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海の側に佇む一つの教会。
その教会が崇めるのは聖母マリア。
夜になれば、その街を照らすマリス=ステラの星が輝く。
教会のまとめ役である老シスターは、孤児や親に虐待を受ける子供を集めて教育を教える少し風変わりな女性だった。そんな彼女は街の皆からも慕われていた。
しかしそれは彼女の表の顔。
裏の、『聖母』の顔を持つ女は、人間を等しく
慈しむのも愛おしく思うのも、それはひとえに『聖母』のメモリーがあるからだ。
狂おしいまでの“愛”と、感情が欠落していることを自覚する狭間で、彼女の精神は極限にまで壊れきっていた。
「死にたい」と願い自死を繰り返しても、堕罪に縛られた肉体では死ぬこともできない。
危うい一線の中で、『聖母』は世界を
そんなある日のこと。
一人の若いシスターがマリアの元へ駆け込んできた。
この時『智』のノアはおらず、彼女は一人で読書に耽ることが多かった。
「あら、どうしたの?」
「ま、マザー!あの、それが……」
シスターの後を付いていくと、上質な服を着た幼い少年がベッドに眠っていた。
「この子、教会の前で倒れてたんです」
「……富裕層の子供を狙った誘拐かしら?でも、それだったら教会の前に置いとくわけないものねぇ」
若いシスターは水を持ってくる、と慌ただしく駆けて行った。
マリアはところどころ怪我のある少年の体を見る。
身なりからしてどこぞの裕福の家の子であるのは確かで、荷物には聖典の記された分厚い本があった。
「へぇー…赤毛の子はよくそばかすがあるけれど、この子にはないのね」
テキパキと彼女が治療をしていたその時、少年の目が開いた。
髪と同じ色の瞳があたりを見渡して、最後にマリアをとらえる。
「今何時だ?」
「お昼ぐらいよ。えぇーと…それよりあなた、どうして教会の前に倒れていたの?」
少年は痛みに小さくうめきながら上体を起こす。
どこか好奇心と貪欲さが見え隠れする赤い目は、子供らしとはかけ離れたものだ。
「家出だよ」
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少年はやはり富裕層の子供で、家出をした後に流れ着いたのがこの街だったらしい。
教会の前で倒れていたのは物乞いのためだった、と。だが力尽きて倒れてしまった。
それから家出少年が教会に居ついて一週間ほど経った。
少年は名はおろか、名字も明かさない。「帰されるから」の一点張りだ。
興味津々で近寄ってくる子供も全員無視していた。
そんな協調性のカケラもない少年に、マリアは何かなす術はないか考えた。
言わば、神童とでも言うのだろう。
彼女の蔵書を読んでいる時が一番子供らしい表情を見せる。
(また勝手に人の本を……)
本だらけの女の自室は子供でも滅多に入ってこない。単純につまらないからだ。
そんな部屋でソファーに座り、家出少年は読書タイムに没頭している。
紅茶を持っていたマリアはカップを少年の頭の上に置いた。だが、全く微動だにしない。
「別に怒りはしませんけど、人の部屋に入るなら許可ぐらいは取ったらどうかしら?」
「なぁ、マザー」
「何?」
「あんたの笑顔、キモいよな」
「……はい?」
マリアの口角が引きつる。失礼千万な少年はまた活字の海に潜ってしまった。
(可愛くないガキ……)
その時、ノックの音がした。シスターが顔をひょっこりと覗かせる。
「マザー、今日は月に一度の歌の日ですが…」
「………あ!ごめんなさい、忘れてたわ」
すっかりオフモードだったマリアは急いで準備をする。
ふと少年にも声をかけたが、向こうは唇を尖らせて本で顔を隠した。
「歌詞がわからないなら楽譜があるから、一緒に行きましょう?」
「神は信じてない」
結局少年は参加しなかった。
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「ねぇ………さすがにそろそろ名前教えてくれてもいいんじゃない?」
少年が訪れてから三週間。
未だ名前を教えようとしない家出少年に、マリアは痺れを切らした。
少年は持っていた本を口当たりまで下げ、ジトッ…とした目を向ける。
「人に名前を聞く時は、先にあんたが名乗れよ。みんな「マザー」って呼んでるが、それって敬称だろ」
「一応この教会じゃあ一番の責任者なんだから、構わないでしょう?」
「じゃあ教えない」
「………はぁ、分かりました。「マリア」よ、マリア」
「名乗るなら普通フルネームだろ」
「あなたどうやったらその歳でそこまで図々しくなれるの?」
アヴェ・マリアよ、と彼女はため息をついて答えた。
ただ、「アヴェ」の方は忌み名だから周りには言わないで欲しい──と、それらしい理由を付ける。
「ふーん…アヴェか」
「で、わたしの名前は言ったわよ。あなたの名前を教えてちょうだい」
少年は本を顎のあたりまで下げる。
「
「サイラス……何?」
「苗字は忌み名だから教えない」
「…………ねぇ、怒りますよ?」
その後少年に逃げられ、マリアは名前しか聞けなかった。
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雨。
いつもは外に遊びにいく子供たちも室内で鬼ごっこをしたり、おままごとをして過ごす。
この日ばかりは外へエネルギーを発散できない子供たちが、彼女の自室にまでお構いなく侵入してくる。
そのため彼女は仕方なく、外へ出かけることにした。
黒い傘が雨粒を弾く。
(千年公……)
暗い海が視界の先でうねりを上げている。曇天は空を遮り、マリス=ステラのまなざしを遮っているかのようだ。
『聖母』の愛は彼女さえ狂わすほどに重く、深い。それに当てられたノアは最悪メモリーに精神を呑まれる。
彼女が家族と離れて暮らす理由は、その予防線を敷くためでもあった。
「久しぶりに会いに………ん?」
ふいに彼女の服が引っ張られた。
後ろには濡れ鼠になったサイラスの姿がある。
「どうしたの?」
「……あんたの部屋、居られねぇから」
「へぇ?………ブフッ!アッハッハ!!」
なるほど。居場所がないため、この子供はついて来たようだ。
中々笑いのおさまらない女に、少年の胡乱な視線が刺さる。
「どこに行くんだ?あんまり普段出かけないだろ」
「古い知人のところよ」
「…おれも行っていいか?」
「ダメよ。女には秘密が多いんだから」
マリアは傘を渡し戻るように言い、人っこ一人歩かない薄暗い道の中へと消えて行った。
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死にたいなぁ。
死にたい。
死にたいわ。
死にたい。
アダム
死にたい
アダム
アダム
アダム
アダム
内側のメモリーが暴れる。
人間がたやすく入る遠心分離機に生きたまま入れられ、中身が潰れて液体となり体外へ出て、残るのは皮と骨だけになるような、そんな度し難い苦痛。
衝動が暴れ狂う日、マリアはいつも休んだ。
「……だぁれ?」
彼女が山積みの本が崩れたソファーの上で横になっていた時、ノックの音がした。
誰も入らぬよう釘を刺しておいたはずだ。おそらく──と考えていた予想は当たり、扉の前にはサイラスがいた。
「……何」
「ちょっとさ」
部屋に押し入った少年は背を向ける。その細いうなじに女の目が行った。
──────殺してしまいましょう。
彼女の影が渦巻き、ランプの光がチカチカと揺れる。影の中から剣を抜こうとした彼女の手はしかし、ふと止まる。
少年は何かゴソゴソと探し、お目当てのものを見つけたのか振り返る。その手には楽譜があった。
少年は子供らしい笑顔を浮かべる。
「『アヴェ・マリス・ステラ』の曲が聴きたい気分なんだ」
「…神は信じてないんでしょう?」
「あぁ、神は信じてない。でもマザーの演奏は嫌いじゃない」
「……普通に「好き」って言えないの?」
「「好き」は愛してる女にいう言葉だろ?」
「…マセてるねェー……」
何とも言えない表情の彼女に、少年が背を押す。
「弾いてよマザー」
「…はいはい、分かりました」
マリアは渋々と礼拝堂の中央に設置されたパイプオルガンの元へ向かう。
シワが目立つものの白く細長い手が、白と黒の盤の上を踊って美しいメロディーが奏でる。
少年は特等席だと言わんばかりに、最前列に座った。
礼拝に訪れていた客も演奏を聞きつけ、顔を覗かせたシスターたちも耳を澄ます。子供たちにとってはちょうどいい子守唄になった。
『聖母』の衝動はその時には鎮まっていた。
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夢の世界にあるのは夜の浜辺と、黒い海。
そこで一際輝く星の光がマリアを照らす。
一陣の大きな風が吹いて、黒いワンピースを揺らした。
吸い込まれるように裸足のままその星に近づいていけば、必然と彼女の体が海の中に沈んでいく。
『クスクス クスクス』
彼女を導く星が笑っている。
だが、本当に笑っているのはマリアだ。彼女の体はとうとう海の中に消えた。
暗い水面から白い手がにゅっ、と伸びて天へ向かう。
『クスクス クスクス クスクスクス』
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少女が笑うような声が聞こえ続け、マリアは目を覚ました。
ひどく喉が渇いた。
喉の渇きと呼応するように、袖を捲って肌を引っ掻き始める。
伸びる黒爪でえぐり続け、肌からはひっきりなしに血が伝う。
頭に付けていたウィンプルという白い頭巾を捨て、彼女は顔面の皮を剥ぎ取った。
ついで肉の焦げるような音と匂いが室内に響く。
老女の顔から変わり、年若い女の────素顔の『聖母』がそこにいた。
「ふ、ふふ、ふふふふ」
うごめく影から黄金の大剣が現れる。それを握りしめると、マリアは覚束ない足取りで部屋を出た。
服装は修道服から黒いワンピースへと変わる。
「
渇きを癒すには、人間の血を浴びるしかない。それ以外に何も考えられない。
夜の廊下にぺたぺたと歩く音と、剣を引きずる音が響く。
誰ともすれ違わないまま、彼女は礼拝堂に着いた。
吸い寄せられるようにその足はパイプオルガンの前へ向かう。
椅子に座った彼女は何を弾こうかと考えた。
「アヴェ・マリス・ステラ」
夜にも関わらず、客がいた。祈祷用の席に家出少年が座っている。
「もう就寝の時間は過ぎてますよ」
「夜型なんだ」
「あぁ。だからそんなに小さいんですね」
その身長は彼女の腰ほどだ。嫌味を感じ取った少年が眉を寄せる。
マリアは剣を壁に立てかけ、リクエストされた曲を弾き始めた。
「知ってる?この街には聖母マリアを象徴するマリス=ステラの星があるの」
「…あぁ。マリス=ステラと、聖マリアを信仰する教会。それとここのマザーの名前は「アヴェ・マリア」」
偶然にしては面白い、と少年は語る。
「『アヴェ・マリス・ステラ』の歌詞の“Mutans Evae nomen────エヴァの名を変えられて”。はじめてカテリーナに教えられた時、ここだけ変な詩句だと思った」
「カテリーナって母親?」
「………姉だ」
途端に少年の顔は苦虫をつぶしたような顔になった。苦手なのかもしれない。
「それで?『アヴェ・マリス・ステラ』が聖マリアと関係があると思ったサイラスは、同じくマリアに関係があるマリス=ステラの臨めるこの街に来たわけですね」
「アヴェ・マリアは──いや、お前は名前を変えたのか?」
演奏が止まる。
女の瞳が紅色から黄金に変わる。額には聖痕が現れ、肌が褐色に変貌していった。
「好奇心は猫をも殺すと言うでしょう?君は知らないのかしら」
「…イヴ」
「………ふぅん?」
「EvaやAveの音の響きと似てる。あと、ここで読まれる「アダムとイヴ」の本」
「ふふふ、よく分かったわね。大正解よ」
「何で
「……は?」
サイラスは椅子から降り、マリアに近づいた。
「まるで、誰かに見つけて欲しいみたいだな」
「誰に?」
「…さぁ、アダムじゃないのか?あんたがイヴなら」
彼女は一瞬きょとんとして、ついで爆笑した。
アダムはすでに死んだ。だのにいったい、何をこの子供は言っているのか。
「じゃあ、あなたがわたしのアダムになってくれるというの?」
「少年趣味かよ、キメェ」
「確かに子供は好きだけど、そーいう意味の「好き」じゃないわよ」
あぁ、とマリアは思った。
愛しいと思う反面、背筋が伸びるような不思議な感覚に包まれる。
赤い瞳が彼女の何重にも重なった皮を暴いて、その中身を剥き出しにするようなこの感覚。
殺すには少し惜しい気もする。
「それで君は『マリア』の秘密を暴いて、死ぬ覚悟はできてるのでしょう?」
「ハァ?まだ死なねぇよ」
『聖母』に微笑まれながら、サイラスは続けた。
「
少年の言葉を聞き、マリアは目を丸くする。
賢い癖に、頭のネジが外れたことを言う。
緩む頬は自然と出たもので、久方振りに心から笑った気がした。
真理を見るというのは本気だろう。何とも愚かで、恐れ知らずな人間であろうか。
「ふふふ、興が冷めてしまったわ。もう帰りなさい」
「………」
「そう警戒しないで。わたしはたかが人間一人に執着するほど暇じゃない。だからもう二度とここには来ないことね」
黄金の瞳が、一瞬少年を
すぐに紅い瞳に戻ると、少年の襟を掴んで引きずった。そのまま外に出ると、宙へ子供の体を投げる。
「痛ってぇな…!」
「あぁ。あとこれあげるわ」
少年に向かって、マリアは普段付けているロザリオを投げた。
サイラスが眉を寄せ、投げられた物を掴む。
「神、信じていないんでしょう?だからあげます」
「……嫌がらせかよ」
「皮肉よ」
自分も神を嫌っているから、とはマリアは言わなかった。
「じゃあねぇ、いつか真理が見られるといいですね」
「……フン」
サイラスはロザリオを乱雑に服のポケットに突っ込むと、振り向かずに歩き出した。
ハネ気味の赤毛が夜風に吹かれて揺れるのを、マリアは目を細めて見ていた。
「
ハートか、それとも千年伯爵か。
「わたしのメシアにならないかなぁ……なんて、あるわけないわよねぇ」
ただいつか本当にこの世の真理を暴いたならば、神も黙ってはいないだろう。さすれば人道から外れ、呪われる。
「まぁ、わたしほど呪われている人間もいないか!」
ハハッ、と彼女は自嘲気味に笑って、大剣を影に戻した。
息を吐いたマリアは、心臓に胸を当てる。ドクドクと脈打つその音に目を細めた。
「……?変ね。どうしてこんなに………こんなにもたかが一人の人間なんかに…」
自分を見ていた赤い目が、瞼の裏にこびりついて離れない。
あの目は彼女を────イヴを、どこまでもまっすぐに見ていた。
「……あっ、そうか」
“イヴ”を見ていたアダムはいない。いや──神に復讐を誓ったその時から、アダムもまた彼女だけを見ることはなくなった。
世界でたった一人だけのこされてしまったような寂しさ。
誰もイヴを、見てくれない。彼女は今も生きてここにいるのに。
死ねない。どこまで行っても死ねない。
死ねない。死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない────!!
「フッ、フ、ハハハハハハ」
闇から大剣が現れる。
彼女は腕を斬った。再生する。
彼女は足を斬った。再生する。
彼女は臓物を取り出した。再生する。
彼女は脳みそを引きずり出した。再生する。
何度何度自分を殺しても、再生し続けた。
そしてとうとう地面に額をこすりつけて笑うことしかできなくなった女は、一瞬表情を消す。
見上げた先には、マリス=ステラが微笑んでいた。
「アダム…ねぇ、アダム……わたしをひとりにした。アダム、わたしはまだ生きてる。死ねないよぉ。まだ生きてるの?まだ生きてる、どうやったら。まだ生きてる。まだ、まだ、まだッ────!!!!」
もう、つかれました
その言葉とともに彼女の最後のネジが──『聖母』の何かが、壊れた。
こうして死を乞うバケモノが生まれた。彼女は微笑んで笑うのだ。少女のように。
バケモノはそして死を求め、最期の歩を進めた。
家族が罪で苦しんでも、泣いても、構うことなく進み────、
────『破壊』を経て、死への扉を開いた。
⚫︎備考⚫︎
キュロス二世のキュロスは表記揺れで「クロス」とも表記される。