目覚めは唐突だ。
深夜真っただ中。ロンドンにある橋のたもとで、一人の青年が頭を押さえて蹲っていた。
そこに偶然通りかかった警官二名が青年に近付く。
「またスラムのガキが変なもんでも食ったのか?」
「おい、大丈夫かよ
「うぅ、うぅぅ、う゛」
青年はとうとう地面に倒れた。
呆れながらも警官の男はうつ伏せだったその体を仰向けにした。
すると青年の顔が露わになる。ボサボサの無精な髪の隙間からのぞく額。そこに、三つの目がある。
「ヒィ!!」
「こ、コイツ……バケモ」
向けられた銃の照準が合わさることはなく。また、警官二人の悲鳴も最後まで続くことはなかった。
男二人の穴という穴から血が吹き出す。
物言わぬ死体をつまらなそうに見つめた青年は、ゆっくりと立ち上がった。
「久しぶりだのう。…だが目覚めの空気としては、ちと血生臭い」
白かった青年の肌が褐色に染まり、瞳の色も黄金に変わる。ボロ雑巾のようだった服もついで変化していった。
「35年ぶりか。随分と長い時間眠っておったようだ」
「ンフ♡」
今度は空間そのものが変わった。青年の横にはシルクハットからのぞくウサギ耳が特徴的な、丸いフォルムの異形が佇んでいる。
「今回はお寝坊ちゃんでしたネ、ワイズリー♡」
「ムム…それもこれも「14番目」のせいだのう」
青年────否、『智』を司る魔眼の持ち主、ワイズリーが現世に戻るのは35年ぶりだ。転生したノアの中では一番遅い。
その原因は35年前に伯爵とロードを除くノアたちが14番目に殺され、メモリーが破壊された影響が出ていたためである。
仲間が復活し揃ったからか、嬉しそうに跳び回る千年公にワイズリーは口元を緩めた。
ノアのメモリーは第一使徒『千年伯爵』を含め、13個ある。
『
聖戦の
そんな中、ワイズリーの視線は『
既視感。男の姿は35年前の“ある男”を彷彿とさせる。その姿を知る者は千年公とロード、そして脳を覗きメモリーの過去を知れるワイズリーくらいだ。
ロードは人差し指に口を当てる。「その件は黙ってて」ということらしい。
少女の姿は相変わらず35年前から変わっていない。
自然と二人は横に並んだ。ニコニコと笑う少女に、青年は首を傾げる。
「あのねぇ、ワイズリー。千年公も話すと思うけど、新しい家族ができたんだ」
「………新しい家族?」
「そう。でも
──────「マリア」って言うの。
その瞬間、周囲の温度がグッと下がった。
限界まで大きくかっ開かれた青年の瞳。唇はかすかに震え、褐色の手が白く塗りつぶされるほどに握られる。
ドス黒いメモリーの気配を察知した千年公が声をかけ、そこでようやく我に返ったワイズリーは小さく謝罪する。大丈夫だ、と。
伯爵はそれでも心配の色をのぞかせていた。
「まだ目覚めたばかりで、メモリーが安定してないのかもねぇ。ボクが様子を見とくよ」
「無理はいけませんヨ、ワイズリー」
「……承知した」
────マリア。
その女は神に愛されながらも神を嫌う、イノセンス持ちの人間だった。
*****
会合が終わってからも青年の様子は不安定だった。千年公も『14番目』の声が聞こえたらしく、情緒不安定になっていた。
ロードは千年公を眠らせてから、ワイズリーの元を訪れた。
「ヤツめ、奴め奴め奴め……」
ブツブツと呟き、頭を抱えながらうずくまる青年。少女は徐にカラフルな包装のされたキャンディーを取り出して、カササ、と音を立ててから青年の口に放り込む。
「………甘いのだ」
「こういう時こそ糖分だよね〜」
多少はワイズリーも落ち着いたらしい。食べ終わるとまたキャンディーを催促して──というやりとりが続いた。
泣き腫らしたワイズリーの顔は鼻水と涙で悲惨だ。ロードにそれを指摘されると、彼は側にあったカーテンで顔を拭う。
「…ワイズリーさぁ、マリアのこと何か知ってるの?」
「………」
「反応を見てたらそうとしか思えねーもん」
「……アヴェ、マリス・ステラ」
その後に続くのは、聖母を讃える讃歌のメロディー。
なぜその歌をチョイスしたのかロードには分からなかったが、ワイズリーが「マリア」について何か知っているのは確実になった。
「“奴”が壊し損ねたのか……はたまた、神の寵愛ゆえなのか。それとも………その両方なのか」
「よく………分からないんだけど」
「当然だ。おぬしはおろか、千年公さえ覚えていないことだのう」
「……ワイズリーがボクらの記憶をいじったの?」
「おぬしらについてはな。しかし千年公は
「え…?」
ロードたちの記憶に手を加えたのは「マリア」のためで、伯爵が自分から「マリア」の記憶を手放したのは、伯爵自身のためだった。纏めればそういうことらしい。
千年伯爵は悪“役”だ。伯爵の弱さを知っているロードは小さく震える。
「ワタシはおぬしに選択を二つ掲示できる。知らないまま幸福でいるか、知って後悔するか」
「……チョー不穏な選択じゃん」
「…そうだの。だが、おぬしには「知る」権利がある。ワタシはそこを尊重したいと思う」
決めるのはロードだった。
ワイズリーの魔眼を使えば、青年のメモリーの記憶を覗くことができる。さすれば少女は「マリア」が何者なのか知るだろう。
微睡の中にいた方がきっと幸せだ。けれど、視ない選択肢は彼女にはなかった。
「……ボクさぁ、最近夢を見るんだ」
「『夢』を司るおぬしが…かの?」
「そう」
その時のロードはマリア
女の姿はノイズのようにブレており、確とした全体を見ることは叶わない。
血溜まりの中で、微笑むマリアは眠りに就こうとする。
その眠りは、今生の別れを告げるものだ。
『ボクを置いて行かないで、マリア!!』
そこでロードは気付く。自分が言った言葉は、箱舟の時にマリアに向けた言葉と同じであるということに。
「多分それは、ボクのメモリーの記憶。だからね、知らなくちゃいけないんだ」
「……」
ワイズリーは何も言わず、ただ静かにロードを見つめた。
「そうしないと…マリアがどこかに行っちゃいそうで、怖いから」
今にも泣きそうな顔で微笑む少女をワイズリーは静かに抱きしめ、頭を撫でた。
そしてロードは、夢をみる。