本部の移転が正式に決まった。そのためどの部署も整頓作業に追われている。エクソシストも例外ではなく、片づけ作業を行っていた。その中の一部は荷物運びとして駆り出されている。
マリアも自室の片づけを行っているのだが、本棚、あるいはダンボール箱にぎっしりと詰まっているその量はなかなかにある。
ケガのせいで本調子でない彼女の代わりに、荷物運びはテワクが行った。
「宗教本の隣に料理本を置いている貴女の気が知れません」
「私もダンボールを大量に積んでも、平気で運ぶテワクちゃんが凄すぎてビビってるよ」
しかも中身はみっちり詰まった本だ。
そしてテワクの活躍もあり、片づけはスムーズに終わった。
あとの残りを監査官が運びに行った間、「部屋で待っていてください」の言葉を無視し、マリアは外をうろついた。
そこで偶然ミランダと出会す。歳の近い二人はあまり会話したことがない。
「持ちますよ、ミランダ」
「あ、マリアさん…。だ、大丈夫です! このくらい自分で……!!」
しかして荷物は持ち上がれども、その足取りはひどくおっかない。苦笑したマリアが片手で器用に持ち、運ぶのを手伝う。ミランダは申し訳なさそうに恐縮した。
「本当にごめんなさいね……」
「いえいえ。誰にでも得意・不得意がありますから。それに私にできないことがミランダにできるなら、遠慮なく頼みますし」
「私に……できること?」
「あぁー、たとえば私は裁縫ができません。ミランダは裁縫できます?」
「え、えぇ。裁縫ならそれなりに……」
「ははぁ、すぐに見つかっちゃいましたね。じゃあ今度ボタンが取れたり靴下に穴が空いたら、ミランダにお願いしちゃいますね!」
「……! ま、任せてちょうだい!」
どこか暗かったミランダの表情も、目的地につく頃には幾分かマシになっていた。
ところで、とマリアは思う。この荷物はどこから持って来たのか。ミランダの物にしては、珍妙なものが多い。
「あぁ、それは科学班から……」
と、ミランダが言ったのと、ダンボール箱に不安定に入れられた瓶の一つが落ちたのは同時だった。
ガシャンと、大きな音が鳴る。
もくもくとした白煙が晴れていくと、そこには床に倒れている女の姿があった。
「マ、マリアさん!?」
マリアはぐっすりと眠っている。割れた瓶のカケラには、いかにも怪しげなドクロのマークがあった。
こうして迷惑千万なコムイ・リーの被害者が新たに生まれた。
*****
「ハァ〜〜……」
テワクはクソでかいため息を吐く。
何せ戻った時、部屋に監視対象がおらず、探したところぐっすり寝ていたのである。
「いえ、彼女が言うことを聞くと思っていた私が迂闊だったのですわ…。どうしましょう、またリンク兄さまに叱られたら……」
気落ちした彼女は、おぶったマリアを連れて元凶であろう科学班に向かった。
すでに中には科学班──ではなく、コムイの被害者が複数いた。科学班班長であるリーバーは事情を知ると、またか、とぼやいた。
「あの
「それなら割れてしまいましたが、一応あります」
「本当に悪いな。……あぁ、これか」
マリアが摂取したのは、元は仕事の逃走用にコムイが作ったものらしい。球体の中に液体を入れて、それを投げる。すると割れた後に中身が即座に気化して、対象者を眠らせる──というもの。
しかしてこれを食らった人間は長くて数日間も起きず、科学班の2分の3が被害に遭い、仕事が回らなくなったことで残ったメンバーが協力し、巻き毛の男を捕まえた。その時の特級呪物がこれというわけだ。
「絶対に長官に報告させていただきますわ」
「ぜひそうしてくれ…」
科学班の面々は元班長のコムイを慕ってはいるが、同時に数多の被害に遭ってきたので、親の仇より憎んでいる節がある。
死んだ目のリーバーに、テワクは少しだけ同情した。
しかしてこれはまだ、巻き毛男による被害の序章でしかなかった。
その後、「コムビタンD」なるウイルスに感染した人間が現れ、急速に広まった。感染方法はゾンビと同様、感染者に噛みつかれたらジ・エンド。
現在不在のクロスのぞいた三名の元帥がこれに感染した時点で、詰みゲーだった。
「絶対に絶対に絶対に許しませんわ!! コムイ・リー!!! ………室長ッ!!!」
テワクはしかし、マリアを抱えながらも無数のゾンビどもから逃げ続けた。お堅いキャラも完全に捨てた。身体面においてはリンクより秀でている。
「「マリア」を必ず守りなさい」というルベリエからの命令もあったため、文字どおり死ぬ気で頑張った。彼女は札で簡易的な結界を作り、気配を探れぬようにすることもできる。
これに巨体化したティムの助力も加わり、二人は引っ越しの手伝いに来たバク支部長の助け舟が来るまで、どうにか生き延びることができた。マリアはずっと寝ていたが。
一方巻き込まれ、ワクチンを作るハメになったバク・チャンは叫んだ。
「二度と手伝いになんぞ来てやらんからなぁぁぁ!! コムイぃぃぃ!!!」
魂の慟哭である。
⚫︎⚫︎⚫︎
「
その日は、雨だった。
名前の分からなくなった主人の墓に、飽きもせずメイドの女は毎日訪れる。
雨は容赦なく傘すら持たない女の体を濡らす。そこに影が差した。
「マリア」
黒い傘を傾け、彼女を覗き込むのは双子の弟。
少年はまだあどけなさを少し残すが、もう青年に近い。
成長した体は腕を回せば華奢な女の体を容易く包みこめる。それでも身長だけはまだ抜かせていない。
「ほら、帰るぞ」
「どこに?」
「…いいから、帰ろう。お願いだ。風邪引いちまう」
無理やりに手を引き、少年は歩いて行く。
途中でマリアは疲れたのかうずくまってしまったので、彼が仕方なく背負った。雨に長時間当たったにも関わらず、その体は熱い。こりゃあ風邪を引くな、と病弱な兄の経験則から思った。
「ねぇ、あなたマナ様に似てるけれど、もしかして私の主人の旦那様?」
「…もう、カテリーナの名前も覚えてないのかよ」
「カテリーナ?」
以前だったら、名前を出せばマリアはすぐに思い出した。しかしもう「カテリーナ」の名前にすら反応しない。
唯一覚えているのは少年の名前と、彼の兄であるマナくらいだ。
「オレは…いや、いい。どうせ言ったって、お前はすぐに忘れちまうだろ」
「?」
いずれは、カテリーナの息子の名前はおろか、マリア自身の名前まで忘れてしまうのだろうか。
そう考える度に、少年は恐ろしくなる。
「マリアは何もかも忘れちまうのかな? 記憶のないあんたにとっては、その方が幸せなのかもしれない。けど、オレやマナにとっては苦痛なんだよ」
人魚姫は泡となって消えたという。
メイドの女もそうなってしまうのではないかと、少年の頭に一抹の不安がよぎる。
「
「…!」
久しく見なかった「ナニカ」が、振り向いた少年の顔をのぞき込む。真っ赤な目が二つ、薄暗い世界で彩度をもって輝く。
白い腕が、少年の首に絡む。一瞬ドキリとして顔を赤らめた少年は、次の瞬間には絞まる苦しみに喘ぐことになる。息が、息ができない。
「ねぇ、
人間の理性を誑かしてドロドロに溶かすような蠱惑的な声が、少年の耳に入り込む。目尻に涙が浮かんだ。まるで、蛇に体を絡み取られて捕食されているようだ。
「おねが、ぃって、なん…」
赤い唇がゆっくりと弧を描く。その動きが鮮明に少年の瞳に刻まれる。
二人の周囲では風が吹き荒れ、地面に生えた雑草を激しく躍らせていた。
それからまた、時が経つ。
ある夜、誰も迎えに来なかったため、メイドの女は墓石の前で眠っていた。
その場に現れたのは、少年だった。
メイドの女は気配に気づき、体を起こし────、
「死ね」
腹に大剣が突き刺さる。
それを少年が刺したのだと分かると、女は血を吐いて悲痛に顔を歪める。
「何でっ、なん…なんで、あなたが………あなた、あなた? あなたは……?」
誰だ、この男は。この男? この男は……
彼女は思考を巡らせるが、思い出せない。
大剣が抜かれる。そしてまた、刺される。その繰り返しだ。
「愛してるよ、マリア」
そう言って少年は────ネアは、マリアを殺した。
ネアの頰にはマリアの腹から吹き出た血が当たり、一筋の赤い軌跡を作る。
闇を支配する上には、満天の月が光り輝いていた。
マリアは、ネアに殺されたのだ。