ラブストーリー   作:まなぶおじさん

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乾太郎編
一話


 源さくらの遺体を前にして、そっと深呼吸する。

 

 さくらの青ざめた顔が、ろうそくの火にふわりと照らされている。目は、あの日からずっと閉じられたまま。時の流れのせいで、肌という肌が腐敗しきっていた。

 さくらがこうなって、もう十年が経つ。

 それでも俺は、今も、源さくらのことが愛おしい。

 

 ――ほんとう、色々なことがあった。まるで走馬灯のように、これまで全てのことを思い出す。

 

 

―――

 

 

 席替えの時期になると、大抵のクラスメイトは大袈裟な声を出したり、笑ったり、難なく隣の女子と仲良くなれたりする。

 対して乾太郎は、「ふうん」と他人事のように鼻息をつくのだ。これは、小学三年になった今でも変わらない。

 

 席替えが終わり、それだけで周囲のクラスメートが好きに盛り上がる。お前の近くかよーと毒づく男子、よろしくねーと挨拶する女子、仲良くしてねと微笑む教師、無言になるしかない太郎。

 別にふてくされているわけでも、他人嫌いという事でもない。生まれつき口下手で、趣味らしい趣味といえばサガでの散歩ぐらいなもので、それでいてとくべつ勤勉というわけでもないから、こうして空気のような存在になってしまっているだけだ。

 席替えをしても、誰も太郎のことなんか気にも留めない。

 新しい場所で頬杖をついて、第三者めいた目つきをしながら、心のどこかで「いいなあ」と思いつつ、太郎は次の授業を緩慢に待つ。周囲と比べて、やっぱりシケた生き方をしているなとつくづく思う。

 

「――あ」

 

 その時、目が合った。

 

「君は、えーっと……」

 

 前の席の女の子と、目が合った。

 

「そうだ、乾君だったね。私は源さくら、これからもよろしく!」

 

 笑顔の源さくらと、目が合った。

 ――不意過ぎて、すぐにでも言葉を吐き出せない。ばかみたいに口を半開きにさせながら、「あ」だの「あ」だの「あ」だのと、蚊の鳴くような声しか出せない。

 

「あ……ごめん、驚かせちゃったかな?」

 

 さくらの眉が、困ったようにへこむ。

 そんなさくらの言葉に対して、自分は必死に首を横に振るう。

 

「そっか。よかったよかった」

 

 それだけで安心してくれたのだろう。さくらは、目と口で笑ってみせてくれた。

 

「今日からお前の隣かー。よろしくなー」

「うん! よろしくねー」

 

 さくらの隣になった男子が、けらけらと挨拶をする。さくらも、慣れたような素振りで受け答えする。

 ――ふたたび、沈黙する。

 久々に、誰かから笑われた気がする。

 それだけでも、今日という日は、これまでの一日とは違うように思える。

 

 

―――

 

 

 夜――。

 宿題を終えると同時に、母からの「ごはんよー」が聞こえてくる。腹の音を隠さないまま、太郎は居間まで足を運ぶ。

 テーブルの上には夕飯が置かれていて、父はビールを片手にテレビを視聴している。母は「座ろ座ろ」と手招きしていた。

 従うように、太郎は席につく。テレビから聞こえてくる笑い声をバックに、いただきますと手を合わせる。

 

「おお、太郎。今日の学校はどうだった?」

 

 父が、屈託のない微笑みとともに、定番の質問を投げかけてきた。

 いつもなら面白みの無い声とともに「何もなかったよ」と告げるだけなのだが、今日は、

 

「……まあ、席替えがあったよ。それだけ」

「あー、席替えか。懐かしいなー、一大イベントだった気がするな、うわ懐かしい」

 

 母も「そうですねえ」と笑う。どうも、いつの世代も席替えというものは愛されてきた文化らしい。

 

「どうだ。新しい友達、できそうか?」

「うーん、まあ、頑張ってみるよ」

「そうか」

 

 それ以上、父は何も言わなかった。

 そうしてシシリアンライスを口にしながらで、なんとなく、源さくらのことを思い出す。

 さくらとは、今年になって初めて知り合ったクラスメイトだ。といっても、これまでに接点なんて全くなかったのだけれど。

 

「席替えねえ……本当に懐かしいわ。それがなかったら、隣の家の赤石さんとは縁がなかったでしょうねえ」

 

 母が、どこか遠い目をしながらで微笑している。

 ――そんな自分に対して、さくらは笑顔で挨拶を交わしてくれた。それだけだというのに、未だにあの光景が幾度もフラッシュバックする。

 源さくら、か。

 自分とは、正反対のような人だ。

 さくらは人当たりが良くて、勉強もできて、運動神経も抜群で、学芸会の出し物である白雪姫の主役に抜擢されるほどの人物だ。

 すごいな、とつくづく思う。自分と違って、ありとあらゆるものを持っているな、と思う。

 

 最後に好物のイカゲソを食べたのだが、あまり味がしなかった気がした。

 

 

―――

 

 

 自画自賛が苦手な太郎でも、これは幸運だと言える境遇が二つほどある。

 一つは、サガに生まれて良かったということ。

 一つは、家と学校との距離がかなり近いこと。

 サガはメシも美味ければ風景も良い。何の目的もなくほっつき歩くには、極めて最適な世界だと思う。

 そして後者は、小学生からすれば喉から手が出るほど欲しい環境であるはずだ。お陰で、無遅刻無欠席を貫けている。

 

 だから太郎が、教室で一番乗りすることも珍しくはない。一人で席について、頬杖をついて、なんとなく窓の方を見て、次にやってきたクラスメートから一応の挨拶を受けて、ごくごく小さい声で「おはよう」と返して、次第に教室が活気づくのを待つ。だいたいは、こんなふうに毎日を過ごしている。

 ――太郎が教室に入って数十分後、最初は数人程度だったクラスメートが、やがては数十人にまで膨れ上がっていった。

 正直、この空気の方がほっとする。少人数だと、否応なく他人と干渉するハメに陥るかもしれないからだ。

 

 席についたままで、賑やかになった教室をじっと見渡す。

 とはいえども、好き好んで孤独に落ち着いているわけではない。友達が欲しいとは思っているし、話しかけられたら全力で対応する腹積もりではいる――ではいる、だけだ。実際は慌てふためき、何と言っていいのかわからなくなって、結果的に沈黙で返してしまうことが多い。ゲームやテレビドラマを見ているわけでもないから、自分から話題を切り出すことも出来やしないのだ。

 まあ、慣れたけどさ。

 あちこちから聞こえてくる雑談をよそに、太郎は窓をじっと見つめる。今日は晴れ、春らしくずいぶんと暖かい。そういえば今日は劇の練習があったな、まあ一言だけのセリフだから楽だけれども、

 

「おはよう、乾君!」

 

 緩慢だった意識が、突如として叩き起こされた。

 頬杖をついたままで、半ば本能的に真正面を見る。

 笑っている源さくらと、目が合った。

 

「え、あ、」

 

 そしてそのまま、さくらから目を逸らしては、聞こえるか聞こえないかの声量で「おはよう」と返す。

 今の今までは、こんな挨拶でもまかり通ってきた。人と接したいくせに、人見知りであるが故に、堂々とした挨拶すら返せないという自業自得めいた悪循環。

 ――しかし、

 

「乾君っ」

 

 名前を呼ばれて、再びさくらと向き合う。

 

「おはよーございますッ!!」

 

 すごい声だった。

 さくらは、ずっと自分の目を見据えている。極めて真剣な顔で、じっと。

 ――爆発的な緊張感が生じる

 ――適当に流してはいけない空気が、降って湧いてくる。 

 さくらは、こんな自分に挨拶を交わしてくれた。ならば、やるべきことは一つしかない。

 なけなしの覚悟を、呼吸とともに吸い上げる。握りこぶしまで作って、わざとらしく咳をつく。永遠にも近い準備動作を、さくらは最初から最後まで見届けている。

 そして太郎は、口から大きく息を吹いて、

 

「お、おはよう、源さん」

 

 大きい声を出せた、とは思えなかった。あくまで、先程よりはマシという程度。

 ――それでもさくらは、満足げに笑顔を振りまいてくれた。

 

「乾君」

「な、なに?」

 

 さくらは、あくまで笑ったまま、

 

「――挨拶は基本だよ。できないと、みんなに認めてもらえないよ?」

 

 何も返せなかった。

 その言葉には、有無を言わさぬ正しさが込められていたから。

 

「おはよー、さくらー」

「あ、おはよう! 松木君!」

 

 隣の席の男子から挨拶されて、さくらは当たり前のように明るく返す。

 その場面を見つめながらで、太郎はさくらの笑顔を、さくらの忠告を何度も何度も思い返す。それ以外のことなんて、見えもしないし聞こえもしない。

 ――そして、さくらが太郎のことを一瞥した。にこりと笑われた。

 力なく、席の背もたれに身を預ける。

 

 挨拶か。

 確かに、その通りかもしれない。

 

 

―――

 

 

「おはよう、乾君」

「お、おはよう」

 

 それからというもの、さくらとは毎朝になって挨拶を交わし合うようになった。

 だからといって、これを機に友達同士になったとか、話し相手になれたとか、そういった進展はない。朝来て、挨拶して、さくらの周りに別の友達が寄ってきて、それでおしまいだ。

 ――それでも、

 それでも、自分にとっては大きな進歩だと思う。家族以外との、人の関わりが増えたのだから。

 自分は好き好んで孤立しているわけではない。だからこそ、さくらが自分と向き合ってくれたという事実が、本当にほんとうに嬉しかった。

 

「おはよう、乾」

「あ、ああ、おはよう」

 

 近くの席に腰掛けた男子が、けらけらと挨拶する。太郎も、たどたどしくも挨拶し返す。

 ここ最近は、近くに座るクラスメイトが挨拶をしてくれるようになった。かといって、やっぱりそれ以上の進展はないのだけれど。

 ――それでも、

 それでも、太郎からすれば大快挙ともいえる変化だった。人と目を合わせて、人と声を交わす、この時点で「生きている」と実感できるのだ。

 人は、一人では生きてはいけない。

 改めて、それを実感する。

 

 その時、さくらが「今日もやるよー」と背筋を伸ばす。さくらの友人たちが「お」と笑い、

 

「張り切ってるねー」

「あったりまえだよ。白雪姫に選ばれたんだよ? バリ頑張るよ!」

「すっげえなーお前。はあ、なんで俺はセリフの多い役に選ばれちゃったんだろ」

「だめだよー、ちゃんと頑張ろうよ!」

「はいはい」

 

 劇の主役に選ばれてからというもの、さくらは体全体でめちゃくちゃ張り切るようになった。

 練習時間になれば率先して動き回るし、長いセリフだってすらすらと言おうとする。まだ前途多難な感じはするものの、今のさくらは十分に輝いているように見える。

 少なくとも、自分よりは。

 

「乾くんっ」

 

 不意に声をかけられ、体全体でビビった。

 頬杖が崩れかけたが、なんとか持ちこたえる。

 

「な、なに?」

「乾君はどう? 私の演技」

「え、あ、」

 

 いきなり問われて、ろくな声をひねり出せない。

 それでもさくらは、ずっと返答を待ち続けている。期待しているような表情を、変えようとはしない。

 男子が見ている、女子から見つめられている、さくらが真正面から微笑んでくれている。

 ――そんな、ひたむきなさくらに対しての評価なんて、最初から決まりきっていた。ただ、言葉にできなかっただけで。

 つばを飲む。

 だから、言おう。

 求められているのなら、その答えを示そう。

 

「え、えっと」

 

 さくらが、小さく頷く。

 

「そ、その」

 

 息を、大きく吸う。

 そして、アタマの中の引き金を、引いた。

 

「い、いいと、思う。すごく熱心で、いい」

 

 語彙力なんて、全く感じられない感想。

 

「――そっか」

 

 それでもさくらは、

 

「そっか、やったやった! 答えてくれてありがとう! 乾君!」

 

 さくらは、心の底から笑ってくれるのだ。

 真正面から、至近距離から「それ」を見て、体の内が真っ赤になっていく。チャイムが鳴って、グループがつまらなさそうに解散していく。

 

 授業なんて、まるで頭に入らなかった。

 

 

―――

 

 

 学芸会当日、教室は大いにざわついていた。

 それもそのはずで、

 

 ――さくらはどうしたんだ?

 ――せんせー、さくらはどうしたんですかー?

 ――何かあったのかなあ?

 ――もしかして、事故に遭ったとか?

 

 学芸会が開催されるまで、あと数分。

 様々な憶測が、教室全体を駆け巡っている。クラスメイトは既に衣装に着替えており、あとはさくらさえ来ればゴーゴゴーするのみだ。

 さくらと仲が良いグループが、ひそひそ話をしている。教師も、困ったように首をかしげている。街の人Aである太郎も、頬杖をつかせながらで「どうしたんだろう」と思う。

 それから数分ほどが経過したが、未だにさくらは姿を見せない。学芸会も、そろそろ始まろうとしている。やばいんじゃないかと、クラスメートが危機感を抱きはじめた頃、

 

「先生、ちょっといいですか?」

 

 引き戸が控えめに開けられ、髪が薄い教頭が頭だけを出す。一体何ごとかと、全クラスメイトが教頭を注目した。

 先生が、教頭に歩み寄る。そしてそのまま、先生の耳元めがけ教頭が何かをささやき出す。爆発的に生じた緊張感が、一切の無駄口を許さない。

 ――長いようで短いひそひそ話が終わった。

 先生は、無言のままで教壇の前に立った。

 

「さくらさんは、」

 

 先生の、明らかに浮かない顔が目に入る。

 

「さくらさんは、残念ながら風邪にかかってしまって……今日は来られないそうです」

 

 瞬間、教室全体が再びざわついた。マジか、本当か、そんな、あんなに頑張ったのに、大丈夫かな、あんなに頑張ってたのにね、白雪姫は誰がやる、あんなに頑張ってたのにな。

 あんなに頑張っていたのに――そのセリフが、太郎の耳に何度も届く。不快めいた感情が、胸の内から湧いて出てくる。

 思わず、ため息が漏れた。

 

「代理を決めましょう。セリフは先生が何とかしますから、誰か候補者はいませんか?」

 

 

 □

 

 

 数日後になって、さくらは無事に教室へ戻ってきた。何事もなく笑ったまま、いつもの挨拶を交わして、周囲から寄せられた「残念だったね」を一身に受けながら、

 

「ごめんっ」

 

 黒板の前で、さくらが手と手を合わせる。周囲は何事かと顔を覗かせる。

 

「私のせいで、学芸会がむちゃくちゃになっちゃったりしなかった? ほんとう、みんなを巻き込んでごめんなさいっ」

 

 騒がしかったはずの教室から、声が途絶えた。

 さくらはどうしようもないくらいに頭を下げていて、周囲のクラスメイトもさくらを注目して、それきり。太郎に至っては、口を半開きにするほかなかった。

 時計の音が聴こえてくる、外からバイクの音が響き渡る、隣のクラスからばか笑いが漏れる。さくらは、微動だにしない。

 ――君は悪くない、風邪なんて誰だってひく。気になんかしないで、学芸会は何とか無事に終わったから。

 心の中で、何度もそうリピートする。それじゃあ伝わらない。

 直接言葉にしなければ、意思なんてものは認められない。

 握りこぶしを作る。勇気をかき集めようとする。すうはあと呼吸する。

 言、

 

「気にするなよ、さくら」

 

 教室の一箇所から、声が走った。

 さくらと仲良しの男子が、けらけら笑っている。

 

「学芸会は何とか終わったからさ、大丈夫大丈夫。それより、風邪の方はヘーキだった?」

 

 さくらの女友達――松尾から、気の利いた言葉が飛んでくる。

 

「――うん、白雪姫はちゃんと終わらせたから。気にしないで、さくら」

「そうそう、風邪ならしゃーねって」

「さくらちゃんも残念だったよね。頑張ってたのに」

 

 それをきっかけに、クラスメイトから次々と励ましの言葉が発せられる。誰も、さくらのことを責めたりなどしていない。

 顔をうつむかせたきりのさくらは、それらの言葉を耳にし続け、しばらくはそのままでいて――

 

「あ、あ、」

 

 さくらが、ひどく申し訳なさそうに顔を上げて、

 

「ありがとう、みんな! 大丈夫! さくらはこう見えてさくっと生きてるんだよ! なんつってー! さくらなんつってー!」

 

 クラスメートが、なんだよそれと笑う。

 太郎は、心の底から安堵した。

 

 

―――

 

 

 小学四年生になっても、特にこれといった変化は起こっていない。暇ならサガを散歩して、シシリアンライスを食べながら「今日は何もなかったよ」と家族に報告。学校では、

 

「おはよう、乾君!」

「お、おはよう」

 

 さくらと挨拶を交わしあったあと、さくらは前の席にそっと腰掛けた。そうしてさくらは、周囲のクラスメイトから声をかけられる。

 ――何の偶然か、この前の席替えで、自分は再びさくらの真後ろの席に割り振られたのだ。

 別に、さくらとは友達というわけではない。挨拶を交わし合うだけの、それきりの仲。

 けれど、さくらの真後ろになれた時は、自然と「やった」と思っていた。

 

「ねーさくら」

「なにー?」

 

 松尾が、実に楽しそうに笑いながら、

 

「今日も記録更新するの? やっちゃうの? やっちゃう?」

「もちろん! リレー選手に選ばれたからには、とこっとん頑張るよーっ」

 

 さくらが握りこぶしを作る。男子も女子も「おおーっ」と感嘆の声を漏らす。

 ――流石だなあと、頬杖をつかせながらで太郎は思う。

 元々運動神経が良かったさくらは、今年になってめでたくリレー選手に選ばれたのだ。その選出に文句を言うクラスメイトは一人もおらず、むしろ大いに期待された。

 そうしてさくらの特訓が始まったわけだが、そのかいあって、先日の練習においては男子顔負けのタイムを叩き出してしまったのだ。

 これにはクラス全体も沸いて、男子からも女子からも称賛の声を浴びた。太郎も、心の中で「すごいな」と評価したものだ。

 

 そんなわけで、今のさくらは話題の人となりつつある。最初から張り切るつもりでいるのか、腕まくりまでしてみせた。

 ――今年は、報われるといいな

 太郎が、ぼんやりとそう思う。

 

 

―――

 

 

 あっという間に運動会がやってきた。

 

 気温もそうだが、クラスメイトそのものも実に暑苦しいことになっている。他のクラスめがけギンギラな対抗心をむき出しにしていて、事あるごとに「絶対優勝するぞ」と叫ぶ。それは他のクラスも同じで、自分以外は敵という姿勢を隠そうともしない。まさに戦争状態だった。

 

 そんな中で、太郎は半ばやる気なく競技を潜り抜けていった。

 もちろん、それを表に出すことはしない。親も見に来ているし、クラスメイトからも熱烈な応援が飛んでくるものだから、やることはやらねばならない。

 早く終わって欲しいなあと、暑いなあと思いながら、何やかんやで最終競技のクラス対抗リレー戦まで生き延びることができた。

 そう、クラス対抗リレー戦だ。

 さくらにとっての、一番の大勝負が始まろうとしている。

 グラウンドの真ん中に座りながら、リレー選手の入場を待つ。クラスごとの持ち点がそう変わらないせいか、ほぼ全員のクラスメイトがそわそわしている。

 

 このリレーで、全てが決まる。

 この後で、さくらが報われるかどうかが決まる。

 

 気づけば、さくらのことは「他人」とは思えなくなっていた。話し相手でもないくせに、何度も挨拶をするだけの仲なのに。

 ――だからこそ、なのだと思う。

 さくらはクラスの人気者であるにも関わらず、日陰者である自分に必ず挨拶をしてくれた。最初は戸惑うばかりだったその習慣も、今となっては人生の一部として馴染んでいる。さくらと挨拶を交わすたびに、今日一日のはじまりを実感するようにもなった。

 さくらからすれば、やって当たり前だと思っているだろう。

 けれど自分からすれば、その当たり前が、何だか心地よいものになってきている。

 

 さくらは知ってか知らずか、自分の人生にささやかな実りを与えてくれたのだ。

 だから、思う。ぜひ、報われて欲しいと。

 

『それでは、リレー選手の皆さん、出場してください』

 

 実行委員会の、エコーがかった声。

 クラスメイトが、グラウンドの隅を注目する。太郎の意識も、選手の列に向けられた。

 音楽とともに、一列に並んだリレー選手が音を立てて行進してくる。誰もが無駄口など叩かず、体育座りをしたままで一同を見届けている。

 ここにきて、緊張感が生じてきた。

 だいじょうぶ、さくらはたくさん頑張ってきた。学年でもトップの記録を叩き出した。本人曰く「夜まで練習していた」とのことだから、慢心の類にも陥っていないだろう。

 いける、

 

 その時、さくらの行進がぴくりと止まった。

 

 リレーの列が止まり、グラウンド全体から控えめなざわめきが溢れ出る。クラスメイトの一人が首をかしげ、太郎も「どうしたんだ?」と小さく呟いて、

 

 さくらが、その場で倒れた。

 

 時間が止まった、と思う。

 夏空の下で、ばたりという音が響いた、と思う。

 誰もが何も出来ない中――さくらは、足を手で抑えながら、その身で転げ回って、何度も何度も痛い痛いと叫び続けた。

 

 さくら!

 

 誰かの叫び声が、時を動かした。

 教師が、さくらめがけ全速力で駆けつける。続いて、客席から二人の大人が、靴も履かずにグラウンドへ飛び込んでいった。

 とあるクラスメイトは、狼狽する。とあるクラスメイトは、さくらめがけ駆けつける。とあるクラスメイトは、必死に耳を塞いでいる。

 太郎は右往左往した後に――勢いのままで立ち上がり、半ば考えなしにさくらのもとへ駆けつける。出来ることなんてまるで思いつかないけれど、せめて言葉くらいは、

 そうして、足を抱えたさくらの元に辿り着いて、

 

 さくらは、ひどいくらいに、泣いていた。

 

 涙と鼻水混じりに、「なんで」が聞こえてくる。一度だけじゃなくて、二度も、三度も。

 周囲の大人達が、数人のクラスメートが、両親らしい大人二人組が、必死になってさくらへ声掛けをしている。だというのに、さくらの声だけが鮮明に耳に届いてくる。

 たぶん、あまりにも印象的だったからだと思う。さくらの口から引きずり出されたその言葉は、まちがいなく、魂の叫びだったから。

 こんなのひどい、太郎は思う。

 何とかしたい、太郎は強く思う。

 けれど、何と言って良いのかなんて、まるで分からなかった。ろくな努力をしたこともない自分が、さくらに投げかけられる言葉なんて、まるで思いつかなかったから。

 

 何処かからか、担架が運ばれてきた。近くにいたクラスメイトがこぞって離れていき、大人達の手でさくらが担架の上に運ばれていく。太郎は、その一連の流れを見守ることしかできない。

 

「――ごめんなさい」

 

 確かに聞こえた。喉から絞り出したような、さくらの声を。

 どうして、そんなことを言うのだろう。さくらは何も悪くないのに、それよりも自分のことを考えて欲しいというのに。

 

 結局、何の言葉もかけられないままで、さくらは保健室まで運ばれていった。

 その後で、何事もなかったかのようにリレーは再開された。順位は二位だった。

 

 

―――

 

 

 運動会が終わった後でも、親から「頑張ったな」とねぎらいの言葉を投げかけられても、太郎の機嫌は少しも良くはならなかった。

 夕飯を食べ終え、すぐにでも自室に戻り、ベッドの上で仰向けに転がる。見慣れた蛍光灯が何だか眩しく見えて、リモコン操作で電気を消した。

 

 何も見えなくなる。

 ほっとするように、ため息をつく。

 そして、真っ先にさくらのことを考える。

 

 さくらは間違いなく、今日という日のためにたくさん頑張ってきた。女子というハンデすら乗り越えて、学年トップの記録すら叩き出せるほどに。

 それなのに、今日のあれは何だ。さくらが何をしたんだ。

 さくらとは挨拶を交わし合うだけの仲だが、だからこそ、こう思う。

 ため息。

 さくらは、理不尽に怒っていいはずなのだ。それなのにさくらは、ごめんなさいと告げた。

 最初は、何を言っているんだと思った。けれど後になって、「ああ」とわかった。

 

 ――自分のせいで、こんなにも迷惑をかけてしまってごめんなさい。

 

 さくらは、そう言ったのだと思う。 

 だってさくらは、去年の学芸会でも同じようなことを口にしていたから。

 腕を、目の上に置く。

 なんて、優しい人なんだろう――今更か。こんな自分のことを、認めてくれるような人だから。

 

 確かに、さくらは今回も結果を出せなかったと思う。

 けれど、さくらは確かに頑張った。結果を出すために、ひたむきに努力し続けてきた。この事実は、同じクラスメイトとしてよく知っているつもりだ。

 

 僕は、そんなさくらのことを認めているんだ。

 努力もロクに出来ない男だからこそ、そう思うんだ。

 

 

―――

 

 

 数日後、さくらは松葉杖を片手に教室へ戻ってきた。

 有無を言わさず、クラスメイトたちがさくらの元へ駆けつける

 

「だ、大丈夫だったか? さくら」

「大丈夫大丈夫、あと数日もすれば完治するってお医者さんも言ってたし」

 

 けろりとした口調で言いながら、ぺろりとさくらは笑う。そんなさくらを見て、クラスメイトたちの緊張感が一斉に抜けていく。

 

「はー、それなら良かったけどよ……」

「心配してくれてありがとう。……私の方こそ、ごめんなさい。みんなに迷惑をかけちゃって」

 

 松尾が、いやいやいやと首を横に振るい、

 

「そんなこと言わないで。さくらは何も悪くないよ」

「でも、順位が……」

「気にしない気にしない、二位でも上等だよ上等」

「そうそう。むしろ、さくらちゃんの方が可哀想っていうか……あれだけ頑張ってたのに」

 

 太郎は、小さく頷く。

 リレーの結果は、個人的にはどうだっていい。特に成績に響くわけでもないし、そもそも二位という時点でけっこう上手くいったと思う。

 それよりも心配なのは、さくら本人のダメージだ。

 だってさくらは、あの時、

 

「ああ――うん! 私なら大丈夫、来年に向けて頑張るから」

「え?」

「今年は失敗しちゃったけど、来年は上手くやれるようにするよ。大丈夫大丈夫、シュバババーッて走るコツは掴めたから、来年こそはバリバリーって活躍してみせるよ!」

 

 間。

 

「そ、そう? ならいいけど……無理、しないでね?」

「大丈夫大丈夫!」

 

 そうして、ぎこちなくもさくらは席についてみせる。

 周囲のクラスメイトは、さくらの勢いの気圧されでもしたのか、どこか苦笑いをこぼしていた。

 まあ、無理もないよなと思う。

 また、怪我をしてしまったら大変だ。

 たぶん、クラスメイトの反応こそが正しいのだろう。けれど太郎は、さくらの後ろ姿を見て、つい、

 

「あ、あの」

「あ、何かな? 乾君」

 

 あえて何も考えずに、勢いのままで、

 

「ら、来年は、その、頑張って。期待、してる」

 

 言った。

 思うと、自分から声をかけたのは初めてな気がする。あまりにたどたどしくて、気の利いた事なんて一つも言えなかったけれども、伝えたいことは伝えられた。それは断言できる。

 ――だから、さくらは笑ってくれているのだと思う。

 

「ありがとう、乾君!」

 

 さくらは、本当に嬉しそうにしながら、ピースしてくれた。

 

 

―――

 

 

 しかし、世界というやつはそう簡単には変わってくれないらしい。

 

 学芸会だが、本番当日になってさくらが腹痛を起こしたり、台風がやってきて急遽中止になったりと、さくらがステージの上で輝く日は来なかった。

 そしてリレーだが、さくらの出番がやってきては、突如の肉離れが発生「し続けた」。三年連続ということで、教師の対処が俊敏になっていったのが実に印象深い。

 さくらの方も段々慣れていったのか、四年の頃は号泣して、五年の頃は小さく泣きじゃくって、六年になるとため息をつくだけになっていた。

 流石にもう、慣れてしまっていたのだろう。

 

「――ごめんなさい! 肝心なところで、みんなに迷惑をかけちゃって……」

 

 それでもさくらは、皆に謝り続けた。ふてくされることなく、誠心誠意を込めて頭を下げっぱなしでいた。

 だからか、さくらのことを邪険に扱うクラスメイトは皆無だった。それがせめてもの、救いだったと思う。

 

 

 そして世界というやつは、そう簡単には変わらないものであるらしい。

 

「おはよう、乾君!」

「おはよう」

 

 小学校を卒業するその日まで、さくらはずっと、自分に対して挨拶をし続けてくれた。

 僕は、この人のことをずっと忘れないと思う。

 

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