月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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令和になって初めての投稿です。
これからも宜しくお願いします。

笹ノ葉様、烏瑠様、秋ウサギ様、誤字報告ありがとうございました!


四月上旬(才華side)17

side才華

 

「……と此処までが本日の授業の内容です」

 

「ありがとう。とても分かりやすかった。朝陽がこの調子なら、私は何の心配もなく、夜遅い時間までデザインに打ち込めるね」

 

「それは良かった。主人の役に立つ事が従者の喜びです。いっその事、授業中は目蓋を開けなくても良いように、糸で縫ってしまいましょうか」

 

「ごごごごめんなさい。貴族の誇りに懸けて、居眠りはしません」

 

 僕の主人のエストは高速で小刻みに震えた。だけど僕は眉一つ動かさずに無表情で彼女を見つめた。主従の絆は結んだが、教育に関しては容赦はしない。

 ただ、教育に情けはかけないものの、内心では安堵の気持ちを覚えていた。

 学院からマンションへ戻り、自分の部屋にも寄らずエストを訪ねると、彼女は文字通りすっ飛んで出迎えに来た。

 駆け寄って来たエストを見た時、思わず『身体は?』と尋ねると、検査の結果は異状なしと答えが返ってきた。今も元気にデザインを描いていたと語った。次の通院は二週間後らしい。

 良かった。本当に良かったよ。エストの身体に何の傷も残らずに済んで本当に嬉しい。

 よく無事でいてくれた。嬉しくなったから、特別に手作りのお菓子を用意してあげると、とても喜んでくれた。

 でも、主人たる者が従者を迎えに玄関まで出るのは宜しくない。するなら、駆けて来るのではなく、悠然と構えているべきだ。だからその事だけは叱った。エストもごめんなさいと反省していた。笑いながらだったけれど。

 

「よぅし! 一人だけ教室の流れに乗り遅れてしまったし、明日からは頑張ろうっと」

 

「はい。絶対に死ぬほど頑張って下さい」

 

「それは『絶対に』死ぬほど頑張るのか。『絶対に死ぬほど』頑張るのかで、私の受け答えがまるで違って来ると思うの」

 

「過ぎた過去には興味がありません。人は何れ死ぬものです」

 

「つまり死ねと。私が若死にしても朝陽は長生きしそうだね。憎まれっ子世にはばかると言うし」

 

「憎まれっ子だなんて悲しい。私はお嬢様から嫌われるような事を言ったのでしょうか」

 

 エストとのやり取りは楽しい! 早く君と学院に通いたいよ。

 ……これから待っている事を思うと気が重くなるから、もう少しこのやり取りをしていたい。

 

「そう言えば朝陽。教室の皆の様子はどうだったの? 私が二日目で休んだことに何か言っていなかった?」

 

 やっぱり心配していたか。でも、君の心配するような事は無かったよ。

 

「私と話した方は、誰もが『ご主人様はどうされたのですか?』と心配して下さいました。本当に素直な方ばかりです。良いクラスに当たりましたね」

 

 これに関しては間違いないと思う。少なくとも、悪人と呼ばれる類の人間は居ない。

 

「ジャスティーヌ嬢もエストお嬢様の話を聞いて心配されていました」

 

「えっ? 彼女が?」

 

「はい。行動に関しては問題はあるかも知れませんが、根は優しい方のようです」

 

「朝陽の髪を引っぱったり、身体に落書きなんてしなければそれでいいよ」

 

 本音を言えばアーノッツ家の事も黙っていて欲しいのだろう。

 だけど皆の前で一度口から出てしまった事だし、僕と話した事で抱えているものは吐き出した。だから受け入れた。

 この国へ残る為に覚悟を決めてくれた。貴いことだと思います。誇り高きエスト。

 

「他に教室で気になる点は?」

 

「そうですね…一般クラスとの仲の悪さですね。いえ、向こうがどう思っているか分からないので、特別編成クラスの皆様が、明確な敵対の意思を抱いているといいますか」

 

「どういうこと?」

 

 僕は小倉さんと一緒にパル子さん、マルキューさんと会って話したこと、その後の教室へ戻ってからの小倉さんとクラスメイト達との間に起きた出来事を自らの主観で語った。

 パル子さん、マルキューさんの高い志やその人柄。同級生の皆が上級生や卒業生から耳にした一般クラスのイメージ。そして誰にも悪意が感じられなかったこと。

 

「ニューヨークではなかったけど、ロンドンではそういうのがあったよ。その時は、対外国人向けの感情だった」

 

「お嬢様も、まだ対話の経験のない相手を警戒したりするものですか?」

 

「私は家が家だから、警戒される側だったの」

 

 それは分かる。僕も詳しくアーノッツ家の事を知る前は、警戒していた。

 つまり、エストは警戒に満ちた冷たい目で見られる側に近かった訳か。なら、僕がエストに言うべき事は。

 

「お嬢様は自らの正義を貫く方です。私も守って頂きました。悪意のない偏見にさらされた人々を守ろうと思いませんでしたか?」

 

「ロンドンには家族がいるからね。巻き込んだりは出来なかった」

 

 つまり、エストが通っていたのは、それなりの立場の人間が集う学校だったのだろう。その中で楯突き、争いになれば、力が弱く脛に傷がある両親が謝罪する事態になりかねない。

 

「どころか、爪弾きにされるのが怖くて、何を言われても笑ってたの。自分や他人が侮辱されても聞き流してた。弱虫だね」

 

「いいえ。己に責のない正義を勇敢とは呼びません。力がなければ尚更です。状況を理解して分別を持つこと。巻き込むものの大きさと、結果訪れる未来を予測すること。それらを備えて、初めて正義を振りかざす者が貴族です」

 

 ……今言った言葉が心に響く。僕は全部出来なかった。

 見通しが甘すぎて取り返しのつかない事をしてしまっている。しかも、今もそれは起きているかも知れない。

 学院で小倉さんとカリンが言っていた事の意味はまだ分からない。ルミねえに何かが起きた事だけは間違いないだろうけれど。

 でも、エストは自らが傷つくかも知れないのに僕を守った。だからこそ、エストの正義に僕は感動した。

 

「ですから今の教室においても、お嬢様はまだ正義を振りかざすべきではありません。幸いにもパル子さんとマルキューさんは、小倉さんが以前からの知り合いだという事で誤解はされ難い立場にいますから」

 

 これは間違いない。大蔵家の人間である小倉さんの証言は、彼女達を守るに充分な力を持っている。

 もしも小倉さんがジャスティーヌ嬢並みの暴君だったら、信用されなかっただろう。だけど、あの人は順調にクラス内での信頼を得て来ている。仮に上級生がクラスメイト達に、パル子さん達の悪い噂を言っても、小倉さんの証言が阻んでくれると思う。

 僕の話を聞いたエストは嬉しそうに微笑んだ。

 

「良かった。私もハルコさん達が謂れのない非難を受けずに済んで良かったよ。流石は小倉さんだね」

 

「そうですね。まだ、お嬢様は日本の貴族を知らず、交わってもいません。その経験のないまま彼女達の思想を拒否すれば、訪れるものは『海外の人間に、この国の文化は理解出来ないのだ』という偏見です。そうなれば、二度とお嬢様の言葉が届く事はありません。彼女達と時間をかけて交わり、信頼を得てから、我々の正義を通しましょう」

 

 小倉さんが最悪の事態を防いでくれたとは言え、ジャスティーヌ嬢の件もある。彼女とエストでは生まれた国が違うのだけれど、同級生達には『欧米圏の人間』で一括りにされる危険性がある。

 現状でのジャスティーヌ嬢は、日本への歩み寄りの姿勢を見せていない。

 『海外の人間はみんなああだ』と思われては、友人になる事すら困難だ。

 

「分かった。私自身も、ハルコさん達の事を良く知ってみる。彼女達の良い部分を理解してから、謂れなき非難に抗議するね。ただそれが、ハルコさんではなく朝陽への非難だったら、分別なんて考えないけどね」

 

「私もです。パル子さんの為には怒るよりも出来る事があるので、其方を優先いたしますが、お嬢様を侮辱されれば別です。私が怒ればその責を預かるのはお嬢様ですが、お嬢様への侮辱に対して私が怒った場合は、自身で責任を受けもつ事が出来ます。その結果停学になろうと、私は主の誇りを優先します。夢があるので退学になるわけにはいきませんが」

 

 本音を言えば停学になるのも避けたい。

 と言うよりも、そんな事態になったら僕は日本から強制退去させられてアメリカに戻されているだろうが。

 

「朝陽」

 

 ちょいちょいと手招きされた。

 困った事に、今のエストの気持ちが読める。だけど過度なスキンシップは自分に禁じてる。どうしたものか?

 

「それは命令でしょうか?」

 

「そう命令。だから拒否はダメ」

 

 そう言われたら仕方がないので、招かれるままに彼女の前に立った。

 

「えい」

 

 そして抱き締められた

 ああやっぱりこうなった。こういうのは大変に困る。

 普段なら『セクハラです』と縦型チョップをするけれど、今は何だか抱き締められるのが嬉しい。

 

「女性同士とは言え、恥ずかしくなったりしませんか」

 

「だから顔は見ないの」

 

 なるほど、僕に顔を押し付けてしまえば、表情はバレない。

 何故かそれ以上は言葉を交わさず、僕達は暫らくくっついていた。取り敢えず。方針としては一般クラスとの仲は、小倉さんに頼り切らずに僕らも出来る事をやって時間をかけて馴染ませていこう。それが僕達の方針として纏まって良かった。

 それから今日習った型紙の勉強を少しして、僕達は屋上を訪れた。

 

「朝陽は型紙まで引けるんだね。どうすればそんな完璧超人になれるの?」

 

「型紙の腕を上達させるには、反復練習と縫製、試着の地味な作業しか方法がありません。逆に言えば、時間を掛ければ掛けただけ……当然、試行錯誤する能力は必要ですが、それさえ出来れば上達出来ます」

 

 逆に言えば、服飾から離れる時間が多いほどに型紙の腕は簡単に落ちてしまう。

 小倉さんは恐らくこの類だ。あの人は一年以上も服飾から離れていたそうだから、そう簡単に腕は取り戻せない。だから、あれほど授業を真面目に聞いていたのだろう。

 

「でも朝陽はデザインもしているのに、何処にそんな時間があるの?」

 

「時間が無ければ作るものです。幼少時は、デザインよりも型紙に時間を割いていました。地道な作業には集中力が必要となるので、その持続力が切れた時に創作活動をするのです」

 

「服飾の鬼だね」

 

「あ、上達する為に必要な条件がもう一つありました。優秀な教師です。その人に認められ始めてから、日々の時間の使い方は、デザインに重きを置きました」

 

 僕の場合は、型紙の先生がその道のプロのお父様。そして現在の担任という豪華ラインナップだ。

 恵まれ過ぎの感はあるけれど、その分の努力はした……と思う。最近はちょっと自信が無い。

 ……あっ! もしかして小倉さんがアメリカの僕の実家に居たのは、お父様から型紙を習う為だったのかも!

 お母様はかなり小倉さんの事を気にかけているから、腕が落ちてしまった小倉さんの為にお父様に習う機会を与えたのかも知れない。

 という事は、小倉さんと僕は同じ相手から型紙を学んだ事になるな。

 何だかちょっと嬉しくなった。っと、今はエストとの会話に集中しないと。

 

「感覚が鈍らないように、今でも型紙の練習に割く時間を一日の中に必ず設けています」

 

「本当、朝陽は時間を大切にしているね。じゃあお茶をしている時間も、本音を言えば練習に割きたい?」

 

「貴女と話す時間は私の想像力を豊かにします。こうしたお茶の時間も私を高めてくれるのですよ、誇り高きエスト」

 

「わ、嬉しい」

 

 この主人は、本当に嬉しそうな顔をする。

 ……だから、感じる。胸の奥で罪悪感が大きくなっていくのを。本当は僕は、そんな笑顔を向けられるような人間じゃないんだよ、エスト。

 

「さて、今日は、私達の他にも、想像力を豊かにしてくれる人はいるかな? ……あっ、何時もの席に誰かいる! 八日堂さん、大蔵さ……ん……」

 

 エストの視線の先に僕も視線を向けた。

 ……何だか雰囲気が暗い。

 それも二人は制服じゃないか。僕とエストは勉強と、食事をしてから此処に来た。時間はかなり経っている。

 なのに制服姿でいるなんて。二日目から居残り勉強なんて事は無いだろうし……まさか、学院が終わってから、屋上でずっと話していた?

 

「ああ、妾の愛しい朝陽ちゃま……今日も会えて幸せだぞえ。岡山名物ままかりぃ食べる?」

 

「はい、頂きます。それとこれは鏡です。ご自分の顔をご覧ください。幸せの対義語を表情にしたものがこれです」

 

 本当に君に何があった? ルミねえもだけど、二人とも暗い顔をしているよ。

 

「ままかりすっぱい。どうしてお二人はそんなに暗い表情なのですか?」

 

「妾かえ。妾は良いのじゃ。妾はただ、同級生が二日目から授業中に寝ていたり、そもそも来なかったり、『全米を震撼させたあの俳優とヤッたりしたの?』と質問を受け続けただけなのだぞえ」

 

 思いっきり最悪じゃないか。これこそ調査員の出番じゃないか。

 

「『だけ』ですか。それ『だけ』でもかなり強烈に思えますが」

 

「『サイン貰って来て』と『会わせて』もあったぞえ。されど妾には友人などはおらぬ故、そんなことを頼まれたところで断るより他に術はなかったのだぞえ。ホホホ愉快愉快」

 

「ねえ朝陽。私、八日堂さんの喋っている単語が良く分からない。もしかして何時もと違う?」

 

「時代劇コメディに出演されるとのことなので、その登場人物の喋り方なのでしょう。正しい日本語ではありませんので、適当に聞き流して頂ければ良いかと」

 

「あ、でもね? 聞いて聞いて。本当に面白い事があって……」

 

「人が説明するのと同時に素に戻るとは、大した嫌がらせですね」

 

 最初から素で話してくれよ。

 

「私にも友人が出来たの。私はそんなつもりがなかったから驚いたのだけど、同級生の皆さんは、昨日から私と『友人』なんだって。クラスの皆そう言ってたウフフ」

 

 それは良かったじゃないか。僕なら沢山の友人が出来て喜ぶところだ。

 羨ましい。これで君もボッチから卒業できたね。

 

「何て、何処にでもあるありふれた愚痴を、数少ない友人のルミネさんに聞いて貰おうと思ったのだけど。些細で顛末な私の愚痴と比べて、彼女の問題は甚大なものだった」

 

 本気でそう思っているのか、八日堂朔莉の顔は深刻さに染まっていた。

 その視線は暗い顔をしたルミねえに向けられている。どうやら小倉さんとカリンが言っていたように、何かがあったのは間違い無いようだ。

 しかも八日堂朔莉も同意している事から見て、本当に深刻な何かが。

 

「ええと、私がこの二人に話しても良い?」

 

「自分で話す……」

 

 怖い。ルミねえ怖い。僕の知っているルミねえの歴史の中でも、ダントツと言えるレベルで怖い。

 社会人としての、大人の顔をしてる。僕とエストは肩を抱きあってぷるぷる震えた。

 

「え、昨日からこんな感じなの? 何か学院に不満があったの?」

 

「いえ、そんな筈は。今日の朝に学院に向かう途中でお会いした時はこの上なくご機嫌でした。担当の先生がウィーンの出身のプロの方だと……」

 

「その先生がね!」

 

 小さな音量でエストと話していた僕の声を聞きつけ、ルミねえは怒りの声を上げた。

 思わず僕はエストと背中まで抱き合ってぷるぷると震えた。スキンシップ的に問題があるけれど、エストから抱き着かれたのだし仕方がない。

 ……これだけ深いスキンシップをしても正体がバレないとは、流石は僕と言って良いのだろうか?

 

「なんて果敢な密着を! それを見た私は幾ら出せば良いの!? ひと舐め3万までなら出すけど!?」

 

「幾ら出そうと異性の身体に許可なく触れて良い訳ないでしょ!」

 

 ここぞとばかりに八日堂朔莉が僕に抱き着こうとしたけれど、かわしてエストに抱き着かせた。

 抱き着かれた僕の主人は、『朝陽の方が柔らかい』と失礼な事を言った。僕は男性だ。

 女性の方が身体は柔らかい筈なのだから、失礼にも程がある。少しムッとしたが、今はそれよりも重要で聞き流せない事をルミねえは言っていた。

 

「ところでルミネお嬢様の今の言葉をそのまま受け止めると、見知らぬ男性が身体に触れて来たという事でしょうか。聞き捨てならないのですが」

 

 半分以上素に戻って尋ねた。

 たとえ自分が恋人ではなくても、ルミねえの身体を他の男性に触れさせるのは僕は嫌だ。ひいお祖父様でもお父様でも嫌だ。とにかく嫌だ。

 我儘でも、理不尽でも、処女信仰と言われても良い。絶対に嫌だ。

 その気配を感じたのか、ルミねえの顔は冷静なものに戻った。と言うよりも、若干僕に引いていた。だって本当に嫌だし。

 

「いや、その気配を感じたから触れさせなかった。逆に言えば、あのままだと危なかった」

 

「ルミネお嬢様、触れなかったから良いという問題ではありません。ルミネお嬢様がそのような視線に晒されただけでたまらなく不快なのです。と言うよりも、触れたいと思われただけでも不快です」

 

「ご、ごめんなさい」

 

 ルミねえは謝ってくれた。今後は気を付けて貰いたい。

 しかし、これが小倉さんとカリンが言っていたルミねえに起きた出来事か。大変不快な話だ。

 ただ僕の個人的な感情とは別に、ピアノ科の生徒として続けていく事を考えると……。

 

「では学院側に抗議するの?」

 

「いえ、ハッキリと言われた訳ではないので。ただ、演奏を見て貰っている時に、弾き方の指導として、手を重ねられそうになって」

 

 これは線引きがかなり難しい。いや、それこそが問題の根底にあるのか。

 

「ただ、今更弾き方を直そうとされても困るし、口で言えば済む事を、此方の許可なく不快な指導の仕方で進められても困る。だから手を引っ込めて『触れないで下さい』と言った。だけど、向こうはあんぐりと口を開いているだけで。取り敢えず、残りの時間は自習練習という事になったのだけど。その後で、理事長である私の家族と話し合って、女性の先生に変えて貰う事で解決した」

 

「そう……理事長がルミネお嬢様の意見を聞いてくれたのですか?」

 

「うん。話してみたら、何だか疲れた様子だったけれど聞いてくれた」

 

 驚いた。昨日の件もあったから、総裁殿が此方の意見を聞いてくれるとは思ってもみなかった。

 まあ、ルミねえだったから聞いてくれたのだろう。僕やアトレの意見は、絶対に聞いてくれないだろうけれど。

 ……ん?

 

「……」

 

 八日堂朔莉がジッとルミねえを見ていた。

 何だろうか、あの視線は? まるでやってしまったというように、複雑さに満ちた顔をしている。

 気になるけれど、今はルミねえの方が優先だ。

 

「たまたま私が理事長の身内だったから良いけど、これが社会的立場の弱い普通の生徒なら、大問題に発展していたね。今回だって、私は確かな意思を感じたけど、相手が指導だと考えているのなら訴えるのは難しいし。理事長の方から、依願退職を勧めて貰う形で話はついてるけどね」

 

 この問題について、エストはきょとんとし、八日堂朔莉は……冷静な顔になっている。

 先ほどの複雑そうな表情は消えていた。一体何だったのだろうか?

 ただ、僕もルミねえだから今回の件は憤慨しているけれど、これが赤の他人なら、恐らくは今の八日堂朔莉のように冷静に見ていたと思う。

 本来は許されざるべき事だ。だけど授業が個人指導という性質上、ジャンルに関わらず、この問題は発生する。

 それに教師から受け入れられる為なら、大なり小なりそれを好んで『する』人もいる。

 逆に相手の非と己の正義を訴えようと、教師という強者を相手に味方を得られず、無残に迫害される場合もあるだろう。だからこそ、総裁殿は小倉さんとカリンという調査員を送り込んだのかも知れない。

 という事は、あのカリンがやけに疲れていたのは、ルミねえの案件を穏便に済ませる為だったのかも知れない。やはり強力な後ろ盾は必要だ。現にルミねえは、強力な後ろ盾がいたから事なきを得た。

 小倉さんとカリンは何故か止めたが、この後、連絡が来る伯父様に後ろ盾になってくれないか聞いて見よう。

 後、問題の教師は追放されるそうだから、今回のような事がないように新しい教師の調査をアトレに依頼しておこう。

 

「ふう、次の先生が良い人だと良いな」

 

「望みが持てるだけ良いと思うけれどね」

 

 うん? まただ。

 一瞬だけど、八日堂朔莉の顔が変わった。だけど、今度はさっきみたいな複雑そうな表情ではなく…憐れむような表情を浮かべたような。何故ルミねえにそんな顔を彼女は向けたのだろうか?

 気になる。流石にルミねえが居る場所では聞けないから、後でこっそり聞いてみようかな。

 

「あ、皆さん。屋上に集まっていたのですね。完全に趣味ですが、部屋でお菓子を焼いてきました。紅茶と一緒にいかがですか?」

 

 アトレと九千代がやって来た。

 ……今の様子からは小倉さんへの敵意は見えない。やっぱり、小倉さんが関わらない限りアトレはいつものままでいられるようだ。

 ルミねえもアトレの様子から問題は取り敢えずないと安堵したのか、表情を緩めて質問した。

 

「アトレさん。パティシエ科の先生はどう?」

 

「はい、とても良い先生です。親切で、丁寧で、真面目な方です。お菓子の事しか頭にないような人ですよ」

 

「同級生はどう? 仲良く出来てる?」

 

「はい、仲の良い友人が何人も出来ました。今日の放課後も軽くお話してから帰ったんです。もっとお話ししたかったのですけど、九千代に遅くなりますよと叱られてしまって」

 

「あのままだと夕食の時間を過ぎていましたよ。余りに楽しそうだったから、少し申し訳なかったんですけどね」

 

 パティシエ科はこの上なく平和で和やかだった。

 ルミねえと八日堂朔莉が、アトレの明るさに陰を差さないように微笑みを浮かべていて、彼女達は立派だなと思った。

 ……そうだ。あの件を九千代に確認して貰おう。

 

「山吹さん」

 

「は、はい! 何でしょうか?」

 

「実はですね」

 

 小声で僕は、九千代に小倉さんから聞いたアメリカに居る八千代と総学院長が知り合いだという事を話した。

 聞いた九千代は驚いたが、すぐに冷静になって『後で確認してみます』と返答が返ってきた。これで小倉さんの言ってる事が本当なのか分かる。

 あの八千代が関わりたくないと本当に総学院長は思われているのだろうか? 僕が確認する訳にはいかないから、九千代に頑張って貰おう。

 

「あっ!」

 

 聞き覚えのある声に、僕は振り返った。

 其処には、やっぱりジャスティーヌ嬢とカトリーヌさんの姿が在った。

 このマンションの住人には上品な人間が多く、二人(ルミねえと八日堂朔莉)を除いて、公共の場で大声を出す人はいない。だから彼女のそこそこの大声は、僕らの視線を独り占めにした。

 

「白い子にアーノッツの子だ。何で此処に居るの? 此処に住んでるの? 私もこのマンションに住んでるよ」

 

 此方が尋ねるまでもなく、聞きたかった事を勝手に話してくれた。

 

「こんばんは、ジャスティーヌさん。元気そうですね」

 

「うん。元気だよ。でも、貴女は大丈夫なの? 今日は休んでいたでしょう?」

 

「明日からは復帰出来ます」

 

「そっ、良かったね」

 

 ジャスティーヌ嬢は、本質的には良い人のようだ。

 ただ、問題は思った言葉をそのまま口や行動にしてしまうことだ。

 

「皆様にご紹介いたします。同じデザイナー科の特待留学生、ラグランジェ家のジャスティーヌお嬢様です」

 

「パリの貴族だよ、よろしくー! 私の叔父さん超偉いよ」

 

「貴族? もしかしてラグランジェ旧伯爵家の? 初めまして、大蔵ルミネです」

 

「え、オークラ? 大蔵家のオークラ? あの黒い子と同じ?」

 

「黒い子?」

 

「小倉お嬢様の事です、ルミネお嬢様」

 

「ああ、そういう事。はい、彼女とは親戚です」

 

 僕の説明に納得したのか、ルミねえはジャスティーヌ嬢に頷いた。

 

「桜小路家のアトレです。両親はニューヨークでアパレルメーカーを経営しています」

 

「それって、デザイナーの桜小路家? 知ってる」

 

「八日堂朔莉です。イトウ・サクリの方が分かりやすいかも知れない」

 

「あの、幾つもの映画に出てる? 知ってる」

 

「エスト・ギャラッハ・アーノッツです」

 

「うん。貴女の事は前から知っているから、紹介はいらないよ」

 

 元気いっぱいだったジャスティーヌ嬢が、少し落ち着いた。エストを除いた相手がどれほどのものか認識したのか、取り出し掛けた黒のフェルトペンをポケットにしまっていた。

 そして当たり前のように僕達と同じテーブルを囲み、輪の中に入って来た。

 

「そう言えば、あの黒い子はこのマンションに住んでいないの?」

 

「いません。居たら、大家の私が追い出しています」

 

 ジャスティーヌ嬢の質問にアトレが不機嫌そうな声で答えた。

 ……やっぱり、アトレは小倉さんを嫌っているか。此処まで誰かに敵意を抱いているアトレを見るのは、初めてだ。

 そう簡単に小倉さんとは仲良くならないと、事情を知っている僕、ルミねえ、九千代は感じた。

 逆に事情を知らないエストと八日堂朔莉は、アトレの変化に戸惑っている。ちょいちょいとエストに袖を引かれた。

 

「ねえ、朝陽? アトレさんと小倉さんの間に何かあったの?」

 

「さ、さあ……私も詳しくは分かりません」

 

 本当は知っているけれど、流石に話す事は出来ない。

 騙しているようで申し訳ないが、此処は嘘をつくしかない。申し訳ありません、エストお嬢様。

 

「何だ居ないんだ。居たら、お母さんの事を聞こうと思ったのに」

 

「お母さん? それって、小倉さんのお母様の事ですか?」

 

「そっ。あの子のお母さんはね。昔、パリのフィリア学院で最優秀賞を取った作品のパタンナーを務めていたって、叔母様が言っていたの」

 

 ……驚いた。

 小倉さんのお母さんは、『小倉朝日』さん。まさか、その人がお母様が通っていた日本校のフィリア学院だけじゃなくて、パリ校でも最優秀賞を取った作品のパタンナーを務めていたなんて。

 僕だけじゃなくて、ルミねえ、アトレ、九千代も目を見開いて驚いている。

 事情を知らない八日堂朔莉とエストは、感心したように頷いていた。

 

「へえ、それは凄いわね。でも、最優秀賞を取ったといっても学院内の話でしょう?」

 

「それがね。そうでもないらしいの。叔母様が言うには、黒い子のお母さんの作品が最優秀賞を取った時は、パリで有名な凱旋門の大通りをランウェイにして歩いて、パリ市民の数万人と当時の世界中の著名人、某国の王族関係者がその作品に歓声を上げたみたいだよ」

 

『……ハッ!?』

 

 えっ? 意味が一瞬分からなかった。

 パリ市民数万人? 当時の世界中の著名人? 某国の王族の方々?

 しかも、ランウェイに使った場所がもっと在り得ない。あのパリで有名な凱旋門の大通りをランウェイとして使った?

 ……どんな学院のショーだ。学生レベルを超えているフィリア・クリスマス・コレクションなんて、比較にならない規模じゃないか。

 

「何でもね」

 

 それからジャスティーヌ嬢が語った事に、僕らは言葉を失うしかなかった。

 何でも当時のフィリア本校であるパリ校の学院長だったスタンレーが、日本校にショーの盛り上がりで負けている事が悔しくなったのがそもそもの始まりだった。

 本校でありながら日本校にショーの盛り上がりで負けていた事実が悔しくて、丁度その時期にあった某国の某王子の結婚式のパレードがあって、其処にパリ校のショーをねじ込んだらしい。

 ……何者だ、ジャン・ピエール・スタンレー。最早学生レベルのショーじゃ済まない出来事だ。今の日本校のフィリア・クリスマス・コレクションでも勝てないじゃないか。

 しかも、その時にパリ市民数万人に歓声を上げさせ、当時の世界中の著名人、某国の王族の方々を感心させた衣装のパタンナーを務めたのが『小倉朝日』。何者だ、彼女は?

 

「叔母様が言うには、本当に良い衣装だったらしいよ。だって、当時のパリでは評価されていなかったゴスロリ系で最優秀賞を取ったそうだから」

 

「ゴスロリ?」

 

 ん? 何だか、凄く気になるジャンルの衣装の話が出た。

 『小倉朝日』の関係者で、ゴスロリ関係を扱っている人物。加えてパリ校に通っていた人物。

 ……まさか。

 

「その衣装のデザインを描いたのは誰でしょうか?」

 

「私も気になるわね」

 

「名前は忘れた。でも、大蔵家の関係者らしいよ」

 

 ……間違いない。その人物は、僕の叔母の総裁殿だ!

 えええええっ!? あの人、『小倉朝日』さんとそんな凄い事をしていたの!?

 ルミねえ、アトレ、九千代も言葉を失って顔を蒼褪めさせているよ。

 

「ただね、どうしてそんな凄いパタンナーの人が居たのに、今は活躍していないか叔母様も分からないんだって。だから、娘だって言う黒い子ならその理由を知っているかなと思って」

 

「……そ、その事は小倉さんに尋ねないで下さい」

 

「何で?」

 

 純粋な疑問の視線をジャスティーヌ嬢は、ルミねえに向けた。

 困ったようにルミねえは視線を彷徨わせていたが、やがて覚悟したのか顔を俯かせた。

 

「小倉さんのお母様は……亡くなっているんです」

 

「えっ!? それ、本当!?」

 

「本当です。現在の小倉さんの父親である衣遠さんが言っていましたし……小倉さんも言っていました」

 

「……そうなんだ。分かった。黒い子には聞かないよ」

 

 良かった。もしも知らずにジャスティーヌ嬢が、小倉さんに聞いていたら取り返しのつかない事になっていたかも知れない。

 エストも八日堂朔莉も事情を察したのか、難しい顔をしながらも頷いた。

 その後は雰囲気的にお茶会を続ける空気ではなくなったので、僕らは別れた。

 ……ただ、どうにも屋上で八日堂朔莉がルミねえに向けていた視線が気になる。彼女はルミねえと親しい僕と違って、客観的に状況を見る事が出来る。

 エストと別れた後に聞いてみるべきだろうか。それとも伯父様に聞いてみようか。




選択肢が発生しました。

【八日堂朔莉に尋ねてみる】(八日堂朔莉の好感度UP。衣遠の好感度UP)
【伯父様に尋ねる】(衣遠の好感度ダウン、支援率が低下)

因みに朝日がパリでの出来事を知ると、鬱日化確定。服飾を捨てます。だから、りそな達は詳細を語りません。
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