月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
今回はリサイタルに関する、ルミネの意見と八日堂朔莉への相談です。
秋ウサギ様、獅子満月様、烏瑠様、笹ノ葉様、畢竟様、誤字報告ありがとうございました!
side才華
山県先輩のリサイタルが終わった後、僕とルミねえは桜の園への帰路に就いた。
小倉さんはアトレの事もあるし、何よりもあの人が今日リサイタルに来たのは山県先輩への挨拶の為に違いない。
ピアノ科の生徒達の事で少し心配だけど、付き人のカリンも一緒に居たから問題は無いと思う。
……寧ろ問題は僕の方にある。
「……」
前を歩くルミねえは、全身から不機嫌そうなオーラを発しているのが一目で分かるほどに機嫌が悪い。
そんなに山県先輩のリサイタルはお気に召さなかったのかな? 僕は寧ろ此処最近で一番楽しかった。
彼が開いたリサイタルは、実に愉快で楽しい時間だった。これまで僕が行ったコンサートではありえない光景だった。話に聞く、ポップスのライブ会場みたいに思えた。
でも、これだけはハッキリと言える。今日、僕は山県先輩のリサイタルに行って良かった。
だけど、ルミねえはどうなのだろうか? 聞きたいけど、一目で分かるほどに不機嫌そうなルミねえに聞く勇気は持てないよ。
そう思っていると、ルミねえが時計を確認し、付近の店の中へ視線を向けた。
「時間があるなら昼食でも食べて行く?」
「もしよろしければ、私がお作りしましょうか?」
「ん? 朝陽さんが?」
「はい。ルミネお嬢様と二人きりも良いかと思いまして……話したい事もありますし」
ルミねえは『ああ』と言う顔をした。桜の園へ戻れば、僕が才華として話せると気付いてくれたみたいだ。
「でも、うん。料理は私がしようかな」
「ルミネお嬢様の手料理ですか?」
「自分以外に食べた人が居ないから感想を聞きたくて」
「光栄です」
少しお腹が痛くなったのは秘密だ。ひいお祖父様に知られたらと思うけれど、此処は我慢だ。
アトレの事も話さないといけない。僕の部屋は狭いから、ルミねえの部屋へお邪魔させて貰う事にした。
「山県先輩の演奏は、それほどでもなかった」
思わず、ルミねえのお手製のパスタを口へ運ぼうとした手が止まりかけた。
因みに、ルミねえの作ったサーモンとトマトの冷製パスタは、市販のパスタに市販のソースをかけて市販の具材を切っただけなので、当然のように美味しかった。次はもっと個人差の出るものを期待しよう。
で、それはそれとして……やっぱりルミねえは山県先輩のリサイタルをお気に召していなかった。
「山県先輩がそれほどでもないって言うのは、演奏の技術の話?」
「うん……え、それ以外に何を評価すれば良いの?」
「リサイタル全体の雰囲気とか?」
「は?」
お願いルミねえ。
そんな、あからさまに不快な表情をしないで。食べた物が、以前の僕なら絶対にあり得ない事で外に出てしまうから。
とにかく機嫌を直して貰う為に、柔和な笑顔を浮かべた。引き攣っていないと良いなあ。
でも、なんとかルミねえに機嫌を直して貰うように努めた。
「リサイタルの雰囲気って、あの会場の話? 何だったのあれ。子供のお遊びみたいだった。行って損した」
……其処まで言わなくても。
その上に、『馬鹿じゃないの』まで付け加えそうだったけれど、それは言い過ぎだと分かっているのか、口を一瞬もごつかせただけで感想を止めた。
少し……いや、かなり言い返したい気持ちがある。
だけどこれ以上は相手の機嫌を損ねるだけだと思い、僕はフォローが出来なくなった。と言うか、明らかにルミねえが認めないと分かっていて、どうして全体の雰囲気を評価して貰おうと試みたんだろう。
……少し考えて答えが分かった。山県先輩のリサイタルがとても楽しかったからだ。正直に言えば、また行きたいほどだ。だけど、ルミねえがあの手の賑やかさを好まないのも分かってる。
それでも少しぐらい肯定的な意見を僕は、ルミねえから聞きたかったんだ。
ただ、一応気になったので質問してみる。
「ルミねえは、小規模コンクールとか出た事はあるの?」
「ああ、小倉さんの話ね……無いよ。私が出ているのは、中規模以上のコンクールだけだから。でも、もし本当に小倉さんの言っている事が本当だったら、参加しなくて良かった。あんな雰囲気で演奏なんてしたくない」
僕も小規模コンクールに参加した事がないので、ルミねえの意見を否定する事が出来ない。
この身体だから、僕が参加しているコンクールは雑誌に記載されているコンクールばかりだった。ルミねえが言う中規模以上のコンクールしか経験した事が無い。
お母様も僕と同じの筈だ。お父様は経験の為に小規模もやってみた方が良いと言っていたけれど……反抗期の真っ最中だったから無視していた。何事も経験は必要だったんですね、お父様。
経験していたら、ルミねえにも意見が言えたかもしれないのに。
だからとりあえず『雰囲気』の一つ前。『技術』の話題に戻そう。
「僕は素人だから、演奏の良し悪しまでは判別がつかなかった。普通に上手だなと思ったよ」
「え、全然。間違っても、下手ではないけど特別上手いわけでも絶対にない。あの演奏なら、コンクールで入賞の実績のある人の方が上手いよ。先生の言ってた事の方が正しかった。山県先輩は女の子に人気があるみたいだし、周りが持ち上げて騒いでるんだと思う」
本当にそうなのだろうか? あんなに皆楽しそうにしていたのに。
「今日は得るものがなかった。やっぱり他人を気に掛けるよりも、自分の演奏を高めるのが大切だね」
いつになく辛辣な言葉で、ルミねえは山県先輩の演奏を扱き下ろした。
プライベートのルミねえがこれほど思った事を口にするのは珍しい。期待していただけに、それが裏切られた事が余程腹に据えかねているという事だろうか?
「今度は私から質問。昨日のアトレさんとの話し合いはどうなったの?」
「アトレとは、心の距離を取る事にしたよ」
ルミねえは目を見開いて僕を見つめた。だけど、すぐに険しい顔で僕を睨んだ。
「才華さんはそれで良いの?」
「……良い訳ないよ。でも、このままじゃアトレは僕の為に誰かを傷つけてしまう。それがルミねえかも知れないし、もしかしたらお母様やお父様なのかも知れない。アトレは今、混乱しているんだと思う」
「混乱?」
「うん。アトレだけじゃなくて、僕もだけど。僕らはこれまで誰かが必ず味方してくれると思っていた。ルミねえや伯父様……アトレにとっては総裁殿も、必ず最後には僕らを助けてくれると思っていた。でも、今回は違う。総裁殿も伯父様も絶対に味方してくれるとは限らない」
「まあ、そうだね。総裁殿に至っては、本当に怒っているし」
「僕らにとっては本当に初めての事だよ。お母様やお父様に話す事も出来ない……全部僕が悪いんだ」
「才華さん」
「だから、アトレにも気がついて欲しい。誰かを責めたら駄目なんだ。責任は全部、始めた僕にあるんだから」
距離を取る以外にも方法はあったかも知れない。
でも、これまでアトレに頼り続けて来た僕の言葉じゃきっと届かない。迂闊に『僕の為』なんて言ったら、アトレは動き出してしまう。
「部屋の鍵も返して来た。以前のように馴れ馴れしい態度は、今後は控えるよ」
「……分かった。才華さんがそう決めたのなら、私は何も言わないけど、アトレさんが私に相談して来たら相談には乗るよ。私にとって才華さんもアトレさんも大切な人だから」
「うん。ありがとう、ルミねえ」
「食事を続けよう」
「そうだね。せっかくルミねえが作ってくれたパスタなんだから」
「市販のものばかりだけど」
「でも大蔵ルミネの手料理を食べられるのは、本人と僕だけだから」
「まあそうだね。今のところ」
不安は感じているだろうけど、少し機嫌が直った。その後はお互いの授業の話なんかして、適度に楽しい昼食を過ごした。
でも本音を言えば心配だ。もちろん技術的な部分に口は出せないし、ピアノの世界の常識やしきたりのようなものが僕には分からない。
だけど、ルミねえの演奏と山県先輩の演奏。同時に演奏会があったとして、僕が親戚ではなく、純粋な観客として足を運ぶとすれば、どちらの会場へ向かうのか。
演奏中の山県先輩は、本当に楽しそうな顔で、笑いながらピアノを弾いていた。
比べて練習中のルミねえは、睨むように自分の指先を見つめている顔ばかり。
八日堂朔莉から渡されたルミねえの本気の演奏が記録されているディスクの中身を、僕はまだ見ていない。山県先輩のリサイタルが終わった後に見るつもりだったからだ。
それなりに付き合いがあるのに、八日堂朔莉は、ハッキリとルミねえのピアノを『つまらない』と言っていた。もしも事前に聞いていたら、山県先輩と比較してしまいそうで怖かったからだ。
技術は心だなんて綺麗事を言うつもりはないけど、心も大切だと今日の山県先輩のリサイタルを聴いて改めて思った。
だから、もしルミねえが笑いながらピアノを弾いてくれたら、僕はとても嬉しいだろうなと容易に想像出来た。
幼い頃にピアノを弾いてみせてくれたルミねえは、少し澄ましつつ、いつも僕に笑いかけてくれていた気がする。
ああ、だから山県先輩の演奏を見た時に、僕は目頭が熱くなったんだ。原因が分かったらスッキリした。
「それじゃあまた」
「うん……元気を出してね」
「ありがとう、ルミねえ」
礼を言って僕は、自分の部屋がある2階に戻った。
すぐに自室に入り、すぐさま八日堂朔莉から渡された映像ディスクを機器にセットする。
そして僕は、映像に記録されていたルミねえの本気の演奏を聴いた。
「……」
見終えたディスクを片付ける。
そのまま机の上に置いておいた携帯を手に取って、メールを打つ。返事はすぐに返って来た。
無言のまま僕は立ち上がり、44階に向かった。
「待ってた」
44階に到着すると、エレベーターの前に八日堂朔莉が立っていた。
「相談に乗って頂けますか?」
「OK」
本当に初めて会った時は、彼女と此処まで仲良くなるとは夢にも思ってなかった。でも、今、僕がルミねえの件で相談できる相手は、彼女しかいない。エストも今日はいないし。
何よりも彼女は僕が気がつくよりも早く、ピアノ科の事を知っていた人だ。この件に関してだけは、エストよりも頼りになる。変態なのが問題だけど。
部屋に案内された。相変わらず白一色の部屋だ。
「元気が無さそうね。ままかりいる?」
「無理です。許して下さい。今まで頂いた分をうちのお嬢様と二日に一度食べていますが、未だになくなりません」
ままかりそのものは驚くほど美味しかったのだけれど、流石に貰い過ぎた。エストも最初は白いご飯に合うと喜んでいたけれど、今ではおやつ代わりにひょいぱくしてる。
「それで今日のリサイタルはどうだったの?」
「とても楽しかったです。今までも何度かピアノのコンサートに行った事はありますが、此処まで楽しめたのは今日が初めてです」
これは本心からの言葉だ。ルミねえの前では言えなかったけど、彼女にはリサイタルの感想を本心で言える。
……付き合いが短いのに、八日堂朔莉に本音が言える事は目を瞑ろう。だって、不機嫌な時のルミねえって、本当に怖いんだもん。
「そっ。それは良かった。私の方も気分が良いの。昨日の目論見は大成功! ルミねえさんやエストさん、それにアトレさんが学友を呼んでくれたから、私の事を嫌っていた共演者の驚きっぷりは本当に爽快だった! 私には私に相応しいだけの友人がいるのだと証明出来たから」
あれ? 僕は?
「中でも一番は貴女ね。何度も紹介を求められて大変だった。其処は畠山さんに断っておいてと任せてしまったけれど。でも暫らくは言われ続けるんじゃないかなあ。みんな、貴女に興味深々だったわ」
やはりそうなるんだ。久々に大変に気分が良い。
芸能関係者相手でも、僕の容姿は充分に美しく見える。惜しむらくは、あの現場ではカラーコンタクトと黒のウィッグを付けてしまっていた事だ。
お母様譲りの緋色の目と美しい白髪も是非見せたかった。
「それで気分が良くなったところで質問だけど、私が渡したディスクの中身は見た?」
……気分が降下した。
いや、上がっていなかったら言い出し難かったから、気分を上げて貰えたのは助かったけど。
それを考えて先ほどの話をしてくれたのかな?
「そ、そうですね。映像に映っていたルミネお嬢様のドレスは大変素晴らしく、容姿と合わさって観客の方々には見惚れた方々もいると思いました」
「容姿やドレスの評価じゃなくて、私が聞きたいのはルミネさんの演奏の方よ」
一番答え辛い質問が来たよ。
八日堂朔莉は分かっているのか、ニヤニヤと笑っている。忘れていたが、彼女は僕と同じSだ。しかも白髪をこよなく愛するドS。
そんな彼女にとって、自分の言動で右往左往する今の僕の姿は、さぞかし快感を覚える事だろう。
「……くつでした」
「良く聞こえなぁい」
このドS。
「退屈でした! 今日のリサイタルと比べると、ルミネお嬢様の演奏は本当に退屈だと感じました!」
思いっきり僕は、心からのルミねえの演奏の感想をぶちまけた。
だって、本当にそうとしか感じられなかった。映像に映っていたルミねえは素敵な衣装(恐らくメリルさんの作品)を着て、舞台栄えしていた。
だけど、肝心のピアノの演奏は……山県先輩の演奏を聴いた後だと退屈としか感じられなかった。それでも入賞したのだから、ルミねえの演奏は素晴らしいものの……筈なのに僕は、山県先輩の演奏の方が楽しく感じた。
映像に映っていたルミねえは、練習の時と変わらず、ピアノの鍵盤を見つめて、恐らく一度のミスもない完璧な演奏をこなしてみせた。表情を変えず、見ている側を固まらせそうな目で己の手を睨み、真剣にルミねえはピアノを弾き続けていた。演奏が終わった後も淡々とした表情でお辞儀をして、舞台をルミねえは去った。
あの演奏は入賞した事から考えて、間違いなく素晴らしい演奏の筈なのに……僕には退屈としか思えなかった。評価されて素晴らしい演奏だと表彰されたルミねえの演奏が。
「私も退屈に感じた。だって、私、ピアノの技術とか素人だから」
「……何故私はルミネお嬢様のピアノを退屈だと感じたのでしょう? ルミネお嬢様が言うには、山県先輩のピアノの技術は下手ではないけど、特別に上手い訳でもないと言っていました。でも……私には山県先輩のピアノの方が楽しく思えました」
「それなら簡単。私と貴女はピアノに関して素人でしょう。曲とか知っていても、技術に関しては本当に素人。だから、技術じゃなくて他のもので評価する。演出とかでね」
演出? ……そうだ。山県先輩のピアノとルミねえのピアノで一番違うのは、演出だ。
山県先輩のリサイタルは、観客である僕らが楽しめるように曲が組まれていた。更に彼は曲の良さを示す為に、目線や動き、仕草で表現していた。
対してルミねえはどうだろうか? 映像の中のルミねえはずっとピアノに向かっているだけで、観客を気にした様子が全くなかった。
「覚えているかしら。ほら、確か私がルミネさんを映画の撮影に誘った時の事だけど、ルミネさん。私達が全員で良い衣装だと言ったデザインを理解出来ない様子だったでしょう」
「ええ、覚えています」
今でも僕はパル子さんのデザインを素晴らしいものだと思っている。
正直に言えば……今のデザインならともかく、少し前の僕のデザインではパル子さんに勝てる自信が無い。彼女のデザインはそれほどのものだった。
「服飾に関しても私は素人だったけど、それでも良い衣装だと思った。これは個人的な感想ね。でも、朝陽さん達は違ったでしょう。衣装の素晴らしさもあったかも知れないけれど、技術に関しても称賛していた。だけど、技術と成ったら私やルミネさんには分からない。だけど、私は良い衣装だと思えた。何が言いたいのか分かる?」
「……『感性』。ルミネお嬢様のピアノに足りないもの。私がルミネお嬢様のピアノを退屈だと感じたのは、それですか?」
八日堂朔莉は黙った。それが何よりの答えだった。
服飾とピアノに関しては分野は違う。だから、別の分野の僕がルミねえのピアノの技術に何か意見する事は出来ない。
だけど、服飾とピアノに関して共通するものもある。それは『ショー』だ。
ピアノに関してはコンサート。服飾に関してはファッションショー。これ等は観客が居るからこそ、成り立つもの。観客に人気のないコンサートやファッションショーがどうなるかなんて分かりきっている。
その点で言えば今日の山県先輩のリサイタルは、本当に素晴らしいものだった。『ショー』としては間違いなく大成功だ。
対してルミねえのピアノ。技術を審査する『コンクール』の類なら、問題は無いのかも知れない。でも、『ショー』ならばどうだろうか?
「私がルミネさんはフィリア・クリスマス・コレクションで最優秀賞を取れないと思ったのは、観客投票が理由。技術の評価なら、学院側が用意した審査員がしてくれる。だけど、フィリコレはそれだけが審査対象じゃない。幾らルミネさんが技術で秀でても、観客の人達が評価するのは、自分達が楽しめたか素晴らしいと感じたものだもの」
演技と演出の世界でのし上がって来た八日堂朔莉の言葉には重みがあった。
僕が夢の舞台と定めたフィリア・クリスマス・コレクション。それは技術を競い合う場と言うだけではなく、演出の舞台である『ショー』だ。
ルミねえがこれまで評価を受けて来たコンクールの舞台とはまた違う。
総裁殿はきっとこの事に気がついていた。だから、最優秀賞を二つ取れと言っていたんだ。
……今のルミねえでは、フィリア・クリスマス・コレクションで最優秀賞を取れない事が分かっていたから。
「……どうすれば良いのでしょうか?」
「どうにもならないと思う。ルミネさんの性格だと、意見を言ったら間違いなく不機嫌になるだろうし。現に意見を言おうとした教師がどうなったか、覚えているでしょう?」
……嫌と言うほどに覚えてる。
その教師の本心はもう分からないけど、もしもルミねえの弾き方に問題があって、それを指摘しようとしたら、その教師は学院から居なくなった。
今でも僕は邪な目的で教師がルミねえに触れようとしていた事を願っている。教師には悪いという思いはある。でも、もしも違っていたら……その時追い出したルミねえは耐えられるのだろうか?
「話は戻すけど、今日のリサイタルのルミネさんの感想はどうだったの?」
「……良くありませんでした」
「……聞くけど、それってまさか、露骨にリサイタルの場で出していないわよね?」
「……」
沈黙で答えるしか僕には出来なかった。
答えを察したのか、八日堂朔莉は苦い顔を浮かべた。気持ちは凄く分かる。
「何とか小倉お嬢様が気を逸らそうとしてくれたのですが」
「ああ、小倉朝日さんも来てたんだ」
「はい。そのおかげで今日のリサイタルの雰囲気が、小規模なコンクールに近い事が分かったのですが、何分私もルミネお嬢様も小規模なものに参加した経験がありませんので」
「せっかくのフォローも通じなかった訳ね……これは私の話だけど、本当に実績が必要だと形振りなんて構ってられないわよ。勿論客観的なイメージを大切にするという考え方も良いけど、それが許されるのは恵まれている人達じゃない。だって、私なんて、自分より演技の上手い人は、山程居るのが前提なのだから」
耳が痛い言葉だ。僕も恵まれた側の人間だから。
逆に小倉さんとか恵まれていない人は、少しでも実績を得ようと小規模なコンクールに参加していたのかも知れない。どうやら八日堂朔莉もその類の経験をしていたようだ。
「演技のみで勝ち残っていくのは難しいものですか?」
「私はそう思った。生活を演技のみに注ぎ込むのはみんなやっている事で、一日は平等に24時間しかないんだもの。じゃあ同時に何が出来るかでしか競えないじゃない」
「相当の苦労があったことは容易に想像できますが、成功するまでにはたとえばどのような?」
「日本人の親って、監督とのセックスは許しても、子役のヨゴレは嫌がるの。私には親が居なくて好きな人が居たからその逆。結局裸にはならなかったけど、酷い役はいっぱいやった。お金はあったから、荒業も使った。それでも貰えるのは足で踏まれるだけの子供の役。でも出させて貰えるだけでありがたかったなあ」
……思っていた以上に彼女も苦労していたようだ。
僕なら正直言って耐えられそうにない。
「それだけではないのでしょうけれど、そのような経緯があったのですね。成功を掴むまでには」
「だから、私はこの件ではルミネさんよりも山県さんの方に味方したい。彼はリサイタルを個人的に開いて、観客を集めようと努力しているから。これって、本気でピアノを頑張っている証拠だと思う」
確かにそうだ。ルミねえだって始まる前に言っていた。
個人的にリサイタルを開くのは、勇気のいる事だって。彼はそれだけ本気でピアノに熱意を向けている。
でも、ルミねえは? 彼ほどにピアノに熱意を向けているのだろうか?
僕には分からない。昔は誰よりもルミねえの事を知っているつもりだった。
でも、今のルミねえは分からない。彼女は今、昔の純粋な子供の頃のピアノを覚えているのだろうか?
「……今日も相談に乗って頂きありがとうございました」
「相談に乗ることぐらいしか出来ないけどね」
「それでも、こうして相談に乗る事で沢山のものが見えるようになりました。何かお礼をしたいのですが」
流石に身体を差し出す事は出来ないけど、それ以外なら八日堂朔莉の頼みを叶えたい。
「それじゃあ、質問だけど、朝陽さんは演技に興味はない?」
「演技ですか?」
オウム返しで質問に答える程度に驚いた。てっきりまた髪の毛や抱き付きかかるぐらいの要求を出されると思っていたのに。まさか僕を本格的に演技の道へ誘うつもりでいるのか。
何でもやってみたい気持ちはあるけれど、あくまで本業はデザイナーだ。そのデザイナーが続けられるかどうかは、フィリア・クリスマス・コレクションの後で決まる訳だけど。それに八日堂朔莉と付き合えるのも今年だけかも知れない。
安易な返答は出来ないと真剣に検討していると、八日堂朔莉はねっとりとした笑みを浮かべた。
「ごめんね、勘違いさせて。別に此方の世界へ誘いたいわけじゃなくて」
「そうでしたか。芸能関係者が私に興味を持った、という話の後だったので、少し本気にしてしまいました。恥ずかしいですね」
「それならもっと恥ずかしがって。言葉と肌の色が一致してない」
「質問の回答になりますが、あらゆる経験に興味はあります。とはいえ、私が目指しているのは服飾デザインです。その道のプロである朔莉お嬢様から、演技の指導をしていただけるのでしたら興味があります。ですがそれはデザインを豊かにする為であって、将来的に演技の道へ進みたいわけではありません」
「ありがとう、とても良く分かった。でも私が聞きたかったのは、興味があるかないかの二択」
「でしたら興味があります」
「それならいつか私の書いた脚本が完成したら読んでくれる?」
「脚本ですか?」
何だかとても興味深い話が出て来た。
「そう。何度も何度も書き直しているから、完成なんてするのかも分からないけれどね。それも子供の頃の妄想を物語にしているから、とても陳腐で空想的。どう?」
「もちろん。見せて頂けるのなら喜んで」
「欲張って相談してしまうこともあると思うのだけど、良い?」
「これだけ私事で相談に乗って貰っているのですから、私で良いのなら寧ろ是非お受けさせて貰います」
彼女には本当に沢山の恩がある。
その恩を僅かでも返せるのなら、喜んで僕は引き受けよう。
「素敵。いろいろ漏れそう。好きな人に私の妄想の世界を見て貰えるなんて」
「デザイナーは皆、自分の妄想を恥ずかしげもなく他人に晒している生き物です。好んで羞恥プレイに身を委ねているようなものですよ。その点、役者の皆さんは、他人の行為に協力するだけで、自分の恥ずかしい思いをすることはそうそうないでしょう。先達として羞恥を受ける側の楽しみを教えてあげます」
「授業料は言い値でお支払いするつもり」
「ではセクハラ及び私の髪に触れるのを禁止で」
「無理ィー!」
裏返ったも同然の声で八日堂朔莉は叫んだ。
まあ、セクハラ行為には思うところはあるけれど、これまでの彼女の手助けを考えたら流石に冗談だけどね。
本当に彼女には助けられているから。
「冗談ですので、安心して下さい」
「ほんとよね!? 朝陽さんの髪に触れられないなんて、考えるだけで身体が震えてしまう!」
「これまで何度も相談に乗って頂いて、助けて貰っているのですから。多少のセクハラは見逃します……あの朔莉お嬢様? 多少ですよ? ですから脱ぐのを止めて下さい。脱いだら呼びます、警察を」
「ちっ」
八日堂朔莉は脱ぎかけていた服を着直した。
本当に脱ぐつもりじゃなかったよね?
「見せられるようになるのは、一年先か、二年先かも分からない。その時が来たら、こっそり相談させてね」
わりとベタ甘な声を発してる。そういうキラキラした態度は嫌いじゃないけど……出来れば今年中に見せて欲しい。来年は僕はフィリア学院に居ないだろうから。
「それではそろそろお暇させて貰います」
「相談ぐらいしか乗れないけど、頑張ってね。何だったらキスして元気を分けて上げても良いわよ」
「一日絶食したベンガルトラと朔莉お嬢様のキスが見られれば、きっと元気になれると思います」
「そのベンガルトラが白髪なら考えておく。じゃあね」
ホワイトタイガーって幾らくらいするのかな。後で調べておこう。
そんな下らない事で気を紛らわせながら僕は部屋に戻り、すぐさまトイレに駆け込んだ。
……ルミねえ、ごめん。せっかくの手料理を台無しにしてしまった。
「……本格的に……どうしよう?」
口元を拭いながら、僕は現状の不味さに頭を抱えたくなった。
フィリア・クリスマス・コレクションで大いに期待していたルミねえ。それが絶対とは言えなくなった。
今日のリサイタルで、ピアノ科の生徒達がルミねえと距離を取っているのは明らかだ。
……だって、小倉さんを除いて誰一人としてルミねえにあの場に居る全員が挨拶に来なかった。
今はまだ良い。ルミねえ本人が気にしていないから。でも、これからどうなるかは分からない。僕が助けられる事なら助けたいけど、こんな弱った状態で護りきれるとは思えない。
未だに分からないピアノ科の生徒達が大蔵家を警戒している理由。その理由もまだ見えてこない。
伯父様に聞いても、自分で蒔いた種だと言うだけで終わりそうだ。あの人は大蔵の人間には厳しい人だから。
なら、小倉さんに尋ねる? それは駄目だ。今のあの人は学生に扮した調査員の立場にいる。
もしかしたらあの人なら、立場を無視して助けてくれるかも知れないけど、それに甘えるなんて最低だ。
あの人を僕はこれ以上に無いほどに傷つけているんだから、これ以上の迷惑はかけたくない。
なら、山県先輩の保護者である駿我さん。
……駄目だ。あの人は、今の伯父様以上に力を貸してくれるとは思えない。
誰か居ないだろうか? 大蔵家の内情に詳しくて、僕に力を貸してくれる人は。
「……いた」
一人居る。
あの人に相談するなんて、これまでは考えた事もなかったから、無意識に除いていた。
でも、今なら……あの人の偉大さを理解した今なら。
だけど、本当にそれで良いのだろうか? 女装してフィリア学院に通っている事は隠すにしても、下手をすればあの人が日本に来てしまう。
過保護なあの人なら、絶対に来るに違いない。アトレの事も心配しているだろうし……何よりもどの面を下げて相談すれば良いんだ。これまでずっと否定し続け、傷つけて来たあの人。お父様に。
選択肢が発生しました。
【遊星に相談する】(親子の絆がUP。ストレス値が低下。ルミネ関係の裏の事情を把握)
【遊星に相談しない】(ストレスで遂にダウン。エスト、朔莉、ルミネの看病イベント発生&朝日がアトレに襲われるイベント率UP)
因みに話すのはあくまでルミネ関連の話だけで、女装して学院に通っている事までは話しません。後、遊星が日本に来る事はありません。朝日の話で、甘やかし過ぎるのは不味いと分かっていますので。