「わたしは神様が嫌い」   作:アビ田

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昇り竜に(くだ)る雨

 ロード・キャメロットは現実世界と、ロード自身が存在する夢の世界を繋ぐことができる。

 

 マリアがいつも夢の中だと思っていたのは、彼女の夢ではなく、()()()()()の中であった。

 

「フフ、どこまでブックマンは耐えられるかなぁ」

 

 マリアの首に腕を絡める少女は、楽しそうに赤毛の少年を見つめる。

 ロードは夢の中、ラビのブックマンとしての闇を垣間見た。

 

 

 歴史の記録者には感情も、心も要らない。

 

 人間でありながら、道具として己が目で見た世界を記録する。

 戦争ばかりの愚かな人間と、「ブックマン」の自分(ラビ)

 

 必然的に少年は人間を軽視し、自分はブックマン、つまり他の人間とは違うのだと思い始めた。

 

 浮かべていた作り笑顔はしかしいつからか、ニセモノなのかホンモノなのかわからなくなった。

 

 それはいつからだ? 

 

 それは彼がエクソシストとして教団に来て、仲間ができてからだ。

 

 

「……ラビ」

 

 マリアは、虚ろな目で倒れ込む少年を見つめる。

 

 彼女がいる少し先では劣勢気味のアレンの腹に、ティキの攻撃がもろに入った。

 

 ロードは呻くアレンを少し心配そうに見つめたが、すぐに視線を女に戻す。

 その顔はフードに隠れてうかがい知れない。噛みしめた唇からは血が流れ、咎めるように少女の指先が触れた。その感触にマリアの肩が跳ねる。

 

「ダメだよぉ、噛んじゃ。でないとまたちゅーしちゃうからね?」

 

「……わ、かった」

 

 どれほどマリアが「戦えない状況」というものにストレスを抱くか、ロードは知っている。

 可哀想だと抱きしめたくなる反面、エクソシストを虐げることに、ノアのメモリーが悦をもたらす。

 

「どっちが先だろうね。アレンとティッキーの勝敗か、それともブックマンの心が壊れるのが先か」

 

「……私を」

 

「何ィ? 仲間の傷つく姿を見て、もうギブアップ?」

 

「私の心を、壊せばいいじゃない」

 

「────え?」

 

「……? 何、どうしたの?」

 

 ボソボソと呟く女の瞳を見た時、ロードの顔が怯えに変わった。

 黒いはずのその瞳が、紅く染まっている。

 

 少女は手を離しかけたが、それでもまた抱きつく。表情を繕い、マリアの耳元に顔を近づけ、小声で話す。

 

「苦しい? だったら一つ、この戦いを終わらす方法を教えてあげてもいいよ」

 

「方法…?」

 

 ロードはニンマリと笑う。

 

 

「仲間を捨てて、マリアがボクらの家族になるんだ。そうすれば今ここにいる人間たちは生かしてあげる」

 

 

 あからさまにマリアの瞳が揺らぐ。彼女がロードの手を取りさえすれば、仲間は助かる。

 

 だがその手を取ったら、彼女が苦しみながらエクソシストになった意味も、死にたくなるほど嫌いな神へ祈ったことも、それどころか彼女の人生の全てを否定することになる。今までの「マリア」が無意味だったと、マリア自身が決めてしまうことになる。

 

 それは、それは嫌だった。

 

「マリア!!」

 

 リナリーが異変を察知して、仲間の名を呼ぶ。キューブの中は外の音が聞こえないが、透明であるため視覚的な情報は伝わる。

 

 

「私の仲間に手を出さないで、ロード!!」

 

「わぁ、ティッキーが池で取った鯉みたいに元気じゃん」

 

「………ダメだよ」

 

「…ダメかどうかは、マリアが決めることじゃない」

 

「私は、私を否定したくないの」

 

「……ボクがこんなに望んでるのに? そんなイジワルなこと言うと、マリアのこと嫌いになっちゃうよ?」

 

「それでも、私はエクソシストでありたい。これは私が選んだ道だから」

 

 それに、と彼女は続ける。

 

 

「ロードちゃんが私を嫌いになっても、私はあなたのことが大好きよ」

 

 

 渦を描く少女の目が、大きく、大きく見開かれた。

 一度ロードは強くしがみつき、自分の形容しがたい感情を丸ごと女にぶつける。

 

『夢』のメモリーが悲鳴を上げている。嬉しさに、悲しさに、怒りに────。

 すべてが入り混じって、暴走しかかるレベルでロードの頭を犯す。

 

「……ア、ッハハ……! ちょっとッ、ヤバいかも…!!」

 

「ちょっ、く、首しまっ…!!」

 

「マリアマリアマリアマリア…………。その言葉、絶対に忘れないでね。ボクも忘れない」

 

「だか、ら、首ッ……!!」

 

「……………あっ、ごめぇ〜ん!」

 

 慌ててロードが腕を離す。顔を真っ赤にしたマリアは何度か咳き込んだ。

 

「何これ、超ヤバかったぁー! すごいねマリア、ボクをこんなに弄んじゃうなんて〜」

 

「弄んでるのはロードちゃんの方じゃないの…?」

 

「キャハッ! まぁ、そうだね」

 

「………私がノアと関係があることは、みんなに言わないんだね。そうすればもっと簡単に私のエクソシストの道を壊せるかもしれないのに」

 

「それじゃあダメなんだよ。マリアの方からボクらを選んで欲しいんだ」

 

「…甘いよ、ロードちゃん」

 

「マリアに言われたくないなぁ。心も匂いも甘くて、お菓子みたいなマリアにさ」

 

「………」

 

 

 神に祈りを捧げたはずの女は、少女の甘さ、それが心地いいと感じてしまった。

 それに反して、仲間のことも本気で大切に思っている。

 

 マリアの思考が、感情が、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく。

 

「本当に、イヤになっちゃうなぁ……」

 

 今彼女の中で一番強い感情は、ロードの甘さに絆される弱くて脆い、自分への苛立ちだった。

 

 

「あ」

 

 

 突如、ロードが声を漏らす。

 少女の視線の先には、頭を抑えるティキの姿がある。

 

 ロードはアレンが発した言葉にティキがキレたのだと瞬時に理解し、自分も含め、ラビとマリアにキューブ型の結界を張った。

 

「やっべぇー、ティッキー激おこじゃん」

 

 男の高笑いとともに、恐ろしいほどの威力を持つ攻撃が少年の肢体を飲み込んだ。

 その体はみるみるうちに真空状態の黒い球体に取り込まれ、アレンの身体が悲鳴をあげる。

 

「アレンくん…!」

 

 仲間の絶叫を聞き、この時マリアは無意識にイノセンスを発動しようとした。

 

 当然、ロードがそれを見逃すはずもなく。わからせるように、無数のロウソクを投げ撃つ。

 

 透明の壁に阻まれることなくすり抜けたそれは、女の体を磔にする。服を巻き込むようにしており体には刺さっていないが、マリアの背にじっとりとした汗が伝う。

 

「次はないから」

 

「………はっ」

 

 

 あぁ、あぁ、あぁ。なんてマリアは無力で。

 無価値で。

 無意味な存在なのだろう。

 

 

 心が折れそうだ。

 まだ、ロードの手を選ぶ選択肢は残されている。アレンの悲鳴が聞こえ、リナリーがその姿に叫ぶ声を聞くほど、グラグラと彼女の意思が揺らいでいく。

 

 悩んで、悩んで、マリアは気づかぬうちに左手で太ももをかきむしっていた。布の繊維が爪の間に挟まる。それでもガリガリとかき続ける。

 

 先ほど唇を噛むのを止めたロードは、ティキとアレンの方に集中している。そのかきむしる音には意識が向かなかった。

 

 

「……っ!」

 

 そして、強いイノセンスの気配を感じた時、ようやく爪の動きが止まった。

 

 その禍々しい気配がアレンのものだと察すると、彼女は息を飲んで黒い球体に視線を移す。

 

 生と死の狭間で、少年がイノセンスとシンクロを強めていく。

 暴れ打つようなそれは、その場にいた全員を圧倒した。

 

 

 そして現れたのは、伯爵を幻視させる大剣を持つ、アレン・ウォーカーの姿。

 

 

 少年は左手のイノセンスを大剣に変化させる。

 その大剣は伯爵の持つ大剣と瓜二つである。違うのはその色だけだ。ティキやロードは目を疑った。

 

 対しマリアは、過去に負った腹の傷のあたりを押さえて、ガタガタと震える。額には脂汗が浮かんだ。

 昔の傷が痛む感覚がする。そのため腹に手をやった。

 

 だが、この震えは何だ? 千年公と似た剣をアレンが持っているから、こんなにも恐ろしいのだろうか? 

 

(どうして? 双子が伯爵を出した時は、ここまで前後不覚にならなかったのに……?)

 

 ついには息さえままならなくなり、必死に酸素を取り入れようとしながら、彼女は強く目をつむる。

 

「ティム……側にいてよ」

 

 家出している相棒のことを思いながら、マリアはそのまましばらくうずくまった。

 

 

 

 

 

 

 

 *****

 

 覚醒したアレンの対AKUMA武器、神ノ道化(クラウン・クラウン)が空を切る。

 十字の紋様を刻む剣先が男の身体にめがけて振るわれ、胴体を横一直線に切り裂く。

 

 だが、ティキ本人には何の異変もない。

 斬られた部位に手を当てたティキは、出血はおろか服さえ破れていない状況に混乱する。その直後、男の胴体に十字架が浮かび上がった。

 

「あっ、が……!?」

 

 外的な痛みではない。もっと中から()()()()()()感覚に、黄金の目が白髪の少年をとらえる。

 

 

「まさか……ティッキーのノアのメモリーが、斬られた?」

 

 

 ロードの読みは当たりだった。

 

「快楽」のメモリーが破壊されていく。膝をつき、乱れた髪で呼吸を乱す男は、駆け寄る少女を手で制す。

 

「…いい、ロード、このままで……」

 

「ティッキー!!」

 

 ティキ・ミックにとってこの戦いは、一度イノセンスを壊し損ねた少年と白黒付けるためのものである。いくら家族(ロード)であれ、介入されたくはない。たとえそれで、自分が死ぬことになっても。

 

 アレンが静かに見つめる中、ノアの力を失った男は地面に倒れた。

 

「………ッ!!」

 

「あ、ロードたま!」

 

 レロから飛び降り、少女は動かなくなった男に駆け寄る。

 その身体は呼吸しているものの、すでに額の聖痕が消え、肌も白くなっていた。

 

 アレンの剣でノアの力を失ったティキ・ミックは言い換えれば、何の力も持たない「人間」である。

 

 

「ティッキー…」

 

 ノアは人間を軽視し、拒絶する。

 そんなノアは何よりも家族(ノア)を愛する。

 

「………」

 

 家族を傷付けられた今、少女の瞳に浮かぶのはエクソシストへの憎悪と、すべてを巻き込んでメチャクチャにしてでも足りない激しい怒り。

 

「やった! ノアの野郎を倒し────がぁ!」

 

 チャオジーが喜んだ瞬間、数本のロウソクが体に突き刺さった。

 ロウソクの矛先は、ロードとティキ以外の全員に向けられている。

 

「知ってる? ノアにもねぇ、人間みたいに……家族を失う悲しみがあるんだよ」

 

「ロード…!」

 

「アレン、ボクね、怒ってるんだ」

 

 冷たく吐き捨てたロードが向けた視線の先にいるのは、ブックマンJr.である。

 

 

「“ラビ”っていうんだっけ? そいつの心、メチャクチャにしてやるッ!!」

 

 

 悪夢が、加速する。

 

 

 

 

 

 *****

 

 歴史の中で紡がれる死体、死体、死体。

 

 

 仲間の死体に埋もれ、その仲間に殺される悪夢の中、ラビの心は壊れた。

 

 少年の体にヒビが広がる。まるでガラスのように割れたラビの体は、暗闇に沈む血の池に落ちた。

 浮かび上がる破片は、ステンドガラスのように艶やかな色彩を放つ。

 

 アレンの姿に扮したロードは、無表情でそのカケラを一つ手に取ると、手から血が滲むのも厭わずパリンと割った。

 

 

 

 一方で現実の少女は、ティキの身体を抱きしめ残虐に笑う。

 

「本当の悪夢はここからだよ」

 

『……』

 

 淀んだ瞳を浮かべるラビが、キューブから降り立つ。

 

「ラビ!!」

 

 大剣を握りしめたアレン。

 しかしその周囲には、無数にあるロウソクの炎が怪しげに揺らめいている。

 

「動かないでね? 今度はマリアが踊る番なんだから」

 

「でも彼女はケガが…!」

 

「動いたら全員、串刺しにして殺す。あぁでも、アレンなら大丈夫かもね? そこの女と、ただの人間はすぐに死んじゃうだろうけどさァ!」

 

「くっ…」

 

 ロードの言うとおりだ。アレンが動けば、二人は確実に死ぬ。距離的にも助けに入るのは間に合わない。

 

「クソッ…!!」

 

 

 

 一方、マリアは静かに武器を握る赤毛の少年を見つめている。

 

(仲間と、戦わなくちゃいけないの? 私はエクソシストで、ラビもブックマンの後継者であれど、エクソシストなのに……?)

 

 神ノ剣(グングニル)を取り出そうとしない女に、ロードが痺れをきらす。

 

「いいよ。マリアが戦わないなら、全員殺すから」

 

「何で、何で私が……?」

 

「武器を使って殺す気で挑まなきゃ、仲間に殺されちゃうよ? さぁ、早く武器を出せよ。殺す気でラビを殺せッ!!」

 

「嫌だよ、嫌だよ嫌だよっ…」

 

「うあ゛っ!!」

 

「チャオ………うっ!」

 

 キューブの中で倒れていたチャオジーに、また数本のロウソクが刺さった。それを止めようとしたリナリーの腕にも一本刺さり、血がポタポタと流れる。

 

 苦痛に歪む二人の表情を目の当たりにした女は顔を青白くしながら、ゆっくりと胸に手を伸ばした。

 

「じゃあ、始めようか。仲間同士の楽しい殺し合い(ゲーム)を」

 

 マリアが神ノ剣(グングニル)を取り出すと同時に、体内から黒い液体が現れた。それはふよふよと彼女の周囲を漂っている。

 

 

 この黒衣(ドレス)の元である液体は、血液とイノセンスが混じったものだ。

 

 彼女のイノセンスは肋から生成されており、元は骨だ。

 そして骨とは血液の成分を作っている。

 

 ゆえに肋、すなわち骨に寄生するイノセンスが血液を通じて混じったことで、黒い液体が生まれたのだ。

 

 宿主の意思によって、この液体はある程度操作可能である。強度もまた同様だ。

 

 

「ラビ、お願い! 目を覚まして!」

 

 リナリーの声は赤毛の少年に届かない。ラビは地面を蹴り、マリアに襲いかかる。

 一直線に突っ込むかと思いきや、寸前で立ち止まり足をはらってくる。

 

 それを後方に跳びのき、マリアは避ける。右腕が使えないため、着地の際に体のバランスを崩した。

 

 その隙をねらい、巨大化した槌が頭上から降り注ぐ。

 

「ううっ…!」

 

 しかし黒い液体をぶちまけるように拡散させ、ラビの視界を大きく遮る。そのおかげで衝突位置をそらすことに成功した。

 

 転がりながら起き上がった女に、今度は手刀を中心とした打撃が続けざまに襲う。

 

「知らなかったよ! あなたってここまで強かったんだ…ねっ!!」

 

『────死ネ!』

 

 マリアはラビと手合わせをした経験がない。

 

 リナリーやフォーとはそれなりにあるため、ある程度の攻撃パターンや戦いのクセがわかる。

 対してラビの格闘技はブックマンということもあってか、そのクセがない。

 

 ゆえに行動が読みにくく、いくつもの攻撃が彼女の体に当たり、少しずつ疲労を蓄積していく。

 

 さらに、ラビは戦術も多かった。

 

 防戦一方で、心情的にも攻撃になかなか転じない女に、ロードのイライラが募っていく。

 

 

「攻撃しなきゃ、無様に追い込まれるだけだよ!!」

 

 

 そんなにも仲間が大切なのだろうか? マリアはまだ、ロードとエクソシストであることを天秤にかけて、後者に傾いている。

 なぜだ。「大好き」と彼女に言った女の、その言葉は本心であるはずなのに、なぜそれでもエクソシストの道を選ぶのか。

 

 

 ──────あぁ、“仲間”がいるからか。

 

 

 はじめは戦い、殺す気でいた。少女はノアで、女はエクソシストだから。

 

 しかしマリアが何者なのか理解した上で、その思考に至った時、ロード・キャメロットはマリアを仲間と戦わせることに決めた。

 

 自分の手でその大切なお仲間を手にかけた時、その「エクソシストの道」を歩むことはできなくなるだろう。

 そして、その時はあるいは────とも、考えている。

 

 ティキ・ミックがアレン・ウォーカーと雌雄を決することを望んだなら、ロード・キャメロットはマリアと白黒つけることを望んだ。

 

 仲間か、それともロードか。

 

 

 

「マリアさん!!」

 

 その時、アレンが叫んだ。

 

 最上階にたどり着く前にすでにボロボロだった女の体は、さらに傷が増えて地面を赤く汚している。出発前、少年が師のトラウマで死んだ目をしていた隣で巻いていた黒い包帯も、のぞく手足に少々残る程度だ。顔にはもはや首にボロ切れが引っかかるのみ。

 

「大丈夫」

 

 マリアはその一言だけ返す。

 

 槌の攻撃で吹き飛んだ身体を回転し、地面にズザザッ、と降り立つ。

 

 ジャスデビに受けたケガのせいで、血が足りずに頭が回らなくなってきている。

 さらに身体中に走る激痛が、行動を制限する枷になる。

 

(本当に、どうしようか…)

 

 方法はないのか。ロードの手を取る以外で、かつラビ含めて全員を救う方法。ラビを殺す選択肢はそもそもない。

 

 四人を生かせることができるなら、命を消耗しても構わない。

 

 

(難しいね、守ることって)

 

 

 あるいはあの飲んだくれでも確固とした力がある男だったら、この場を切り抜ける方法があるだろう。無力な彼女と違って、それだけの力がある。

 

(…いや、神父様だったら普通にラビを殺────いやいや、そもそもここまで追い込まれる状況にならないか)

 

 この場を切り抜ける方法があるとすれば、ラビの意識を取り戻すしかない。

 

 だがどうすれば戻せるのか。その肝心の思考に割く頭がうまく回らないせいで、どんどんと追い詰められる。

 

 ロード・キャメロットの能力の恐ろしさは、身をもってマリア自身が知っている。幾度と夢の世界に招待されていた彼女だ。

 

 あの夢の中で悪夢を見たが最後、少年の精神がいくら強くても、壊されるだろう。

 

 それでも、マリアは信じたい。

 ラビはまだ、負けていないと。

 

 

「私に言ったよね、ラビ? 俺を……仲間を信じろって」

 

 ラビは槌を構えて一気に距離を詰める。避けなければ、身体が潰されるだろう。

 

 

「私も仲間を信じてる。だから……だから早く、起きなさいよッッ!!!」

 

 

 槌が、降り下されて。

 

 

『お前らハ、仲間じゃない』

 

 

 

 激しい爆音とともに、周囲が煙に飲み込まれる。

 アレンは咳き込み、だんだんと晴れていく視界に目を凝らす。

 

 そこには槌を持って佇む赤毛の少年の姿と、瓦礫に埋もれ、周囲をおびただしい量の血で染める女の姿があった。

 

 血濡れた指は、ぴくりとも動かない。

 

「い……いやぁぁぁああああ!!!」

 

 リナリーのつんざくような絶叫が響き渡った。

 チャオジーもまた目を見開き、言葉をなくしている。

 

『……?』

 

 だが、ラビの様子がどこかおかしい。

 少年は首を傾げて手を握り、何か確かめるような動作をしている。

 

『潰した感触ガ……薄い?』

 

 もう一度、槌が振り下ろされる。

 

 思わずリナリーやチャオジーは目をそらしたが、ラビと同様に何か違和感を感じていたアレンは、ジッと見守る。

 

 

『なっ………!!』

 

 マリアがいたはずの場所には、大量の黒い物体が四方に飛び散っていた。

 

 四散していた血液のようなものは、地面に浮かび液体となって、中央に集まる。

 そこに肉の破片は、一切ない。

 

 事態を飲み込めたラビが動こうとしたその後方。煙が立ち込める中から現れた手が、少年の肩を掴む。

 とっさに振り向こうとしたが叶わず、頰に激しい痛みが走った。

 

 

 

「チェストォォ────ッ!!!!!」

 

『うぐあっ!!!』

 

 

 マリアの拳がラビの右頬にクリーンヒットし、そのまま弧を描いてふっ飛んだ。

 呆然としたアレンが、「チェスト……?」と思わず呟く。

 

『なぜ、後ろに…!?』

 

「攻撃が来るほんの少し前、黒衣にできるだけ衝撃を和らげてもらったのさ。それで煙が上がってる中、自分の姿に変えて囮にして、あなたの背後に回った」

 

『……バカ、なのか』

 

「えぇー……そう、かっ…」

 

 ラビの攻撃を黒衣で和らげたとはいえ、完全に防ぎきることはできなかった。

 

 軽減したにせよダメージはかなり大きい。特に右上半身は教団服が破れ、下に着ているTシャツが露わになっている。

 

 白いはずのシャツは、赤黒く変色していた。

 

 

「こういうさぁ……本だと、ありがちな展開じゃん。でも……ははっ、ダメだったか………ゴフッ!」

 

 女の口から、大量の血が吹き出る。

 

 ロードの言うとおり、マリアは甘い人間かもしれない。

 だからこそ甘い人間なりの方法で手を尽くしてみたが、ラビの様子を見る限り、無駄に帰したらしい。

 

 赤毛の少年の靴音がやけに遠くに聞こえる。

 膝をついた彼女はもう立ち上がる力もなく、だがせめて倒れないように左手に力を込めた。

 

「ふふ………悔いは結構、あるかも…」

 

 技の構えを取ったラビが、槌を下につける。

 

「でも、安心して。私を殺しても、あなたのことは恨まないよ」

 

 微笑んだマリアに、呪文を口にする少年の瞳が合わさった。

 

 

劫火(ごうか)灰燼(かいじん)──────火版!!!』

 

 

 その瞬間、マリアの下に「丸火」の文字が浮かび上がり、火の波が出現する。

 炎は龍のように宙を駆け巡り、彼女の身体も浮き上がる。

 

「………え?」

 

 熱さが、ない。むしろ温かい。

 

 龍はゆっくりと地面に向かい、瞠目する女を下ろした。

 それだけでなく、火版の熱によってロウソクが溶け、アレンたちが解放されている。

 

『……まさか!』

 

 目を見開くラビの意思を無視し、体が動く。

 次に文字が刻まれた場所は、彼の真下。

 

 

「この落とし前は────自分で付けるさァ!!」

 

 

 眠りうさぎがようやく夢の国から戻ったらしい。

 マリアは文句の一つでも言ってやろうとしたが、ガクンと落ちた体を支えきれず、ついに倒れる。

 

 思考が急速に沈む。

 この感覚は伯爵に殺されかけた時と同じだ。「死」へと誘う沈み方。

 

「まぁ、上々の………でき、かなぁ…」

 

 その時、薄く開けていた目の上に、ぼんやりとした影が見えた。

 

 影はさらに色濃くなり、頬にペタペタと触る感触がある。ついでチュッと、柔らかい感触が口元に当たった。犯人は一人しかいない。

 

 

「マリア、寝ちゃダメ」

 

「…………ねぇ、また、ちゅーしなかった…?」

 

「愛情だよ。ねぇダメ、起きて」

 

「無茶、言いなさんな……」

 

「…お願い、頑張って目を開けて。マリア、マリア……!!」

 

 こんな状況を作ったのはロードだというのに、少女の声は震えていて、顔にポタポタと涙と思われる雫が当たる。

 その顔を見ようにも、閉じてしまった瞼は持ち上がらない。少しずつ寒気が増している。しかし少女が触れている部分はひどく熱い。

 

「ふふふ………」

 

 

 愛しいなぁ、とマリアは思った。

 

 

「ごめんね……ごめんね。やり過ぎちゃった」

 

「いま、さらぁ…?」

 

「こんなになるまでしたくなかったのに、ごめんね、ごめんねっ…! ボクのメモリーが、ぐちゃぐちゃで……うぅぅ」

 

 血まみれの教団服に縋り付いて、ロードは顔を埋める。

 

(あぁ、私もギリギリだったけど、ロードちゃんも心がギリギリだったんだ……)

 

 ノアのメモリーがそれを宿す人間に、どれほどの影響をもたらすかわからない。それでもいつもどこか余裕のあるロードが泣きじゃくるほど、強力なものなのだろう。

 

 しかしてこれは、さすがにやり過ぎだ。

 

「さむい…」

 

「マリア? ……マリア!!」

 

 少女の悲痛な声が響く。

 

 

 

「ボクを置いてかないで!!」

 

「………っ、ぁ?」

 

 

 初めて聞いたはずなのに、なぜかマリアは、その言葉を一度聞いたことがある。

 

 いったいいつ、どこで? 

 

 彼女は必死に力を込めて身体を起こし、目を開けた。

 

 そうすれば目元が赤くなっていたロードの顔が見える。

 当のロード自身も、自分の発言に驚いているようだ。

 

「ロード、ちゃん…」

 

 マリアは気力をふり絞って、手を伸ばす。だが、途中で止まる。

 

 彼女の視線の先には、少女の胸から突き出た包丁がある。

 ロードの口から噴き出た血が、マリアの頰にかかった。

 

「……あ」

 

 まだロードと繋がっていたラビが、夢の中からアレンに化けたロードを見抜き、攻撃したのだ。

 ロードはしてやられたように、しかし忌々しさをのぞかせてあざ笑う。

 

「夢の中のボクを攻撃するなんて、侮れないなぁ、次期ブックマン……」

 

「ろーど、ろーどちゃ」

 

「ごめぇん………マリア」

 

 フッと微笑んだロードの身体が、ラビの炎に飲み込まれ、彼女の視界から消え去った。

 

 

「い、いや……」

 

 真っ白になった女の頭が、急速にどす黒く染まっていく。

 

 

 ロードが、ロードが、ロードがロードがロードがロードがロードがロードが──────!! 

 

 

 ゆっくりと、マリアは自分の手を見る。

 少女に触れることが叶わなかった、この左手。この、忌々しい左手。

 

 爪の中にまでこびりつくほど血まみれの手を、服にこすりつける。でも真っ赤だ。

 

 何度も何度も何度も試しても、真っ赤だ。

 

 

「あ、あぁ、あぁぁぁ……!!」

 

 

 その時脳裏に、「堕罪」の文字が浮かぶ。

 

 堕罪を持ちし女。

 真っ赤な手をいくらこすっても消えることのない堕罪。堕罪、堕罪。

 

 

 

 

 

「────マリア!!」

 

「……ぁ?」

 

 

 気が狂れ、絶叫しかけた女の正気を戻したのはリナリーだった。

 少女はマリアの肩をつかんで、悲痛に顔を歪めている。

 

「大丈夫ですか!? 話しかけても返答がなかったから……」

 

「……え、ぁ……ラビ、は?」

 

「ラビなら今、アレンくんに殴られてます」

 

「えっ?」

 

 リナリーが指した場所には、うさぎ男の胸ぐらをつかみ、泣きながら説教しているアレンがいる。

 

「いくら自我を取り戻すためとはいえ、焼身自殺をするなんてバカなんですか!? あぁ、バカでしたねぇ!!!」

 

「わ、悪かったってぇ…!!」

 

「しかも女性をあんなにボロボロにしてェ………!! サイテーですよ!! 紳士の鏡だったマナの垢を煎じて飲ましてやりたいッッ!!!」

 

「マジでそれは謝っても謝りきれねぇと思ってるぅぅ………!!!」

 

 白アレン(いつもの姿)と黒アレン(闇の姿)が交じったアレンは、愛の鉄槌で遠慮なくラビの頬をビンタした。

 

「うわぁ、痛そー…」

 

「ねぇ、マリアさん」

 

「……ん?」

 

 心なしか、リナリーのオーラが黒い。ニッコリと笑む少女に、マリアは「あ、あれ…?」と呟く。

 

 リナリーはキレていた。それも、ものすごく。

 

 

「ラビの攻撃を当たりに行ってましたよね?」

 

「う、う〜ん……?」

 

「当たりに行ってましたよね?」

 

「うぅ、いたた、傷が痛むなぁ」

 

「当たりに、行って、ましたよね?」

 

「…………は、はい」

 

 見ていた方はたまったもんじゃない作戦に出た女に、少女はカンカンだった。

 リナリーは、ケガが治った時はこってり叱りますからね、と目尻を拭う。いつものマリアの調子に戻って安心したのか、その瞳からは次々と涙がこぼれた。

 

 

 穏やかな空気が流れる中、マリアはずっと気になっていた少女の行方を探す。

 

「あ、あのさ、リナリー」

 

「何、マリア?」

 

「ロードちゃ……ロード・キャメロットは?」

 

「……ロードは…」

 

 

 マリアの気が狂れていた間、ロードはラビの攻撃を受け、黒焦げの状態で地面に落下した。

 

 少女が落ちた方向をリナリーが指し示した時、そこには瓦礫の上で佇む真っ黒な人の姿があった。

 

 マリアと、目があったはずの二つのくぼみがかち合った瞬間、黒い人間はニィと、不気味に笑う。

 

 ついで、辺りに気狂ったような笑い声が響いた。

 

 

「キャハ、ハハ、ハ、ハハハハハ!!」

 

 

 笑い声が静まると、ロードはアレンの名を呼んだ。

 少女はキスした人間から分かるとおり、アレン・ウォーカーにも何かしらの感情を抱いている。果たしてそれが何なのかは不明だ。

 

 そのまま少女の肢体が崩れ、炭となって散ってゆく。

 

 その最後、ロード・キャメロットはマリアの精神に、こう囁きかけた。

 

 

 

『Ave Maria』

 

 

 

 ──────おめでとう、マリア。

 

 

 

 その「おめでとう」の意味を、マリアが理解することはなかった。

 

 ただ自分の意思に反し、めちゃくちゃに暴れまわる感情に、口元を押さえて震えた。

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