黒い空。
手を伸ばしたら吸い込まれそうな闇の中、無数の巨人型AKUMAが江戸に現れた。
周囲がざわつく。
マリアは空を仰ぎ、深淵の中に浮かぶキューブ状の巨大な物体を見つめた。
*****
束の間の平穏は、一瞬にして打ち破られた。
江戸に突如として出現した巨大なAKUMA。
手足が異様に細長く、まるで人形劇に使うカラクリのような見目をしている。
そして何より今危惧すべきことは、地面に吸い込まれるようにして消えたエクソシストの安否だ。
伯爵が現時点でハートの可能性が最も高いリナリーを狙ったと推測できる。
消えたのはリナリーやアレンをはじめとしたエクソシスト5名と、
マリアも寸前で飛び込んだクロウリーの教団服を掴もうとしたが、伸ばした手は何もつかめなかった。
「…マリアさん」
ミランダが、唇を噛みしめる女に声をかける。
イノセンスを酷使しているミランダの顔色は非常に悪い。
「大丈夫ですか、ミランダ」
「え、えぇ…でも、アレンくんたちが…」
伯爵は確実に、この場にいるエクソシスト全員の息の根を止めようとしている。
正直に考えれば、攫われたリナリーたちの生存の可能性は限りなく低いだろう。
女の噛みしめた唇から流れ落ちた血が、ミランダのイノセンスの能力によって巻き戻り、再生する。
先ほどまで瞠目していたティエドールは、マリアたちの方を振り返った。
「ミランダや残っている
「私やブックマンは…」
「ブックマンは記録者としての役割がある。マリア、キミにはこの場の守備を任せる」
まだ実戦経験が薄いマリアを配慮したティエドールの判断だ。
足を引きずって元帥たちまで危険にさらすことになれば、それこそ本末転倒である。
マリアはすぐに守備に就いた。
遠方では巨大AKUMAとの交戦が始まった。ミランダたちに近づく小型のAKUMAは剣で破壊していく。
剣の形態は今まで発動した大剣、槍、レイピアの3つのタイプに自由に変化できる。
慣れているのは
彼女は橋の周囲を移動しつつ次々と破壊していくが、キリがない。
時折欄干にいる皆の様子を窺う。サポーターたちの表情は軒並み暗い。彼らは震えながら、祈るように戦うエクソシストの姿を見つめている。
守らなければ。
しかし手を握る彼らの姿が、別の姿と重なる。祭壇で、堕罪を持った女が滑稽にも神に祈った光景。
自分とサポーターを重ねたマリアは、顔を歪める。
「…ッチ」
忌々しさに舌打ちし、彼女は剣を握り直した。
破壊、破壊、破壊。
数えきれないほどのAKUMAを破壊した女の息はひどく荒い。大きなケガを負っていないのは幸いだった。
「本当にッ…! どんだけ湧いて出てくるわけよ!!」
体を両断され、噴き出たAKUMAの血が白い肌を汚す。
その時、マリアの視界がなぜか大きく歪んだ。慌てて彼女が瞳に触れれば、濡れた感触がある。血ではない。手に付着したAKUMAの血で分かりにくいが、これは────。
「……涙?」
マリアは、泣いていた。
「何で……?」
泣く理由など見当たらない。
困惑する彼女は裾で拭うが、とめどなく雫があふれて、顔を伝う。
歪んだ視界ではまともに正面が見えず、AKUMAの鋭い切っ先が彼女の腕をかすめた。
「い……った!」
マリアの体勢が崩れ、地面に落ちる。その隙をねらってAKUMAの猛追が襲いかかった。
「やばっ…」
正面の方向、彼女の少し先には仲間がいる。
ミランダはAKUMAの砲撃の先がマリアの脳天だと分かった瞬間、あらん限りの声量で叫んだ。
「マリアさん、逃げて!!」
記録していたブックマンは咄嗟にイノセンスを発動し、針を敵に飛ばす。しかし間に合わない。
まるで走馬灯のように、歪んだ視界の光景がマリアの瞳に映る。
涙腺がバカになってしまったのだろうかと、彼女は場違いに思った。
(こんなところで、死ぬわけにはいかない)
五感を使い敵の位置を察知し、
そのまま空中に飛び、腰を捻るようにして急接近したAKUMAを斬った。
落下するマリアは受け身を取ろうと身体を戻す。
視界はもう歪んでいなかった。
「何だったんだろう…」
そして彼女が地面を向いたところで、それが地面でないことに気付いた。
見慣れたと言っては語弊があるが、それでも馴染みのあるもの。
ロードの扉だ。
それが目の前に、しかも開いた状態で存在する。
逃げるには、もう遅かった。マリアの身体を容易く飲み込むほどにそれは大きい。
「マリアさん!!」
「マリア殿!」
ミランダとブックマンが叫ぶ。
手を伸ばす彼らと同じく彼女も手を伸ばして、真っ暗闇に飲み込まれた。
伯爵の催す方舟の中のパーティー。
招くように開いた扉が、大きな音を立てて閉まった。
***
「ぐえっ!!」
派手な音を立てて私が落ちた先は、図書館のような場所だった。
背中から本の山に落ちたせいで、めちゃくちゃ痛い。
あまりの痛みにのたうち回っていたら、品のない笑い声がした。
「「ギャッハハハハハ!! 「ぐえっ」だってよ!!」」
笑っていたのはビジュアル系の少年二人だ。
一方は片目を隠した黒髪少年で、もう片方は金髪ロン毛少年である。
なぜか金髪の子には頭に触覚が生えてていた。チョウチンアンコウみたい。
……チョウチンアンコウって確か美味しいらしいんだよね。一度でいいから食べてみたいな。
「ヒィ、デビのアイシャドウ貸して」
「ギャハ……あ、待てっ、オレが先に使おうと思ってたのに!」
二人は部屋の中央にある高台に座ってメイクに没頭している。身支度は来客が来る前に済ませてよ、マナーでしょ。
「つーか、ここどこだし……!」
ロードちゃんに振り回されてだいぶ怒りゲージは溜まっているけれど、今は状況整理の方が大切だ。
さっきまでAKUMAと戦って大大ピンチだった所から、ロードちゃんの能力でどこかに拉致された。まさか夢じゃないよね?
「いや、痛いわ」
頬をつねったけど痛い。
そんな私の行動一つ一つが面白いのか、少年二人が笑いまくっている。
金髪くんはそのせいで手がぶれて、目元のメイクがお粗末なことになっている。
しかし黒髪の方が一瞬我に返って、私を見つめた。
「てかあんた、何で上から落ちてきたわけ?」
「ロードの能力で落ちて来たね!」
「私に、聞くな……」
「うわ、めっちゃキレてるじゃん、このおばさん」
「おばっ……ハァ!?」
「ヒヒッ! デロたちが爆笑してるからおこなんだよ」
フゥー……落ち着くのよ、マリア。敵の口車に乗せられてキレ散らかす場合じゃなないのよ。
ロードちゃんの考えなんて今まで分かった試しがないのに、ここ最近、余計に分からなくなっている。
おそらく、少女の言う『伯爵のパーティー』とやらに私を招くためにこんなマネをしたんだろう。
一緒に私もアレンくんたちと来なかったから、自分の能力で連れて来たって考えれば辻褄が合う………
……いや、落とす必要なくない?
だいぶ高いところから落とされたから、非常に背中が痛い。
おまけに攻撃を受けた腕も痛いし、頰も痛い。
いけない。また沸々と怒りが湧いてきた。
「デビット待って、あれ教団服じゃね? ローズマークがあるよ!」
「あー? ……ホントだ。ファインダーかと思ってた」
私は一体全体どうすればいいっていうの?
少年二人はノアのようだし、彼らと戦えとでもいうの? 二体一?
「ハァ………ねぇ、もしかしてここって方舟の中で合ってる?」
「あぁ、そうだぜ。ここがお前らエクソシストの墓場になる場所だ!」
「ヒヒッ! 皆殺しだぜッ!」
何だ、話はちゃんと通じるのか。
少し拍子抜けしていたら、ちょうどメイクが終わったのか、二人が立ち上がりこちらを指差して叫んだ。
「「そんでオレたちはクロスの借金を払わせるために、アレン・ウォーカーを待ってんだよォ!!」」
……ん? しゃ、借金? …………。
「すごい。怒りが一気に同情心に変わったわ!」
「ハァ? 同情するならテメーがクロスの借金払えやぁ!!」
「ヒヒッ!! …いや、女性に借金はちょっとアレな感じになっちゃうから、やめとこーぜ、デビ」
「アレって何………おっ、おま、何やらしいこと考えてんだッ!」
「変な想像させるようなこと言ったのはデビの方だろォ──!!」
仲良く喧嘩し出した二人は、コソコソと話し終えてから「借金は弟子に!!」ということでまとまったようだ。
その弟子=アレンくんみたいだが、君たちの前にすでに弟子(?)はいるんだな、コレが。話がこじれそうだから言わないけど。
(多分神父様を狙っていたのがこの二人なんだ)
けれど返り討ちに遭い、その結果として借金を押し付けられたのだ。
本当にあの人って聖職者なのか…?
遠い目をしていたら、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。
扉から押し入って来たのは、というか豪速球で飛んできたのは、クローリーに抱えられたアレンくんたち。
ラビが一番先に気付いたのか、私を見て仰天した。
ついでアレンくんが叫ぶ。
「危ないです、マリアさん!!」
飛んでくる彼らの位置は、ちょうど私のいる場所。
え、ま、ちょ………
「ヒッ!」
思い切り当たり、私の肢体が吹っ飛んだ。
……ということはなく、本当にギリギリで、クローリーが止まった。
ブレーキを思い切りかけたらしく、後方の地面がかなりえぐれていて、舞った土埃がフードを通り抜けて顔にかかった。
抱えられていたラビやアレンくんは地面に落とされ、呆然としていれば目の前に手が差し出される。
「怪我はないか?」
「は、はい」
クローリーがへたり込んでいた私を立ち上がらせてくれた。
いつものか弱い感じのクローリーではないので、AKUMAの血を飲んだのだろう。男への扱いは床に投げ捨てられた少年二人を見るとおり雑だが、女性には紳士である。
彼の背中にはリナリーちゃんがいて、私の顔を見るなり詰め寄った。
「ま、マリアさんが何でここにいるんですか!?」
「それが…私にもよく分からなくて……」
一応ロードちゃんの能力で連れて来られたことは伝えておく。
ミランダたちが心配だけれど、あちらにはティエドール元帥がいる。だから大丈夫だろう。
一番心配すべきは、いまこの方舟の中にいる私たちの方だ。
イライラが募る中、役者がそろったこの場で、ようやくノア二人が名乗った。
「デビットどぅえす」
「ジャスデロだよ、ヒヒッ!」
「「────二人合わせて「ジャスデビ」だ!」」
*****
ジャスデビがアレンたちと遭遇した同時刻。
ゴシック色が強い部屋の中、顔を拭きながら洗面台から戻ったティキは、窓格子に座っているロードを見やった。
少女の顔は本に隠されている。
いつもの様子とは違い、ロードはどこか呆然としている。
先ほどまではジャスデビの借金に笑っていたが、双子が消えてからはずっとこの調子だ。
普段のロードを知っているからこそ、ティキは何とも言えない心境で見つめることしかできない。
本当に、どうしたというのだろうか。
タオルを投げ捨てた男は、先ほど座っていた椅子に荒々しく腰掛ける。
ちょうど横の位置、90度ほど首を傾けてみるが、やはりロードの顔は見えない。
しかしふとそこで、ティキは本に添えられた少女の手とは別の方に、小さな人形が握られていることに気づいた。
人形の姿に既視感を抱いたが、思い出せない。
「なぁ、どうしたんだよ」
「んー…?」
気怠けな声と共に本が退けられる。
秘されていた少女の顔を見た瞬間、ティキが目を見開く。
「……何で、まだ泣いてるわけ?」
「……んー」
ロードの手からするりと本が落ちて、床に開いた状態で落ちる。
本は吹き込んだ風に乗って、数ページほどめくれて止まる。
少女は空いたもう片方の手を人形に添えて、力加減を考えず思いきり握る。そして、腹の部分が強く圧縮されてへこんだ人形に、そのまま頬ずりする。
「何かさぁ、神って残酷だなって」
「は?」
「ふふ、何でもなぁーい」
埋めていた顔を上げ、ロードはティキを見た。
グルグルと円を描くその瞳から流れ落ちる水滴は、人形の白い服に吸い込まれる。
そこでようやくティキは既視感の正体に気が付いた。
人形の服が、ファインダーの物とソックリなのだ。
ロードは口角を上げながらゆるりと笑って、ティキから視線を外し、空を見る。
方舟に広がるのは澄み渡る青空だ。
「マリア…」
ボソッとつぶやかれた声は明瞭な音にはならず、男の耳に入ることはなかった。
「ね、ティッキー」
「何だ?」
「ボクね、さっきまではスキンが死んで悲しくて泣いてたけど、今は違うんだ」
テーブルに置かれた菓子をいじりながら、ロードは続ける。
「今は、嬉しくて泣いてんの」
なぜ、そう聞こうとしたが、ティキは口を噤んだ。
ロードの雰囲気もそうだが、何となく今はこの話題に触れてはならない気がした。
触れたら最後、ロードの涙腺が壊れる気がしたのだ。
そんなことはあり得ないのに、どうしてかリアルに想像できる。
できてしまう彼自身も、どこか変だった。
ティキは涙を流すロードから逃げるように視線をそらす。
そらした先には、雲一つない青空があった。
それが憎らしくて、煙草を取り出し、紫煙を吹いて雲をつくった。
【ご飯】
ロードの宿題を手伝っていたマリア。
そこにAKUMAの召使いが料理を運んでくる。
『伯爵様ガ今日ハオりょ、料理をおつくりにィ…ガガッ』
「千年公のおやつだ〜」
嬉しそうに運ばれてきたマフィンを手に取って食べるロード。
マリアは思考が追い付いていなかった。
「え、伯爵って料理するの…??」
「千年公の料理はこの世で一番美味いよ!」
ハングリー女の視線の先には、甘い匂いを漂わせる甘食がある。
ゴクリ、と鳴った音を聞いたロードは、笑いながらマフィンを手に取り、マリアの口元に近づけた。
「ほら、あ〜んして。毒は入ってないから安心してよ。マリアが食べたら千年公もきっと喜ぶから」
「………」
「マリアが食べないならぁ、ボクが全部食べちゃうけどなぁ〜〜?」
「!!」
警戒心の強い猫のように鼻を鳴らしながら、マリアはロードの手にあるマフィンを暫し見つめて──食べた。
「う……………うまうま!!!」
「ふふ、でしょー」
美味い。美味すぎる。何だ、何なのだこの味は……!!
で、そこからはあっという間である。
一分もかからずマリアはすべての菓子を食べきった。
この後いつも通り勧誘めいた言葉を言われるのだが、その時ばかりはかなり真面目にマリアの心は揺れた。
「こんな美味しいものを毎日食べられるなんて、ノアもいいな………ッハ! いや、違う私はファインダー…!!」
マリアの食のがめつさを、ロードは微笑んで見つめていた。