『コムビタンD』事件から数日後。
マリアは新しい
移動手段は船。マリア以外にはテワクや、数名の教団関係者しかいない。
時刻は夜。海は暗闇に彩られている。
「体調は問題なさそうですね。あの巻き毛室長が作った薬品の後遺症もないようですし」
「…うん」
曖昧な返事が、水面の揺らめきに合わせて溶け込む。
「ねぇ、何でアレンくんも一緒じゃないの? 彼に方舟を使ってここと旧本部を繋いでしまえば、わざわざ移動しなくて済むのに」
「それは着けばわかります」
「……そう」
新しい本部にはルベリエや、先に招集されたクロスがいる。双方で密談を行っていた可能性が高い。
マルコム=C=ルベリエは以前、マリアに「お茶でもどうか」と誘った。着けば「お茶会」という体裁の、何か重要な話がなされるのだろう。
(
夢の中で時には少年、時には青年の姿で現れたティキ・ミックとよく似た男────『ネア』という存在。
夢にしては殺された感覚があまりにも生々しく、夜の木々がかすかに揺れる音も、虫の声も、血生臭い匂いも、何もかもが鮮明だった。まさしく“死”の感覚だ。
あれはきっと前に「聖母」のメモリーを持っていた人間の記憶だ。時代背景から考察しても、数世紀前、というのは考えにくい。
(何故、ネアはマリアを殺したの? そもそも彼は何者なの? ティキ・ミックと容姿が似ているのはこの際どうでもいい。それにネアはどうしてアレンくんと同じ剣を持っていたの……? 分からないことが多すぎる…)
記憶の迷宮の中に、彼女はすでに入り込んでいる。
*****
ただの茶会のはずが、ルベリエの周囲には「
対してマリアは拘束はされていないものの、すぐ側には数名の鴉が控えていた。
テワクは黒づくめと同じ格好で隅に待機している。
顔を引き攣らせる女に対し、長官たる男は悠然と白い陶磁器に口をつける。
「お掛けになっていただいて構いませんよ」
「……失礼します」
テーブルにはケーキと湯気の立つカップがあった。取っ手を持ち少し揺らせば、ハーブの香りがふんわりと漂う。喉を通して伝わる熱が、長時間の移動で冷えた女の体を温める。ほぉ、と吐かれた息は白い。
「貴女は確か、神を嫌っているのでしたな?」
「突然ですね。…まぁ、心底大嫌いですよ」
「神に信仰心はありますかな?」
「無いと言いたいところですが、エクソシストである以上、多少の信仰心はあります。嫌悪と信仰心はまた違うものですから」
話の核心にはまだ触れられない。じりじりと追い込まれるような感覚に、マリアは痺れを切らす。
「ルベリエ長官。あなたは私に以前、「アヴェ・マリア」と言った。それは………」
「術によって防音はなされています。この会話が外部に漏れる事はありません」
「……「アヴェ・マリア」は、私の真名です。私の正体をあなたはすでにご存知だとお見受けします。ですが、なぜその名を知っておられたのですか?」
「────『聖母』」
「!!」
やはり、この男はマリアの知らない内容まで知っている。吊り上がった目はカップの水面に向いている。微細な動きで男の顔がぶよぶよと崩れ、静寂を保てば元の形に戻る。
「貴女は聖戦の闇について考えた事はおありかね?」
「闇、ですか?」
「聖戦において内包される闇は、誰もが知り得る事ではない。しかし一つ、私は知っています。この聖戦において、闇に生きる『聖母』の正体を」
マリアは思わず身を乗り出したが、数枚の札が腕や足に張りついた途端に、その部分が鉛のように重くなった。
「…何ですか、コレ」
「おっと、言い忘れておりました。あまり軽率に動かれると鴉の者が術を行使します」
「そういう大切なことはあらかじめ伝えておいてくださる?」
「ですから、「言い忘れて」いたのですよ」
マリアはこの男がヘビのようだと思った。
バクが嫌っているらしいのも頷ける。確実に獲物を仕留めるタイミングを窺っているような、そんな薄気味悪さが拭えない。
「あなたの目的は何なのですか? 私を………ノアの因子を持つと分かった上で、話の場を設けている。まさか彼らへの人質だとでも言うのですか?」
「人質? 滅相もない。貴女にそのような無礼を敷くわけには参りませんよ」
「………ずっと無礼では?」
「はっはっは。面白い冗談をおっしゃいますなぁ」
かく言う男の目は一切笑っていない。
「そう言えば、貴女の故郷は千年伯爵によって壊滅的なダメージを受けたと聞きました。そこの教会兼、孤児院の出であったと」
「そうですが……それが何か?」
「教会はマリアを信仰していた。マリア、マリア………そう、「
マリス=ステラが臨める街の教会は、キリストの母であるマリアを崇めていた。聖女たる女は「聖母マリア」と呼ばれる。
そもそも黒の教団とは元々、世界の終焉を阻止するためにヴァチカンの命によって設立された、直属の対AKUMA軍事機関である。
そしてヴァチカンはカトリック派。プロテスタント派ならば「聖母マリア」とは呼ばない。基本的に聖人聖女を信仰しないためだ。
「敬愛なる
マリアの額から、汗が一筋流れる。
「ま、待って、待ってください。『聖母』が神の…母? マリアは
────
新しいノアならば説明がつくのだ。
新しく出現したからこそ、はじめ伯爵たちは分からなかった。
だがイエスの誕生となれば、約2千年も前の話になる。「新しい」という言葉は全くもって似つかわしくない。
──いや、薄々とだが矛盾はあった。
「新しいノア」であるはずなのに、“マリアの夢”として見る記憶の断片。
その夢を見ること自体、以前から『聖母』がいたことを裏づけていた。
「ノアはAKUMAを生み出すために、AKUMAの元となる“悲劇”を作り出すべく、人間の歴史に度々介入する事がある。殊に聖母は、歴史の転換点が起こる際に姿を現します」
「……アヴェ・マリアとは、いったい何なのですか?」
「『聖母』とは有史以来、または有史以前から聖戦の裏側に潜む存在」
一瞬の静寂が、室内を支配する。
「聖戦に隠れた存在『聖母』。もっとも深い裏に潜み、千年伯爵とともに世界を終焉に導く。同時にイエスを産み出した存在でもある。
────様子から察するに、貴女は『聖母』という言葉は知っているようだが、聖母の過去についてはお知りでないようだ」
ギチギチと、不可解な音が鳴る。音の出所は女の爪からで、黒く鋭利なそれが白い腕をかきむしっている。赤い線の上に赤い線を重ね、流れた血が床に落ちる。
その様子を見たルベリエは眉を寄せた。
「そういうこと。だからあなたは私を『ハートの可能性』などと偽った。神の母であると知れれば、聖戦はノアに傾くでしょう。人間は聖母を擁するノアに傾倒し、教皇の威信が失われる。下手をしたら伯爵の策略により、宗教戦争が起こるかもしれない」
でも、とマリアは続ける。
「ノアは聖母を覚えていません。あちらは恐らく私を「新たなノア」と思い込んでいる」
「それについては知りませんな」
サッパリだ、というようにルベリエは首を振る。
「私が知っているのは先ほど申し上げたとおり、『聖母』が歴史の節目に表舞台に姿を現すこと。また、キリストの「母」であるということ。ただ記憶については憶測できるがね」
ノアには記憶をのぞける使徒がいる。その者の仕業でノアが聖母について記憶をなくしているのではないか──と。
ただし伯爵にその力が利くとは考えにくい。その点はわからなかった。
「あなたは、私に何を望むというのですか?」
「……貴女が来る前に、ここで少しクロス元帥と話したのですが、色々と『聖母』について興味深い内容を聞けました」
「神父様と?」
「聖母の目的は“聖戦の終結”であると聞きました。そして、もう一つ」
カチャンと、皿の上に置かれたカップの音が鳴る。
「あの男は「聖母はノアから逃げた」と言っていました。真相までは分からない。だが聖母は“真っ黒”ではなく、“限りなく灰色に近い黒”であるのだと考えられる。そして今、貴女はイノセンスを持っている」
「……」
「私はこう考えます。聖母はノアを裏切り、ハートと手を組んだのではないかと」
「なぜ?」
「その理由を私に聞かれましても。ご存知なのは
は、はは、と声が上がった。
見開かれた紅い目がルベリエをとらえる。捕食者側だった立場の男がその一瞬、背筋に寒気を覚えた。鴉が動こうとしたが、それを手で制す。
女の雰囲気が一変した。
「なぜマリアが家族を裏切るのでしょう? マリアは「愛」せずにはいられません。マリアは家族を愛しています」
腕の肉をえぐっていた爪が今度は顔に立てられ、ボリボリとかきむしる。異様なことに、腕の傷は蒸気を発するように少しずつ修復されていく。
「愛がある限りマリアは裏切りません。マリアは……ま、マリ…………わ、
女は背を丸めて、膝に顔を押しつけた。かすかにその体が震える。白くなるほど握られた手は、血の色に隠されて元の色を失う。
「────戦いましょう、マリア。守りなさい、マリア。苦しみの末に聖戦を終わらせましょう」
再び上がった顔には張りつけられたかのような笑みがある。
「
マリアが身を乗り出した瞬間、夥しい数の術札が展開され、次々と張りつく。そうして身動きの取れなくなった女の体は倒れ、派手な音を立てて卓上のものを散乱させた。
「終わらないの終わらない終わらないの終わらない終わらない。陽が沈んだらまた明日が来ます。何度も何度も。神に祈りましたよ。神よ死ねと」
女の精神がメモリーに呑まれかけている。その片目だけが黄金に染まっている。
「…貴女はどちらの味方だ。
「
目を細め、笑みを浮かべる様は妖しく、妖艶だった。
ルベリエはその時、目を見開いた。女の瞳から、透明な液体が流れたのだ。
「早く聖戦を終わらせましょう、人間」
無理やりに伸ばされた手は術札までも血で汚している。白い手袋をしたルベリエの手の上に、その手が重ねられる。
紅と黄金の瞳から視線をそらすことが許されない。そんな張りつめた空気が存在する。
「
その言葉は暗に、『聖母』がハート側であることを意味していた。
*****
マリアが目覚めた時、既にルベリエも、黒づくめの集団の姿もなかった。部屋はそのままだ。
ソファーに沈む彼女の体には毛布がかけられている。
「あったま、クソ痛い……」
上体を起こした彼女の目と、テワクの目が合った。あからさまにビクついて視線を逸らした少女にマリアは苦笑する。やはり怖がられたのだろう。マリア自身も途中から意識があやふやで、脳の中で聞こえるミイラの声がそのまま彼女の口から出ていた。
「今はもう大丈夫だから。だからそんなに露骨に反応されると傷ついちゃうよ〜?」
「……すみません」
「ははっ。いいって。私も自分に引いてる最中だから」
二人の横では、残された菓子をティムキャンピーがムシャムシャ食べている。食べカスまでつけたソイツはマリアの頭の上に乗ると、ゲップした。
その二者の光景は監査官をしているテワクが見慣れたもので、女はゴーレムの頬を引き伸ばしている。
「人の頭の上でなんてことを!!」
「ガウガッ──!! ………げぷ」
「………ふっ」
妙な安心感に、少女の口元がほころんだ。
「マリア、私はあなたの監査官ですわ」
「え? う、うん…。今更なこと言うね」
「それ以上でもそれ以下の立場でもありません。ですからたとえあなたが変わっても、私は命令どおりに監視します」
「……そっか」
「はい」
一度考えてしまえば、あえて堰き止めていたことが雪崩れ込んでくる。マリアはティムを抱きしめた。
“仲間”が彼女をノアと知ったら、どう思うだろう。“家族”が「マリア」がかつて裏切り、イノセンスの側に渡ったと知ったら、どう思うだろう。
後者はミイラ女のニュアンス的に、彼女の本意でなったわけではなさそうだった。神に操られてエクソシストになった──というような事らしい。
しかしどの道、裏切りは裏切り。
仲間に恐怖され、家族に憎まれ、そんな未来が見えてしまう。漠然とした恐怖が襲う。
マリアはどこまで中途半端で、そして────、
「愚か、ですわね」
「……ふふ、そうだね」
「きっと、きっと運命から逃れる道だってあるはずですわ。それなのにあなたは……ッ、どうしてそこまで進もうとするのですの!?」
「甘いなぁ、テワクちゃんは。監査官でしょ? 存外長官殿があなたを選んだのも、子どもっぽさが私に刺さると思って──」
「私は子供っぽくありませんわ!!! ……ッハ! 話をそらさないでくださいましっ!!」
「そう真っ赤にならないでよ。ふふ」
マリアはゆっくりと窓の外を差す。それにつられてテワクも視線を移す。
そこには深い闇がある。窓を開ければ潮の匂いとともに海の音が聞こえて来るだろう。
雲ひとつないその天上には、無数の星が煌めいている。
「マリス=ステラが、私を見ています」
テワクはそれ以上、何も言うことが出来なかった。
【お酒】
アルコールは二十歳から、なんて言葉がある。
食堂にてマリアがおやつにと思っていた菓子を、偶然彼女からもらったテワクが一口食した。
それが間違いだったのだと、マリアは後々思った。
「リンク兄しゃま……」
「テワク、離れなさい」
「大好きでしゅ…」
「テワク…!」
菓子は菓子でも、それは酒菓子だった。
食した数秒後には少女の顔が真っ赤になり、いつもの吊り上がった目がトロンとトケた。
あまりの変化にマリアは菓子を持ったまま固まった。
そしてその時、ちょうど訪れたアレン。ということは彼の監視をするハワード・リンクもいる。
テワクはリンクを視界に入れた瞬間、宛ら子供のように抱き着いた。
その後のリンクの焦りっぷりといったら、今まで監視されていたアレンでさえ見たことがないものだ。
「ま、まさかマリア、テワクに飲酒させたのですか!?」
「え? 酒は飲ませてな……あっ、ごめん。これ酒菓子だった」
リンクに指摘され、そこで漸くマリアは自分の食していたものにアルコールが混じっていることに気づいた」
「テワクちゃんてお酒に弱いんだねー」
「………」
マリアの隣では、アレンがテーブルに置いてある酒菓子を見たまま固まっている。
「どうしたの、アレンくん?」
「あ、いや、何でも……」
「…あぁ! ふふ……君も大人の階段を上りたい年頃というわけだね? ほら、遠慮せずに食べなさい」
「待っ、ちょ」
マリアはアレンの口に酒菓子を押し込んだ。
その瞬間アレンは白目を剥き、泡を吹いて倒れる。
「え!!? ……でもちょっと面白いな。死にかけの虫みたいで」
「ウォーカーに何をしているのですか貴女ッッ!!! テワクもいい加減離れなさい…!!」
「リンク兄しゃま…けーあいすべき私の兄しゃま……」
笑う女に、泡を吹く少年。それとイチャイチャ(?)し合っている監査官二人。
偶然蕎麦を持ち通りかかった神田は、無言のままスルーし、一人遠くの位置に腰かけた。
虚しくもそこにツッコミ担当のウサギはいなかった。