女子トイレで耳郎は顔に幾度も冷たい水をぶっかけた。顔の熱が取れない。火照りが冷めない。羞恥心がマッハ全開、ダッシュ豪快を維持継続している。彼のおよそ男とは思えないぐらい程よく柔らかく、ぽってりした唇は清涼感のあるペパーミントの味がした。自分が飲んでいた紅茶の余韻もあって、筆舌しがたい多幸感が全身を駆け巡った。正直、キスの快感があれ程の物とは思っていなかったし、もっとしたいと彼が抱き寄せていたらまず間違いなく受け入れていただろう。
「くっそぉ~~~~・・・・・・!!!」
自分から呼び出して自分から告白してその上自分から彼にキスまでしてしまった手前、自業自得なのは認めるし結果的にがっついたのが実を結んだ。だが正直恥ずかしくて悶え死にたかった。ラブコメ映画じゃあるまいし。恋愛小説じゃあるまいし。少女漫画の人数だけは無駄に多い男の一人じゃあるまいし。なのに。なのに、だ。恋愛初心者の分際で告白したばかりの相手を壁に押し付けてからかがませて不意打ちのキス、から捨て台詞の『ざまあみろ、バーカ。こっちこそよろしくね。』である。
「どう考えても一番バカなのウチじゃんかぁああああああああ!!!あああああああああーーーー!!!うわああああああーーーーー!!!」
洗面器を叩く手の勢いが累乗的にエスカレートした。今時の三文ドラマでも聞かないようなクサい台詞をその場の雰囲気や勢いもあって言い切ってしまった。それも高らかに。誰かに聞かれたかもしれない。いや、まず間違い無く誰かに聞かれている。クラスで告白の事が出回っている様子は無いが油断はできない。
いつまでも(特に担任の相澤消太相手に)隠し通す事が出来ないのは分かっているが、せめて一ヶ月、いや半月。その間に隠しつつある程度親睦を深め、色々気持ちを整えて付き合ってますアピールをすればいい。うん、そうだ。それがいい。それが今思いつく限りのベストチョイス。
深呼吸を繰り返しながら高血圧症患者もびっくりな程に高い心拍数を沈め、教室に戻った。扉を開いた所で彼が座って何やら赤くなったり目を白黒させたりと、一人で百面相しているのが見えた。
「どうしよう・・・・・・!?ホント、どうしよう!?」
彼とはあの夜以来挨拶すらまともに交わせていない。冷めやらぬ興奮を鎮める為の時間は必要だろうと彼のパーソナルスペースを授業などの必要な時以外は侵す事を控えたが、もうこれで三日だ。そろそろ何かあってもいいのではないか?例えば、デートの誘いとか。勿論生きる自己否定人間である彼をもっと逆方向へ引っ張って行かなければならないのは他ならぬ記念すべき初彼女である自分だが、彼自身が成長してイニシアチブを取るぐらいの度胸を付けなければ意味は無い。
だがまあ、焦る事は無い。それはおいおいやってくれればいい。今はとりあえず彼がどうしているのかを尋ねて助け舟を出してやろう。「何を?」と後ろから声をかけてやる。
「誘い文句をどうすればいいのかなと思ってて・・・・・・って耳郎さん!?」
「ど、どーも、彼女になりたての耳郎です。」
僅かに頬に熱がこもるのを感じたが、無視して不敵な笑みでピースサインを掲げて見せた。相変わらずこうもすらすらと歯の浮くようなセリフが口から流れ出る自分に呆れどころか若干の自己嫌悪すら覚えてしまう。恋愛に対して憧れはあったし、今でもある。これが恋愛脳と言う奴か。
「で、誘い文句って?」
大体予想はつくが、あえて本人の口から言ってもらいたい。
「・・・・・・デートに誘う為の誘い文句です・・・・・・こんなんだけど彼氏に抜擢されたわけですし。」
にやけてしまいそうな口元に意識を集中させて平静を装った。デートに誘う為の誘い文句。ああ、そのフレーズのなんと甘美な響きか。実に素晴らしいし耳障りが良い、と思ってしまう自分は悪くない。悪くないったら悪くない。それもこれも自分を惚れさせた緑谷出久の人間性が原因だ。悪いのはあいつだ、以上。
「抜擢って、ヒーロー事務所のドラフトじゃないんだから。」
言葉のチョイスに少し笑ってしまった。数多くいる男の中から吟味し、絞り込み、告白。
あながち間違いではない。
「まあでも考えてみると独り身から彼女持ちになるのはある意味栄転だね。三日も何も音沙汰無いから心配だったんだけど。」
これは半分本当だ。いきなりあんな告白をかまされて重いと思われるのでは、と内心危惧はしていた。勿論彼ならそれを受け止めてはくれるだろうと言う考えはあったがその優しさに甘えてしまっているのではないか、やはり時期を焦ったのではないかと何度も思った。
「それについてはご心配おかけしてホンットすいません。言い訳のしようもありません。お詫びに放課後、どこか行きましょう。」
「うん、いいよ。」
来た。待ちに待ったお誘いの言葉だ。腰から折れて飯田も美しいと言わしめるほど上半身が床と平行になった状態なのが玉に瑕ではあるが。
「え?」
「おめでとう、言えたじゃん。」
「あ・・・・・・はい。」と、まるで今世紀最大の肩透かしを食らったような呆けた顔でそうとしか答えなかった。さっきまでああでもないこうでもないと頭を捻っていた場面を思い返すと笑いが込み上げて来た。
「付き合ってない奴同士なら兎も角、ウチらはその敷居三日前に越えてんだからそこまで構えなくてもいいよ?」
むしろその調子でどんどんアプローチして自信をつけて、自分にも女としての自信を与えて欲しい。心身両面に於いてヒーロー科の授業に生易しいと言う言葉は存在しない。自分も出来る事はやれるだけやっている為、引っ込むべき部位はしっかり引っ込んでいる。その為体重や体脂肪率に関しては全く以て心配無い。問題は出て欲しい部位が出ていないという事だ。周りには八百万の様な発育の暴力と言わしめるスタイルの持ち主がいるし、そうとまでは行かなくともクラスメイトの女子は自分を除いて出る所はしっかり出ている。透明人間の葉隠ですら服の上からでも胸の豊かさがうかがえるのだ。
まあ彼にはスレンダーな女の良さを後でしっかり説くとして、今は当ての無い制服プチデートに思いを馳せるとしよう。だが振り向いた所で手を掴まれ、後ろに引っ張られた。思いのほか力が強く、バランスが崩れて倒れたが体制はすぐに立て直され、訳も分からぬうちに出久の顔が目の前に現れてキスされてしまった。
すすっ、すすすすっ、と衣擦れる音と共に彼の傷だらけのごつごつした手が腕を、肩を滑るようにゆっくり登ってくる。その都度ピクリ、ピクリと体が引き攣った。するのとされるのではこうまで違いがある事に驚きを隠せなかった。手が後頭部に差し掛かり、髪を梳く指先が耳を掠めた瞬間快感が走る雷の様に脳を撃ち抜き、小さく喘ぎ声が漏れてしまう。
その瞬間、彼の唇と手が離れた。
「ちょ・・・・・・みど、りや・・・・・・」
余韻だけでも溶けた脳味噌が耳から流れ出てきそうだった。膝も多少笑っている。
「その、お詫び・・・・・です。三日も待たせちゃいましたから。」
律儀なのは結構だが、今のはずるい。ずる過ぎる。いつからこいつはこんな狡猾になった?
――何で離れたの?
そう言おうとした瞬間、「おい、用が無いならさっさと帰れ。」と担任の一声で心臓が止まりかけた。出久もまるで幽霊でも見ているかのように顔から血の気が無くなっている。相変わらず不精髭を生やした抹消ヒーローの表情は読めない。見られていないかもしれないが、見られたかもしれない。
「ハイ・・・・・・スイマセン・・・・・・」
告白直前のあの微妙な空気を漂わせ、槍のような視線を背中に受けながらも退散し、キャンパスから出た。
――何で離れたの?
待て、違う。流されるな。周りには出来る限り隠していくと決めた直後にこれでは意味が無い。だがキスは気持ちよかったし、あの積極性は嬉しかった。草食系とばかり思っていた彼が実は世に言うロールキャベツ系と分かったのだ。嬉しくも恥ずかしく、腹立たしくもあった耳郎は出久の肩を思いきり殴りつけた。
「痛い・・・・・」
「きょ、教室でああいう事すんな馬鹿!たまたま相澤先生だったからまだ良かったけど、クラスの誰かだったらどうすんの!?」
「すみませんでした・・・・・・」
「でもその・・・・・・そっちからキスしてくれたのはちゃんと嬉しかったから。時と場所さえ気を付けてくれたら、いくらでもしていいからさ。ほら行こ、デート。」
「え、あ、でも・・・・・・その、行く所とか僕全然考えてなくて。この距離と時間帯を考えると木椰子区まで往復するには多少時間がかかり過ぎて込み具合に関係無く門限に引っかかるし、かといってコンビニとかで済ませるのもいくらなんでも安上がり過ぎますし出来るなら徒歩で行けるどこか手軽な場所を探すのがベストですけどどこに何があるとかコスパを吟味しなきゃいけないし、ああでもそれじゃまた時間消費しちゃうから――あだっ!?」
スマートフォンを操作しながら例のブツブツ人目も憚らずに高速の独り言が出るが、「落ち着け、コラ。」の一言と共にイヤホンジャックで額を小突いてやめさせた。
「何も初デートでそこまでハードル上げる程鬼じゃないよ、ウチは。真剣に考えてくれてるのは嬉しいよ?嬉しいけども、ゆっくり行けばいいから。慣れてきたら期待するけど。凄い奴。こうやって当ても無く歩き回るのもウチからすれば十分デートの範疇に収まるし。」
「そう、ですか・・・・・・」
マリモを思わせるもさもさ頭を撫でてやる。癖毛なのは生まれつきらしく、指通りなどはあまり期待できないが髪に艶はある。根津校長が大事なのはケラチンだとか言っていたが、手入れとかをしているのだろうか?伏し目がちな彼の眼を見て笑いかけてやり、ぐりぐりと少し力を入れた。チャウチャウやマラミュートなどのふわふわした犬を撫でている感じがして楽しい。
「それとさ、ちょっと疑問なんだけど。」
「はい?」
「何で敬語なの?そんなんじゃなかったじゃん、付き合う前は。」
これが今の一番の疑問だ。敬語は基本教師や先輩など目上の人間にだけ使っている。八百万は育ち故にですます調がデフォルトだと言うのは分かるが、彼はそうではなかった。不自然と言う訳ではないが、気にはなる。
「そう言えば・・・・・・変ですか?」
「いや変、ではないけど。なんかなあ・・・・・・こう、立ち位置的に目線が合ってない様な感じがま~だ残ってるっぽい。分かる?言いたい事。」
「なんとなくは。でも別に壁を作ろうとしてるとかそういうわけじゃなくて――」そこまで言った所で再びイヤホンジャックで弱めに小突いてやる。
「分かってる。今はまだそれでもいいよ。でも、しっかりそのうち敬語やめて名前呼んでもらうから。さん付け抜きで。」
「・・・・・・ハードル高くないですか?」
「キスの方がよっぽどハードル高いよ!あんたの中でその順序どうなってんの!?」
「告白直後にした人に言われましても・・・・・」
ここでそれを持ち出すか。ファーストキスで印象深く脚色してしまったのは自分だから言い返せない。
「あ、そー言う事言っちゃうんだ?じゃあもうしてあげないし、させてあげない。絶対に。」
「・・・・・・ひどくありません?その仕打ち。」
本気ではないとはいえ言うだけで罪悪感が半端ない。表情に出さない様に努めているが、出久がへこんでいるのは嫌でもわかる。一週間と経たずに禁断症状末期で発狂するかもしれない。
「キス禁止は嫌?」
「嫌ですよ。」
食い気味な答え方から本気の度合いが窺い知れる。
「じゃあ寮に戻ったら教室でやった感じのキス、もっかい。」
自分から告白したのだから責任をもって自分にもっと惚れこませてやらねば。
「誰もいないと確認が取れたら、ですよね?」
「ん、分かればよろしい。」
流石は中間四位の成績を持つ男だ、(まだ)学習能力だけは一人前である。
「じゃ、音楽聞きながら帰ろ?分配ケーブルあるから。」
彼の手を握り、一緒にかかったブラックサバスの曲の歌詞を口ずさみながら寮へ足を向けた。
英語の発音が良くなっている。そして笑顔も相変わらず明るくて優しい。