羽の取れた、哀れな虫。
その片鱗はすでにあった。私自身が一番理解している。
来た覚えのない場所にいたり、あるいは自分の意識がありながら喉からするりと思っていることと違う言葉が出たり。
私の中にもう一人私がいるような感覚で、着実に自分が自分でなくなっていく。
私が『
バレる訳にはいかないからその場その場で誤魔化しているけれど、ブローカーとはいえ人間を殺してしまった。その記憶は残っているのだから嫌なものだ。
その上、罪悪感が湧いて来ない。こんなもの、笑うしかないでしょう。
「テワクちゃんは子どもたちをお願い」
「待ってください! 今のあなたは不安定ですわ!! 私が……」
「大丈夫。ティムも一緒にいれば少しは安定するから」
「ガウガウ!」
「しかし敵はあなたのことも狙っています…!」
「だからいいんじゃない。ちょうどいい囮になる」
ティモシーくんのイノセンスの気配が強まったのを感じた。多分発動したのだと思う。同時にこの中に“奇妙な存在”も入って来た。敵か味方か分からないけど、急いだ方がいい。
「……わかりました。私はあなたを信じますわ」
「ありがとう。しっかり守ってあげるから、待っててちょうだい」
腹の出血は大丈夫。もう止まった。残った弾は後で取り除けば問題ない。イノセンスも発動できる。
「私が守るから大丈夫ですわ」
「…じゃあ、私もテワクちゃんの言葉を信じますわ」
「ケンカを売っているのなら後で買いますわ」
「へっへっへ〜……いて」
小突かれて、そのまま笑って走り出す。
廊下には戦闘の痕跡がありありと残されていた。その隅で固まっていた院長先生と数名の子どもたちを見つけ、テワクちゃんたちの方に行くよう指示する。というか待って、ティモシーくんが倒れてるんだが。
「それが……よくは分からないのだけれど、バケモノ同士で突然戦いが始まって…」
AKUMA同士で起こった戦闘は苛烈し、一体が上に吹っ飛んでその後をもう一体も追った。リンク監査官もその後を追い、エミリアも「ティモシー…!」と叫んで上に行ってしまったらしい。
なるほど読めてきた。ティモシーくんがAKUMAに取り憑いて戦い、そのことにエミリアも気づいたのだろう。
院長たちが向かうのを見届けてから階段を駆け上る。一階はボロッボロでレベル4のものと思しき弾痕がそこら中にある。アレンくんたちは…みな手負いだ。
ティモシーくんらしきAKUMAは無事で、側にエミリアとリンク監査官もいる。そして
そしてリンクくんの話を聞いた男は手を下ろした。一応味方みたいだ。
『……!! みつけましたぁ、まりあ!』
そうこうしている内にレベル4と視線が合った。
アレンくんと神田がその瞬間に動き、マリはその援護に回る。そりゃあお目当ての人がいたら一直線に来るよね。
向こうは私を殺せない。同時に骨から血液にまで至ったこの厄介なイノセンスを壊すことも難しいはずだ。その上でレベル4が取る方法は……。
『────
絶叫が響く。三人の身動きが止まった。そう、戦力を奪って意識を刈り取ろうとしてくるよね。
肌から伝わる振動が脳を侵す。でも動けない程じゃない。耳栓はすでにしてある。
『……!? なぜとまらなっ…』
「何言ってるか聞こえないわよ!!」
形状を変化できる黒衣は便利だ。
向こうがマシンガンの両手を構えるうちに間合いに入り込み、斬りかかる。避けたところを次はアレンくんの大剣と神田の刃が狙い撃つ。それでも無理ならマリの弦が無理やりに隙を作って、そこを私が──と、コンボ技だ。
下手に殺せない私がいるから余計にレベル4はやりにくい。このまま押し切ってその時をねらう。破格の強さを持つ敵の首を取る瞬間を。
「「えっ」」
ガギィンと、大剣同士がぶつかり合う。驚く私に、アレンくんはそれ以上に困惑している。
何が起こったの? レベル4に斬りかかった神ノ剣の間に入るようにして、彼の剣が衝突した。タイミングが合わなかった、は理由にならない。明確に割って入った。
「す、すみませんっ!!
「……う、ん」
背筋がゾワゾワとして、体の芯から冷たくなる。上手く視界の焦点が合わなくなって、縋るように相棒の名を呼んだ。
ティムは尾を使って私の首に巻きつく。グルグル、という音が振動してわずかに心拍数が下がった。
その隙をしかし、レベル4は逃さない。
エネルギー砲が神田を吹き飛ばし、もう片方のマシンガンはアレンくんを執拗に狙い撃つ。
ならば、と思い背後から狙った剣先は180度回った顔の歯で防がれた。
「怖っっ!!!」
レベル4の標的は特に厄介な力を持つ神ノ道化。つまりアレン・ウォーカー。この結界内は少し考えれば、方舟の力を使えないとわかる。逃げられるならすでに逃げてるって話だ。
先ほどのできた隙で連携が崩れ、再びレベル4が暴れ出す。
加減されているであろう蹴りを食らった私も吹っ飛んで、壁に衝突した。知ってる? 神ノ剣は私の肋の一部でできてるから、腹に蹴りを食らうとモロに内臓にダメージが入るんだよ?
「ゴハッッ」
『っ、しまっ……!!』
「マリアさん!!」
壁にずり落ちた私にAKUMAなティモシーくん、それにエミリアとリンクくんが駆け寄って来るのが見える。
星が回って、それでも剣を突き刺して立ち上がる。今も傷を内側から治そうとするイノセンスのうごめきを感じて気色悪い。
視線の先ではアレンくんが剣を操作し、レベル4に背中から突き刺すのが見えた。
そのままAKUMAの肢体は前方にいた彼も巻き込み壁に縫いつけられる。
アレンくんの口から血がこぼれる。ノアのメモリーを持つ少年に、あの剣は毒となった。
絶叫が聞こえる。
『大丈夫か、ねーちゃん!?』
声が。
「マリアさん、顔が真っ青よ…?」
アレンが微笑む。
彼の髪は黒だった?
あそこまでわがままに跳ねていたっけ?
風の匂いがする。
目を閉じれば黄金の世界が、夕焼けに染まって。
そこに、立っている。大剣を持った少年が。
その下で、愚かなメイドが死んでいる。
その少年も、死体も、剣も、その世界も、すべてが血のように赤かった。
「────モヤシッ!!!」
微睡から一気に覚醒した時のような浮遊感とともに、脱力していた四肢が動いた。
私の前には目をパチクリさせたアレンが立っている。少年の手には引きずられた剣があり、その首には神田の剣が突きつけられている。
レベル4はすでに事きれていた。二人が協力して倒したらしい。
「なぜこの女に近寄った」
「………え?」
「…ウォーカー、あなたは神田の呼びかけにも答えず、無言でMs.マリアのもとへ向かっていましたよ」
「そう…なんですか?」
銀褐色の目が、私を見る。黒じゃない、黄金でもない。
でも、でもでもでもでもでも────。
「お゛えっ……」
吐き気を押さえることができなかった。ほぼ血のそれが床にビシャッとぶちまけられる。
体が震えて、涙が止まらない。気持ち悪い。
この剣がそうなのだ。そうだったのだ。『聖母』を殺し尽くした剣だった。
アレンは、アレンがあの子だった。14番目が、ネア。あの子の気配を感じた、さっき。だからとても嬉しいの。
怖くて、気持ち悪いのに、嬉しいの。
どれがいったい「
『おいテメー! 近づくだけでマリアが吐くって……いったい何したんだよ!!』
「………サイテー」
「…ウォーカー、君の紳士ヅラはエセだったということですか?」
「待っ……僕は何もしてません! 師匠とは違うんですッ!! 信じてください!!!」
騒ぐ周囲の声が遠ざかっていく。
あぁ。
おかえり、ネア。
*****
レベル4の撃退後、建物周囲に張られていた結界が外にいた科学班によって解除された。
結界はアレン・ウォーカーのAKUMAを視る左目を封じたり、方舟の使用を阻害する効果があった。またAKUMA以外が出入りできないよう細工もされていた。
一般人のケガはすり傷など軽傷な者が多いが、念のために教団で検査入院をすることになった。唯一、一名のシスターの死亡が確認されている。
ティモシー・ハーストはこの件を機に、エクソシストになることを決意した。
ただし条件として、怪盗Gの損害賠償やハースト孤児院の恒久的な支援の維持を教団側に取りつけた。もれなくコムイの胃が死んだ。
一方とある病室では、ベッドの上で子どもたちが絵本の読み聞かせを聞いていた。
ある子どもはよだれを垂らして寝ていたり、ある子どもは興味津々で話を聞く。
「お星さまの王子は言います。「ぼくはもう、帰らなければならないんだ。」王子のひとみからはキラキラとかがやく小さな星がこぼれました」
時刻は8時ごろ。異常もなかった子どもたちは新居が決まるまでの間、院長とともにロンドンに移り住むことになった。今日が教団を離れる最後の夜だ。
ランプの明かりがゆらゆらと揺れる。一人一人とまた眠りに落ちて行く。
包帯だらけの体で朗読する女の隣で、監査官の少女も思わずあくびをこぼしそうになった。
今この空間は、驚くほどぬるま湯のような安らぎに包まれている。
「星が今日もあの子に語りかけます。「ぼくはいつも君を見守っているからね。」────おしまい」
そして読み聞かせが終わった頃には、全員眠っていた。
苦笑したマリアは布団をかけ直し、彼女自身の病室に戻る。部屋を出る前にすれ違った看護婦は中の様子をのぞき、微笑ましそうに笑った。
「寂しそうですわね。あの子どもたちも、あなたも」
「…まぁね。ティモシーくんにはエミリアが残ることにしたようだから、安心かな」
月明かりが二人を照らす。その距離が少しずつ開いていく。
「あれ……。どうしたの、テワクちゃん? 顔が暗いけど…」
「…いえ」
ハースト孤児院に現れた緋装束の男。テワクはその男を知っている。リンクよりも、ずっと。
二つの黒い目がじっと彼女をとらえている。その言葉を紡ぐ必要はない。けれど、言葉にせずにはいられなかった。先ほどの部屋の温もりを感じてしまったから、余計に。
「……兄様が、いたんですの」
「リンクくんが?」
「違うんです…。血の繋がった、私の本当の兄様ですわ」
「ふーん………えっ、兄妹がいたのテワクちゃん!!?」
「う、煩いですわね…」
名は「マダラオ」と言う。二人の兄妹、それにリンクと三人の子どもたちを合わせた六人は鴉になる前、いつも一緒だった。
しかし中央庁直属の戦闘部隊の駒として教育を受けるようになってから、彼らはいつしか人形のようになった。
それでもルベリエの命を受けリンクと再開した少女は、ひとしおに喜んだ。
「お兄さんとは話せたの?」
「………」
「あらま。
「…仕方のないことです」
「まぁ、あの男がテワクちゃんのお兄さんって言うなら、そう遠くないうちに会えると思うよ」
「何を根拠に…」
「あの人間、一部ヒトじゃない」
「……は?」
そう言えば、とテワクは思い出す。マダラオを見つけて「??」となっていた彼女の横で、リンクは険しい顔をしていた。
あの表情の理由は、彼もまたマリアが話したことと同様の見解を持っていたからかもしれない。
「あの時異様に感覚自体を制限されるような感じがあったから、詳細はわからない。しかし中央庁が表立って動かした以上、教団側にも伝えられるはずよ」
「………」
「あなたのそれも、愛ゆえね」
バッと、テワクの顔が上がる。
血の如き瞳が二つ、薄闇の中に浮かんでいた。張り付けたような笑顔も交えて。