月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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お気に入りが増える事は嬉しいですね。
アトレの事はやはり色々な影響が出てしまいましたが、どうしても必要な事だったので。
四月の二日目の始まりです。

烏瑠様、秋ウサギ様、烏瑠様、オカミン様、笹ノ葉様、禍霊夢様、獅子満月様、Nekuron様、誤字報告ありがとうございました!


四月上旬10

side遊星

 

 目の前に広がる光景を見て、夢だとすぐに分かった。

 皆が僕の前で笑っている。

 ……僕も笑っていた。笑顔で皆と過ごしている。

 桜屋敷。僕が心から幸せを感じたその場所で、りそな、湊、瑞穂様、ユルシュール様、七愛さん、北斗さん、サーシャさん、八千代さん、鍋島さん、百武さん、他のメイドの皆さんと楽しく過ごしている幸せな夢。

 もう二度と会えない僕が知っている皆の姿に、夢の中だというのに涙を流しながら笑顔を浮かべている。

 桜屋敷のメイド服を着た小倉朝日の姿だけど、構わない。僕は確かにこの夢で見ている桜屋敷で過ごしていたんだから。

 ああ、でも、皆の中にあの方がいない。夢の中でも会う事が許されないのだろうか?

 ……探そう。何処かにいる事を願って、僕は夢の中の桜屋敷を歩く。

 皆と居たのは食堂だった。あの方はご自分の部屋に居るのだろうか?

 ……居ない。じゃあ、何処に?

 僕は探した。桜屋敷中を探し回った。

 入れ違いになったのかと思って、食堂に戻る。八千代さんが『小倉さん、ルナ様は?』と優しく聞いて来た。

 『もう一度探して来ます』と僕は言って、また桜屋敷の中を探す。

 応接室……居ない。

 ルナ様のお部屋……居ない。

 地下のアトリエ……居ない。

 もしかしてと思って僕が使わせて貰っていた部屋は……居ない。

 他の部屋は……見つからない。あの方の姿は……桜屋敷の何処にもなかった。

 何処にも……この夢の中の桜屋敷にあの方の姿はなかった。

 桜屋敷の入り口の前で、その事実に行き着いた僕は床に膝を突いてしまう。

 ………ああ、そうか。僕はやっぱりあの方に許されないのか。

 そうだ。何で忘れていたんだろう。たとえアメリカで会ったルナ様が気にしていないと言ってくれても、僕はあの方に許されない事をした。

 ……申し訳ありません。謝って許される事では無い事は分かっています。僕が貴女に懐かしんで頂けるような人間でない事は分かっています。

 だけど、夢の中でも良い。一目だけ、そのお姿を……見せて下さい。

 

「どうした?」

 

 背後から声が聞こえた。夢だというのに、何故かハッキリと聞こえた。

 

「何を泣いている?」

 

 その声に、僕は振り返る。

 ……居てくれた。階段の上にあの方が。僕が心から会いたくて、謝罪したいあの方が、床に膝を突いている僕を見ていた。

 

 ルナ様!?

 

 声が出ない事に気がついた。立ち上がり近づいて謝罪したいのに……何故かあの方との距離が遠退いていく。

 夢から覚めるのだと気がついた。

 ……嫌だ! 夢だと分かっているけれど、それでも謝罪だけはしたい! 意味はないかも知れない。

 だけど、せめて一言だけでも! ……でも僕の願いは虚しく、光が視界を覆っていく。

 光によって、ルナ様のお姿も光の中に消えていく。

 ルナ様!

 

「朝日。違うだろう。私が知っている君は……」

 

 言葉は最後まで聞こえなかった。何かが懐から落ちるような感覚と共に、僕の意識は光に包まれた。

 

 

 

 

 目が覚めた。寝覚めはかなり悪かった。

 幸せだけど、同時に悲しさを覚える夢。涙が自然と零れていたのか、濡れているのを感じた。

 目を開けてみると、目の前でりそなが寝息を立てている。僕はそんなりそなを……抱き締めている?

 

「ッ!?」

 

 自分の状態を認識した僕は、りそなを起こさないようにしながら身体を起こした。

 すぐに自分の状態を確かめる。

 ……うん。大丈夫。寝間着に乱れは無い。昨日の夜には何もなかった。と言うか、ある訳が無い。

 そう言えば、昨日は家に戻ってから夕食やお風呂に入った後、りそなと手を繋いで眠ったんだっけ。

 

「……ルナ様」

 

 あんな夢を見るのは、初めてではない。

 桜屋敷で過ごしていた頃も、数え切れないほど見た。そして夢から覚める度に、僕は泣いた。

 届かない場所を想って、僕は泣いてしまった。

 

「最近は見なかったのに」

 

 久々に幸せと悲しい夢を見た事で流れた涙の跡を拭って、僕はベッドから立ち上がる。

 かなり早い時間で目覚めてしまったようだ。目覚ましが鳴る時間まで、まだ大分ある。

 でも、眠れそうにない。朝食を作る時間まで、お父様から渡された課題をやっておこう。

 

「あれ?」

 

 無い。寝る前に服の内ポケットに入れてあったルナ様への手紙が……無くなってる。

 

「……ベッドに落として来たのかな?」

 

 思わずりそなが眠っている部屋に目を向けた。

 ……いいや。後で探せば良いし。りそななら勝手に見ないだろうから。

 今はお父様の課題を優先しよう。

 アトリエに向かい、ハンガーに掛けられている桜屋敷のメイド服に着替える。

 服飾をやる時や家事を行なう時は、この服を着ていると落ち着ける。着替えを終えた僕は、お父様の課題を行なっていく。

 今月の課題はドレスシャツだ。正確に言えば、描かれているドレスシャツに最も合う型紙を引いて、それをお父様が認めてくれるかどうか。僕の技量を見抜いて、この課題を出したに違いない。

 お父様が用意してくれたデザインから型紙を引いていく。小さなミスも許されない。あの人は採点が厳しい人だ。僅かな歪みだけでも減点対象になってしまう。慎重にやらないと。

 時間は進み、アトリエの中にある時計を見てみると、そろそろ朝食を作らないといけない時間になっていた。作業を中断して片づけ始める。

 ……自分で納得出来る型紙が引けなかった。やり直した方が良いかも知れない。

 雑念が混じって集中し切れていないのが自分でも分かる。こんな型紙じゃ、お父様は認めてくれない。

 不甲斐ない気持ちを抱いて片づけをしていると、アトリエの中の机の上に置いておいた携帯が鳴った。

 ……電話の主は、お父様。

 

「はい」

 

『俺だ。少し元気が無さそうだが』

 

「……申し訳ありません」

 

『アトレの件は、お前の付き人から聞いた』

 

「お父様。どうかアトレ様をお叱りにならないで下さい。アトレ様は才華様の事が心配なのです」

 

『安心しろ。その件は我が妹から、今回は見逃すと言われている。アトレを責めるつもりはない」

 

「ありがとうございます、お優しいお父様」

 

 良かった。僕のせいでアトレ様が悲しまれるのは嫌だ。

 あの方もルナ様と桜小路遊星様の子供だ。幸せになって欲しい。

 

『……すまなかった』

 

「お父様?」

 

 一瞬言われた言葉の意味が分からなかった。

 お父様が今……謝った。僕に?

 

『今回の件は、アトレの心情を考えなかった俺のミスでもある。アトレからすれば、これまで絶対に自分に味方をしてくれると考えていた我が妹が、敵に回るとは考えても見なかったのだろう』

 

 りそなとアトレ様は本当に仲が良かったに違いない。

 そのりそながアトレ様の意思を無視して、必ず実行すると言った。

 僕という存在が現れたせいで。

 

『アトレは最悪の事態になった時も、最終的にりそなが味方してくれると思っていたに違いない。才華の味方ではなく、自分の味方として。だが、その考えの根底が崩れた事によってお前への苛立ちを抑え切れなかった』

 

「……僕が不誠実なのは事実です。桜小路遊星様を見て育ったアトレ様が、お怒りになるのは当然の事ですから。アトレ様からすれば、いきなり現れた僕の存在は不可解でしかなかったんでしょう」

 

 そう、事情を知らない人からすれば、僕の存在は不可解だ。

 多くの人が受け入れてくれていたから、忘れかけていた。

 

『今後も俺は才華達に何か頼みごとをされれば協力はするが、その中でお前への悪影響がある事があった場合、その要求は却下する』

 

「お父様。僕よりも才華様やアトレ様を優先して……」

 

『俺はお前やアメリカの我が弟から多くのものを奪った……これ以上、俺にお前から何かを奪わせるな』

 

「……」

 

 言葉を発する事が出来なかった。

 お父様は今……僕を桜小路遊星様を通して見ていない。僕自身を見て言ってくれたのだと思うと、不謹慎だけど少し嬉しかった。

 

『前当主に気がつかれないように、俺と駿我でアーノッツ家を真っ当な道に戻せるように作業を行なっている。直接的に動ければすぐにでも終わる事だが、大蔵家の俺と駿我が関わっていると知られれば、何かがあると気づかれる恐れがある。間接的になってしまう為に、時間は必要だ。その時間は、今年の年末までかかるだろう』

 

「その事を才華様達には?」

 

『伝えてはいない。今才華は成長の兆しを見せている。裏で俺達が動いている事を才華達が知れば、最終的には自分達に味方してくれるとまた甘えた考えを抱いてしまう。そんな考えで、今年のフィリア・クリスマス・コレクションで最優秀賞を二つ取るなど不可能だ』

 

「……審査員にジャンを呼んだのは、お父様ですね。僕の事は……」

 

『ククッ、伝えた』

 

 ……やっぱりそうだった。

 りそなが言っていた事の中に、ジャンが僕の事を知っているような言葉があった。

 

『最初は奴も信じなかったが、貴様の写真を見せたら驚きながらも納得した。昔の、ボーヌで出会った時のお前に戻っていた事を一目で奴は見抜いた。すぐにでも会いたいと奴は言ったが、奴は忙しい身だ。相応の準備は必要となる』

 

 ジャン。僕も……会いたい。

 会って何を言いたいかは分からないけど、それでも会いたい。

 

『今年のフィリア・クリスマス・コレクションは、例年のフィリア・クリスマス・コレクションよりも遥かに難易度と注目度が集まるだろう。お前が通っていたフィリア女学院の時は、創立して一年分のクラスしかなかったが、今のフィリア学院は大勢の生徒がいる。その中で最優秀賞の栄光を一年目にして二つ取れば、これ以上に無いほどの功績を上げた事になる。その功績の前では、万が一性別がバレたとしてもこれほどの才能がある者を学院が手放すのは惜しいと思えるだろう』

 

 つまり、才華様がりそなの提示した条件を達成する事さえ出来れば何とかなるらしい。

 逆に結果を出せなかったら、護りきれるか分からない。だから、アメリカへの強制送還という形で才華様を国外へと逃がす。

 アトレ様を日本に残すのは、小倉朝陽と桜小路才華様が同一人物だと悟らせないための処置という事だろうか?

 

『当初のりそなの考えでは数か月ほどで、アトレもアメリカに送る予定だった。冷静ならばアトレも気がつくと思っていたが、お前の存在が話を拗らせたようだ』

 

 やっぱり、僕のせいか。

 本当にすみません、アトレ様。

 

『お前の付き人の報告から考えて、暫くりそなは今回の件の怒りを忘れないだろう。りそなとアトレが和解出来るとしたら、才華が提示した条件を達成した時だけだ』

 

 それ以外にも何か方法は無いだろうか?

 原因は僕だ。何とか二人の仲を戻したいけど……アトレ様に僕は嫌われている。下手に干渉して、今度こそ二人の仲が完全に切れるのは不味い。

 

『今夜にでも才華には連絡をして発破をかけるつもりだ』

 

「大丈夫でしょうか? 昨日見た限り、才華様も一杯一杯な状況でしたが」

 

『実の妹の問題。これまで甘やかされて来た分、兄として少しは努力させろ』

 

 実の妹の問題なら、僕も当て嵌まります。

 何とか出来ないかな。

 ……アレ? 何だか何時の間にか前向きになっているような?

 このアトリエに来た時は、夢の事もあったから落ち込んでいたのに、今はりそなとアトレ様を仲直りさせたいと思っている。

 もしかしてお父様と話している間に元気を取り戻せた?

 

『話を戻すが……アトレに関してだが、あの娘は何よりも才華を優先するところがある』

 

 それはりそなにも言われたし、僕も感じた。アトレ様にとっての優先対象は、何よりも才華様。

 下手をすれば、実の両親であるルナ様や桜小路遊星様よりも、才華様を優先してしまいそうだ。

 

『あの両親の子だ。才華同様に服飾に興味を最初は覚えたが、残念ながら才華と違って、アトレは製作を行なう愉しさを見出せなかった』

 

 お父様の話を聞いた僕は驚いた。だけど、同時に納得も出来た。

 話によれば、才華様は幼い頃からルナ様のようなデザイナーになる努力を始めた。才華様の為に何かしたいアトレ様も、その方面で力になる為に服飾を始めようとしたけど、アトレ様には服飾に全てを打ち込みたいと思えるほどの関心を抱けなかった。

 僕が服飾の道を歩む切っ掛けになったのはジャンだったけれど、やってみたら面白くて夢中になっていた。

 服飾の花形であるデザイナーを目指し、残念ながら力及ばずの結果になった。だけど、ルナ様に才能があると言われた型紙ならばと思って服飾の道を進んでいる。

 でも、アトレ様はそもそも服飾に対する関心を抱く事が出来なかった。

 製作する側の愉しさを見出せずにやっていけるほど、この道は簡単ではない。お父様やジャンだって、成功するまでは努力を重ねたに違いない。

 才華様の為に力になりたいと願っているアトレ様にとっては、辛い事だったとは思う。

 

『関心をそもそも抱いていないアトレでは、どうやっても服飾の世界でやって行く事は無理だ。アトレが今更其処まで服飾に関心を覚えるのも無理だろう。だから、他の形で才華の力になっていた』

 

 だから、アトレ様だけは女装してフィリア学院に通うと才華様が提案しても、反対もせずに了承した。

 兄である才華様なら必ずやり遂げられると思っていたに違いない。だけど、あの場には僕が居た。

 才華様の考えが失敗した時に起きる絶望を知っている僕が。

 

『聡いアトレの事だ。俺がお前に集中せずに、才華の提案のみに集中していれば、此処まで問題は大きくならなかったと考えている。実際に俺が才華達の方だけに集中していれば、爺に悟られずに事は済ます事も出来た。だが、それは甘えだ』

 

「お父様?」

 

『これまで俺は才華とアトレの望む事を叶えて来た。それがあの二人の成長を妨げていたと言われても仕方がないだろう。今回の件は確かに非常事態だが、まだ最悪とは言えん。挽回は充分に可能な範囲だ。だが、才華達が裏で俺や駿我のしている事を知れば、また甘える。それではせっかくの成長の兆しが消えかねん。故に暫くは秘密にしておけ』

 

「……ありがとうございます、お父様」

 

『話は終わりだ。今月末には日本に戻る。その時までに課題を終わらせておけ』

 

 電話が切れた。

 そうだ。課題もあったんだ。りそなとアトレ様の仲も大事だけど、課題もちゃんと終わらせないと。

 ……アレ? そう言えば時間は?

 時計を見てみると、朝食を急いで作らないと学院に間に合わない時間になっていた。

 

「あああ! 急がないと!!」

 

 アトリエから僕は飛び出し、キッチンに向かって朝食を作り出した。

 

 

 

 

「何だか今日の朝食の味は何時もと違いますね」

 

「ごめん。お父様と電話で話していたら、時間がギリギリになっていて」

 

 朝食の時間になって起きて来たりそなの評価に、僕は申し訳なさで一杯だった。

 出来るだけ頑張ったけど、少々急ぎ過ぎてしまって味が疎かになっているのを自分でも感じる。

 

「充分に美味しいと思いますが」

 

 一緒に朝食を食べているカリンさんには、僕の朝食は好評だった。

 カリンさんとは一緒に朝食を取っている。入学式前は、仕事の都合で食事が一緒に取れない事があったけれど、これからは都合が悪くなければ一緒に朝食と夕食は取る予定だ。

 その理由としては僕とカリンさんの仲が良くなるのもあるが、学生以外のもう一つの僕らの仕事である調査員としての会議の為だ。

 

「では、本日は二時限目以降はピアノ科の方の調査に私は向かって良いのですね?」

 

「りそなから渡された他の科の時間割を見てみると、個別でピアノの授業が行われるのはその時間帯のようですから。何かあるとしたら、その時だと思うんです」

 

「ルミネさんは人に触れられるのが苦手な方です。一般入試で合格していますから特別扱いは出来ません。だから、男性教師になります」

 

「人に触れられるのが苦手なのに、教えるのが男性教師ですか。難儀ですね」

 

 うん。どう考えても嫌な予感しかしない。

 

「確認するけれど、りそな。これまでのルミネさんのピアノの教師は」

 

「全員女性教師です。お爺様も新しいお婆様も、ルミネさんの男性への接触は嫌っていましたから。まあ、新しいお婆様はルミネさんがお爺様が生きている間に、男性と付き合ったらどうなるか分かっているので、そっちの方で注意をしているんですが」

 

「りそな。ルミネさんのお母様を新しいお婆様と呼ぶのは止めようよ。確かその方、りそなより年下なんだよね。可哀そうだよ」

 

「歳の事は言うなって注意しておいたのに、この兄は……分かりました。ルミネさんのお母さんと貴方の前では呼んで上げます。これで良いでしょう」

 

 それで良いと僕は頷いた。

 でも、ルミネさんのお母さんの年齢を聞いた時は驚いた。まさか、りそなよりも年下の人だったなんて。

 しかも財産目当てとかではなく、本当にお爺様の事が好きらしい。年齢差がとんでもないのに、よく恋愛結婚出来たと逆に感心してしまった。

 

「そう言えば、ルミネさんのお母様は今回の件を知っているの?」

 

「知りません。あの人は嘘がつけない人で、事情を知ったら間違いなく顔に出てしまうので内緒にしてあります。フィリア学院にお爺様がしている事は知っていますが、それだって口を挟む人じゃないですし」

 

 つまり、その方の援護は期待しない方が良さそうだ。

 だけど、これでますますりそなが言う危険性が増したかも知れない。才華様達はきっと、ルミネ様に衣装を着て貰ってフィリア・クリスマス・コレクションで取らなければならない二つの最優秀賞の片方を狙うつもりだ。

 昨日のルミネさんの質問から見て、ルミネさん自身もそのつもりでいるんだろうけれど。

 

「ふふっ、期待していたルミネさんが、期待に応えられなくなった時の甘ったれやアトレの顔が楽しみですね」

 

「そういう事を言ったら駄目だよ」

 

「下の兄は腹が立たないんですか? アトレは選りにも選って、貴方にとっての禁句を言ったんですよ。少なからず事情を知っていながら、貴方の失態を材料に甘ったれへの情状酌量を頼もうとしたんです。妹。本気でキレました」

 

 ……これはそう簡単にはアトレ様と和解しそうにない。

 出来る事なら、僕が現れる前のように仲良くして欲しい。

 

「僕は別に構わないよ。アトレ様の言うように、僕が不誠実なのは事実だし、自分でも自覚してる」

 

「昨日の貴方の顔は、構わないって顔じゃありませんでした……この件はもうよしましょう。話を進めたら、貴方の心が危ないですから。それにそろそろ家を出ないと学院に遅れます」

 

 りそなは話は終わりだと言わんばかりに、口を噤んだ。

 ……少なくとも今日はこれ以上、昨日の件の話は無理だと分かった。

 残念な気持ちになりながら、僕は鞄を手に持って立ち上がる。

 既に制服は着ているし……カリンさんにメイクもして貰ったから問題はない。無いという事にしたい。心が痛むけれど。

 痛みを感じながらも気持ちを切り替えて、遊星から朝日に口調を変える。

 

「それではりそなさん。行って来ます」

 

「……朝日」

 

「はい。何でしょうか?」

 

 何かあっただろうか?

 と思っていると、りそなは手紙が入るぐらいの封筒を僕に向かって投げて来た。

 慌てて僕はそれを手を伸ばして受け取った。

 

「あの、りそなさん。これは一体?」

 

「あの甘ったれに渡しておいて下さい。本当は昨日の帰り際に投げつけてやるつもりだったんですが、アトレのせいで機会を失いました」

 

「才華様に?」

 

「ええ、中身は見ないで下さい。あの甘ったれにも絶対に学院内では開けないように言っておいて下さい。良いですね!」

 

「わ、分かりました」

 

「話は終わりです。カリンさん。何かあったらすぐにメールを送って下さい」

 

「了解しました。では、小倉様。行きましょう」

 

「は、はい」

 

 疑問を抱きながらも、りそなから渡された手紙を鞄の中に仕舞い、僕とカリンさんは家を出て学院に向かった。

 

 

 

 

side才華

 

 鳴り響く目覚ましの音で目が覚めた。

 ……ベッドの周囲に用意しておいた11個の目覚まし中、6個が撃破されていた。

 寝坊はしていないけれど……危なかった。明日からはもっと数を増やした方が良いかも知れない。

 決意が強まったのに、寝坊してしまったら決意が無意味になってしまう。

 

「……それにしても昨日は」

 

 小倉さんと総裁殿が帰った後、アトレは僕とルミねえに謝罪をした。

 どうやらアトレは僕らが居ない間に、何とか総裁殿を説得しようと言葉を尽くしたらしい。だけど、総裁殿は意見を変えなかった。

 聞く耳持たないという状態で、総裁殿はアトレに僕とルミねえにも語った僕から引き離すという罰を与える事を宣告した。それはアトレにとっては何よりも辛い罰で在り、理解者だと思っていた総裁殿から告げられた時の様子は、隣で聞いていた九千代が言うにはかなり落ち込んでいたようだ。

 最優秀賞を二つ取る事さえ出来れば、その罰も免れるけれど。これはかなり難しいと言うか、難易度が半端ではない。

 僕の知っている方々が来るのは驚いたけど、それ以上に驚いたのはジャン・ピエール・スタンレーが審査員としてやって来る事だ。

 彼はお父様の憧れの人で大好きな人だと、僕は知っている。だけど、直接会った事は無い。

 お父様も出来れば直接僕に会わせたかったのだろうけど、彼は多忙な人だ。世界的なデザイナーの一人であるお母様の力を以ってしても、簡単には会えない人物。服飾界においては間違いなく最高峰に立っている人物だ。

 その作品は僕も雑誌で見ている。素晴らしい作品の数々だと、僕自身も認めざるをえない。

 そんな彼が審査員としてフィリア・クリスマス・コレクションにやって来ると知れたら、学院中の生徒が騒ぎ出す。彼に認められるという事は、それ自体が一種のステータスだ。

 フィリア・クリスマス・コレクションというブランドに、彼の評価まで付いて来るとなれば、学院中の生徒のやる気は途轍もなく高まる。

 『狂信者』と呼ばれる総学院長は、間違いなく彼が審査員として来る事を大喜びで宣言するだろう。

 そのような状態の中で、最優秀賞を二つ取るのは難しい。しかもジャン・ピエール・スタンレーばかり気にしていたら、総裁殿が言った他の三名の審査員で痛い目を見る。

 

「どうしよう」

 

 デザインには自信が無い訳じゃない。

 エストとの日々は間違いなく僕の糧になっていた。不安な日々だったけど、デザインの技術は向上している。

 問題は……何も知らない知り合いの方々の前に、女装した僕が現れた時の彼女達の反応だ。

 間違いなく、口を大きく開けるほどの衝撃を受けるに違いない。と言うか、その場で僕の正体が暴露されて、審査対象外にされかねない。

 総裁殿はやってくれたと思う。だけど、審査員として彼女達は問題ない。どころか、柳ヶ瀬さんを除いた二人は服飾界では有名な方々だし、柳ヶ瀬さん自身も甘く見たら痛い目にあう。あの人はお母様の会社の営業部長で、お母様に意見する事も出来る人だ。あの自分のデザインに絶対の自信を持っているお母様が、柳ヶ瀬さんの意見を聞いて、軽いアクセントぐらいは付け加えるほどだ。

 用意された審査員の方々は、間違いなく強敵。しかも鉄壁と呼べる布陣だ。

 確かにこの審査員の方々に認められ、最優秀賞を二つ取る事が出来れば、僕は少なくとも学生時代のお母様を超えた事になる。難易度の高さが途轍もない事を除けばだけど。

 

「そうだ。ルミねえに会いに行かないと」

 

 何の為に早起きしたのか思い出した僕は、急いで準備をする。

 エストのところに行く前に、ルミねえと相談をする約束をしていた。内容は言うまでもなく、アトレの事だ。

 アトレは謝罪したが、それは総裁殿を説得出来なかった事に対して。

 昨日の小倉さんの件に対する謝罪は無かった。以前から小倉さんに対する敵意は見え隠れしていたけど、アトレのその感情は予想以上に強かったらしい。いや、危ないとは感じていたけど、それはあくまで演技も含まれていると楽観視していた。

 だけど、蓋を開けてみたら、その感情は常日頃のアトレから考えられないほどに強かった。

 その件に関しては相談しないといけないと、ルミねえと決めて朝が弱いのにも関わらず、僕は早起きしたんだ。

 

「後はメールか」

 

 昨日の夜、エストから桜小路才華に対する感謝のメールが届いた。

 但し内容にはやっぱり頭を抱えた。

 

『こんにちはエストです。今日はプールで溺れていた私を助けてくれてありがとう。病院で治療を受けた結果、対応が迅速だったのもあって、今のところ後遺症や、体感できるダメージはありません。貴方があの場所へ来てくれなければ、私は今頃無事ではいられなかったのでしょう。勇気ある行動に感謝します』

 

 一見すれば素直な感謝の内容だ。そこはかとなく怒りを感じてはいたけど、丸く収まったと感じていた。続きのメールを見るまでは。

 

『つきましては、命まで助けて頂いたのですから、直接お会いしてお礼を言いたいのですが、面会する機会を頂けないでしょうか? 八十島さんに聞けば、今は日本にいらしているそうじゃありませんか。此方のマンションへ来た時でも構いませんし、場所を指定していただければ私が行きます。断る理由はない筈です。まさか私に一方的な恩だけを売って、お礼も言わせないままでいるつもりはありませんよね?』

 

 あります。断る理由。だから、お礼は良いと内心で思いながらマウスのホイールを動かしてみると。

 

『私は朝陽さんに描かせていた件でとても怒っているのだけど、それなのに命を救われて感謝する事しか出来なくて、悔しさともどかしさと恥ずかしさで、とにかく顔を見てお礼を言わなければ気が済みません。良いから会わせて。避けないでね。私と面会してね。今回会ってくれなかったら、もしいつか直接顔を見た時は、握手で手を握り潰して、何発も頭突きしながら日本式の御辞儀をするから。絶対絶対絶っっっ対! 逃げないで!』

 

 逃げるに決まっているじゃありませんか、僕のご主人様。

 会ったら小倉朝陽=桜小路才華だとバレてしまう。直接会ったりすれば、握撃や連続頭突きじゃ済まなくなる。防刃チョッキの上に防弾チョッキを着つつ、ヘルメットを被って漸く挨拶出来るレベルじゃないか。

 これに加えて僕がやらかした数々を知ったら、顔を見た瞬間、飛び蹴りを加えられそのままマウントポジションを取られてボコボコにされる未来しか見えない。

 何せメールで送られて来た文は、英語になっていて好意的に解釈した内容だ。

 正しい翻訳をしたら、最後の方なんて。

 

『逃げんなよ。逃げたら殴る。いや撃つぞ。分かってんだろーな、おぉ? あぁ?』

 

 とんでもない内容だ。

 言い訳は無用だ、とにかく『無事で良かった』の挨拶の一行だけ送った。

 後、お父様からメールも来てたけど、返事は後回しにした。プールでの一件で僕の中でのあの人に対する評価は変わったけど、その事とは別に許せない事がある。

 僕が小倉さんを捜しているのを『晩餐会』の時に伝えたのに、小倉さんがアメリカの実家に滞在していたのを伝えてくれなかった事だ。忙しかったのもあるだろうけど、一言だけでも報告してくれていれば色々と状況は変わっていたに違いない。だから、お父様への返事は一週間後ぐらいにしようと思っている。

 返事が来なくて焦るお父様の顔を思い浮かべると、少しだけ楽しい気持ちになった。

 ……そろそろ目を背けるのを止めよう。

 パソコンのメールの受信ボックスを開けてみる。エストからの返事が来ていた。

 

『挨拶だけか。このチキン野郎!』

 

 サブジェクトな返事が届いていた。

 ……エストの桜小路才華に対する評価は、もうマイナスに至っているのではないだろうか?

 不安な気持ちを抱きながら、僕は登校する為の準備を終えた。

 そう言えば、昨日は『桜の園』に帰って来てから、八日堂朔莉に会っていない。屋上の庭園に行っていれば会えたかもしれないけど、昨日はエストの件や総裁殿とアトレの件で忙しくて行く暇がなかった。

 部屋を出る時間はルミねえと話をする為に通常の登校時間よりも大分早い。

 流石にいないだろうと思いながら、僕は部屋を出た。




因みに朝日が元の世界に戻る事はありません(断言)
戻っても既に手遅れ状態になっていますので。主に大蔵家が。
アトレとの関係は徐々に回復させる予定です。個人的にはアトレには才能が無いと言うよりも、才華に集中していて他に関心がないだけのような気がするんですよね。
才能が無い人間が千人以上の規模を誇る『朝陽倶楽部』なんて設立させられる訳がないので。

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