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青い空が広がり、その上には白雲が浮かんでいる。
下界には黄金の実をたっぷりと蓄えた小麦が、地平線まで続く。風が吹けばざわざわと音が鳴った。
その光景を見ていた女は感嘆で漏れた息を飲み込み、瞳を閉じた。
風にさらわれて、黒いワンピースが棚びく。
狂ったメイドの始まりはここからだった。
「マリア」
いつの間にか彼女の背後に立っていた青年が腕を回す。抱きついた男の体はしかし、一瞬にして反転した。
「オラァ!!!」
青年の腕をつかみ、女は一本背負を決める。フゥーと、清々しく拭われた汗が太陽の光を反射して輝く。
「なっ……にすんだよ! このババア!!」
「戦いはすでニ始まっているのデス」
「何でちょっと千年伯爵っぽいんだよ!!」
「淑女を老婆扱いする男に人権があるとお思いなのかしら? それともいつぞやのように躾として尻を叩いてやろうか、ア゛ァ?」
「……あんた、治安が悪くなってないか?」
「幼少期、クロス・マリアンの元でしばらく世話になったからね」
「………アイツゥ──!!」
余計なことをッ、と騒ぐ青年をマリアは観察した。クロスが『14番目』の協力者だとは知っていたが、二人は面識があるらしい。
「つーか、何でオレの覚醒の邪魔したんだ。もう少しで「アレン」が消えるところだったのによ…」
「わたしを呼んだのは君でしょうが」
「
「分かった。じゃあ帰るね」
「……待て待て待て待て、マリア!!」
がっしりと腕をつかまれたマリアは胡乱な目で青年を見る。
「そもそもわたしの本名って「イヴ」だし」
「…知ってる」
「ハ? 何でテメェが?」
「なぁ、その喧嘩腰やめよう? あんたのキャラじゃねぇって」
「へぇー…なら、君が抱くわたしのキャラってのをご教授願いたいな、ぜひ」
「………若作りしたBBA?」
直後、青年はラリアットを食らった。女のソレは、予備動作を一切悟らせない完璧な動きだった。
五体投地な男は白目を剥く。まぁ、すぐに意識を取り戻したが。
「──で、何で知ってるの?」
「……あんたが教えたんだろ」
「わたしが?」
「…あんたはオレに「お願い」と、そう言った。覚えてないとは言わせねェ」
だが生憎マリアは覚えていない。
ここへ来たのも、青年しか知らない『聖母』のことを知る目的もあった。
薄々と彼女も、ワイズリーが全ての記憶を見せないかもしれない──と、勘づいていたからだ。
「お前は「お願い」を言った時、『聖母』の全てを語った。お前の堕罪も、自分が死ねないことも」
「……そ、うなの?」
「分かるだろ。あんたなら、死にたい自分の「お願い」が何なのか」
終わらない堕罪に縛られた『聖母』は願い、それを少年に託した。
「死にたい──か」
うねるような風が吹き荒れ、不気味に草木を揺らす。太陽には雲がかかり、大地に薄暗い影を落とした。
「それでキミは、わたしを殺したのか」
「……あぁ。あんたの破壊は中途半端になっちまったけど」
「じゃあアレは何だったの?」
「何が」
「「オレはあんたで、あんたはオレ」ってやつ。「オレはマナで、マナはオレ」ってのは、君らが双子だから的を射ているけど、前者は違和感しかないでしょ」
「………」
「あとイヴとアダムの子だって。あなたを産んだ覚えはないんだけど」
「…カテリーナはオレとマナの本当の母親じゃない」
「……え?」
ならば双子は、誰から産まれたのか。
双子が赤ん坊だった頃にマリアを拾ったというのはカテリーナ自身が話していたことだが、まさか本当に『聖母』が産んだとでも?
それはない。なぜならアダムはすでに死んでいる。その意思を継いだのが『千年伯爵』だ。
「悠久の中で見せた隙、と言っていいだろうな。
────オレとマナは『千年伯爵』が別れて生まれ落ちた存在だ」
木の下にいたへその緒が付いたままだった双子。その赤子を拾ったのがカテリーナだった。
そしてその赤子の側には、記憶の無い一人の女がいた。
「オレがあんたであんたがオレである理由は、オレの
「あなたのメモリーは…何?」
「『破壊』────『聖母』の「創世」を代価として生み出された力だ」
『破壊』を聖母が生み出したのは、キャンベル家のメイドになる前。
終わりを望み続ける女は、“自分を壊す”方法を生み出し、行動に移した。この件にワイズリーは加担させられた。
だが『聖母』は終われなかった。今際に居合わせた『夢』の子が泣きじゃくっていたことが、未練になったからかもしれない。もしくは、もっと別の理由があったのかもしれない。
「その証拠に、麦畑で目を覚ましたあんたは何もかもを忘れ、
「……そっかぁ…」
どこか他人事のようにマリアは納得した。
本当に今の『聖母』には何もないのだろう。
あるとしても「愛」くらいで、神の介入を許してしまうほどに壊れきっているのだ。
「自分で死ねなかったから、わたしは他人に生殺与奪の権を託したのかぁ……」
「……マリア」
「なーんで君に渡しちゃったかなぁ…」
「………」
「でも、そこに「愛」があったのなら、仕方ないのかもね」
青年の手が、虚空を見つめる女の手を握る。
どうして、と紅い口元が動く。
「どうしてアダムはわたしを置いて行ってしまったんでしょう」
「……なぁ」
「わたしはまだ終わらないのに、どうすればいいんでしょう」
「オレと来い、マリア」
「わたしを殺せなかったあなたに、これ以上求めるものはありません。ですが、その「愛」は美しいですよ」
張り付けたような笑みが青年に向けられる。だがそれも一瞬のことだった。
「人を巻き込んどいてそりゃあねェだろ、クソババア」
「君って一生紳士になれないね。アレンの紳士を見習ったら? 彼の紳士の師は「マナ」って人らしいけど………っあ、偶然にも君のお兄さんと一緒の名前ね」
「オレの兄で合ってるよ」
「………ええ?」
「マナは今、千年伯爵だけど」
「………ハァ!!?」
詰め寄る女を避け、青年は気だるげに耳をほじる。マリアには空白の期間の記憶がある。彼女がネアに殺されてから再び復活するまでの間のことだ。それ以外にもコレまで生きてきた中で欠け落ちている部分が無数にあるに違いない。
「少なくともあんたが知りたいことは教えた。オレの覚醒も延期になっちまったし……現状できることはねぇから、とりあえずもう出てけ」
「教えてよ千年公のところ!!」
「ホォー…その見返りにじゃあ、あんたは何してくれるんだ?」
「……性的サービス?」
「失せろ変態ババア!!!」
「君、どうして変なところで純情アピールするの? まさか童貞のまま死んだ?」
「殺す……」
蹴っ飛ばされたマリアは尻もちをつき、手を付いたその部分が腐食したように抜け落ちる。そのまま彼女は地面に空いた穴に沈んで行った。
青年の深淵の瞳が、紅い瞳と交差する。
「今度会う時は、現実でな」
彼女はそれに微笑み返した。
【か◻️ の、 はな 】
「おねがい」────ーマリアではない、狂ったナニカはネアにそう言った。
おねがいの内容は、『聖母』を殺すこと。
同時に『聖母』の秘密を知ったネアは、女を凝視した。隅から隅まで言っている意味が分からない。
「何でオレに…殺して、なんて頼むんだよ」
「あなたが『千年伯爵』の片割れだから」
「…は?」
千年伯爵、という存在自体この時のネアは知らなかった。ただ身に迫る違和感は彼自身ずっと感じていた。
それは運命めいたもので、いつか必ず自分や身近の人間に降りかかるであろう──ということを。
「マナとネア。彼は二つに別れました。『千年伯爵』のメモリーを持つのは、マナ・キャンベルです」
「……マナ、が?」
違和感。それが兄のマナの名を出され、確信に変わる。
「あなたは、あなたたちに迫る危機感をすでに感じ始めていることでしょう。いずれマナはあなたを殺します。完全な『千年伯爵』になるために」
マナがオレを殺す?
そんなことあるはずがないと、ネアは女を睨んだ。
女は張り付けた笑みでそんな彼を見つめる。
「ですがマナにはないものをあなたは持っています」
「……」
────あなたはマリアを“愛”している。
女が顔を近づけたことで、二人の距離は吐息がかかるほどに近づく。
「…誰が、お前なんか」
「ハハハ………「愛」です。あなたにはあって、マナにはありません。『千年伯爵』から受け継いだ、『
メイドの女の姿をしたナニカは、彼の首に手を忍ばせた。
女のその、妖艶に笑む様は、月明かりを伴って人間を誑かす悪魔のようにも見える。
「「愛」しているなら殺しなさい。愛しているからこそ殺しなさい。わたしに愛を示してくださいね、ネア」
「が、はっ……!」
首が絞まる。ネアは必死に抵抗し、女の腕を引っ掻く。しかし首をつかむそれはか細い腕とは思えないほどの力で、逃れることができない。
「………ぁ」
視界が暗転する中、だんだんと彼の意識はふわふわと所在のないものに包まれる。
現実の境界線が曖昧になり、女の呪詛のような言葉だけが耳に残る。
「「愛」してください。愛してマリアを殺しなさい。マリアを殺して全てを『破壊』し尽くしなさい。そうすればマリアは幸せになります。ネア、殺しなさい。殺しなさい殺しなさい。
──────おねがい。わたしを殺して」
女は呼吸ができない青年に口付けた。
これが『聖母』が『破壊』をネアに授けた瞬間だった。