お母さんに連れてきてもらった、水族館。ゆらゆら、と漂うクラゲの展示が一番印象に残っている。クラゲをイメージして、演奏されているゆったりとしたサウンドが懐かしい。クラゲの体内をイメージさせるドーム型の空間に、大小様々な水槽、たくさんの小窓から覗ける水槽。色鮮やかなライトに照らされて、美しく浮遊するクラゲは、きらきらと輝いていた。光を使った美しい幻想的な水槽。トンネル型の水槽は、まるでクラゲが下から上に舞い上がっているのを楽しむことができた。円柱の水槽に設置されている鏡が、クラゲと光の演出をまるで万華鏡のように刻一刻と変化する幻想的な空間を演出している。きれいねえ、って微笑みながら問いかけてくるお母さんに、ミコトは、うん、ってはにかみながら笑った。暖かなぬくもりがつながれた手から伝わってくる。サラリーマン風の男性が、クラゲの水槽の前にあるソファに座り込み、じいっと見ている前を通り過ぎる。家族連れや恋人たち、学生たちの人ごみに流されないように、しっかりと手をつなぐお母さんとみる風景は、ミコトにとって、世界で一番美しいもの、だった。
2003年3月某日、大きな手術を受けるために、地方から東京の有名な大学病院に入院することになったのは、その翌日のことだ。小児病棟の一人部屋にあてがわれたミコトは、生まれて初めて見る東京の夜景に感激した。でも窓から代わり映えのしない風景を見つめるしかない、小さな女の子にとって、それは退屈な世界でもあった。ホワイトボードに貼り付けられている、手術日程。毎日、いつもの時間になるとやってくる主治医の先生。いろんな薬を投与したり、採血したりする看護婦さん。大事な手術にのぞむ一人娘を元気づけるために、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるお母さん、お仕事が終わると必ず電話してくれるお父さん。とうとう、ガンバレ、のメッセージとともにやってきた手術の日。全身麻酔をかけるから、ミコトが目を覚ますのは、きっと全てが終わったあとだって先生が言ってたはずだ。今日の午後には、看護師さんから名前を呼ばれる。だからメールを返すのは、すっかり元気になってから、ってミコトはいつものように、お母さんが貸してくれたノートパソコンで、お友達にメールをうっていた。
ユーガットメイル、と外国人のお兄さんが教えてくれる。お友達からのメールが帰ってきた、ってさっそくメールフォームを開いたミコトは、見たことのないアドレスにアクセスをやめた。ウィルスがはいっているから、あけちゃダメ、ってお母さんに言われていたからだ。テレビが砂嵐になり始めた。ちかちか、と電気が変なタイミングで点滅する。そして、ミコトにつながっている細長いくだの先の機械が不自然な挙動をし始めた。ミコトがカーソルを当てたまま、いつまでたってもクリックしないことにイラついたのか、1通、また1通、と少しずつメールの量が増えていく。あっという間にダイレクトメールやお友達からのメールが下に下に流されてしまう。右はじのスクロールバーが小さくなっていく。さすがに怖くなったミコトは、ジュースを買ってきてくれたお母さんに相談する。
お母さんは、さっと血の気がひいたように、真っ青になった。大慌てでメールフォームをとじて、ネットワークを切断する。そして、迷うことなくノートパソコンをシャットダウンのボタンを押す。でも、カーソルが突然砂嵐になってしまって、動かない。なんども砂時計がひっくり返り、フリーズしたように、動かなくなってしまう。何度もシャットダウン、強制終了のボタンを繰り返していたお母さんだったが、すべて無駄だと悟った途端、ノートパソコンを片手に立ち上がる。そして、大慌てでPHSで電話を始めた。慌ただしく電話アプリを終わらせたお母さんは、ため息一つ、ミコトのところにかけよった。
「どうしたの?お母さん」
「ミコト、いい子だから、お母さんのお話、聞いてくれる?」
「なあに?」
「今日は、お母さんがいいって言うまで、絶対に窓やドアをあけちゃダメよ?」
「どうして?」
それはね、ってお母さんがテレビを付けた。公共放送のチャンネルをつける。東京の空をたくさんの灰色のクラゲが飛んでいた。ミコトは、手術ができなくなったと知らせる電話だったと教えてもらった。
「デジモンっていうのよ」
「デジモン?」
「ミコトにとって、とっても危ない生き物なの。いい、ミコト。絶対に、デジモンに近づいたら、ダメだからね」
優しく頭を撫でてくれるお母さんが、とっても悲しい顔をして、お願いしてくるから、ミコトは、こくん、とうなずいた。ミコトが生まれた日、練馬区にあった光が丘病院は大停電にあって、大爆発があって、大火事があって、とっても大変だったのよってお母さんは教えてくれた。光が丘テロ事件は、ミコトにとって、まさに九死に一生の奇跡の生還だったのだ。大停電の病院、機械はすべて故障し、頼りになるのは黙々と作業を続けるお医者さんと看護師さんたちだけ。犯人が捕まらなかった時点で、光が丘に住んでいたお母さんとお父さんは、東京を去る決意をした。生まれつき体がとっても弱くて、何度も大きな手術をしないといけない、とお医者さんから言われていたミコトを守るために、お父さんの実家である地方に引っ越したのだ。1999年のお台場霧事件、2000年春の事件、結局捕まらない犯人、そして明らかになり始めたデジモンという存在。ますます東京は遠ざかったが、ミコトのためにメスをとってくれる名医がこの大学病院にしかいなかった。この手術が無事に終わって、退院することができたら、すぐに故郷に帰ろう、とお母さんと約束したミコトは聞いてみた。
「どうして危ないの、お母さん。こんなに可愛いのに」
お母さんが連れて行ってくれた水族館のクラゲを思い出したミコトに、お母さんは小さく首を振った。
「小さくても、大きくても、デジモンはミコトにとって、あぶないのよ」
そして、ゆっくりとお母さんはミコトの胸に手を当てた。
「デジモンはね、とっても強い電磁波を出してるのよ、ミコト。携帯電話やパソコンとは比べ物にならないくらい、とっても強い電磁波をだしてるの。病院の大事な機械が壊れちゃうくらいのね。それがどんなに危ないことか、ミコトにはわかるわよね?」
お母さんの手がミコトの体にはしる、古傷を撫ぜる。もう一度この体にメスを入れないといけない現実をもどかしそうに見つめていたお母さんは、怖くなったのか抱きついてきたミコトをしっかりとだきしめた。お母さんがどうして血の気が失せたのか、真っ青になったのか、必死でデジモンとミコトを遠ざけようとしていたのか、すべてわかったからである。
「もうすぐここからデジモンが出てくるわ。ここにいれば安全だからね、ミコト。お母さん、ノートパソコン持って外に出るから、ミコトはここから出ちゃダメよ、いいわね」
こくん、と頷いた可愛い娘に、いい子ねって笑ったお母さんは、ノートパソコン片手にミコトの部屋をあとにした。スリッパに履き替えたミコトは、大急ぎで内側から鍵をかける。そして、春の暖かな日差しを感じていた窓をとじる。そして鍵をかけた。窓ガラスにかかっている鍵から、さらに厳重な錠をおろした。ふわふわ、とたくさんのデジモンが空を舞っているのが見える。ミコトは、いつのまにか怪奇現象が収まったテレビを見ながら、はやくデジモンがいなくなってくれないかな、と待っていた。そして、ミコトは、第三台場で行われた死闘をテレビごしに、見守ることになる。
数時間後、事件は無事に解決した。
「おかえりなさい」
「ただいま、ミコト」
無事でよかったわ、って微笑んだお母さんは、ノートパソコンを抱えて帰ってきた。
「クラゲさんは?」
「大丈夫よ、ミコト。ほら」
パソコン画面に表示されているのは、ゴミ箱だけが表示されているホームページだ。クラゲの総数が表示され、そのとなりには次から次へとゴミ箱の中に放り込まれていくクラゲたち。そして、加速する現在の数。ここにアクセスしてください、というシンプルなメールに、このホームページのアドレスが乗っているようだ。アドレスの送信元は、見たことがない名前である。
「お父さんが東京のテレビ局で働いてたころ、仲良くしてたお友達ですって。お父さんがから話は聞いてます、って教えてくれたのよ。2000年のときは、ここに送信しましたよって」
そうなんだ、ってミコトは瞬き数回、つぶやいた。
「ここを開いた途端、パソコンが光ったの。病院に侵入しようとしてたあのデジモンたちが、一瞬でいなくなっちゃったのよ。不思議よね。きっと、あの光がネットに送り返してくれたのよ。なにはともあれ、ミコトが無事で良かったわ」
ほら、お友達が心配してるわよ、ってメールフォルダを指差すお母さん。ミコトは、あわてて下書きのまま中断していたメールを再開する。送信ボタンをおして、あとはユーガットメイルの声を待つばかりになった。ちょっと先生とお話してくるからね、って部屋をあとにしたお母さんを見届けて、ミコトは、ふとキーボードを打つ手が止まる。
薄い窓ひとつごしに、たくさんのクラゲさんがいたのに、どうしてミコトは、あぶない目にあわなかったんだろう、って。あんなに小さいデジモンでも、あんなにたくさんいたら、さすがにミコトの鼓動は異常をきたしていたかもしれないのに。そして思い出すのだ。テレビの向こう側で、たくさんのクラゲさん、そしてクラゲさんたちが合体して出来上がったデジモンと戦っていた子供達。彼らがいうには、クラゲさんは戦う力は全くなくて、ミコトでも捕まえられるくらい弱い代わりに、たくさん増えたり、あっという間に大きくなる力がある。ネット上のデータを食べることで大きくなったり、たくさん増えたりを繰り返す。相手からの攻撃、というデータを受け取ることで、ダメージを与えてもそれによってデータ量が増えて、大きくなってしまうスピードが早くなり、一撃で仕留めないとそれだけ危ないデジモンになっていく。しかも、遊びかんかくでネットや現実世界を大混乱に陥れるような恐ろしいデジモンらしい。でも、今回は初めからたくさんのクラゲさんになってあらわれた。その正体はクラゲさんたちが合体して出来上がった、とっても怖いデジモンの姿。クラゲさんはネットの世界から現実世界にやってくるための奥の手。だからクラゲさんは、デジモンじゃない。本物のクラゲさんをたくさんコピーとペーストを繰り返して作った偽物たち。もし、あのたくさんのクラゲさんたちが本物だったら、時間が経つにつれてすべてのクラゲさんたちが大きくなって、どんどん危険なデジモンになっていく。しかもさらに数を増やしていくはずだ。でも、クラゲさんたちは、いつまでたってもクラゲさんたちのままだった。つまりはそういうことだ。クラゲさん同士が集まると、あのとっても怖いデジモンになってしまうけど、クラゲさん1匹だけだったら、そうはならない。クラゲさんから作られた偽物のクラゲさんは、きっとデジモンじゃなかった。
それなら
もしかして
ねえ?
あのクラゲさん、もらってもいいんじゃないかなあ
ミコトは、そっとカーソルを伸ばす。クラゲさんたちが添付されたメールを、一度に何百通も送られてきたせいで、ひとつひとつを消すのが大変だったお母さんは、見落としていた。ぽち、とクリックすると、HELLO!という言葉が踊る。添付されていたファイルが開く。真っ赤な目をした灰色のクラゲさんがふよふよと浮いていた。かわいい!こんにちは、て返すと、真っ赤な目がこちらをむいた。じいっと画面越しにミコトを覗き込む。
「私はミコト、よろしくね。ねえ、クラゲさん。あなたのお名前、なんていうの?」
「KURAMON,level Baby1,Type unknown,Attribute unknown,Min Weight 5g」
「クラモン・・・・・・それはあなたの種族でしょ?テレビの子達が言ってたもん。それはお名前じゃないわ。お名前、教えて?」
「I am a digital monster.As yet I have no name.I have no idea where I was born」
「お名前ないの?」
「yes」
「じゃあ、付けてあげる。テレビの子達は、ディアボロモンっていってたよね、あなたを作ったデジモンのこと。悪魔っていう意味なんだよね。お兄ちゃんがやってたゲームに出てきたから、知ってる。じゃあ、あなたの名前は・・・・・・」
ミコトは気づかなかった。このクラゲさんがコピーされた存在なら、どうしてテレビが砂嵐混じりの画面になってしまったのか。蛍光灯が不自然なかたちで点滅したのか、そして、ミコトの生命線である機械の鼓動を乱すような現象が立て続けにおきたのか。それは、砂嵐をおこさせるような存在が、ミコトの病室にいたからにほかならない。何も知らないまま、彼女は悪魔の子供と交流を始めてしまったのだった。
ミコトがこの手術をうけるのは、3回目だった。だから、採血やレントゲン診断、エコー・心電図検査などの調査を含めた事前検査は慣れたもので、もう泣かない。今回は本体の交換だけで済んだため、チューブにつながれたままとはいえ、数時間で病院に戻って来れた。手術中に呼吸を止めていたため、取り付けていた酸素マスク、尿のくだなども、夜になれば外れてしまい、点滴ひとつのチューブがミコトの隣にあるだけだ。傷跡が痛むものの、麻酔が抜けて目を覚ましたミコトは、お見舞いに来てくれたお兄ちゃんとじゃれる位には元気があった。新しく入れ替えた本体の寿命は、8年ほどだ。1週間も経過すれば、だんだん傷口の痛みも引いてきたので、順調に回復したミコトは、無事に退院することができたのである。小学校に無事復帰したミコトだったが、誰にも内緒のお友達との交流はは、ゆっくりと、しかし確実にミコトの体を蝕んでいった。
手術後1ヶ月が経った、ある深夜のことだった。お母さんは、突然響き渡ったアラームに目を覚ます。ミコトの人工的な鼓動の異常を検知するアラームが鳴ったのだ。いつものようにすぐ正常な範囲に戻るのかと思いきや、いつまでたっても鳴り止まない。心拍数はどんどん低下していく。チカチカする真っ赤な数字は見たことがない数字になり、またモニターが故障したのか、と思ってミコトをみたお母さんは、ぐっすり寝ている娘にほっとする。それなのに、数値は上がったり下がったりを繰り返す。センサーの不具合じゃない。手で脈を図ってみると、モニターの数値と一致する鼓動が伝わってくる。お医者さんから受けていた説明と一致しない事態に直面したお母さんは、真っ赤なモニターを前に、いつも利用している病院に電話をかけた。慌ただしいお母さんの様子に、寝ぼけ眼のお父さんが目を覚まし、ミコトの様子を見てくれる。苦しそうじゃないなら安心してください、でも、今日の朝にでも病院に電話してください、というアドバイスをもらった時には、1時間を過ぎていた。お母さんがもどってくると、モニターは正常な数字を刻んでいる。ほっと一息ついたお母さんは、お父さんとともに眠りについた。お兄ちゃんとお父さんを見送ったお母さんは、病院に電話をかける。外来予約をとるからきてくれ、とのお知らせだった。
学校をお休みして、病院に出かけたミコトとお母さんは、ペースメーカーを作っているおじさんと主治医の先生のところにやってきた。ペースメーカーの上に携帯電話のような器具を載せて、記録されている情報を読み取ったり、設定を微調整したりする。結局、原因は不明のまま、外来に来ることになった。原因不明の強い不整脈。心配そうに見つめているお母さんのとなりで、ミコトは立ち寄ったスーパーで買ってもらえるお菓子に目を輝かせていた。
お兄ちゃんはまだ学校から帰ってきていない。お父さんもまだお仕事。ちょっとはやい帰宅である。鍵を開けたミコトは、いつものところに鍵を引っ掛ける。靴を履き替えて、靴下姿のままおうちに入る。夕食の準備をするためにキッチンに向かったお母さんから、宿題をしちゃいなさい、と言われて、はーいっ、っていうお返事とともに子供部屋に消えた。
お兄ちゃんの机に置いてある、ノートパソコンを起動させる。いつもの起動音。いつものウェルカムメッセージ。画面が表示されて、カーソルが動くまで、砂時計がくるくる回る。まだかな、まだかな、ってミコトは待ちわびた。最近、パソコンが重い、とお母さんに相談するお兄ちゃんをミコトは知らない。お母さんに内緒でパソコンのゲームでも入れてるんじゃないの?ってからかわれていたことも知らない。お父さんがノートパソコンの容量を異常なほど喰っている原因不明のプログラムがあることを突き止めたが、ウィルスバスターは機能せず、いくら探し回ってもそのプログラムにたどり着けないことに困り果てていたことなんて、知らないのだ。ネット通信を開始して、突然、お休みしたミコトを心配するお友達に向けてメールを返信した。ミコトは、いつものように、ミコトしかしらない、おともだちの隠れ家にアクセスするのだ。
「ただいま、メギド」
「Hey,How was school today?」
「ううん、今日はね、学校行かなかったんだよ。久しぶりに××先生のとこに行ってきたの」
「Are you OK?What is wrong with you?Out of condithion or something? Ican go overthere if you need help.」
「えへへ、ありがと、メギド。なんか、ここの調子が悪いみたい。今度も行ってくるよ」
ここがね、って胸を抑えるミコトに、メギドと呼ばれたデジモンは、心配そうな顔をした。ミコトがテレビで見た、こわいデジモンにメギドは進化しなかった。どうしてって聞いたら、デジモンはみんなおんなじ進化をするわけじゃないって教えてくれた。ミコトはほっとした。とっても足が長い、宇宙人みたいなクラゲさんじゃなくて、ちっちゃくて黒い恐竜さんに進化したからだ。ミコトがテレビで見た、世界中に嫌われているとっても怖いデジモンにならなかったということは、メギドはミコトと一緒にいてくれる。危ないから、って眩しい光に包まれてどこかに行ってしまうことなんて、ないんだって、そう思ったからだ。ずっと一緒にいようねって約束したミコトとの約束を、もちろんだ、と異国の言葉でメギドは綴る。そのうち、ちっちゃくて黒い恐竜さんは、黒い恐竜さんになった。そして、ミコトと同じように体に機械を埋め込んだ、でもずっとずっとかっこいいロボットみたいな黒い恐竜さんになった。今、目の前にいるメギドは、さらに進化した、かっこいい青の騎士様になった。最初の手術のとき、生まれて初めてうける手術に怖くて怖くて毎日泣いていたミコトに、お母さんがかってきてくれた、お姫様を守る騎士様によく似ていた。
青いマントがノートパソコンの向こうで揺れている。漆黒の鎧を身につけているメギドは、いつも槍と盾を携えて、ミコトの来訪を待ちわびていた。その姿は、テレビ越しにみた、とっても怖いデジモンをやっつけてくれたオメガモンとよく似ていた。だから、ミコトは信じていた。メギドはきっと、ミコトを怖いことから守ってくれると。メギドも信じていた。デジタルワールドに送り返され、あるべきエリアに帰ることができなかった自分を、たったひとりで匿ってくれている少女を守るのは自分だと。何があっても、彼女を守るのが、自分の役目だと。そう、本気で信じていた。今思えば、もうすべては始まっていたのかもしれない。
「大丈夫だよ、だって全然苦しくないもん」
にっこりとわらった少女の笑顔は、この日を境に失われていくことになった。
それは、本来、あってはならない症状だった。なぜなら、生まれた瞬間にその症状が死に直結する、という運命を持って生まれてきたミコトは、それを防ぐために体に鼓動を助ける人工的な機械を埋め込んだのだから。数ヶ月に一度の検査、8年に一度の交換手術、想定する最善の方向で成長していたはずの女の子は、原因不明の機械の不調によって、次第に元気を失っていった。投与する薬を強化しても、埋め込む機械を交換しても、その機械の不調が治らない。示し合わせたように異常をきたすミコトの鼓動。あまりの頻度に正常な学校生活を送れなくなったミコトは、地方の大きな大学病院の中にある学校に通うことになってしまった。本来なら、次第に回復するはずだった。でも、どんどんミコトの鼓動を支える機械の故障は、間隔がなくなっていく。めまい、ふらつきが失神に変わる。もうそのころには、ミコトは、子供用の病室からでることもままならなくなってしまっていた。お休みの時にしかお見舞いにこれない、お友達、学校の先生、お父さん、お兄ちゃん。ずっとミコトのそばにいてくれたお母さんは、しばらく休みなさい、っていわれて、おばあちゃんと交代でおうちに帰ってしまった。ミコトは、おばあちゃんとお母さんが心配だった。時々、一人ぼっちで泣いているお母さんに気づくことが増えてきた。だから、ミコトはいうのだ。ひとりでできるもん、だいじょうぶ、って。みんなには言わないけれど、ミコトには、内緒のお友達がいるから、大丈夫だって。
お母さんに怒られるから。たったそれだけのために、メギドのことを隠し続けてきたミコトは、知らなかった。
ミコトは、生まれたときから、手帳を持っている。これは外国にお出かけした時にいつも持っていないといけない、パスポートみたいなものだ。34ページもあるしおりと一緒に、いつも首から下げているネームプレートの中に入っている。ミコトが元気な女の子じゃない、ってことをお知らせする看板みたいだから、ミコトはあんまり好きじゃなかった。でも、ミコトが近づいちゃいけないものがたくさんある。
図書館みたいな公共施設、レンタルビデオ店などのお店の入口に設置されている、万引きした商品をもっているとブザーがなるゲート。空港の金属探知機。交通機関に設置されている、ワイヤレスのカードシステム。キーを差し込まなくても持っているだけで、自動でドアが開く自動車。磁石。自動車やオートバイのエンジン、農業用の機械、発電機。アマチュア無線機。MRIや医療用電気治療器、低周波・高周波の治療器、電気風呂、といった病院に設置されている医療設備。
IHの調理器や炊飯器、ホットカーペット、電動歯ブラシ、電気カミソリ、体脂肪を測れる体重計、スピーカー、もしくはスピーカーがついている音が出るタイプのおもちゃ。
小学生になったミコトは、気をつけることができるけど、小学生になる前まではお母さんとお父さん、そしてお兄ちゃんがミコトを守ってくれていた。でも、まだミコトは子供だから、大人が持っているバッグの高さにミコトの鼓動があったり、万引きする人にバレないようにカモフラージュされたゲートがあったりするから、気づかないうちに命の危機にさらされている。気がついた家族が大慌てで駆けつけてくれるけど、その度にミコトは周りの人達が不思議そうな目をする。だから、みんなにわかってもらうため、っていうのはわかってる。だから、首から下げているのだ。
最近は技術が進歩して、ミコトが距離に気をつければ大丈夫なものが増えてきた。時代はどんどん進んでいるから、周りはどんどん変わっていくのだ。いつも遊んでいるノート型パソコンや携帯電話は、もう何度目になるかわからない手術を受けたばかりで、リハビリに励んでいるミコトにとって、とっても大事な遊び道具だった。
その遊び道具を通してこっそりあっているお友達は、まさに、上記にあげたミコトが近づいてはいけないもの、に含まれるほど危ないものだなんて、ミコトは夢にも思わなかった。時代が進歩するにつれて、鼓動を補助する機械を埋め込んでいる人でも利用できるものは増え続けている。距離を置けば大丈夫なものはたくさんある。だから、お友達も大丈夫だってミコトは思っていた。パソコン越しにあうだけなら大丈夫だって思っていた。かつてみたお台場の出来事もテレビ越し、パソコン越しなら大丈夫だったから。だから、気づかなかったのだ。日本中から嫌われているデジモンを、たった一人、受け入れてくれた女の子が、みんなに内緒で匿ってくれていることをメギドがどう思っているのか。大事なお友達だよって、臆面もなくいえるほど、優しい女の子の笑顔を見て、会話することしかできないもどかしさに、メギドが耐えられるわけがなかったことを。どうしてミコトの鼓動を支える機械の不調が、必ず深夜におこるのか、最後までミコトは気づくことができなかった。そして、忘れていたのだ。デジモンは自由にパソコンを出入りできるという事実に。
そして、誰もいなくなった病室で、こっそりメギドと会話していたミコトは、かちゃり、と空いたドアに目を向ける。そこには、絶句するお母さんがたっていた。
「どういうことなの、ミコト」
「おかあ、さ、ん」
「どうしてデジモンを・・・・・・どうして、お母さんにウソ付くようなことしたの!あなたね、自分が今、どんなことをしているのかわからないの!」
「だって、だって、わたし」
「お母さん、言ったでしょう?大きくても、小さくても、あなたにとって、デジモンはとっても危険なものだって!絶対に近づいちゃダメだって、約束したでしょう!どういうことなの!」
「違うもん!メギドはッ・・・・・・わたしの友達だもん!」
ぱしん、と乾いた音が響き渡った。いい加減にしなさい!と顔を真っ赤にして、お母さんは怒鳴り声を上げた。生まれて初めてお母さんに手を挙げられたミコトは、すっかり赤くなってしまった頬を右手で恐る恐る触れる。ひりひり、じんじん、と痛み始めた頬、そしてほんのりと熱を帯び始めた目尻。ぶわっと涙がこみ上げてくる。信じられない、とお母さんを見たミコトは、右手から振りろされた手が左に降りているのを確認して、お母さんに殴られたと自覚する。なんで、なんで、どうしてって顔をしていると、お母さんは、生まれて初めて、ミコトを真剣に怒っている。ぽろぽろと涙を流し始めたミコトに、お母さんはヒステリックにまくし立て始めた。
「友達・・・・・・友達ですって!?ミコト、あなた、一体何を言ってるの!どうしてわからないの!あなたとデジモンは、絶対に友達にはなれないのよ!それなのに、名前まで付けてっ・・・・・・・!今すぐ、今すぐ、そのパソコンを渡しなさい!」
「いやーっ、だめえっ!」
「放しなさい、ミコト!」
「メギドをつれていかないでっ!メギドは、わたしの、わたしの、大事な友達なのーっ!なんでわかってくれないの、お母さんの馬鹿ああっ!」
「何度も言わせないでちょうだい!あなたとデジモンは、絶対に友達にはなれないのよ!デジモンはあなたに近づいちゃいけないし、あなたもデジモンに近づいちゃいけないの!お願いだからお母さんの言うことを聞いて!その手を、放しなさいっ!」
小学生の女の子は、大人の女の人にはどうがんばっても勝てない。本気でデジモンとミコトを引き離そうとしているお母さんは、尋常じゃないくらいの力で、ミコトが愛用しているノートパソコンを取り上げる。すがりついてくるミコトを振り払い、必死でノートパソコンを守ろうとしているミコトの手のひらに力を込める。親指、人差し指、中指、と指先をひとつひとつ広げていき、無理やり引き剥がしたお母さんは、大きく距離をとった。そして、支えを失ってベッドから転がり落ちたミコトが、涙をいっぱいに貯めて、やめてやめて、と首を振っているのを見下ろした。
「なんで意地悪するの、お母さんっ!」
「意地悪じゃないわ、何度もいわせないで、お願いだから!お母さんはね、ミコトのためにいってるの!」
ぴしゃり、とはねのけたお母さんは、今にも泣きそうな顔でいった。その視線の先には、メギドと呼ばれているデジモンがいる。
「お願いよ、あなた、ミコトの友達っていうのなら、お願いだからミコトのパソコンから出て行ってちょうだい。今すぐ、ここのパソコンのサーバから出てってちょうだい、お願いよ。まだミコトは小学生なの、まだたったの8歳なのよ?お願い、お願いだから、まだミコトを連れて行かないで。神様のところに連れて行かないで。まだ私たちのところにいさせて頂戴」
「Whatis that supposed to mean!?」
「あなた、ミコトのそばにいることがどれだけ危険か、わからないのにそばにいたの?わかったわ、教えてあげる。だから、話を聞いたら、出て行って頂戴、お願いよ」
そして、お母さんは話し始めるのだ。ミコトは生まれつき体が弱く、ペースメーカーを埋めていること。1995年に起きた光が丘テロ事件の時、ミコトは練馬区の大学病院で誕生したミコトは、デジモンたちの戦闘によって九死に一生をえたこと。そこでお母さんたちは、野生のデジモンたちが発する電磁波がミコトのペースメーカーに甚大な影響を及ぼすことを学んだこと。そして、テイマーと呼ばれる子供とそばにいるデジモンは、まだその電磁波が控えめだが、どのみちミコトは近づいてはいけないレベルに過ぎないということ。メギドは究極体、という最も危険なレベルの電磁波を発する世代であり、パソコンを介しても影響が出るレベルになってしまっていること。お父さんの知り合いの子供がテイマーだったから得られた情報だと。もしメギドがミコトのそばにい続けるのなら、お母さんはそのテイマーに連絡を取らなければならない。デジタルワールドに連絡を取らなければならない。それはデジタルワールドへの強制送還を意味する。その先に待っているのは、沈黙を守ったお母さんにメギドもミコトも理解する。さすがにそこまではしたくない。だからでていってくれ、そう言っているのだ。ミコトとメギドはであってはいけない存在だった、と断言するお母さんに、メギドは静かに異国語を綴る。その意味を理解したお母さんは顔色を変えた。
「ダメに決まっているでしょう!なんて恐ろしいことを!何を言っているのか、わかっているの!?この子は、普通の女の子なのよ!?ふざけるのもいい加減にして頂戴!」
ノートパソコンはお母さんに取り上げられていて、メギドがなんといっているのか、ミコトはわからない。ただ、このままお母さんがノートパソコンを持って行ってしまったら、二度とメギドと会えなくなる。それだけは嫌だった。お友達とも会えない、先生たちとも会えない、家族とも時々しか会えない寂しさを紛らわせてくれた大好きな友達を取り上げられてしまったら、ミコトは自分でもどうなってしまうかわからなかったのだ。お母さんの足につかまりながら、ゆっくりと立ち上がったミコトは、それに気づいて、ベッドに押し戻そうとするお母さんの体にしがみつく。ふるふると首を振る娘に、お母さんは必死だった。今まで見たことがない速度で異国語が綴られていく。いつもニュアンスでメギドのいってることを理解していたミコトが読み取れたのは、0と1、そしてデジタルワールド、という単語だけだった。
「それはっ・・・・・・・でも、そんなのその場しのぎにしかならないわ!この子はまだ8歳なのよ!そんなことできるわけないでしょう!」
お母さんは揺れていた。このうえなく、揺れていた。ちら、とミコトを見下ろして、思いつめた表情でミコトを抱きしめる。メギドの異国言葉は止まらない。ウィンドウいっぱいに張り巡らされる英文は、あっという間にいっぱいになり、まっさらな画面にたくさんの英文が綴られていく。ここまでくるとなんて書いてあるのか、ミコトはさっぱりわからなかった。お母さんのぬくもりに包まれながら、ミコトはウィンドウを見ていた。
「メギド?」
ミコト、とメギドが呼んでいる。いっちゃだめ、とお母さんが引き止める。でも、ミコトは手を伸ばす。ぐにゃりとパソコン画面がゆがみ、その向こう側から真っ黒な手袋がミコトを包み込んだ瞬間、今まで見たことがない光があたりを包み込んだ。そして、ミコトが入院している大学病院は、大停電に襲われたのである。気がついたとき、ひとりの少女がいなくなり、病院は大騒ぎになった。
すべてがぼんやりとした世界で、ミコト、という言葉がゆらいで、にじんで、広がっていった。静かな水面に水滴がひとつ落ちて、波紋が広がるように、心の中に満ちていくのは、あたたかさだった。そして、ミコトはゆるやかに目を覚ます。ミコトはしらないベッドに眠っていた。アイロンがあてられ、ぴしっとしたシーツにくるまれた、ふかふかであたたかなおふとん、まくら、そして毛布。体が沈んでしまうほど柔らかいおふとんだ。あたりを見渡したミコトは、真っ白なカーテンが降りていることに困惑する。上を見上げてみると、ベッドの四隅から柱がたっていて、クロスする天井ができている。そこからすべての方向にカーテンが降ろされていた。フリルがついている可愛らしいデザインのお姫様が眠っていそうなベッドである。どうやらカーテンの向こう側では、窓があいているようで、さらさらとカーテンがゆれている。外からのあかりや照明が和らいで、ゆるやかな風がやってくる。包まれている安心感に、ゆったりと熟睡できそうな空間だ。だから、あんな夢をみたのかなあ、と思いながら、ミコトは体を起こす。
いつものように、すぐそばにあるはずの機械をさぐる。ミコトは生まれた時から、お腹からコードが伸びていて、機械がくっついているから、外れないようにするためだ。心臓の鼓動を助けてくれる機械は体の中に埋め込まれている、はずだった。あれ、とミコトは視線をおとす。いつもなら痛くなるから触っちゃダメ、と言われているところを触ってみるけど、お腹からラインを辿っていってもすとん、と足元まで手が落ちてきてしまう。手術のあと、ちょっと凹凸がある、ミミズみたいに膨れている線がない。まるで、生まれてから一度も手術を受けたことがない、普通の女の子のようなおなか。ミコトは驚いた。点滴をいっぱい打ったあとがない。薬をたくさん入れるためにつくった注射のあとがない。ミコトが思ったのは、どうしよう!とだった。あれがないと、ミコトは死んじゃうってしっているからだ。どこにいったんだろう、とあわててあたりを見わたすが、ベッドの上にはなにもない。8年間、ずっと一緒だった機械がどこかに行ってしまうと、違和感がぬぐえない。はやくみつけなきゃ、ってミコトは思った。ここがどこか、より、ペースメーカーを探すことのほうが大事だった。ミコトは、病院でずっと愛用していた、お母さんがかってくれたパジャマのままだ。つまり、病院とすっごく離れてるわけじゃない。ベッドから降りようとしたミコトは、手を止めた。カーテンを開く手があったからだ。
「目が覚めたか、ミコト」
「・・・・・・だあれ?どうして、わたしをしってるの?」
いとおしそうに、ミコトとよぶ音は、夢の中で聞いたものと同じだった。やさしげに目を細めて、微笑みをたたえているのは。ぱちぱち、と瞬きをしたミコトは、生まれて初めてきいた、大切なお友達のこえを確かめる。
「ねえ、あなた、もしかして、メギドなの?」
「ああ、そうだ。やっと会えたな、ミコト。私は嬉しい」
「ほんとに、メギドなの?」
「ああ」
ミコトは、ぱっと花咲くように笑った。今まで、パソコンを通してしか会うことができなかった、誰にもひみつのお友達が目の前にいる。ミコトはメギドとあうのは、これが初めてだ。メールでしか会話することができなかったお友達とようやく巡り合えたミコトは嬉しくてたまらない。メギドって大きいんだね、って見上げるような巨体のデジタルモンスターに、無邪気にミコトは笑う。
パソコン越しにしか見たことがないメギドは、とても勇ましい漆黒の騎士様だった。ミコトの様子を伺うために、はばが広くて、漆黒の柄に青い宝石が埋め込まれ、鞘は真っ黒な打紐で巻き上げられている魔の槍は傍らに置いてある。黒い牡牛、金色の羽、黄銅の爪、イノシシのような牙を持つ恐ろしい怪物が、魔除けとして彫られた魔の盾もそのそばにある。重々しい重装備の音を奏でながら、真っ青なマントから差し出された黒い手袋がミコトをなでた。照れたように微笑むミコトだったが、あ、と声を上げる。名残惜しそうに髪をすくのをやめたメギドに、ベッドから起き上がり、ちょこんと座っている体制になったミコトはいった。
「ねえ、ねえ、メギド。どうしよう、ここにあった機械、どっかいっちゃったの。これがないと、わたし、わたし」
「ああ、そのことなら心配いらない」
「え?どういうこと?教えて、メギド」
「ああ、いいだろう。さあ、おいで」
メギドがミコトを抱き上げる。きゃあ、と声を上げたミコトはメギドにしがみついた。生まれて初めてお姫様抱っこされていることに気がついて、なんだか恥ずかしくなって、ほほが熱を帯び始めた。ほてる顔が赤く染まっていく。メギド、どこいくの?はずかしいよう、と消え入りそうな声でミコトがつぶやくが、メギドはそしらぬふりをした。
「ようこそ、デジタルワールドへ」
開け放たれた窓。ふわりふわり、と風にカーテンがなびく。その先でミコトが見たのは、月明かりが穏やかな夜だった。手が届きそうな満天の星ぼしがミコトたちをみおろしている。わあ、きれい、とミコトは声を弾ませた。ここまで綺麗な星空は、ミコトもみたことがなかったのだ。その月明かりの下に広がるのは、大自然。草木の香りが漂ってきそうなほど、人知れず佇んでいる館にミコトとメギドはいるようだ。ミコトは首をかしげる。
「デジタルワールド、って、テレビの人たちがいってた、あのデジタルワールド?」
「ああ、そうだ。私たち、デジタルモンスターが住む異世界、それがデジタルワールドだ」
「メギドが連れてきてくれたの?」
「ああ。ここにくれば、ミコトと離れずに済むからな」
「ほんと?ここにいたら、お母さん、メギドとお友達なこと、ゆるしてくれる?」
「ああ、もちろんだ。ミコトがデジタルワールドにいれば、あの機械は必要ないからな。ミコトと離れる理由もない」
疑問符がたくさん飛んでいくミコトに、メギドは笑った。
「デジタルワールドは、[なりたいじぶん]になれる世界だ。ミコトは普通の女の子みたいに生きてみたい、思いっきり運動してみたい、っていつも言っていただろう?ここにいる限り、ミコトはそれを叶えることができる。だから、あの機械は取り除かせてもらった。この世界では、必要ないからな」
「・・・・・・ほんと?」
「ああ、ほんとうだ。私が嘘をついたことがあったか?」
「ううん、ない。メギドは、いつもわたしのこと、考えてくれてるもん。ありがと、メギド。だいすき」
えへへ、とミコトは笑った。
「じゃあ、じゃあ、ここにくれば、お母さんに怒られないで、メギドと一緒に遊べるんだね!」
「そうだ」
「あ、でも、もう夜だよ?はやく帰らなくっちゃ、お母さんが・・・・・」
「ああ、それなら心配いらない」
「どういうこと?」
「これをみるといい」
メギドがなにもない空間を指差すと、突然空間が歪んでパソコンの画面が現れた。ホログラムである。ミコトがこっそりメギドとお話するために、あそんでいたパソコンの画面とおなじディスプレイデザインである。デジタルワールドは、パソコンの中にある世界だから、入口であるあのパソコンにも自由にアクセスできるんだ、とメギドは教えてくれた。今日の日付と時間が示されているディスプレイデザインは、とても不思議だった。なにせ、ミコトがお母さんに怒られた時間から、まだ1分しかたっていないのである。
「デジタルワールドの一日は、あちらの世界の一分だ」
「じゃあ、こっちでたっくさん遊んでも、大丈夫ってこと?」
「私がミコトの母親にメールをしておこう。大丈夫、事情を説明すればわかってくれる」
「ありがと、メギド!わたしね、わたしね、いっぱいやりたいことがあるの!やってもいい?」
「ああ、もちろんだ。いくらでも叶えてやろう」
「やったあ!」
「だが、それは明日になってからだ。今日はもう遅い」
「はあい」
ぱちん、とテレビを消すみたいに、ホログラムを消したメギドは、ミコトをふたたび天蓋つきのベッドに送った。
「今は、眠ったほうがいい。もう遅いからな」
「うん、わかった。ねえ、メギド。お休みするまで、て、握っててくれる?」
「もちろんだ」
安心したように、少女は眠りにつく。メギドは意味深に笑った。
今頃、ミコトの母親は、半狂乱になって、父親のかつての同僚だった男性にメールを送っているだろう。その男性の要請をうけた選ばれし子供とデジモンたちは、セキュリティシステムのエージェントたちとともに、デジタルワールドを探し回るに違いない。せいぜい探すがいい、絶対にミコトは見つからない、とメギドは確信していた。なにせ、メギドたちは、彼らの知っているデジタルワールドにいるわけではないのだから。メギドをはじめとした、一部のデジモンたちしかしらない、もうひとつのデジタルワールド。そこにミコトたちはいるのだ。
その証拠に、このデジタルワールドそっくりの世界の1日は、現実世界の1分である。失われたはずのかつてのデジタルワールド。人間と交わることがなかった、イフの歴史を歩んでいるもうひとつのデジタルワールド。選ばれし子供とパートナーがめぐり合うことができなかった、デジタルワールド。ここにメギドたちはいる。メギドがこの世界を知っているのは、この世界がメギドたちの生まれ故郷だからだ。
1999年8月31日の大晦日、時間を操る邪悪なデジモンにより、デジタルワールドはダークマスターズの復活、デビモン、エテモン、ヴァンデモンの復活、という悪夢に襲われる。選ばれし子供とパートナーはそれぞれ亜空間に幽閉され、唯一逃げ出したアグモンは、太一とチャットで知り合い、デジモンのことを信じてくれていたある少年にすべてを託す。太一のデジヴァイスとアグモンとともに、パートナーを持たない少年は邪悪なデジモンを倒し、英雄になった。
しかし、倒されたはずの邪神は生きていた。
2000年3月4日、メギドの生みの親は新種のデジモンとして誕生し、オメガモンに倒された。その数時間後、この世界は誕生している。デジタルワールドをコピーし、ミラーサイトとして誕生したこの世界で、メギドの生みの親は、邪神によって復活をとげた。異常を察知したエージェントの召喚により、太一とヤマトは召集に応じる。しかし、それが邪神の罠だった。デジタルワールドの危機と聞いて駆けつけても、平和そのもののオリジナルワールドが広がっている。絶句する太一たち。エージェントのナビゲートに従い、復活したエリアに足を踏み入れた途端、2つあるデジタルワールドの裂け目に閉じ込められてしまう。そして、邪神とメギドの生みの親は、世界を蹂躙し始めた。ここでも、起死回生にエージェントが召喚した、かつて世界を救ったパートナーを持たない少年、そして太一と間違えて召喚されてしまった男の子が英雄となる。
この世界を冒険したのは、その2人だけなのだ。しかも、1人は何度も復活する邪神との戦いの果てに行方不明、1人は邪神に埋め込まれた暗黒の種のせいでこの冒険の記憶を喪失している。太一たちと後者の少年は2000年の時点で会ったことはない。この世界の存在をしるのは、エージェントのみ。今のところ、エージェントは彼らにこの事実を話すつもりはないようだから、どうやってこの世界にたどり着くのか見ものだ。
バックアップ、という名目で存在を許された、ミラーサイト・ワールド。もはやオリジナルワールドより、5000年もの時代が流れている異世界。生まれ育ったメギドに地の利があるのは当たり前だった。
ぐっすり、とねむるミコトの傍らで、メギドは母親にメールを打ち込む。
今、ミコトは、ペースメーカーを付けなくても平気な体で生きている、と送ると、悲鳴のような文言が届いた。ミコトの体に何をした、と聞かれたから、ペースメーカーのデータを削除した、と返した。デジタルワールドはネットの中にある世界だ。今のミコトは、データだ。データに病気は存在しない。だからこそ、データから心臓病の項目を削除したり、好き勝手に弄ることが可能なのだ。本来ならセキュリティシステムがパーソナルデータを弄ることを禁じているが、この世界にセキュリティシステムは存在しない。だから、現実世界からこの世界にやってきたら、自己防衛する必要がある。でも、ミコトには必要ない。現実世界に帰還させるきなど、メギドにはなかったからだ。なんてことを、とミコトの母親が憤りをにじませたメールを返す。
当たり前だ。
デジタルワールドにいるから、ミコトは安全なのだ。現実世界に帰ったら、デジタルワールドでの無理がそのまま返ってくることになる。無理な運動、禁止されていること、思いっきりやればやるほど、寿命が縮んでいく。ただでさえ、デジモンが近づいただけで誤作動を起こすペースメーカーもちの女の子が、24時間ずっと究極体のデジモンと一緒にいればどうなるかなんて、火を見るより明らかだ。デジタルワールドでは必要ないから、と削除したペースメーカーのデータ、そして心臓病のデータ、衰弱していた彼女の体のきおく。彼女にとってはつらいものでしかないが、それでも、たしかに、現実世界を生きている証だった。それをひとつ残らず削除され、都合がいいデータを上書き保存されてしまった女の子がそこにいる。
それでも、返して、と母親は言う。ならば迎えに来ればいい。できるものなら。現実世界に帰った瞬間、燃え尽きる命をだく覚悟があるなら、来ればいい。死神になってでも連れて帰りたいなら、私はそれを拒まない。淡々とメギドはメールを返す。そのメールを逆探知する動きがあるようだが、メギドは関知しなかった。この世界の存在が明らかになる、ということは、邪神と相打ちになって死んだ(と思われる)少年と記憶喪失の少年の冒険が明かされるということだ。世界を3度救った英雄なき今、これ以上ない好機を邪神がほうっておくわけがないのだ。かつて、八神太一と同姓同名の少年によって、葬られたはずの七大魔王が復活してた時点で、これから待ち構える悲劇などに興味はない。
メギドは、ただミコトと一緒にいたいだけだ。ずっと一緒にいようね、と約束したのはミコトだ。きっと喜んでくれるに違いない。