月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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遂にピアノの演奏会が開始です。

Layer様、獅子満月様、秋ウサギ様、烏瑠様、笹ノ葉様、障子から見ているメアリー様、誤字報告ありがとうございました!


五月上旬5

side才華

 

「うぅ……」

 

 朝早く起きた僕は手元にあるデザイン画を見て呻くしかなかった。

 今日の正午には山県先輩のリサイタルがある。大勢の人が来る事を考えると、調子の悪そうな顔で行く訳にはいかない。

 だから、少しでも調子を良くする為にデザインを描いてみたのだが……その出来は今まで僕が描いた中で一番だと思えるほどに輝いていた。

 ストレスで体調が悪いというのにこの出来栄え。まるで欠けていたピースがスッポリと嵌まったかのような印象さえ覚えるほどに、僕が描いたデザインはこれまでのどれよりも輝いていた。

 理由は何となくだが分かっている。今描いたデザインは、これまでは僕のデザインに必要ないと思っていたお父様の教えも含めて描いてみた。そしたらこの出来だ。

 それが意味する事は……。

 

「つまり……僕が分からなかったデザインに足りない何かって……」

 

 お父様が教えてくれた事の中に、その答えがあったのかも知れない。

 だけど、それがどの言葉なのかが分からない。間違いなくお父様の教えの中に、僕が探し求めていた答えがある筈なのに、それが後一歩と言うところで分からない。

 

「ごめんなさい、お父様!」

 

 僕は本当になんて親不孝なんだろうか!

 お父様は間違いなく服飾において大切な事を教えてくれていたのに、僕は反発していたからそれを受け入れられなかった。

 これが親不孝と言わずになんと言えば良いんだろうか! よくよく思い出してみれば、お母様は一度もお父様の言葉を否定した事がなかった。つまり、お母様もお父様の言葉は正しいと思っていたという事ではないか。

 

「なのに、僕は……」

 

 ずっとお父様を否定し続けていた。心から後悔するしかない。

 しかも、これまで反発して来たせいか、お父様の教えで思い出せるのは半分ぐらい。とんでもない親不孝者だ僕は。

 ごめんなさい、お父様。次に直接会った時は、これまでの非礼を必ずお詫びさせて貰います。

 ……ただ、何となくだが今僕は岐路に立っているような気がする。その理由としては、この前のアトレに関する事でのお母様との電話の時でのお言葉だ。あの時にお母様は確かに言った。

 

『桜小路アトレではなく、アトレとして何か功績を出してみろ』

 

 その言葉が僕にも当て嵌まるのなら、桜小路才華ではなく、才華として功績を上げても良いのだろうか?

 これまで僕は、あの輝かしい両親の息子として輝かしい功績を上げるのは当然だと思っていた。でも、今の僕がしてしまった事を考えれば、最早あの二人に誇れるとは思えない。なら、いっその事、僕もただの才華として今年は頑張ってみるべきだろうか?

 桜小路才華として頑張るか。それともただの才華として頑張るべきか。

 ……いや、どっちにしても今年は小倉朝陽として頑張らないといけないんだけどね。

 

「……そうだ。小倉さんに贈る服のデザインを描き直そう」

 

 以前のデザインも良かったけど、今ならもっと良いデザインが描ける。

 幸いにも小倉さんのサイズが分からなかったので、型紙も引いてなかったから今から描き直す事は出来る。

 何よりも先日、お母様から届いた小倉さんのサイズが書かれたメールに『朝日に贈る服のデザインは、必ず送れ』と記されていた。

 小倉さんの事を気にしているお母様だから、仕方がないかも知れないけど、何気にお母様の審査が入る事になってしまった。前のデザインはエストも認めてくれたけど、お母様だからどうなるかは分からない。

 ならいっその事、今の状態でデザインを描き直して見せてみよう。

 リサイタルが始まる時間までは、まだあるから、集中して僕はデザインを描いて行く。

 

 

 

 

 時計のアラーム音が鳴った。

 そろそろリサイタルに向かう準備をしないと。

 

「まだ、途中だけど結構調子も戻って来た」

 

 デザインを描いていたのは、やはり良かった。これなら問題なくリサイタルに行けそうだ。

 ただ薬だけは一応飲んで行こう。効果はあまり期待出来ないけどね。

 

「服装は……制服にしておこう」

 

 休日とは言え、学院に行くんだから制服を着て行った方が良いだろう。

 昨日学院で会ったジュニア氏も、飯川さんも長さんも制服を着ていたし、日本ではそれが流儀なのだろう。郷に入れば郷に従うべしだ。何よりも僕は日本人なんだから、日本人として行動すべきだ。

 僕は慣れた動きで制服を着て行く。鏡で身嗜みをチェック。

 

「うん。問題ないと」

 

 ジュニア氏の腕はやはり確かだ。

 自分だけで手入れをしていた時よりも、髪が生き生きしているのを鏡を見るだけで感じる。そんな彼の協力をフィリア・クリスマス・コレクションで得られたのは、本当に僥倖だった。

 さて、そろそろ本当に学院に向かわないと。ルミねえはもう行っちゃったかな?

 まだいるなら一緒に行こうかなと考えながら部屋の外に出てみると。

 

「あっ」

 

 普段着の和ゴスを着たアトレと、メイド服を着た九千代が立っていた。

 ……少し目が赤い。壱与が言ってたように、昨日は泣き続けたのかもしれない。

 良く見れば、少し顔色も悪そうに見える。その姿を見て胸に痛みを感じたけど……。

 

「おはようございます、桜小路のお嬢様と山吹さん」

 

「ッ!?」

 

「お、おはようございます、朝陽さん!」

 

 僕の呼び方にアトレは明らかにショックを感じた顔を浮かべ、九千代が慌てて挨拶を返した。

 

「本日はどのような御用でしょうか? 私はこれから学院に向かわなければなりませんので、余り時間が無いのですが」

 

「お、お姉様。そ、その……」

 

「何でしょうか?」

 

 このままアトレと話をするのは不味い。決意が揺らいでしまう。

 やはり僕は軟弱だ。あれだけ決意していたにも関わらず、妹の悲し気な様子を見ただけで決意が揺らいでいるんだから。

 早々にアトレと離れて、学院に向かおう。

 

「用が無いのでしたら、私は学院に向かいたいのですが? 行く前にルミネお嬢様の部屋に立ち寄りたいですし」

 

「そ、その……今日は、わ、私と、こ、九千代は全日本和菓子選手権に行くのですが」

 

「それは楽しそうですね」

 

 言外に結果を出さないと危ないと忠告しておく。

 アトレはお母様から結果を出せと言われているんだ。出さなかったらどうなるか、考えるだけで恐ろしい。

 

「お、お土産を持って来ますから!」

 

「でしたら、エストお嬢様のお部屋にお届けください。主人に内緒で他家のお嬢様から物を頂く訳には行きませんので」

 

「た、他家!?」

 

「はい。私は小倉朝陽。以前は確かに桜小路家にお仕えしていましたが、今はエストお嬢様に仕える身の上です、桜小路のお嬢様」

 

「そ、それは!?」

 

「あくまでそういう設定だったと言われるのかも知れませんが、正体をバレないようにする為にも真実として振る舞わなければなりません。私を慕ってくれているのは大変嬉しいのですが、以前のような馴れ馴れしい態度では今後接触を控えるつもりです」

 

「お、お姉様!?」

 

「アトレお嬢様! 落ち着いて下さい!」

 

 僕に詰め寄ろうとしたアトレを、慌てて九千代が押さえた。

 ……良く見ると、九千代も辛そうな顔をしている。九千代には悪いと思う。僕とアトレの両方を慕っているだけに、どちらか片方だけの味方をするのは、本当は心苦しいのかも知れない。

 でも、今回だけはどうしても、これが必要なんだ。アトレだけじゃなくて、僕の為にも。

 

「それでは失礼します、桜小路のお嬢様。全国和菓子選手権をどうか楽しんで来て下さい」

 

「ま、待って下さい、お姉様! せめて鍵を受け取って!」

 

「必要ありません……それと今まで申し訳ありませんでした。これからは私自身の力で頑張って行きます。後もう一つ……悪いのは……私です」

 

「ああっ……」

 

 背後から悲しさに満ちた声と床に膝を突く音が聞こえたけど、僕は構わずにエレベーターに乗り込んだ。

 壁に背を預けて目を瞑って気分を落ち着ける。アトレはまだ今の僕の状態を知らない。

 知ったらどうなるかは目に見えている。だから、知られる訳にはいかない。

 表示板が64階を示し、エレベーターが開いた。

 

「あっ」

 

 制服姿のルミねえが立っていた。

 どうやら丁度良いタイミングだったようだ。

 

「おはようございます、ルミネお嬢様」

 

「おはよう。朝陽さんも山県先輩のリサイタルに?」

 

「はい。お誘いを受けましたので」

 

「そう。じゃあ、一緒に行こうか」

 

「ええ」

 

 僕とルミねえはエレベーターに乗って地下を目指した。

 

「……そう言えば、昨日のアトレさんとの話はどうなったの?」

 

 ルミねえも気になっていたようだ。

 優しい姉に感謝の気持ちが湧いて来る。でも、今は話す事が出来ない。

 良い報告ではないから。

 

「その件に関してはリサイタルが終わった後に話すよ」

 

「……そう」

 

 事情を察したのかルミねえはそれ以上聞かなかった。

 これから山県先輩のリサイタルがあるんだから、その前に悪い話は聞かせたくない。少なからずルミねえも今日のリサイタルを楽しみにしていただろうから、その前に気分が悪くなるような話はしたくない。

 

「そう言えば髪。スッキリして良いね」

 

「お褒め頂きありがとうございます、ルミネお嬢様」

 

「ジュニアさんの腕は、噂通りだったんだ」

 

「はい、流石は専門家と思えるほどに丁寧に整えてくれました。何でしたらルミネお嬢様もどうでしょうか?」

 

「機会があれば考えてみる」

 

 僕らは他愛無い話をしながら一緒に学院に辿り着き、リサイタル会場だと山県先輩が言っていた第一スタジオ。通称イチスタにやって来た。入り口には今日のリサイタルの協力者と思わしき男性が立っていて、来る人にリーフレットを配っていた。

 僕とルミねえもリーフレットを受け取って、イチスタ内に足を踏み入れる。

 まだ、リサイタルが始まるまでには時間がある。それほど人が集まって……って!?

 

「アレ? あそこに座っているのって、小倉さんと付き人のクロンメリンさんじゃない?」

 

「そう……ですね」

 

 僕らは驚きながらも、制服姿の小倉さんとメイド服姿の付き人のカリンが座っている場所へと歩いて行った。

 ……アレ? そう言えば、僕、小倉さんがいるのに恥ずかしさを感じない。遂に克服出来たのだろうか?

 それとも……恥ずかしさを感じられない程に僕は追い込まれているという事なのか?

 

 

 

 

side遊星

 

「こんにちは小倉さん」

 

「おはようございます、小倉お嬢様」

 

「こんにちはルミネさんと朝陽さん」

 

 山県さんのリサイタル会場にやって来たルミネさんと才華様に、僕も挨拶を返した。

 カリンさんは二人に頭を下げる。今日、カリンさんが一緒にいるのは調査の為とりそなから山県さんのリサイタルを撮るように頼まれたからだ。本当は休日だから休んで貰っても良かったのだが、ピアノ科の生徒達の様子を見るのに今日ほど分かる日は無い。ただ後で撮影した映像は、山県さんに見せても良いか確認しないとね。

 でも、山県さんから教えて貰った個人のリサイタルに、僕と同じように教えて貰った才華様だけじゃなくてルミネさんも来るなんて。もしかしてピアノ科の人達に教えて貰ったのかな?

 聞いてみよう。

 

「ルミネさんも今日は山県さんに誘われたんですか?」

 

「私? 私は朝陽さんから教えて貰って興味を覚えたから。一度、山県先輩のピアノを聴いてみたいと思って」

 

 ……才華様からか。

 視線を才華様に向けてみると、ルミネさんに気がつかれないように僅かに頭を縦に動かした。

 

「……立っていたら疲れますから、座ったらどうでしょうか?」

 

「隣良いの?」

 

「はい、構いません。私も知っている人が隣に座ってくれると安心出来ますから」

 

「それじゃあ、座らせて貰うわね」

 

 ルミネ様は僕の隣に座り、才華様はルミネ様の隣に座った。

 僕らの席は後方に位置している。最前列にはフィリア学院の卒業生と思わしき女性達が座っていた。

 

「朝陽さんだけじゃなくて小倉さんも居てくれてよかった」

 

「何故でしょう?」

 

「う、うん……ちょっと思っていたのと雰囲気が違ったから」

 

 そう言われて、僕は改めてイチスタ内を見回してみる。

 

「このリーフレット、山県君の手作りかな? 本人が手を触れたと思うだけで国宝級家宝のお宝なんだけど!」

 

「今日は一年生も来てるから微妙に人が多いねー。と言うか卒業生まで来てるし。大学で彼氏見つければいいのに」

 

 あれは、入学式の次の日に才華様を呼び出した二人だ。

 僕らに気づく様子を見せないというよりも……意図的に意識から外しているような印象を感じる。

 ルミネさんと才華様が来る前に、僕とカリンさんが来た時点で先に来ていたピアノ科の生徒達に、遠巻きにヒソヒソと話された。運が悪い事に居たのは女生徒ばかりだったから、警戒心が強い。

 何で来ているのと、明らかにお呼びではないという空気を感じた。今は、僕らの事は気にしないでおこうという空気だ。

 これから始まる山県さんのリサイタルを駄目にはしたくはないようだ。女生徒達は彼に嫌われたくないというのもあるだろうが、今日此処に集まった人達は山県さんのリサイタルを楽しみにしているに違いない。

 だから、大蔵家を警戒していても、排除しようというのではなく、意図的に意識から外す事にしている。

 客入りは結構な数が居る。用意されていた席に座れず、床に座ったり、見える位置に立っている人も居た。

 女性だけではなく、男性もそれなりの数が来ている事から考えて、やはり山県さんのピアノには魅力を覚えているのかも知れない。

 やって来た人達は、それぞれ和気藹々としているんだけど。

 ……ただ僕らに声を掛けてくれる人は居ないようだ。その理由は……言われなくても分かる。

 

「……」

 

 僕の隣に座っている、ルミネさんは不機嫌そうに冷めた目をしていた。口では言わないけれど、その目は『一体この馬鹿騒ぎはなんのつもり』とでも言いたげだ。

 その先に座っている才華様も、ちょっと困惑しているように見える。もしかして二人とも、今回みたいな本当に個人のリサイタルは初めてなのかな?

 

「あ、あの、ルミネさん? どうされました?」

 

「あっ、ごめんなさい、小倉さん。ちょっと思っていたのと雰囲気が違ったから」

 

「確かにちょっと騒がしいかも知れませんが、皆さん、山県さんのリサイタルを期待しているのだと思います」

 

「そうなの?」

 

「はい。この雰囲気はファッションショーの前の空気に似ています。これから起きる事にワクワクが抑えきれず、早く始まらないかなと皆さん期待で一杯なんですよ」

 

「でも……」

 

 恐らくルミネさんが、これまで訪れたピアノのコンサートなどは、始まる前は静かな気配を漂わせていたに違いない。

 だけど、今回のリサイタルはあくまで個人的なものだ。お金を払ったり、大々的に宣伝したりする本格的なコンサートではない。寧ろこの雰囲気は小規模なコンクールに近い。

 小規模なコンクールは、冷やかしに見に来る人も多いので、それに比べれば今此処に来ている人達の方がずっと良い。誰もが山県さんがピアノを弾く事を期待しているんだから。

 

「小倉お嬢様は、こういった空気に覚えがあるのですか?」

 

「小規模なコンクールに参加しに行った時とかに覚えがあります」

 

 まだ、お兄様に才能がないと言われて、見捨てられる前の事だ。

 とにかく少しでも結果を出そうと、あの頃はコンクールが在れば小規模でも大規模でも問わずに参加したり、見に行ったりして服飾を学んでいた。

 見捨てられた後は……小規模なコンクールへの参加も認められず、お兄様に従ってショーの雑用係をやらされたりしていた。

 

「小規模なコンクールって、こんな雰囲気なの?」

 

「私が経験したのはファッションショーの方ですから、ピアノの方では分かりませんが、ショーという枠で言えば似た雰囲気ですね」

 

「因みに小倉お嬢様はピアノのコンサートとかには?」

 

「一度も行った事がありません」

 

 僕が告げると、ルミネさんと才華様に聞いたらいけない事を聞いたという顔をされた。

 実際に僕はピアノのコンサートとかに行った事が無い。特別使用人としての教養の為に、ピアノの有名曲だけは聴かされて教えて貰ったけど、コンサートとかには本当に一度も訪れた事がない。

 そう言えば……。

 

「朝陽さんはどうなんですか?」

 

「私ですか? ……私は子供の頃に両親に連れられて、クラシックのコンサートに何度か行った事があります」

 

「それは良かったですね」

 

 思わず笑顔で返答してしまった。

 才華様とルミネさんは何故という顔をしているけれど、僕にとっては嬉しい事だ。

 家族と一緒にコンサートへ行くなど、僕にとっては夢のような出来事だ。きっとその時の桜小路遊星様は、内心ではとても嬉しかったに違いない。

 少しではあるが、僕らの周りに漂っていた冷気のようなものが薄れた。このまま何とか雰囲気を変えられれば良い。そう思っていると、リーフレットを見ていた才華様がルミネさんに質問する。

 

「この初めに演奏するショパンのバラードの一番は難しいのですか?」

 

「難しい。だから山県先輩の演奏を聴くのが楽しみ」

 

「授業で聴いたりしたことはないのですか?」

 

「ないよ。授業は基本的に個人練習だから。同級生の前で演奏するのはキツイし」

 

 だとすると、山県先輩は本当に勇気がある人のようだ。

 りそなの話だと、学院に内緒でレストランなどでもピアノを弾いているそうだから、本当に凄く勇気がある人だと感じた。

 

「あの質問なのですが、人前で演奏して初めて分かる事もあるのでしょうか?」

 

「演奏会だったり、試験だったりの特別な時ならね。でも練習の段階で演奏を見られても、みんな陰で好き勝手に駄目だしするから。ピアノってそういうものだよ」

 

 ……悪い部分を指摘されても気にしないのは不味いよね。ピアノに関しては良く分からないけど、技術面で悪い部分は自分じゃ分からないから、指摘して貰えるのは嬉しいけど。

 ああ、でも、りそながルミネさんは技術は申し分ないって言っていたから、技術に関しては其処まで気にしなくても良いのかな?

 こういう時、素人の僕が言っても素人の意見として見られてしまうから、ルミネさんにはこれだから素人はと思われてしまうかも知れない。

 教養があるりそなかお父様の意見なら聞いて貰えそうだけど、二人はルミネさんのピアノに意見を述べるつもりはないようだから。

 

「でも私の前では演奏してくれますね」

 

 あっ、才華様は聞いた事があるんだルミネさんのピアノ。

 

「朝陽さんに演奏の上手い下手は分からないだろうから」

 

 つまり、才華様もピアノに関しては素人同然だから、練習を聴いても問題ないと思われているという事か。

 喜んで良いのか悪いのか、判断に困りそう。現に才華様も悩むような表情をして考え込んでいる。

 

「因みにカリンさんはピアノは?」

 

「素人です」

 

 ですよね。

 

「だからこうしてリサイタルをするのも、それなりに勇気がいると思う……あ、先輩だ」

 

 件の山県さんの登場と共に、会場中が色めき立った。

 女性の方々は強く手を振って、男性の方々は手を叩いてる。

 ……これはアレだ。アイドルが現れて、喜ぶ雰囲気に似ている。今の会場の雰囲気だけで、山県さんがピアノ科でどれだけ人気者なのかが良く分かった。

 ただ、この雰囲気がお気に召さなかったのか、ルミネさんの頬がとうとうひくつき始めた。不快感を感じているのが目に見えている。ルミネさんの性格上、アイドルに興味が無いというよりも、『何でそんな事をしているの?』と、意味が分からなさそうだから。ルナ様に近いかな?

 ルナ様もこういう雰囲気は苦手そうだから。

 才華様もこの会場の雰囲気に困惑しているようだけど、此方は不快感を感じている様子は無い。純粋に自分が知っている会場の雰囲気の違いに、困惑しているようだ。

 そんな中、山県さんはピアノの前へ座り、まるで此方には気づいていないかのように、鍵盤の調子を確かめた。

 暫らくその音が続いたかと思うと、はっと驚いた顔で僕らが座る観客席を見た。

 

「突っ込んでよ。そのまま演奏を始めるところだった」

 

 これは彼の演出だ。

 現に小さなくすりを会場へもたらした。そのまま山県さんは観客の前へ立ち、その手を挙げて声援に応えた。

 

「ありがとう。今日はリサイタルへ来てくれてありが……皆ちょっと待って。僕の話を聞こう。サイレント」

 

 山県さんが口元へ指を当てると、観客席が静まった。

 ……これだけで彼がどれほど慕われているのかが分かる。彼のピアノを楽しみたい、だからその邪魔はしたくないと観客の誰もが思っているのを感じた。本当にマナーの悪い人は、今の彼の行動だけでは止まらずに騒ぎ続けるから。

 観客席にいる誰もが口を閉ざすと、今度は彼の方が大きく口を開けて笑った。

 

「でもツッコミは何時でも良いから。僕、一人だと面白い事言えないし、タイミングがあればいつでもどうぞ。あ、フォローできる自信がないから、絶対に面白いこと言ってね。じゃあ、改めて。みんな今日は来てくれてありがとう。リサイタルでは初めて見る顔も多いね。新入生の子達だ。まあ自分で声を掛けて回ったから、殆どの顔は知ってるんだけどね」

 

 凄い。

 本当かどうかは分からないけれど、本当だとすれば彼は来てくれた観客の人を大切にする人だ。

 山県さんは最前列の次の席に座る何人かの一年生に微笑みかけた。顔を赤らめた女生徒達を、上級生や卒業生の方々は微笑ましそうに見ている。

 其処には以前才華様を呼び出した時のような、嫉妬の気配は感じられない。

 

「うんそう、力を抜いて。周りの先輩達を見れば分かると思うけど、そんなに堅い場じゃないから。ピアノの演奏だからって肩肘を張らずに、くしゃみしたくなったら我慢せずに思いきりして……まあ先ずはショパンを聴こう。もっかい言うけど力抜いて。さ、弾くよ」

 

 まるで友人に語り掛けるかのようだ。いや、今の彼にとって此処に居る全員が友人なのかも知れない。

 山県さんは気楽さを感じさせるかのように、ピアノの前へ座った。

 気がつけば全身から力が抜けて、リラックスしていた。きっと僕だけじゃない。この会場に居る大半の人が、山県さんの声や仕草で緊張を抜かれた。

 ……これは本当に凄い事だ。ピアノに限らずに、ショーの類に参加する時は観客の誰もがこれから起きる事への期待によって緊張を覚える。その緊張感を彼は無くした。

 凄いとしか僕には思えなかった。

 リラックスした空気の中で彼が弾くピアノの音は、とても自然に気安く耳へ入って来た。

 彼が弾く曲は、昔聴いた事がある。まだ、マンチェスターの屋根裏部屋でお母様と過ごしていた頃に、特別使用人の授業の一環として覚えさせられた。その時には何も感じなかったのに、今は安心感を覚えた。

 自然で安心感を覚える山県さんのピアノに、僕は聞き惚れる。

 だけど、突然彼は馬鹿みたいに笑い出した。

 穏やかな空気だった筈なのに、彼の笑いによって空気が変わった。でも、それは悪い方にではない。

 寧ろ彼の笑いに因って楽しい気持ちになって来る。曲が盛り上がって来ると共に、その気持ちが膨れ上がって来るのを感じて明るくなる。有無を言わさず高揚させられた。

 その気持ちを感じているのは僕だけじゃないのか。

 中には微妙に身体が揺れてる一年生の子もいた。会場の殆どの人が、彼の曲を楽しんでいる。

 

「じゃあ次はガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』を弾こう!」

 

 確かジャズの曲だったろうか? 

 これだけ楽しい気持ちになっているところで、彼は更に楽しさを引き上げる曲を弾く。

 ……間違いない。彼は演出の天才だ。彼がフィリア・クリスマス・コレクションに参加をすれば、観客投票はものにされるかも知れない。

 そんな印象を覚えるほどに、彼のリサイタルは楽しかった。

 それは僕だけじゃない事を証明するように、間に挟まるMCでは、男子が突っ込み、女子が笑っている。演奏中に声を上げる人は誰も居なかった。しかも、ピアノ科の生徒達が発していた僕らを警戒するような雰囲気も消えている。

 まるで警戒するのなんて後回しにして、今は山県さんのピアノを聴く方が大切だと言うかのように、僕らへの警戒心が自然となくなっていた。

 

「じゃあそろそろ仲間を呼ぼう! 前回も一緒にリサイタルをやった、弦楽科の永崎くーん!」

 

「チェロ弾きまーす! 後でソロもやるよ!」

 

「それと同じく弦楽科の大円くーん! こっちはバイオリン!」

 

「イエーッ! みんな大瑛ばっかり見てて少しムカつくけどイエーッ! たまに俺も見てくれイエーッ!」

 

 ソロが終わり、ピアノ三重奏になっても、演奏の素晴らしさは変わらなかった。

 演奏者の三人は互いに笑い合って、今を楽しんでいる事を感じられた。

 本当に楽しくて愉快な時間だった。こんな気持ちになれたのは、こっちに来て二度目だ。

 一度目はりそなの衣装のファッションショー。あのショーとは比べる事が出来ないけど、山県さんのリサイタルも本当に楽しかった。

 全ての曲目が終わった後は、惜しみのない拍手を送った。隣に座っているカリンさんも、撮影が終わると拍手を送っている。その拍手の音から、彼女もこのリサイタルを楽しんでいた事が感じられる。

 才華様も周りの歓声に負けない程に強く手を叩いている。どうやら才華様も彼の演奏が気に入ったようだ。

 ……ただルミネさんだけはリサイタルが終わっても表情を一切変えず、義務程度の音しか出ない短い拍手をしていた。ルミネさんは、山県さんのピアノに何も感じなかったのだろうか?

 

「ありがとう。うん、夏休みもやる予定。そう、また来てね。楽しんでくれた? そう、良かった。今度一緒に演りたいね。いや、演ろう!」

 

 帰りの時間になると、山県さんと共演者の方々は、イチスタの出口のところに立って、一人ずつ見送っている。

 あれだけの演奏をして疲れているだろうに、彼はやって来た観客の人達にちゃんとお礼を述べている。こういう気配りは本当に大切だ。

 僕とカリンさんは最後尾に居る。挨拶を確りしたいから、この位置が一番良い。

 でも、ルミネさんは用が終わったというように前の方に居る。才華様もそれについて行った。

 

「今日はありが……あっ」

 

「小倉朝陽です。本日はお誘いいただき、ありがとうございました。心から楽しめました。入学式の日は、大変失礼しました。その後に気絶した私を助けようとしてくれたと主人から聞きまして、本当にありがとうございます」

 

「そんな、かしこまらないで。ありがとう。元気そうで良かった。小倉さんに……」

 

「出来れば、朝陽の方で、お願いします」

 

「えっ?」

 

「同じ名前が二人いますから」

 

 才華様はゆっくりと最後尾にいる僕に顔を向け、山県さんも僕に気がついてハッとした顔をする。

 

「ええと、じゃあ名前で呼ばせて貰うね。ん! ……朝陽さんに演奏を聴いて貰えて凄く嬉しい」

 

 ……ちょっと嫉妬の気配を列から感じた。

 やっぱり、山県さんはモテるようだ。でも、安心して下さい。

 才華様と山県さんが結ばれる事は、絶対に無いので。

 ……あったら怖いし、僕はきっと泣いてしまうから。

 ただ何故だろうか? 山県さんが微妙に名前を呼べたことを、喜んでいるように見える。気のせいだよね?

 

「大蔵さんも、来てくれてありがとう」

 

 ……空気が僅かにピリッとしたのを感じた。

 

「先輩方の演奏を見学させて頂きました。お疲れさまでした」

 

 ルミネさんは淡々とした受け答えに終始した。確かにあの受け答えなら波風は立たないけど……。

 

「感じワル」

 

「何で来てる訳? あの女が今日のリサイタルを知る筈が無いよ。山県君が誘っているところを見てないもん」

 

「あの気持ち悪い白髪が言ったんでしょう。仲良さそうだし……大蔵家の関係者かも」

 

「どうする。やっぱ呼び出す?」

 

「駄目。アイツに手を出したら総学院長が何かして来るかも知れない。流石に総学院長は敵に回せないって」

 

「……コレだから大蔵家は……あの『メトロノーム』に、山県君のピアノの素晴らしさが分かる訳が……」

 

「待って! それ以上は駄目……もう一人、大蔵家が後ろに居る」

 

「えっ?」

 

 ヒソヒソと小声で話をしていた女生徒達が、僕に気がついた。

 僕は気にせず、カリンさんと会話をする。

 

「どうですか、カリンさん? 撮れましたか?」

 

「確りと撮れました。これなら総裁殿もお喜びになるでしょう」

 

「りそなさんも、山県さんの演奏を楽しみにしていましたから。あっ、でも帰る前に山県さんに許可して貰えるかだけは確認しておいた方が良いですね」

 

 気不味い空気の中、僕とカリンさんは気にしていないというように会話をする。

 その様子に流石に不味いと思ったのか、女生徒達は静かになった。

 やがて僕の順番になり、山県さんの前に立った。

 

「こんにちは」

 

「こんにちは。今日は来てくれてありがとうございます。それと初めまして、山県大瑛です」

 

「小倉朝日と申します。アメリカでは山県さんのお兄さんの大蔵駿我さんに大変お世話になったのにも関わらず、今日まで挨拶が遅れて本当に申し訳ありませんでした」

 

「えっ? 兄さんに?」

 

「はい。一か月ほどですが、駿我さんには本当にお世話になりました」

 

 山県さんは驚いたような顔をして、僕を見てきた。

 でも、すぐに微笑みを浮かべた。

 

「兄さんは元気にしていましたか?」

 

「ええ、元気に毎日仕事を頑張っていました。少しでも助けになるかと思って、私もアメリカにいる間は、毎日朝食とお弁当を用意させて貰っていたんです」

 

 また、驚いた顔をされた。何故?

 

「い、いや、すみません。あの兄さんと普通に付き合える人がいるなんて思ってなくて」

 

 何故か、カリンさんが頷いた。そう言えば、カリンさんは元々は駿我さんの部下だった。

 

「そんな事は無いと思います。確かにちょっと意地悪なところがある方だとは思いましたけど、山県さんの事を心配していましたから」

 

「えっ? 兄さんが僕を?」

 

「空港に見送りに来てくれた時に、駿我さんは、私に山県さんに宜しくと言っていました。これは山県さんの事を気にかけているという事です」

 

「……なるほど。何となくだけど、貴女が兄さんに気に入られている理由が分かった気がする。初めに見た時に、女神みたいな人だなって、思ったのは間違いじゃなかった」

 

「女神じゃありません」

 

 男なので。

 

「ああ、気を悪くしたのならごめんなさい。ただ、貴女から感じた印象を言っただけなので……今日の僕らのリサイタルはどうでしたか?」

 

「とても楽しかったです。私、こういうリサイタルとかに来るのは初めてですけど、それでも今日来れた事が本当に良かったと思えました」

 

「喜んで貰えて良かった。夏にもやる予定ですから、是非また来てください」

 

「予定が重ならなければ、時間を作って必ずまた来ます。あっ、それと……」

 

 僕はりそなも山県さんのリサイタルを見たいと言っていたので、勝手に撮影していた事を謝罪した。

 山県さんと共演者の方々は、撮られていた事を恥ずかしそうにしていたけれど、快く撮影した映像を見せても良いと言ってくれた。

 りそなに見せられる事を僕は喜び、笑顔を浮かべて山県さん達にお礼を告げた。

 ……何故か山県さん達には顔を赤くされた。演奏で疲れていたのだろうか?




また朝日の犠牲者が増えてしまいました。
本当は男なのに、トコトンまで魔性の女の道を歩んでしまう遊星君の明日はどうなるのか?
後、ルミネは絶対にアイドルとかのコンサートとかに行った事が無いでしょうね。

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