月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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取り敢えずルミネの問題の突破口らしきものを見せました。
尤も根深い問題なので、あくまで突破口でしかありませんが。

秋ウサギ様、KJA様、獅子満月様、笹ノ葉様、吉野原様、烏瑠様、誤字報告ありがとうございました!

【選択肢】
【遊星に相談する】←決定!
【遊星に相談しない】


五月上旬(才華side)7

side才華

 

 お父様に尋ねよう。

 恥知らずだと罵られても構わない。でも、もうお父様に尋ねる以外に僕には方法が無い。

 アトレと距離を取る前に調べた山県先輩の周辺には、怪しい行動はなかった。間違いなく大蔵家と距離を取っている。と言うよりも、大蔵家側が殆ど無視していると言うのが実情だ。

 なのに、ピアノ科の生徒達は大蔵家を明らかに警戒していた。その中心には間違いなく、山県先輩がいる。

 伯父様もルミねえの件には協力を望めない。総裁殿も手を出すつもりが無いのは明らかだ。

 真実を知る為には、大蔵家を良く知っている人物の協力が必要だ。

 ……これまで散々冷たくして来た事に、後悔しかない。思い出してみれば、あの人は何時も僕の話を聞いてくれて、語り掛けてくれていたのに。

 恥知らずだという事は分かっている。でも、どうか僕に力を貸して下さい、お父様。

 

「……」

 

 緊張する。電話を握る手が震えて仕方がない。相談を持ち掛ける決意は出来た。

 最初になんて言葉を言おう。何時も通りの僕で……何時も通りの僕とはどんな人間だったのだろうか?

 ずっと素っ気ない態度を取って、お父様を悲しませてきた。あの人は笑顔を浮かべていたけど、きっと心の中では傷ついていたに違いない。

 ……謝罪しよう。これまでの事を全て。本当は直接会った時にしようと考えていた。でも、今はもうそんな余裕は無い。

 電話番号を押した。彼方の時間だと、まだ朝早い時間だ。お母様は僕と同じで朝が弱い。

 でも、お父様は何時も誰よりも早起きして、温かな笑顔を浮かべて僕達に挨拶をしてくれた。何気ない毎日が、今の僕には懐かしく感じる。

 お父様は出てくれるだろうか?

 

『もしもし、才華?』

 

 出てくれた。今一番、聞きたかったお父様の声が、電話を通して僕の耳に届いた。

 自然に涙が零れた。辛かった心が、不思議と安堵感に包まれるのを感じる。

 

『さ、才華。もしかして泣いてるの?』

 

「……んなさい」

 

『えっ?』

 

「ごめんなさい、お父様!」

 

『さ、才華? ほ、本当にどうしたの? 何かあったの? もしかしてアトレの事で何かあった!?』

 

 急に謝られてお父様にも訳が分からないだろう。

 でも、どうしても謝罪の言葉を言いたくて仕方がなかった。

 

「今更厚かましくて恥知らずかもしれませんが……お父様。力を貸して下さい」

 

『……うん。分かった。話して、才華。君が何を悩んでいるのか。アメリカに居る僕が力になれるか分からないけれど、話して貰いたい。何があったの、才華』

 

「……今日、僕は山県大瑛さんのリサイタルにルミねえと一緒に行きました」

 

『山県大瑛さん? ……その名前は確か駿我さんとアンソニーさんの弟さんの名前だよね? そうか、彼は今は日本に居たんだ』

 

 お父様は山県先輩の事を知ってるようだ。でも、何故アメリカに居た頃に僕らに山県先輩の事を教えなかったのだろうか?

 

「ご存知だったのですね、山県さんの事を」

 

『うん。彼の事は知っていたよ。才華達には話していなくてごめんね。彼自身が大蔵家と距離を取っているのを知っていたから、僕もアメリカに住んでいる事は知っていても会わないようにしていたんだ。本当は会いたかったけどね。駿我さんから僕に会わせたいと言ってくれていたんだけど、会ったら逆に迷惑になりそうだったのもあるんだ』

 

 何処かで聞いた話だ。そうだ、ジュニア氏だ。

 彼から父親のアンソニーさんも、山県先輩に会ったら迷惑が掛かると言っていたのを教えて貰った。

 お父様もアンソニーさんと同じだったとは。でも、本当に何故?

 

「何故お父様が山県さんに会ったら、山県さんに迷惑が掛かるのですか? 同じ大蔵の血を引く人ではないですか」

 

『……山県さんはお爺様に嫌われているんだよ』

 

「えっ?」

 

『彼が何かした訳じゃない。でも、お爺様は彼の事が嫌いなんだ。父親の富士夫叔父さんに認知されていないのもあるけれど、元々お爺様は非嫡出子は嫌いで、山県さんは認知もされていないから尚更に嫌っているんだ。彼を引き取った駿我さんともかなり揉めたらしいよ』

 

 ……なんだそれは?

 山県先輩は何も悪くないじゃないか。悪いのは愛人を作って、更に子供まで産ませた富士夫大叔父様の方なのに、何故彼を嫌い、引き取った駿我さんの方がずっと立派な事をしたのに、何で揉めるんだ?

 

「ですが、お父様は認められているではありませんか!?」

 

『僕が認められたのは運が良かったに過ぎないんだ……才華も知っているでしょう? お兄様には大蔵家の血が流れていない事を』

 

 確かに聞いた事がある。

 子供の頃に、伯父様には大蔵家の血が流れていない事を。とは言っても、僕らには関係なく優しくしてくれるからこれまで気にした事は一度も無いけど。

 

『お兄様が大蔵の血を引いていない事を知ったお爺様は、大蔵の血を引く僕を受け入れる事にした。それまでは……僕の事だって嫌っていた。お父様が僕を認知する時も、かなり反対されていたんだ。実際お爺様と直接会ったのはルナとの婚約が決まった後だったよ』

 

 ……信じられないような話だった。

 だって、僕が知っている大蔵家は家族を……ふと伯父様と総裁殿が言っていた言葉を思い出した。

 

『今の大蔵家しか知らない』

 

 これが僕の知らない昔の大蔵家だとすれば……お父様の世代はどれほど大変だったのだろうか?

 想像するだけで身体が恐怖で震えてしまう。その中で今の大蔵家を築いた一翼を担っただろう、お父様に尊敬の念が沸き上がって来る。

 あれ、でも?

 

「だとすれば、小倉さんもお爺様に嫌われてしまいませんか?」

 

 あの人も非嫡出子だし。

 

『い、いや……あ、朝日はじょ……女性だからね。お爺様は男性よりも女性の方に……甘いから』

 

 何故かお父様が落ち込んでいる。

 一体何故だろう。小倉さんはちゃんとした女性なんだから、先ほどまでのように真剣にもっと胸を張って欲しい。

 

『ただ……やっぱり、大蔵の名字を名乗るには、お爺様の許しは絶対に必要なんだよ。勝手に大蔵を名乗ったりしたら、お爺様はそれだけで不機嫌になって何かしかねない』

 

 そう言えば、あの『晩餐会』の時、大蔵家の殆どの人が小倉さんの養子を認めていて、殆ど伯父様が勝っていたのに、最後の最後で伯父様は折れた。

 あれはひいお祖父様が、認めなかったからだったのか。

 

『それで話は戻すけれど、山県さんはお爺様に認められていないどころか疎まれているんだ。ルミネさんと同じでピアノを弾いているから尚更に、気にいらないと思っているのかも知れない。そのせいで引き取った駿我さんは実の父親の富士夫叔父さんとお爺様から反感を買ってしまった。結局のところは駿我さんが山県さんを育てる事になったけど、今もお爺様は駿我さんが勝手な行動をしたのは山県さんのせいだと思っている。だから、僕やアンソニーさんは山県さんに会えないんだ。会いに行けば、お爺様が何をするか分からないから』

 

「親戚に会うぐらい構わないではないですか!? 今日会った彼は本当に良い人だと思える人でした! もしもまたリサイタルが会ったら、僕はまた行きたいと思えるぐらいに素晴らしいピアノを聴かせて貰えたんです!」

 

『才華がそんなに言うぐらい良い人なんだね、山県さんは……でも、会えないんだ。会ったら、間違いなくお爺様は彼に何かしようとする。日本に居るなら尚更にね。もしかしたら……もうされているかも知れない』

 

「そんな!?」

 

 お父様が告げた事実に僕は言葉を失うしかなかった。

 だけど……心当たりがあり過ぎる。ピアノ科の生徒達の大蔵家に対する警戒。もしもその原因が山県先輩に対して大蔵家が何かしている事の証明だとすれば……納得できる。

 ひいお祖父様が何かしている事をピアノ科の生徒達が知っているとすれば、当然その怒りは娘のルミねえにも向いてしまう。

 ルミねえは山県先輩の件を知らないだろうけど、ピアノ科の生徒達に取っては関係無い。

 

『彼に関しては、今の大蔵家の当主のりそなでもどうにも出来ないかも知れない。りそなが何とかしたいと思っても、本人が大蔵家と距離を取っているし、彼は他家の人だ。無理やり介入すれば、富士夫叔父さんだけじゃなくてお爺様の反感を更に買いかねない』

 

 ……山県先輩の件は僕の想像を超えていた。

 これなら彼を慕っているピアノ科の生徒達が、大蔵家を警戒して嫌うのも分かる。いや、寧ろ嫌いにならない方が可笑しい。

 それにそんな環境で頑張って、去年のフィリア・クリスマス・コレクションの総合部門で結果を残した彼には尊敬の念さえ抱いてしまう。

 

『……でも、才華は何処で山県さんに会ったの? 彼は大蔵家と距離を取っているから、桜小路家の事も知らない筈だけど』

 

「ええと……フィリア学院に通っているルミねえに誘われたんです。今日フィリア学院で山県さんのリサイタルがあるって。卒業生も来るから、一般でも問題無いと教えて貰って」

 

『じゃあ、挨拶できたんだ!』

 

「はい、しました」

 

 女装姿の小倉朝陽としてですけど。

 

『どんな人だった? 才華の感想を聞きたい!』

 

「はい、山県さんは……」

 

 僕はお父様に山県先輩に感じた印象を話した。

 ルミねえには言えなかった山県先輩のピアノの感想も告げ、僕らは楽しく会話した。

 

『才華がそんなに嬉しそうに演奏の事を話すのは、初めてだね』

 

「これまで行った事があるピアノのコンサートとは、また違った雰囲気で本当に楽しかったです」

 

『僕も聴いてみたいな。彼にも何時かちゃんと挨拶をしたいよ』

 

 久々のお父様との会話。これまでは心の何処かでさっさと話を終わらせたいという気持ちがあったけど、今は何時までも続けたいという気持ちが湧いて来て困る。

 ……それにまだ、お父様に尋ねたい事は終わっていないから。

 

「ただお父様……一緒に行ったルミねえは、山県さんのリサイタルが余り気に入らなかったみたいで」

 

『ルミネさんが?』

 

「はい。僕は寧ろ新鮮さを感じたのですが、リサイタルの雰囲気がその何というか、これまで行った事があるピアノのコンサートと違っていて」

 

『う~ん。ごめん。どんな雰囲気なのか分からないから、ちょっと意見が言えないかな』

 

 雰囲気か……そう言えば、小倉さんが言っていた説明ならお父様に分かるかな。

 

「小規模コンクールみたいな雰囲気だと、リサイタルに来ていた小倉さんが言っていました」

 

『……あ、朝日も来ていたんだ』

 

「ええ。山県さんに挨拶をする機会だと思ったのか、来たみたいです。ひいお祖父様に知られたら、不味いでしょうか?」

 

『まあ、朝日なら大丈夫かな。一緒に暮らしているりそなが許可しただろうし。お爺様も朝日の居場所は知らないだろうから』

 

 それは良かった。ひいお祖父様にまで目を付けられるのは、小倉さんが危ないかも知れない。

 ……まあ、あの人は伯父様と総裁殿に守られているから、そう簡単にはひいお祖父様も手が出せないと思うけど。

 

『それで朝日は小規模コンクールみたいって、言ったんだよね?』

 

「はい」

 

『……才華の話を聞くと、山県さんのリサイタルの雰囲気は良い方みたいだけど』

 

「そうなのですか?」

 

『うん。ピアノと服飾の違いはあるけれど。僕が経験した小規模なコンクールは興味本意や冷やかしで来る人も居て雰囲気が悪い時もあったから』

 

 それは確かに嫌だな。そんな雰囲気の場に僕の衣装を出したくは……。

 

『ただ。学生時代にユルシュールさんが、ルナに勝つ為の意気込みを付ける為に渋谷で行なわれた小規模コンクールに参加した時は凄かったなあ。作製した衣装を着たユルシュールさんが舞台に立ったら、観客や野次馬で集まって来た人達全員の目がユルシュールさんに釘付けになって、ルナも自分も参加していたら良かったなんて言っていたから』

 

 凄く興味を覚えた! 何それ!?

 とても楽しそうなコンクールじゃないか!? 僕が作った衣装で観客や野次馬の人達の視線が釘付けになる光景とか、本当にやってみたくなった!

 なるほど。小規模コンクールには小規模としての良さがあったんだ。知っていたら、アメリカでも参加していたのに。

 

「お父様。そんな楽しそうな話があるんだったら、アメリカで話してくれていたら良かったのに。今の話の事を知っていたら、小規模コンクールに僕も参加していました」

 

『ごめん。ただ、アメリカに居た頃の才華は中規模以上のコンクールにしか興味が無さそうだったから、無理強いは出来ないと思って』

 

 それはその通りなので言い返せない。

 でも、今の話を聞いたら小規模コンクールに参加してみたくなった。機会があれば、絶対に参加しよう。

 

『それで才華。聞きたい事は山県さんの事だけ?』

 

「いえ、寧ろ此処から本題です。実はルミねえの事で」

 

『ルミネさんの事?』

 

「はい。実は……」

 

 お父様に今日のリサイタルでのルミねえの様子やピアノ科の生徒達の事を話した。

 聞き終えたお父様の悩むような声が電話越しに聞こえて来る。実際、この問題はお父様に相談してどうにかなるとは思えない。

 それでも何か突破口になるような意見が欲しい。

 

「このままだと、ルミねえはピアノ科で孤立してしまいそうなんです。でも、意見を言ったら機嫌が悪くなりそうで」

 

『ルミネさんは才華を弟のように思っているからね』

 

 本来なら喜ばしいと思うべきなのだが、今はその立場がちょっと疎ましく感じる。

 ルミねえが僕を1人の男として見てくれさえいれば、強気の意見が言えた。でも、これまでルミねえに僕は甘え過ぎた。残念ながら今のルミねえの中では、僕は手がかかる弟としか見られていない。

 意見を言おうとしたら、ルミねえの部屋でのように不機嫌になってしまいかねない。

 

「因みにお父様はルミねえのピアノを聴いた事はありますか?」

 

『あるよ。今年はなかったけど、去年までは『晩餐会』でルミネさんがピアノを弾いていたから。他にもお爺様からコンクールに招待された時とかにね』

 

「その時の演奏はどうでした?」

 

 答えは分かっているけど、一応聞いてみる。

 

『よ、良かったと思うよ』

 

「……退屈だったんですね」

 

『うっ……ごめん。ルミネさんには悪いと思うんだけど……正直言って僕には何が良いのか分からなかったよ』

 

 ……あれ?

 

「あの、もしかしてお父様は、ピアノは?」

 

『……ごめん。全然弾けない。と言うよりも鍵盤に触れた事も無いよ』

 

 初耳だ。ありとあらゆる分野を完璧にこなす人がお父様だと思っていた。でも、よくよく思い出してみれば、お父様がピアノに触れたところを見た事は一度も無い。

 子供の頃に普通に習い事の一つになっていたから、お父様もピアノを弾けるものと考えていた。

 ……何だ。お父様にも出来ない事があったんだ。急にお父様との距離が近くなった気がする。

 

「でも、ピアノの曲とかは知っていますよね」

 

『うん。大体の曲名ぐらいはね。でも、弾くとなると本当に無理だから』

 

 ……何だか嬉しい。ずっと遠い場所にいたと思っていた人が、思っていたよりも近くに居る事を知れて。

 それでも僕の中でお父様への尊敬の念が強まって行くのを感じる。お父様は凄い人だ。この人はそれだけの努力を重ねて来た。

 僕も努力しているつもりだったけど、お父様が重ねて来た努力には及ばない。

 以前はその事を素直に受け入れられなかったが、今は受け入れられる。

 

『それで、ルミネさんがピアノ科の生徒達に嫌われるような事に心当たりがある?』

 

「桜の園で聞いた話だと……入学式の次の日にピアノ科の男性教師を依願退職させたそうなので」

 

『……』

 

 絶句している気配を電話越しに感じられた。

 うん。今なら理解出来る。客観的に見ると、本当にルミねえがした事って……不味いよね。

 

『そ、そうなった経緯を才華が知っている範囲で教えてくれるかな?』

 

 僕は、桜の園でルミねえが話した内容を説明した。

 

『……りそなじゃ止められないよね……しかも退職させないとお爺様が動きそうだし……何でそんな厄介な事に……』

 

 お父様が凄く悩んでいる。

 でも、僕が八日堂朔莉やエストの話を聞いて漸く分かった事をお父様はすぐに分かったようだ。

 この点だけでも、お父様と自分の差を感じてしまうなあ。

 

『……取り敢えず才華はどうしたいの? ルミネさんに現状を気がついて貰いたい? それともピアノ科の生徒達と仲良くさせたいの?』

 

「そう言われると……」

 

 僕はルミねえにどうして貰いたいのだろうか?

 フィリア・クリスマス・コレクションで最優秀賞を取って貰いたい? ……違う。確かに最優秀賞は必要だけど、ルミねえに無理をして取って貰いたい訳じゃない。元々は全部僕の責任だ。ルミねえはそれに協力してくれているだけなんだから。

 ならピアノ科の生徒達と仲良くして貰いたい。近い気がするけれど……何か違うような気がする。

 もっと何か……そうルミねえにこうして貰いたいという何かがある筈だ。

 良く思い出せ、桜小路才華。僕はルミねえにどうして貰いたいんだ?

 山県先輩のリサイタルを聴いて、そしてルミねえの本気の演奏も聴いた。その二つを見て、僕はどうして貰いたいと思った。

 ……そうだ、僕は。

 

「……お父様。僕はルミねえに、子供の頃のように楽しくピアノを弾いて貰いたいんです」

 

 まだアメリカに行く前に、日本に居た頃。

 桜屋敷に遊びに来てくれて、僕の為にピアノを弾いてくれたルミねえは、楽しそうにピアノを弾いていた。でも、今のルミねえは楽しそうに弾いていない。

 ただ黙々とピアノを弾いている指先だけを見ているだけで、あの頃のように楽しくピアノを弾いてない。ピアノ科の生徒達との問題もそうだ。このまま行けば、必ずルミねえとピアノ科の生徒達との対立は激化する。

 その果てにきっとルミねえは……負ける。

 ルミねえは自分が正しい事をしたと思っている。でも、その正しさが間違っていたら?

 そうなった時にルミねえはきっと耐えられない。今はまだ良い。でも、必ず何処かで爆発する。

 その前に切っ掛けでも良い。ルミねえに気がついて貰いたい。楽しくピアノを弾く事の大切さを。

 

『……才華。昔、僕が言った言葉を覚えてる? 『着る服一つで世界が変わる』』

 

「はい、覚えています」

 

『上手く行くかは正直分からない。才華とルミネさんは近過ぎるから、この方法を使ってもルミネさんは変わらないかも知れない。でも、僕が思い浮かぶ方法は一つだけなんだ』

 

「どんな方法なんですか? 教えて下さい、お父様!?」

 

 ルミねえにピアノを弾く楽しさを思い出して貰えるなら、何だってやって見せる!

 

『服を着て貰うんだよ』

 

「服を?」

 

『うん。でも、ただの服じゃない。着るだけで気持ちが昂るような、凄い衣装が必要になる。それは本当に難しい事なんだ。ルミネさんはずっとメリルさんの衣装を着てコンクールに出場していたから、良い衣装を着慣れてしまっている』

 

 その通りだ。

 ルミねえはこれまでずっとお母様と同じ世界的デザイナーのメリルさんが製作した衣装を着て、コンクールに参加していた。あの八日堂朔莉が渡してくれた映像ディスクに映っていたルミねえの衣装は、本当に素晴らしいものだと僕も思った。

 お父様の言う通り、並大抵の衣装ではルミねえは昂らないと思って良い。

 

『でも、メリルさんの衣装はパリで製作した物を送るような形なんだ。直接ルミネさんが演奏する姿を見て、その光景を思い浮かべてデザインしたと言うよりも、メリルさんはピアノの演奏する時の事を考えてデザインしたらしいんだ』

 

「つまり、お父様は僕にルミねえが喜んで演奏する姿を思い浮かべてデザインしろと言いたいんですね?」

 

『うん……正直言って難しいと思う。でも、ルミネさんが楽しく演奏していた頃を覚えている才華なら出来ると思う。これはメリルさんにも、そしてルナにも出来ない事なんだ。才華だけがそのデザインを描ける』

 

 ……メリルさんにも、そしてお母様にも出来ない事を……僕だけが出来る。

 いや、この役目だけは他の誰にも譲りたくない。僕はルミねえに何度も助けて貰った。

 今度は僕がルミねえを助けたい。

 

『でも、才華。言っておくけど、この方法じゃルミネさんにピアノを弾く楽しさを思い出して貰う事が出来るだけなんだ。山県さんの事やルミネさんの学院での問題が解決出来る訳じゃない』

 

「分かっています、お父様」

 

 お父様の提案は、あくまで切っ掛けにしかならない。

 もうルミねえの問題は、現状では簡単に解決できない。山県先輩の事だってそうだ。

 何せ、彼の問題にはひいお祖父様が関わっている。ルミねえがその事を知れば、きっと苦しむ。

 それだけじゃなくて、ピアノ科の生徒達の事も問題だ。彼らはそう簡単にはルミねえを認めないだろう。

 中立にも残念ながらなってくれないと思う。

 その時に僕が助けられるかは分からない。ルミねえの為なら、何とかしたいけど、助けられる自信が持てない。

 でも、せめてルミねえに思い出して欲しい。あの頃の楽しさを。

 

「お父様。僕は頑張ってみます」

 

 大好きなルミねえの為に。

 

『頑張って才華。本当は僕も日本に行って力になって上げたいけど』

 

 それは凄く困りますので止めて下さい。女装してフィリア学院に通っているばかりか、ルミねえの件以外でも、問題を引き起こしているので。

 

『ルナに絶対に日本に行くなって言われていて。この前才華が……あ、朝日の服を作るって聞いてから機嫌が少し良くなったんだけど、まだ結構機嫌が悪いから。僕が日本に行くなんて言ったら、また機嫌が悪くなると思うから行く事は出来ないんだよ』

 

「や、やっぱり、お母様は怒っていますか?」

 

『う、うん。才華達にと言うよりも、甘やかし過ぎた自分にだけど。僕もアトレの件を聞いた時は、朝日に申し訳なくて』

 

 本当に申し訳なさそうな声が聞こえた。

 ごめんなさい、お父様。その件も、元を正せば僕が悪いんです。

 

『聞くけど……才華は朝日の事をどう思っている? やっぱり嫌い?』

 

「いいえ。小倉さんには寧ろ感謝しています。あの人のおかげで僕は大切な事に気がつく事が出来ましたから。だから、叱ってくれた事は本当に感謝しているんです」

 

『良かった。もしも才華も朝日を嫌っていたらどうしようかって思っていたんだよ。その……朝日の件は本当に難しい問題なんだ』

 

「お父様は小倉さんの事情を深く知っているのですか?」

 

『うん。知ってる……僕には朝日の苦しみが良く分かる。でも、僕には朝日を助けられない。服飾に関しても、少し教える事ぐらいしか出来ない。僕が全部教えたら、朝日はもう立ち上がれなくなるから』

 

「それは何故ですか? 型紙のプロであるお父様から学べば、必ず小倉さんの力になる筈です。お母様も言っていました。お父様から学べば、小倉さんは夏には以前の実力以上の実力を得られていたと。なら、教わるべきなのではないでしょうか?」

 

 早くに実力を取り戻したいのなら、それに越した事は無いと思うのに。

 お母様はその先には絶望しかないって言っていたけれど。それはどういう意味なのだろうか?

 

『……今、朝日の服飾へのやる気を支えている目的は、僕を超える事なんだよ』

 

「お父様を超える!?」

 

『うん。だから、ライバルだと思っている僕から教わるのは、朝日には辛いんだ』

 

 ……少しと言うか、かなり驚いた。

 僕はてっきり小倉さんはお父様と同じで、勝ち負けよりも自分の技術と向き合う人だと思っていた。

 だから、小倉さんがお父様を超える事を目標にしていたなんて、本当に驚いた。でも、それなら何となく気持ちが分かるような気がする。

 こうして今はお父様と向き合えているけど、少し前の僕はお父様に反発していたから。小倉さんもそんな気持ちなのだろうか?

 何となく違うような気もするが、今は取り敢えず納得しておこう。

 

『才華』

 

「はい、お父様」

 

『僕はアメリカに居るから、直接才華を助ける事は出来ない。すぐに日本に行って助ける事も、今は僕には出来ない。こうして電話越しに相談に乗ることぐらいしか出来ないと思う』

 

「いいえ、お父様。こうして電話で相談に乗って貰うだけでも、本当に助けて貰っています……お父様。ありがとうございます。僕は……お父様とお母様の子として産まれた事に感謝しています」

 

『……僕もだよ。才華が僕の子として産まれてくれて本当に嬉しいんだ。ルミネさんの事は大変かも知れないけど、頑張って』

 

「必ずルミねえにピアノを弾く事の楽しさを思い出させてみます」

 

『うん。それとこれはアドバイス。もしも服の製作で悩んだら、その時は誰かに聞けば良い。僕達には言葉がある。多くの人と会話を交わして、ルミネさんがどんな服ならピアノを弾く大切さを思い出せるのか。それを考えて頑張って見て』

 

「その言葉を胸に必ずルミねえの衣装を製作してみせます」

 

 以前ならお父様の言葉を聞き流していたのに、今は胸にスッポリと収まったように感じた。

 最後に少しだけ他愛無い話をして、電話を切った。

 やるべき事は見つけた。根本的な解決にならないかもしれない。それでも、僕はルミねえに子供の頃のように楽しくピアノを演奏して貰いたい。

 恋愛感情としてではないけど、僕はルミねえが大好きだ。大好きな人には笑顔でいて貰いたい。

 だから、その為の衣装を描こう。

 衣装を着て貰う時は……時間は少し空くけど文化祭だ。毎年文化祭では学園主催のピアノのコンクールがある。その時に僕がデザインした衣装を来て貰おう。

 その為に幾つかクリアしなければならない問題がある。先ずはそれを乗り越えてからだ。

 決意を固めた僕は、デザインを描き始めた。




と言う訳で、この作品では必ず文化祭でルミネの衣装は製作します。
但し制作の過程に寄ってルートが変わります。才華が一人で製作すればルミネルート確定です。

『才華と電話後の桜小路家』

「随分とご機嫌だな、夫」

「うん! だって、才華が僕を頼ってくれたから!」

 本当に嬉しかった!
 こんなに嬉しいのは久々だ! だって、才華に頼られたんだから。

「ほう、あの反抗期の真っ最中だった才華が夫にか……それでどんな内容だ?」

「うん。実は……」

 僕は才華から聞いた話をルナに説明した。
 聞き終えたルナは呆れた顔をして溜め息を吐いた。

「相変わらず面倒臭い家だな、大蔵家は。アトレと言い、大蔵ルミネと言い、どうしてこうも問題ばかり起こすのやら」

「どうしたら良いと思う、ルナ?」

「アメリカにいる私達がどうにか出来る問題とは思えない。日本にいる才華達やりそなに任せるしかない。ただ私としては、大蔵ルミネの問題に朝日が関わっていない事を願うばかりだ」

「その朝日だけど……山県さんのリサイタルに来ていたみたいだよ」

「ほう……うん? 待て、夫。その山県大瑛がリサイタルを開いた場所は何処だ?」

「才華が言うにはフィリア学院で開かれたそうだけど」

「フィリア学院……良く今の状態の朝日が行けたな」

 うん。僕も少し驚いた。
 あっちの僕にとって、フィリア学院にはかなり複雑な気持ちがある筈だ。僕にとっては懐かしい母校だけど、あっちの僕にとっては楽しい日々を過ごせた学院であると同時に、残酷な思い出がある学院だ。
 その学院に来れたという事は……。

「アトレの件で心配だったが、どうやら最悪の事態には朝日はなっていないようだ」

「うん。本当に良かったよ」

 アトレの件では、本当に朝日……いや、あっちの僕の事が心配だった。
 ルナが言っていた通り、あっちの僕はかなり危ない状態だ。今はりそなのおかげで立ち上がれているけど、フッとすればサーシャさんが言っていた状態に戻ってしまう。
 僕には彼の気持ちが分かる。僕も、もしも『小倉朝日』として過ごしていた時に、ルナの人生に傷を残すような結果を残していたら……きっと同じようになっていた。
 でも、僕には彼を慰める事は出来ない。
 僕はルナと結ばれて幸せになれたから。何を言っても、それは彼には辛い言葉にしかならない。

「先に言っておくが夫。日本に行くのは認めないぞ」

「……分かってる」

 才華の事は心配だが、甘やかすのは不味いのは分かってる。
 本当に心配なんだけど、それでも我慢しよう。

「しかし、朝日にはやはり感謝しないとな。あの夫に対して反抗期だった才華が歩み寄ったのだから。その切っ掛けは間違いなく、朝日が叱った事だろう」

「ちょ、ちょっと複雑だけどね」

 父親としては複雑だけど、この件では彼に感謝しよう。
 でも、やっぱり才華が彼に女性物の服を贈るのは……色々な意味で複雑だなあ。

「では、私は部屋に戻る」

「うん。僕もアトリエに戻るよ」

 僕はルナと別れてアトリエに向かって歩いて行った。

「……朝日がフィリア学院にだと? 才華は大蔵ルミネから話を聞いたにしても、朝日は何処でその話を聞いたんだ? ……やはり調べる必要が出来たな」

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