月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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本編投稿です!
お待たせしました!

烏瑠様、秋ウサギ様、dist様、五時方谷様、誤字報告ありがとうございました!


四月上旬13

side才華

 

 心臓がバクバクと音を立てているのが聞こえる。

 原因は分かりきっている。僕に肩を貸して保健室に向かっている小倉さんが居るからだ。

 思えば、この人と此処まで側に近寄って接触しているのは、帰国して初日に会った時以来だ。

 僕は女性に対して性欲を覚える事が出来ない。幾つかの例外を除いて、僕は父親の、しかも女装した姿でしか正常な性的興奮を覚える事が出来ない変態だからだ。

 ……小倉さんは例外に当て嵌まらずに、僕が性的興奮を覚える対象だ。間近で見れば見るほどに、この人の顔は、あの時のお父様に良く似ている。

 幸いと言うべきなのか、恥ずかしさが勝っているおかげで性的興奮は抑えられている。もしも恥ずかしさが負けていたらと思うと……ゾッとする。

 僕は我慢出来ずに……この人を襲ってしまっていたかも知れない。

 心を傷つけておいて、身体まで穢してしまったらと思うと、吐きそうになる。

 

「大丈夫ですか? 急に顔が青くなったようですが。もしかして吐き気まで出て来ましたか?」

 

「い、いえ、大丈夫です?」

 

「教室を出ようとしたのは、正体がバレない為なのかと思っていましたが、実は本当に体調が悪いのではありませんか?」

 

 小倉さんは僕の額に手を伸ばして来る。

 熱があるんじゃないかと心配してくれているんだろうけれど……。

 

「だ、大丈夫です! ほら、一人で歩けますから小倉朝陽は元気ですよ!」

 

 慌てて僕は小倉さんの側から離れた。

 純粋に心配してくれているんだろうが、僕にとっては逆効果だ。

 いきなり離れた事に小倉さんは目を丸くして驚いた。一緒について来たカリンの方は……呆れたように僕を見ている。その目が雄弁に語っている。

 『このまま本当にやっていけるのか』と。

 

「では、小倉様。私はこのまま調査の方に向かわせて頂きます」

 

「分かりました。教室でカリンさんの事を聞かれた時は、お父様の会社から急な呼び出しが掛かったと伝えておきます」

 

 小倉さんの言葉にカリンは頷くと、そのまま僕らから離れて廊下を歩いて行った。

 

「あの~、彼女はどちらに?」

 

「申し訳ありませんがお答えする事は出来ません。調査員として仕事の関係は話す事が出来ませんから」

 

「……そうですか」

 

 やっぱり話してはくれないか。仕方がない事だ。

 本来なら僕の存在が何よりも調査対象として見られるのに、それを見逃して貰っているんだから無理に聞く事なんて出来ない。

 

「それよりも早く保健室に向かいましょう」

 

「は、はい」

 

 小倉さんに付き従って、僕は保健室に向かった。

 

「熱は無いようですね。ただストレスが溜まっていそうなので、そのせいで疲れやすくなっているのかも知れません」

 

 保健室の先生は、僕を診断してくれた。

 流石はお嬢様方が通うフィリア学院の保険医なだけあって、腕は確かなようだ。

 でも、ストレスか。やっぱり溜まっていたか。

 

「余りこれまでストレスを溜めた事がないようですね」

 

 はい。日本に帰国するまでは、自信に溢れていたのでストレスは発散出来ていました。

 でも、今はその自信が紙くず同然になっているので、ストレスが溜まる一方です。

 

「休日にでも病院に行った方が良いでしょう。溜めすぎると、本当に倒れかねませんね」

 

 其処まで!?

 

「取り敢えず今日は教室に戻っても大丈夫です」

 

「ありがとうございました。それでは戻りましょうか、朝陽さん」

 

「は、はい」

 

 小倉さんに促されて、僕は保健室から出た。

 ……この体調が悪くなったと言う手段は、余り使わない方が良さそうだ。あの保険医はかなりの腕を持っていそうだから、僕の正体に気がつきかねない。

 小倉さんが症状を丁寧に説明したおかげで、服を脱いでくれと言われたり、体温計を入れる時に注意を引きつけてくれたりしたから正体がバレずに済んだ。思っていたよりも、学院内で正体がバレないように注意する事は多い。

 今後も注意をして生活しないといけないと思いながら廊下を歩いていると、小倉さんが制服のポケットから封筒を取り出した。

 

「これを」

 

「あの……これは?」

 

「りそなさんから渡すように頼まれました」

 

「そうさムグッ!」

 

 大きな声が出てしまいそうになる直前に、小倉さんが僕の口を手で塞いだ。

 

「失礼をいたしました。ですが、今は本来は授業中です。大きな声は駄目です」

 

 口を塞がれながら、僕は頷いた。そうだ。今は授業中だ。

 大きな声を上げたりしたら、何事かと思われてしまう。僕が納得したのを分かったのか、小倉さんは手を離してくれた。

 

「あのこの封筒の中の内容は?」

 

「存じません。りそなさんは私にも教えてくれませんでしたから。ただ絶対に学院内で開けるなと言っていました」

 

「……分かりました」

 

 受け取った封筒をポケットに仕舞った。

 一体何が封筒の中に入っているのか? 感触からして手紙っぽい気がするけれど、総裁殿からの手紙だとすると、かなり厳しい内容が書かれているかも知れない。

 今のあの人は僕らの、正確に言えば僕の味方じゃない。目の前を歩いている小倉さんの味方だ。

 ……丁度今は授業中で他に人は居ない。付き人のカリンも、調査の方に向かっている。聞けるだろうか?

 この人の話を?

 

「あ、あの小倉様?」

 

「何でしょうか、朝陽さん?」

 

「……あの方と貴女はどう言う……」

 

「家族です。あの方と私は家族です」

 

「か、家族ですか。そうですよね」

 

 納得出来る関係ではある。総裁殿が小倉さんに向ける感情は、お気に入りの相手に向けるものと言うよりも、お父様に向ける家族としての感情に近く感じていた。

 しかし、家族か……やっぱり、ルミねえの言う通り小倉さんの本当のお父様は、真星お爺様なのだろうか?

 

「あの不躾な質問ですけれど、小倉様のお父様は?」

 

「昨日お会いになった筈ですが?」

 

「いえ、そうではなく……実の父親の方です」

 

 小倉さんは動揺したように身体を震わせた。

 この反応から見て、実の父親に思うところでもあるのだろうか?

 

「な、何故そのような質問を?」

 

「いえ、気になったものですから。以前お聞きした時に実の父親の方は、ご存命と言われておりましたので」

 

「……直接顔を見た事はありません。子供の頃に横顔を見ただけです」

 

「申し訳ありませんでした」

 

 重すぎる!? えっ? 実の父親なのに直接顔を見た事が無いの!?

 横顔だけって……状況から考えて使用人としての立ち位置でしか父親の顔を見た事が無いって事だよね!?

 聞けない。こんな重すぎる過去がある人に、貴女の父親は真星お爺様ですかなんて、絶対に聞く事が出来ない!

 後でルミねえにこの事を伝えて、小倉さんに直接過去を尋ねるのは止めるように言わないと。

 この人の過去……本気で爆弾だらけだ。迂闊に触れたら爆発して、総裁殿の怒りを買いかねない。

 そんな事を思っている間に、僕らは教室に戻った。

 既に採寸は終わっていたので、教室内に足を踏み入れるのは問題がなかった。そのまま一時限目は終わった。

 

 

 

 

 二時限目になった。休憩時間中に、僕と小倉さんの親衛隊を名乗った飯川さんと長さんが心配して声を掛けて来てくれた。小倉さんの方にも何人かの女生徒が集まっていた。どうやら採寸の時のカリンの行動が気になったらしい。

 聞き耳を立てて聞いてみると、どうやら小倉さんには何かの不備が身体にあって人前で肌を晒せないらしい。

 僕の肌の事情とは違うようだけれど、診断書を紅葉が見て納得していたようだったから、確かな事情が間違いなくあるようだ。

 その理由に女生徒達は申し訳なさそうな顔をしていたけど、小倉さんの身体を見られなかったのも残念そうだった。個人的には、小倉さんが下着姿にならなくて良かった。

 興奮で身体の一部が反応してしまいそう。

 

「さあ、二時限目は型紙の授業です!」

 

 紅葉の元気な声が教室内に響いた。これから始まる本格的な服飾科の授業が楽しみなんだろう。

 ずっと副担任の地位にいたからね、紅葉は。背の低さと若い外見のせいで。だから、担任として初めて本格的に服飾を教えられる事が嬉しいのだろう。

 とは言っても僕にとって、服飾科の授業は受ける前から余裕ありまくりだ。

 別に舐めている訳じゃない。自分ならどんな国の、どんな授業の内容でも理解出来ると思っている訳じゃない。

 僕のクラスの担任、樅山紅葉。彼女は幼少時に暮らしていた桜屋敷の元メイドで、僕に服飾の知識を一から教えてくれた先生の一人だ。

 教えられた時からそれなりの時間は経っているけれど、彼女の教えてくれた授業の内容は、今でも僕が衣装制作をする上での真ん中に根付いている。

 アメリカへ渡ってからも、製作上の問題で迷う事があれば、紅葉の教えを思い出して心を落ち着けた。授業で身に付けられる範囲の知識に関しては、お父様と彼女が僕の両親と言っていい。

 でも、その服飾の母は……黒板の前まで踏み台を運んでいた。身長145㎝しかないからなあ、紅葉。

 

「それでは一限目に採寸した数字を元に、自分の体型に合った基本の型紙を作ります。では型紙のノートを広げて下さい」

 

「先生、授業が始まる前に一つ質問です」

 

「はい、何でしょう?」

 

「『型紙』ってなんですか?」

 

 正気か。

 今の質問はどのスポーツに例えても、特待生の生徒が基本に関して真顔で尋ねたようなものだ。

 これが本来の特別編成クラスだ。エストやジャスティーヌ嬢のように元々実力を持っていて、お嬢様という者が少ない。本来の特別編成クラスの生徒は、今のお嬢様のような反応をしても可笑しくない。

 一般クラスの生徒は、少しでも先を行こうと、誰もが予習をして初めての授業に挑んだ事だろう。幾ら受験がなかったからと言っても、その質問はあんまりじゃないか。

 とは言え、質問をした生徒は僕に好意を示してくれた生徒の一人。根は良い子だ。今だってまるで悪気もなさ気におっとりしている。如何にも箱入りのお嬢様といった印象だけど、紅葉はどうするのか?

 

「型紙とは、生地を裁断する為の形をした紙です」

 

「どうしてそれが必要なのでしょう?」

 

「個人的な質問は後から聞きに来て下さい。では始めます」

 

 慣れた様子で紅葉は質問を断ち切って授業を再開した。あの様子から見て、これまでも同じような手合いを相手にして来たのだろう。

 

「え、えっ」

 

 質問した彼女はおろおろしたまま置いていかれていた。他にも似たような生徒が少数。

 彼女達の立場上、今までは質問すれば丁寧に教えてくれていたのだろうけれど、紅葉は見た目に反してその辺が実にドライだ。

 

「先生、準備ができていません」

 

「授業の準備は始まる前にしておくことですよ。急いで済ませて追いついて下さい」

 

「え、えっ」

 

 紅葉の見た目に騙されている生徒は多そうだ。

 あの小柄な身体と可愛らしさを見て、誰もが『優しそう、そして甘そうな先生だ』と思ったのだろう。

 だけど僕は知っている。樅山紅葉は笑顔でドライ。心根はとても優しい人だけれど、僕が幼少の頃に『我儘聞いてくれるまでご飯を食べない』なんて言ったら、『分かりました』と笑顔でその場から去る人だ。

 今までにも我儘盛りのお嬢様相手に困らされた事だろう。中には過保護な親がでてきたことだってあるかもしれない。

 それでもこうして講師を続けているのだから、胆力がないと出来ない。良い家庭教師に恵まれていたんだなあ、僕。

 遮るものの無くなった紅葉の授業はすいすい進んで行く。他の生徒は戸惑っていたけれど、僕の場合は以前教わった事をなぞるだけだ。

 追いつけない生徒がいれば、出来る範囲でアドバイスしよう。初日からやらかしてしまったから、少しでもクラスメイトとの交流を深めないと。

 そう思いながら周りを見渡すと、小倉さんと留学生のカトリーヌさんが目に入った。

 カトリーヌさんの方は、普段のおどおどとしている様子もなく、心配が無いほど慣れた手付きで作図を進めている。

 小倉さんの方は……真剣だ。紅葉が黒板に描いている作図を、ノートに描き写している。周りで戸惑っている生徒達も、今の小倉さんは気がついていないと思えるほどに集中している。凄い集中力だ。

 服飾の勉強に関して、一分一秒も無駄にする気はないという意思が伝わって来る。

 二人の目と手の動きは、何処までも真剣だった。他人の心配なんてしている僕よりも。反省しよう。

 良い刺激を与えてくれた小倉さんとマダム・カトリーヌに感謝しながら、僕も授業に集中する。

 

「お姉様ぁ~!」

 

 型紙の授業の後、休憩時間中に泣きついて来たのは、自称僕の親衛隊1号だった。2号の方は小倉さんに泣きついている。

 ……小倉さん。休憩時間中もさっきの授業の復習をしている。声を掛けられるまで、2号さんの存在にも気がついていなかったよ。

 

「お姉様、私……授業が理解出来ずに挫けそうです」

 

「お嬢様には立派な付き人がいるではありませんか」

 

「お姉様に教わりたいです」

 

 彼女の付き人を見れば、困った笑顔を浮かべながら『お願いします』と言いたげだ。

 付き人としての彼女の名誉を傷つけずに済むなら、僕は別に構わないが……出来れば2号さんも此方に来て欲しい。小倉さんは服飾の勉強に集中したい筈だ。

 僕からすれば一度習った事だから、復習という形になるけれど、小倉さんは最近まで服飾から離れていた人だ。今も2号さんに聞かれた事を丁寧に教えている。

 

「と言うように、『型紙』は服を作る為の設計図なんです。もしも教えている先生の授業に計算で間に合わない時は、電卓を置いておくのも良いですね」

 

「ありがとうございます、小倉お姉様!」

 

 ……教え終わった後にすぐに復習に戻った。

 本当に一分一秒も無駄にしないという意思が伝わって来る。

 

「あの、朝陽お姉様」

 

「あ、申し訳ありません。それで何が分からなかったのですか?」

 

「型紙ってなんですか?」

 

 やっぱり其処からか。

 

「型紙とは服を作る為の設計図だと考えて下さい。私達の衣服は、数枚の生地が縫い合わさって出来ています。その生地は、縫った時に衣服となる形でなければいけません。例えばこのシャツですが」

 

 彼女に分かりやすいように、簡単なシャツやスカートの型紙を描いて見せる。

 

「見頃、袖、襟など……簡単に描きましたが、このような形をした生地が元になっています。スカートは大雑把に言えば二枚の生地だから判りやすいですね。このような形をした用紙を『型紙』と呼び、その設計図の通りに切った生地を縫い合わせ、私達は衣装を作るのです。今教わっているのは『型紙』の基本です。基本の型紙の幅を縮めたり、高さを伸ばしたりして、私達は衣服のオリジナリティを出す事が出来ます。複雑なものになれば当然、難易度は上がりますが、その道に秀でた人は、型紙のプロフェッショナル『パタンナー』になる事が出来ます」

 

「ありがとうございます、朝陽お姉様。絵と一緒に解説していただけたので、とても分かり易かったです。でも、私達がなりたいのはデザイナーです。パタなんとかになるつもりはありません」

 

「顔の形を知らなければメイクが出来ないように、服の構造を知らなければ良いデザイナーにはなれません。ですから型紙の引き方は大切な授業なのです」

 

「良く分かりました! 丁寧に教えて下さり、感謝いたします朝陽お姉様!」

 

「どういたしまして、お役に立てて光栄です。ですが、分からない事があれば、先生に聞くのが一番です。授業中は答えてはくれないかも知れませんが。授業時間外は教えてくれると思いますので、これからは樅山先生を頼りにしましょう」

 

 本当にお願いしたい。復習に近い僕はともかく、真剣に授業を受けている小倉さんに質問されるのは迷惑だ。

 あの人本人は迷惑とは思っていないだろうけれど、あの人には多分余裕がない。

 僕にしても学ぶ時間は必要だ。それに、本来の僕の役目はエストのサポートだ。

 今日の授業の内容は簡単な範囲だが、ノートに分かりやすく纏めてエストに伝えないと。

 

 

 

 

side遊星

 

 三、四時限目の授業はデザインを描く事だった。久々に描くデザインに少なからず緊張した。

 幸いだったのは、今日の授業は学院から提供された衣装の資料からデザインを描く練習だったことだ。

 受け取りに行って、資料の中から僕が選んだのは……りそなのデザイン。

 ルナ様やジャン、それにメリルさんの衣装も資料の中に在ったけれど、僕が選んだのはりそなだ。

 将来りそなのパタンナーを目指しているので、少しでも彼女の望む作品のイメージを掴みたい。

 と言うか、家で見せて貰ったデザインは本当に上手かった。

 ゴスロリ専門らしいけれど、デザイナーとして成功したりそなを尊敬し……僕は落ち込んだ。

 女装してまで女学院に通ったのに、何の結果も出せず。更には服飾の技術まで一から学ばないといけない程に落ちた。

 アトリエの部屋の隅で暗くなった僕に、最早向けられるのが自然に近くなったりそなの呆れ顔は今でも覚えている。

 ……今は考えないようにしよう。それよりも急いで教室を出て、サロンに行かないと。

 三時限目の終わりにカリンさんからメールが届いた。緊急事態が発生したので、午前の授業が終わり次第に連絡をくれと伝えられた。

 幸いにもサロンには誰も居ない。恐らく皆、最上階の食堂に行っているのだろう。僕の時は、皆でサロンで食事を取っていた。皆が僕が作った昼食の弁当を美味しいと言って食べてくれた事を思い出してしまう。

 

「って、今はそれよりも」

 

 急いで何があったのか確認しないと。

 カリンさんから渡されていた携帯を使って電話をする。

 

「あっ、もしもしカリンさんですか」

 

『私です』

 

「りそなさん!」

 

 驚いた。カリンさんに電話した筈なのに、りそなが電話に出た。

 

『早速やらかしてくれましたよ、ルミネさんは。教師が一人、学院が始まってから二日目で依願退職になりました』

 

「えええええええええ!?」

 

 大声で叫んでしまった。

 誰も居ないサロンで良かった。と言うよりも驚かずにいられない。何か起きるかもしれないとは考えていたが、まさか教師が一人退職する事になるなんて! 一体何が起きたんだろう。

 詳しく聞いて見ると、ピアノの授業中にルミネさんの弾き方に対して、教師が意見を言おうとしたところで問題が発生。

 その時にルミネさんを指導していた男性教師が、手を重ねそうになったらしい。其処で他人に触れられるのが嫌いなルミネさんは、手を引っ込めて『触れないで下さい』と言った。

 男性教師は口をあんぐりと開けてしまったそうだ。

 難しい問題だ。僕も子供の頃に手を動かされながら教えられた事があるけれど、それはあくまで子供の頃。ルミネさんぐらいの歳になってしまうと、邪な目的で触れようと考えてしまいかねない。だから判断が難しいのは分かるけれど……。

 

『因みに依願退職になる事になった男性教師は、私に抗議して来ました。『他の生徒では問題視されなかったのに、何故彼女だけが!』と。いや、気持ちは分かりますよ。これまで問題になってなくて、去年は評判の良い優しい先生だって言われていたそうですから』

 

「……これって」

 

『ええ、最悪の事態です。ルミネさん本人は規則としての考えで動いたのでしょうけど……ピアノ科内に、『大蔵ルミネは一般クラスに居ながら、何かあったら身内の理事長に連絡が行く』という考えが蔓延してしまいました。マジで不味いです』

 

 ……最悪だ。

 ルミネさん本人は規則としての考えで動いたに過ぎない。恐らく才華様達もルミネさんへの身内意識で、肯定的な意見に終わる。だけど、裏事情を知っている僕やりそなは分かった。

 

 もうルミネさんは、ピアノ科の生徒達に認められない。

 

 決定的だ。認められるチャンスはあった。

 身内であるりそなに頼らず、たとえ不快な思いをしても、僕やカリンさんに今日あった事を教えてくれれば、すぐにりそなに連絡して学院長に指示を出せた。その後実力を示していけば、不快な気持ちを抱きながらもルミネさんはピアノ科の生徒に認められる。或いは中立としていてくれる生徒もいたかもしれない。

 だけど、ルミネさんは過程を飛ばし、直接身内でフィリア学院の理事長であるりそなに言ってしまった。

 

『現場を目撃したカリンさんが急いで件の教師に不正が無いか調べてくれました。結果は……お爺様から賄賂を受け取っていた証拠が出たので、今なら依願退職という形で終わらせると、ルミネさんが居ない所で私が伝えました。教師はすぐに去りますけれど……』

 

「……調査員の存在が、樅山さんや総学院長以外の教師の方々に知られたのですね」

 

『はい。今後の調査に影響が出てしまいます。まだ、貴方とカリンさんが調査員だと知られてはいませんが』

 

 かなり教師側の調査が難くなったことに変わりは無いようだ。

 今日カリンさんを僕から離したような手は、今後使えないかも知れない。出来るだけ早く対処しないといけない問題が出ても、その時にカリンさんが動いていたのを知られたら生徒側はともかく、教師側にカリンさんが調査員だと教えるようなものだ。

 樅山さんに協力して貰う事も視野に入れるべきだろうか? いや、それだと万が一にも才華様の正体が発覚した時に、調査員に協力していた樅山さんにも責任が及んでしまう。

 僕とカリンさんだけで頑張るしかない。

 

『分かっていると思いますが、教師陣に調査員の存在が知られた今、あの甘ったれの正体が知られた時はもう貴方とカリンさんは調査員として扱えません。表向きは教師を調査で、一人退職させる事になってしまったんですから』

 

「分かりました」

 

 その事はもう覚悟している。

 寧ろこうしてフィリア学院に通えている事自体が、かなり無理をしているんだから。

 文句は言うつもりはない。

 

『それじゃ午後にはカリンさんが其方に戻ります。妹はこれから退職させた教師の代わりの女性教師を探さないといけないので……今日は遅くなってしまいそうです』

 

「大丈夫だよ。りそなが帰って来るまで、ちゃんと待っているから。夕食のリクエストは何かある?」

 

『それじゃあですね』

 

 夕食のリクエストを聞き終えて電話を終えた僕は、一先ず教室に戻る。

 

「あっ! 小倉お姉様!?」

 

「良かった! 大変なんです!?」

 

 教室に戻ったら、僕と才華様の親衛隊を名乗っていた飯川さんと長さんが駆け寄って来た。

 何だか少し涙目になっている。一体何があったのかと思っていると、梅宮さんも近づいて来た。

 

「小倉さん! 貴女の方にピアノ科の先輩は来てない!?」

 

「ピアノ科の先輩? いえ、来ていませんけど」

 

「そう。良かった」

 

「何かあったんですか?」

 

「ええ、実はさっきピアノ科の先輩方二人が教室に来て、朝陽さんを連れて行ってしまったの」

 

「えっ!?」

 

 才華様を連れて行った!?

 一瞬、ルミネさんが関係しているのかと考えたが、まだ学院内で二人が親しいのは知られては居ない筈。

 じゃあ、何故才華様を?

 

「ごめんなさい。小倉さんに頼るのは申し訳ない気持ちだけど」

 

「あの先輩方、二年生のデザイナー科の先輩方と親しいらしくて」

 

「特別編成クラスは縦繋がりが厳しいらしくて……逆らったらデザイナー科の先輩方から嫌がらせを受けるって脅されて」

 

「脅された!? 事実なんですか!?」

 

「うん。私も写真を撮られて……ごめんなさい。朝陽さんを助けようと思ったのだけれど、朝陽さんは大丈夫って言って付いていっちゃったの」

 

 どうやら僕が居ない間に、教室でかなり大変な事が起きていたようだ。

 

「それと、あのピアノ科の先輩が朝陽お姉様が陽の光に当たれないと知ったら……『気持ち悪い』って言っていたんです」

 

「ッ!?」

 

「朝陽さん本人は穏便に話すって言っていたけど、ピアノ科の先輩方の方はそういう気配じゃなくて、実力行使も辞さないって雰囲気だった」

 

「それで私達はともかく、小倉お姉様ならあの二人のピアノ科の先輩方も止められそうなんです」

 

「最初にこの教室に来た時、あの二人は、教室内に小倉お姉様がいないと分かったら安堵していましたから」

 

 その原因は恐らくルミネさんがしてしまった事に、関係しているに違いない。

 アレ? もしかしたら、ピアノ科の方々は大蔵関係者はこの学院で好き勝手やると思っているんじゃ。

 ……不味いよね。

 このままだと僕に対しても、何かありそうだ。でも、今は才華様の方だ!

 

「ちょっと探して来ます」

 

 個人としても調査員としても、この件は見過ごせない。

 急いで才華様を探さないと!

 教室を出た僕は、急いで音楽部門棟に向かう。

 恐らく才華様達を連れて行った二人が向かう場所は、その辺りだ。呼び出された理由は不明だが、桜小路家のご子息ではなく、小倉朝陽という一介の使用人となれば何かが起きる可能性は高い。

 それに相手が才華様の身体の事情を気にしてくれるとは限らない。事故を装われてしまえば其処までだ。

 何よりも不味いのは、ピアノ科の生徒に『大蔵』の名を出してしまった時だ。

 小倉朝陽が大蔵の関係者だと分かったら、大変な事になってしまう!

 だから、才華様が間違う前に音楽部門棟に入る前に追いつかないと!

 

「やあ、君が大蔵君の義娘だね」




朝日って、マジで真星とは乙女理論の晩餐会かマンチェスターの屋敷で直接会った時以外、顔は横顔でしか見た事がないんですよね。
……本気で重い。朝日と遊星の過去を軽はずみに聞いたら、いけないですよね。
重すぎて胃もたれが起きそうなぐらいですから。
 

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