次がこのお話の幕引きになると思います。番外はまた気が向けば書くかもしれません。
【パパと娘】
学校から帰宅して、さっさと自分の宿題を終わらせてからロードちゃんの宿題を手伝っている。
わたしはともかくロードちゃんは35年以上生きているんだから、義務教育で習う範囲は一通りできるはずだ。しかしその上で、わからない、と言う。
つまりこれは、彼女の甘え。わたしにかまって欲しくて仕方ないんだ。
この──何といじらくして、愛らしいことか。
ただ、面白見たさでやっている部分もある。その最たる被害者がわたしの
そんなパパの格言が、「たし算とひき算ができれば人間生きていけんだろ」である。こわい。
とは言いつつ、ロードちゃんの宿題を解いている様子をたまに見るから、少なくともジュニアスクールで習う程度はできるでしょ。
「いや、普通にティッキーが解いた問題間違ってるよ」
「え……?」
「だからボクが後で直してんの」
「えぇ……?」
本格的にジョイドに義務教育を受け直させなきゃダメだ。そもそもあの放浪癖の男が、ノアに覚醒する前に学校に通っていたとも思えない。
それを言うとあの肉体はネアのものであるはずだから、今のジョイドの精神は記憶と共に新たに植え付けられたものかもしれないとか、思考の堂々巡りに陥る。仮に本当に植え付けられたものなら、そんな所業ができるのは千年公しかいない。
「うぅ…」
プシュウ、と音を立てて机に突っ伏したわたしの頭を、右手でペンを回しながらロードちゃんが撫でてきた。
「そんなにボクの宿題難しかったぁ?」
「わたしが宿題で悩んでるわけじゃないって、わかって言ってるでしょ……もう」
「そんなにいっぱい悩まなくていいんだよ、マリア」
母を苦しめるものがいるなら、母を脅かすものがいるなら。
わたしに害をなすもののすべてを滅ぼしかねない真っ黒な瞳が至近距離にまで近づいて、めいいっぱい抱きしめてくる。
「よしよし、大丈夫。ボクがいるからねー」
「わたし子どもだけど、子どもじゃないんだけどなぁ…」
ロードちゃん、わたしがこの姿になってからすっかりお姉さんムーブを気にいってしまった。もちろんそれ以上に甘えてくるけどさ。
ギュウギュウ抱きしめられて窒息が脳裏に過ぎった時、方舟が動く気配があった。
ちょうど現在、14番目捕獲隊メンバーによる鬼ごっこが開催されている。今日もまた失敗に終わりそうだ。ネアが捕まったら、それはそれでからかい倒すつもりである。
デザイアスは大臣の仕事のため此度は不参加で、ジョイドにワイズリー、フィードラの三人が参加中。
千年公は以前の一件以来、ノアからネアとの接触禁止令が出されている。彼はションボリしていたが、仕方ないだろう。
「落ち着くのだ、ジョイド!!」
「い、痛いぶう〜〜!」
しかして、今日は様子が違った。いつもならフィードラ以外疲労困憊の体であるのに、ジョイドを抑えるように男二人が引きずられている。
「…あっ、ティッキー自我がメモリーに飲まれかけてんじゃん!」
ようやくわたしから離れたロードちゃんが、椅子からひょいと降りてジョイドの元へ近づかんとする。
「危ないよ、ロードちゃん。ワイズリーとフィードラに任せておこうよ」
「でも、ティッキーが心配だからさ」
「じゃあわたしも行く」
「ダメ!マリアじゃ簡単に吹っ飛ばされちゃうから」
ロードちゃんも似たような体の強度だと思うけどな。いくら現実世界の肉体にケガを負っても、平気だからって。
結局付いて行こうとしたけど、ロードちゃんが呼んだ千年公に捕まった。
わたしは彼とティータイムを取ることになり、そのままふくよかな腹を枕にして寝た。安眠だった。
⚪︎⚪︎⚪︎
場所はこぢんまりとした駅内にあるベンチ。真っ昼間、わたしともう一人以外ヒトの姿はない。
いやまぁ、どうしても来るのを譲らなかったドレットヘアーの人形が一体、わたしの手荷物の中にあるんだけど。
「ど」が付く田舎にいる現在地。電車もいつ来るかわからない。書かれているはずの時刻表は雨風にさらされた影響で、ちょうどその部分が見えなくなっている。
「よかったねェ、しばらく休暇が取れて」
「何でお前がいるんだ…」
ジョイドはそりゃあもう、本当にウンザリって顔でため息をつく。パパが娘と旅行に出かけることの何がおかしいと言うのだろう。
ただしこの旅は行き当たりばったりの、恐ろしいほど無計画な上で成り立っている。
いつも天パ気味の髪をさらに磨き上げた、浮浪者の出立ちの男。端正な顔も無精髭と瓶底メガネに隠されて、もはや元の面影もない。
「だけど、よくこの状況で千年公も許してくれたよなぁ」
「健全なる精神は、健全なる肉体に宿るってやつだよ、パパ」
「おう」
「………」
「…おい、そんな冷めた目で俺を見んな。意味はわかってるよ、流石に」
「………」
「つまり、健全な心は健全な体に宿る、って意味だな」
「…………体が健康であれば、それに伴って精神も健康であるってこと」
「へぇー、アンタ俺より頭いいな」
「うふふ、当然ですわ。この世界の大多数がお
「ヒデェこと言われてるわ、一応義理の娘に」
双子だったら秒で激昂しそうなものを、ジョイドはさほど気にした様子もない。これで内心本当に大して傷ついていないのだから、とんだ大物だ。
飄々として、掴みどころのない。その性格は元来の性格でもあり、メモリーに影響もされている、両方のものなのだ。
でも、だからこそ一つの物事に捉われ過ぎていると、この男の精神はたちまち大波に攫われるが如く不安定と化す。最近はずっとノアの仕事でオモテの、一般の人間として根無草の生活を過ごせていなかったから、その均衡はより崩れやすくなっている。
要するに、ストレスが溜まってるってこと。
心が健全でない。
「さっきの「健全なる精神の…」のついでに、ジョイドに
「おぉーどうぞ」
「わたしが話した「健全なる精神は、健全なる肉体に宿る」には元ネタがあってね」
1〜2世紀のローマの詩人、ユウェナリスという人物の『風刺詩』の一節から。その中に、人間が神に対して、健全なる体に健全なる精神が与えられるよう祈るべき──とあり、これが「祈る…」の部分が省かれて、今のような形で使われるようになった。
「この「健全の精神と肉体」が真に神に授けられているとして、精神と肉体を別個のものとして考えられるから、(14番目の肉体を持つ)あなたに正常に適用されるかわからないけど…」
「?いや、俺は俺だろ」
「……そうね。ジョイドはジョイドね。顔が気に食わないだけで」
「アンタほんと嫌いだよな、俺の顔…」
肉体と、精神。これに魂を入れたら三位一体。
わたしの精神は極地までぶっ壊れて、その末で肉体は一度滅んだ。けれども新たな神の
「あっ」
遠くで
ジョイドのダルダルなズボンを支えているサスペンダーを引っ張って知らせる。彼の顔を見たら、思ったより近くに瓶底メガネが存在を主張していて驚いた。
「…なに、アンタが考えてるかは知らんが。というか、何を抱えているかは知らないけどな」
「……何よ」
「俺たち家族から見て、心も肉体も健全とは対極に位置してそうなアンタにこそ、休む時間が必要だと思うぜ」
「今がその時よ」
「俺と旅をすることが、か?だったらロードやワイズリーと連んだ方が、アンタ的には幸せなんじゃないのか?」
「…勘違いしているようだけど、確かにあなたの顔は嫌いよ。けれどあなた自身は好き、愛している。だって家族だもの」
「……………お、おう。急なデレだな」
「それに、思い出はいくつあってもいい。でしょ?」
「思い出ね…」
旅の途中で、ジョイドはオモテで親交のある人間たちとも会った。その時ばかりはわたしも息を潜ませて、ロードちゃ……人形ちゃんと遊んでいた。
──────思い出を持って、マリアはどこへ行っちゃうの?
「ロード…?」と、ジョイドが辺りを見回した。ロードちゃんには連れてくる代わりに、人形役に徹するよう約束したんだけどな。
汽車はすでに着いた。車掌がわたしたちが乗り込むのを眉を顰めて待っている。
「“始まり”に向かって」
始まりの前には当然、終わりがある。
終わった後も、一つの星の光だけは潰えることはない。
マリス=ステラ。
そうして世界というものは、飽くことなく繰り返し続けている。