轟焦凍の和室と化した寮の部屋で出久は緑茶を飲みながら将棋を指していた。初心者である為今の所出久は手合い割有りでも負けこそ込んではいるものの、元々頭の回転は速く、柔軟な考えの持ち主である為飲み込み自体は速く、今では平手で指せるようになっている。
「なあ、緑谷。」
パチリと脚付きの将棋盤に駒が置かれ、カチッと対局時計に轟の手が落ちる。
「どうしたの?」
「お前・・・・・・変わったな。別に悪い意味で言ってるわけじゃねえが。」
「そう?変わったってどういう風に?」
出久も駒を進めて轟の歩を摘み取って聞き返した。
「いまいちどう言葉にすりゃいいかは分からねえが、こう・・・・・・雰囲気が、だ。普段の慌ただしさが無くなってる。何かあったのか?」
「ん~~・・・・・あったと言えばあったけど。まあその内分かると思うよ?」
即座に狙いすました飛車が桂馬を獲った。
「そうか。悪いな、変な事言って。」
「気にしてないからいいよ。むしろ普段無口だからもっと喋ってもいいとさえ思う。僕も変わったって自覚、少しはあるし。でも何で急に?」
「いや、別段理由と呼べる程大層な発端じゃねえが・・・・・・上鳴や峰田が言っているそうだ。女が出来たんじゃねえか、と。」
敵陣に辿り着いた歩を成駒として裏返し、対局時計のスイッチを押そうとした所で手が空を切った。
「雰囲気が変わったから即恋愛に繋げるなんて、ちょっと強引過ぎないかな?芦戸さんじゃあるまいし・・・・・・」
「芦戸の方は分からねえが、女子でもそういう話が持ち上がってるのを聞いた。チラッとだけだがな。」
角行の位置を変えた轟がまた攻めに入った。
「へ、へー・・・・・」
切羽詰まった所はよんどころなく持ち駒を切り落としていくが、それ以外の時は回避と防御に徹する棋風はやはり彼らしい。そして何より一局ごとに着実に上手くなっている。相変わらずブレない奴だと思いながら轟は緑茶が入った湯飲みに手を伸ばした。
「聞きかじった限りでは、お前は『心がイケメン』と言う奴らしい。」
「『心がイケメン』ねえ・・・・・・言っちゃなんだけどあんましピンと来ないな。それなら轟君はさしずめ『見た目はイケメン、心は天然』ってとこだね。ん、ここはこうだ。」
振った飛車が銀に獲られ、「お」と轟の顔色が僅かに変わった。「お前・・・・・・案外いやらしい指し手だな。千日手とかも混ぜてくる所とか。」
「そう仕向けるのは轟君だよ?だって戦い方がかなりめんどくさいんだもん。」
「そうなのか。」
「そうだよ。『個性』を使った攻撃は割と大雑把な癖に。」
「・・・・・・否定出来ねえな。けどだったらお前はムラがありまくりだろ。」
轟の角行が桂馬を獲ったが、即座に出久は既に獲った駒を次々と盤上に叩き付けて引っ掻き回しにかかる。
およそ300手以上に達した所で出久は投了した。飛車を取り返され、更に桂馬と歩に退路を完全に断たれてしまった。
「惜しかったな。今回はかなりヒヤッとした。今回は初めてだ、300手以上まで行けたのは。少し前は50も行かないうちに詰んだってのに。上手くなってるぞ、緑谷。」
「ありがと。でも轟君も教えるのが上手いし、詰め将棋とかも良い頭の体操になるよ。新発見」
「出来る奴が八百万と障子以外いねえから正直助かる。あの二人ばっかじゃ新鮮味がな。」
「まあ、分からなくはない。でも新鮮味で言うなら一旦ざる蕎麦から離れるってのはどう?代わりに丼料理とか。」
「そこだ。暗にカツ丼を勧めようとしてる所が変わったって言ってるんだ。まあお前がざる蕎麦食うなら別に試してみても良いが。」
「お、いいね。折角の夏だしその内やろうよ。」
「おお。」
休日、午前中の出来事である。
「・・・・・・もうそろそろ隠しきれないか、これは。」
午後はとりあえず愛用の音楽プレイヤーを持って海浜公園での走り込み(アンクルウェイト装着状態)だけで済ませよう。
現実に直面しながらも思い切り目を背けたい気持ちで一杯な出久はそう呟いた。
緑谷出久は落ちた。恋に。
堕ちた。耳郎響香と言う女に。
溺れた。彼女がくれる愛に。
悲しきかな男の性、今や後戻り出来ない(するつもりもないが)程に深みにはまってしまった。交際を始めて一週間と少し。出久は精神的にかなり変わった。少なくとも轟から指摘された様に周りからはそう言われている。担任からもそう言われている。オールマイトからもそう言われている。
素直に嬉しいし、良い意味で変わっている自覚もある。だがしかし、正直バレた時の皺寄せが怖い。西の士傑高校と違い恋愛は禁止されていないが、関係を成立させる事をよしとした以上、今まで以上に力を入れなければならない。ヴィラン連合との戦いも、オール・フォー・ワンもまだ何一つ終わっていないのだ。彼女を守る為にも、自分もその上で五体満足でいられる為にも、力も技も経験も何もかもがまだ足りない。
自然と走るペースが上がり砂埃を蹴立てて端から端まで往復していた様は、さながらロードランナーと言った所だろうか浜を往復する事八回目でようやく体力が底をつき始め、壁を背にどっかりと座り込んでスポーツドリンクが入ったペットボトルを三十秒と経たずに空にした。これでとりあえずノルマは果たした。他にする事となると柔軟体操と勉強しか思いつかなかった。
「耳郎さん、何してるのかな。」
ぼんやり雲を眺めながら呟いた。実家に用事があると昨日の放課後に両親が車で迎えに来たきりだ。次の日までには戻り、戻るまで連絡はつかなくなると事前に言われていたし、他人の家庭の事情である為、具体的に何をするのかはプライバシーに当たる為聞くのも憚られた。用事を済ませたら自分から連絡するとも約束したため、自分から連絡を取るのも義に反する。
干渉も放置も、匙加減が大事だと何かで読んだ覚えがある。
「むー、会いたいなあ・・・・・・」
耳郎がいないだけでここまで影響を及ぼすとは正直想定外だったとしか言えない。教室と寮でキスしたあの日以来軽く、さりげないボディータッチはしているものの、キスはしていない。いや、出来ていないと言った方が正しい。タイミングや場所が悪い他、学業が忙しい都合上仕方ないと言ったらそれまでだが、したい物はしたいのだ。手を握るだけでも構わない。
心のオアシスとなる人物の不在と未だ音信不通な状況に置かれた出久はゆっくりと、しかし確実にノイローゼになりつつある。もしくは禁煙を始めて丁度イライラし始める機関に突入したニコチン中毒者か。どちらにせよ、妙に気力が湧かず、同時に妙にイライラする。
彼女の所為ではない、断じて。むしろ悪いのは自分だ。自制が効かない己が恨めしい。無意識に呼吸が吸って溜息、吸って溜息になってしまう。走っている時は時間が飛ぶように過ぎて行ったのに、今はこうやって座り込んでからまだ十分も経たない。メッセージもまだ来ない。
「うー、まだかなあ・・・・・・」
音楽を聴いてもちっとも心が晴れない。一人で曲を口ずさんでいても面白くもおかしくもなんともない。彼女のあのハスキーな声が聞こえないと、どうも物足りない。
「そう言えば新曲入れたっけ。」
最近追加した曲のリストをスクロールし、心は晴れずとも気は晴れる事を祈って
シャッフルした。
「イ・キ・ロ~」
しかし次の曲へ進めても、どれ一つとして今の気分には合わなかった。
「はー、早く帰って来ないかな・・・・・・?」
帰ったら思い切り抱きすくめて、髪を梳いて、キスしてあげたい。放せと言われても彼女の香りを肺腑の奥まで吸い込み、全力で無視して抱き付いたまま甘え倒したい。半日ぐらい甘えに甘えるダメ人間になってしまってもバチは当たるまい。その為の休日なのだから。
汗を拭き終わって体力もある程度戻った所で立ち上がり、砂を払った。
―――帰ってシャワーを浴びたら昼寝でもしよう。願わくば耳郎さんが夢に出てきますように。
若干の悲壮感を醸し出しながら歩いて寮に戻り、シャワーを浴びた。夏の熱気を冷ます低温は実に爽快だ。着替えて冷蔵庫からお茶を出そうとした所で玄関のドアが開いた。即座に二つグラスを棚から取り出し、麦茶を注ぐ。
たかが一日だが、やっと見れた。メッセージで送られて来た自撮りの笑顔には到底及ばない、生の笑顔を。
「おかえりなさい、耳郎さん。お茶、飲みます?」
「ん、飲む。」
靴を脱いで近づいてくる彼女にグラスを渡すと白い喉が上下にこくこく動いて麦茶を嚥下していく。空になった所で「ふぅ・・・・・・」と息をついた。「いやー、外が暑かったから丁度良かった。ありがと。」
テレビを見ているクラスメイトがソファーに数名陣取っている手前、大した事は出来ない。
「屋上、行こ。」
出久も麦茶を一気に飲み干し、静かにエレベーターに乗り込んで屋上を目指した。他人の目と耳が無い所に着いた所で出久は我慢をやめた。耳郎の腰回りに腕を巻き付けて思い切り抱き寄せた。
「ただいま、緑谷。」
「おかえりなさい、響香さん。」
「ん、よしよし、名前で呼べるようになったね。さん付けだけど。」ともさもさの頭を撫でられる。この髪質が気に入ったようだ。「寂しかった?」
「音楽聞いても全然駄目でした。仮免の救助訓練よりつらいです。」
「そこまで言うか・・・・・・それと、さ・・・・・・・寂しがってくれたのは嬉しいけど、手それ以上下に動かしたらいくらアンタでも引っ叩くかんね・・・・・?」
彼女に巻き付けた腕はそれぞれ背中と小指がギリギリ腰と尻を隔てるラインに届かない絶妙な位置にあった。更衣室で覗こうとした峰田の両目にイヤホンジャックを叩き込む容赦の無さを見せたが、やはり引っ叩くだけで済ませる辺り(本人に認めるかどうかは兎も角として)
満更でもないのだろう。
「耳郎さんがやれと言わなきゃしませーん、そんな事。」
顔を両手に挟み込んで数日ぶりのキスを交わす。何度も、何度も、ゆっくりと、たっぷりと味わう様に。
――足りない。もっと、欲しい。
しかし唇を合わせるだけの、児戯にも等しいキスでは、最早満足できない。ボブカットの髪を掌全体で梳きながら自分の方へ引き寄せた。耳郎のシャツを掴む力が強まり、出久は更に体を密着させた。舌が絡み合った刹那、テキサススマッシュ並みの衝撃が二人の脳を突き抜けた。平衡感覚が数舜異常をきたしたがそれでも止まらなかった。
息も絶え絶えな二人は満足な笑みを浮かべながらも腰を抜かしてその場に座り込んだ。即座に彼女の膝に頭を乗せて横になった。
「甘えてくれるのは嬉しいけど緑谷、がっつき過ぎ。舌取れちゃうから。」
「すいません・・・・・・」
「許す。だからもっかい。」
――至福・・・・・・!
次回はにゃんこな耳郎さんです。