月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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お風呂場での対面です。
果たしてアトレは朝日の性別に気が付けるのか?

笹ノ葉様、烏瑠様、秋ウサギ様、dist様、獅子満月様、誤字報告ありがとうございました!


五月上旬(遊星side)11

side遊星

 

「本当に良いお湯ですね」

 

「そ、そうですね」

 

 露天風呂に浸かっているアトレ様に返事を返しながら、僕は首までお湯に沈めて足の間と胸にはそれぞれ腕を当ててガードしている。

 マナー違反ではあるがタオルも身体に巻いて入っている。申し訳ないけど、桜屋敷の時のように入浴剤が入っていてミルクでお湯が濁っているどころか、透き通るほどにお湯は綺麗だからこうすることでしか隠せない。旅館の方々、ごめんなさい。

 

「……」

 

 ジーっとアトレ様は僕を見ている。

 お願いですから、そんなに見ないで下さい。顔を上げたら、貴女の裸が見えてしまいます。

 いや、アトレ様に性欲を覚える事なんてないけれど、男性に裸を見られるのはアトレ様も嫌だろうから。

 

「あ、あのどうされました?」

 

「あっ、申し訳ありません。そ、その……同性の私から見ても綺麗な方だと改めて思ってしまい、つい見惚れてしまいました」

 

 はうっ! 心に! 心にダメージが!?

 こうして血の繋がりで言えば娘に当たる方に言われると、りそなやお父様に言われるのとはまた違ったダメージを覚える。

 

「その……このような形で話す事を赦して下さい。裸の付き合いをすれば、仲良くなれると言う話もありましたので……ですが、良く思い出してみれば、貴女は背に大きな傷があるそうですね。特別編成クラス用の食堂でそのような噂話を聞いた覚えがあります」

 

 ごめんなさい、アトレ様。それは嘘です。

 裸を見られたら性別がバレてしまうので、嘘をついているだけです。

 

「同性である私には気持ちも分かります。本当に申し訳ありません」

 

「い、いえ! 大丈夫ですから!」

 

 嘘なので。

 

「……本当にお優しい方ですね……私もお兄様も、貴女のような素晴らしい方を傷つけてしまった事を……本当に後悔します……それに貴女の言う通りでした」

 

「何がでしょうか?」

 

「全部です。貴女がお兄様に叱った事も、昼間に私が言われた事も、全部貴女は正しかった。私は、去年の桜屋敷でお兄様の提案を聞いた時、全力でフォローをすれば問題無いと思っていました。伯父様も予想に反して協力的な方でしたし、ルミねえ様も協力してくれました。誰もがお兄様なら大丈夫だと思う中で、貴女だけがお兄様を叱った」

 

「その事ですが、昼間も言ったように私は……」

 

「いえ、責めてはいません。寧ろ貴女の意見は……間違ってはいませんでした。私もお兄様も、主人となる相手の方を軽視していたのは事実です……エストさんが良い御方なのは私もお付き合いをしていて充分に分かっています。その方を謀っている事に罪悪感は感じておりましたが……全てはお兄様の為と思っておりました……今思えば、私はそうやってこの件に関する罪悪感を誤魔化していました。貴女の言った事もお兄様なら乗り越えられるに違いないと」

 

「……」

 

「ですが、現実は違いました、お兄様から伝え聞いた伯父様の話は、最初は誇張して語った話だと思ったのです。ルミねえ様とエストさんは仲良くしている。寧ろ、ひいお祖父様も初めてルミねえ様に友達が出来た事を喜ぶと思っていたんです」

 

「えっ!? あ、あの、本当にルミネさんはエストさんに出会うまで友達が居なかったんですか!?」

 

「はい、本人がそう言っていました」

 

 頭を抱えたい気持ちで一杯になった。

 えっ? 本当に友達が居なかったの? ルナ様だって瑞穂さんやユルシュール様、そして湊がいたよ。

 お父様だってジャンが居るのに。家の大きさの問題はあるけれど、それでも心を赦せる方が居ないなんて。もしかしてルミネさんが心を本当に許せる相手って才華様とアトレ様だけなんじゃ?

 

「お母様やお父様は、家柄で言えば成り上がりだった柳ヶ瀬湊さんと親友ですから。多少の黒い噂はあっても、エストさんなら大丈夫だと思っていました。貴女もエストさんには好感を持っていますよね?」

 

 僕は頷いた。エストさん本人は本当に良い人だ。

 少々教室で時々変な言葉を叫ぶけれど、その件を除けば教室内での評判は良い。運が良い事に、ルナ様と共に通っていた頃の教室に比べて、今のクラスメイトの方々は余り家の大きさを気にしない方々のようだから、初日にジャスティーヌさんがエストさんの実家の事を話しても大きなマイナスにはならなかった。

 ……ジャスティーヌさんの暴君ぶりの方が目に付いたのかも知れないが。

 

「エストさんは確かに良い人です。ですが……前当主様は家柄の方を重要視する方のようなので」

 

 僕が受けいれられなかったのも、それが原因だから。

 お母様はお爺様に認められなかった。そのお母様の血を引く僕もだ。奥様の事もあっただろうけれど、お爺様からすれば自分が認めていないものの血を半分引いている時点で、その相手は『他人』という事なのだろう。

 山県さんもそうみたいだ。本当に山県さんの事は酷いと思う。

 でも、それを責める事は今の大蔵家当主であるりそなにも出来ない。山県さん本人が大蔵家から距離を取っているのもあるけれど、責めたりしたらそれこそ大事だ。

 お爺様から賄賂を受け取っているフィリア学院の教師達は全員処罰しないといけないし、ピアノ界の方に影響が出て大事の騒ぎになる。不正を正せば良いという事態では、残念ながら済まない。

 だからりそなも、苦虫を噛み潰したいような気持ちを抱きながらもお爺様の件は見逃している。

 

「悲しい事ですが、エストさんの実家の事を前当主様が認めるのは難しいでしょう」

 

「事情があってもでしょうか?」

 

「はい。エストさんの実家の事情は、私もりそなさんとお父様から聞いていますが、お二人とも認めないと言っています。あのお二人が同じ意見を言うという事は……残念ですが事実と受け止めるしかありません」

 

「ルミねえ様は、もしそうなったら伯父様達に味方すると言ってくれましたけど、そうなってしまえば大蔵家を二分するほどの争いになってしまうのですね?」

 

「ええ。そうならない為に、私の調査報告をりそなさんが前当主様にお伝えしています……ただそのせいで才華様が、前当主様に好感を抱かれなくなったそうですが。その事は申し訳ありません」

 

「いえ……謝らなくても良いです。正直に言えば、私は忘れていました。お兄様が元々ひい祖父様に好かれていない事を。子供の頃の事ですから、大丈夫だと心の何処かで思っていたのかも知れません」

 

「……その事もりそなさんが言っていましたが、それは何故なのでしょうか?」

 

「あれは……」

 

 アトレさんの話を聞いた僕は、頭が本当に痛くなって来た。

 そもそもお爺様が才華様を好んでいないのは、簡単に言ってしまえば嫉妬だった。子供の頃にルミネさんと才華様の間で起きた事件。目を負傷してしまった才華様が心配で、ルミネ様が初めてお爺様に逆らった事が気に入らなかったようだ。

 ……お爺様。お歳を召してからの娘なのは分かりますが、正直言っていいお歳なのでそんな子供みたいなことはお止め下さい。

 

「私は自分の力でお兄様の手助けをしているつもりでしたが、桜小路家や大蔵家の力を当てにしていたんです。その二つの力が通じなくなって……どうしたら良いのか、本当に分からなくなっていました。だから……貴女に当たってしまった。本当にごめんなさい!」

 

 僕に向かってアトレ様はお湯に浸かりながら頭を下げた。

 もしもお湯の中でなかったら、アトレ様は土下座をしていたかも知れない。そんな気迫が感じられた。

 だから、僕は安心させるように微笑んだ。

 

「良いんですよ、アトレ様。実際、急に現れて多くの人達に慕われている私の事は、何も知らない人から見れば疑問や不審を感じるのは仕方がありません」

 

 僕もかなり戸惑ったから、アトレ様の気持ちは良く分かる。と言うよりも、本当にこっちの過去では何があったんだろうか?

 

「……やっぱりこの人こそ……」

 

「アトレ様?」

 

「いえ、何でもありません!」

 

 一瞬、アトレ様の瞳が輝いたように見えたけど……気のせいだよね?

 

「それで他にも相談があるのですよね」

 

「昼間、貴女は言いました。私はお兄様が幸せになっても離れられないと……それはきっと間違ってはいないと思います。私がお兄様の事で一番気にかけているのは、お身体のこと。その事と昼間に言った私がお兄様から離れる為の事は……言われた通り繋がっていませんでした」

 

 過ちを悔いるようにアトレ様は顔を俯けた。

 

「仰る通り、たとえお兄様が生涯の伴侶を得られて幸せを得ても……私は何処かでお兄様が気になって仕方がなくなってしまう。私は……総裁殿がそうだったから、きっと自分もそうなると思い込もうとしていた……最初から私は勘違いしていたのかも知れません」

 

「勘違いですか?」

 

「はい……昼間にも言いましたが、私は一時期お兄様と会話をする事も辛くなっていました。その時にお兄様と笑顔で会話をする事で、お兄様が笑顔になれた事に喜びを覚えた……でも、違ったのです。あの時、お兄様の方が私を笑顔にしようと頑張ってくれていた。こんな始まりの事でさえも……私は勘違いしていたのです」

 

「アトレ様……私はその場に居なかったので、その時の事は分かりません。でも、これだけはハッキリと言えます。才華様もアトレ様も、桜小路ルナ様と桜小路遊星様に望まれて生まれて来た。体質の問題は確かに解決する事は出来ません。それでも、前を向いて進む事は出来ます。その事をアトレ様は良く知っている筈です」

 

「……お母様の事ですね……何だか貴女の方がお母様の事を良く知っていて……娘として少し悔しいです」

 

「い、いえ、アメリカでお世話になりましたし、母から聞いているだけで、私なんかがルナ様の事を語るのは本当は恐れ多いと言うか!?」

 

「あの……先ほどから思っていたのですが、どうして貴女は私やお兄様、そしてお母様とお父様を様付けで呼ぶのですか?」

 

「そ、それは……」

 

 本当の事なんて言えないよ!

 ルナ様の事を敬称付けで呼ばないなんて恐れ多過ぎるし。桜小路遊星様も正直色々とご迷惑をおかけしているから、どうしても様を付けて呼んでしまう。そしてそのお二人の血を引いている才華様とアトレ様にも、どうしても敬称を付けて呼ばずにはいられない。

 と、取り敢えず、それらしい理由をつけて誤魔化そう

 

「し、使用人の時の癖で目上の人にはどうしても呼んでしまうんです」

 

「ですが、今の貴女は伯父様の娘です。今はまだ養子になったばかりで問題はないでしょうが、何時までも私達を様付けで呼ぶのは不味いのではないでしょうか?」

 

 正論だ。これ以上に無いほどにアトレ様の言い分は正しい。

 実際りそなと瑞穂さんをさん付けで呼べるようになれたから、意識さえすれば相手をさん付けで呼ぶ事は出来る。

 才華様とアトレ様も……大丈夫だと思う。でも……ルナ様と桜小路遊星様だけは絶対無理!

 ルナ様は世界が違っても敬愛する御方なのには変わりはないし、桜小路遊星様は今の僕の目標で、色々とご迷惑をおかけしてしまったからさん付けで呼ぶのなんて恐れ多くて出来ないよ!

 でも、このままだとアトレ様に怪しまれてしまう。此処は。

 

「わ、分かりました。こ、これからはアトレさ……んと呼ばせて貰います」

 

「では、私は小倉お姉様と呼ばせて頂きます!」

 

 なんでえぇええええ!?

 余りの事実に僕は固まってしまった……えっ? お姉様? 誰が? 僕が?

 

「……あ、あの……何故私がお姉様なのでしょうか?」

 

「私はこれまでお兄様をお姉様とお呼びするようにしていました。お兄様が『小倉朝陽』に成りきると言うなら、それに私も従おうとお慕いする演技をしていたのです……ですが、今日、私は心からお慕いできるお姉様に出会いました。貴女様です、小倉お姉様!!」

 

 ……ハッ!? 一瞬完全に意識が飛んでいた。

 慌てて僕は力が抜けて、ずり落ちそうになっていたタオルを押さえ直す。

 

「小倉お姉様がある人に出会った事に依って生まれ変われたように、私、桜小路アトレも今日の出来事によって生まれ変わる決意を致しました。いまだ幼き頃からの想いを拭え切れたとは言えませんが、これからは私も変われるように頑張って行くつもりです。その切っ掛けを下さった貴女様をお慕いする気持ちを表す為に、これからは小倉お姉様と呼ばせて頂きます」

 

 ……頂かないでください。

 本気で意識が飛んでしまいそう。いや、学園でお姉様と確かに呼ばれているけれど、血の繋がった相手から呼ばれるのは別格の衝撃を覚えずにはいられない。

 ……桜小路遊星様が知ったらどう思うかな、なんて……現実逃避をしてしまっている。

 

「それに小倉お姉様は元々私やお兄様よりも年上なのですから、お姉様呼びしても大丈夫な筈です。現にジュニアさんも、小倉お姉様の事を姉御とお呼びしているのをお聞きしました」

 

 その事は許してません。だから、止めて下さいと言いたいんだけど、僕はあまりの衝撃で口をパクパクさせていた。

 

「それで小倉お姉様」

 

「で、出来ればその呼び方は……」

 

「駄目でしょうか?」

 

 悲し気にアトレさんは顔を俯かせた。

 ……ズルい。そんな風にされたら、僕の答えは一つしかないよぉ。

 

「……わ、分かりました。私の事は好きに呼んで貰って構いませんよ」

 

「ありがとうございます、小倉お姉様!」

 

 目をこれ以上に無いほどに輝かせながら、アトレさんは嬉しそうにしていた。

 

「話は戻しますが、小倉お姉様。休み明けの学院に行った放課後に、改めて桜の園をご案内したいのですが」

 

「えっ? 桜の園にですか?」

 

「はい。小倉お姉様が以前お訪ねして下さった時は、エストさんの事や私どもの事でゆっくりお過ごしいただけなかったでしょうから。屋上にある庭園もご案内したいです」

 

「良いんですか?」

 

「はい、是非来て下さい、小倉お姉様」

 

 満面の笑みをアトレさんは浮かべていた。

 う~ん。確かに桜の園には、もう一度行ってみたい気持ちはあった。アトレさんとは仲直りした事を才華様とルミネさんに教える事も出来るし。

 

「……これまでは正体がバレる危険もあって、お兄様と親密にならないようにしていましたが、小倉お姉様に本当の私のお姉様になって貰う為にも機会を増やさないといけません。なんだったら私でも……そんな駄目です! お姉様!」

 

「あ、あのアトレさん? どうされました?」

 

 急に頬に手を当てて顔を振り出したアトレさんに質問してしまった。

 何だか一瞬、寒気を感じたような気がする。可笑しいなあ。温かい露天風呂に入っている筈なのに、何で寒気なんて感じたんだろうか?

 

「ハッ! ご、ごめんなさい、小倉お姉様……少し身体が熱くなっているようなので、頭を冷やしてきます」

 

 そう言うと、アトレさんは僕の目の前で立ち上がった。

 ……アトレさんは、バランスが良いスタイルをしているなあ。この体型だと確かにゴスロリ衣装系は良く似合う。

 って! そんな事を考えている場合じゃないよ! 洗い場にアトレさんが向かった今こそが、チャンス!

 

「アトレさん! 私先に上がらせて貰います!」

 

「分かりました、小倉お姉様。私は身体を洗って、もう一度温まってから出ますので」

 

「はい。ごゆっくり!」

 

 僕はタオルをキツく締めて、お湯から立ち上がり着替え場に怪しまれないようにしながら歩いて行った。

 ……よ、良かった。正体がバレずに済んで。はぁ~、あのトラウマを繰り返さずに済んで良かったよ、本当に。

 

「……綺麗な後ろ姿。はあ~、お兄様の女装は確かに理想的な姿ですけど、やはり本物の女性には敵わないと分かりますね。お慕いいたします、小倉お姉様」

 

 

 

 

 着替え終えた僕は、すぐさま部屋に備わっているベッドに寝転がりたい気持ちで一杯だった。

 露天風呂に入って久々に精神的にもリフレッシュ出来たと思ったのに、アトレさんと入った事でプラマイゼロどころか。マイナスの方になってしまった。

 はぁ~、せっかくの露天風呂だったのに。こうなったら明日は朝風呂を堪能しよう。うん。お風呂大好きだから。

 

「お待たせしてすいません、小倉お姉様」

 

「いえいえ、気持ち良かったですか?」

 

「はい。流石は花乃宮家御用達の旅館だと思いました」

 

 本当に気持ち良かったのか、アトレさんは嬉しそうに微笑んでいた。

 僕は手早く部屋に備わっていたお茶を用意して、アトレさんに差し出した。

 

「……美味しいです」

 

「高級なお茶葉ですからね」

 

「いいえ、お茶の淹れ方が良いからです。私もお茶の淹れ方には自信がありましたが、このお茶の味は出すのは難しいと思います。それを平然と出来る時点で、やはり貴女は優れているのだと思わずにはいられません……何事にも中途半端で満足している私と違って」

 

「どういう事でしょうか?」

 

「……四月の終わり頃に私はお母様に電話をしました。今では申し訳なさしか抱けませんが、少しでも小倉お姉様の事を知ろうとしたのですが、お母様が話すのは貴女に好意的な事ばかりで思わず愚痴を言ってしまい……お母様にまで不興をかってしまいました。それで桜小路アトレとしてではなく、アトレとして年内に結果を出せとも言われています」

 

 お父様から大体の経緯は聞いていたけど、ルナ様はアトレさんにそんな事を言っていたんだ。

 

「私は……これまで本気で何かに打ち込んだ事は……確かにありません。幼い頃にやった服飾にしても、今のお菓子作りにしても……本気で打ち込んでいるかと改めて聞かれたら……打ち込んでいないと言うしかありません。何事にもお兄様第一でしたから……だから、お兄様は私から離れたのだと、今なら分かります」

 

「離れたと言いますと?」

 

「一昨日の事です。私はお兄様と話をして、経緯は省きますが、もう私の協力は必要ないとお兄様に言われました。桜の園の私の部屋の鍵も返されています。今後は小倉朝陽でいる間は、私に対しても馴れ馴れしくはなされないでしょう」

 

「……アトレさん。その……」

 

「いえ、小倉お姉様のせいではありません。これは私とお兄様の問題ですから。それにこうしてお兄様が離れた事で、私は確かに本気で何かに打ち込んでいたとは言えないと分かりました。お菓子作りにしても、服飾がメインのお父様や、メイドの仕事がある九千代にも勝てずにいます」

 

「えっ? 九千代さんって、そんなにお菓子作りが得意なんですか?」

 

「はい。九千代のお菓子は、お父様に匹敵する程です。パティシエ科の生徒達の中でも、九千代に勝てる相手はそうそう居ないでしょう。それに比べて私はと言えば……スイーツ部門のトップを目指していながら程ほどの腕前しかないのです。今のままでは予選落ちしてしまうでしょう」

 

 ……フィリア学院の調理部門はレベルが高い。

 お嬢様達のクラスである特別編成クラス用の食堂を教師達が任されているだけに、そのレベルが他の部門よりも高いのは調査員をやっている内に理解した。

 アトレさんのお菓子を食べた事が無いから、今は何とも言えないけれど才華様達の事を気にかけているアトレさんと、勉強に集中しているスイーツ部門の方々が相手では確かに分が悪いかも知れない。

 

「それでお願いなのですが、小倉お姉様。時々で良いのですが、私のお菓子の味見をして貰って良いでしょうか?」

 

「えっ!? わ、私がですか? ですが、私も専門家と言うほどの腕はありません」

 

「小倉お姉様も料理の腕は高いという話を聞いています。服飾の勉強で忙しいのはご理解しています。ですが、一時間、いえ、30分でも構いません。どうか、時々桜の園に来て下さいませんでしょうか?」

 

「……」

 

 断る事は出来る。でも、今アトレさんは本気で変わろうとしている。

 それが分かるから、断る事はしたくない。本当に時々なら良いかも知れない。服飾の勉強も頑張らないといけないけれど、根を詰めすぎるのも問題だ。

 りそなは何て言うかな? と言うよりも、まだりそなにアトレさんと仲直りした事を伝えてないんだよね。瑞穂さんに写真を何十枚と撮られた事で忘れていた。ちゃんと報告しないと。

 ただ、アトレさんに出来る返答は決まった。

 

「分かりました。時々ですが、アトレさんのお菓子を味見させて頂きます」

 

「ありがとうございます、小倉お姉様!」

 

「わっ!」

 

 いきなり抱き着かれた。

 胸パットを付けているとは言え、抱き着かれたりしたら正体が!?

 

「小倉お姉様の身体……柔らかい」

 

 ……全然筋トレとかしていないからなのかなあ?

 いや、正体がバレたらいけないから余計な筋肉とか付けたくはないけれど……男として柔らかいと言われるのは本当に複雑だ。

 

「はぁ~、小倉お姉様」

 

 何故かアトレさんが顔を赤らめて僕を見上げて来る。

 ……あ、あの本当に何でそんなに顔を赤らめて潤んだ瞳をされているのですか?

 

「ア、アトレさん?」

 

「ああ……私はノーマルだと思っていましたが……小倉お姉様なら仏の教えに反しても……」

 

「あ、あのアトレさん? 本当にどうされたのですか?」

 

 何だか徐々にアトレさんの押しの強さが増しているような気がする。

 こっちも力を入れないと、押し倒れてしまいそうなぐらいの力強さだ。とても不味い気がする。

 でも、アトレさんを引き離すなんて事は出来ないし、本当にどうしよう。

 そんな悩む僕の耳に部屋をノックする音が聞こえて来た。

 

「夜分遅くにごめんなさい。小倉さん。アトレお嬢様は此方に来ていますか?」

 

「あ、八十島さん! はい、アトレさんは此処にいます!」

 

 八十島さんが来た事を知った僕は、優しくアトレさんを離した。

 流石にアトレさんも八十島さんが居る事が分かって、抵抗せずに、だけど何処と無く残念そうにしながら僕から離れてくれた。

 僕は部屋の鍵を開けて、八十島さんを迎え入れた。

 

「やはり此方でしたね、アトレお嬢様」

 

「心配をかけてすいません、壱与。小倉お姉様と話をしていたら時間が経つのも忘れてしまって」

 

「お姉様!?」

 

 あ、八十島さんが目を見開くほどに驚いている。

 僕の正体を知っているから、当たり前だけど。

 

「……まさか、此方も親子二代で……流石にそれは……」

 

「あの~、八十島さん?」

 

「ハッ! な、何でもないわ、小倉さん……アトレお嬢様。もう夜も遅いので今日のところは」

 

「滅法残念ですが、小倉お姉様との縁はもう結ばれたので今日のところはそれで我慢いたします」

 

「……やっぱり、あの方の娘ね。これはどうしたものか」

 

 何だか八十島さんが本当に苦悩しているように見える。

 

「それでは小倉お姉様。また明日お会いいたしましょう」

 

「はい、また明日」

 

 アトレさんは八十島さんを伴って部屋を出て行った。

 一人になった僕は、深い安堵の息を吐いた。予想外の事だったけれど、アトレ様と仲直りする事が出来た。

 その事には喜びしかない。

 

「そうだ、りそなに伝えないと」

 

 この喜びを他にも伝えたいと思った僕は、ベッドに腰掛けながらりそなに電話を掛けた。

 

『はいはい、妹です! 電話が来るのを待っていました』

 

「遅くなってごめん、りそな。今日は嬉しい事があったんだよ」

 

『それは何ですか? いや、声の調子からすると本当に嬉しい事があったのは分かるんですけど、自分で勧めた事とは言え、あの黒髪の人だと何十着も自前の服を用意していて、下の兄の精神は疲弊し切っていると思っていたんですが』

 

 うん。それは当たってる。

 

「……余りその事は思い出させないで……本当に写真集みたいな形にされたから」

 

『ああ、やはりそうなりましたか。大丈夫ですよ。妹の下に戻って来たら、しっかりと慰めて上げますから。それで嬉しい事とは何ですか?』

 

「うん……実は、アトレさんと仲直りが出来たよ」

 

『……は? 今なんて言いました?』

 

「だから、アトレさんと仲直り出来たんだよ。桜の園にも招待して貰える事になったんだ」

 

『……えっ? マジですか?』

 

「うん。マジ」

 

『……何がどうなったらそうなるんですか? アレほど貴方の事を嫌っていたのに。しかも様じゃなくてさんで呼ぶようにもなっていますし。とにかく、そうなった経緯を教えて下さい』

 

「分かった。それじゃあ話すね」

 

 僕は昼間にあった事をりそなに話した。

 聞き終えたりそなは、何だか深い溜め息を吐くと。

 

『この天然人誑し』

 

「なんだか、凄い不名誉な事を言われた気がするんだけど」

 

 ちょっと傷ついた。

 

『弱っていても、本当に流石ですね。よくもまあ、アレだけ貴方を嫌っていたアトレと仲直り出来たなんて、驚くしかありませんよ』

 

「元々アトレさんの言っている事は正しいよ。僕の事情は説明出来ない事だし……不誠実を働いたのは事実なんだから」

 

『貴方は本当に……世界が違ってもやっぱり下の兄は下の兄で、妹は本当に心から安心しました』

 

 本当に嬉しそうな声が電話越しに伝わって来た。

 

『ただ、妹にも立場がありますから、貴方と仲直りしたからって、私まですぐに仲直りしませんよ』

 

「う、うん」

 

 出来ればりそなとも仲直りして欲しいけど、今のりそなの立場を考えれば仕方がないので諦めるしかない。

 うん。本当に残念だけど。言ってしまった手前、引っ込みがつかなくなっているのも事実だから仕方がない。

 才華様に頑張って貰うしかないよね。

 

『まあ、アトレも漸く歩き出した事は喜ばしい事です。あの甘ったれもアメリカの下の兄に相談したとかいう連絡が、ルナちょむから届きましたし』

 

「あっ! 瑞穂さんもその事は言っていたよ!」

 

『二人とも、その事には心から感謝していました。下の兄のおかげだって』

 

 素直に嬉しかった。迷惑しかかけて来なかった僕のおかげだと言われて。

 ……ほんの少しだけ救われた様な気持ちになれた。

 

「……ねえ、りそな」

 

『言いたい事は分かっていますから言わないで下さい……明日下の兄が東京に戻って来る予定の便に、アトレ達も入るように手配しておきます』

 

「ありがとう、りそな」

 

『それじゃあ、明日』

 

 りそなとの通話が切れると、僕は携帯をベッドの上の方に置いた。

 そのまま横になり目を閉じる。僕なんかには勿体ないように感じながら、それでもほんの少しだけ救われたような気がした。

 明日もこんな日が続いてくれる事を願いたい。




次回で京都編は終わりです。
当然待っているのは……朝日写真集の完成の為の行動です!(違う)
因みに瑞穂は既に売約済みになっているでしょうね。

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