月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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五月編開始です!
四月で起きた問題を少しずつ解決していきます。ルミネ以外はですが。

dist様、lukoa様、烏瑠様、秋ウサギ様、ちよ祖父様、笹ノ葉様、障子から見ているメアリー様、マキナM様、ヤシの実様、誤字報告ありがとうございました!


五月編
五月上旬(才華side)1


side才華

 

「さあそれじゃあこの素敵な髪に触れさせて貰おうかな」

 

「……はい……ありがとうございます」

 

 今日はジュニア氏と髪を切る約束をした日。

 僕は何とか力のない声で返事を返した。胃が……痛い。薬を飲んで来たのに、全然効かない。

 ゆっくりとジュニア氏の手が、僕の髪に触れるのを感じた。

 

「髪だけですからね! 髪だけですからね! 髪以外に触れないで下さいね!」

 

「ああお姉様の美しい髪に触れるなんて、それだけで羨ましい……私にも、髪を切る技術があれば!」

 

 お、お願いします。大声を出さないで下さい、飯川さん、長さん。

 僕が男性に髪を切られるのを心配してくれる気持ちは嬉しいけれど……今は本当に辛い。だけど、ジュニア氏と約束した事だから破る訳にはいかない。

 

「ククク最高だな、このロングヘア……普通白い髪ってのは、パサパサになるもんなんだ。大気中の紫外線の影響をモロに食らっちまうからな。だけどしっかりと潤いと滑らかさを保って……ん? おい、コイツは」

 

 急に何かに気がついたように、ジュニア氏は注意深く僕の髪を見つめたり、触れたりして来た。

 

「ぎゃーっ! やめてええー!」

 

「お姉様には手を出さないでえええええっ!!」

 

 うっ! お、お願い。もうこれ以上大きな声を聞かせないで。

 お腹が痛くて、気分が悪くなって吐きそう。あの両親の息子である僕が人前で吐くなんて、絶対に嫌だ。

 だ、誰か。僕を助けて!

 そう思っていると、僕の髪に触れていたジュニア氏が真剣な顔をして飯川さん、長さんに顔を向けた。

 

「悪いがベイビー達。外に出てくれるかな」

 

「何を言っているんですか!? お姉様と二人っきりになるなんて、見過ごせません!」

 

「絶対に駄目! 男なんかとお姉様が二人っきりになる事は嫌あ!」

 

「それじゃ、ハニーの意見を聞いてみよう。ハニー、このままギャラリーが居て髪を切られるのと、俺と二人っきりでカットされるのとどっちが良いかな、ハニー」

 

 考えるまでもなく答えは決まっている。

 

「……ジュニアさんと二人っきりでお願いします」

 

「そ、そんなああああっ!!」

 

「いやあああああっ!!」

 

「ほらほら、ハニーが了承してくれたんだから、君達は外に出る」

 

 悲痛な叫びを上げ続ける飯川さんと長さんを、ジュニア氏は外に出した。

 そのまま鍵を閉められて入って来れないようにした。

 ……アレ? これって別の意味で不味いような。今更ながらジュニア氏と二人っきりになってしまった事に危機感を覚える。

 お、お腹が痛くて冷静な判断が出来なかった。ど、どうしよう!?

 男性と二人きりになるなんて! しかも、認めたくないけれど僕に女性としての好意を向けているかも知れない相手と二人だけなんて不味い! い、いや、彼は紳士な人だ。

 いきなり襲い掛かる事なんてないと思いたい。

 

「さて、ハニー。真面目な話だ。何を抱えているんだい?」

 

「な、何の事でしょうか?」

 

「惚けなくて良いよ。その髪を見れば一目瞭然だ。手の届かないところの痛みが酷いのは仕方がないが、それ以外にもダメージが出ている。コイツは……ストレスから来る痛みだ」

 

 ……当たっている。ジュニア氏を侮っていたかも知れない。

 この人は間違いなく、美容師の天才だ。今日此処に来る前に出来るだけケアはして来たつもりだけど、プロに匹敵する腕を持っている彼の目は欺けなかった。

 

「取り敢えずカットはさせて貰うよ。この美しい髪をこんなに痛ませたままなのは、放置できない。今日はダメージが酷い髪と毛先を整えるぐらいのつもりだったが、コイツは本格的にやる必要性が出て来た」

 

「申し訳ありません」

 

「良いさ。寧ろこの髪を癒せて本来の美しさを取り戻せる事に、貢献できるなんて。やる気が溢れて来るぜ! で、ハニー、カットしながら聞かせて欲しいんだが、本当に君に何が起きているんだい?」

 

「……」

 

「正直言って、このままストレスの痛みが酷くなったら、取り返しがつかない事になるぜ。アメリカンジョークじゃない。マジな話だ」

 

「……ジュ、ジュニアさんは、大蔵家の事を知っていますか?」

 

「まあ、知っているよ。俺の親父が大蔵家の一員だからね。とは言っても、距離は取っているからあんまり内情は詳しくないが、それがどうしたんだい、ハニー?」

 

「では……」

 

 聞いてみよう。ジュニア氏が大蔵家と距離を取っているのは知っているが、それでもアメリカにずっと居た僕よりは知っているかも知れない。

 

「山県先輩の事は知っているでしょうか?」

 

「ああ、大瑛君の事ね。知っているも何も、彼は俺の父親の年の離れた弟だから叔父にあたるんだ。ただ、親父も話した事がないって話だ」

 

 つまり、山県先輩もジュニア氏と同じで本当に大蔵家とは距離を取っているという事か。事前調査でもそうだったし。

 

「では、ルミネお嬢様の事は知っていますよね?」

 

「そっちは初めて会った時に挨拶をしたよ。ただ、本当に挨拶をするぐらいの関係だ。だけど、ハニー? さっきから何だってそんな質問をするんだい? 次は姉御の事かい? そっちは俺よりも同じクラスのハニーの方が知っているだろう?」

 

「……実は私は、大蔵家の遠縁にあたるのです。それで親戚である小倉お嬢様に、絶対に学院内では大蔵家関係者だと知られたらいけないと忠告されまして」

 

「……そうなった経緯を聞かせて貰って良いかな? あの姉御が嫌がらせの類で大蔵家の関係者だと知られるな、何て言うとは思えないからさあ」

 

「はい、実は……」

 

 僕はその忠告を受けた時の経緯をジュニア氏に話した。

 聞き終えたジュニア氏は、難しい顔を浮かべて考え込んだ。

 

「……ソイツは、姉御の忠告通りにしておいて正解だ。音楽部門。その中でもピアノ科の生徒に、大蔵関係者だと知られたら何をされるか分からない。俺も、大映君を初めに訪ねに行った時は、警戒される視線を向けられたからね」

 

「それは何時の事なのでしょうか?」

 

「入学前の事さ。入学手続きの為にこの学院に訪れた序でにピアノ科まで顔を出して、周りの生徒に声を掛けて捕まえたんだ。そん時に俺の名前と言うか、大蔵の名前を聞いた瞬間に捕まえた生徒から警戒の視線を向けられたんだ」

 

 ……今の話が本当だとすれば、八日堂朔莉の言っていた話とジュニア氏の話は一致する。

 彼女はルミねえが入学する前から、ピアノ科の生徒が大蔵家を警戒していたという話をしていた。それはルミねえだけではなく、ジュニア氏もだった。

 一体何でピアノ科の生徒達は、大蔵家を警戒しているのだろうか?

 ルミねえの話では山県先輩は教師からの評価は良くないようだけど、生徒からの人気は高いらしい。まさか、彼が大蔵家の悪い噂を流しているのだろうか?

 いや、入学式で会った時も、この前の見学の時に会った時にも彼からは悪い印象は感じなかった。彼が悪い噂を意図して流したとは考え難い。

 

「それでハニー。今の話がハニーのストレスの原因なのかい?」

 

「ええ……そうです」

 

 他にもあるけれど、ルミねえの件も僕のストレスの一つだ。

 

「私はルミネお嬢様に感謝しています。今の主人もルミネお嬢様に紹介して貰いました。そのルミネお嬢様が居るピアノ科の方々が大蔵家を嫌っているという話を聞いたので」

 

「そりゃ確かに心配になるか。だけど、それでストレスを溜め込んだらハニーの方が参っちまう。いっそのこと話してみたらどうだい?」

 

 ルミねえに話すか。

 確かに一つの手段ではあるけれど……ルミねえが聞いてくれるかな? 嫌われていても、実力を示せば問題ないと考えそうだし。八日堂朔莉が言うように話したら、逆に反発されかねない。

 それに……僕のストレスの原因はルミねえだけじゃない。

 思い出すだけで、胃が痛くなるお母様との電話越しでの会話を、僕は思い出す。

 

 

 

 

 身体が恐怖で震えるのを止める事が出来ない。

 何か言おうと口を動かすが、声が出せない。と言うよりも、もしかしてお母様は……僕らがやっている事を知っているのだろうか?

 アトレが小倉さんを『不誠実』と言った事は知っているようだけど、まさか、僕が女装してフィリア学院に通っている事まで、バレている?

 

『才華』

 

「は、はい! お母様!?」

 

『お前は本当にアトレの電話を知らないようだから、事の経緯を教えてやろう。先日、アトレが急に電話を掛けて来た。その内容は、アメリカで過ごしていた朝日がどんな生活をしていたかだ。丁度、その時には夫が仕事で居なかったので、私が応対した』

 

 運がないよ。せめて、お母様じゃなくてお父様だったら怒られるのは変わらないにしても、注意されるような言い方で済んだかも知れない。

 なのに、選りにも選ってお母様が対応したなんて! 壱与が言うには、アトレが小倉さんにしようとした事が知られたら、とても怒るそうじゃないか!

 余りのタイミングの悪さに、電話を持っていない方の手で頭を抱えた。

 

『屋敷に来た朝日の生活には何の問題も無かった。宿泊先こそ大蔵駿我が用意した場所だったが、毎日約束した時間に訪れて、夕食後に当家を去るという毎日だった。夫が急な仕事で服飾を教えられなくなっても、何一つ不満を漏らさず、寧ろアトリエの掃除などしてくれていた』

 

「えっ? アトリエって? ……お父様とお母様のアトリエに小倉さんを入れたんですか?」

 

『そうだ』

 

 驚いた。お父様とお母様は、アトリエには部外者は余り入れない。

 僕やアトレだって、用が無い時には入れて貰えない。その二人だけの世界に、小倉さんは入れて貰えた。

 それどころか、二人のアトリエの中で服飾の勉強を教えて貰うなんて……少し羨ましい。

 

『朝日を私達のアトリエに入れた事に、驚いているようだな?』

 

「ええ……正直言って驚きました」

 

『私と夫も、朝日なら入れて良いと思った。最初に見せられた朝日の服飾の技術は、本当に酷かった。だが、夫と八千代に服飾を教えて貰っている内に、驚異的な速さで技術を取り戻していった。あのまま我が家に留まっていれば、夏頃には朝日は以前の実力どころか、それ以上の実力を得られていただろう。型紙と縫製においては、確実にお前を超えていたと私は断言する』

 

「本当なんですか!?」

 

 正直言って信じられなかった。

 授業でそれとなく小倉さんの様子を窺っているが、型紙も縫製も、そしてデザインも僕の方が上だった。

 それなのにお母様は、その気になれば小倉さんは僕を超える事ができていたと断言している。なら何故小倉さんはアメリカに留まらなかったのだろう?

 早期に実力を取り戻せるなら、そっちの方が良い筈だ。僕らを心配して、その道を諦めたのなら……申し訳ない気持ちで一杯だ。

 

『だが、朝日は実力を早期に取り戻す安易な道を進まなかった。その道の果てには……朝日には絶望しか待っていないからだ』

 

「……絶望?」

 

『そうだ。その理由は、朝日の傷に触れるから話すつもりはない。勝手に私が話していい類の話でもないからな。何よりも今、優先して話さなければならない事は、忠告していた筈なのに、アトレが朝日を傷つけた事だ』

 

「お母様。本当にすみません。忠告を受けていたのに、僕は元気な小倉さんを見て、その……」

 

『回復したと思ったか? 確かに回復には向かっていたが、忠告した時に言った筈だ。今の朝日の精神は不安定だとな。何時鬱日に戻っても可笑しくないと』

 

 確かに忠告を受けていました。だと言うのに傷つけてしまったのだから、言い訳しようもない。

 

『だと言うのに、お前達は表面的な部分しか見ずに、朝日が回復したと思った。話を戻すが、私が機嫌よく朝日の事を話していると、アトレは不機嫌そうにポツリと言った。『何故お母様も叔母様も、あの不誠実な人の事を楽しく話すのですか』とな』

 

「……そ、それで、お母様はどうされたのですか?」

 

『何故そう思ったのかと聞いてみると、『あの人は以前の主に謝罪していない』と言った。確かに朝日がした事は、不誠実だと言われても仕方がないだろう。そんな事は朝日が誰よりも理解して、後悔している。だから、服飾に二度と戻らないつもりで……朝日は自分が所持していた服飾道具を自らの手で燃やしたんだ』

 

「……も、燃やした?」

 

『ああ、そうだ。その時の朝日の気持ちを考えると……胸が痛い』

 

 電話越しにお母様の辛さに満ちた声が、僕の耳に届いた。

 いや、それよりも、小倉さんが自分の服飾道具を燃やしていただなんて初めて知った。

 その決意をした小倉さんは、一体どれだけ苦悩したのだろうか? 僕には想像する事も出来ない。

 

『そしてこれだけはハッキリと言っておく。朝日はもう充分過ぎるほどの、いや、過剰なほどの罰を受けている。本人はそれを当然の罰だと思っているようだが、私からすれば何故としか思えないほどの罰だ』

 

「……その罰は、以前勤めていた屋敷のメイド長に言われた言葉ですか。『二度と当家に関わるな』と言われたと、聞いています」

 

『……それ以上の罰だ。朝日は……失った。何もかもをだ。そして最後に残されていた服飾への未練も、自ら捨て去った』

 

 ……どういう意味だろうか?

 あの人は僕が思っている以上のものを、失っていると言うのか?

 でも一体何を……小倉さんは失ってしまったのか?

 

『もしも朝日が壱与に頼んで、私かりそなに連絡していれば、私達はすぐに朝日を保護していただろう。だが、朝日はそうはしなかった。自分の存在が私達以外の誰かに知られたら、迷惑にしかならないと思っているからだ。今も、きっとその考えは変わっていない。そう言ったら、アトレは何と言ったと思う?』

 

「……小倉さんの否定ですか?」

 

『そうだ。『だったら、そのまま私達の前に現れない方が良かった。あの人のせいでお兄様は自信を失ってしまったのです』……余りの言葉に私は怒りを堪えるのが大変だったぞ』

 

 アトレ……それは違うよ。

 確かに僕はアメリカに居た頃の自信を失った。でも、それは僕自身の行動の結果なんだ。あの人は僕に忠告してくれていたんだ。

 それにもしも以前の僕のままだったら、自分の方ばかり優先して……エストが溺れかけた時に助けるのを躊躇していたかも知れない。今、僕が多くの事に気がつけるようになった切っ掛けは、小倉さんが僕を叱ってくれたからだ。

 だから、僕はあの人に感謝している。調査員としての立場にいても、あの人はその立場の中で僕に出来るだけの協力や助言をしてくれた。もしも何も知らずに大蔵家の関係者だと上級生達に名乗っていたら、今頃どうなっていたか分からない。

 

『最初に言ったが、私はお前達に怒ってはいない。怒りを抱いているのは、お前達を甘やかし過ぎた私に対してだ。アトレの精神的な問題には気がついていた。何時かは、お前が幸せになれば解決出来る問題だと楽観視していた面があった。今はその事を後悔している』

 

「お、お母様。ア、アトレは……その……」

 

『そもそもアトレが朝日を嫌う原因になったのは、お前を叱った事が原因の一部だそうだな。正直叱った内容を朝日が教えてくれた時は、私も夫も八千代、そして大蔵駿我も言葉を失ったぞ』

 

 ……まさか、やっぱりお母様は知っているのだろうか?

 僕が女装してフィリア学院に通っている事を。小倉さんが話してしまったのではと、目の前が暗くなりかける。

 

『大蔵家の当主になってフィリア学院の募集案件を変える為に、ルミネ殿と政略結婚を提案したそうじゃないか?』

 

「……えっ?」

 

『ん? 違うのか? 朝日はそう言っていたぞ』

 

「い、いえ! ち、違いません! た、確かにその事で小倉さんに叱られました!」

 

 言っていた! 冗談のつもりだったけれど、確かに僕はそんな提案をあの時に言っていたよ!

 小倉さんはあの提案を使って、僕を叱った本当の理由を誤魔化してくれていたんだ。

 ありがとうございます、小倉さん。感謝しかありません。

 

『……話を戻すが、聞いた時は私も言葉を失った。フィリア学院に通う為という理由だけで、ルミネ殿と政略結婚して大蔵家当主の座に就こうとしたお前の提案には、私達は言葉を失った。現実的に可能かはともかく、そんな馬鹿な提案をよくも口にする事が出来たな?』

 

 ……今更ながら、あの時あんな事を冗談でも言ってしまった自分には後悔しかない。

 うん。ひい祖父様の恐ろしさを知った今だと、なんて馬鹿な事をあの頃の僕は言っていたんだろうか?

 知られたりしたら、どうなっていたのか考えるだけで身体が恐怖で震える。と言うか、今も震えている。

 

『それでだが、才華。その時にアトレはお前を注意したか?』

 

「……いえ、注意されませんでした」

 

『やはりか……ますます怒りが込み上げて来る。お前のその提案は、りそなを当主の座から追い落すのと同意義の提案だ。だと言うのに、アトレは注意もしなかった。りそなと仲が良いのにも関わらずに、お前を諫めもしなかった。その時点で、りそながアトレから離れるのは仕方がない事だ。都合の良い時だけ、自分の最大の理解者呼ばわりする姪など、幾ら気に入っていても耐えられるものではない』

 

 ……お母様の言う通りだ。

 本命の提案の前の、軽い冗談のつもりで言ったが、当時は大蔵家の内情を知らなかった小倉さんはともかく、アトレは総裁殿と親しかったんだ。

 だと言うのに、アトレは僕の提案を注意しなかった。それは総裁殿よりも僕を優先するという事なのだろうけれど、総裁殿からすれば困った時にだけ泣きついて来る相手にしか見えない。

 あの時の冗談を小倉さんは総裁殿に伝えているのかは分からないが、伝えていても伝えていなくても、総裁殿のアトレに対する信用は薄れていたのかも知れない。

 理解者を装って、何かあった時に自分を利用するつもりなのではと、総裁殿はアトレに対して疑いを抱いていた。だから、アトレが幾ら言葉を尽くしても総裁殿は、フィリア・クリスマス・コレクションで僕が二つの賞を得ない限り認めないと宣言した。

 

『才華。以前、私は『小倉朝日』を美しい人だと言ったのを覚えているか?』

 

「……覚えています」

 

『その理由は、『小倉朝日』の献身は、心の底からのものであり、自分の実力だけだったからだ。そして何よりも、『小倉朝日』は何があっても誰かを傷つける選択だけはしなかった。何があろうと……自分が傷ついても……誰かの心を傷つける事はしなかった。私が信頼しないと言った時に、彼女は言った。『信頼できないのなら用いて下さい。私のことを好きに使って下さい。道具の動きを信じずに用いる人はいません』とな』

 

 ……凄い人としか思えなかった。

 信頼出来ないと言われても、『小倉朝日』さんはお母様に献身を捧げた。そしてその献身は……お母様に確かに届いた。

 

『あの時の朝日の言葉があったから、私は人を信頼できる強さを得られた。だから、私はアトレのお前への献身を美しいとは思わない。朝日を傷つけたり、本気の努力もしていないアトレの献身などは決してな』

 

「えっ? あ、あのお母様? どういう事ですか? アトレは本気の努力をしていないと言うのは?」

 

『そのままの意味だ。贔屓目や才能があるからの意見ではなく、アトレはこれまで本気の意思を見せた事がない。服飾にしても、料理にしても、一定のレベルになったら其処で終わりだ。本人は才能のせいだと思い込んでいるようだが、私や大蔵衣遠、そして夫も気がついている。本気で打ち込むものが、いや、その気がないからアトレは優等生止まりなだけだ』

 

 これまで僕は、アトレには何の才能も持ちあわせていないと思っていた。本人もそう言っていたし、僕自身もそうとしか思っていなかった。

 だけど、お母様達は違った。アトレにはちゃんと才能がある。でも、その才能を発揮するほどの意欲がアトレには無かっただけ。少なくとも、お母様達はそう思っているようだ。

 

『そうでなければ、あの大蔵衣遠が幾ら私と夫の子だからと言って、お前達に様々な物を与えたりはしない。あの男はお前達には甘いが、本当に才能が無い者に手を差し伸べるほどまで甘くはない。何時かは目覚めると思っているから、大蔵衣遠はお前達に力を貸している。だから、私はアトレに言った。桜小路アトレではなく、アトレとして何か功績を出してみろとな。どうせ今年は才華は浪人しているんだから、手が空いているだろう』

 

 すみません、お母様。実はフィリア学院に入学していて、総裁殿と僕達は絶賛喧嘩中です。

 

『そう言ったら何故かアトレは焦っていたが、私は意見を変えない。もし何か意見を言いたいなら、『私が納得できる結果を見せてから言え』と言った。調理部門はフィリア・クリスマス・コレクションに関わりが無いと言っていたが、文化祭がある筈だ。その時に私は行けないが、代わりに夫が行く。予選落ちなどという結果を出したらその時点で終わりだと思え。その他にも年末のフィリア・クリスマス・コレクションの総合部門への参加や、ファッション部門のモデルの参加など、結果を出す方法なら考えれば幾らでもある』

 

 さ、流石お母様。僕が服飾部門のショーだけしか考えていなかったのに、その他にも様々な結果を出す方法を見抜いているなんて。

 本当に凄い人だ。学生時代に三着の衣装をフィリア・クリスマス・コレクションに出そうと考えたのは、伊達ではないと思い知らされた。でも、これで更にやる事が出来てしまった。

 年末のフィリア・クリスマス・コレクションで最低でも二つの部門で結果を出さないといけないのに、アトレまで何か結果を残さなければならなくなってしまった。アトレ……本当になんて事を……。

 頭を抱える僕に、お母様の怒りを抑え込んだ声が電話越しに届く。

 

『それで、お前は一体何の用で電話を掛けて来た? アトレの件では無いのだろう? まさか、お前も朝日を更に傷つけたとかではないだろうな?』

 

「い、いえ! そ、その……こ、小倉さんの服のサイズを……知りたくて」

 

『服のサイズだと?』

 

「は、はい! 迷惑をかけたので、小倉さんに服をプレゼントしようと思いまして」

 

『朝日に服を!? そ、それは女性物か!?』

 

「は、はい。そうですけど。女性の小倉さんに、男性物をプレゼントする訳にはいきませんし」

 

 アレ? 何だか電話の先で誰かが倒れるような音が聞こえたような?

 

『フフッ……』

 

「お、お母様?」

 

 急にお母様が笑い出した。何だか楽しそうな笑いだけど、一体どうしたんだろうか?

 

『そうか。朝日に服を。うん、良い心掛けだぞ。才華。それで朝日の服のサイズだが、今のサイズは私と夫も知らない』

 

「お、お父様も知らないんですか?」

 

『ああ……知らないようだ。ただ、確実に朝日のサイズを知っている相手に心当たりがある。お前も知っている私の友人である花乃宮家の瑞穂だ』

 

「瑞穂さんが? 何故ですか?」

 

『お前は知らないだろうが、瑞穂と『小倉朝日』は学生時代に立場を超えた友人でな。瑞穂が『小倉朝日』の為にデザインした衣装を、朝日が夏に着る事になっている。その衣装の製作の為に、朝日は瑞穂に自分のサイズを教えた筈だ。後で私が確認してお前にメールで送るとしよう』

 

「あ、ありがとうございます! お優しいお母様!」

 

 良かった! せめて電話した目的だけは果たせそうだ。

 ……代わりに更なる問題が僕達に降り掛かる事になったのは、今は考えないようにしよう。

 折角お母様の機嫌が良くなったんだから。でも、壱与もお母様も何で小倉さんに女性物の服をプレゼントする事に驚くんだろう?

 

『そう言えば、才華が誰かに服をプレゼントをするのは初めてだな。朝日にその事を話して、写真を撮らせて貰え。そしてその写真を私に送れ』

 

「は、はい。でも、小倉さんが写真を撮るのを許してくれるでしょうか?」

 

『事情を話せば朝日も嫌とは言えない筈だ……ああ、羞恥を感じながらも嬉しそうにする朝日の顔を思い浮かべるだけで、心が落ち着いてくる。では、才華。用は終わったか?』

 

「は、はい!」

 

『アトレの件は腹立たしいのは変わらないが、そもそもはお前達を甘やかし過ぎた私達の責任だ。だが、次は無い。もしも朝日が、いやお前達の行動で誰かが追い込まれて、取り返しのつかない事態になった時は、親子であろうと関係ない。相応の覚悟はしておけ』

 

 電話が切れた。僕は力なく電話を握ったまま手を降ろした。

 だけど、次の瞬間、喉元から何かがせり上がって来るのを感じて、トイレに飛び込んだ。

 その日……僕は生まれて初めて、喉が痛くなるまでトイレに籠もり続けた。

 

 

 

 

 あれから、アトレとは会えていない。

 電話をしても、九千代が出てしまう。アトレと代わって欲しいと言っても、僕の様子からお母様の件を知っている事がバレているのか、九千代を通して申し訳ないと言うだけだった。

 あの日の屋上で会った時に知っていればと悔やみもしたけれど、何とかアトレに会おうと今日まで頑張った。朝の早い時間に訪ねたりもしたが、どうやらアトレは僕が電話した日から、九千代と一緒に桜屋敷の方で過ごしているみたいだ。壱与と九千代が、取り敢えず話し合おうと説得を試みてくれているが、アトレはあわせる顔が無いと言うだけみたいで、僕に会おうとしない。

 ルミねえに相談しようとも考えたが、ルミねえ本人が自覚していない問題があるから、どうにも心配で相談出来ない。

 今日は八日堂朔莉のロケがある日だ。アトレが来ると言っていた。

 恐らくルミねえに怪しまれない為に来るに違いない。九千代からも、今日はアトレが向かうとメールが来たので間違いない。

 

「さて、ハニー。セットも終わったぜ」

 

「ありがとうございます、ジュニアさん」

 

 足元に散らばった髪の毛を全部集める。この髪の毛は、彼女へのお礼や交渉材料に使える代物だ。

 だから、一本たりとも無駄に出来ない。

 髪は久方ぶりに心からすっきりした気持ちになれた。だけど、個人的な感情は大変気分が暗い。

 せっかくプロ級の腕を持っているジュニア氏にセットして貰って、鏡を見れば何時もよりも二割増しで輝いているのに。心の方は大変ブルーだ。

 

「お陰で助かりました。話も聞いて貰って、少しだけ気分が良くなりました。でも、本当にお代は良いのですか?」

 

「プロになれば受けとるよ。それまでは、俺の技術を高める協力をして貰っているつもりだ。お客様は神様ってやつな。だからお代はいらない」

 

 なるほど、分からない話でもない。

 

「それと年末のショー。俺達美容師科は、服飾科のショーでヘアメイクを務めさせて貰うのが当たり前になってる。ハニーのモデルのヘアメイクは、俺が担当したいもんだ。衣装やモデルの良さが、どうしたってヘアメイクの見栄えを良くするからな」

 

 年末のショーのモデルは今のところ僕が務めるつもりだ。元々そのつもりだったし、ジュニア氏のヘアメイクアーティストの実力は学院内でも指折りだ。彼の提案は心から嬉しい。

 期せずして強力な味方を得られたのかも知れない。

 

「実はその件ですが、私は今年の年末のフィリア・クリスマス・コレクションで、最優秀賞を二つ取ることを目指しているんです」

 

「二つ!? おいおい、ハニー、ソイツは無理ってもんだぜ」

 

「いいえ、無理ではないんです。他の部門で私の作製した衣装を着てくれた方が、最優秀賞を取れば私の名も協力者として書かれますから」

 

「ああ、なるほど。そういうやり方か。確かにそれだったら、その気になれば最優秀賞を複数取る事は可能だな。分かったぜ、ハニー。つまり、他の部門でハニーの作った衣装を着た誰かのヘアメイクも俺に務めて貰いたいって訳だな?」

 

「はい。図々しいとは思いますが、ジュニアさんの腕の高さは今この場で実感させて貰いました。ですから、どうか年末のフィリア・クリスマス・コレクションへのご協力をお願い出来ませんでしょうか?」

 

「……良いぜ。ただ今後も、少なくとも学院に居る間は俺をハニーの専属ヘアメイクアーティストにして貰う事が条件だ」

 

「分かりました。ありがとうございます、ジュニアさん」

 

「良いって事さ。それにハニーの試みが上手く行ったら、俺も最優秀賞を二つ取れる訳なんだからな。それに協力しても良いって思えたんだ」

 

 良い人だ。行動も紳士的な人だし、何よりも思っていた以上に気持ちが良い。ノリも良いから、小倉朝陽としてではなく、桜小路才華として付き合ってみたかったな。

 あの大蔵家のムードメイカーと呼ばれているアンソニーさんの息子とは思えないほどに、しっかりした人だし。

 

「じゃ、またな。何時でも声かけてくれよハニー!」

 

「今日は本当にありがとうございました。また髪のケアが必要な時にはご連絡します」

 

「……ああ、そうだ。ハニー。一つだけ大瑛君の事で思い出した。俺の親父が大瑛君に会いに行けない事を嘆いていたんだ」

 

「えっ?」

 

 会いに行けない? どういう事だろうか?

 山県先輩と会う事なんて簡単じゃないか。彼の保護者はアンソニーさんの実の兄の駿我さんなんだから。

 

「詳しい事は話してくれなかったが、兄弟なのに何で会わないんだと聞いてみたら、『俺が会いに行けば、兄上にも彼にも迷惑が掛かる』って訳の分からない事を言っていたぜ」

 

「迷惑がかかるですか? 山県先輩と大蔵駿我さんに?」

 

 どういう事だろうか?

 と言うよりも、あのアンソニーさんが会いに行かない? あの人は大蔵家のムードメイカーと呼ばれるだけあって、行動力だけは大蔵家内で一番だ。思い至ったら吉日と言わんばかりに、すぐに行動する人だ。

 急に家に来たから一体どうしたのかと思っていると、お父様に会いたくなったから来たと笑いながら言って、お母様を呆れさせた事も何度もあった。

 ただ行動力は凄いんだけど、余り深く物事を考える人じゃないから、伯父様は呆れているし、総裁殿はアホだと断言していた。

 その人でさえも山県先輩に会うのを躊躇っている。しかも自分にじゃなくて、山県先輩と駿我さんに迷惑が掛かるからなんて、本当に一体何が彼にはあるのだろう?

 

「まあ、俺は大蔵家の事情なんて関係ないから、大瑛君とは今後とも仲良くしていくつもりだ」

 

「教えてくれてありがとうございました」

 

「なに、これでハニーのストレスが減るなら安いもんだ。ハニー、早めに問題は解決した方が良いぜ。でないと、せっかくの素敵な髪が駄目になっちまうからな」

 

 最後は真剣な顔をしてジュニア氏は忠告をすると、そのまますぐに去って行った。

 どうやらこの後も予定があるらしい。余裕があれば昼食ぐらいはごちそうしようと思っていたのに。

 勿論、僕は食べない。今も胃がムカムカして、食べたら吐きそうだ。

 時間を確認してみると、正午近く。八日堂朔莉の撮影が始まる時間だ。彼女への手土産にカットした髪もある。

 何よりもアトレが来る筈だ。来なかったら、日傘を差して桜屋敷に行くと脅す覚悟も決めた。

 アトレへメールを送って、僕は部屋から出た。

 外に居た飯川さんと長さんに来てくれた事のお礼を言って、僕は桜の園への帰路についた。




『才華との電話が終わった後の桜小路家』

「フフッ、夫、聞いての通り、才華は朝日に女性物の服をプレゼントするそうだぞ」

「や、止めてよ、ルナ。凄い複雑な気分なんだから」

「ええ、正直言って渡された小倉さんも凄い困るでしょうね」

「困った朝日の写真も送られて来たら、私は嬉しいぞ、八千代」

「本当に止めてよ、ルナ。写真だけは本当に」

「嫌だ……それよりもアトレの方だ」

「……まさか、こんな事になってしまうとは思っても見ませんでした。桜小路家の世間体を考えてアトレ様の事は時間を置くと言う事にしていましたが」

「ごめん。もっとアトレの事を注意しておくべきだった。アメリカの学院で通っていても大丈夫そうだったから、安心していたけれど」

「根本的には治っていなかった。それが選りにも選って、朝日に爆発してしまうとは」

『……』

「朝日には大蔵衣遠を経由して謝罪の意思を伝えた。私達が連絡すれば、寧ろ朝日を傷つけるだけだ。何れは、直接あって謝罪しよう。私は部屋に戻る」

「僕も……仕事に戻るよ。み、瑞穂さんへの連絡はお願い」

「私も戻ります」

「ああ……それにしても才華のあの反応。朝日が叱ったのは、本当に大蔵ルミネの件なのか? 他に叱った理由があるとすれば、一体何を才華は、いや才華達はしたんだ」
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