月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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次回は遊星sideになると思います。

秋ウサギ様、笹ノ葉様、烏瑠様、dist様、障子から見ているメアリー様、獅子満月様、誤字報告ありがとうございました!


五月上旬(才華side)3

side才華

 

「先ずはお二人に共通の認識を持って貰う為にお伝えしておきます……桜小路のお嬢様は、小倉お嬢様を嫌っています」

 

 この事実だけは一番に理解して貰いたい。

 八日堂朔莉とエストは、席に座りながら真剣な顔をして頷いた。

 戸惑う様子がないところを見ると、二人とも既に認識していたようだ。

 

「それは以前から感じていた。確か……ジャスティーヌさんだったかしら? 彼女が来て小倉朝日さんの話をした時、明らかにアトレさんから敵意を感じられたもの」

 

「うん。私も感じていた。こうして屋上でお茶をする時に、アトレさんも居た時に小倉さんの話題が出ると、何だかピリピリした気配を感じたから、アトレさんの前では小倉さんの話題は出さないようにしていたの」

 

 まあ、あからさまに小倉さんへの敵意だけはアトレは示していたからね。皆とは仲良くしていただけに、その差で分からない方が可笑しい。

 

「でも、どうして小倉さんだけに敵意を示すの? アトレさんには悪いけれど、学院で会う小倉さんは優しくて良い人だよ。私や朝陽の事だって助けてくれたし」

 

 地下カフェと入学式での事だね。その他にもエストと僕が溺れかけた時に助けてくれたし、学院でも助けられて来た。本当に、アトレが小倉さんを嫌う理由がエストには分からないのだろう。

 八日堂朔莉は会った事は無いだろうけれど、小倉さんの噂で悪い噂は流れていないから印象は悪くない筈だ。

 ……悪い噂が流れてしまっているルミねえよりも、学院での小倉さんの印象は悪くない。

 

「その理由を話す前に……エストお嬢様。先ずは謝罪をさせて頂きます」

 

「謝罪?」

 

「はい。本来ならば、5日にお会いした時に謝罪しようと思っていましたが、今日会えたのならば謝罪をさせて貰います……実は私の探していた相手は……小倉お嬢様でした。隠していて申し訳ありません!」

 

『えっ!?』

 

 あれ? エストはともかく、何故八日堂朔莉まで驚くのだろうか?

 

「ど、どういう事なの!? 朝陽の探し人が小倉さんだって言うなら、四月の時に探していた人が見つかったからかも知れないと言うから、休んだ日は何をしていたの!?」

 

「病院に行っていました」

 

「はあっ!?」

 

「嘘でしょう! 朝陽さん、本当なの!?」

 

「はい、本当の事です。騙して休みを貰った事は心から謝罪します」

 

 僕はエストに深々と頭を下げた。

 最初は騙していた事に怒ったエストだけ、僕が病院に行ったのを事実だと認識したのか、心配そうに僕に問いかける。

 

「……一体どういう理由で病院に行ったの?」

 

「お嬢様がお休みになられた日に保健室に私が行ったら、ストレスが溜まっていて危ないから病院に行けと言われたのが理由です」

 

「それだったら本当の事を教えてくれても」

 

「もしも病院に行くと行ったら、お嬢様は私を心配してついて来そうでしたので」

 

「うっ……言い返せない」

 

 自分でも確かについて行きそうだと思ったのか、エストは渋々ながらも納得してくれた。

 と言うよりもついて来られたら困る。僕の正体がバレてしまうから。

 

「それで診断の結果はどうだったの?」

 

「今すぐに環境を変えるか、何らかの方法でストレスを発散しないと倒れると診断されました。と言うよりも、遂に先日吐きました」

 

「ブホッ!」

 

「大事じゃない!」

 

 告げた事実に八日堂朔莉は飲んでいたお茶を吐き出し、エストは怒って僕に詰め寄って来た。

 

「何で私に教えてくれなかったの!?」

 

「その事に関しては申し訳ありません。ですが、逆に話したらその事でもお嬢様を心配させたという事でストレスになりかねないと思っていましたので」

 

「うわ、なんて厄介な状態」

 

 うん、八日堂朔莉の言うように僕の状態は極めて厄介で危険だ。

 今はこうして溜め込んでいたものを話しているので、少しはストレスが減っているのかも知れない。

 

「もしかして今、お茶を飲まないのって?」

 

「飲んだら、そのまま吐きかねないので」

 

 八日堂朔莉とエストは、最早言葉も無く同情するような視線を僕に向けて来た。

 ……結構その視線はキツイので止めて欲しい。

 取り敢えず落ち着いたのか、エストは席に座り直した。

 

「あれ? でも、小倉さんは入学式の時に朝陽とは初対面だったって、言っていたけれど、それはどうしてなの? それに朝陽が探していた事も小倉さんは知らなさそうだったけれど」

 

「実際に小倉お嬢様は私が捜していた事を知らないと思います。あの方と初めて会った時から一緒に居た時間は、一日にも満たないほどの時間ですので」

 

「ああ、それであの人は違うって言ったのね。不味い。ライバルにならないと思っていたけど、強力なライバルになってしまいそう。いや、大丈夫。私には切り札があるから」

 

 ん? 急に八日堂朔莉が小声で呟き出した。

 考えを纏める為だろうか? 小声のせいで良く聞こえないから、気にはなるけれど、取り敢えず話を進めよう。

 

「それで初対面を装われた理由なのですが……」

 

「大蔵家の関係者だと知られたら、危ないと思ったからじゃないの?」

 

 僕が口を開く前に、横合いから八日堂朔莉が口を挟んで来た。

 僕とエストが顔を向けると、八日堂朔莉は話し出す。

 

「エストさんは知っているか分からないけれど、今フィリア学院のピアノ科と言うか音楽部門は、大蔵家に対してかなり警戒しているのよ。小倉朝日さんはその事を恐れて、朝陽さんを大蔵家と無関係にしようとしたんじゃないかしら? 確か入学式の時のエントランスには他の科の生徒達も居たそうだし。じゃない?」

 

「は、はい。その通りです」

 

 戸惑いながらも僕は頷いた。

 八日堂朔莉の説明は、僕がエストにしようとしていた説明と同じだった。何故彼女がと思ったけれど、すぐに分かった。

 そもそも僕よりも彼女の方が、先にピアノ科の生徒達が抱いている大蔵家に対する警戒に関して気がついていた。だから、彼女なりに推測して話してくれたのだろう。という事は、先ほどの小声で呟いていたのはやっぱり、自分の考えを纏める為だったようだ。

 エストは八日堂朔莉の説明に戸惑いながら質問する。

 

「そ、そんなに警戒されているの?」

 

「もう警戒されまくり。朝陽さんには話したけれど、私のクラスのお喋りな同級生の話だと、音楽部門の入学式の時にルミネさんが新入生代表の挨拶をしたら、凄く雰囲気が悪かったそうなの」

 

「えっ? 入学式から?」

 

「ええ、何故か分からないのだけど、音楽部門の生徒達はルミネさんと言うか、大蔵家をかなり警戒している。しかもルミネさんが入学する前からね」

 

「それは事実のようです。実は今日散髪して貰った大蔵アンソニーJrさんからも同じ話を聞けました。彼が言うには入学手続きの時に、用があって音楽部門棟に訪れた時、生徒達から大蔵家の関係者だと分かったら明らかに警戒の視線を向けられたそうなので」

 

 僕の報告にエストと八日堂朔莉は考え込む。

 明らかにピアノ科の生徒達と言うか、音楽部門の殆どの生徒達が大蔵家を警戒している。だけど、その理由が分からない。ただ渦中には山県先輩がいるのは間違いない。

 でも、これまで見てきた彼の人となりから見て、大蔵家の事を悪く広める人間とは思えない。

 

「……小倉さんなら事情を知っているのかな?」

 

「恐らくは……実を言えば、これもお嬢様に内緒にしていた事なのですが、お嬢様が休まれた日の昼にピアノ科の先輩方から呼び出しを私は受けたのです」

 

「呼び出し!? 朝陽を何で!?」

 

「何でも自分達の王子様にちょっかいを掛けられるのは困ると言われて、ピアノ科にまで呼び出しを受けました」

 

「……それでどうしたの?」

 

「クラスメイトの方々に迷惑をかける訳にはいかないと思ったので、先輩方について行きました」

 

「その時、小倉朝日さんはどうしていたの?」

 

「運が悪い事に、その時小倉お嬢様は席を外していまして教室内にはいなかったのです。その事を知ったピアノ科の先輩方は安堵していたようでした。そのまま音楽部門棟に連れていかれそうでしたが、その途中で総学院長がやって来て助けてくれたのです」

 

「あの総学院長が? 確かに服飾部門棟に居ても可笑しくないけれど」

 

「その理由もどうやら大蔵家絡みのようでして。総学院長は小倉お嬢様に会いに来て、事情を聞き、私を助けてくれたのです」

 

「……その日って、ルミネさんが教師を追い出した日よね?」

 

「ええ、そうです」

 

 八日堂朔莉とエストは重い溜め息を吐いた。

 二人も何故総学院長が小倉さんに会いに来たのかが分かったようだ。

 

「もう、ハッキリしたわね。ピアノ科の生徒達は、大蔵という括りにある人達、全員を警戒している。朝陽さんは、エストさんの付き人という立場に居て知られていないから警戒されていなかったようだけど……バレたらどうなっていた事か」

 

「はい。朔莉お嬢様の言う通り、知られたら私も大蔵家と言う枠組みに入れられて警戒されていたと思います。そうさせない為に、小倉お嬢様は私に大蔵家との関わりを話すなと忠告したのだと思います」

 

 実際にあの時は危なかった。後数秒ほど総学院長が来るのが遅かったら、僕は伯父様の名前を出していたから。

 

「でも、朝陽と大蔵家との繋がりって、ルミネさんと知り合いだっていう事ぐらいじゃないの?」

 

「本当は大蔵家とは遠戚にあたります。その縁でニューヨークでは桜小路家の使用人をしていました」

 

「……隠し事ばかり。悪い従者」

 

 不機嫌そうにエストは僕を睨んで来た。

 その事に関しては謝るしかないので、僕はエストに頭を下げた。

 

「今後は隠し事はしないように」

 

「はい、エストお嬢様」

 

 最大の隠し事は、年末のフィリア・クリスマス・コレクションで。

 

「それで朝陽さんの悩みの一つのルミネさんの事は大体分かったけど、アトレさんと小倉さんの関係はどうなの?」

 

「私達が日本に帰国した時に小倉お嬢様とは出会いました。此処数日桜小路のお嬢様が住んでいる桜屋敷で、私達は出会ったのです。詳しい事は、小倉お嬢様のプライベートも含まれるので話せませんが、私はその時に小倉お嬢様の事を傷つけたのです」

 

「あ、それは本当の事だったんだ」

 

「はい……これ以上に無いほどに、私は小倉お嬢様を傷つけてしまいました」

 

「なら、悪いのは朝陽さんの方よね? それで何でアトレさんが小倉朝日さんを嫌うの?」

 

「……そもそも原因はある出来事が発端でした。エストお嬢様と朔莉お嬢様と出会う前の去年の十月に起きたその出来事によって、私は帰国する前に持っていた自信を失い始めたのです。私だけではなく、もう一人の方も」

 

「それって誰の事かしら?」

 

 ……これを言うのは結構キツイ。何せ言ったら……覚悟を決めよう。

 

「じ、実は……わ、私だけじゃなくて実の兄の桜小路……才華様も小倉お嬢様を傷つけてしまいまして」

 

「ファ○○○○ァァーッックッ!!」

 

 ほら、エストが凄まじい剣幕で叫んだ。しかも低俗な言葉で。

 

「あの男! 私の送っているメールに返事を返さないばかりか、あんなに優しい小倉さんまで傷つけていたなんて! 何て最低な男なの!」

 

 ああ、もうエストの中での桜小路才華は最低と固定されたようだ。

 いや、実際にあの時にやった事は最低としか言えないけどね。

 エストの事情を知らない八日堂朔莉は、僅かに驚いたようだけど、今は。

 

「……フッ」

 

 何故かニマニマと薄笑いを浮かべていた。

 あの笑みはどういう意味だろうか? ……もしかして桜小路才華を嘲っているのだろうか?

 やられると結構ショックだ。

 

「まあまあ、エストさん。怒るのは今は後にしましょう。優先的に聞かないといけないのは、アトレさんが何故小倉朝日さんを嫌っているのかよ」

 

「う、うん……それにしても本当に最低」

 

 最後に小声で呟かれた声は、聞こえなかった事にしよう。

 

「話は戻しますが、私と才華様は小倉お嬢様を傷つけてしまい、その時に叱られてしまったのです。最初に申しておきますが、私はその時に小倉お嬢様が叱ってくれた事を感謝しています。小倉お嬢様に叱られる前の私と才華様は、自分達なら何でも出来ると思っていたのです……もしもあの時叱って貰えていなかったら……私は最初からエストお嬢様を自らの主人とは心の底から思えなかったかも知れません」

 

 エストは黙して僕に視線を向けている。

 何を考えているのかは分からない。もしかしたら、今の話を聞いて僕に疑いを持ったかもしれない。

 正しい事なので、僕は黙ってエストの言葉を待つ。

 

「……今は? 今はどう思っているの?」

 

「私には勿体ない主人だと心から思っています。貴女の強さを知り、貴女に仕える事が出来て、心から良かった」

 

「……うん。許してあげる」

 

 ありがとう、エスト。

 その言葉を聞けて、ほんの少しだけど僕は救われたよ。

 

「ですが、桜小路のお嬢様は考えが違ったようなのです。アメリカに居た頃のように自信に満ち溢れる行動が出来てさえいれば、問題はなかった筈だと思われているのです。その自信を失い始めた切っ掛けを作ったのは、小倉お嬢様。その時の出来事のせいで桜小路のお嬢様の中に、小倉お嬢様への不信が宿ってしまっていたのです。それが巡り巡って遂に、桜小路のお嬢様と小倉お嬢様の間で深い溝が出来てしまいました」

 

 話を聞いた二人は言葉を無くして固まった。

 

「もっと早くに気がつくべきでした。桜小路のお嬢様は、私や才華様の役に立ちたいと日頃から申しておりました。私も才華様も、桜小路のお嬢様が喜ぶならとそのままにさせてしまい。桜小路のお嬢様なら大丈夫だと思い込んでいたのです。ですが、今回、私と桜小路のお嬢様は対立しました」

 

 僕はずっと気づいていなかった。

 言う事を何でも聞いて、はいはいと素直に従ってくれる妹だと思っていた。でも、違った。

 素直に従ってくれていたのは、僕の言う事を聞けば良い形になるとアトレが判断していただけ。これまではそれで問題は起こらなかった。

 だけど、今回、初めて僕らの力ではどうする事も出来ない危機に直面した。お父様やお母様に相談する事など出来ず、僕らに甘かった伯父様も絶対の味方とは言えず、アトレにとっての最後の砦だった総裁殿も味方ではない。

 僕にとってもアトレにとっても、初めての体験。崖っぷちに僕らはいる。

 僕はこうなった責任は、全部自分にあると思っている。出来るなんて思っていながら、いざやってみたらどうする事も出来ない程に追い込まれた。

 小倉さんはその事を注意してくれていたのに、僕は大丈夫だと思って実行し、こうして紙くず同然の自信を抱えてストレスで限界が来ている身体になった。全部自業自得だ。

 でも、アトレはそう思わなかった。小倉さんが居なければ、伯父様の協力をもっと全面的に得られ、総裁殿も最後には味方してくれたに違いないと思っている。

 アトレにとっても初めて経験だ。だから、どうすれば良いのかが分からずに悩んでいる。

 ……違うんだよ、アトレ。そもそも僕らがしている事自体が、許されない事なんだ。それを始めたのは、僕の我儘だ。

 アトレにもその事に気がついて欲しい。だけど、今のままじゃアトレはその事に気づけない。

 幼い頃に僕の身体に対する遠慮から生まれた心の鎖に縛られたアトレ。心を縛られたまま、その鎖ごと抱えて、今の自分という存在を作り上げた。

 だけど、やはり何処か歪さを抱えてしまっていた。このままいけば『僕のため』になるならば、アトレは本当に取り返しのつかない事をしてしまう。僕は、そんなのは嫌だ。

 

「これまでずっと頼り続けていた私の言葉では、説得力はありません。なら、距離を置くしかないと思いました」

 

「……随分と思い切った事をしたようだけど、大丈夫なの?」

 

「打てる手は既に打ちました。桜小路のお嬢様の付き人の山吹さんやコンシェルジュを務める八十島さんにも事情を説明し、小倉お嬢様の父親である大蔵衣遠様にも八十島さん経由でお伝えしました」

 

「……朝陽はそれで良いの? アトレさんはあんなに朝陽の事を慕っていたのに?」

 

「良いわけがありません。桜小路のお嬢様とは幼少の頃から共に過ごしてきました。だからこそ、ですが、このまま行けばどうする事も出来ずに追い込まれて、誰かを悲しませる桜小路のお嬢様は、み、見たく……な、ないのです」

 

 涙が零れてきたのを感じて、僕は両手で顔を覆った。

 アトレに別れを告げる言葉を言った時は、身を切られるような気持ちだった。お母様との電話からずっと、アトレとは会って話そうとしていた。でも、アトレは逃げた。

 今日まで逃げ続けた。それで分かった。

 言葉ではきっとアトレには届かない。なら、行動するしかないと思った。気がついて欲しい。

 本当に悪いのは、僕ら、いや僕だって事を。

 

「……失礼しました」

 

 涙を拭いてエストと八日堂朔莉に顔を向けた。

 二人は何も言わずに、考え込むような顔をしていた。実際に相談されても悩む事の類だ。

 ルミねえの件は、ルミねえ本人も自覚していない問題だし、アトレの事だって完全に個人的な感情が主だ。

 だから、どうしたら良いのかが分からない。ルミねえの方は、事情を知っている小倉さんが話してくれれば解決の糸口が見えて来るかも知れないが、あの人は学生で在る前に調査員という立場がある。

 一学生、しかも付き人の立場に居る僕に話せる類の問題ではない。

 アトレに関しては、もう完全にアトレ個人の感情。しかも敵意を向けられているのは小倉さんなので、尚更に頼る事は出来ない。寧ろ介入されてあの人の心の傷が抉られて、僕が知っているあの悲しみに満ちている状態。お母様曰く、鬱日に戻ってしまったら僕らは破滅だ。

 総裁殿も、伯父様も、そしてお母様も怒りに満ち溢れるだろう。

 やがて、考えが纏まったのか、八日堂朔莉が最初に口を開く。

 

「先ず最初に言っておくけれど……アトレさんの方は私にはどうする事も出来ない。本人の心の問題だから、部外者の私が言っても無理だからね」

 

 その通りなので、僕は無言で頷いた。

 

「だけど、ルミネさんの方はちょっと力を貸せる」

 

 そう言うと、八日堂朔莉は足元に手を伸ばして一枚のディスクを取り出して僕に差し出した。

 

「朔莉お嬢様、これは一体?」

 

「畠山さんにお願いして探して貰った、あるピアノの音楽コンクールの映像ディスク。ルミネさんが受賞したね」

 

 驚いて目を見開いた。

 このディスクの中に、ルミねえのピアノの演奏の記録が残っている! 今、これはルミねえの件で僕が何よりも求めていたものだ!

 これさえ見れば、ルミねえの本気の演奏を知る事が出来る!

 

「学生レベルだと最大規模のコンクールらしいから、テレビ局が撮りに行ったそうなの」

 

「朔莉お嬢様! 本当にありがとうございます!」

 

「お礼は一晩抱かれて」

 

「流石にそれは無理なので……お土産です」

 

 正体がバレてしまうから、代わりに僕は今日散髪して切った髪が入った袋を差し出した。

 

「うひょおおぉぉぉぉおおお!! ちゅ、ちゅいに、ひゅ、ひゅめにまで、み、みひゃ、あ、朝陽ひゃんのか、髪の毛を! も、もう返さない! こ、この髪の毛は全部私のものよおぉぉぉぉ!!」

 

 絶好調と言わんばかり、八日堂朔莉は僕の髪の毛が入った袋を抱えて身体をオーバーアクション気味に震わせていた。

 

「クンクン、ああ、朝陽さんの香しい香りが」

 

 嗅ぐな! 確かに相談に乗って貰ったし、映像ディスクは助かったけれど。

 

「言い忘れましたが、髪の毛を切る前に軽くシャンプーしたので、匂うのはシャンプーの香りだと思いますが」

 

「フッ」

 

 何だ、そのこれだからお子ちゃまはと言わんばかりの笑みは。

 やっぱり返して貰おうかと思った瞬間、素早く八日堂朔莉は髪の毛が入った袋を仕舞った。

 おのれ……感謝はしているけれど、セクハラは別だ。この屈辱は何時か返すと心に誓う。

 

「それで話は戻すけれど、私なりにルミネさんの受賞のピアノを見てみたんだけど……つまんなかった」

 

「はっ?」

 

「だから、つまんなかったの。私、ピアノとかは全然素人だから技術面とかは分からない。でも、音なら少しは分かる。撮影で演出用の音楽とかは聴くから。それで総合的で言うけど……やっぱりつまんなかったの評価しか出せない」

 

 どういう意味なのだろうか?

 ルミねえのピアノが『つまんなかった』? これが以前の僕ならば、八日堂朔莉の言葉に反発を覚えて怒りを抱いたかも知れない。

 だけど、今は彼女にはそれなりの信用と信頼が芽生えている。その彼女がルミねえに悪意ある評価を出すとは思えない。つまり、八日堂朔莉は純粋にルミねえのピアノを『つまらない』と感じたという事だ。

 

「後は自分で確認した方が分かると思う。ただね、これだけは言える。今のままじゃルミネさん。フィリア・クリスマス・コレクションで最優秀賞は取れない」

 

 そう思えるほどの事を、八日堂朔莉は映像ディスクを見て感じたようだ。

 ルミねえの夢は、入学式前に八日堂朔莉も聞いて知っている。その時に彼女は純粋にルミねえを応援していた。その彼女から見て、ルミねえがフィリア・クリスマス・コレクションの最優秀賞を取れないと判断するほどの何かが、この映像ディスクには入っている。

 ……怖くなって来た。僕は年末のフィリア・クリスマス・コレクションで取る予定の二つの最優秀賞の内の片方を、ルミねえに頼っていた。でも、よくよく考えてみれば、あの総裁殿がその事に気がついていない筈が無い。総裁殿と話した時に、ルミねえ本人も質問していたし。なのに、最優秀賞を二つ?

 確実に一つ取れるならば、三つ取れと総裁殿なら言いそうなのに。

 今更ながらに、何かがある気がして来た。その答えが、もしかしたらこの映像ディスクの中身にあるのかも知れない。

 

「必ず後で見させて貰います」

 

「あっ、朝陽。私も見たい。見終わったら部屋に持って来てくれるかな?」

 

 エストも気になったのか手を上げた。

 僕が無言で頷くと、今度はエストが話し出す。

 

「それじゃ、私の意見だけど……私は今初めてルミネさんが置かれている状況や、アトレさんの事も知ったから判断出来ていない部分もある。だけど……ルミネさんは悪い事をしたのかな? 男性に身体を触られるのは、女性にとっては嫌な事だし?」

 

「悪いというよりも、やり方の問題だと思います。確かにルミネお嬢様のした事は、女性としては正しいのかも知れませんが……」

 

「いきなり大蔵家の力を振るったのは、流石に不味かったと思う。実際、私、その話を聞いてルミネさんの事がちょっと怖くなっていたから。もしその力がこっちに振るわれたらと思うと、正直ゾッとする」

 

「あっ」

 

 八日堂朔莉の説明にエストは納得したのか頷いた。

 ルミねえの問題は、善悪と言うよりも印象の問題だ。親しい相手が強大な力を持っていても、それが自分に向けられると思わなければ、普通に付き合う事は出来る。

 少し前の伯父様に対する僕の印象がそれだった。僕やアトレに甘い伯父様なら、何があっても助けてくれるし、その権力を向けられる事はないと思っていた。だけど、今は違う。

 伯父様も時と場合に依れば、その力を僕らに向ける。怖い伯父様を知って、その事を理解させられた。

 今回のルミねえの問題の根底は、それだ。僕らはルミねえを知っているから、余程の事がない限りその力が振るわれる事がない事を知っているけれど、良く知らない人達からすればいきなり権力を振るったようにしか見えない。

 

「こればかりは印象の問題だから、外野の私達が何か言っても無理だと思う」

 

「うん。八日堂さんの言いたい事が良く分かった。ごめんね、朝陽。私はまだ考えが纏まっていないから、良いアドバイスは出来そうにない……ただ一つだけ思ったんだけど、小倉さんの日本の保護者だっていう理事長の大蔵りそなさんも事情を知っている筈だよね? だったら、ルミネさんが電話して来た時点であの人が説得していたら……」

 

「いや、それは無理じゃないかしら?」

 

 エストの疑問に何故か八日堂朔莉が答えた。

 

「エストさんだって覚えているでしょう? あの時のルミネさんの剣幕。時間をおいて、しかも私が愚痴を聞いていながら、あの剣幕よ。出来事があった直後なんて、あの時よりも凄かったと思うの。説得なんて聞きそうになかったと思うわ、私」

 

「うっ……言われてみればそうかも」

 

「それにたとえ理事長が仲裁しても、その理事長よりももっと怖い人が出て来そうだし。過保護な父親とかね」

 

 ……ひいお祖父様か。

 確かにあの人がルミねえの件を知ったら、どうなるかは目に見えている。

 件の教師は、間違いなく教育界どころかピアノ界からも居場所を無くされ、路頭に迷わされるだろう。流石に殺害まではやらないと思いたい。

 でも、あのルミねえに異常なまでに過保護なひいお祖父様だからあり得ないと言い切れない。

 現に伯父様から警告を受けているし。それを考えると、総裁殿が件の教師を依願退職させたのは、後々の事を考えれば不味いけれど、その場では最良の方法だったのかも知れない。

 あの人は、知り始めた僕なんて比べものにならないほどに大蔵家の闇を知っている人だ。

 それに総裁殿はルミねえの要望に応えた。その後に発生するリスクまでは、面倒を見るつもりはなかったのかも知れない。後の責任は自分でという事なのかも知れない。

 その事にルミねえはまだ気がついていない。

 

「朔莉お嬢様の言う通り、あの時はルミネお嬢様の意見を聞くしかなかったのかも知れません。しかし、そのせいで間違いなくルミネお嬢様は、ピアノ科の生徒達と溝が出来てしまった。明日、私はそれを確かめようと思います」

 

「例の山県先輩だったかしら? その人のリサイタルね?」

 

「はい、偶然会ったデザイナー科生徒である私達も誘ったのです。あの様子ならば、間違いなくピアノ科の生徒達も誘っているでしょう」

 

「……朝陽。大丈夫なの? もしルミネさんと一緒に居るところをピアノ科の生徒達に見られたら」

 

「覚悟の上です。それにピアノ科の女生徒の方々には、件の王子様の件で余り好意的に見られてないのはもう分かっています。なら、いっそのこと、ピアノ科の方々に嫌われてしまいましょう」

 

「……何だか、朝陽がカッコ良く見える」

 

「凛々しくて素敵! 今すぐ私を抱いて!」

 

 ……初めて女装していて、男に思えて貰った。

 喜ぶべきなのだけど、女装している小倉朝陽を名乗っている身としては不味い。

 

「明日のリサイタルが楽しみです! うふん!」

 

 思いっきり二人は引いた。

 ……ちょっとショックだ。

 

「場を和ませる為のギャグだったかも知れないけれど、全然面白くなかった」

 

「朝陽のギャグって、面白くないよね」

 

「とに、とにかく、わた、私は桜小路のおじょ、お嬢様と、距離を取ります。お、お二人は、そ、その事をご納得して、して下さい」

 

「思いっきり動揺してるわね」

 

 ……僕のギャグって、そんなに面白くないのかな?

 自爆して更に負った心の傷の事は、一先ず置いておこう。

 主に僕の心の為に。ぐすん。

 

「あっ、そう言えばルミネさんにも話すの? アトレさんとの事は?」

 

「明日のリサイタルが終わった後に話すつもりです。ルミネお嬢様も、少なからずリサイタルには期待しているでしょうから、その前に気分が悪くなるような話は控えるつもりです」

 

「それが良いと思う。あ、それと明日も私、午後は暇だから何かあったらメールを頂戴」

 

 嬉しい報告だ。

 でも、まさか、家族や親戚付き合いのあるアトレやルミねえよりもほんの二、三か月ぐらいの付き合いしかない八日堂朔莉を頼りにするなんて、出会った時には思っても見なかった。

 でも、彼女のおかげで僕は客観的な視点の重要さを理解出来た。だから、彼女にも心から感謝しよう。

 ただ変態行為だけは控えて欲しいな。切実に。

 

「朝陽、ごめんね。私は明日は帰りが遅いから、5日に話を聞かせて貰うね」

 

「分かりました。明日はお気を付けてお出掛け下さい、エストお嬢様。それと出来れば、小倉お嬢様が嘘をついた事は責めないので欲しいのです。勝手な言い分だとは思いますが、あの方がそうされたのは私を助ける為でした。もしも責められるのなら、どうぞ私を責めて下さい」

 

「うん。分かってるから大丈夫。小倉さんが優しい人なのは、もう充分に分かっているから責めたりはしない」

 

 やはり優しくて素晴らしい人だ、エストは。

 その後、僕らは別れた。何だったらデザインを一緒に描かないかとエストに言われたが、今日はもう休ませて欲しいと言って断った。

 八日堂朔莉はやる事があると言って部屋に戻って行った。

 ……戻る時に僕の髪の毛が入った袋を、大切に胸に抱えて行ったのは見なかった事にしよう。

 

「若」

 

 部屋の前に戻ってみると、壱与が真剣な顔をして立っていた。

 僕は頷いて壱与を部屋の中にいれた。

 

「……アトレはどうだった?」

 

「部屋に籠もって泣いています。九千代さんが見ていますので、私がご報告に参りました」

 

「そう……壱与は僕の判断を責める?」

 

 壱与は僕を大切に思っていてくれる。

 でも、それはアトレも同じだ。僕らは今日初めて兄妹喧嘩をした。

 僕らをどちらも大切に想ってくれている壱与にとっては、辛い事だろう。

 

「私は……若の為さった事を責めたりは出来ません。幼少時のアトレお嬢様は、私達メイドの間でも天使のようだと評判で……誰もが自分の娘のように愛さずにいられないほど、愛くるしいお方でした。帰国して再会してからも、その考えは変わらず、兄である若を支えていて立派になられたと思っておりました。ですが、小倉さんに対する敵意の話を聞いてからは……心配しておりました。アトレお嬢様が誰かを傷つけてしまわないかと」

 

 アトレは僕の幸せを願ってくれているのは間違いない。

 でも、何よりも僕を優先してしまう。僕の為ならば、何を差し置いてもアトレは叶えようとすると思う。それが出来るだけの力が僕やアトレにはあった。

 だけど、今回初めて僕らは本当の意味で自分の力で乗り越えないといけない状況に追い込まれた。だから、アトレは混乱している。

 何をすれば良いのか。どうすれば僕の為になるのかが、今のアトレには分からない。

 

「若やアトレお嬢様が産まれる前から、私は旦那様と奥様に仕えておりました。ですから、旦那様がどれほど凄い方なのかを知っています。アトレお嬢様はその在り方を受け継いでいると思っておりました。ですが、今は違います。旦那様は決して、誰かを傷つけたりはしませんでした」

 

「……本当に凄い人だよ、お父様は」

 

「若?」

 

「こうしてエストに仕えて、『支える』ことの大切さを知った今だと、それがどれだけ難しい事なのかも分かった。なのにお父様はお母様だけじゃなくて、皆を笑顔にしてる。僕はそんな凄い人をずっと軟弱だなんて思っていたんだ……本当に軟弱だったのは僕の方だよ。誰かに頼って、それでも沢山の人に迷惑をかけてばかりだ。だから、アトレから離れる事になった」

 

「……私は決して若を責めたりはしません。若が決断しなければ、アトレお嬢様は何時か取り返しのつかない事を為さっていたかも知れません」

 

「ありがとう、壱与。今日はもう戻って良いよ。一人になりたいんだ」

 

「……分かりました」

 

 壱与が部屋を出て行き扉が閉まる音が聞こえた。

 

「……」

 

 声を押し殺して僕は一人で泣いた。

 自分で決断したのに、それでも後悔を抱かずにはいられない。でも、これ以外にアトレに気づいて貰える方法が僕には思い浮かばなかった。

 言葉ではきっとアトレには届かない。これまで頼り続けて来た僕の言葉じゃ駄目だ。

 だから、離れるしかないと思った。

 ごめんなさい、お父様、お母様。僕は生まれてから初めて……アトレと兄妹喧嘩をします。




『八日堂朔莉の密談』

「例のディスクはありがとうございました。おかげで才華さんの役に立つ事が出来たので」

 この相手との電話は緊張で疲れてしまうわ。でも、才華さんの為にしかたあらへん。
 才華さんとエストさんには、畠山さんにお願いしたって言うたけど、実はちゃう。
 幾ら捜しても、ルミネさんの演奏の記録は見つけられへんかった。だから、駄目元であの人に頼った。大蔵家の総裁はんに。
 総裁はんは、私の頼みを聞いてくれて、ルミネさんのピアノの演奏の映像が映されているディスクを、小倉さんの付き人経由で送ってくれた。
 ルミネさんの父親が撮影のプロに依頼して撮った映像や言うから、才華さんにもエストさんにも怪しまれないはず。

『個人的に貴女の事は気に入っていますから、アレぐらいは構いませんよ。あの甘ったれには勿体ないぐらいですね、貴女は』

「私はめちゃ好き。と言うか今日の才華さんを見て惚れ直しました」

 ほんまに惚れ直したわ。あの人に私を選んで欲しいけど、それはまだ決まってへえんから頑張らんとなあ。

『それで漸くあの甘ったれも、ルミネさんの事を本格的に心配し出した訳ですね?』

「ええ、そう」

 才華さんにルミネさんの事を知らせるのは大変やったわ。
 最初にルミネさんの話を聞いとった時は、ルミネさんだけの意見しか聞いてへんかったから、これは危ないと思って、それとなく演技したさかいに。
 気づいて貰えへんかったらどないしようと思ってたけど、才華さんは気づいてくれた。
 本当は詳しい事情をもっと話したい気持ちはあるけど、それはまだあかん。才華さんの為にならへん。
 学院にある悪意はかなりのもんや。総裁はんも手を打っているようやけど、ルミネさんの件で慎重になるしかないようやね。ほんまにルミネさんには困ったわ。

『それと貴女のクラスの担任ですが、残念ですけど、年内で変える事は難しそうです』

「ああ、それは良いわよ。元々不人気の部門だったのは知っているし、同級生達もあんまり不満は持ってないようだから」

 ほんまはルミネさんが羨ましいわ。
 今の教師は残念やけど、本格的に演劇にやる気を見せている人やないさかい。
 教師の実力も充実してるピアノ科が、実はめっちゃ羨ましい。

『代わりに何か困った事があったら言って下さい。流石に要求は全部聞けませんが、今回のような頼まれ事ぐらいはしてあげます。あの甘ったれを陰ながら支えてくれている貴女に出来るせめてものお礼です』

「ワオ! 私、大蔵家の総裁殿と個人的な付き合いが出来るようになったわ! これって凄い事よね」

『……演技は止めて欲しいのですが』

「それは無理。素だと本気で貴女に呑まれてしまいそうだから」

 それだけは無理やね。
 この人、私の演技をあっさり見抜いたさかい。才華さんもアトレさんも、こんなに怖い人を敵に回すなんて、正直怖いもの知らずとしか思えへんよ。

『それじゃ失礼します』

 電話が切れた。
 緊張から来る疲れを感じて、私はソファーに背を預けた。

「……才華さん。頑張ってな。私は応援しとるよ」

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