検査の間も、僕の事を考えていたのか。

 いや、当然だ。エストは信用すべき使用人である僕に騙されている。今のところは普通だけど、これから然るべき追求があるはずだ。

 僕を見た時の彼女の表情は明るかったけど、都合の良い期待に寄り掛かってはいけない。

 忘れてはいけない。僕はエストを騙している。性別の事だけじゃなくて、桜小路才華である事も。

 性別が男性である事がバレたとしても、桜小路才華である事は気がついていない筈だ。とは言え、男性である事をエストが知っていても、これから先も僕を側へ置いて欲しいと無理を言わなければいけない。

 

「えっと……そう! 先ずはお礼を言うべきだと思う。助けてくれてありがとう。貴女があの場に居なければ、私は間違いなく溺れていた。命の恩人という言い方が大げさではないと思える」

 

 エストは僕を『命の恩人』と呼ぶ、最悪の場合はその感情を利用しなければいけない。

 ……胸が痛くなる。僕は伯父様と違って、利と理の計算が出来る人間ではないようだ。罪悪感がどんどん胸の中に溜まって行く。

 この罪悪感が爆発した時の事を考えると……恐怖しかないよ。

 

「今までにも一人で泳ぎに行った事があったの。だけど、これからは誰か……出来れば貴女を誘ってからにする」

 

「お願いします。感謝をされたいわけではありませんが、私が居て本当に良かった。今日の事故は忘れずにいて下さい」

 

「うん。貴女が居て、それも貴女が冷静な対応が出来る人だから、大事にならないで済んだと思ってる。もし貴女が連絡を先にせず、混乱して、溺れている私を助けに飛び込んだりしていれば、二人で沈んでいたかも知れない」

 

 本当だよ。実際後少し小倉さんが来るのが遅れていたら、僕も溺れていたから。

 ……ん?

 

「男の人に抱えられて、その後で小倉さんと別の男性にプールサイドまで運ばれたのを覚えてる。その時は気を失いかけていたから、記憶がぼんやりとして、声も、顔も何一つ覚えていないの。小倉さんの事は八十島さんに教えて貰っていたけど、最初に助けてくれた男の人だけは目を覚ました時にいなかった。このマンションの従業員の人だよね。後で小倉さんと一緒にお礼を用意しないと……お菓子で良いと思う?」

 

 お礼なんていらないよ。と言うか最初に『抱えていた男性』って、それ僕だ。

 これは? どちらだろう……本当に覚えていない? それとも何か計算があってとぼけている?

 計算と仮定するには、もったいぶるような事をする理由が彼女にはない。親切で見逃すには、これから先を考えれば同居する期間が長すぎる。見逃しつつ解雇するなら、僕が縋れないように厳しく対応するはずだ。

 つまり……エストはプールの中で抱えた男性が僕だとは気がついていない?

 だとすれば喜ばしい。僕の性別に関しても、出来る事なら隠しておきたい。まだ確証は出来ない。

 ……此処はもう少しエストの出方を待とう。

 とは言え、質問を受けている以上、黙ってる訳にもいかない。取り敢えず今、僕が言える事としては。

 

「先ほどお嬢様は、小倉さんと一緒に男性がプールサイドまで運ばれたと仰られました」

 

「うん」

 

「溺れたお嬢様をプールサイドまで運んだのは小倉さんと八十島さんです。男性ではありません」

 

「ああ!」

 

 とても失礼な事を口にしましたと言わんばかりに、僕の主人は口元へ手を当てた。

 

「良かった。裸体同然の身体を男性、それも二人に触れさせてしまったと、病院に居る間も悩んでいたの」

 

 その貞淑さは誇りだ。素晴らしいよ、エスト・ギャラッハ・アーノッツ。

 

「余りに逞しい身体だったからてっきり。運んでくれたのが八十島さんだと聞いて、とても安心した。そう言えば病院へ運ばれる間も側にいてくれたの」

 

「小倉さんも救急隊員の方が来るまで、一緒におりましたよ。制服を濡れたままにして」

 

「えっ!? 小倉さん! 制服のままでプールに入ったの!?」

 

「はい。私も驚きました」

 

「凄い。服を着たまま泳ぐなんて……あっ。それじゃ小倉さんの制服は」

 

「残念ながらびしょ濡れで暫く着られそうにないと思います」

 

「うぅ、小倉さんには申し訳ない。せっかくの新しい制服だったのに……弁償しないと」

 

「そうですね」

 

 これは必ずしないといけない。小倉さん本人は全く気にしてなさそうだけど、此方の気持ちの問題だ。

 制服以外にもあの人には何かしらのお礼をしないといけない。だけど、あの人……物欲とか無さそうなんだよな。

 エストと僕を助けてくれたお礼だけじゃなくて、これまでの事を含めて何かお返しがしたいけど、何を渡したらあの人は喜んでくれるだろうか?

 

「小倉さんだけじゃなくて八十島さんにもお礼をしないといけないし。男性だと勘違いした事は内緒にしておかないとね」

 

 壱与は意外と乙女だからね。その事は言わなくて良かったと僕も思うよ。

 

「でも、最初に私を抱き抱えた男性が居たのは揺るぎない事実でしょう? 細いけど、頼りがいのある身体に触れられたのを覚えてる。あの人は絶対に男性だった。はあ、どうしよう。これも神の冒涜になるのかな」

 

 助けたのは僕だ。君の身体には全く興味がないと伝える事が出来れば良いのに。

 邪な気持ちは全く抱かずにいたと心からの自信を抱いて言える。と言うよりも、あの緊急事態で性欲なんて抱ける筈が無い。元々僕は女性の身体には興味を持てないし。

 でも、此処まで来ると間違いない。

 エストは僕の性別に気がついていない。

 

「ただ、うん。助けて貰った男性については、大事ではあるけど後で考える。それはさておき」

 

「はい?」

 

「いや、ね。その後……」

 

「はい」

 

 何だろう。これまで言いにくい事もハッキリした口調で話していたのに、急に歯切れが悪くなった。

 ……まさか、やっぱり気がついてるのだろうか? このままでは埒が明かない。踏み込んでみよう。

 

「此処には私しかいません。他人に言い難い事であっても、この場で話した内容は世間には明かさず、私の胸の内へ秘めておきます。どうか遠慮なく、打ち明けたい事があるなら、話して下さい」

 

「うん。キス」

 

「え?」

 

「キス。して、私を助けてくれたね。あ、朝陽さん」

 

 一瞬何の事なのか分からなかったけど、口を付けて水を吸い出そうとした場面の映像が頭に浮かんだ。

 あの時は僕も溺れかけた事で意識が朦朧としていて、とにかくエストを助け出そうと必死だった。

 救命行為以外の感情は……無かったと思う。何か出来ないかと考えて、あの時の僕が導き出した行動がアレだった。

 思い出すと返答に困る事を言わないで貰いたい。と言うか、言った本人も顔を伏せているけど、もしかして顔が赤い?

 

「小倉さんは胸を押してくれていたようだから、最初の男性の人は手が空いていた筈だし、ひょっとして男性の口づけを避ける為に、貴女がキスしてくれたの?」

 

「え? あ、はい」

 

 そうではないけど、そういう事にしたい。それなら僕が口を付けた筋は立つ。

 

「と言うよりもお嬢様。あの時したのはキスではなく、その、何と言いますか」

 

「いやだって、舌……何でもない」

 

 途中まで言うな。困るのは言われた僕だ。

 ああそう言えば、良く思い出してみると……舌も絡めた。口付けというものは、不思議と頭を蕩けさせて夢中にさせるものなんだ。

 

「どうして私だと分かったのですか?」

 

「あ、ええと……」

 

 もしかして僕……カマを掛けられたのだろうか?

 この困ったような反応を見る限り、キスの相手が僕だと確信を抱いてなかったようだ。

 だとすれば惜しい事を……いや、その場合小倉さんに今の話をされるかも知れない。あの人が嘘をつけるとは思えないし、あの人の口からキスの件を話されるのは嫌だ。

 

「いや、うん。分かったと言うか、貴女だと思ってたよ。そうじゃないと困るのもあるけど、私が名前を呼んだら、応えてくれたから」

 

「名前……」

 

 確かにエストはあの時、『アサヒ』と呼んだ。それは小倉さんではなく、僕の方だ。

 

「お、女同士で、キスをしてしまったね」

 

「え、あ、はい……そういう事になりますね」

 

 ん? 何だろう。男女でキスをしたと思われるよりも、余計に恥ずかしい気がする。

 普通は逆だ。女同士なら良いじゃないか、いや、良くないか? 僕だって男性同士でキスなんてしない。そうなれば気持ち悪いと思うだけだ。

 だけど、今のエストは気持ち悪そうじゃない。それなら、エストは同性ではなく、男女のキスだと思ってる?

 いや、これまでのエストの行動を考えると、男性に身体を見られたり触れられたりするのは嫌っていた。キスなんてしたら、苦しみ、悩む方向に感情は動く筈だ。

 エストは女性同士だから恥ずかしいと思っているんだ、彼女は僕を美しいものだと認め、嫌悪感ではなく『いけないことをした』感覚と、その行為の相手に戸惑っている。

 つまり、今彼女が顔を赤らめているのは、僕を女性だと思っている事の証拠になる。

 

「キスをした相手だと改めて思ったら、恥ずかしいね」

 

 出来れば冷静に考えて、君の考えに納得したいから此方まで恥ずかしくなることを言うな。大変に気分が悪い。

 どうにも女性だと思われてキスしてしまった事が、物凄く恥ずかしい。

 

「と言うよりも、わざわざそんな事を言わないで下さい。此方まで恥ずかしくなります」

 

「ご、ごめんなさ……え、恥ずかしい? 貴女が恥ずかしいと思うの?」

 

「後になってキスをしただなんて言われたら、恥ずかしいですよ」

 

「あの朝陽さんが 普段は強気でドSな貴女が恥ずかしい? 学校で気絶しても教室で恥ずかしさなんて見せなかったのに」

 

 その事は言わないでくれ。

 

「ふーん、そう」

 

「何ですか」

 

「なんでもないよ」

 

 何でもないと言いつつ、僕の主人は慌てて顔を伏せた。

 心持ち笑っている? それと顔が耳まで赤い? それに何を嬉しそうにしているんだ。この反応だけを見ていると、女性としての僕とキスをした事は、照れこそしても嫌ではないみたいだ。

 別にエストは女性同士の恋愛に興味がある訳でもないだろう。彼女が今、どんな気持ちでいるのか想像できない。

 どころか、今の僕は、自分の気持ちを正確に把握できない。恋愛感情が無い相手とキスをして気恥ずかしさを覚えるだなんて。案外節操がなかったのだろうか?

 ……いや、僕が恥ずかしさを覚えているのは、あくまで女性同士でキスされたと思っている事だ。エストとキスした事実には恥ずかしさは感じていない。

 それに何よりも、罪悪感が徐々に膨れて来ているのを感じる。エストはあくまで女性としての小倉朝陽とキスした事に反応している。これが桜小路才華とキスしたと認識したら、彼女の態度は豹変するだろう。

 いきなり僕に殴りかかって来るに違いない。

 取り敢えず、此処は話を変えよう。

 

「あ、大切な事を確認させて下さい。後遺症などの心配は?」

 

「ん? 今のところは問題ないみたい。今後は何度か検査に通う事になっているけどね。明日も朝から病院へ行ってくる。二日目から学院を休むのは残念だけど、私には朝陽さんがいるから。後で授業内容を教えてね」

 

「はい。特別編成クラスに在籍していた事が良い形に作用しました。お嬢様のお役に立てて良かった」

 

「役に立つどころじゃない。誇張抜きで命を助けて貰ったのだから。しかも二度も」

 

 一番最初の面接の時の話か。確かにあの時も危なかった。

 ……日本に来て、二度も短期間で命が危なくなり、しかも大蔵家の前当主様に狙われるかも知れない。

 ……呪われているんじゃないかな、エスト。今度アトレに頼んでお祓いをして貰おう。

 

「朝陽さん」

 

「はい、何でしょうか?」

 

「……溺れながら、もう駄目なんだと感じた時に……本当ならパパやママや姉の名前が浮かぶはずなのに。一番近くにいるのはきっと貴女だと思ったら、夢中で助けを求めてた。実際に聞こえていたかは分からないけど、私はハッキリと叫んだ。貴女の母国語で『アサヒ』って」

 

「聞こえていました」

 

 その声に僕は動かされた。

 

「病院に運ばれる途中の、ぼんやりした中でも、意識を取り戻して、検査の時間を待っている間も、ずっと貴女の名前が離れなかった」

 

「貴女に名前を呼ばれた時、私は高揚と力強さと誇りを覚えました。これが、人を想える力なのだと知りました」

 

 ずっと探していた答えの一端に漸く触れられた。

 誇り高きエスト。貴女に感謝します。

 

「私の名を改めて呼んで下さい。誇り高きエスト」

 

「ありがとう。私は貴女と出会った日に、掛け替えのない人になって欲しいと言った」

 

 それを叶えられるかは今も分からない。でも、出来るなら叶えたいと今は心から思っている。あくまで従者としてだけど。

 

「その願いはもう叶ったのだと思う。良き従者朝陽。貴女との出会いに、心から感謝します」

 

「私からも感謝を。そして改めて此処に宣誓いたします。貴女の望む良き従者として、我が主、エスト・ギャラッハ・アーノッツの為に尽くします。自ら望んで、貴女に仕える事を誓います」

 

 真実を話す時まで。

 今度こそこの誓いを果たそう。

 『誰かの為になる事は立派な事』。お父様の考えだから、反抗的になって受け入れられなかったけど、今はその言葉が心地よく胸に響いた。僕は皆に支えられている。だから、今度は僕も支えたい。

 それがきっと、以前の僕が考えていた皆に愛を与える事に繋がると思うから。

 誇り高きエスト。僕は君の望みを叶えたい。

 

「私も貴女の主人として、誇り高き貴族でいる事を望んでいる。あ、でも、あの優しい朝陽さんにはならないでね。やっぱり今でもあの朝陽さんは逆に怖いから。私が貴族らしからぬ振る舞いをしたら、今まで通りに遠慮しなくても良いからね」

 

「はい。最初から手加減するつもりも、容赦をするつもりもありません」

 

「や、やっぱり少しだけ優しくしてくれても良いよウフフ」

 

「寧ろ忠誠を強く覚えた分だけ厳しく接します。低俗矯正の為なら、私の厭う体罰も行使せざるを得ません」

 

「ファ〇ク!」

 

「さっそくですか」

 

 そろそろこの口癖は本格的に直して欲しい。教室内では勿論だし、小倉さんに聞かれるのはもっと嫌だ。だから主人の鼻を強く抓った。

 

「エアーズロック!」

 

「良く出来ました、誇り高きエスト。これからも徐々に直していきましょう」

 

「ドS従者」

 

 鼻をさすりながら僕の主人は毒づいた。スラングじゃなかっただけ誉めよう。

 

「でも大切な人」

 

 毒づいた後に人を喜ばせる言葉は言わないで欲しい。言われた側は気恥ずかしい。

 抓られた筈なのに、何故か彼女は笑っていた。体罰は……少し優しくしよう。

 だけど意識した時には、自分の口端も緩んでいる事に気がついた。気分は悪くなかった。

 

「さて、朝陽にお礼も言えたし、話も出来た。これから迷惑をかけた人に挨拶をして回りたいけど、あの場に居たのは私と、貴女と、小倉さんと、八十島さん、もう一人の男性?」

 

 それは口裏を合わせなくてはいけない。エストが話をする前に、小倉さんと壱与に会っておきたい。後、ルミねえに報告もしないと。

 

「そう言えばお嬢様。ルミネお嬢様もプールでの出来事を知って大変心配なされていました。ですので、ご無事な姿を見せて安心させてあげましょう」

 

「ルミネさんも。うん、そうだね」

 

「では、今から声を掛けて参ります」

 

「え? 迷惑をかけたのは此方側なのだから、私も行くよ?」

 

「いえ、まだ体調が万全でないお嬢様が訪ねて来ては、小倉さんもルミネお嬢様も八十島さんも、部屋で休んでいて下さいと言うでしょう。相手に心配を掛けさせない事も気遣いです。私から状況をお伝えして、挨拶は後日。どうしても顔を見ておきたいとお三方が仰るなら、この部屋へお連れいたします」

 

「その三人の他に、もう一人の男性もね」

 

 それは僕だ。とは思うものの『分かりました』と答えておいた。

 

「あ、そう言えば小倉さんの方は私が八十島さんに聞いて電話番号を知っているから、他の三人の方をお願いね」

 

「……体罰を厳し目にしますね」

 

「何で!?」

 

 意外なところに小倉さんの電話番号があった。

 今度エストの携帯を借りた時に、僕の方の携帯にも登録しておこう。




何とか原作ヒロインの好感度を上げたいけど、朝日の魅力は凄い。
果たして原作ヒロイン達は朝日の魅力を破り、才華と結ばれる事が出来るのか?
因みに暫らくの間は、朝日とアトレは仲良くなりません。朝日本人は仲良くしたいですけど、アトレの方がね。

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