月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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今回の話で、原作のルートの一つが消失します。
どのルートが消失したのかは本編で。

笹ノ葉様、ちよ祖父様、烏瑠様、秋ウサギ様、lukoa様、dist様、誤字報告ありがとうございました!


五月上旬(才華side)2

side才華

 

 フィリア学院と桜の園を繋ぐ地下通路を通って、八日堂朔莉が言っていたロケの現場に着いた。

 八日堂朔莉の映画の撮影も気になるが、今日此処に来た一番の目的はアトレと会う事だ。

 ただ今日この場所には芸能関係者がいる。そんな場所にこの目、この肌、この髪の色のまま赴いてしまうと、興味を持たれてしまうかも知れない。

 僕は年末のフィリア・クリスマス・コレクション以外で、多くの人の目に付く場所で顔出しをするつもりはない。なので事前に用意していたウィッグとカラーコンタクトを付ける。

 今回、ウィッグを付けるのはアトレと円滑に話をする為なので、お母様の否定には繋がらないから抵抗はない。

 さて、撮影の方は……。

 

「何だか人が多いような?」

 

 映画の撮影となれば完全封鎖するものかと思っていたら、意外と普通に人が歩いている。アメリカに居た頃に直で映画の撮影現場を見た訳ではないけれど、其処はアメリカと日本とのお国柄の違いか。

 だけど、そうだとしてもやけに人が多い。撮影現場の一角で大勢の人だかりが出来ている。ルミねえ、エスト、アトレは一番先頭に居るのだろうか?

 

「若」

 

「九千代?」

 

 呼ばれて顔を向けてみると、私服姿の九千代が立っていた。

 

「どうして此処に? もしかしてアトレも?」

 

「いいえ、アトレお嬢様は、あの人だかりの先頭にルミネお嬢様とエストさんと居るんです。私はその事をお伝えする為に此方に残りました」

 

「じゃあ、アトレが来ているのは間違いないんだね」

 

「はい」

 

 良かった。流石に僕が日傘を差して桜屋敷に行くという警告は、今のアトレにも通じたようだ。

 だけど、どうしよう? 先頭に向かおうにも、こんなに人だかりが出来ているなんて。

 

「それにしても、随分と人が多いよね」

 

「あっ、それなんですが。アトレお嬢様が、学友の皆さんに今日八日堂様の映画の撮影があるのを教えられたんです。八日堂様は世界的な女優ですから、ぜひ撮影現場を見たいと皆様がやって来てしまって」

 

「……やってくれたね、アトレ」

 

 其処まで今は僕と顔を合わせたくないか。

 だけど、残念だったね。こっちだって何の策も無い訳じゃないんだ。

 

「どうされます、若? 撮影が終わるまで待ちますか」

 

「いや、今のアトレだと人混みに紛れてそのまま逃げそうだ。ルミねえやエストには頼めない。なら、僕が撮影現場の先頭の方に行く方が確実だよ」

 

「ですが、あの人だかりの中を進むのは危ないのではないでしょうか?」

 

「大丈夫。ちゃんと方法は考えているから」

 

 僕は携帯を取り出して、八日堂朔莉のアドレスにメールを送る。

 

『散髪が終わって見学に来たのですが、見えなくて悲しいです』

 

 撮影の合間の休憩中だったのか、速攻で返事が来た。

 

『エキストラで出演しない? 後、散髪して切った髪を貰って良いかしら?』

 

 ……返事に悩むメールが来た。

 だけど、確かにエキストラとして出演するなら、スタッフの人に案内されて撮影現場に行く事が出来る。

 

『この見た目なので、画面に映るのは困ります。でも、ウィッグとカラーコンタクトを付けていても構わないのならお受けします。髪はお土産に持って来ました』

 

「おほおおぉぉぉおおおお!!!」

 

 メールでの返事を待つまでもなかった。

 何せ人だかりの中心から絶叫が聞こえたから。とにかく、これでアトレが居る撮影現場の前に行ける。

 だけど撮影の内容がキスシーンだとは聞いてなかった。

 

「こんな役得が回ってくるだなんて……ルミネさんを見学に誘って良かった」

 

「その、ルミネお嬢様が顔を真っ赤に染めて射殺さんばかりに見ているのですが」

 

 その隣で、エストが意地悪そうに僕を見ているよ。

 ……ただ、何でエストは自分の唇に手を当てているかな? アレはキスじゃないと何度も言っているだろう。

 そして僕が一番会いたかった相手であるアトレは……。

 

「……」

 

 申し訳なさに満ちた顔をして、学友と思われる女生徒達と共に僕を見ていた。

 

「アトレさん? どうしたの?」

 

「い、いえ! 何でもありません! まさか、お姉様が映画に出演されるなんて思っても見なくて。あの方が私のお慕いする人で……えっ。皆さんも憧れる? きゃあ滅法素敵! お姉様への愛は平等に共有し、与えられる愛も平等に分かち合いましょう。これぞ慈悲喜捨、四無量心」

 

 仲良さそうに周囲のパティシェ科に所属していると思わしき女生徒とアトレは会話している。

 もしも先ほど一瞬見た顔とお母様との一件が無ければ、アトレの内心に気が付けなかったと思うほどに演技が上手い。

 

「アトレさんも素人なりに演技が上手いわよね」

 

 尤も、流石に世界的女優である彼女を騙せるほどの演技ではないようだが。

 

「あの、明らかに台詞ではない言葉を喋っていいのですか?」

 

「まだ始まってないから。このまま永遠に始まらなくてもいいくらい」

 

「此処に案内していただいて助かりましたが、一応聞いておきます。もしかして仕組まれました?」

 

「や、助けて欲しいのは本当。朝陽さんの役をする予定だった女の子が、まだ沖縄に居て。大雨で飛行機が飛ばないんだって。でも道路の使用許可が下りてる日時は変えられないから。その子はこれだけのシーンだし、スタッフが代役をする予定だったのだけど、それなら駄目元でお願いしようと思ったの。げひひひ」

 

「女優として致命的な笑い声が聞こえますが大丈夫ですか」

 

「だ、だって、こんな夢にまで見たひちゅっ。シチュエーション。何度頭の中でしびゅっ。シミュレーションしたことか。現実を前にしてえじゃぎゅっ。エジャキュレーションを迎えそう」

 

 興奮で噛みまくりなのだけれど、これで台詞喋れるのかこの有名女優。

 先頭に来られたのは感謝するが、本当にこの後に始まる本番で失敗しないで済むのだろうか?

 

「ただ一つだけの予想外があったのは、シチュエーションと違って、貴方が全然元気じゃないところね」

 

 ……狙ってやっているのだろうか、彼女は?

 

「それで今度は何があったの?」

 

「……相談に乗ってくれますか?」

 

「撮影が終わった後なら。だから、元気を少し出して欲しいの。気持ちの良い環境の方が、良い演技できるじゃない? 今は映画の事だけを考えて、私利私欲はないつもり! だから、朝陽さんには心から感謝して、欲望なんて一欠けらも持っていないつもり!」

 

 『つもり』という日本語を正しく使っているつもりか。今の八日堂朔莉から私利私欲を除いたら骨と皮しか残らない。

 ……それでも、こんなに変態だとしても僕が相談できる数少ない人物だ。まさか、彼女が此処まで頼りになるとは出会った時は夢にも思ってなかった。変態だけど。

 

「ああなんて幸運。棚から大安。物径の僥倖。奇利奇利ラッキー。生きているだけでボロ儲け。日々是好日。世界の中心で愛欲を叫ぶ。森羅万象あらゆるものに感謝して……頂きます」

 

「あの、実際に口づけをしないと言うから引き受けたのですが」

 

「お前だって分かってて此処まで来たんだろう? 子供じゃねえんだし、今更拒否しようったってそうはいかねえよ」

 

「そろそろ止めないと、ルミネお嬢様にこの映画自体が潰されるかも知れませんよ」

 

「うわ、それ反則。ごめんなさい」

 

 流石に今の言葉は効いたようだ。

 実際に僕に抱き着いている八日堂朔莉を、ルミねえが顔を真っ赤にしながら睨んでいるからね。

 まあ、アレは僕に恋愛感情があるとかじゃなくて、可愛がっている弟が知っている女性と仲良くしていて複雑になっている姉のようなものだろう。と言うよりも、今の僕にルミねえが恋愛感情を向けたら、僕が本気で困る。

 

「まあでも撮影は生物だからね? 何が起こっても可笑しくないっていうか、事故の時は仕方ないもんね。そう、事故ならルミネさんも文句は言えない筈よ」

 

「アトレお嬢様や他の学友の方々はどうでしょうか?」

 

「世界的女優との生のキスシーンなんて、逆に喜んで騒がれそうね」

 

 そうだよ。変態だけど八日堂朔莉は世界的女優だ。

 そんな人物とお母様譲りの美しさを持つ僕とのキスシーンなんて、ゴシップ好きの女生徒達からすれば大喜びされそうな話だ。

 だけど、あんまり心配はしていない。 

 

「じゃあカメラ回しまーす」

 

「この世界を形作る全ての事物に愛を捧げて……いただきます」

 

「あ、ストップ。伊東さんの顔が変。どうしちゃったの」

 

「はい。ごめんなさい」

 

 まあそうなるよね。だからそんなに心配していなかったよ。

 なんだかんだ言って、この人は僕が本気で嫌がる事はしない。

 それと、撮影以外の時間では徹底的にふざけていた八日堂朔莉だけれど、いざ演技に入ると、おふざけの色は一切消滅した。

 その演技は、間近で見ると呑み込まれそうになるだけのものだった。流石は本業。

 不機嫌そうにしていたルミねえも、好奇心一杯で見ていたエストも、普段の八日堂朔莉を知っているだけに、演技をしている時の彼女とのギャップに驚いていた。

 その後、今日の撮影は無事に完了した。役を終えた僕は、すぐに現場から離れてアトレに近づく。

 近づかれたアトレは距離を取ろうと後退るが、その背後には九千代が立っていたので阻まれる。

 何時もならアトレの味方をする九千代も、流石に今回の件では全面的に僕の味方をしてくれる。寧ろこれ以上放置していたら、取り返しのつかない事になると九千代も思っているようだ。

 

「アトレお嬢様。どうでしたでしょうか?」

 

「は、はい! お、お姉様と八日堂さんの演技は素晴らしかったです!」

 

 因みに僕がやっていた役は八日堂朔莉に抱き着かれているだけの役だったので、演技なんてこれっぽちもしていない。

 見ていたアトレなら分かっているのに、そんな事を言うって事はかなり慌てている証拠だ。

 

「それは嬉しいです。学友の皆さんも喜んで貰えたようですし、アトレお嬢様。久しぶりに二人でお茶でもいかがですか?」

 

「お、お姉様と二人っきりなんて独り占めは出来ません! 他の皆さんもご一緒に……」

 

「ご、ごめんなさい、桜小路さん。私、この後用事があるの」

 

「私も。あのイトウ・サクリさんの映画撮影があるから急いで来たけれど、この後は予定があって」

 

「だそうですよ、アトレお嬢様」

 

 学友の言葉にアトレは顔色が青く染まった。

 アトレのミスは、呼べたのがパティシェ科の生徒達だけだった事だ。

 これが飯川さんや長さんや、デザイナー科の生徒達なら僕とお近づきになる為にアトレの提案に乗っていただろう。だけど、パティシェ科の生徒達とは殆ど初対面に近い。

 特別編成クラス用の食堂で何度か顔を見た事がある人も居るけれど、僕がアトレだけを指名した事で遠慮を覚えてくれたようだ。何よりアトレが僕の事を好きだと学友達に本格的に言ったのは、今日が初めての筈だ。

 四月中は九千代の証言に拠ると、アトレは小倉さんばかりを気にしていた。そのせいで学友達との間で小倉さんの話題が出る時は意図的に離れたりしていたようだ。

 しかも小倉朝陽は二人居るのだから、どちらの話をしているのか、小倉さんを気にしていたアトレには判断が出来ずにいたのだろう。

 

「では、参りましょうか、アトレお嬢様」

 

「……はい、お姉様」

 

 漸く観念したのかアトレは俯きながら、僕と手を繋いだ。

 その様子をルミねえは心配そうに見ているけれど、口を挟んで来る様子は無かった。事前にルミねえに、今日アトレと話す事は伝えていた。

 エストにも、桜小路家の事で話があると伝えていたので不審に思われている様子は無い。

 小倉朝陽が元々は桜小路家の使用人だったという設定が役に立った。ただ、どうして桜小路才華が問題解決に動かないのかと、そっちの方では不審に思われたようだ。

 また、桜小路才華の評価が下がってしまった事に落ち込みながら、僕とアトレ、九千代は桜の園に戻った。

 向かった部屋は、最上階のアトレの部屋。

 部屋に入った僕とアトレは、向かい合う。九千代はアトレが逃げないように、部屋の入り口の前で待機して貰っている。

 

「アトレ……お母様から話は聞いたよ」

 

 ビクッとアトレの肩が震えた。

 

「……ごめんなさい、お兄様」

 

「若。すみません。アトレお嬢様を御止め出来ませんでした」

 

 アトレと九千代は顔を暗くしながら俯いた。

 

「先に言っておくけど、アトレ。僕は小倉さんには感謝している。アトレが何と言おうと、これだけはハッキリ言える。僕には感謝の気持ちしかあの人にはない」

 

「……お兄様はそう言われますが、私には納得出来ません! あの人さえ居なければ!」

 

「居なければ、伯父様の協力が全面的に受けられて、ひい祖父様に僕らのしている事が知られなかった?」

 

「はい。それにあの人が居なければ、お兄様は今も自信に満ち溢れていた筈です! 二月の頃に伯父様が怖い形で注意することだって……」

 

「確かに僕は今、伯父様が怖いと思っているよ。でも、それは僕が優しい伯父様だけが全てだと思っていたからだ。あの人の苛烈さは聞いていたのに、それが僕に向けられる事は無いなんて思い込んでいた事が、そもそもの間違いだったんだ」

 

 それに怖い伯父様に注意された事で、僕は少なからず成長できたし、大蔵家の恐ろしさを知った。

 自分には向けられる事が無いと思っていたから、その恐ろしさを理解出来ていなかった。でも、今は少なからず理解出来ている。

 だからこそ、大好きなルミねえを否定するような八日堂朔莉の意見にも納得出来た。

 

「僕は確かに自信を失った。今も自分がしている事に自信があるかと聞かれたら、あるとは言い切れない。でも、そのおかげで視野を広げる事が出来た。だから……」

 

 これを言うのは、アトレの心を傷つけるかも知れない。

 でも、言わなくちゃいけない。言わないときっと、僕とアトレは先に進めない。

 

「今、アトレがしている事を僕は肯定できない。僕のせいで誰かを傷つけたりしたら、それをアトレにさせた僕自身を赦す事が出来ない。アトレが僕の為にしてくれるのは、正直嬉しい。でも、その為に誰かを傷つけるのだけは絶対間違っている」

 

「……お兄様。確かに私は間違っているのかも知れません。ですが、お兄様の役に立つ事は私の生き甲斐なのです」

 

 ……僕はもっと早くに気がつくべきだった。

 アトレは僕を一番に考えている。友人、伯父様、総裁殿、お父様やお母様よりもアトレは僕の役に立つ事を優先する。絶対にありえない事だが、もしも僕がアトレを『抱きたい』などと言ったら、この妹は世間体や両親の悲しみなどよりも、僕の言葉を優先するに違いない。

 実を言えば、僕が性的興奮を覚える相手の中に、アトレが入っていた。アトレもお父様に似た容姿をしている。幼少の頃のあの出来事で、僕は父親、それも女装した姿でしか性的興奮を覚えない変態だ。

 でも、お父様に近しい容姿をしたアトレには、性的興奮を覚えかねなかった。アメリカに居た頃は、その危険性を考え、僕はアトレに肉体的接触を控えていた。

 でも、今のやり取りで僕の心は決まった。僕はもう、アトレに性的興奮を覚える事は絶対に無い。

 一見すればお父様の在り方と、アトレの在り方は同じように見える。だけど、アトレのはお父様と似て非なるものだと確信した。

 

「……今日までの一か月……僕はずっと不安な事があった。それが何かアトレには分かる?」

 

「それは……総裁殿に言われたフィリア・クリスマス・コレクションでの事でしょうか? それともあの女の事ですか。或いは私の事で不安にさせてしまっていたでしょうか? お兄様。私の事だとしたら申し訳ありません」

 

 ……アトレは、四月の初めに会ったルミねえの教師の件の場には居なかった。

 その後、僕もアトレには話さなかった。九千代にも話さず、壱与にだけ話した。だから、分からない。ずっと僕が心配で不安になっていた事を。

 話さなければ分からないと言われたら其処までだけど、アトレは質問して来なかった。

 

「僕が不安になっていた事は……ルミねえの通っているピアノ科の事だよ」

 

「ルミねえ様? 何故お兄様はルミねえ様の事が心配だったのですか?」

 

「ルミねえは四月の初めの頃に、大蔵家の力を使って自分に触れようとした男性教師を依願退職させた。僕はずっとその事で悩んでいた」

 

「何故でしょうか? 何時ものお兄様ならルミねえ様に教師の立場にあるとは言え、男性が触れようとするなど赦さない筈です。それに殿方が勝手に許可なく女性に触れるなど、許される事ではありません」

 

「以前の僕なら、ルミねえのした事に疑問を持たなかったかも知れない。大好きなルミねえに勝手に触れようとした教師に怒りを覚えて、ルミねえのやった事を肯定していた。でも、今は違う。客観的に見る事が出来る視点を、僕は得たから。だから、大好きなルミねえのした事でも肯定できない。ルミねえはやったらいけない形で、大蔵家の力を振るってしまった。現に服飾部門の生徒達の間でも噂になっている。『ピアノ科には暴君が居るから、気を付けろ』ってね」

 

「わ、若! もしかしてその暴君と呼ばれている方は」

 

「……ルミねえの事だよ。現にこの一か月以上、ルミねえと屋上で話している時に、僕は一度もルミねえがピアノ科の誰かから直接話を聞いたなんて言っているのを聞いた事がない」

 

 アトレと九千代は、ハッとした顔をしながら顔を見合わせた。

 

「その事にも以前の僕なら危機感を抱けなかったと思う。ルミねえの立場を考えれば友達が作り難いのもあるし、本人が孤高で居る事を良しとしているから。ルミねえなら大丈夫だって思っていたに違いない」

 

 でも、今は違う。ピアノ科、いや音楽部門に居る生徒全員から距離を取られたりしたら、果たしてルミねえは耐えられるのだろうか?

 その時になってみないと分からない。でも、明日行く予定の山県先輩のリサイタルでその答えが見えるかも知れない。本当にルミねえはピアノ科の生徒達に距離を取られているのかも確かめられると思う。

 僕らを誘った事から考えて、きっとあの先輩ならピアノ科の生徒達に声を掛けないとは思えないから。

 でも、今はルミねえよりもアトレだ。

 

「アトレは僕を何よりも優先してくれる。その事は嬉しい。でも、今のアトレには僕よりも自分の事で優先しないといけない事が出来ている」

 

「そ、それは……」

 

「お母様から聞いた。桜小路アトレとしてではなく、アトレとして何かフィリア学院で功績を残せと言われたんだってね。だったら、もう僕ばかりに気を取られている場合じゃないよ」

 

「お兄様! 先ほども言った通り、私にとってお兄様の役に立つ事が全てなのです! 説一切有部に拠れば、心の働きによって存在するものは心相応行と申します。また、心の働きや物質そのものなど、何らかの働きに作られた存在を有為と申します。このアトレをこの世に『有る』ものとしている存在は、お兄様のお役に立ちたいと願う心の働きであり、この因縁なくして私の存在は成り立ちません。どうぞご理解下さいますよう」

 

 うん。全然理解出来ない。僕はアトレと違って仏教に詳しくないからね。

 以前ならそういうものかと納得した振りはできたけれど、今は全く違う。何せ、お母様から僕は聞いているからね。

 

「そのアトレの趣味である仏教には、人の否定があるのかい?」

 

「っ!?」

 

「お母様から聞いたよ。小倉さんなんて僕らの前に、現れない方が良かったなんて言ったそうだね?」

 

「……何故皆はあの女を認められるんですか? 以前の主人に不誠実を行ない、その謝罪もせずにいるあの女を。現にお兄様だって、あの女に出会わなければ、もっと輝かしい形で学院に通っていられた筈です」

 

「……アトレはそもそも勘違いしているよ」

 

「勘違い? 一体何を私は勘違いしているのですか?」

 

「僕がフィリア学院に通う事を伯父様に伝えたのは、帰国した当日だった。小倉さんの存在を、伯父様はその前から知っていた。伯父様が小倉さんを養子にしようと考えていたのは、僕がフィリア学院に通う事を伝える前からだったに違いない」

 

 そもそもの順番が違っていた。

 アトレは伯父様の全面的な協力を得られなかったのは、小倉さんが居たからだったと思っている。でも、僕がフィリア学院に通いたいと伯父様に言ったのは、帰国した当日。その前から小倉さんの養子入りの準備をしていた伯父様にとっては、僕の提案の方が余計な事だったに違いない。

 でも、僕に甘い伯父様だから協力してくれた。だけど、小倉さんの養子入りも急がないといけなかった筈だ。

 『晩餐会』で伯父様は、メリルさんに言っていた。

 

『あのまま居場所も無いままでいれば……最悪自殺するほどに精神が追い込まれていましたので』

 

 そう言っていた。実際に僕も小倉さんが追い込まれている姿を見た。

 今思えば、伯父様が言っていた事に嘘は無かった。本当に小倉さんは追い込まれていたんだ。

 ……自分の命を絶ちたいと思ってしまうほどに。

 

「……アトレ。これを返すよ」

 

 僕は服のポケットから、アトレに渡されていた桜の園の最上階のアトレの部屋の合鍵を取り出した。

 それをアトレの前に置く。合鍵を差し出されたアトレは目を見開いて驚いた。

 合鍵を返す意味を理解したようだ。でも……これが今日まで考えて出した僕のアトレへの答えだ。

 

「今日までありがとう。でも、もう僕にはアトレの協力は必要ないよ。だからもうアトレには何も頼まない」

 

「お、お兄様! ま、待って下さい!」

 

「僕はアトレが僕の為に誰かを傷つける姿なんて見たくない」

 

 だったら、アトレの協力が無い方が良い。

 それにアトレはお父様の在り方を勘違いしている。あの人はお母様の笑顔の為ならどんな労苦も厭わない人だ。

 でも、お母様が言っていた『小倉朝日』さんと同じように、誰かを傷つけたりは絶対にしなかった。お母様を含めた皆が笑顔になれるように、ずっと頑張っていた。

 ……もうお父様を僕は軟弱だなんて思えない。『支える』事の難しさと大切さを知った今だからこそ、あの人を……認めよう。僕のお父様は誰よりも強い人だ。

 こうしてずっと認められずにいた事を、理解出来るようにもなれた。その全ての始まりが、小倉さんに叱って貰ったからだ。

 本当なら心の傷を踏み躙った僕の事を嫌っても可笑しくないのに、あの人は僕が知らないところで、学院でも助けてくれた。

 だから……僕はアトレと距離を置く。物理的な距離じゃなくて、心の距離を。

 

「さようなら、アトレ。パティシェ科を頑張ってね」

 

「お兄さまあああああっ!!」

 

 背後からアトレの悲痛な声が聞こえてきた。

 でも、僕は振り返らずに部屋の扉を閉めてエレベーターに乗った。

 扉が閉まると共に屋上へのボタンを押し終えると、顔に腕をやった。僕は今日……妹と離れた。この事が正しかったのかは分からない。

 だけど、本当に嫌なんだ。僕のせいでアトレが……お父様やお母様、他にも大勢の人達、そして小倉さんを傷つけるのが。

 事前に伯父様には連絡を取って、アトレとは距離を置く事を伝えた。九千代が傍に居るけれど、万が一の可能性もあり得る。話を聞いた伯父様は、『分かった』の一言だけを言って電話を切った。

 これで最悪の事態だけは回避できる筈だ。アトレが僕の考える最悪の事態をしないでくれる事を願いたい。

 

「ヘイ、其処の美しい白髪の人。一緒にお茶しない?」

 

 屋上に着くと其処には既に八日堂朔莉の姿があった。

 しかも、エレベーターの前で待っていた。という事は、僕が最上階のアトレの部屋から来たのはバレていそうだ。

 

「お待たせしましたか?」

 

「いいえ、思っていたよりもミーティングが長引いたからついさっき来たところ」

 

 本当だろうか? 気になるが、彼女は聞いても答えてくれないだろう。

 八日堂朔莉に案内されて屋上の一角の庭園に来てみると。

 

「朝陽。待ってたよ」

 

「お、お嬢様! どうして此処に!?」

 

 僕の主人であるエストが待っていた。

 

「私が呼んだの。朝陽さんが何か悩んでいるから、一緒に聞きましょって」

 

「此処のところ、朝陽が何かまた悩んでいるのは気づいていたから。主人の立場の私だけだと話し難いけれど、八日堂さんも一緒に居れば話して貰えるかなって思って」

 

「エストお嬢様……そのお言葉を聞けて大変嬉しいです」

 

 本当に、僕には勿体ない主人に成長して来た。

 後はあの品性のない言葉と、時たまやる貴族らしくない行動さえ直せば、エストは立派な貴族になれるだろう。

 

「因みにルミネさんは来ないわよ。多分、朝陽さんが悩んでいる事はルミネさんの件だろうと思ったから」

 

「それは助かりました」

 

「じゃあ、本当に八日堂さんの言う通り、ルミネさんの事だったの?」

 

「はい。お嬢様にもこの前質問しましたが、ルミネお嬢様の事が心配だったのもあります」

 

「だった? って事は、それ以外にも朝陽さんは何か悩んでいたの?」

 

「はい。ですが、たった今、その悩みの答えを私は伝えて来ました……桜小路のお嬢様とは、心の距離を取る事にしました」

 

 八日堂朔莉とエストは驚きで目を見開いた。

 これまで僕は二人の前ではアトレの事を、『アトレお嬢様』と呼んでいたからその反応は当然だ。アトレもお姉様と僕を慕っているのを見ているので、何故と疑問を覚えるのは仕方がない。

 

「ルミネお嬢様と桜小路のお嬢様と親しいお二人にはお話しします。私が何を悩んでいるのかを。それを聞いて、お二人が思った事をどうか教えて下さい」




と言う訳で消失したのは、才華『アトレルート』です。
この事は以前から決めていました。と言うのも、アトレルートは才華のバットエンド後に発生するルートなので、バッドエンドが無いこの作品ではどうやってもそのルートに行かないので消失させました。
但し遊星『アトレルート』の可能性は消えていません。
原作アトレルートのファンの皆様は、申し訳ありません。
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