「わたしは神様が嫌い」   作:アビ田

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欠けてるものは?


ドレミファソラ ド

 ⚪︎⚫︎⚪︎

 

 ファインダーだった頃は、昼夜関係なく忙しなく働いていた。

 

 移動中も資料を読み込んだり、現地の情報を頭に叩き込んだりと、眠る時間も少なかった。

 

 けれど私にはそれくらいしかできなかった。イノセンスが使えなくなっていたから。

 

 守れない。

 私は所詮、エクソシストの同行人。

 

 でもそれが嫌だったというわけでもない。

 むしろ共にエクソシストを支え、戦場に赴くのが生きがいだった。

 

 

 ────戦いなさい、マリア。

 

 

 そう、だから戦う。

 

 守ることが、私の存在意義。

 

 守れずに自分を見失えば、気が()れてしまいそうで恐ろしい。

 

 とうの昔に聖戦の道具に定められてしまった私の運命。

 逃れられないなら、進むしかないでしょう? 

 

 私はエクソシスト。

 AKUMAを破壊し、伯爵を倒し、人類を救済する。

 

 

 

 けれどどうしてそこまで考えた時、胸が張り裂けそうなほど苦しいのだろう。

 

 私の感情がわからない。アレンくんの格好をしたアイツの考えがわからない。

 自分がわからない。

 

「マリア」は何者なんだろう。

 

 私はいったい何なんだろう。

 

 私はどうして生きているのだろう? 

 

 

「あっ、あ、かはっ……!」

 

 

 私はいつまで、アレンくんに殺され続けるんだろう? 

 

 

「だれかっ…」

 

 

 どうしてアレンくんが私を殺すの? 

 

 

「たすけ」

 

 

 私があなたにいったい何をしたというの? 

 

 

「たすけ、て」

 

 

 誰か、誰か。

 

 

 

 

 

 パチンと、音が鳴った。

 

 アレンくんが──いや、違う。アイツが笑っている。

 

 

『知っていますか、マリアさん? 人間は眠っている間、短い夢を何回も見ているんですよ。でも覚えているのは眠りの浅い時に見るものだけ。一つだけしか夢の物語を覚えていられないのは、残念ですよね』

 

 暗闇にいるのは私とアイツだけ。

 夢が終わったのに、また夢が始まる。

 

『あははっ……! 今神は必死だ! 僕にマリアさんを取られたくないッ!! 聖母に捧げる歌なんて、なんて穢らわしくて気色悪いんだろう! アリアが聞く側ならばともかく、歌わせるなんて!! ははっ………あはははは!!!』

 

 アレンくんの声で、でも浮かべる笑顔はアレンくんじゃない。

 コイツは何を言っているのだろう。

 

 コイツが本当に私だっていうの? 私がこんなに狂っているっていうの? 

 

『狂ってる? 大丈夫、マリアさんは普通ですよ。だってマリアさんはただの人間でしかないんですから』

 

 そう言ってアイツは剣を取り出して、私の胸に突き刺した。

 

 

 

 

 

 ⚪︎⚪︎⚫︎

 

『自分が分からない。その考え、僕もよく分かります。僕ももう自分が分かりませんから』

 

 また夢だ。

 

『マリアさんの気持ち、よぉく分かりますよ。「分からない」っていう気持ちがよく分かる。だって僕はマリアさんで、マリアさんは僕だ』

 

 真っ黒いだけの空間に転がっている私に、這いつくばる奴が近づく。

 鼻と鼻が触れ合うまでに距離が迫る。

 

 相手の息遣いを感じられることが、おぞましい。

 

『マリアさん。どうして今苦しいか、分かりますか?』

 

 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 

『ふふふ』

 

 笑ってアイツは、私を刺す。

 

 

 

 

 

 ⚪︎⚫︎⚫︎

 

 また夢。何度も何度も。

 

『マリアさん、苦しいですか? マリアさんが苦しいなら僕も苦しい。だって僕はマリアさんで、マリアさんは僕だから』

 

 私はいつまで刺されて、殺され続けるんだろう。

 

『苦しいですねぇ。でも仕方ありませんよ。マリアさんは苦しんで苦しんで、苦しみ抜かないといけないんですから』

 

 もうたくさん、苦しんだのに。

 

『ふふふ』

 

 また────、

 

 

 

 

 

 ⚫︎⚫︎⚪︎

 

 夢。もう、いやだ。

 今度目を開けた時、アイツは一番私が見たくない姿になっていた。

 

 違う。あの子の世界じゃないのに、何で、何でその姿で。

 

 

『ねぇマリア、マリアはどうして苦しいの?』

 

 見慣れたハネ気味の髪を視界に入れた瞬間、目を固くつむった。

 

『マリアはどうして苦しいの? ボクがマリアに次期ブックマンと戦わせたから、嫌いになっちゃった?』

 

 やめて。

 

 けれど小さな手が私の髪を優しく、ゆっくりと撫でる。

 寂しそうな声で甘く囁く。

 

『それとも、ブックマンと戦った時、心がボロボロになったから?』

 

 だまれ。

 

『本当に痛かったのは、心だけ?』

 

 耐えきれなくなって、目を開けた。

 

 視界に移ったのは、アレンくんの剣を持ったロ

 

 

 

 

 

 ⚫︎⚪︎⚫︎

 

『夢。夢、夢。気が狂いそうだね、マリア』

 

 

『ボクは神が憎いんだ。エクソシストもイノセンスも人間も何もかも、全部壊れてしまえばいい。ボクが大事なのは家族だけ。愛するのは家族だけ。ボクのノアとしての本能がそうさせる』

 

 

『でも悲しいなぁ。ボクの気持ち、今のマリアには伝わらない。ボクはマリアで、マリアはボクなのに』

 

 

『ねぇマリア、ボクを受け入れてよ。ボクを愛してよ、ボクを求めてよ』

 

 

 無言の私に、アイツは剣を突き立てる。

 

 

 

 

 

 ⚫︎⚫︎⚫︎

 

 目覚めたらリナリーに刺された。

 

 ⚫︎⚫︎⚫︎

 

 目覚めたらラビに刺された。

 

 ⚫︎⚫︎⚫︎

 

 目覚めたら神田に刺された。

 

 ⚫︎⚫︎⚫︎

 

 目覚めたらミランダに刺された。

 

 ⚫︎⚫︎⚫︎

 

 目覚めたら、目覚めたら目覚めたら────、

 

 

 

 

 

 ⚫︎⚫︎⚫︎

 

 

 

 

 

『ボクはね、聖戦を終わらせたいんだ。だからマリアに戦って欲しい。そうして、全てを終わらせて欲しい』

 

 声が聞こえる。だれの声? 

 

『苦しいんでしょ? エクソシストとしてボクと戦うことが、死ぬほど、死んでしまうほど嫌なんだ。でも仲間を、みんなを守りたい。そのために敵は殺さなきゃならない』

 

 うん。

 

『苦しみから解放されたい? この悪夢から逃れたい?』

 

 うん。

 

『じゃあボクを受け入れるだけでいい。そうすれば、マリアはラクになれるよ』

 

 死ねばいい、おまえなんて。

 

『ふふ、だぁいすきだよぉ、マリア』

 

 

 

 何度も何度も何度も、子供が癇癪を起こして物に当たるように、何度も刺される。

 微笑んで、アイツが私を刺す。

 

 

 もう、耐えられない。

 

 

 

 もう────(マリア)はダメだ。

 

 

 

 

 

「たすけて、かみさま」

 

 

 

 

 

 瞬間、強制的に暗闇の世界は途切れ、アイツは闇と交わるように消えた。

 眩い光に包まれて、私の意識は遠のいていった。

 

 

 

 

 

 *****

 

 崩れゆく方舟。

 

 その崩壊はティキ・ミックとクロスの戦闘でさらに加速した。

 勝者は元帥だった。

 

 しかし床が崩落し、ラビとチャオジーはアレンの伸ばした手も届かず、闇の中に消えていった。

 

「ラビッ…チャオジー!!」

 

 床に額をつけ、喉奥から発せられる少年の絶望の声。

 

 マリティムの側にいたリナリーは、ティムの尻尾に絡みとられて無事だった。

 

 落下していくラビたちを見ていた少女の体は小さく震えている。ティムはまるで慰めるように、尻尾の先でポンポンとその頭を叩いた。

 

「てぃ、む……」

 

 それでも少女の涙は止まりそうにない。

 

 

 そんな時、悪魔の声が響いた。

 

 

「ンフフ♡」

 

 

 アレンは目をかっ開き、声の方を見つめる。

 

 そこには生死不明の男を軽々と抱える、ウサギの耳が特徴な────千年伯爵の姿があった。

 その前にはクロスが相対している。

 

 しかし今のアレンに映るのは伯爵の姿だけ。激しい怒りが少年の内を支配する。

 

「伯、爵ゥ────!!!」

 

 大剣を握りしめ、激昂したアレンは高く跳躍した。

 無理に動いた反動で傷口からは大量の血が吹き出す。

 

「よくも…! よくも僕の仲間をッ!!」

 

「ホッホッホ!」

 

 伯爵もまた剣で応酬する。

 

 ぶつかり合うのは形が酷似する二つの武器。

 アレンの神ノ道化(クラウン・クラウン)と、伯爵の大剣。

 

「我輩の剣…!?」

 

 少年の武器を見た瞬間驚愕に染まった瞳はしかして、すぐに弧を描く。

 

 憎悪に囚われた銀褐色の目。

 それが愉快で、笑いながら伯爵は押しきり、アレンの体を吹き飛ばした。

 

「ッ……! 待て、伯爵!!」

 

「待ちませんヨ♡」

 

 千年公は崩落する瓦礫を身軽な身のこなしで跳ね、どんどん降下する。

 

 アレンは追いかけようとしたが、床に縫いとめられたように動けない。聖母ノ棺(グレイブ・オブ・マリア)により体の自由を奪われたのである。

 

「師匠ぉ!!」

 

 なぜなぜなぜッ! なぜ止めるのか────!! 

 

 咎めるどころかその憎悪をぶつけかねない少年はそこで、息を飲む。クロスの赤い瞳は凍てつく氷のようで、アレンの心臓が縮み上がった。

 

「憎しみで伯爵と戦うな、バカ弟子」

 

「っ…」

 

 ガラガラと崩落の音ばかりが、あたりに響き渡る。うさぎ耳の男の姿はすでに遠くへと行ってしまった。

 

 

 “Ave, Maris stella Déi mater alma────”

 

 

「…!? 何だコレ……歌?」

 

 その時アレンの耳に、この場にはいささか相応しくない音が入った。

 

 不思議な声だ。高く透明で澄んでいる印象を受けるが、その歌う主の性別がイメージできない。男のような気もするし、女のような気もする。あるいは子供のようにも、老人のようにも思える。

 

 英語ではないらしく、歌の意味は分からなかった。

 

 

(あぁ、確かこの曲は……マナと旅をしていた時に一度、聞いたことがある…)

 

 義父の男と立ち寄った教会で、アレンとそう歳の変わらぬ子供たちがシスターの指揮に合わせ、歌っていた。

 

 義父の男はその歌を目を細めて聴き入っていて、少年にはそれが不思議に思えたのだ。何せマナという男は、過去の記憶がなかったから。

 

 ある日目覚めたら、突然青年から中年へと変わっていたらしい。

 

 そんな不思議な男とサーカスの雑用をしていた“名無し”の少年が出会って、そして────いくつかの悲劇の末に、“名無し”の少年は自分を「アレン」と名乗り、男と旅を始めた。

 

 少年が壊してしまった、その男とともに。

 

(……マナ)

 

 一瞬過去の辛い記憶がよぎったアレンは顔を歪めた。

 

 その苦痛も奇妙なことに、歌を聞いているうちに和らぎ、穏やかな気持ちになっていく。

 さながらぬるま湯に浸かって、体が疲労から解放されていく感覚と似ている。

 

 ほぉ、と息を吐いた少年はそこで気づく。体が──動くようになっている。

 

「師匠が聖母ノ棺(グレイブ・オブ・マリア)の力を解いたのか…?」

 

 当の男はこれでもかというほど眉間に皺を寄せている。

 

 首を傾げたアレンはついで、リナリーの方を見た。少女は真っ青な顔でマリティムを見つめている。

 

 歌は、その巨大なティムの中から聞こえている。

 

「マリアさんのティムにはそんな機能が? しかも……何か、光り輝き始めたぞ…!?」

 

 発光機能は夜に便利そうだなぁ…と、ズレたことを借金少年が思っている中。マリティムが口を不自然に動かした。

 若干その顔は気持ち悪そうで、グルルゥと、うなり声が聞こえる。

 

 

 もごもご──────ぺっ!! 

 

 

 そうして吐き出されたのは、マリア……の、はずだった。

 

 

「赤黒い……にん、げん?」

 

 

 先ほどまで感じなかったイノセンスの気配が、赤黒い人間が出現した瞬間に現れた。

 そこから比較的距離のある少年の肌がピリついて、その気配の濃さに思わず口元を押さえる。

 

(これは……執着? あれはマリアさんのイノセンスのはずだ。何だこれ、何だこれ……っ、気持ち悪い…!!)

 

 床に落ちたマリア──と思しき物体は、赤子のように地面を這う。

 

 そいつには目も鼻もない。ただ、人間の形をしているだけである。

 

 赤黒い色は血のようで、風が水面を撫でる時のように全体がうぞうぞと蠢く。

 時折置き去りにされる血液の一部も、すぐに本体にひっついて形を成していた。

 

 

 “Solve vincla reis

 Profer lumen caecis────、

 

 

(あぁそうか、わかった。これは…この感情の出どころは、嫌悪だ)

 

 AKUMAの魂を見た時でもこうはならない。

 イノセンスだというのに、ここまで拒絶感を少年に抱かせる。

 

「まるでマリアさんが死んでも、絶対に離さないと言ってるようじゃないか……!」

 

 おそらくマリア本人に意識はない。イノセンスが適合者を動かしている。

 

 赤黒いそいつが向かっている先は伯爵がいる場所だ。

 這う這うだったその体はいつの間にか立ち上がり、ふらつきながら歩いている。

 

 考えられるのは、スーマン・ダークのような咎落ちか。はたまた。

 

 

(マリアさんが生きていたとして、あの状態で発動できるわけがない。けれどスーマンのように、彼女がイノセンスを裏切ったわけじゃない。だったら考えられる可能性は────、

 

 ────イノセンス自身の、暴走)

 

 

 例に挙げるなら、ミランダとそのイノセンスの件である。

 

 ミランダの無意識に祈った「明日が来なければ」という意思に従い、イノセンスはある一定の日を繰り返していた。

 

 エクソシストが強く想うほど、イノセンスも適合者に応え強くなる。

 

「守りたい」と、そういつも語っていたマリア。その心にイノセンスが反応したと考えるのが自然だ。

 

 しかし様子から見るに、とてもではないがマリアに意識があるとは思えない。

 

 

(このままだと本当に彼女が危ない。下手をすればスーマンのように…)

 

 アレンは彼女の元へ向かおうとした瞬間、視界から赤い物体が消えた。

 

「えっ」

 

 いや、消えたのではない。

 目が良いアレンにさえ視認できないほどの速さで移動したのだ。

 

「師匠!! イノセンスでマリアさんの動きを止めてください!!」

 

「………」

 

 苦虫でも噛み潰したように、クロスはアレンを睨みつける。

 先ほどの群雄割拠な勢いは……否、傍若無人な勢いはどこへ行ったというのか。

 

「このバカ師! 何で聖母ノ棺(マリア)を使わないんですかッ!?」

 

「お前が行け」

 

「ハァ!?」

 

「だからお前が行けと言っとるだろうが!」

 

「何で…………あ」

 

 そしてようやく、アレンは胸につっかえていた違和感の正体に気づく。

 

 なぜクロスが聖母ノ棺(グレイブ・オブ・マリア)を使わないのか。

 そしてなぜ、その力によって拘束されていた少年の肢体が動いたのか。

 

 彼が動けるようになったのは、()()()()()()()()だ。

 

 

使()()()()んじゃない! あの声のせいで、使()()()()んだ!!)

 

 

 アレンの身体が動けるようになったのは、クロスが聖母ノ棺(グレイブ・オブ・マリア)を解いたからではない。

 赤い物体が発する歌によって、発動を阻害されていたのだ。

 

 クロスは装備型。

 ここで動けるのは、寄生型で規格外の身体能力を持ったアレンのみ。

 

(……! この感覚は…イノセンスとの共鳴(シンクロ)率が下がっている…?)

 

 そこではたと彼は考える。彼が感じたあの赤黒い物体への嫌悪感に近いものを、自分のイノセンスも感じているのではないか──と。

 

 もしそうなら、マリアのイノセンスは相当厄介なものに違いない。

 

 

「…っ、間に合え…!」

 

 アレンはイノセンスをまとい、最大限の力で地面を蹴やった。

 

 

 

 

 

 一方で伯爵は、華麗なステップで下の扉に向かう。

 そこに光の速さで飛んできたのは、今か今かと主人の伯爵を待っていたレロだ。

 

「伯爵タマァァァァ!!! やっと来てくれたレロォォォ!!!」

 

「さァ、早く新しいお家に帰りまショウ♡」

 

 扉に手をかけた伯爵の耳が、ぴょこん、と動く。

 歌が聞こえる。それも、聖母を讃える歌が。

 

 その歌はかつて、愚かな少女がAKUMAとなった女に鎮魂歌として弾いていた曲である。

 

 賛歌を鎮魂歌として弾くなどなんと滑稽なのだろうかと、当時の伯爵は思った。

 

 

 確か神を嫌っていた子供はイノセンスを壊されながらも生き残り、ファインダーとなったはずだ。

 

 せっせと編み物に励んでいた千年公の隣で、時折であるが、ロードが楽しそうに口にしていたのを覚えている。

 

 ロードの話を伯爵自身も微笑ましく聞いていた。

 件の少女は今、どうなっているのだろう。

 

 最近はロードが小難しい顔をすることが増え、めっきりと話題に上がらなくなった。だからどこかでのたれ死んだのかもしれない。

 

 もしそうなら少し、寂しい気もする。

 

 

 ────なぜただの人間に心を揺さぶられるのか、伯爵は気付いていない。

 

 気付いていて、気付かないフリをしている。

 或いは伯爵の無意識が起因しているのかもしれない。

 

 

 

 賛歌と共に急接近する物体に、伯爵は愉しそうに笑う。

 レロは悲鳴を上げながら、巨体の後ろに隠れた。

 

「ば、バケモノレロォォ!!」

 

「最後にとんだ悪魔ガ出ましたネェ♡」

 

 伯爵は大剣を取り出し、目前にまで迫ったところを両断する。

 だが血液のようなものはその刀身が当たる寸前に割れ、中から黄金の剣が飛び出る。

 

 その剣は、かつて伯爵が破壊したはずのイノセンスだ。

 高い音を立てて行われる鍔迫り合いは長くは続かず、黄金の剣が宙を舞う。

 

 

「お久しぶりですネェ、お嬢サン♡」

 

 

 分裂した赤い液体から、血まみれの人間の顔がのぞいた。

 

 髪も顔も、シャツもコートも、破けた服の下の肌も。至るところが赤い。精気はなく、きれいな闇色だったはずの瞳が、紅く淀んだ色を宿していた。そこからつうと、血の涙がこぼれる。

 

「嬉しそうデスネェ♡」

 

「………」

 

 マリアは、微笑んでいる。

 

 

 液体から成るイノセンスは、のろまな動きで女の肢体を飲み込む。まるで何かを隠すように。

 しかしそのおぞましいまでの執着の下にある本当にわずかな気配に、伯爵は気づいた。

 

 神ノ剣(グングニル)はひとりでに動く。液体によって作り上げられた赤い右手が、大剣を握りしめた。

 

 そんなイノセンスの行動を無駄な悪あがきとしかとらえぬ伯爵は、微笑み返して、マリアに手を伸ばす。

 

 

「ンフフ! そういうことだったんですネェ…フフフフ♡」

 

 

 かつて舞踏会の帰り、気まぐれに花売りの子供から買った赤いカーネーション。

 

 馬車を使って屋敷へ帰らなかったのも、少し風に当たりたかったからに過ぎない。

 流れゆくのどかな人間をぼんやりと視界に入れて、足の赴くままに歩いた。

 

 すべてが偶然でしかなかった。

 

 

 けれども偶然で片づけるには、黒い瞳の少女との出会いは、余りにもドラマチックだろう。

 

 例えるならば、そう。

 

 

「出会うべくして出会った、運命(ディスティニー)というワケですカ♡」

 

 

 なぜ少女に感情を揺れ動かされるのか、伯爵は理解した。

 

 なぜノアの中でもダントツで人間を嫌うロードが、マリアに執着していたのか。

 恐らくは彼女と相対したノア(子供たち)のほぼ全てが、何かを感じたに違いない。

 

 

「神に愛されながら、神を嫌うAgnus Dei(神の子羊)。運命を呪う貴女に、我輩ハ救いの手を差し伸べまショウ♡愚かにも我輩に盾突きながら、主人を守り通せぬ神の道具など、いくらでも壊しテさしあげマス♡」

 

 

 さぁ、おいでなさイ。

 そう言い、伯爵は手を差し伸べる。

 

 女の瞳には相変わらず精気が戻らない。

 しかし左手がゆっくりと動く。

 

 赤黒い液体は激しく脈打ち、大音量の賛歌が鳴り響く。

 

 

「マリアさん!!!」

 

 

 血にまみれた手と、白い革手袋に覆われた手が触れ合おうとした時、アレンの道化の帯(クラウンベルト)がマリアの左手を絡め取り、頭上に引っ張った。

 

 女の後方から接近した少年が見たのは、まるで伯爵が仲間を手に掛けようとしているような光景だった。

 

「ぬっ……うぅぅ!」

 

 生白い腕を掴んだアレンは、液体に手を突っ込み、女の胴体を引きずり出す。

 

 その全身が液体から出た瞬間、ぱしゃんと崩れたそれは、マリアの傷口から体内へ戻っていった。

 同時に聞こえていた歌も、嘘のように消えた。

 

「伯爵、僕は絶対に、お前を許さないッ…!」

 

「ホッホッホ!」

 

 伯爵は地面を蹴り、そのまるまるボディーからは信じられないスピードでアレンと距離を詰める。

 

「は、はっ、伯爵タマ〜〜!! 急いでほしいレロォ──!!」

 

 扉の前で捨てれているティキの隣にいる傘が、冷や汗をかきながら叫ぶ。

 

 

「……!!」

 

 伯爵の視界に映っていたはずの二人の姿が、消えた。直後、数発の銃声が響く。

 

 空を切るのは、獲物を仕留めるまで追い続ける弾丸の雨である。

 

 伯爵は剣でいなしながら後退するが、弾いても弾丸はまた空中を飛んで向かってくる。

 

「ホホッ…!?」

 

 その巨体が、ふいに浮遊感に包まれた。伯爵の眼前に、用意していた扉が映る。すぐに出られるよう開けっぱなしにしておいたのが仇となった。伯爵の体がそのまま中の暗闇に飲み込まれていく。

 

「伯爵タマァ〜〜!!」

 

 レロが慌てて持ち手(ハンドル)の部分をティキの服にひっかけ、閉じ行く扉の中に滑り込む。

 

 誘導されていたのだ、と気づいた時にはすでに遅し。

 

 伯爵のはるか頭上で見えたのは、クロスのいやーな笑みであった。

 

 

「失せろ、デブ」

 

 

 扉が閉まる直前、千年公から身の毛もよだつ殺気が漏れ出た。

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