月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
エイプリルフールでの投稿の為に、番外編を先に投稿させて頂きました。
その為に2回目のアンケートを行ないます。出来ればお答えして下さい。
秋ウサギ様、エーテルはりねずみ様、烏瑠様、誤字報告ありがとうございました!
side才華
「さて、話を聞かせて貰おうか」
「……はい」
桜屋敷の応接室に移動した僕は、椅子に悠然と座る桜小路ルナさんに見下ろされていた。
背なら僕の方が高いんだけど、今は床に正座している。自然とそうしていた。いやだって……ルナさんは明らかに不機嫌だ。その証拠に、腰の辺りにスポンジ弾入りの銃が置かれているからね。
その態度とお母様の怒りを知っている僕からすれば、こうする以外に選択肢はなかった。
悠然と椅子に座る、ルナさんの姿は綺麗だ。世界は違っても僕が敬愛し、信仰している御方なのには変わりはない。正座する僕の背後には八千代と壱与が立っている。
因みに正座しているのは指示されたからじゃなくて、自主的だ。だって……。
『……』
明らかにルナさんと八千代が不機嫌なんだもん。
特に八千代は、フィリア・クリスマス・コレクション後に受けた説教を思い出させるぐらいに怖い。
僕、アトレ、九千代、壱与、そしてあの人も叱られた。二度と八千代の事は怒らせないと誓ったよ。
あの時と同じぐらい怖いオーラを発する八千代に戦々恐々としていると、ルナさんが話しかけて来る。
「先ずは……そうだな。一応自己紹介をしておこう。この桜屋敷の主である桜小路ルナだ。それとお前の背後に立つ二人の女性は、メイド長の山吹八千代とその部下の八十島壱与だ」
はい、良く知っています。
自己紹介を終えたルナさんは、顎で僕に促した。
此処で女装時の名前である『小倉朝陽』を名乗ったら、間違いなく僕の眉間にスポンジ弾が叩き込まれるに違いない。なので、此処は普通に名乗ろう。
「さ、桜小路才華です」
「……はぁー……これが別世界の私と朝日のあれか……全くもって情を感じない。寧ろ腹立たしさしか感じない。今すぐにでもこの銃を撃ちたいが、素直に名乗った事で我慢するとしよう。それで桜小路毘沙門天」
「才華です!」
そのキラキラネームで呼ばないで欲しい!
伯父様が言うには、僕の名前候補だったらしいから。背後にいる八千代も噴き出しているよ。
「あ、あのルナ様。毘沙門天と言うのは?」
「このあれを見ていたらフッと頭に浮かんだ。うん、桜小路毘沙門天。良い名前じゃないか。誰が名付けた名前かは知らないが、才華と言う名前よりもずっと良い。よし。八千代。明日、この屋敷にいる皆にこのあれの事は桜小路毘沙門天と呼ぶように……」
「才華と呼ぶように言います」
あ、ありがとうおおおおーー! こっちの八千代! 本当にありがとおおおーーう!
キラキラネームで毎回呼ばれるなんて、僕の精神が耐えられない! 貴女はたった今、一人の人間の精神を救うという尊い偉業を為し得ました。
貴女が天使に。いえ、神に見えます! ゴッド・八千代!
「うぅ、ありがとうございます……ありがとうございます」
「袖を掴まれたら困ります……はぁ、何処かで似たような事がありましたね。本当にあの人と同じ血が繋がっているという事でしょうか」
「朝日の方がずっと可愛げがある。寧ろ何でこんな生意気そうで捻くれた顔をしているんだ……教育の仕方を間違えたんじゃないか? 親の顔が、待て八千代。壱与に鏡を持って来るように言うな。分かった。毘沙門天とは呼ばない。これで良いんだろう?」
……間違いなく目の前にいる人は、僕のお母様と同一人物だ。とんでもないネーミングセンスは、世界が違っても変わらないのですね。
……敬愛するお母様だけど、其処だけは変わっていて欲しかったかも。
「さて、先ほども廊下で言ったが、朝日は今はどうしている? まさかと思うが……自らの命を絶っていたりはしないだろうな?」
質問したルナさんの声音と瞳には、ハッキリと不安と心配が宿っていた。
……此処までの話から推測すると……どのような手段なのか不明だがルナさん達は何らかの方法で僕達の世界を見ていた。荒唐無稽な話にしか思えないが、僕は既にあの人という荒唐無稽な人物と深い交流を持ってしまっているので驚きは少ない。
それにこの世界は、本来あの人がいた世界だ。それを踏まえれば、此方側でも荒唐無稽な出来事が起きていても可笑しくない。おっと、今は考察よりもルナさんの質問に答えないと。
「大丈夫です! あの人は今は日本にこそいませんが、マンチェスターにある彼方の祖母のお墓参りに行っています」
「……そうか……良かった」
心から安堵した笑みをルナさんは浮かべた。
その笑みの美しさに見惚れそうになるが、流石に見惚れている場合ではないので我慢する。
「それにしても先ほどから朝日の事を、あの人と呼んでいるが、何故名前で呼ばない?」
「そ、それは……色々と複雑な心境がありまして」
あの人の正体を知って受け入れたとはいえ、女性だと思っていたあの人がまさか男性で……しかもその正体は……若き日のお父様と同一人物。
知った時は、あの夜以上の衝撃を受けた。いや、ほんとに。またも人生観が変わってしまいかねなかった。その時に好意を持っている女性がいなかったら……僕はきっととんでもない答えに至ってたかも知れない。男性同士の恋愛はノーの価値観のままでいたい。
学院が冬期休暇の間には心情を整理して、以前のように名前で呼べるようになるつもりだったけど、まさか、こんな出来事に巻き込まれるなんて。
「……なるほど。朝日の正体を知った訳か。まあ、その点は気持ちが分からないでもない。私も八千代から朝日が実は男性だと聞いた時は、人生の中で最大に近い衝撃を受けたからな……言葉を失う程だったが、最後には笑っていた」
「笑っていた?」
「そうだ。朝日との日々。日常や学院での生活の中で、朝日が驚いたり、困っていたり、あれもこれも全て理由があったんだと気付いて思い返すと、いっそ笑いが出てしまう程に楽しかった」
「……」
ルナさんの言葉には嘘はないだろう。
この場にあの人がいない事が悔やまれてならない。ルナさんに許されない事をしてしまった事を、あの人は深く悔やんでいたんだから。
短い間しか一緒に過ごしていないにも関わらず、此処まで共に過ごした日々を楽しかったと思って貰えるなんて……やっぱりあの人は凄い。
「で、そんな日々を与えてくれた朝日を、お前は傷つけて悲しませた訳だが」
「申し訳ありません!」
「謝ったところで許しはしない……と言いたいところだが……傷つけられた朝日本人がお前を許した時点で、既に部外者でしかない私が何か言う事は出来ない……だが、個人的な感情としてお前には一切の好意を持つつもりはない」
……つまり、嫌いという事か。
いや、仕方がない。僕があの人にした事は、一般的に言わなくても最悪な事だし。しかも事前にあの人の事情を知っていたのに、本人の目の前で提案してしまったんだから。
似たような事をされたら僕も怒る。ルミねえも九千代も、流石にフォロー出来ないって言っていたしね。
でも、凄く辛い。お母様と同一人物に明確ではないけど、嫌いって言われたんだもん。泣きそう。
「……あ、あの一応お聞きしますが、どのぐらい僕の事は嫌いですか?」
桜小路本家並みに嫌いだって言われたら、最悪だ。どうやっても関係修復不可能だから。
「そうだな……あの元学院長代理並みだ」
「元学院長代理?」
それって……この時期だと……伯父様!?
「お、伯父様……いえ、大蔵衣遠さんの事がお嫌いなのですか?」
僕の世界だと、それなりに仲が良いのに。
……あっ、でも、あの人の一件から仲が悪くなってしまった。お父様が言うには、かなり敵対心むき出しらしい。一時的なものだと良いんだけど。
「好意に値するような事を目の当たりにしていないのに、お前は好感を抱けるか? 寧ろ嫌うような事しか私は目にしていないぞ、あの男には」
伯父様。……貴方は過去に何をやらかしたんでしょうか?
「あの……興味があるので、具体的に伯父様が何をしたのかお聞きしたいのですが?」
「……良いだろう。私からすれば信じ難い事に、お前はあの大蔵衣遠をかなり慕っているようだからなあ」
「正直信じられませんね。あの大蔵君が、幾ら甥だからと言って高層マンションをあっさり譲り渡したり、世界に50台しかない車をプレゼントするなんて……直接見たりしたら、天変地異の前触れではないかと思います」
……僕からすれば伯父様なら当然だと思えるけど、この時期からすれば伯父様の僕やアトレに対する行いは、天変地異の前触れだと思われてしまうぐらいに信じられない行動のようだ。
ま、まあ、僕も桜の園をあっさり渡された時は内心で重度の甥姪コンぶりに驚いていたし。人は変われば変わるものだという事か。だから、僕だって伯父様が豹変した時の恐怖が忘れられないんだから。
しかし、これは良い機会だ。
お父様の過去話は伯父様から教えて貰ったが、和解する前に伯父様がお父様に何をしたのかは詳しく教えて貰えなかった。とは言っても、お父様との仲良しぶりや、あの人に対する行動を考えるとそんなに酷い事はしていないに決まって……。
「先ず元学院長代理の顔を知った時の事を話そう。フィリア女学院で入学式の時期に語られる一件。『公開処刑入学式』が、私が元学院長代理の顔を直接見た時だ」
……な、何か今変な事を言われなかっただろうか?
世界を渡ったせいで……僕の耳が可笑しくなったかな? 耳の穴に指を入れるのは美しくないのでしないけど、取り敢えず尋ねてみよう。うん。
「あ、あの……今変な事を言いませんでしたか? 『公開処刑入学式』とか?」
「その通りだ。あの入学式は朝日の事情を知った今では、そう表現するしかない」
「本当に酷かったですからね。一緒に壇上に立っていた創設者のスタンレーのフォローと、大蔵君の立場が無ければ、保護者からの非難殺到でしたでしょうから……二人とも非常識なのには変わりないけど」
「ぐ、具体的に伯父様はどんな事を?」
「スタンレーと元学院長代理が壇上に上がって祝辞を述べるところで、元学院長代理が挨拶をしようとした時、一部の女生徒から歓声が上がった」
若き日の伯父様の容姿なら仕方がない。僕がフィリア学院で経験した入学式でも、総学院長が壇上に上がったら歓声が上がっていたしね。
若くてかっこいい伯父様が壇上に立ったら僕も歓声を上げるかも!
「即座に元学院長代理は歓声を上げた女生徒達を退学だと告げ、ホールから出て行けとも言った」
………はっ?
「次に私達通っている生徒にはスタンレーは全く期待していないと言った。この時点で入学式に参加していた生徒全員が言葉を失っていたぞ」
「教員席から生徒達の様子を見ていましたが、中には泣きそうな顔をしていた生徒もいましたね」
…………何それ?
「次にスタンレーは日本人には期待していない。なら、何故日本校を設立したかの話では、自分がスタンレーの掛け替えのない親友だからと告げ、自分だけが日本人の中で唯一日本人でスタンレーに認められていると宣言した」
……………僕ならそんな入学式を経験したら引き篭もりそう。
「次の教育方針の話では、一年目で才能ある者と無い者を篩い分けると堂々と告げられた。因みに才能が無い者が通う教室の事を豚小屋と言い、その教室から残り二年間出て来るなと言っていたぞ。言うまでもなく、この時点で教師も含めた会場にいた全員がどん引きだ」
………………僕もどん引きです、この世界の伯父様。若い頃の伯父様の苛烈さは、想像以上でした。
「そして此処からが『公開処刑入学式』の本番だ」
「ま、まだ続くんですか?」
正直言って、もうお腹一杯なんだけど。
でも、ルナさんは話を止めるつもりはなかった。
「続けるに決まっている。元学院長代理は、その入学式である人物の話を持ち出して来た」
「そ、それは誰ですか?」
「お前も良く知っている相手。朝日……いや、敢えてこの場では本名の方を呼ぼう。『大蔵遊星』の話題だ」
ほっ。少し安堵した。
世界は違っても伯父様がお父様やあの人を悪く言う訳が無い。現にお父様とは血は繋がっていなくても、とても仲良しだし。あの人にも形は違うけど、愛情を間違いなく注いでいる。
そんな伯父様が入学式の場で、お父様やあの人の事を悪く言うはずが……。
「先ずあの男は朝日の事を、『凡俗の屑』と表現して話題を出して来た」
………はい? 『凡俗の屑』? 誰が? あの人が!?
「そんな筈がある訳ない! あの人が製作した衣装は、本当に素晴らしい衣装でした! そんな才能が溢れる人を『才能至上主義』の伯父様がそんな風に言うなんて!?」
「ある訳がないか? 残念だが、事実だ。あの男は朝日の才能に気が付けなかった」
「ですから、そんなことある……はず……が……」
否定しようとしたところで、僕の脳裏に一つの事実が過ぎった。
あの人の可笑しいと感じる自分への自信の無さ。もしもその原因の一つに伯父様が関わっているのだとしたら。
「元学院長代理は、朝日の才能を見逃した。これは揺るがない事実だ。あの男は朝日の型紙の才能を見逃し、結果屑だと判断して服飾の勉強を取り上げたそうだ。その後は自分の仕事の雑用をやらせたり、りそなの使用人をやらせていた。これはりそな本人からも証言を貰っている」
「本気で言ってるとしか思えませんでしたものね。叱咤激励だとしても、度が過ぎていました」
……ルナさんと八千代の言を否定したいのに、否定できる材料が僕にはなかった。
此処に来る直前に伯父様からお父様に対する大蔵家の扱いを教えて貰っていたから。
伯父様……僕が伯父様の事を大好きなのには変わりませんけど……これはフォローし切れません。
「当時はあの男の言動に脅えているだけだと思っていたが、りそなから朝日に対する扱いの話を聞き終えた後では、『公開処刑入学式』としか表現出来ない。尤も、その朝日を私が慰めたら毅然とした面持ちに戻ったがな」
流石はルナさん!
僕ならそんな入学式を経験したら、挫折してしまいそうです。
……そう言えば、あの人。フィリア学院の入学式の時は、やけに嬉しそうにしていたなあ。あれはまともな入学式を経験出来て嬉しかったという事だったのか。
うん。今ならその気持ちが分かります。
「さて、これで入学式の話は終わりだ。それで……そんな事を初対面でやられた私が、あの男に好感を持てると思うか?」
全力で首を横に振った。
無理です。伯父様の事を良く知っているならともかく、初対面でそんな事をされたら好感なんて持てる筈が無い。寧ろ嫌いになるに決まってますよ、伯父様。
い、いや、待て! あくまでこっちの世界の伯父様がした事だ。僕の世界の伯父様が同じことをしたとは限らないじゃないか。あの人の入学式での喜びようも、ただ久しぶりの入学式で喜んでいただけかも知れない。
「それと言い忘れたが、りそなの話では朝日は基本的に自宅に家庭教師を呼ばれて習い事をさせられていたそうだ。人の事は余り言えないが、人生初めての入学式があの入学式だったことに関しては本気で同情するぞ」
……………本当に酷い扱いだったんですね、お父様とあの人は。
うぅ……また、お腹がキリキリして来た。だけど、ルナさんは僕の様子になど気にせずに話を進める。
「さて、お前の質問には答えた訳だが……」
「ルナ様。そろそろお話はお止めしましょう。流石にこれ以上の夜更かしは認められません」
「……はあー、確かにもう夜も遅いか。だが、その前に最後に重要な質問だけはしたい。良いか、八千代?」
「分かりました。では、次が最後の質問という事でお願いします」
……二人のやり取りを聞いていた僕は、内心で戦々恐々とした。
どんな質問か大体分かる。でも……その質問に答えたらどうなるかなんて、考えるまでもない。
いやだって……この状況でルナさんがして来る質問なんて……一つしかないよね。
……その質問がどれだけ重要な事なのかは分かるけど……本当に答え難いよ。だって……。
「どうやってお前はこっちに来た?」
来てしまった! 重要なのは分かっている! だけど、これ以上に無いほどに答え難いし、答えられない質問はないよ!
でも、答えないと……ルナさんの腕の中にある銃を向けられかねない。……答えても向けられそうだけど。
「え、えーと……その、答えるのは構いません。でも、どうか、落ち着いて聞いて下さい。本当に落ち着いて」
「……分かった。既に朝日に起きた出来事やこの屋敷で起きていた事を考えれば、どんな荒唐無稽な話を聞いても驚いたり怒ったりはしない」
「じゃ、じゃあお答えします……僕は此方に来る直前に……階段の手前に落ちていたバナナの皮に滑って階段を転げ落ちたら、こっちに来てました!」
発砲音が鳴り響き、僕の顔の横をスポンジ弾が通り過ぎた。冷や汗で背中がびっしょりだ。
「フフッ、随分とふざけた事を言ってくれるな。そうか。真面目に答えるつもりはないという事か。私は本来体罰は大嫌いだ。人を暴力で屈服させるなど吐き気がする」
……怖い。ルナさんは笑いながら次弾を銃に装填している。
言っている事とやっている行動が違います。
「だが、お前に対してだけは別だ。沸々と怒りがこみあげて来て、発散したくて仕方がない。今、この銃の引き金に掛かっている指は、途轍もなく軽い。もう一度チャンスをやろう。お前はどうやって此処にやって来た?」
「う。嘘じゃありません! 本当に! 本当に! 階段の手前でバナナの皮に滑って、気が付いたら此処に居たんです!」
「ふざけるな!! そんなふざけた方法で世界が渡れるなら! 何故朝日は帰ってこれない! どれだけ私達が朝日を此方側で探したと思っている! 苦悩の末に何時命を絶ってしまわないか心配する日々を過ごしたと思う……一言だけでも言葉を届けたいと願ったと思う……何故……朝日は……あんな目にあった……」
……僕と同じ緋色の瞳に涙をルナさんは浮かべていた。
「……朝日が私にした事は世間的には許されない事だろう……八千代が私の為を思ってしてくれた事も納得出来た……だが、それでも……朝日と過ごした日々は私にとって幸せな日々だった。誰がなんと言おうと、私は朝日のような人間に仕えて貰った事を誇りに思う」
ルナさんは僕に背を向けた。
その背は僕が良く知っているお母様の背に似ているのに……何処か悲しそうだった。
「八千代との約束通り、今夜の質問は終わりだ。壱与。そいつをあの部屋に連れて行って今夜は休ませろ」
「宜しいのですか? 今夜はあの部屋でお休みになられるのでは?」
「構わない。あの部屋は私が寝ても構わないようにされているから、同じ体質のそいつも安心して休める。何かあればすぐ近くに部屋がある壱与がいる。八千代。私は自分の部屋で休む」
「すぐに準備をいたします。壱与。その方をご案内して差し上げて」
「かしこまりました。では、才華様。此方にどうぞ」
壱与に促されて、僕は応接室の入口に歩いて行く。
最後にルナさんの方に振り向いて、深々と頭を下げた。
「本当に……申し訳ありませんでした」
ルナさんは返事をしてくれなかった。振り返ってもくれず、無言の背がさっさと行けと言っているようだ。
これがこっちの世界の人達と僕の距離。そう思うと……少し悲しかった。
「お部屋の方は此方になります」
「ありがとう、壱与」
案内された部屋の場所はダイニングの奥にある小さな使用人部屋。
伯父様が教えてくれたが、お父様は学生時代はこの部屋で過ごしていたそうだ。……僕と同じで女装して。
まさか、この部屋で寝泊まりする日が来るなんて夢にも思っていなかった。だけど……ベッド大きくない?
「随分と大きなベッドが置かれているね? 僕の方だと一人用のベッドが置かれているのに、こっちだと三人は余裕で眠れそうだ」
小さな部屋なのに、大きなベッドが違和感を放っている。
何でこんな大きなベットを?
疑問に思っていたら、壱与が神妙な顔をして話しかけて来た。
「才華様の疑問はご尤もですね。確かにこの部屋に、このサイズのベッドが置かれるのは本来はない事でしょう。ですが、このサイズのベッドがどうしても必要だったのです」
「良ければ教えて貰えるかな?」
「はい。実は数ヶ月ほど前まで、この部屋では不可思議な事が起きていました。夢を見るんです」
「夢?」
夢ぐらいで何をと思わないでもないが、壱与は不可思議な事と言っていた。つまり、ただの夢じゃないという事に違いない。
「その夢は本当に不思議な夢でした。夢なのに、何故かハッキリと起きた後も内容を覚えているのです。例えば私が見た夢では、高層マンションのコンシェルジュと桜屋敷の管理を行なっている自分を見ていました」
「それって!?」
「お気づきになられたようですね。この部屋で見る事が出来ていた夢。それは才華様の世界の私達を見る事が出来ていたのです」
驚きで言葉が出なかった。
手段は分からないが、ルナさんが僕の世界の出来事を見聞きしていたのは分かっていたが、まさか夢という形で見ていたなんて。
……バナナの皮に滑って階段から転げ落ちて世界を渡った僕の話よりも、ずっと信用出来る。うん。
「ですが、先ほども申しましたが、もうこの部屋でそのような出来事は起こらなくなりました」
「……何時頃から見られなくなったの?」
「大体7月の中旬頃だったと思います」
7月の中旬か。その時期はあの人がまだ精神的に不安定だった頃だ。
アトレの衣装を製作し終えてクアルツ賞も取ったけど、今思えばかなり精神が揺らいでいた。ルナさん達が心配になるのも無理はない。
その上、急に見えなくなったんだから、不安の度合いはかなり高い筈だ。
……そう言えば、ルナさんは2階にある私室じゃなくて、一階にいた。
改めてベッドを見てみると、きちんとベッドメイクされているし、僕やルナさんのような体質でも安全に眠れるように厚手のカーテンが窓に掛けられている。
状況から考えると、ルナさんはこの部屋で寝ようとしていた。もう一度僕達の世界を見て、無事なあの人の姿を確認する為に。
「……本当に、どうしてこんな事が起きるんだろう」
あの人と出会えた事に後悔はない。
それは正体を知った時は、人生二度目の最大の衝撃を受けたが、その事を抜きにしてもあの人のおかげで僕は成長する事が出来た。伯父様にだって認めて貰えたし、お父様への反抗期を終える事も出来た。
他にも沢山助けられた。
……だけど、こっちの世界では別だ。あの人がいなくなった世界。
明日……僕はそれを知る事になる。一体何が待っているのか。……正直言って不安しかない。
伯父様が言っていた。お父様なくして、僕らの世界の大蔵家はなかったと。
「私はそろそろ部屋を出ますが、お着替えの方はいかがしましょうか?」
……すっかり忘れてた。
僕は着の身着のままに此方に来てしまったから、着替えなんてある訳がない。今着ている自作のメイド服だけが僕の服だ。
「……と、取り敢えず、今日はこのまま寝るよ。お風呂に関しては一度入ったから大丈夫だから」
服に皺が付いてしまうが仕方がない。
男性物の服なんて、この桜屋敷にあると思えないしね。
壱与は安堵の息を深く吐いた。
「それを聞いて安心いたしました。これは大切な事なので良くお聞き下さい。私が部屋を出た後は、この部屋の鍵を必ずかけて、私かメイド長がお声を掛けるまで部屋を開けてはいけません。正直申しまして、このお屋敷の中は才華様にとって危険です」
「ル、ルナさんの件で良く分かったよ」
「いえ、それ以上に危険な方々がいます」
「えええぇっ!?」
ルナさん以上に僕に危険な相手って一体誰!?
いや、待て。今更だが、ルナさんはまだフィリア学院に通っているんだろうか?
「壱与。もしかしてルナさんはまだ学生なの?」
「はい。フィリア女学院3年生。今年の3月でルナ様はフィリア女学院をご卒業されます」
……最悪だ!
ルナさんがまだ学生……その時期には桜屋敷でユルシュールさん、湊さん、そして……瑞穂さんが暮らしていた。
その上、学生時代の瑞穂さんはかなりの男性恐怖症だったそうだ。お父様が学生時代に桜屋敷で女装していたのは、瑞穂さんの男性恐怖症を治す為でもあったらしい。……本当にそうなのかは分からないけどね。
だけど、此方には瑞穂さんの男性恐怖症を治す事に一役買うはずのあの人がいない。つまり……瑞穂さんは男性恐怖症のまま。
思い出すのは、フィリア・クリスマス・コレクション後にあった瑞穂さんとの会話。
お父様に出会う前の自分だったら、心底僕の事が嫌いになっていたそうだ。同様に従者の北斗さんも、僕の事を嫌うとハッキリと言われた。
そんな時期の瑞穂さんや北斗さんに出会ってしまったら、僕がどうなるかなんて明白だ。
ボコボコに殴られるだけでは済まないかも知れない。
……壱与の指示には従おう。
「う、うん。充分に分かった。壱与か八千代が呼びに来るまでは、絶対に部屋を開けないよ」
「声も出さないようにお願いします。それではまた明日。いよいよ失礼いたします」
壱与が部屋を出て行くと共にどっと疲れが湧き出て僕はベッドに倒れた。
「プハァー……何で……こんな事に?」
どうしてあの人じゃなくて、僕がこっちに来てしまったんだろう?
いや、それよりも、元の世界に戻れるかも心配だ! あの人という前例があるだけに、もしかしたらこっちの世界に永住してしまうかも知れない。
そうなったら……針の筵じゃ済まない視線を向けられ続けるかも知れない。
「……寧ろ追い出されるかも」
この屋敷の主である、ルナさんは、あの人と違って僕に全く好意を持っていない。
と言うよりも、元の世界のお母様の大蔵家以外の親戚事情を考えると、ルナさんが親戚に好意を持つ筈が無い。
桜小路本家との付き合いだって、今思えばお父様がいたからこその辛うじて付きあっていたに過ぎない。
それに……。
「ルナさんがまだ学生なら、伯父様はフィリア学院の学院長をしている筈だ。なのに……」
ルナさんは元学院長代理と言っていた。
つまり、もう此方の伯父様はフィリア学院の学院長をしていない。
「僕が知る事実と大きく乖離している。いや、それよりも何よりも……どうやってもこっちじゃ僕やアトレが生まれないじゃないか!」
片親がいないんだから、その子供である僕とアトレが生まれる筈が無い。
……凄いショックだ。お父様とお母様の子である事を誇りに思っている僕にとって。
「……考える事が多すぎるよ」
それは……あの人がいなくなった後のこっちの事が気になっていたよ。
でも、まさか、直接来る事になるなんて……ん?
「もしかして……僕がこっちに来たのは、こっちの事を知りたいと願ったから?」
だとしたら、此方の事を詳しく知れば帰れるかも知れない!
あくまで可能性に過ぎないけど、可能性があるならやるべきだ。
「明日の朝からやる事は決まった……不安しかないよ」
何もしないよりはマシだけどさ。……難易度が高過ぎるよ。
「……とにかく今日はもう休もう」
明日は間違いなく……修羅場になるだろうから。
因みに才華は気がついていませんが、朝日世界のルナ様の衣遠に対する好感度は桜小路本家並みに悪いです。
衣遠の事情は把握していますが……朝日がいないのでどうやっても上がりません。
後書いていて思ったのですが……衣遠の原作での行ないを書くと、『アンチ・ヘイト』になってしまわないかとかなり心配しました。だって……どうやっても入学式での出来事を好意的に書けないので。