月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
lukoa様、秋ウサギ様、笹ノ葉様、烏瑠様、獅子満月様、誤字報告ありがとうございました!
side才華
学院が始まってから二週目に訪れた日曜日。
本来ならば朝早くに起きてエストの部屋に行きたかった。だけど、昨日の内に休ませて貰うように頼んだ。
それと言うのも、学院の保険医から言われていたストレスの影響の治療の為に、病院の医者に相談の為に向かうからだ。
エストには事前に心配をかけさせない為に、病院に行く事は内緒にして、例の探している人物を目撃したという情報をアトレが掴んだのでそれを確かめに行きたいと願い出た。
話を聞いたエストは了承してくれた。寧ろ『絶対に見つけて来なさい』とまで言ってくれたよ。
……凄く罪悪感を覚えた。僕が捜していた小倉さんは、もう見つかっているから。だけど、病院に行くと言ったらエストの事だから、心配してついて来そうだ。今のところエストは、あの人工呼吸と言うかキスの件で、僕へのスキンシップが強くなっている。
八日堂朔莉に忠告を受けてからは、抱き着いたりするような過剰なスキンシップは避けるようにしている。
幾ら身体が柔らかく感じられても、僕は男だ。ふとした拍子に正体がバレてしまったら、其処で終わりなんだから。
病院に行く時は小倉朝陽ではなく、桜小路才華として行かなければならない。エストについて来られたら正体がバレてしまう。だから、罪悪感を感じるけれど、此処は我慢しよう。
もしかしたらこれもストレスになっているんじゃないか心配だな。
そう思いながら、僕は部屋を出た。
「おはよう、朝陽」
部屋の外にこの場に居る筈が無い人物がいた。思わず部屋に引き返そうと身体を反転させた。
「何で引き返すの!?」
……どうやら勘違いでは無いようだ。
反転させた身体を戻してみると、其処には僕の主人であるエストが立っていた。
「……お嬢様ですか?」
「他に誰に見えるの?」
「確かにエストお嬢様にしか見えませんが、あのお嬢様がこんなに朝早く起きているとは思っても見なかったもので。実は朔莉お嬢様が変装している訳では……」
「八日堂さんは今週の土日はロケで遠出するって、金曜日に屋上で言っていたと思うのだけど」
「……そうでしたね。では、私の目の前に今いるのは」
「正真正銘のエスト・ギャラッハ・アーノッツ。貴女の主人」
うん。此処まで来たら間違いなくエスト本人なのは間違いない。
だからこそ驚きだよ!? あの原人としか思えないような生活をしていた君が、こんなにも朝早くに僕の部屋にやって来ただけじゃなくて、服も着ているし、身嗜みも整えているんだから。
少しの間にこんなに立派になって。
「お嬢様。本当に進化なされたのですね。感無量です」
「進化ってどういう意味かな、このドS従者」
「自分の胸に聞いてみて下さい。三月末までの朝のお嬢様の事を」
「それを言われると何も言い返せない」
恥ずかしそうにエストは顔を赤らめた。どうやらちゃんと恥じらいと言うものまで理解しているようだ。
君の成長が本当に嬉しいよ、エスト。
「それでお嬢様。こんなに朝早くに何か御用でしょうか?」
「朝陽に会いたくて」
「……それだけなのですか? 何か急な用でも出来たのかと思っていたのですが」
もしも急な用が出来たんだったら、病院の方はキャンセルしよう。
自分の身体の事も大切だけど、何かあったらエストの方を優先したい。
「用とかは本当に無いの。ただ、朝陽の顔を見ておきたかったの。だって、今日は遠出をする予定なんでしょう?」
「ええ、まあそうですね」
行く予定の病院は大蔵系列で、伯父様が根回しをしてくれている病院だ。
その病院は少し遠い場所にある。近場の病院だと、同級生や学院関係者が来るかも知れない。お母様譲りの白い髪や緋色の瞳は目立つから、桜小路才華の姿で行ったとしても容姿で気がつかれる恐れがある。
だから、時間は少し掛かるけれど遠い場所の病院の方が安全だ。でも、その為に桜の園に戻って来るのが遅くなる。その為にエストに休みを貰ったんだ。
「今日は会えないかも知れないから、会いに来たの」
「お嬢様……嬉しいです」
本当に嬉しかった。此処まで思ってくれる事が本当に嬉しい。
でも、同時に感じずにはいられない。彼女を騙している事実が、重く僕に圧し掛かって来る。ごめん、エスト。
内心で謝りながら、僕はエストと共にエントランスに向かった。
「おはようございます、お姉様、それに……エストさん?」
「おはようございます、あ、朝陽さん……エ、エストお嬢様?」
エントランスではアトレと九千代が待っていた。
僕と一緒にエストが居る事に驚いたようだ。仕方がないよね。
来る筈のない相手がやって来ているんだから。
「おはようございます。今日は朝陽の見送りで来ました」
「そ、そうでしたか」
動揺したのか声が上擦っているよ、アトレ。怪しまれない内に向かった方が良さそうだ。
「おはようございます、アトレお嬢様、山吹さん。本日はお見送りありがとうございます」
「いえ、お姉様の為ならこの程度苦ではありません」
「お、お気をつけて行ってきて下さい」
二人は今日僕が向かう場所が、病院だと知っている。
此処二、三か月は食欲が減退しているし、フィリア学院の保険医からも忠告を受けている。早めの内に治療しておかないと、本当に倒れかねない。倒れたりして部屋で休んでいる時に、エストが来たりしたら大変だ。
部屋に男性物の服は無いとは言え、やはり心配だ。
肌の事以外で病院に行く事にアトレ、九千代、ルミねえは心配してくれた。
……ストレスの原因の一部にアトレとルミねえの事があるのは、今は考えないようにしよう。
「お姉様、どうか無事に帰ってきて下さい!」
「大げさです。アトレお嬢様」
「大げさではありません! お姉様にもしもの事があったらと思うと、アトレは、アトレは心配でなりません!」
……だったら、小倉さんに敵意を向けるのは止めて欲しいよ。本当に。
「それでは行ってきます」
「気を付けて、朝陽。必ず探している人を見つけてきてね」
「お兄様が捜してきた情報ですから、間違いありませんから大丈夫です、エストさん」
「えっ、そうなの……何だか不安になった」
背後からエストとアトレのやり取りが聞こえて来る。
アトレ。僕の評価を上げようとしてくれてありがとう。だけど、エスト。何で僕が関わると不安になるんだ?
……いや、これまでやらかして来た事を考えると、不安になる気持ちは分かるが。その事を君は知らないだろう。
色々と複雑な気持ちになりながら、僕は壱与が運転する車に乗り込んで桜の園から出た。
「男性物の服を着るのは久しぶりだよ」
「お似合いですよ、若。やはり女性らしく見えていても、若は男性なのですね」
「そう言って貰えて安心したよ、壱与」
何せ小倉朝陽に本格的になった時は、ルミねえ、アトレ、九千代に、散々女性に生まれた方が良かったなんて言われたからね。
用意して貰った鏡で姿を確認する。うん。やっぱり、男性物の服を着ると男だって実感出来る。
病院に行く前に僕が壱与と共に訪れたのは、桜屋敷。
桜小路才華として病院に向かわないといけないんだから、男性物の服が置いてある桜屋敷に訪れなければならない。久々に女性物の服ではなく、男性物の服を着られる事に喜びを感じた。
デザインをする時は女装しているのが一番だけど、たまにはこうして小倉朝陽から桜小路才華に戻るのも良い。
「壱与もありがとう。コンシェルジュの仕事やこの屋敷の管理で忙しいのに」
「私は大丈夫ですから気にしないで下さい、若。それに、コンシェルジュの仕事の方は部下に任せておりますから」
「君が桜屋敷に勤めてくれている事を心から感謝する」
本当に壱与が今も桜小路家に仕えてくれていて良かった。
もしもこれが何も知らない、ただ雇われただけの人物だったら、此処まで僕らを想ってくれるような事はしなかったに違いない。だから、今も壱与が桜小路家に仕えてくれていた事が本当に嬉しい。
「そう言えば若。学院の方はいかがですか?」
「今のところは入学式から二日目にルミねえにあった事以外は何もないよ」
本当に何も起きなくて良かったよ。
これで毎日何か大きな出来事が起きたらと思うと、今日病院に行くまでに僕は倒れていたと思う。
授業の方は今のところ、有名デザイナーの作品を模写してデザイン画を描く練習なので僕やエストには少し退屈に感じる。でも、用意されたデザインの中にはお母様の作品もあったのでそれを模写するのは楽しかった。
ただ紅葉が言うには、来週から遂に自由課題が始まるらしい。自由課題となれば好きに描いて問題ないんだけど……それが総学院長に見られると思うと気が重い。彼の目に僕のデザイン画がどう評価されるのか分からない。
それでも本格的に僕の才能に目を引かれれば、何かしらして来る可能性が高い。幸いと言うべきなのは、彼が学院に居られる時間が少ない事と調査員の存在があるので迂闊な事が出来ない事だ。
「クラスメイトの方々はどうですか?」
「そっちも良好。皆慕ってくれているよ。初日で気絶したりなんかしたから、もうちょっと距離を取られるかなって心配だったけど、何とかやれてるよ」
「それは良かった。若の美しさの勝利ですね」
「それに関してはお父様とお母様に感謝だね」
僕を美しく産んでくれたあの両親には感謝するしかない。あっ、そう言えばお父様にまだ連絡していなかった。
そろそろ連絡しないと、日本に来てしまいそうだからしておかないと。
「ただ小倉さんには感謝するしかないよ。もしもあの人の忠告を聞かずに大蔵家の関係者だと名乗っていたらと思うと、胃が痛くなりそう」
「やはりルミネお嬢様の為された事は、影響が出ていますか?」
「うん。それとなく特別編成クラス用の食堂に来る先輩方の話を盗み聞いていると、ピアノ科には暴君が居るから気をつけてって忠告されている子達が居るんだ。その暴君の正体は……」
「ルミネお嬢様という事ですか」
「はっきりとは言ってないけど、間違いないと思う」
僕を訪ねに来たピアノ科の先輩方は、デザイナー科の生徒達とも繋がりがあると言っていた。
それは脅しの類ではなく、事実だった事も明らかになった。もしもあそこで大蔵家の関係者だと僕が名乗っていたら、たちまち学院中に知れ渡ってエストの耳にも届いていた。そうなったら、入学式の時に初対面という形で会っていたのだから、不審に思われるのは間違いない。
迂闊に小倉朝陽が大蔵家の関係者だと名乗らなくて、本当に良かった。
「小倉さんの方はいかがですか?」
「初日から数日の間は、クラスメイトに質問されたりしていたけれど、今は質問される事は無くなったかな」
「それは……警戒されているのでしょうか、小倉さんも?」
「違うよ。あの人が真剣に勉強しているから、その邪魔をしたくなくて、皆が質問を控えるようになったんだ」
授業中の小倉さんは、それこそ声を掛けるのも躊躇うほどの集中力を発揮している。
その集中力は休み時間も続いていて、トイレにでも行かない限り、ずっと勉強している。昼休みだって、特別編成クラスの食堂に来るのは週三回ぐらいで、他はカリンと一緒にサロンで用意して来たお弁当を食べているようだ。
まあ、サロンで食べるのは調査員としての相談があるからみたいだけど。
「代わりに僕の方に質問に来る子が多くなったよ」
「大丈夫なのですか、若? 若の勉強の方は進んでおられるのでしょうか?」
「僕の先生が紅葉だったのが幸いだったのと、今のところは授業も始まったばかりだから、復習しているようで何とかね」
「もみもみに感謝ですね」
「全くだよ。僕は本当に大勢の人達に支えられているんだって実感する」
その事さえも少し前は気がつく事が出来ずにいた。
だから、今度は僕がエストを支えたい。今のところクラスメイト達の様子からはエストへの悪意を感じられない。と言うよりも、ジャスティーヌ嬢の方が明らかに暴君的な行動をしただけに、皆、エストよりもジャスティーヌ嬢を警戒している。
因みにジャスティーヌ嬢は殆ど教室に来ないで、自室でデザインを描いているとカトリーヌさんが言っていた。日本語が苦手な彼女だが、フランス語が出来る小倉さんとカリンが隣に座っているおかげで怯えたり困ったりする事は少ない。
ただクラスの中で余り良くないあだ名が彼女に付きそうになっている。小倉さんが居る時はそのあだ名が言われる事は無いが、陰で言われているのを僕は知っている。正直そのあだ名は無いだろうと僕も思っているんだけど、従者の立場にある小倉朝陽が他のお嬢様に言える意見では無いので止める事が出来ない。
エストも思うところはあるようだけど、まだクラスに馴染んでいない状況で止めるように言うのは危険過ぎる。ジャスティーヌ嬢の件はなりを潜めたように見えるが、やはりあの暴君ぶりは影響を残しているんだから。
「若。そろそろ参りましょう。予約の時間にはまだ余裕がありますが、遠出ですのでもしかしたら道が混雑したりする恐れは残っています」
「うん。分かった、行こう壱与」
僕と壱与は車で予約した病院へと向かった。どんな診断がされるのか、少し心配だな。
「率直に言いますが、今すぐ環境を変えるか、何らかの方法でストレスを発散しないと、貴方は倒れかねないほどに追い込まれています」
診断が終わったと共に医者から宣告を受けた。
えっ? 嘘。其処まで僕の身体の状態って悪いの?
付き添いで来た壱与も、目を丸くして驚いている。
「正直申しまして、今の環境下でこれ以上過ごすのは大変身体に悪いでしょう。あまりこれまでストレスを溜め込んでいなかった事が良くありませんでした。医者として言わせて頂きますが、今すぐにストレスの原因を取り除くか、環境を変える。若しくは何らかの手段でストレスを発散しないと、貴方の身体が限界です。最近、食欲不振が続いていませんか?」
はい、結構前から食べる食事の量が減っています。
エストといる時は、怪しまれないように無理やり食べている。体重に関しては、此処数ヵ月でかなり減ってしまった。
「若、おいたわしや」
医者からの診断が終わり、取り敢えず薬を貰った後の待合室で壱与は涙を拭っている。
僕だって結構ショックだ。これまでストレスの事で一度も病院に通った事が無いだけに、尚更にショックだよ。
ストレスを感じない環境下にって言われても、自分からその環境を作ったようなものだし、止められる立場にも居ない。止めたら大変な事になる未来しか待っていないんだから。
「壱与……何かストレスを発散する方法って知らないかな?」
「私の場合はウェイトリフティングで発散しています。身体を動かす事は、ストレス発散に繋がりますから」
つまり、筋トレか。
……元々インドア派で、普段運動なんかした事が無い僕だと、すぐに息切れしてしまいそうだ。疲れを残すのは、エストへの従者として影響を残すかも知れないから駄目。
以前はデザインを描く事もストレスの発散に繋がっていたけど、今も毎日描いているから、ストレスの発散にはならない。何か他に無いだろうか?
「他には……そうだ。もみもみと買い物に時々行ったりして、好きな物を買ったりします」
「買い物か」
そう言えば最近は自分の買い物と呼べるような事をした覚えが無い。
小倉朝陽として過ごしていたんだから、仕方がないかも知れないが。今日はエストに見送りもして貰ったし、何か彼女が喜ぶ物を帰りに買うのも良いかも知れない。と言っても、エストが喜ぶ物なんて甘い物以外に思い浮かばない。
……そうだ! 迷惑をかけている小倉さんに、何か服を作ってプレゼントしよう!
思えば、あの人には謝って許して貰えたけれど、言葉での謝罪しかしていない。何か形ある物でも謝罪の意思を示したい。
そうとなれば……。
「壱与。この近くに布屋とか無いかな?」
「布屋ですか? 何故そのような質問を?」
「迷惑をかけている小倉さんに、何か衣装をプレゼントしたいんだ。それも生地から自分で選びたいんだよ」
せっかくプレゼントするんだから、良い生地を使いたい。
「こ、小倉さんへのプレゼントですか。という事は、女性物ですよね?」
「? そうだけど、それがどうしたの?」
「い、いえ、何でもありません。少し待って下さい……小倉さん、渡されてショックを受けないと良いんだけど」
何だか、壱与の様子が可笑しい?
急に後ろを向いて何かを言っているようだけど、良く聞こえない。
「この近くには残念ながらありません。ただ渋谷の方に一軒ありますね。その場所の事は良く知っていますので、案内する事も出来ます」
「良く知っているって、どうして?」
「その店は奥様と旦那様も使っていたお店なのです。店主こそ替わってしまいましたが、品揃えは今も良い店です。これまで若にご依頼された生地や糸も、其処で買っておりました」
「じゃあ、其処に行こうか。後、途中でエストやアトレ達にもお土産を買いたいからこの付近で有名なお菓子屋にも寄って」
「分かりました。それでは参りましょうか」
エストやアトレ達のお土産を買い終えた後、僕は壱与に案内されて布屋『マルカン』と言う場所に連れて来られた。
幸いにも着く頃には日も沈みかけていたので日傘を差して、店内に入る事が出来た。
「へえ~、初めて来るけれど、本当に品ぞろえが良い店だね」
桜の園に居れば、コンシェルジュの壱与に頼めば大抵の物は揃えてくれる。
僕は従者の立場だけど、大家のアトレを経由して依頼しているので服飾に関する物で無くなって困った事は無い。
だから、こうして自分で生地や糸を選ぶのも本当に久しぶりだ。あっ、この生地良いな。
この生地から小倉さんへの衣装を作るのも良いかも知れない。こっちの生地も良い。
壱与の言う通り、品揃えだけじゃなくて質も良い物が揃っている。此処に来て良かった。
やっぱり僕のストレス解消になるのは、服飾関連だ。デザインから考えるんじゃなくて、選んだ生地からデザインを考えてみるのも良いかも知れない。余りやらない事だけど、たまには良いかな。
そう思いながら、僕は生地を見回していく。
「へい、彼女。それ重いだろう?」
……良い気分が悪くなった。こんな場所にもナンパと言うものがあるのか。
「い、いえ、大丈夫ですから。ど、どうか離れてくれませんか」
……何だか、凄く聞き覚えのある声が聞こえて来た。
僕だけじゃなくて、背後に付き従っていた壱与も驚いて声の聞こえた方に顔を向ける。其処には。
「いやいや、明らかに重そうじゃないか。ほら、持ってあげるから」
「本当に、だ、大丈夫ですから!」
小倉さんだあああぁーーーあ!
あの人、何でこんな場所でナンパなんてされているの!?
side遊星
本当に困るよおぉぉぉっ!
製図用紙が無くなって、買い物に来たらナンパされるなんて!? と言うか、この目の前にいる男の人。
ずっと僕の事をつけていた人だ。製図用紙が無くなって、カリンさんも用足しでいなかったから、一人で買い物に来たのは、やっぱり間違いだったかも。
来る途中で何度も別の男性の人にナンパされたけど、それは当然全員断った。
……男なのにナンパされてしまう事実には、悲しさしか覚えない。と言うか泣きそうに何度もなった。
これだから外に出るのが怖くなるんだよ。
それよりも、目の前にいる人を何とかしないと。製図用紙以外にも気に入った生地があったから買おうと考えて、その生地を持ち上げようとしたところでこの人が声を掛けて来た。
どうやら僕と話す機会をずっと狙っていたようだ。だからと言って、お近づきになる気なんてこっちには全然ない。どうすれば良いのかと悩んでいると。
「あら、小倉さん、こんなところで奇遇ね」
「えっ? 八十島さん」
「なっ!?」
男の人の背後から、八十島さんが声を掛けて来た。
何でこの店に八十島さんが?
「この人は私のお友達なんだけど、何か御用なのかしら?」
「いやいや! 何でもありませんよ! それじゃ!?」
八十島さんに男の人は怯えたように声を上げて、生地を僕に手渡して走って行った。
……た、助かった。しつこくて本当に困っていたから、八十島さんには本当に感謝だ。八十島さんありがとうございまああああーーす!
涙を思わず浮かべて、八十島さんに感謝を捧げてしまう。
「うう、ありがとうございます……ありがとうございます」
「本当に辛かったのね、小倉さん」
はい……本当に辛かったです。
男性なのに男性にナンパされるのは、本当にキツイし辛い。と言うよりも、何でこんなにナンパされるようになったのだろうか?
この事をりそなに質問してみたところ。
『今の貴方は見た目や仕草も完全に女性です。以前の……『小倉朝日』の時も、あどけなさを残しつつも、泥臭さがないどころかハイソな空気が漂う、正統派美少女で、声を掛ければ少女漫画的なドラマが始まるのではないかと期待してしまう謎の純朴感が漂っていました。ですが、貴方には其処に儚さが加わって、無意識に守らなければいけないという保護欲感を漂わせているんです。男性達は、それこそこの出会いを逃したくない気持ちに駆り立てられるのでしょう。だから、以前と違ってナンパされるようになったのだと思います。妹、凄い複雑な気持ちで一杯です』
凄く聞きたくない気持ちで一杯になった。
そのまま八十島さんに口を開こうとしたところで、八十島さんが横に視線を向けて首を微かに動かした。
何だろうと思って目を向けてみると、戸棚に並んでいる生地の間から白い髪が揺れているのが見える。
……才華様がいるようだ。事情を知っている八十島さんが居るからと言って、口調を遊星にする訳にはいかないようだ。
僕は八十島さんに向かって無言で頷き、手渡された生地を大切に持ち上げる。汚したりしたら大変だ。
「改めてありがとうございました、八十島さん。この後、ご予定が無ければ……ご一緒にお茶でもいかがですか、才華様?」
戸棚の間から動揺する気配が伝わって来た。
恐る恐る才華様が出て来る。……日本に戻って来てから初めて男性としての才華様の姿を見た。
良いな。女装を全く止められない僕と違って、才華様は戻る気になれば何時でも男性の姿に戻れるんだから。
本当に羨ましい。
「ご、ご一緒させて貰います」
「それは良かった。じゃあ、会計を済ませてきますね。あっ、才華様達も何か買い物はありますか?」
「若も生地を買いに来たのです」
「い、壱与!」
ん? 何で才華様は声を上げたんだろう? 服飾生なんだから、別に生地を買いに来ても可笑しくないのに?
「何故叫んだのですか?」
「な、何でもありません! え~と、僕が買う生地はっと」
ちょっと才華様が挙動不審だ。何かあったのだろうか?
疑問に思うけれど、今は買い物を済ませてしまおう。製図用紙はお父様の課題に絶対に必要だから、買い忘れる訳にはいかない。
会計を済ませる為に、僕は店員の下へと足を運んだ。
お茶をする為に選んだ場所は、渋谷でもそれなりに有名な喫茶店だった。
勿論、才華様の身体の事情を考えて陽の光が入らない個室にして貰った。本当なら才華様とは距離を置くべきなのだけど、どうしても気になる事があったので八十島さんも加えて話す機会を設けた。
「美味しいですね」
「ええ、良いコーヒーだと思います。流石は有名なお店なだけはありますね、若」
「そ、そうだね。うん、美味しいよ」
……何だか才華様が緊張しているように見える。どうしてだろうか?
気にはなるけれど、今は……。
「あ、あの小倉さん。そ、総裁殿はどうしていますか?」
質問する前に、才華様に質問されてしまった。
「りそなさんでしたら、昨日から出張しています」
僕と暮らすようになってからは控えるようにしているけれど、大蔵家の総裁の立場にあるりそなは出張しないといけない時がある。家を出る時に見たりそなの寂しげな顔を思い出してしまい、ちょっと悲しくなった。
かと言って付いて行く訳にはいかない。今の僕はフィリア学院の学生で、りそなから調査員を命じられているんだから。
「そうですか……良かった」
どうやら才華様は近くにりそなが居ないか心配だったようだ。
喧嘩中だから仕方がないか。りそなも才華様に会えば不機嫌になっていただろうから、残念な気持ちはあるけれど、暫らくはりそなと才華様は会わない方が良いかも知れない。
「今度はこっちから質問です……才華様、ルミネさんの様子はどうですか?」
「……今のところは普段のルミねえです」
安堵の息が思わず出てしまった。
今のところルミネさんに悪意は向いていないようだ。学院では会う機会が今のところないし、桜の園にはアトレ様の事もあるから迂闊には行く事が出来ない。寧ろ桜の園に勝手に行ったりしたら、りそなに怒られる。
因みにこの場合は、才華様やアトレ様にではなく、言う事を聞かなかった僕に怒りが向く。りそなを怒らせるのは怖いので、桜の園に行く事は暫くは無理だ。
本気で怖いからね。怒った時のりそなは。
「あ、あの学院での僕の行動に悪いところはありますか?」
「……今のところはありませんから、安心して下さい」
少なくとも2日目以降の才華様の行動に問題らしい問題は見えなかった。
これはカリンさんにも確認したから間違いない。心配だったエストさんとの関係も良好。
「正直に言えば、事前に聞いていたエストさんの話では、少々才華様に従者が務まるのか心配でした。聞いた話だと体罰を行なったり、主人の食べ物を食べたりしていたそうなので」
「……じ、事実です」
「個人的な印象は本当に良くありませんでした。ですが、学院や桜の園で見たエストさんとの関係を見て、こんな形の主従関係もあるんだと、感心しました」
本当に感心した。僕やルナ様のような従者と主人という本来の立場を表した関係とは違う、エストさんと才華様の関係。
互いの立場が対等で、仲の良さを強く感じる友人のような従者と主人。それでいてちゃんと必要な時には、主人であるエストさんを才華様は尊重していた。もしも主人であるエストさんを蔑ろにしていたらと考えていたけど、とんでもなかった。
ちゃんと才華様はエストさんの事を支えている。それが嬉しかった。
……正体がバレた時は心配だけど。
「若。丁度小倉さんとも会えましたから、例のエストお嬢様への言い訳を本当にしましょう。そうすれば、アトレお嬢様のフォローも加わって、多少は若の評価も上がると思います」
「うん。そうしよう」
八十島さんと才華様が小声で何か会話をしている。
気にはなるけど、深くは聞かないでおこう。僕は店員が運んで来てくれたコーヒーを飲む。
うん、やっぱり美味しい。この喫茶店は当たりだ。今度りそなと来たいな。
「そう言えば、小倉さん。随分と製図用紙を買い込んでいましたけど、そんなに沢山必要なんですか?」
「ああ、これはお父様の課題の為です」
「伯父様の課題?」
「はい。お父様から課題を言い渡されて、その為に製図用紙はどうしても必要ですから」
少しずつ納得出来る型紙が引けてきているけれど、採点者はあのお父様だ。
もっと沢山引いて、自分でもこれだと思える型紙を引きたい。その為にも製図用紙は沢山必要だ。寧ろ今回買った分でも足りなくなりそう。
後でまた買い足さないといけないな。
「伯父様から課題を受けられるなんて羨ましいですね。僕はそういう課題を貰った事がないです」
「お、お父様の課題は本当に厳しいんですよ」
何せ才能が無いと判断されたら、服飾の勉強を全部取り上げられた。今も課題を乗り越えられなかったら退学させると言われている。
あの人は言った事は絶対にやる人だ。才華様には悪いけれど、今の才華様の状況で、お父様の課題は渡されない方が良い。冗談抜きであの人の採点は厳しいから。
少し前ならともかく、最近のお父様は才華様には厳しい方が成長出来ると思っているから本当に危険だ。
「課題をクリア出来なかったら、厳しい言葉を言われると思います。今の才華様の状況では、止めておいた方が良いですよ」
「厳しい言葉……分かりました」
素直に才華様は、僕の言葉に頷いてくれた。
……桜小路遊星様に反抗期だから、似ている僕の言葉も聞いてくれないかも知れないと心配だったけど、ちゃんと素直に聞いてくれた。
これは僕を桜小路遊星様と別人だと、分かっているからだろうか? だとしたらちょっと嬉しい。
あの方と別人だと認識されるのは、僕の心が休まるから。
その後、僕らは軽い雑談をして店を出た。
「それでは、八十島さん、才華様。私は此処で失礼します」
「大丈夫ですか、小倉さん。さっきみたいに男性にナンパされたりしたら」
「ハハッ、だ、大丈夫です」
最悪の場合、全力疾走で逃げますから。
「才華様もお身体には気を付けて下さい。日は沈みましたけど、紫外線はありますから」
ルナ様と同じで才華様も肌が弱いから心配だ。
「八十島さん、才華様の事をお願いします」
「ええ、任せて頂戴。何だったら、小倉さんも荷物があるんだから。若、どうでしょうか?」
「僕は構わないよ」
「いえ、才華様が家を知っていたらりそなさんが不機嫌になりそうですから」
気持ちは嬉しいが、りそなから才華様達に絶対に家の場所は知られないようにって言われている。
一応、お爺様には伝えているようだから、何時かルミネさん経由で知られるかも知れないけれど、暫くは距離が必要だ。かなりピリピリしているからね、りそなは。
「では、また明日学院で会いましょう」
「は、はい。学院でまた」
「お休みなさい、小倉さん」
僕は才華様と八十島さんと別れて、帰路についた。
帰ったら夕食を食べて、その後はお父様の課題だ。学院に通い続ける為にも、頑張らないと。
才華のストレス解消は朝日の服製作になりました。
ただし女性物です。朝日本人からすれば、凄く複雑でしょうね。
次回は下旬です。
漸く四月の終わりが見えてきました。
それが終わったら五月に入ります。