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あたり一面の黄金色。風がゴォッと吹き抜けると、まるでおしゃべりでもしているように麦畑が揺れる。
その中に、一人の女が立っていた。メイドの格好をしたその人物は、ぼんやりと地平線にのぞく紅い夕陽を見つめている。
「私…誰だっけ?」
女は自分が何者なのかわからず、ただ呆然とそこにいる。
しかし背後でガサガサと何かが近づく音がしたので、そちらに視線を移した。
『…いた! おい探したぞ、
黒曜石のようなくりくりとした瞳が、彼女をいっぱいにとらえている。跳ねた髪が特徴な少年は女の腕を引いて歩き出した。
彼女の腰ほどしか背丈のない少年は、簡単に小麦の中に埋もれてしまう。
『カテリーナもお前のことすげぇ心配してたんだからな!』
「カテリーナ?」
『………お前、自分を雇ってくれた主人も忘れたのか?』
「カテリーナって、誰?」
何がおかしいのか。笑ったままの女に、少年は舌打ちをこぼして叫ぶ。
『カテリーナはお前の主人! そんで、おれはカテリーナの子供!! わかったか!?』
「ふふふ、わかんない」
そう。本当に彼女は分からない。
ここがどこなのか、なぜこの少年がいきなり現れたのかも。
そもそも彼女は、自分自身の名前さえ分からない。
「ねぇ、少年」
『少年言うな、ババア』
「クソガキ」
『何でそこ悪化するんだよ!!?』
女性を「ババア」呼ばわりする子供なんぞ、「クソガキ」で十分である。女の微笑みの下の怒りを察した少年は苦い顔をして謝った。
「でさ。私の名前、何て言うんだっけ?」
『……お前、とうとうそこまでボケたのか…』
何か物言いたげに少年は視線をさまよわせて、つかむ手に力を込める。
夕陽を受けて逆光のように黒く染まる女は、そのままどこかへ消えてしまいそうだった。
『「マリア」────お前は、マリアだ。うちに迷い込んで来たお前を、やさしい母さんが雇ってくれたんだよ』
「……あぁ。そうだ、マリアだ」
カテリーナ様に拾っていただいたのだ──と、彼女はようやく思い出した。
どうして忘れていたのだろう。屋敷で働き始めてから、もう何年も経つのに。
「カテリーナ様は今どちらに? ……あ! いけない私ったら、洗濯を頼まれていたのに!!」
『っ、ちょ、急に走るなよッ!』
先ほどとは逆で、今度はマリアが少年の手を引き、麦畑の中を駆ける。
そこでふと彼女は首を傾げた。少年の手を握る、自分の右手。
「私に右手ってあったかしら?」
『あるだろ、よく見ろよ』
「……あれ? あなた………ティキ・ミック?」
『誰だそれ? オレは────』
刹那、二人の合間を縫うように一陣の風が吹く。女の長い髪をさらって、緩く結っていた紙紐が解ける。
生き物のようにうごめく髪が目元に当たった彼女は、とっさに目を閉じた。
そして開けると、なぜか口をまぬけに開けた少年が彼女を見つめている。
「どうしたの?」
『あ、う、いや……べっ、別にキレイだなんて……』
「確かに、この黄金の世界は綺麗ね」
夕陽に彩られる黄金。
きっとこの世界をはじめて見た誰もが、息を飲んで感嘆するだろう。
それほどまでに美しくて、そしてここが世界の片隅のような、そんな寂しい空気がある。
『それもそうだけど、………オレはお前のことを言っ』
「あっ、カテリーナ様だ!」
遠くにある屋敷の玄関に佇む女性。その隣には少年の双子の兄もいる。それぞれ行方知れずのメイドと、その女を探しに行った弟がなかなか帰って来ないため、心配しているようだ。
メイドの女は隣の少年のことを忘れ、「ガザガザガザッ!!」と、野生の獣の方がもう少しお淑やかな勢いで突っ走る。
「カテリーナ様ァ!! この不肖メイドがご迷惑をおかけしましたァァァ!!!」
草まみれになった女はカテリーナに抱きつくと、長身なのを考慮せず、主人の顔を胸で圧迫する。
双子の兄の方は側でおろおろとしていた。
『ふふっ…マリアは子供みたいね』
「えっ、カテリーナ様は私を産んだのですか?」
『……え! そうだったの、母さん!?』
『違うわよ、二人とも…。産んではないけど、大きな娘を持った気分、ってこと』
そんなやり取りが繰り広げられている間に、少年がようやく麦畑から脱した。
とんちんかんなことを言う兄とメイドに、呆れた視線を寄越している。
双子の弟に気づいたカテリーナは微笑む。
『マリアを探してくれてありがとね、────』
メイドはその少年の名前を耳にした途端に固まった。
『どうしたんだ、マリア』
紅い、血が凝固したような瞳が、不思議そうな少年をとらえる。
少年にはその瞳から紅い液体が流れ落ちたように見えたが、それはただ夕陽に色づけされた透明な涙だった。
「おかえり、────」
*****
彼女はオセアニア支部長であるアンドリュー・ナンセンを殺害後、教団本部に潜り込んだ。
目的は「卵」の奪還。また、クロスによって減少したスカルの増員である。
そして伯爵が怒り狂う原因となっている『
初めは本当なのか不思議に思っていたルル=ベルも、実際に見て納得した。
(あぁ…「感じる」。私のノアのメモリーが、確かにそうだと告げている)
彼女がノアだと分かりながらも、マリアは攻撃しなかった。
卵の気に当てられた女は、ルル=ベルの腕の中で眠っている。
ルル=ベルはマリアの髪に触れ、梳くように撫でた。途中で引っかかることもなく、さらさらと落ちる。
「あぁ──!! ちょっと何勝手に入ってるんですか、バク支部長!」
ルル=ベルの前を素通りし、バクに詰め寄ったのは渦を巻くメガネが特徴的な科学班のジョニー・ギル。
立ち入り禁止の文字を読まなかったのかと、青年は半泣きだ。
「もぉぉ! リーバー班長に怒られるの俺たちなんスよ!?」
「ハッハッハ! なに、優秀なこの僕が手伝ってやろうというのだぞ? 逆に喜ばないか!」
アジア支部長はオレ様何様バク様だった。ジョニーの胃がどんどん痛くなる。
レニーもバクを止めるどころか、減るもんじゃないんだから、とさらに中へ押し入ろうとする。
「うぅ…誰かこの二人を止めてくれそうな人は……あっ!」
ジョニーが目をつけたのは、常識がありそうなナンセンだ。
同じ支部長の立場なら、この聞かん坊二人をどうにかしてくれるかもしれない。
「あのっ、ナンセン支部長! バク支部長とレニー支部長を外に出してもらえません…………あっ、え゛?」
ブツッと、何か貫ぬくような音が辺りに響いた。同時に、血の匂いが漂う。
レニーやバクの視線が、ジョニーの腹部に集まった。
「な゛っ……?」
ジョニーはゆっくりと視線を下げて、驚愕する。彼の腹は鋭い触手のようなものに貫かれていた。
触手はアンドリュー・ナンセンの腕につながっている。
かつかつと、床を鳴らす高い音が響く。
倒れたジョニーを見ることもせず、ルル=ベルは本当の姿を現す。
バクやレニーはあまりに突然のことで動けない。
その間、ルル=ベルの後ろに、黒い巨大な扉が出現した。
そこから這い出て来たのは、その扉を埋め尽くすほどのおびただしい数のレベル3。
人間たちに対し、ルル=ベルは
「さぁ────はじめましょう」
人間たちの悪夢が、始まった。
*****
教団に敵襲の警報が鳴り響く。
いち早くAKUMAの気配を察知したアレン・ウォーカーは、卵がある研究室に向かっていた。
方舟を使い侵入すれば、そこには負傷し床に並べられた研究員たちと、その側で立っている数人のスカルがいる。
また無数のAKUMAもおり、卵の近くでは、褐色の肌に額に浮かぶ十字痕の──、ノアらしき女がいた。
その腕の中には見知った顔がある。
「マリアさん…!!」
マリアは
一刻も早く助けなければならない。しかし、味方の戦力が圧倒的に足りない。
おまけに次から次へとAKUMAが襲いかかる。
さしものアレンでも状況は劣勢だった。
「……っ、まずい…!」
敵の攻撃に当たりかけた少年は、針の攻撃によって事なきを得る。ブックマンが助力に入ったのだ。
「
「ありがとうございます…!」
アレンはAKUMAを破壊しながら、
卵の転送準備をしていたルル=ベルは、アレンを視界に入れると忌々しげに顔を歪めた。
「アレン・ウォーカー……!!」
マリアを卵の上に横たわらせた彼女は、アレンに肉迫する。
同時にAKUMAの攻撃も彼に襲いかかり、その隙をルル=ベルがねらう。逆に彼女の攻撃で隙ができれば、AKUMAがねらう。この悪循環だ。
「クソッ! 悪魔の数が多過ぎる…ッ!!」
アレンがAKUMAに肢体を拘束されたその時、鞭状に変化したルル=ベルの腕が振るわれる。
頬に衝撃が走る。その衝撃音は凄まじく、遠方に隠れていたバクたちにも伝わるほどだった。
「まずい、ウォーカーが気絶した! このままでは……」
「待ちなさいバクッ! 今私たちが出ても意味がないわ!!」
「レニー、だがっ…!!」
「……元帥や他のエクソシストが来るのを待つのが懸命よ」
「その前に敵が卵やハートの可能性のあるマリア、それに方舟の奏者であるアレンを連れて行ってしまう! 俺たちが少しでも時間を稼がなければならないだろう!!」
「けどっ…! だったらどうしろっていうのよ!? たとえ出て行ったとしても…」
「あっ、あの…」
奇跡的にも致命傷を免れ、二人の応急処置で助かったジョニー・ギル。
彼は友人でもあるアレンのため、一つの策を語る。
「即席で
「……!! そうか、その手があったか! なら今すぐ…」
「待ちなさい! 作ったとしても、出た後はどうするのよ! レベル3クラスじゃ、いくら私たちの腕でもどうにかなるとは…」
「作る意味は、あります」
ジョニーがアレンの名を呼ぶと言う。そうすれば必ず、彼は応えてくれると。
「どうして…そこまで言い切れるのよ」
レニーの疑問に、ジョニーは笑って返した
「アレンは、俺たちの仲間だから!!」
一瞬呆然としたレニーは、頭を押さえる。科学班のはずなのに、非科学的なことを言っている自覚があるのだろうか。この、ジョニー・ギルという青年は。
「でも、嫌いじゃないわ。ノってあげるわよ、私も」
そして短時間の制作でありながら、強力な効果を持った
ジョニーはありったけの声量で叫ぶ。
「アレェェェェン!! お願い、目を覚まして!!」
「……ッ」
伏していた少年の指が動く。銀褐色の瞳が、血まみれの中でのぞいた。
刹那、イノセンスが発動する。
拘束するAKUMAを破壊し、大剣を握りしめたアレン・ウォーカーはルル=ベルに斬りかかる。
「ぐっ…!!」
とっさに腕を硬化させたルル=ベルは、そのまま吹き飛ばされた。
「卵も────大切な仲間も、お前たちには絶対に渡さない」
「ッハ……もう遅い! 貴様を伯爵様の手向けにはできなかったが… 卵はすでに方舟の中だ!」
「……っ! マリアさん!!」
卵に接近したアレンは、それを囲うように支えるオブジェの先端をつかむ。というより、その先端しかもう残っていない。
そのままアレンまで引きずられかけた時、ミランダ・ロットーの能力が発動した。
「
すると卵が逆再生したかのように動き、ズズ…と、浮上する。
アレンは見えた白い腕をつかみ、一気に引き上げた。
「マリアさん!!」
だが女の意識はない。ひどく安らかな顔で眠っている。
その直後だ。アレンの頭上に方舟の別ゲートを使って、四人の元帥が到着した。
一転して窮地に追い詰められたルル=ベルは、血が滲むほど唇を噛みしめる。
「私たちの家族、お前たちに奪いはさせないッ────!!」
*****
アレンは一旦抱えるマリアを安全圏に運ぼうと考えた。
場所はティエドールのイノセンスによって作られた、絶対防御の内側である。
そこには負傷して科学班が並べられている。彼らの中でかなりの数が選別され、術によりスカルへと変えられてしまった。
アレンはマリアを下ろし、戦いに戻ろうとする。そこで、服を引っ張られた。
「……マリアさん?」
意識が戻ったのか、彼女の目が薄っすらと開いている。
敵の能力によるものかは分からないが、様子が少しおかしい。
黒い瞳が今は血のように真っ赤で、少年は思わず息を呑む。ふらふらと彷徨うその瞳が、彼に合わさった。
「あなた、だれ?」
舌ったらずな声だ。アレンの心臓の音がやけに早い。脈打つ血液の感覚が頭にも伝わって、無性に喉の渇きにさらされる。
やはり何かの能力で、意識が混濁しているのだろう。
でも、なぜ瞳が紅くなっているのだろう?
寄生型ゆえ、イノセンスに影響して肉体が変化しているのだろうか?
「僕はアレンです。アレン・ウォーカー」
「あれん……。わたしは…?」
「あなたはマリア。僕と同じ、エクソシストのマリアです」
「まりあ。えくそし………す……ッ!!」
その瞬間、どこか幼げに見えた表情が、「マリア」の顔を取り戻す。
「大丈夫ですか、マリアさん?」
「…う、うん。だ、大丈夫……」
震える女の手を、アレンは強く握る。仲間が少しでも安心できるようにと、笑って見せる。
「今、伯爵側の強襲に遭っています。師匠や他の元帥が戦闘に入っているので、マリアさんはここにいてください。恐らくここが一番安全なので…」
「そう……なの? でも私も戦わなきゃ…」
「ダメです! さっきまでノアに攫われそうになってたんですよ!!」
「マリアは、守らなきゃ」
アヴェ・マリアは戦って、守り、地獄の中で苦しみを味わい、そうして聖戦を歩まなければならない。
だからマリアは、立ち上がらなければならない。
今、この時も────、
「僕にッ、守らせてください!!」
アレンはマリアの肩をつかんで、そう言った。少年の顔は今にも泣きそうだ。
「いつもマリアさんは僕らを助けようとしてくれるじゃないですか…。でも、僕らにだってあなたのことを守らせてください」
「……私はそんなに、弱いかな?」
「違います! あなたは強くて、優しくて、時折師匠みたいな一面を見せますけど………それ含めた全部があなたらしさなのだと、僕は知っています」
「アレンくん…」
「それに、弱いのは僕の方です。何か守るものがなければ、簡単に折れてしまいそうですから…」
「………」
「だから……僕が強くあるために、僕の「守る人」になってくれませんか?」
真っ直ぐに見つめられたマリアは困ったように眉を下げ、小さく頷く。
ここまで格好よく言われてしまえば、「NO」とは言えないだろう。幻聴のように聞こえるミイラの言葉は無視した。
「でもなんか、プロポーズみたいな台詞だね」
「………えっ!!?」
「あぁいや、君が好きなのはリ」
「じゃあ行ってきます!!!!」
マリアが言い切る前に、アレンは血の上にさらに赤くした顔で戦場に戻っていった。