────彼の者、遥か昔大帝国を築き、捕虜にされたユダヤの民を解放せし。
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マリアの夢。
カテリーナに拾われてから幾ばくか月日が経った。その日、メイドの女は鼻歌混じりに廊下の掃除をしていた。
「〜♬」
なぞられるメロディーは『アヴェ・マリス・ステラ』の曲。
なぜ記憶喪失のはずの彼女がその歌を知っているのか、と疑問を抱く者はその場にいない。
そして一階の掃除を終え、二階に上がろうとしたところでカテリーナの声が聞こえた。上からだ。
カテリーナは何か怒っているようで、中途半端に残ったトレーを持って降りてくる。そこでマリアと目が合った。
「や、やだ……。さっきの話聞いてた?」
「はい。ものすごい剣幕で「ちゃんと食べなさい!!!」とお怒りになっていましたね」
「は、はは…」
カテリーナは苦笑いしながら、「弟がね」と愚痴をこぼす。
「研究ばかりで食事なんて二の次なのよ。…本当に困った弟だわ」
「弟……カテリーナ様も双子なのですか?」
「え? 私と弟は結構歳が離れてるわよ」
「そうですか」
それよりと、カテリーナは息子たちと一緒に外へ出かけようと提案する。マリアも了承した。
そうとなれば早く掃除を終わらせなければならない。
せっかち気味に階段をかけ上る彼女の靴が、スカートの裾を踏んだ。その瞬間視界が反転する。
「わっ……と、ぎゃあっ!!」
そのままマリアは転げ落ち、下の壁に激突した。
「いったぁ〜〜…」
ぶつけた所々が痛みはするが、幸いそこまで大きな怪我はなかった。とりあえず、淑女失格な逆大の字の格好から起き上がらなければない。
そこでふいに階段から軋む音がした。メイドの女は天井を仰いでいた視線をさらに90度上に動かして、音の出所を探る。
最初に足が見えた。恐らくカテリーナの弟だ。大きな音を不審に思い、部屋から出てきたのだろう。
「………あっ!!」
逆さまの体勢だった女は思い出したように給仕服の裾を押さえる。スカートの下が丸見えだったのでは!? ──とあたふたしたが、丈が長い仕様なのでその心配はなさそうだ。
遠くからはカテリーナの声がする。
立ち上がったメイドの女は再度階段の上を見たが、すでにそこには誰もいなかった。
「………」
しかし自分を捉えていた
(どこかで見たことがあったような…?)
主人の心配する声が聞こえると、一瞬浮かんだその考えもすぐに霧散した。
*****
後日、本部の移転が終了した。
それと同時に、教団幹部とエクソシストに
それはアレン・ウォーカーが異端審問にかけられた際、弟子と会話したクロスが明かしたアレンの──、アレン自身さえ知らなかった秘密であった。
ルベリエが揃った人々の前で公表した内容。
それはアレン・ウォーカーが、────『14番目』の宿主であるということ。
また今は方舟を操る唯一の存在としてノアを
リナリーやラビ、そこにいた誰もが息を飲む。
しかしアレンは皆を見つめ、決意を示す。
「『14番目』が仲間を傷付けるなら、その時は僕を殺してください。奴が教団を襲うというなら、僕が必ず止めてみせる」
アレンの意思に頷く者、下を向いて震える者。反応はそれぞれだ。
その中でパーカーのフードをかぶった女はどこか上の空だった。隣にいたテワクが肘で小突く。今朝からずっとマリアはこの調子で、食事も取らずベッドに潜り込んでいた。ここへ連れて来るのにも大変苦労した。
「……普段は、愚痴ばかりおっしゃっていたのに」
「………」
今朝のことだ。
昨夜はアレン・ウォーカーの異端審問が行われていた。それに同席していたのがクロスだった。
その後、自室に戻った男を何者かが襲撃し、銃殺した。部屋の前には中央庁の息がかかった見張りが二名いたが、早朝までなぜか眠っていたらしい。クロスの遺体を発見したのはこの内の一名で、一方は長官を呼びに行き、もう一方は銃を片手に突入の準備をした。この直前、窓ガラスが割れたような音がしたとその人物は証言している。そして部屋に押し入った時には、クロスの遺体は消えていた。
犯人は不明であり、部屋には男の割れた仮面や
不可解なことに、銃殺に使用された銃はクロス自身のイノセンスだと推測されている。
さらに遺体も窓から何者かに持ち逃げされている。
朝から挙動不審なティムの様子に気づいたマリアはその後を追いかけて、偶然ルベリエとコムイが話していた内容を聞いてしまったのだ。この事件は内密にするよう釘を刺されている。
彼女にとってクロスは恩人で、複雑な感情を抱かせる人物で、“力”を体現する憧憬の的でもあった。
アレンには悪いが、今は『14番目』の件を気にすることができない。
それからマリアは監査官に世話を焼かれるまま、食堂へと訪れた。食べれば少しは回復するだろうとのテワクの考えだ。
「ケガはほとんど完治したのですから、お好きに食べていいんです」
「………」
「はい、貴女の好きな肉です」
切り分けられた肉片の一つをテワクが差し出せば、大口が空いた。こうすれば食べるらしい。
(ハァ……だいぶ私も、絆されてしまっていますわ)
時間としては長くない。だが接するうちにこの女の包容力が、自然と少女のある感情を揺さぶる。
その感情がどういったものなのかテワクは疑問だったが、『
親を持たない彼女は、この女の母性に惹かれている。
愛を与えて、与えられる。そんな親と子の当たり前にあるべき関係を求めたくなっている。
(ルベリエ長官は致命的なミスを犯した私を処分しなかった。あながちマリアが言っていた「私の子供っぽさが彼女に刺さるから選んだのかもしれない」──というのは、的を射ているのかもしれませんわ。……納得は行きませんけど)
思考に耽っていたテワクはチラリとマリアを見る。
すると美味しそうに肉を食べていた。ティムキャンピーが。
「えっ?」
いない。マリアがいない。いつ席を立ったのか全く気づかなかった。
慌てて食器を片づけた彼女はすぐにティムに女の場所を案内するよう頼む。それくらいのことならこのゴーレムには朝飯前だ。
しかし食堂を出る前、テワクはアレンの隣にいるリンクと出会してしまった。事態を悟った青年の顔に影ができる。
「監査官ともあろう者が、まさか監視対象を見逃した……なんてこと、ありませんよね?」
「り、りり、リンク兄さま……」
「その呼び方も辞めなさいと言ったはずでしょう。公私は分けなさい。「リンク監査官」です」
「ご、ごめんなさい………」
アレンは怒られる少女の横で、目をパチパチさせながら自分の監査官を見ていた。この少女と接している時のリンクは仕事人間から一転して、素の表情を見せる。思わず口元が緩んだ。
「…何を笑っているのですか、ウォーカー」
「いえ、新鮮なリンクの姿だなぁ、と思って」
「言ってる場合ですか…」
その後、気を引き締め直した少女は食堂を出て廊下を駆けて行った。
「テワクさんはリンクにとってどんな人なんですか?」
「テワクですか?」
きょとんとした顔で少しの間をおいて、リンクは「家族ですよ」と答えた。
それに深入りしようとしたアレンは一度立ち止まり、聞くのをやめる。人間、どこに地雷があるかわからない。好奇心で軽率な話題を出すのは憚るべきだろう。
食堂は今日も人で賑わっていた。
*****
対して同時刻、庭のベンチに腰かけるブックマンと後継者の姿があった。ブックマンは新聞に目を通し、ラビは背もたれに寄りかかって天を仰いでいる。二人が使うのは「ブックマン」間の二人にしかわからない言語だ。情報の漏洩を防ぎたい時などに使われる。
話題に出ていたのは『14番目』の件。ラビはブックマンとの会話で時折のぞく聖戦の奥深い闇に肝を冷やした。
『しかし「マリア」か……』
『……ノアと関わりがある云々の話か? 本部の襲撃事件で、何らかの関係は確実だと思うが…』
『ム? …いや、そうだな』
『なんだよジジイ、歯切れが悪いな』
『お前こそずっとボケッとした顔をしとるじゃろう。この色ボケ兎めが』
『色ボケ言うなよッ!!』
ラビは確かに今日はぼんやりとしている。集合があった時に見た女がどこか上の空だったせいだ。『14番目』の件を訪れる前から知っていたのかとも思ったが、どうも反応からして違う。クロス暗殺事件の話はまだ、中央庁が即座に対応したためこの二人の耳に入っていない。
『小僧、今お前は「エクソシスト」だが、ブックマンとしての本質を見誤るでないぞ』
『…分かってるさ』
『お前のそのマリア殿に向ける感情もだ。優先すべきが何であるか、確と胸に刻んでおけ』
渡り鳥のように、巡る先々で彼らは立ち位置を変える。この聖戦を記録するために。伯爵側だったこともある。
後継をもうける点では結婚もまた一つの方法だ。しかしそこに恋愛感情が付随することは滅多にない。記録者の在り方はそのような掴みどころのないものだ。
「しかし、お前は胸派ではなかったか」
「スレンダーでもいいだろ、スレンダーでも!!!」
「ねぇ」
言語を二人が戻した途端に声がかけられる。肩を跳ねさせたラビは立ち上がったまま固まる。ブックマンも驚いた様子だ。
「ま、まままっ、マリ────!!?」
「どうしたんじゃ、マリア殿」
「ピアノのある場所に行きたいの。どこに行ったらあるかしら」
女の顔はフードに隠れてよくは見えない。
「ピアノなら礼拝堂に一つ置かれておったのを見かけたぞ」
「礼拝堂……」
「行きたいのならば儂が案内しよう」
「ありがとう、おじいさん」
「……おじいさん?」
妙なマリアの言い方にラビが反応する。しかしブックマンが手で「しっしっ」と追い払うような動作をするので、すぐにそちらに意識が向く。
「別に俺が案内したっていいだろ」
「お前がさらにボケたら儂に介護させる気か? 馬鹿者め」
「ははぁ……俺の方がボケてるように見えてるジジイの方がボケ、ぐえっ!」
トドメにブックマンの蹴りを食らった青年は地面に伏してピクピク震える。会心の一撃が決まった。
去る二人の後ろで、「鬼パンダ──!!」と怨嗟のこもった声が聞こえる。
「ところで何を弾く気なんじゃ、マリア殿」
女の口元が弧を描く。ちょうど吹いた微風にフードが煽られ、その下の瞳が顕になった。
血のような色。その二つが老人をとらえる。ブックマンは首筋に刃物を当てられたような感覚を覚えた。
「アヴェ・マリス・ステラを」
その日礼拝堂で、聖女を讃えるイムヌスのメロディーが流れた。