月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
三角関数様、秋ウサギ様、笹ノ葉様、烏瑠様、dist様、障子から見ているメアリー様、誤字報告ありがとうございました!
side才華
「妾はおはようのキスを所望するぞえ」
部屋を出てみると、当然の如く八日堂朔莉がいた。
……思わず部屋に戻って時間を確かめた。
うん。まだ登校時間には早過ぎる。と言うよりも、早くに学院に行かないのならまだ眠っていてもおかしくない時間だ。
不安で僕の時間感覚がおかしくなった訳ではない。
見間違いだったのかなと思いながら扉を開けた。
「酷い。キスしてくれないなんて」
……何でいるの!? 見間違いでなかった事に戦慄を覚えた。
「……何でこの時間に部屋の前にいらっしゃるのでしょうか? 普通はまだ寝ていてもおかしくない時間帯なのですけど」
「答えたらキスしてくれる?」
「どうぞ」
僕は部屋の中から取って来たアナコンダのぬいぐるみを八日堂朔莉の唇に押し付けた。
これでキスした事になる筈だ。八日堂朔莉は押し付けられたぬいぐるみを離した。
「朝陽さんに会いたくて」
「何故でしょうか?」
「だって、昨日屋上の庭園で待っていたのに朝陽さん達が来てくれなかったんだもん。一人でポツンと庭園にいるのは凄く淋しかったわ」
どうやら八日堂朔莉は僕達が屋上に来るのを待っていたようだ。
だけど、残念ながら僕達には行っている余裕はなかった。総裁殿とアトレの喧嘩がなければ行けたかもしれないけど、昨日はどうやっても無理だ。
一人寂しく屋上に居させてしまったのは、少し申し訳ないと思うけど。
「申し訳ありません。昨日はそれどころではなかったので」
「まあ、何だか事故がマンション内であったって噂が流れているし。もしかしてそれ関係で来れなかったの?」
「はい、実は……」
僕は八日堂朔莉にエストの件を説明した。本当はそれだけではないのだけど、屋上に行けなかった理由は家庭の事情なので、其処まで八日堂朔莉に話す必要は無い。
聞き終えた八日堂朔莉は安堵の息を吐いた。
「そう。エストさんが事故の被害者だったの。それじゃ今日の登校は無理ね」
「ええ。私も心配でこんなに早く起きたんです。少しでも早くお嬢様の様子を確認したいので」
「それじゃ、これをお土産に持って行って。ままかりの酢漬け」
何時も貰っている物を渡して、八日堂朔莉は僕の前から退いた。
そのまま僕が押し付けたアナコンダのぬいぐるみを注意深く調べ出す。
「朝陽さんの髪の毛が付いていないかしら」
僕は迷う事無くアナコンダのぬいぐるみを取り上げて、そのままエレベーターに乗り込んだ。
行先は先ずルミねえに会う為に64階だ。
「……何その二つは?」
64階に着くとルミねえが部屋の前で待っていてくれた。
僕が持つままかりの酢漬けとアナコンダのぬいぐるみに眉を顰めた。
「八日堂朔莉が部屋の前で待ち構えてた」
「えっ? この時間で?」
僕は頷き、ルミねえは困ったように顔を歪ませた。
気持ちは良く分かる。こんな時間から部屋の前で待ち構えているとは夢にも思ってなかったのだろう。
と言うか、僕自身も思ってなかった。
「とにかく部屋の中に入って。誰かに聞かれたら不味いから」
「うん」
ルミねえの部屋に入り、取り敢えずアナコンダのぬいぐるみとままかりの酢漬けは入り口に置いておく。
変な物を置かれてルミねえは頭が痛そうにしているけど、今は置かせて貰おう。後でちゃんと持って行くから。
部屋の奥に進んでみると、テーブルの上に朝食を並べている見覚えのある相手の姿があった。
「おはようございます、若」
「あれ、壱与。どうしてルミねえの部屋に?」
「ルミネお嬢様から呼ばれていましたので。若が来るまでの間に朝食の準備をしていました」
「アトレさんの件は八十島さんも心配していたし……今回の話にはアドバイザーとして力を借りたいと思ったから」
「アトレお嬢様がまさか小倉さんにあのような感情を抱いているとは、私も思っていなかったのです。総裁殿の事もありますので、仲を取り持つ為の力を借りたいという事ならば、私も力にならせて頂きます。若も朝食をお食べになりますか?」
「ありがとう、壱与。だけど、朝食は良いよ。この後エストの所に行くから、朝食は其処で取るつもりなんだ」
「分かりました。フフッ、主従で食事を取るのも良い事ですね」
壱与の協力は心強い。僕らの中で小倉さんに関して最も事情を知っているのは間違いなく壱与だ。
口止めされているから簡単には全てを話してはくれないかも知れないが、それでも互いの事情が分かっている相手がいるという事は助かる。
下手に話を進めて、取り返しのつかない事態になる事だけはしてはならない。
今回の件は、今後のアトレと総裁殿の関係も関わってくるから特に慎重にならないと。
「先ずは状況の確認からするけど、アトレさんは小倉さんに良い感情を持っていない。これに関しては二人も分かっているよね」
僕と壱与は無言で頷いた。
「……正直言って私は甘く見ていたと思った。以前からアトレさんには時々小倉さんに対する敵意は見え隠れしていたけど、あくまでそれは演技だと思っていたの」
「僕もだよ」
「具体的にはどのような事なのですか?」
「そう言えば壱与はその場に居なかったね。実はアトレは僕らにも内緒でサバイバルナイフや桜屋敷にあったお母様のスポンジ弾入りの銃を用意していたんだ。小倉さんが来た時に脅し帰す為に使うとか言っていたんだよ」
「それは……総裁殿にその件を知られなくて良かったです。もしもその事を総裁殿が知ったら、アトレお嬢様は日本に居られなくなっていたでしょう」
壱与の言葉に僕は心の中で同意した。多分ルミねえも。
昨日までは総裁殿の小倉さんに対する感情は、ただ気に入っているだけだと思っていた。だけど、違った。
総裁殿が小倉さんに対して向けている感情は、気に入った相手という感情では済まない。
心からの親愛を総裁殿は小倉さんに向けている。あの総裁殿がアトレに対して怒りを顕わにして暴力を振るおうとしたのだ。
小倉さんが止めてくれなければ、総裁殿はアトレを叩いていた。それほどまでに怒りを抱いた時点で、総裁殿は小倉さんをお気に入りではなく家族として見ている。
思えば総裁殿は小倉さんを伯父様に探すように命じていた。つまり、最初に小倉さんを見つけたのは伯父様ではなく総裁殿。その総裁殿から伯父様は何故小倉さんを隠していたのかは分からないが、総裁殿は壱与を除いた誰よりも早く小倉さんの存在を知り捜索していた。
この時点で気がついておくべきだったんだ。小倉さんは総裁殿にとって、単なるお気に入りではなく家族として見ている相手だという事実に。
「八十島さん。貴女は総裁殿と小倉さんの事情を知っているんですね?」
「……知っています。ですが、ルミネお嬢様。申し訳ありませんが、その件はお話し出来ません。小倉さんの事情は安易に話す事が出来ない程の事なのです。家の事情もありますが、それ以上に迂闊に知ってしまえば、小倉さんの精神にどれほど悪影響が出てしまうのか。想像するだけで私は怖いのです」
「……壱与の言いたい事は分かるよ。僕は正直に言えば、もう小倉さんは大丈夫だって思っていたんだ。何時かは以前に仕えていた主人の人にも会えて、和解出来るなんて考えてた」
「だけど、それは間違いだった。小倉さんの精神は確かに回復しているけど、それは完全にじゃなくて良くなっていただけ。何時私達が知る小倉さんに戻っても可笑しくないほどに、あの人は危うい状態にある」
ルミねえの言う通り、昨日、総裁殿を伴って帰る時の小倉さんの様子は、間違いなく僕らが知っている悲しみに満ちた小倉さんに近い状態になっていた。
先月のお母様が電話をくれた時に、僕は忠告を受けていた。何時小倉さんは僕らが知るあの人に戻ってもおかしくないと。
でも、再会したあの人はそんな雰囲気を一切発していなかった。教室では暴君だったジャスティーヌ嬢を相手に、毅然と挑んでいた。総裁殿が話している時に急に暗くなったりはしたけど、すぐに回復していたので余り心配はしていなかった。
だけど、その考えは間違っていた。お母様や総裁殿が言うように、あの人はまだ回復し切れていない。何時僕らが知っている悲しみに満ちた状態に戻ってもおかしくないほどに危うい状態にいる。
「因みに壱与。もしも今回の件をお母様が知ったら、どうなると思う?」
「……考えたくもありません。少なくとも奥様は総裁殿と同じぐらいにお怒りになられるでしょう」
……本当にあの人は何者なのだろうか?
お母様が怒るのは怖い。怒った時のお母様を止められるのはお父様だけだ。
ただそのお父様も小倉さんの状態は把握しているだろうから、アトレのした事に良い感情は抱かないと思う。
今回は何とか持ち直せそうだけど、もしも総裁殿が居ない所で小倉さんに以前の主人の話をしていたら、最悪の事態になっていたかも知れない。
そうなったらもう僕らは本格的に終わりだ。ルミねえはともかく、僕やアトレに対して総裁殿は良い感情を抱かないだろう。伯父様もどうなるか分からない。
あの人は小倉さんに対して厳しい人だけど、根底では大切に思っている。せっかく回復した小倉さんを元のというべきか、僕らが知っている暗い小倉さんに戻してしまったら、伯父様も怒りを抱くに違いない。
「どうしようか。僕はアトレと小倉さんは仲良く出来ると思っていたんだけど」
「アトレさんは私と違って、小倉さんと二人だけで話していないし。迂闊に二人で話させたりしたら、今度こそ地雷を踏んでしまいそう。仲を取り持つにしても、小倉さんに対する感情はアトレさん個人の感情だから」
「下手に仲を取り持とうとすれば、更なる悪化を引き起こすかも知れません。地道にアトレお嬢様が小倉さんを知っていくしか方法はないかも知れませんね」
他に方法があるとすれば……僕がアトレに小倉さんと仲良くするように言う事だ。
だけど、この手段は絶対に使ってはいけない。アトレは僕の言う事を聞いて、表面上は小倉さんと仲良くするだろう。あくまで表面上はだ。
内心ではきっとアトレは小倉さんを嫌い続け、最終的には嫌悪感さえ抱きかねない。そうなってしまったら二人の関係は修復不可能。
同時に総裁殿とアトレも、もう二度と以前のような関係には戻れない。
現状維持。それ以外には僕らに出来る事はなかった。
「……やっぱり私達に出来る事は今のところはないね」
「うん。何とか出来ないかなと思っていたんだけど」
「そう簡単にはいかないという事。で、此処から私個人が気になっている事なんだけど……八十島さん」
「何でしょうか、ルミネお嬢様?」
「……もしかしてなんだけど……小倉さんのお父様って……大蔵真星お兄様なんじゃないの?」
「えっ!?」
大蔵真星って、お父様と総裁殿の実父で僕にとっては祖父にあたり、ルミねえにとっては異母兄。
小倉さんの父親が僕の祖父!? という事は、あの人は本当は僕の叔母!? まさかという気持ちで壱与を見てみるが、壱与は表情を変えていなかった。
……違うの?
「何故そう思われたのでしょうか?」
「これまでの小倉さんに関する情報から考えてみた。小倉さんの母親は、昔桜屋敷に勤めていた『小倉朝日』さんなのは間違いないと思う。そして小倉さんが言うには、才華さんのお母様が卒業した後に『小倉朝日』さんは大蔵家の使用人に戻った」
「矛盾はありませんね」
「うん。矛盾はない。だけど、それじゃ説明がつかない事がある。小倉さんが余りにも才華さんのお父様と総裁殿に似ている事が……これは八十島さんには不快かも知れないけど、言わせて貰う。私は最初、小倉さんの父親は遊星さん。そして母親は総裁殿なんじゃないかって疑ってた」
「ルミネお嬢様。失礼ながら否定させて頂きます。旦那様は絶対に奥様以外の女性には手を出しません。そして小倉先輩は間違いなくいました」
「それも才華さんに言われて納得していた。私も小倉さんと話して、あの人が大蔵家に対して恨みとかの感情を抱いていないのも理解出来た……私の中の一般論が崩れたけど」
それがあったからルミねえは、小倉さんを疑っていたからね。
僕は全く小倉さんが復讐なんて考えを持つなんて思ってなかったけど、一般論からすればルミねえの意見は正しいし。
「でも、ずっと小倉さんの父親に関しては疑問に思っていた。それで思い至ったのが真星お兄様。富士夫お兄様の件もあるし、祖父の事を悪く言って才華さんには悪いけれど、小倉さんが真星お兄様の子供だったら、遊星さんと総裁殿に似ているのも納得出来る」
「壱与どうなの?」
「残念ですが、私からは何も言えません。私は使用人の立場にいる者ですので」
「やっぱり答えてはくれないか」
ルミねえは余り残念そうではなく、寧ろ壱与が言う事を分かっていたかのように納得していた。
でも、小倉さんのお父様は真星お爺様か。言われてみれば、納得出来る部分もある。以前ルミねえが言っていたように、お父様と小倉さんは良く似ている。それは父親が同じだったからだと言われれば、説得力はある。
つまり、ルミねえの推測が当たっていれば、小倉さんは大蔵長男家の次女。伯父様やお父様、そして総裁殿にとっては妹に当たる。
普通なら祖父の不義なんて疑いたくはないけど、真星お爺様には前科がある。
お父様は非嫡出子だ。僕の実祖母に当たる方は、僕が生まれるずっと前、お父様が子供の頃に亡くなったと聞かされている。祖母の墓はイギリスにあって、子供の頃に連れて行って貰った。
……そう言えば桜屋敷を出た小倉さんをお母様達が最初に見つけたのは、イギリスだった。偶然だろうか?
いや、イギリスのロンドンは伯父様の活動拠点でもあるから、其処に滞在させられていたかも知れないから、安易に考えてはいけない。
「でも、ルミねえ。真星お爺様が、小倉さんの父親だって確信でもあるの?」
「確信という訳じゃないんだけど、昨日総裁殿がアトレさんに対して怒った時、総裁殿を小倉さんが止めたら、最初に総裁殿は小倉さんの事を名前じゃなくて、『下の』って言いかけていたのを覚えてる?」
「……そう言えば言ってたような気がする」
「総裁殿は基本的にプライベートの場では、相手の事を本名で呼ぶのは稀な人だから。怒りで冷静さを失って、私達がいないところで小倉さんを呼ぶ時の言い方をしかけたんだと思う」
そうだ。総裁殿はそういう方だ。
僕に対しては『甘ったれ』。お父様は『下の兄』。伯父様は『上の兄』。お母様は『ルナちょむ』と、基本的にあの人は親しい相手でもあだ名みたいな呼び方をする。
例外としてはルミねえとアトレだけど、ルミねえの事だって最近までは『叔母』と呼んでいたらしい。
お気に入りだったアトレは普通に名前で呼んでいたけど、コレは本当に稀だ。
小倉さんの名前はそもそも偽名に近いから『朝日』と呼んでいたけど、二人だけの時はもしかしたら別の呼び方をしていたのかも知れない。
その呼び方の一部が『下の』だとすれば、続く言葉は『妹』の可能性は考えられる。あくまでルミねえの推測が当たっていればの話だけれど。
「ルミネお嬢様が疑問に思うのは仕方がない事ですが、どうか小倉さんには深く尋ねないで欲しいのです。あの方の精神は、お二方も見ての通りギリギリ保たれている状態です。衣遠様と総裁殿のおかげで良い方向に向いていましたが……」
「アトレさんの件で悪い方に戻りかけた」
「はい。恐らく今度悪い方に戻ってしまったら……小倉さんはもう二度と笑顔を浮かべる事が出来ず、立ち上がるのも無理になるでしょう」
「壱与。何とか小倉さんの以前の主人の人に会わせられないの? その人と和解する事さえ出来れば、小倉さんは元気になれるだろうから」
「それは小倉さん自身が望んでいません。本心からでは今すぐにでも会いたいのでしょうけど。自分のしてしまった事の罪の重さと……そしてメイド長に言われた最後の指示があの人の中で会いに行くという選択肢を無くしています」
「……『二度と当家に関わるな』」
「ルミねえ?」
「それが小倉さんが言われた言葉らしいの。あの人にとっては何よりも辛い言葉で罰」
……確かに辛い言葉で罰だ。
償いたいと思っても、小倉さんを追い出したメイド長の言葉を破ってしまえば、その時点でアトレが言っていた誠実さが疑われる。
もしもエストに僕の正体がバレれば、同様の事を言われるだろう。或いは正義感の強いエストなら、別の行動をするかもしれない。
アトレはきっと小倉さんを足掛かりに、総裁殿に僕に対する情状酌量を得ようとした。同じ事をした人が許されて、僕が許されないのはおかしいと言おうとしたんだろうが、それが総裁殿の怒りを買った。
僕らは小倉さんの精神状態を把握していなかった。笑顔を浮かべられるほどになっていたんだから大丈夫だと思っていた。でも、精神状態を知っていた総裁殿からすればアトレの言葉は許せなかった。
……簡単には和解出来ないと実感する。
ルミねえも同じ気持ちなのか苦い表情を浮かべている。和解出来る可能性が今のところあるとすれば、フィリア・クリスマス・コレクションで僕が最優秀賞を二つ取る事だ。
「ルミねえ。ピアノ科の方はどうだったの?」
「ピアノ科の環境はとても良かったよ。コンクールで見かけた事がある子もいた。私のクラスの先生は、ウィーンの学院で講師を務めていた。プロのピアニストの方に付いて貰えるみたい」
明るい顔で語っているところから見て、ピアノ科の教育環境はかなり良いようだ。
そんな環境でピアノの勉強が出来るとなれば、元々のルミねえの実力を考えて間違いなくフィリア・クリスマス・コレクションのピアノ部門のソロの一人に選ばれると思う。
身内贔屓かも知れないが、僕が知るルミねえの実力ならば一年目でピアノ部門の三名しか選ばれないソロに選ばれても可笑しくないと思ってる。
問題があるとすれば……。
「最大の問題はお父様。私がフィリア・クリスマス・コレクションに参加する事になれば、衣装を用意しかねない」
「だよね」
それが最大の問題だ。
フィリア学院の他の部門のフィリア・クリスマス・コレクションは、服飾部門に衣装を依頼する時もあるが、学院外にも衣装を依頼する事が許可されている。学生の枠を超えた一大イベントなだけに誰もが綺麗な衣装を着て参加したいと思っている。
服飾部門のファッションショーは、当然自身が製作した衣装以外の参加は認められていないが、代わりにランウェイを歩く時に自分が気に入った音楽を流したり、他の科の生徒にモデルを依頼する事が出来る。
そしてルミねえを誰よりも輝かせたいと思っているひいお祖父様の事だ。凄い衣装を用意しようとするに違いない。
何せ大蔵家には世界的なデザイナーの一人であるメリルさんがいる。メリルさんが製作する衣装と僕が製作する衣装。どちらをひいお祖父様が選ぶかなんて考えるまでもない。
デザインに自信が無い訳では無いが、メリルさんの方が僕よりも服飾の腕は確かだ。
「どうやってルミねえに僕の衣装を着て貰うか」
「当日はお父様も来るだろうし。用意して貰った衣装を着てなかったらすぐにバレちゃう」
「説得はどうかな?」
「ソロへの参加が決まったら、すぐに言ってみる。流石にお父様も参加が決まってもいないのに、メリルさんに衣装の依頼をしないだろうから。最悪、私が内緒でメリルさんに連絡してお父様から依頼が来たら拒否して貰うように頼んでみるよ」
「お願い。その代わり、ルミねえに相応しい衣装を製作するから」
「その時は楽しみにしてる。才華さんの衣装を着れるのは嬉しいから」
まだ分からないけど、ルミねえがピアノ部門でフィリア・クリスマス・コレクションに参加する時は、素晴らしい衣装を製作しよう!
大好きな姉を輝かせる事が出来る衣装を製作するのが楽しみだ!
取り敢えず今日の相談は終わりにして、僕はルミねえと壱与に別れを告げてエストの部屋に向かう。
時間帯的には問題はないが、エストの事だ。
寝ているだろうけれど、慣例的にインターホンで目覚まし。一応、三回鳴らしてから入るようにしていた。
「朝陽、おはよう」
あれ。まだ一回目しか押して無いのに返答が来た。絶対に寝ていると思ったのに起きている。
「おはようございます。朝食の準備に伺いました」
「いま開ける」
「えっ。いけません。朝のお嬢様は全裸……」
……全裸じゃない。
入り口から出て来たエストはちゃんと服を着ている。極めて当然の事だけれど、心から安堵した。
防犯カメラは起動しているから、エレベーターホールへ、裸のまま出て来たらどうしようかと思った。
「お嬢様。人間は服を着る生き物だと、漸くご理解頂けたのですね。根気よく訴え続けた甲斐があったのだと、ちょっぴり感動いたしました。小倉朝陽、やる気マンハッタンです」
「やだな、朝陽が起こしに来ると分かっているんだから、服は当然身に着けるよ」
何を言っているんですか、ご主人様。
昨日までの君は、僕がやって来ても全裸でベッドに寝ていたネアンデルタール人の旧人だったじゃないか。
それがクロマニョン人に進化しているんだぞ。驚くべき事だ。
このまま是非現生人類になって欲しい。
「私は今、人類の進化の謎を解き明かす鍵を見つけかけているのかも知れません」
「へっきしゅ。まだ髪が乾いていないから、ちょっと寒いかも」
シャワーまで浴びているだと!?
一体エストに何が起きたんだ!? もしや目の前にいるエストは、実は外国にいる彼女の姉妹の誰かなのではないのだろうか?
そう疑いたくなるほどに、エストは進化している。
……本当に何があったの?
「アレ? 朝陽。急に私のおでこに手を当てて、どうしたの?」
「……熱は無いようですね」
「どういう意味かな、このドS従者?」
「昨日までのお嬢様を振り返ってみて下さい」
「朝食の準備をお願い。実はちょっとお腹を空かせて待っていたの」
はぐらかしたな。
でも、お腹が空いているという事は、僕が来る前から本当に起きていたのか。
これまでのエストの事を思い出すと不気味に思えてしまう。まあ、此処はエストが成長したと思って喜ぼう。
「分かりました。腕によりをかけて、料理は文化の象徴である事を示してみせます」
「うん? 私の住んでいた地域は、アイルランドもアメリカも料理は雑だったよ」
そういう問題ではないのです。かつてない意気込みで僕はキッチンへ向かった。
「ところで朝陽さん。ままかりの酢漬けはともかく、このアナコンダのぬいぐるみはなに?」
「聞かないで頂けると嬉しいです」
学院に行く前に、部屋に一度戻ってぬいぐるみは置いて行かないと。
「おおおふうぅ……今日の朝食は特別美味しい……今までも美味しかったのだけれど、見た目も良くて、何種類もあって、高級ホテルの献立みたい! 朝陽が此処までの料理を作れるだなんて!」
「はい、特別に手を掛けましたから。寧ろ今までと同じだと思われて、何の反応もなければ少し残念に思うところでした」
実を言えば僕もちょっと驚いている。お父様がとても料理が上手だから、負けられないと思った僕は、お母様を喜ばせる程度に練習をした。
その腕をこれまでエストに振るって来た。お詫びにもならない事だが、少しでも喜んで貰おうと頑張って作っていた。だけど、今日エストに作った料理は何時も作っているものよりも美味しいと自分でも分かった。
そのきっかけは間違いなくアレだ。
これまで目を逸らし続けながらも掴みかけていた感情。
『誰かを、エストを支えたい』
その感情を自覚した事によって、僕の中で何かが変化した。
ただこれは切っ掛けの感情なような気もする。あくまで掴みかけているだけという歯がゆい何かを、僕は心の奥で感じていた。
……もっと何か、この支えたいという感情の先に大切な何かがあるような気がする。
それが何かはまだ分からない。でも、必ず見つけないといけない。恐らくソレこそが、僕のデザインに足りなかった何かだ。
とは言え、今は主人との朝のひと時を楽しもう。
「普段から出すには手間と時間がかかり過ぎるので。こういったものをお出しするのは、特別な日だけにさせて下さい」
「今日は特別な日なの?」
「はい。お嬢様の回復祈願です」
「あ、そっちなんだね」
そっち?
「ありがとう。今日は目覚めてから、ずっと気分が良いの。身体の心配はいらないと思う」
背筋を伸ばしてハキハキと喋る様は、僕から見ても気品に溢れていると思えるほどだ。
毎朝『ふえっふぅ』とか言いながら、眠そうにしていた女性と同一人物には思えない。
「本当、とても気持ちいい。昨日の夜はね、桜小路才華にお礼のメールを出したら、とても不快な返事が届いて、怒りの余りにどうなる事かと思ったの。でも今朝はスッキリ」
ああ、やっぱり怒っていたか。当然の事だから仕方がない。
でも、どうかこのチキン野郎を許して下さい、ご主人様。……無理だろうけど。
ばつの悪さを感じた僕は、暫らく黙って食事の手を進めた。我ながら茶わん蒸しは良く出来た。
そんな風に自分の料理の出来を確かめていたせいで、エストが黙っている事に気づくのが遅れた。彼女はスプーンを動かす手すら止めて、何かをジッと見つめていた。
視線の先は……僕の顔? いや、顔の中でも特に唇?
目線を僕が辿っている事に気づくや、エストは慌てて顔を伏せた。もそもそと食事を再開したものの、その頬が赤い。
……どういうつもりなのだろう。僕を男性だと認識していない筈なのに、照れているのか?
あれは救命行為であって……そもそも女性同士という認識なんだし、赤くなるのは何か違うと思うんだ。
アイルランドは確か同性婚を認めてなかった筈、影響されてこっちまで気恥ずかしくなってきそうだから、止めて貰いたい。
「わ、このスープ美味しいね」
「お味噌汁と言うものです。日本の朝食には付き物です」
「ふぅん、中々気にいっ……ぁつ!」
「あ、大丈夫ですかお嬢様。お水を……」
……出そうとしてエストの唇に注目したら、何だか顔が熱くなった。
「今日の朝食は美味しいね」
「はい。特別仕様ですから」
だけど味以外の部分で覚えるこの甘酸っぱさはなんだろう? フルーツの盛り合わせはまだ食べていないのに。
「あ、それでね朝陽。今日から授業が始まるんだよね」
「ええ、そうなります」
「デザイン画の授業もあるのかな」
「そればかりは先生の授業の進め方次第なので、何とも言えません。デザインから始める先生もいれば、型紙を先に教える先生もいるそうです」
紅葉に事前に聞いておくべきだったのだろうか?
いや、余り学院内で紅葉に頼ったら不味い。彼女はあくまで教師の立場にいる。
クラス内に調査員がいるのだから、付き人である僕を優遇し続けたら危険だ。多少は見逃して貰えるだろうが、やり過ぎと判断されたらどうなるか分からない。
服飾の授業で紅葉が手を抜いたり優しくしたりはしないとは思うが。
……そう言えば。
「お嬢様。実は昨日、アトレ様のお部屋に行った時に興味深い話を聞かされました」
「興味深い話?」
「はい。お嬢様も大変興味を惹かれると思います。実は……」
僕は昨日総裁殿が語った今年のフィリア・クリスマス・コレクションにやって来る特別審査員について、エストに話した。
「あのジャン・ピエール・スタンレーが!?」
「はい。アトレお嬢様の叔母である大蔵りそな様がそう言っておられました」
「しかもユルシュール=フルール=ジャンメールまでが来るなんて。彼女は欧州方面で活躍している有名デザイナー。でも、花乃宮と言う方と柳ヶ瀬と言う方の名前は聞いた事がないのだけど」
「花乃宮様は日本の伝統衣装である着物デザイナーとして国内で有名なお方です。海外でもその衣装は評価され、更にアイドルなどの芸能関係の衣装の製作でも評価を受けています。柳ヶ瀬様はさる世界的デザイナーが経営しているブランドの営業部長を為さっているお方です。先のお三方とは違った方面で服飾に関わっているだけに、審査の基準も営業方面で為されるかもしれません」
「鉄壁の布陣」
うん。そう言うしかないよね。
ただでさえ学生レベルの枠を超えていると言われているフィリア・クリスマス・コレクションなのに、最早世界レベルの審査員が揃っているよ。
しかも、その内の三人は僕の顔を知っているし。嫌がらせに思えるけど、審査員としては申し分ないどころか、寧ろ是非来てくれと願いたいほどの方々だ。
「……選りにも選って、今年なんて」
ん? 何だか急にエストが暗くなったような?
「お嬢様。どうかされましたか?」
「……ううん。何でもないよ。でも、凄いね。そんな有名人の方々が集まるだなんて。これも大蔵りそなさんの力なのかな」
「そうだと思います。どうやら交渉したのは、大蔵りそな様のようですから」
「大蔵家ってやっぱり凄い」
エストは大蔵家の力を感じて、身体を震わせている。
仕方がないよね。ジャン・ピエール・スタンレーやユルシュールさんなんて、アーノッツ家の力じゃ会う事は出来ない人達だから。
そんな大蔵家に狙われかけている事に、心から申し訳なさを感じる。
「それで話は戻すけど、もしデザイン画の授業があった時はね」
少し言い難そうだけれど、なんだろう。暫らく待っていると、エストは小さな声を発した。
「自分で言うつもりは最初からなかったのだけれど、前に朝陽が八日堂さんを相手に話していたから。私がアメリカで幾つかの賞を取っている事は黙っていて欲しいの」
「実力をひけらかしたくないということでしょうか」
「それもあるし、日本では新しいデザインに挑戦してみようと思っていて。余りハードルを上げたくないの」
なるほど、分かる話だ。過去の実績を頼らないというところも気に入った。
だけど……。
「お嬢様。確かに良い話ですが、それでは今年のフィリア・クリスマス・コレクションに影響が出てしまうのでは?」
エストの考えは立派だと思うけど、その考えを実行した場合、元々のデザインの方が伸びなくなってしまう。
彼女の目標の中には、フィリア・クリスマス・コレクションで最優秀賞を取る事もあった筈だ。せっかく高名な審査員の方々が来るのだから、今のデザインの方を頑張るべきなのでは?
「朝陽の言いたい事は分かる。せっかく高名な方々が来るのだから、今のデザインを頑張った方が良いのは分かるんだけど……お願い」
「畏まりました。貴女の実績は誓って公言しません、誇り高きエスト」
「ありがとう」
何か事情があるのだろう。詳しく聞きたいという気持ちはあるけど、それはエストから話してくれれば良い。
それに彼女のデザインは素敵だから、あの教室でも、すぐに実力を認められてしまうだろう。
その事を楽しみにしている自分がいる。友人やライバルとしてではなく、この人を誇りたい。今は素直にそう思える。
これが人に従う心というものだろうか?
……悪くはない。きっとお父様もこんな気持ちを抱いていたのだろう。だけど、この喜びは胸を温かくすると同時に猛毒だ。
この猛毒は時を置くごとに強くなって行く。エストに真実を話す時、或いはエストが僕の正体に気がついた時に、猛毒は僕を呑み込む。でも。
「お嬢様。食事を続けましょう」
「そうだね。うん、朝陽の料理はやっぱり美味しい」
真実が明らかになるその時までは、この日々を楽しもう。
誇り高き、僕の主人であるエストと共に。
限りなく事実に近いところまでルミネは迫りましたが、まだ確証は持っていません。
確証を得る為には、事実を知っている者から聞くか、朝日の正体がバレないかぎり無理です。
四月は流石に本編開始ですから、長くなるのは確定です。