「入って良いぞ」
「失礼する」
響らしい静かな音で入室してくれた。傷一つない。煤汚れなどもなく。美しい少女が目の前にいる。
自然な雰囲気で距離を詰めてくれた。俺も立ち上がり、何故か対峙しているかのように佇んでいる。
胸が痛む。心臓がうるさい。緊張していた。
何故だろう。とは言わない。今の俺は酷く彼女を求めている。
「呼び出しなんて珍しいね。司令官、何かあったのかい?」
響の澄んだ瞳は虚飾を許してくれない。下らない誤魔化しは通用しないだろう。或いは俺の心すら理解しているかもしれない。
俺は響の心を理解出来ているのだろうか? 俺とだけ組んでいる彼女とは違う。俺は、他の艦娘とも組んでいる。
まるで浮気した男のような気分だった。妻がいるのに、他の女と現を抜かしているような気分だった。
下らない。それは駄目だ。駄目なんだ。提督として、一艦娘を贔屓してはならない。…でも今の俺は人で在りたいと思っている。
「ああ。いや、その。報告があるだろう」
「報告は天龍さんの方が良いよ」
その通りである。あの響が中破していたのだから、相当に余裕がない状況だった筈。守られていた天龍の方が相応しい。
「久しぶりに私も本気で戦ったからね。守る事に手一杯で、状況は聞いてなかったのさ」
補足するように伝えてくれた。感情の波が見えない言葉だった。
いっしょにいたい。心配していた。愛おしい。守りたい。そう思っているのは、俺だけなのだろうか。
あくまで響は、相棒としてしか見ていないのだろうか。
だからこそ抑えられない。心がうるさい。どうしよう。どうしたい。もう良いのではないだろうか?
川内が俺らしさを許してくれた。白露が俺の幸せを許してくれた。こんな俺を、父と慕う者達もいる。
ならば素直に生きなくてどうする。しかめっ面して役割に縛られすぎるのは、あまりにバカらしい。
エロエロな気分じゃない。素直に求めているのならば、そうすれば良い。拒絶はされてから考えろ。それでいい。
「それで、報告が用件ならもう良いかな?」
「…響」
声が震えた。喉が渇いてくる。脳が軋む。指揮の疲労もある。馬鹿になっている。いつものノリとは違う。重たい心。
「どうしたのさ」
「こっちに来てくれ」
声の震えは気付いているのだろう。怪訝そうな雰囲気だ。
「司令官?」
小首を傾げて佇んでいる。俺からは踏み込めない。脚がもつれて転びそうだ。心臓がうるさい。死ぬのではないだろうか。
何が拒絶されてから考えるだ。拒絶されたら多分死ぬぞ。
「頼む」
「分かったよ」
ゆっくりと、だけど拒まずに近づいてきた。止まれと言わないから、徐々にだけど0に近づいて…抱きしめられる所で。
「それで何の用――むぐっ?」
ただただ抱きしめた。小さな体。己のみぞおち辺りに響の胸を感じる。己の胸で彼女の頭を抱え込んでいる。愛おしい。
匂い。仄かな甘み。脳がくらくらした。ほしい。
体温。生きている。心がどろどろした。ほしい。
ただ響がここにいて、抱きしめて、生きてくれていて、それを受け入れてくれている。幸せすぎて死にそうだ。絶頂しそうだ。
「し、司令官!?」
驚き困惑している。拒絶の意は感じられない。
「…どうしたの?」
「どうもしない」
言葉を発し息を吸うと、響の匂いを強く感じる。
段々と濃くなっている。汗をかいているのだろうか?
甘い。汗が甘い筈もないのに、不思議と引き寄せられる香りだった。…今更だが、俺の体臭は大丈夫だろうか。
「どうもしないのに抱きしめるの?」
「悪いか?」
迷わずに言葉を返し続ける。彼女が困っている。だけど。
「いや、悪い気はしないけどさ」
そう言って、響らしい静かな仕草で抱きしめ返してくれた。
無言のままに時間だけが流れていく。
愛おしさは収まらない。鼓動がうるさすぎて鼓膜が爆ぜそうだ。お互いに融け合っていくほどの時間が経っている。
だけど、相手を感じ続ける。この愛おしさを想い続ける。
「…創と話せてなくて、少し寂しかったと言うと嘘に聞こえるかい?」
ぽつりと零れた言葉だ。もうそろそろ天龍が来るだろう。終りは近い。俺の零れた本音に、彼女もまた心を見せてくれている。
「君が、創が皆と仲良くなるのは嬉しいんだ」
俺も響が仲間と幸せそうなのは嬉しい。
いつか来るであろう平和な時が訪れたら、幸せになってほしいと思う。許されるならば、俺の全てを捧げたい位だ。
無論、他を蔑ろにするわけではない。ただ素直に言おう。
始まりの彼女はやはり特別なんだ。誤魔化せない。
「君に笑っていてほしい。幸せでいてほしい」
俺から言葉は返さず。響の心を魂に刻んで。
「平穏があって、温かい心になってほしい」
彼女から抱きしめる力が強くなった。
「それはきっと皆との交流が大切で、今はとても幸せになれる状況だ」
すりすりと響が額をすりつけてくる。見上げてきた。瞳が潤んでいる。
「そうして恋仲になったり。もちろん普通の人とでも良いよね」
声が震えていた。どんな想いが篭もっているのだろう。
一言で割りきれるなら、こんな複雑な感情は抱かない。
「いずれは創と誰かの子供が生まれたりして、それを私がだっこさせてもらうんだ」
俺が響の子を抱き上げることはあるのだろうか?
なんて贅沢な妄想だ。堪らない。泣き出しそうな喜び。
「ああ。幸せだろうなって、尊い行いなんだって分かってる」
潤んだ瞳のままに胸へと顔を押しつけてきた。表情が見えない。雫が胸に沁みてきている。…何も言わず。俺からも強く抱きしめた。
お互いに痛みすら感じている抱擁だ。彼女の、小さな体を感じている。頭を撫でた。乱暴に撫でた。味わうように撫でた。
「祝福するべきなんだと思ってる」
声に涙が混じっている。このまま押し倒して、響に傷を与えたい。俺のモノだと言い張りたい。…だめだ。だめ。
「でも寂しかった。不思議だね?」
それが愛だと言えるほどの俺ではなかった。
「もう少し、もう少しだけこのままで」「…ああ」
呟きは虚空へと消えて、二人だけの時間が流れていく。愛おしさがやむことはなく。また、つらつらと俺達は仄かに涙を流し合った。