月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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また遅れて大変申し訳ありませんでした。
次こそは早く上げられるように頑張ります。というわけで五月下旬開始です。

秋ウサギ様、笹ノ葉様、烏瑠様、MeltLilith様、獅子満月様、ライム酒様、誤字報告ありがとうございました!


五月下旬25

side才華

 

 ギリギリだった。

 初日から用意していた11個の目覚まし時計と追加で加えた4個の目覚まし時計を、全てを押し終えたところで僕は目が覚めた。

 此処のところ精神的に余裕が出来てしまった事が油断を招いた。漸く納得出来る小倉さんに贈る普段着の型紙が引けたことで、つい遅くまで製作にのめりこんでしまった。

 エストが寝ているのならいいけれど、最近の彼女は朝が早い。学院に入学する前の原始人のような生活態度も改められている。喜ばしい事だが、タイミングが余程合わない限り、僕が寝坊した日にだけ彼女も、とはならないだろう。

 急いで髪の毛を整えて、最低限の身支度で部屋を出た。エストの部屋へ急ごう。

 彼女の事だから、叱られたりすることはないと思う。でも、遅刻していては彼女に生活面で注意出来ない。

 改められたからといって、油断したらまた元の原始人のような生活に戻りかねないからね、彼女は。

 

「たるんどる!」

 

 まさか部屋を出ると同時に、変態……八日堂朔莉に叱られるとは思ってもみなかった。因みに今回のキャラは軍人キャラのようだ。

 

「本日の部屋を出る時刻が、ここ二ヵ月の平均より20分遅いっ! 罰としてブリッジ伏せ1500回っ! 粛々!」

 

 突っ込みどころが多過ぎて、何から聞けば良いのか分からない。とりあえず……ブリッジ伏せとはなんだろう?

 人体の構造的に、ブリッジしながら腕立て伏せをするのは可能なのか?

 と、いけない。普段の朝なら此処で八日堂朔莉と数分会話するのが常なのだけれど、今朝に限っては寝坊して時間がない。

 更に具合の悪いことに、今朝の八日堂朔莉のキャラが、相手にすると時間の掛かりそうなタイプだ。相手をするのは面白そうではあるけど、今はご容赦願いたい。

 

「おはようございます、今朝はまた一段と面白そうなキャラなので会話を試みたいのですが、朔莉お嬢様のご指摘通り、時間に余裕がありません。では後ほど」

 

「却下!」

 

「先ほどのストーキングの研究結果でも仰られていたように、普段よりも20分も部屋を出るのが遅れています。正直に言えば寝坊してしまいました」

 

 エレベーターへの進路に立ち塞がる八日堂朔莉を力づくで退けるわけにもいかず、なんとか穏便にこの場を済ませられないか交渉してみた。

 

「というわけで、通していただけないでしょうか?」

 

「回れ右! きびきびと!」

 

 何時になく力強い口調だ。キャラのせいだけだと思っていたが……これはもしかして。

 

「ほら、部屋へ戻れと言ってるでしょう」

 

 袖を掴まれ、部屋の扉に八日堂朔莉は手をかけた。それも軍人口調を止めてまで。

 

「そんなに今の私は不味いのでしょうか?」

 

「一目見るだけで分かるぐらいにね」

 

 これが僕の親しい人以外の他の誰かだったら、お嬢様特有の我儘だと考えたかもしれない。

 だが、今、僕の前にいるのは八日堂朔莉。彼女には何度も相談に乗って貰えたし、その度に僕の為になる事を教えて貰ったり、して貰ったりした。

 その彼女が真面目な顔をして、僕の胸元のリボンに手を伸ばして来た。

 

「貴女は私のお姫様。だからいつでも綺麗でいて。外を歩く時は、僅かな乱れがあっても駄目」

 

 八日堂朔莉は僕の胸元のリボンの位置をその手で直してくれた。

 誰かにリボンを直されるのは、入学式の朝にルミねえに直された以来だ。あの時は、僕に忠告の為にルミねえはリボンを直すフリをしただけだったけど、今の八日堂朔莉の行動は違う意味があると分かった。

 彼女は単にリボンがずれていると伝えたいのではなく、慌てている僕の心が、外見にまで表れていると言いたいのだろう。

 もしかすると、気付かずに目にクマが出来ているのか。だとすれば、危ないところだった。教室では完璧なお嬢様を僕は演じている。ミスした時ほど丁寧に。日々の生活の中でどうしたって油断は生じるけど、その油断が僕にとっては何よりも致命的だ。

 今の僕は一度のミスが致命的で、恐らくそのミスが起きた時は冷静ではいられない。慌ててさらなるミスを連発して、取り返しのつかない事態を引き起こしかねない。

 大切なのは冷静さ。最近余裕が生まれたせいなのか初心を忘れかけていた。

 

「ありがとうございました。お嬢様には連絡を入れて謝り、時間を頂きます。部屋に戻って、鏡を見直して来ます」

 

 注意は間違いなく受けるだろうけど、エストは寝坊を本気で怒る人じゃない。

 ……彼女に寝坊に関して言う資格があるかはともかく、今日は申し訳ないが自分の性別の安全を優先しよう。

 また、八日堂朔莉には助けて貰ってしまった。大事な事を思い出させてくれた彼女には、感謝しかない。何かお礼をしたいと顔を向けてみると……。

 

「駆け足っ! きりきりと!」

 

 だけど軍人キャラに戻ってしまっていた。少し……と言うか、かなり残念だ。

 普段通りのキャラだったら、もっと心からのお礼の言葉を伝えたかったのに。どうしてこういう感謝したい場面で、キャラを変えるのだろうか?

 残念でならないよ。とは言っても、助けられたのは事実だ。

 何かお礼をしたいところだが、彼女が欲しがっていた僕の髪の毛は5月の初めに沢山渡してしまった。今更一本や二本の髪の毛がお礼になるとは思えない。

 ……そうだ!

 

「少々お待ちください、朔莉お嬢様」

 

 部屋に戻って、目的の物を見つける。

 縫製の練習の為に作った物だが、日常で普通に使える物だから問題はないと思う。駄目だったら、また今度ジュニア氏に髪を切って貰った時に切った髪を渡すことにしよう。

 丁寧に折りたたんで、僕は八日堂朔莉が待つ部屋の外に向かった。

 

「お礼になるか分かりませんが、どうぞこれを受け取って下さい」

 

「……ハンカチ?」

 

「はい。縫製の練習の為に作った物ですが、どうぞ受け取って下さい」

 

「……ありがとうなあ、大切に使わせて貰うわ」

 

 ……えっ?

 一瞬、目の前に立っている相手が八日堂朔莉ではなく別人に見えた。思わず、目を擦ってしまった。

 今のは……演技だよね? 確かめる意味も込めて、髪を一本引き抜いて八日堂朔莉に差し出してみる。

 

「いつっ。はい序でにどうぞ、新鮮な髪です」

 

「抜いたら痛むではないかっ! せっかくの美しい白髪を粗末な扱いをするな馬鹿者っ! でもありがたくいただきます!」

 

 ……気のせいだったようだ。

 欲望に満ち溢れた目をしながら、僕の髪を見つめる八日堂朔莉は間違いなく……何時もの変態だ。

 どうやら彼女に指摘された通り、今の僕は危ないようだ。言われてみれば目蓋が少し重くなってる。もっと目をぱっちりさせないと。

 内線でエストに連絡をして許可を得た後で、ドアの外から聞こえる豚のごとき嬌声をBGMに、顔と肌を整えた。うるさいとは思うけど、耳障りではない。

 ……あっ、扉の外から壱与に注意される声が聞こえた。僕はともかく周りの部屋の人には迷惑だから仕方がない。

 それよりも先ほどの一瞬見た八日堂朔莉。……アレは本当に演技だったのだろうか?

 先ほどの彼女は今まで僕が見て来たどんなキャラよりも輝いて見えた。

 普通の女性に美を感じない筈の僕でさえも、一瞬見惚れてしまった。

 ……まあ、一時の気の迷いだと思う。幾らキャラが綺麗でも、素の彼女を僕は良く知っている。

 病的なまでに白髪フェチという変態の本性を。

 

「朝陽が寝坊するなんて、メイドとして雇った初日以来だね」

 

「申し訳ありません、エストお嬢様」

 

 身支度を完璧に整えて、部屋の前で待っていた八日堂朔莉からも許可を得た僕は、エントランスで待ち合わせをしていたエストと合流した。

 

「朝食の方はいかがなされましたか?」

 

 エストの朝食を作るのは、僕の仕事だ。

 でも、今日は寝坊して朝食を作ることが出来なかったから気になって質問してみた。

 

「朝陽が予約でご飯を炊いておいてくれていたから、ままかりで食べたよ」

 

 ままかりか。未だに無くならないんだよね。

 おやつ感覚でエストが食べても無くならないんだから、本当に困った物だ。いや、今日の所は助かったけれど。

 

「でも、朝陽。今日は寝坊したんだったら、お昼のお弁当は用意していないよね?」

 

「……はい」

 

「フフッ、それじゃあ今日は久しぶりに食堂に行きましょう」

 

 やはり、そう来たか

 エスト・ぽちゃっと・アーノッツを回避する為に食堂には余り行かずに、お弁当で昼食は済ませていた。だって、食堂にエストが行くと、僕が幾ら注意しても沢山食事を取るばかりか、目を離した隙にお代わりまでしてしまう。

 本当に一瞬目を離した隙にされるから困る。食事の時のエストは油断する事が出来ない。

 とは言っても、今日は寝坊した手前強く言う事が出来ないし、お弁当も作っていないから食堂に行くしかない。

 ……今日だけは残念ながら諦めるしかない。

 エスト・ぽちゃっと・アーノッツにまた一歩近づいてしまった事に悔しさを感じずにはいられない。

 

「ところで朝陽。小倉さんに贈る服は、どのぐらい完成したの?」

 

「裁断も終わり、今は縫製が始まったところです」

 

「あっ、漸く納得出来る型紙が引けたんだ」

 

「はい。苦労しましたが、最高の型紙が引けたと思います」

 

 自分で言うのも何だが、小倉さんに贈る服は、これまで僕が製作していた服の中でも最高の出来になると思う。

 でも……それで満足していたら駄目だ。僕には文化祭でルミねえに昔のピアノを弾いていた頃の気持ちを思い出せるような衣装を製作するという目標があるんだから。

 

「ねえ、朝陽」

 

「何でしょうか、お嬢様?」

 

「うん。お願いなんだけど、小倉さんに贈る予定の服が完成したら見せて貰っても良いかな?」

 

「服をですか?」

 

「そう。デザインを見せて貰った時から完成したら一度見てみたいなあって、思っていたから」

 

 久々に大変気分が良い!

 アメリカ時代のライバルであるエストから、僕が製作した服を見せて貰いたいだなんて言われる日が来るなんて!

 でも、喜ばしいだけじゃなくてエストの提案は僕個人としても助かる。今回の小倉さんに贈る服は、何時も僕が製作しているようなコンクールに出すような衣装じゃなくて日常で着て貰えるような普段着だ。

 お父様とお母様は大丈夫だと言ってくれていたが、何せ初めての経験だから他の人の意見も聞いておきたかった。

 

「分かりました。完成したら御見せしますね」

 

「楽しみにしてるね!」

 

 にこやかに会話をしながら僕とエストは学院への道を歩いて行った。

 

 

 

 

side遊星

 

「……お、終わった」

 

「頑張りましたね、下の兄」

 

 最後の一針を終えた僕は、作業台の上に倒れ伏してしまった。

 たった今、漸く僕はお父様から与えられた課題を全て終えた。流行を理解する為に、課題として与えられた110着のレポートも書き終え、ドレスシャツもたった今製作し終えた。

 僕が完成させたドレスシャツをりそなは手に持って注意深く見ている。

 

「……大丈夫そうですね。妹の目で見る限り、問題はなさそうですが……上の兄の目から見るとどうなのかは正直分かりませんね」

 

「うん。それは分かってるよ」

 

 服飾においてのお父様の厳しさは、嫌と言うほどに僕は知っている。

 僕やりそなから見れば問題は無いと思っても、お父様の目から見れば問題があって減点されるかも知れない。

 改めて、りそなが広げているドレスシャツを見つめる。

 ……うん。僕の目から見ても、製作したドレスシャツには綻びなどは見えない。

 

「それにしても……貴方は時間が少ないというのに、時間が必要な縫い方をしますね。その分丈夫なんですが」

 

「もしかしたらお父様が使ってくれるかもしれないと思ったら、妥協は出来なくてね」

 

「其処はアメリカの下の兄も変わりませんね。あっちも時間が無いというのに、うっかり裾を踏みつけたりしないようにまつり縫いじゃなくて千鳥がけをしていましたから」

 

 僕も多分同じ事をしてしまうと思う。

 どんな状況でも、僕はやっぱり手を抜いたりする事は出来ない。プロを目指すなら時には、質を落としたりする事は必要なのかも知れない。

 だけど、それをやってしまったら僕の衣装は丁寧だと誉めてくれたルナ様に申し訳ないし。

 ……いや、一から学び直している現状で丁寧も何もないかも知れないんだけど、やっぱり僕はどうしても着る相手の事を考えて製作したい。桜小路遊星様とは違う道を進むつもりだが、このやり方だけは変えられない。

 

「まあ、この点はちゃんと上の兄も評価してくれるでしょうから問題にはなりませんね……ただ貴方の方は大丈夫なんですか?」

 

「うん。大丈夫だよ……カリンさんが気を利かせてくれて、5月の調査の方はしてくれたし」

 

 その件はちょっと申し訳ない気持ちがある。

 元々調査員としての仕事の方の大部分はカリンさんがしてくれていた。僕も服飾部門の調査はしているけど、フィリア学院に沢山ある科を殆ど一人で調査しているカリンさんの苦労は僕の比ではない。

 

「確かにカリンさんも頑張ってくれていますよ。服飾では力になれない代わりに調査の方はかなり進んでいます……問題は今年では解決出来ない問題が多すぎる事ですね」

 

「そんなに多いの?」

 

「ええ、自分でももっと早めに調査員を派遣しておくべきだったと思うぐらいに……特にお爺様の問題が。なんで僅か一年でこんなに問題を引き起こしてくれているのかと頭が痛くなりました」

 

「ああ」

 

 思わず納得してしまった。

 

「でも、お爺様の問題は」

 

「ええ。下手な事は言えませんし。他の役員達も大蔵家の前当主が関わっているなら仕方がないと呆れているほどです……嫌味は言われますが」

 

「う~ん……ラフォーレさんは何も言わないの?」

 

 今年はジャンがフィリア・クリスマス・コレクションに来るので、フィリア学院には毎月必ず戻ってくるそうだから。

 

「元々あの総学院長は服飾部門以外への関心は少ないですからね。ただ、フィリア・クリスマス・コレクションには干渉させないようには言われましたよ。まあ、元々させるつもりはありませんが」

 

「僕も干渉して欲しくないなあ」

 

 せっかくのジャンやユルシュール様、瑞穂さん、湊がフィリア・クリスマス・コレクションにやって来るんだから。

 その舞台には干渉して欲しくない。でも……お爺様なら干渉して来そうだから怖い。

 りそなから渡された完成したドレスシャツを丁寧にたたんでいく。変なしわが寄らないように注意しないと。

 レポートの束と一緒に並べて……っと! よし、終わった。

 

「そういえば、今回の課題に隠された意図は分かっているんですか?」

 

「うん。追加されたドレスシャツの課題は、そのまま今の僕の服飾の実力を見る為だと思う」

 

 入学した頃はシャツ一枚を完成させるのに一ヵ月はかかるぐらいだったのに、今は結構無茶をしたけど一週間でギリギリ終わらせられるぐらいに腕が上がっていた。

 ……学院にも持ち込んで昼休みにサロンや教室でも制作を進めることになってしまったが、事情を話した樅山さんが笑顔で了承してくれたのは助かった。今日学院に行ったら、改めてお礼を言わせて貰おう。

 

「それで肝心の最初から言い渡された課題の方はどうなんですか? まさか、そのまま貴方が流行を理解する為だけとは、思えませんからね。あの上の兄だと特に」

 

「うん。そっちの方の課題は多分……」

 

 女装姿を写真に撮られるのは精神的に辛かったけど、それでも何とかお父様の隠された意図は分かった。

 

「お父様は多分僕に、今の時代だと、どんな服に髪型やアクセサリーが合うのかを分からせたかったんだと思う」

 

「ああ、なるほど。確かに服飾をやっていくなら必要な事ですね。特に貴方も今年のフィリア・クリスマス・コレクションには参加するつもりですから。ファッションショーに参加するなら必要な事です」

 

「うん。だから、今回の課題は本当に僕の為だったんだよ……精神的にはかなり辛かったけどね」

 

「思いっきり真っ白になっていましたからね、貴方。自己暗示する程に追い込まれていましたし」

 

 余り言わないで……思い出すだけで崩れ落ちそうだから。

 

「そして今も普通にメイド服を着ているんですから」

 

「虐めないでよ」

 

 うぅ……どうしても服飾をやりたい時は、この桜屋敷のメイド服を着てしたく成ってしまう。

 ……もしかして手遅れ? い、いや、まだ大丈夫! うん、大丈夫な……筈。

 

「と、とにかく朝食にしよう。そろそろカリンさんも来るだろうから」

 

「そうですね……ちゃんと制服に着替えて来て下さい」

 

 その制服も女学生のものなんだよね。

 ……うん。これからは休日の時に家にいる時は出来るだけ男性物の服を着るようにしよう。

 そんな事を考えながら、僕はりそなを伴ってキッチンへと向かった。

 

 

 

 

「そう言えば、例の上の兄がスポンサーを務める予定のブランド……『ぱるぱるしるばー』でしたか。そっちの方は学院内で嫌がらせを受けていませんか?」

 

「今のところは大丈夫みたいだよ。少なくとも、一般クラスの一年生が特別編成クラスの生徒から嫌がらせを受けているって話は聞いていないよ」

 

「数度ほど一般クラスの食堂に行って確かめましたが、小倉様は好意的な視線を向けられこそすれ、拒否的な視線を向けられることはありませんでした。音楽部門の生徒達も少なからず好意的な視線を向けられているようです。主に男子学生ですが」

 

 うぐっ!

 その事は結構ショックなので、余り言わないで貰いたかった。

 どうやら山県さんのリサイタルに行った時の僕の対応から、僕と山県さんの仲が良好だと分かって貰えたのか、少なくともジュニアさんと同じで僕は山県さんに害を為す人間ではないと分かって貰えたようだ。

 とは言っても、あくまで男子学生だけで女学生からは相変わらず嫌われているが、今のところは人目のある場所で悪く言われる事はなかった。ただ、あくまで僕に対してだけで残念ながら……ルミネさんの評判は変わっていない。

 寧ろ山県さんのリサイタル以降からは、人目のない場所では公然と悪口を言われているらしい。個人授業という形態を取っているピアノ科だと、ピアノの練習中は個別に教室で練習しているからルミネさんは知らないようだけど、調査中にカリンさんが聞いたそうだ。

 

「音楽部門での小倉様の評判は確かによくなっていますが、真面目な話。今のピアノ科の現状では文化祭の時にルミネお嬢様が演奏者に選ばれたとしても聞きに来るピアノ科の生徒達は少数だと思われます」

 

「そ、其処までですか?」

 

「はい。聞いているだけで難儀させられました」

 

「ああ……学生時代の悪夢を思い出してしまいます。もうルミネさん、完全に学生時代の私と同じで孤立しているじゃないですか。マジでこのままだと冗談抜きでルミネさん、引き篭もりになりかねませんよ」

 

 学生時代と言うか、僕からすれば二年近く前のりそなを知っているだけに冗談に聞こえないから……凄く怖い。

 

「な、何とか出来ないかなあ?」

 

「アメリカの下の兄の話だと、甘ったれが何かやろうとしているようですから、今は下手に干渉しない方が良いですよ。まあ、来月から貴方は桜の園に何度か寄るつもりなんでしょう?」

 

「うん、そのつもりだよ」

 

 アトレさんから遊びに来てくれって誘われているし、八十島さんから百武さんや鍋島さん達に会わないかとも誘われているからね。

 

「その時に何か気がついた事があったら手を貸してあげるぐらいが良いんじゃないですか?」

 

「ありがとう、りそな」

 

 僕は笑顔でお礼をりそなに言った。

 こうして何気ない会話の中でも、りそなが才華様達を心配していることが分かる。

 ……本人には絶対に指摘出来ないけどね。

 

「それで話は戻しますが、例の『ぱるぱるしるばー』の二人の方は大丈夫なんですね?」

 

「うん。今のところはだけどね……実は今度パル子さんの衣装が映画で使われる事になっているんだよ」

 

「うわっ! 学生の身分で映画に製作した衣装を使って貰えるなんて、もう大成功寸前じゃないですか! 理事長としては嬉しい話ですね……まあ、妹的に、今更フィリア学院の評判がどうとかどうでも良くなってきているんですが」

 

 相当他の役員達から嫌味を言われているようだからね。

 仕方がないと思ったらいけないんだろうけど……りそなの気持ちも分かるから何も言えない。

 

「で、真面目な話ですが……実は妹も、その『ぱるぱるしるばー』というブランドに興味があるんです」

 

「りそなはパル子さんが描いているデザインとか好きそうだからね」

 

「ええ……元々ゴスロリ系のデザインを描き始めた切っ掛けもゴスロリが好きだったからですからね。それで教えて貰ったサイトを見てみたら、本当に良い衣装が掲示されていました。この前、貴方が会ったフロアマネージャーもうちのブランドで展示しても構わないと言っていました」

 

 何だかパル子さんのブランドの『ぱるぱるしるばー』に、どんどん大きな話が舞い込んで来ている。

 でも、実際パル子さんのデザインと型紙はそれだけの評価を受けても可笑しくない程の出来だ。

 直接会ってからという事になるが、お父様もパル子さんとマルキューさんのブランドである『ぱるぱるしるばー』へのスポンサーの話はかなり乗り気のようだし。

 

「とは言っても、映画の話が出ているなら暫くは待った方が良いですね」

 

「聞いた話だと、20着は製作するそうだからね」

 

 流石に映画で着る衣装の製作に加えて、ブランドの方で依頼された衣装の製作もあるだろうから、これ以上は流石にパル子さんも無理だ。

 

「やっぱり今回は見送った方が良いですね」

 

「しかし、大丈夫なのですか? 彼女はフィリア学院に通っている生徒ですから、理事長であるりそな様が干渉するというのは、他の生徒達から反発を強めないでしょうか?」

 

 ……カリンさんの言う通りかもしれない。

 今は起きていないが、現在の服飾部門は特別編成クラスと一般クラスの間で溝が出来てしまっている。

 その事を考えると……りそなの提案は確かにパル子さん達にとっては危ないかも知れない。

 

「一応依頼する時は、ブランド名だけのつもりでしたが……今の状況だと危ないのは事実ですね。分かりました。やっぱり、今回は見送るように言っておきます」

 

 少し……残念だなあ。

 この前行ったりそなのブランドショップに展示されるパル子さんの衣装を見てみたかった。

 だけど、パル子さんとマルキューさんの安全には代えられない。

 そんな事を考えているうちに朝食を終えた僕とカリンさんは、りそなに挨拶をし終えると学院に向かった。




原作を知っている人なら分かると思いますが、この五月下旬はルートの分岐点でもあります。果たして才華と朝日がどのルートを進むのか。
お楽しみ下さい!

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