ラブストーリー   作:まなぶおじさん

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二話

 中学生になって、少しだけ変化が訪れた。

 乾太郎という男は相変わらずぼっちだったし、生きているだけで親から愛され続けたし、世を恨んだりも楽しんだりもしていない。変わったことはといえば、さくらとは別の教室に割り当てられた事ぐらいだ。

 寂しい、とは思わない。ただ時折、上手くやれているのかなと考えることはある。

 小学校ではツイてないの連続だったのだ。せめて、中学校では青春を謳歌して欲しいものだと、太郎はらしくもなく願っている。

 

 そうして早朝から教室に入り、数人のクラスメイトと目が合う。ただ一人として、友人と呼べる者はいない。

 ――ただ、これだけは言う。

 

「おはよう」

「おお、おはよう、乾」

 

 何事もなかったかのように、太郎は席につく。適当に教科書の一冊を引っ張りだし、適当に教科書の1ページを目にする。

 

 

 □

 

 

 昼休み。

 太郎は何の感慨もなさそうな目つきで、教室をゆっくり見渡す。お喋りに興じる女子二人に、休日の予定を立てている四人グループ、読書をしている男子、机の上で眠りこけている女子と、それぞれがやりたいことをやっている。

 暇だ、と思う。

 早く授業が始まって欲しい、とすら思う。

 時計を見てみれば、次の授業まであと二十分ほどの間が空いている。

 いつもなら居眠りをしているか、意味もなく教科書を読んでいるか、校内をふらついているか――席から、ゆっくりと立ち上がる。

 今日は、何となく散歩してみるか。

 背筋をきっちり伸ばしながら、教室の出入り口を潜り抜けていく。誰も、そんな太郎のことを気にも留めない。

 

 難なく廊下から出てみれば、カップルらしき二人組が前を通り掛かる。一瞬だけ羨んではみたものの、すぐに「関係ないな」と思いながら、適当に歩む方向を決めて、ろくに考えもせずに校内を歩き回る。

 そんな間でも、生徒たちの姿がよく伺えるのだ。誰も彼もが楽しそうな顔をして、時には小突いたりする奴もいる。本人たちからすれば「たったそれだけのこと」だろうけれど、太郎からすれば一生かかっても出来ないことだ。

 他人との接し方が分からない、けれども他人嫌いではない。

 これでは、孤高にすらなれない。

 中1の分際で、将来が心配だなと思う。

 

 1-D前を横切ろうとした時、引き戸が音を立てた。

 太郎が「あ」と声を漏らし、

 

「あ」

「あっ」

 

 引き戸を開けた生徒の顔を見て、思わず大きめの声が出た。

 

「あ、久しぶりだね、乾君。こんにちはっ」

「え、あ、」

 

 源さくら。

 数カ月ぶりに、その顔を見たと思う。距離だって、そう離れてはいない。

 動揺のあまり、上ずった声しか出せない。これがもし、名も知らぬ生徒か何かだったら、何事もなかったかのように逃げ出していただろう。

 けれど、自分の目の前にいるのは、他でもない源さくらだ。

 自分に、礼儀というものを教えてくれた人だ。

 

「こ、こん、こんにちは」

「うん、こんにちは」

 

 体を強張らせてまでの、渾身の一言だった。

 それを、さくらは笑顔で返してくれた。

 

「乾君は今、何してたの?」

「え、あ……散歩、かな」

「そうなんだ! いいね、校内で散歩っていうのも」

「そう、かな」

「うんうん」

 

 屈託もなく、うんうんと頷かれる。

 

「み、源さんは何を?」

「あ、私? 私は水を飲みに行こうかなって」

「水?」

「うん。勉強ってエネルギーを使うから、ここ最近は水ばっかり飲んでるの」

「へ、へえ。勉強」

「そう!」

 

 さくらが、ぐっと握りこぶしを作る。

 

「私、Z高校に向けて勉強を始めたんだ」

 

 ボンクラ気味だった脳ミソに、静電気が走る。

 

「Z高校って、あの?」

「うん、あの」

 

 その名前は、太郎ですら知っている。

 Z高校とは県内屈指の名門校で、ここに入れれば就職には困らないだの、威張れるだの、入って損はないだのと、とにかくポジティブシンキングな評価がついて回る高校なのだ。

 もちろん、太郎からすれば逆立ちしたって入学は出来ない。

 けれどもさくらは、その領域に足を踏み入れようとしている。何の疑いもなく、目をきらきらさせながら。

 

「だからこの三年は、勉強に費やそうと思って」

「す、すごい」

「えへへー」

 

 思う。

 これまでのさくらは、何の努力も報われない人生を送り続けてきた。それなのにさくらは、努力というやつに絶望したりせず、叶うかどうかも分からない目標まで立てているのだ。

 自分には、一生できそうにもないことだ。

 だからこそ太郎は、振り絞ってまでも言う。

 

「み、源、さん」

「なに?」

 

 ひと呼吸、

 

「がん、ばって」

「あ……うん! ありがとう、乾君!」

 

 ――そうしてさくらは、水飲み場まで立ち去っていった。

 太郎は何となく、その後姿をしばらく見届ける。

 

 

―――

 

 

 休み時間。1-Dの前を通り過ぎようとした時、太郎は「また」見た。ひたすらにノートと戦っているさくらの姿を。

 そう、まただ。休み時間、昼休み、更には放課後も、さくらはずっと勉強に明け暮れている。さくらのことだから、本当に三年間はこのままぶっちぎるつもりでいるのだろう。

 ――何をそこまで。

 そう思って、何となく「ああ」と思った。

 さくらはきっと、今度こそ勝者になりたいのだと思う。小学校の頃は散々だったものだから、今度こそは揺るぎない成功を得たいのだろう。

 ――何度も頑張れる人なんだな。

 一度きりの努力すら、自分にとっては難しいというのに。それなのにさくらという人は、何度も何度も努力積み重ねることが出来るのだ。幾度も幾度も、結果をへし折られようとも。

 

 太郎は、らしくなく思う。あの人こそ、報われるべき人だと。

 

 

―――

 

 

 中学生活も三年目を迎え、あっという間に試験日が降りかかってきた。

 太郎は勤勉というわけではないが、かといって極端な馬鹿というわけでもない。少なくとも赤点を取らない程度の成績は保ち続けていたし、先生からも「R高校ならいけるだろ」というお墨付きもいただいている。

 Z高と比べるとランクはガク落ちするが、別に一流を目指しているわけでもなし、どこかに合格出来ればそれでいいやと太郎も思っている。

 

 そんなわけで、太郎は試験会場まで歩んでいた。体を震わせながらで。

 いくばくかの保証があるとはいえ、やはり試験というものは緊張してしまう。一歩進むごとに、一つの不安が腹の底から芽生えてくる。忘れたらどうしよう、シャーペンを落としたらどうしよう、漢字を書けなかったらどうしよう、試験会場まではこの道程で良いんだよな――

 頭をぶんぶん振るう。ここまできたからには、もうやるしかないのだ。

 そうして、横断歩道が目に見えてきた。あそこを通れば、試験会場まで一直線だ。

 歯を食いしばり、握りこぶしを作り、深呼吸して――

 

 そして、太郎は見た。横断歩道の向こう側、老婆を背負っている源さくらの姿を。

 

「み、源、さん」

「あ――乾君、おはよう」

 

 重いだろうに。それでもさくらは、何でもないように笑って、挨拶をする。

 

「お、おはよう……そ、それで、その」

「あ、ああ。おばあさんね、道端で倒れていて……それで、近くの病院まで運んでいるんだ」

「そ、そう、なの?」

 

 さくらが、「そうなの」と頷く。未だ、笑みを絶やさないまま。

 ――何をやっているんだ自分は。

 こういう力仕事は、男がやるものだろうが。

 

「み、源さん。そ、それなら僕が」

「え」

「い、いいから。僕なら大丈夫だから」

 

 言うべきことは、言ったはずだ。

 

「――ううん、私は大丈夫。それよりもほら、乾君も試験でしょ? 早く行ったほうがいいよ?」

 

 それなのに、さくらからはこう返されてしまった。

 

「で、でも」

「私は大丈夫だから。うん、気を遣ってくれてありがとう、乾君」

 

 そして有無を言わさず、さくらは太郎の横を通り過ぎていった。

 振り向く。

 さくらは、何の迷いもなく病院へ歩んでいく。三年ぶりの栄光よりも、誰かの命を救うために、その身を差し出している。

 ――太郎は、心の底から思う。

 神様が見ているのなら、ぜひ、源さくらを報わせてほしい。あんな優しい子が救われないなんて、うそだ。

 

 さくらの後ろ姿が、遠いものになっていく。力なく肩で呼吸した後で――太郎は、横断歩道を渡る。

 

 

―――

 

 

 無事に志望校へ合格し、長い長い入学式を無事に乗り越え、あくび交じりに教室へ足を踏み入れる。

 ――やはりというか、中学時代とそれほど代わり映えはしない。けれど、それがかえって気が楽というか。

 雑談と期待に盛り上がる生徒たちをよそに、太郎は適当な席に腰かける。席の割り振りは、少し経ってからだ。

 はあ。

 ここまで来るのに、何だか長かった気がする。ここへ入るのにそれなりの勉強はしたし、試験だって緊張しなっぱなしだった。合格を確認した時は、親ときたら一晩中大騒ぎしていたっけ。

 背もたれに、身を預ける。

 ふと、思い出す。

 さくらは、無事に合格できただろうか。人助けをしたのだから、報われて欲しいものだけれど――

 

「あ、乾君」

 

 物思いが、ぶっつりと断ち切られた。

 

「同じクラスだったんだねー。今年もよろしくね」

「あ、あ、」

 

 太郎の目の前に、源さくらがいてしまった。

 不意な現状に、言葉が上手く回らない。何を言うべきか、気の利いた一言でも口にするべきか、頭の中で何度も何度も考えて、

 

「う、うん。よろしく、源さん」

「うん」

 

 そしてさくらは、前の席へゆっくりと腰かけた。

 ――さくらの存在に気づいたのだろう。中学時代からの同級生だった女子が、「あ、さくらじゃーん」と近づいてきた。

 

「おひさー、でもないか。同じ高校だったんだねー」

「うん、まあねー」

「……てことは?」

「あはは。まあ、そゆこと」

「そっかぁ」

 

 さくらは笑っていた、どこか力なく。

 ――太郎は、ため息をつく。

 

 なんでだよ、

 なんで。

 

―――

 

 

「おはよー、乾君」

 

「おはよう」

 

 

 

 高校に進学してからというもの、やることは全く変わらない。

 

笑顔で親と過ごし、勉強もそれなりにこなして、苦手な体育を乗り越えながら、けだるげに休み時間をやり過ごす毎日。自分は一生このままなのかなと、他人事のように思う。

 

 そして、頬杖交じりで覗き見える光景はといえば――ぐったりと席に身を預けている、さくらの姿だ

 

相変わらずの人気者だし、部活の勧誘もしょっちゅうやってくるが、さくらはひとたびも関心を向けない。ただただ、机の上に横たわるばかり。

 

 ――休み時間になって、

 

「ねえさくら、あんた体育得意でしょ? 水泳部に入ろうよー」

 

 うつ伏せ気味だったさくらが、クラスメイトに首だけを向けて、

 

「あ、あー……いいよいいよ、私はこのままでいい」

 

「えー?」

 

「いーの、ろくなことにならないから」

「そお?」

「そお」

「うーん……まあ、気が向いた時にでも、来てみてよ」

「うん」

 

 そうして、クラスメイトが去っていく。さくらが、力なく「あー」と唸る。

 その様子を見て、太郎は「だろうな」と思う。

 

 彼女は今まで、あまりにも報われなさすぎた。今までは気丈だったさくらも、志望校から落ちたことによって遂に紐が切れてしまったのだろう。

 額に、手を当てる。

 中学時代に、さくらは言った。この三年間は、勉強に費やすと。

 さくらのことだ、本当にそうやって生きてきたのだろう。目標へ向けて、文字通りその身を捧げてきたはずだ。

 それなのにさくらは、当日になって人助けを優先してしまった。できてしまった。

 そのせいで、時間に遅れでもしたのだと思う。或いは、疲れでもしたか――いずれにせよ、さくらは志望校に落ちた。またしても報われなかった。

 

 とても、優しい人なのに。

 

 今日も挨拶を交わしてくれたあの子に、何か言ってあげたい。

 けれど、自分ごときの慰めなんて煽りにしかならない気がする。

 クラスメイトが、笑った。

 さくらは、やるべきことをやれる人だ。それなのに、降って湧いた不運がさくらの積み重ねを台無しにしてしまう。

 全力でやってみて、勝てばそれでよし、負けてしまったとしても「次は頑張るぞ」と奮起は出来るはずだ。さくらはそういう人だ。

 

 さくらの真に不幸なところは、「機会すら与えられない」という点だ。

 これは堪える。勝ち負け以前に、実力すら発揮出来ないままで本番の時を流されてしまうのだ。努力した分だけ、なおのこと腹が立つだろう。

 それを何度も何度も味わわされれば――そりゃあ、人生なんてクソどうでもよくなる。

 ため息。

 さくらとは、去年も今年も挨拶で繋がってきた仲だ。それだけじゃなく、これまでに何度か、さくらの「いいところ」を目にしてきた。

 そんなさくらに、何かできれば。

 けれど、ただ生きているだけの自分の言葉なんて、これっぽっちも響きはしないだろう。

 

 今はただ、せめて、さくらの後ろ姿を見守るしかない。

 

 

―――

 

 

 それからというもの、太郎はまたしてもさくらの後ろで座ることになった。

 家と学校の距離は少しだけ遠くなったものの、あくまで少しだ。むしろ授業開始までの時間が短くなって、丁度いいとすら思う。

 友達付き合いに関しては、やはりこれまた皆無だ。何を今更だから、悲観ぶったりはしないのだけれども。

 ――高校生活になって、変わったことはといえば、

 

「おはよう、松尾」

「お、おはよーっす、乾」

 

 自分から、挨拶をするようになった。

 だからか、クラスメイトからはとくべつ嫌われたりなどはしていない。そのお陰からか、体育教師から「二人組になってー」と言われようが、自然とクラスメイトが誘ってくれたりもする。

 無味無臭の学校生活を送っていることに変わりはないが、少なくとも陰鬱としていないだけマシだ。

 

 そしてさくらはといえば、机の上で頬杖をつく日々が続いている。最初は部活の勧誘もあったのだが、何度も何度も流していくうちに、それもなくなっていった。

 ただ勉強をして、普通に体育を受けて、友達とドラマの話なりをして、放課後になればすぐに帰宅する。勉強熱心だったさくらの姿は、もうどこにもない。

 

 そんなさくらを見て、太郎は、「おせっかい」をしようと思った。

 ――さくらが、教室に入ってくる。太郎が、おそるおそるさくらに視線を向けて、

 

「おはよう、源さん」

「あ、」

 

 ほんのちょっとの間を置いて、

 

「おはよう、乾君」

 

 さくらが、にこりと笑ってくれた。

 ――さくらは自分に、挨拶の大切さを教えてくれた。だから、嫌われ者にならずに済んでいる。

 少なくとも、さくらは自分のことを変えてくれた。何も成してないなんて、そんなことはない。

 

 自分に出来るのはここまでだけれど、これだけは主張したかった。

 それでさくらが笑ってくれるのなら、自分はいくらでも挨拶をしよう。

 

 

―――

 

 

 高校一年になって、はやくも半年が過ぎた。

 やはり太郎の学園ライフに、劇的な変化などは訪れていない。なるだけ挨拶を交わし、たくさんの授業を潜り抜けて、放課後になればすぐに帰る。これの繰り返しであるから、まるで変わりようがないのだ。

 たぶん、一生このままなんだろうなと思う。それでも、派手に嫌われたりするよりはマシであるはずだ。

 そんなふうにして、太郎は今日も生き残っている。

 

 源さくらはといえば、ここ最近になって、よく笑うようになった。

 

「さくらー」

「なにー?」

 

 休み時間。

 今もさくらと付き合い続けている松尾が、さくらの机にまで近づいてくる。

 

「今日さ、時間があったらどっかに遊びに行かない? せっかくの金曜だし」

「あー」

 

 さくらが、松尾に対して両手を合わせる。

 

「ごめんっ。今日もダンスの練習をするつもりで……ね?」

 

 そう言うさくらは、机の中から黒いCDケース――アイアンフリルのジャケットを、松尾めがけ掲げる。

 

「おー、やるねえ。やっぱ本気でアイドルを目指してるんだ」

「うん! アイアンフリルのような、きらめくアイドルになるんだ。絶対に!」

 

 松尾が、ほほーとニヤつき、

 

「ま、目標があるのはいいこってす。……しっかし、アイドルか。難しそーね」

「うん……」

 

 そこは否定できないのだろう。さくらはうつむき、

 

「でも、アイアンフリルは、水野愛は言ってた」

 

 すぐに首を整え、すぐに笑顔になる。

 

「失敗をしてもいい、後悔をしてもいい。だからこそ、次に繋げられるんだって」

 

 後ろの席からでは、さくらの横顔しか伺えない。

 それでも、太郎はわかる。さくらは、いつも通りの前向きさを取り戻せたのだと。

 

「その言葉を聞けて、思ったんだ。こんな失敗ばかりの私でも、諦めなければ、今度こそ生まれ変われるんじゃないかなって」

「……へえ」

「私は絶対に、アイドルになるよ。今度は私が、みんなに笑顔を与えたい。アイアンフリルのように」

「そっか。うん、いいんじゃないかな」

 

 テレビ事情には疎い太郎でも、アイアンフリルの名前は聞いたことがある。

 今をきらめくトップアイドルグループで、どのメンバーにも熱心なファンがついているのだとか。クラスメイトの口からも、そういった話が飛んでくることがある。

 どうして、ここまでの人気があるのか、正直よく分かっていなかったのだが――今のさくらを見て、心の底から納得した。

 

「じゃ、アイドルになったら優先券ちょーだいな」

「あはは、いいよー」

「っしゃー」

 

 その時、チャイムが鳴った。

 

「あ、時間だ。ちゃおー」

「ちゃおー」

 

 アイドルには、アイアンフリルには、人を立ち直らせる力がある。その事実を、太郎は今ここで実感した。

 ――みんなに笑顔を与えたい

 それでもやっぱり、さくらは「他人」のことを忘れない。らしいなと、太郎は微笑し、

 

「あ」

 

 さくらが、机の中から教科書を引っ張り出そうとした時だろうか。さくらの手が、ついCDケースにぶつかって――固い音が、床から鳴り響く。アイアンフリルのCDジャケットが、太郎の足元に落ちていた。

 一瞬だけ、触っていいものかと迷う。

 いや、挨拶をする仲じゃないか。

 そう開き直って、そっと、CDケースを拾い上げ、

 

「これ」

「あ、」

 

 さくらは一瞬だけ、意外そうに目を丸くする。

 ――そしてさくらは、こんなにも近くから、

 

「……ありがとう、乾君」

 

 僕に向けて、太陽のように笑ってくれた。

 ――何も考えられないまま、CDケースをさくらに渡す。さくらが、小さく頭を下げる。

 

「……あ、あの」

「うん?」

 

 衝動的に、使命感めいたものが芽生えたのだと思う。

 熱に浮かされたまま、けれども言うべき言葉は決まっていた。

 

「そ、その……アイドル、がんばって。僕も、応援するから」

 

 ひどくたどたどしかったけれども、言いたいことは全部口にできた。

 ――さくらは、

 

「あ……ありがとう! うん! わたし、頑張るよ!」

 

 こんな僕の言葉に、笑顔で応えてくれた。

 

 授業が始まったが、ぜんぜん頭に入らない。アイアンフリル、さくら、さくらの笑顔、この3つが頭の中でずっとずっと回り続けている。

 

―――

 

 

「太郎」

 

 味のしないシシリアンライスを口にしている最中に、父から名前を呼ばれた。

 ついびっくりしてしまいながらも、父の方へ目を向ける。

 

「どうした。今日は何か、あったのか?」

「え……ま、まあ、うん、まあ」

 

 何もない、と嘘をつくことだって出来た。けれど太郎はあえて、「ある」と返事してしまう。

 たぶん、否定なんてしたくなかったのだと思う。そうしてしまえば、大切な感情が取り消しになってしまうような気がして。

 

「なんだ、友達と面白いことでもしたのか?」

「あ、いや、そういうわけじゃないんだけれど」

 

 これは本当だ。

 ――父は、ほほおと笑って、

 

「好きな人でも、できたか?」

 

 それは本当だ。

 自分はきっと、みっともない顔をしてしまっているのだろう。父も母も、実に実に楽しそうな表情を浮かばせている。

 太郎はただただ、黙秘権を貫くしかない。

 

「まあ」

 

 父が、湯気の立った味噌汁を口にする。

 

「相談があったら、いつでも言うんだぞ」

「はいはい」

 

 あえて、半ば投げやりに返事をしてやる。

 それでも父と母は、いつまで経っても笑顔を崩そうとはしない。

 

 

―――

 

 

 やるべきだろうか。太郎は、今になって心底悩んでいた。

 

 これから自分は、さくらに対して一世一代の大勝負を仕掛けようとしている。前の席に座っているさくらを凝視しながら、机の中に手を突っ込みつつ。

 手順はこうだ。自分からさくらに声をかけて、出すモノを出して、正直な感想を述べて、あとは何やかんやで話を繋げられれば「勝ち」。

 それだけだ。

 もちろん、とてつもなく難しい。

 散々シミュレートしたくせに、今になって不安が積りに積もってくる。失敗したらどうしよう、下心を見抜かれたらどうしよう、嫌われたらどうしよう、クラスに知れ渡ったらどうしよう――

 数分考えて、やっぱりやめようかなとさえ思う。他人付き合いを面倒くさがっていた自分に、いっちょまえの恋をする資格なんてあるはずがないのだ、とすら思う。

 口から、マイナス思考のため息を吐く。

 意味もなく、うつむく。

 さくらは明るく、元気よく、これから歌って踊れるようになる女性だ。対して自分は、ただただそれなりに生きてきただけ。

 明らかに釣り合わない。下手に接触しようものなら、さくらに迷惑をかけてしまうかも。

 クラスのどこかで笑い声が響いてくる、アイアンフリルについての語り合いが聞こえてくる、「乾君」と呼びかける声が聞こえてくる、

 

「乾君」

 

 目から覚めたように、首をがくりと上げる。

 

「どうしたの? 何か、凄く元気がないようだけれど……」

 

 いつの間にか、さくらが振り向いていた。太郎に対して、しかも声までかけて。

 対して太郎は、「あ」とか「あ」とか「いや」としか口に出来ない。

 

「大丈夫? 無理しない方がいいよ?」

 

 首を、横に振るう。

 そして、さくらのきょとんとした顔が、視界いっぱいに映り込んだ。

 

「それとも、何か悩んでるの?」

 

 太郎は未だに、口ごもんだまま。けれどもさくらは、そんな太郎に対して、

 

「私で良かったら、相談に乗るよ?」

 

 まるで友達のように、笑いかけてくれる。

 ――それだけでもう、だめだった。

 自分のものにしたいという邪な感情が、止まらなかった。

 

「あ、いや、」

 

 いや、じゃない。

 太郎はすかさず、かつゆっくりと、机の中から「それ」を取り出す。

 

「これ、聴いてみたんだ」

 

 机の上にソレを置いた瞬間、さくらの顔が輝いた。

 

「これ、アイアンフリルの! どうだった? どうだった?」

 

 前のめりになるさくらを前にして、太郎の体温はもはや爆発寸前だった。

 けれども、少しも嫌ではない。

 

「えっと、凄く良かった。元気が出てくる、というのかな……聞き心地が凄く良い」

「でしょでしょ?」

 

 だって、つい笑ってしまえているから。

 さくらといえば、まるで自分のことのように二度頷き、同意してくれている。

 

「音楽のことはよく知らなかったんだけれど、これは良いと思う」

「うん、いいよねえアイアンフリル。私も、家の中ではずっとかけっぱなしだよー」

「僕もそう。音楽をかけながら何かをするのって、こう、いいよね」

「ねー、いいよねー。私なんて、つい創作ダンスしちゃう」

「へえ、いいね」

「まだ下手だけどね」

 

 さくらが、えへへと笑う。

 

「でもいつかは、アイアンフリルのようになりたいなあ」

「なれるよ」

 

 間髪入れず、本能的に答えた。

 

「なれる、かな?」

「うん、なれると思う。だって源さんは、頑張れる人じゃないか」

「そ、そう? まあ、肝心なところで持っとらんかったけど……」

「でも、今度は上手くいくとおも、」

 

 首を、横に振るう。

 

「今度は上手くいくよ。僕も、その、応援するから」

「本当!?」

 

 さくらの笑顔が、もっと明るくなる。

 太郎のすべてが、鷲掴みにされた。

 

「ありがとう、乾君!」

 

 また、その言葉を聞けた。

 

「うん。よーし、乾君のために、もっと頑張らないといけないねー」

「無理はしないでね。怪我とかしたら、大変だし」

「うん、そこは気をつけてる。経験もあるしね」

 

 さくらが、苦笑いをこぼす。

 今のさくらにとって、過去の失敗は単なる思い出でしかないのだろう。それを知れて、太郎は小さく頷けた。

 

「……源さん」

「なに?」

 

 言おう。

 持っていないと思い込んでいるさくらに対して、遠回しでささやかな励ましを。

 

「源さんのお陰で、こんなにも良い曲を知ることが出来たんだ」

「え、私?」

「うん。源さんの話を聞いて、アイアンフリルに興味を抱いて。それで、ね」

「本当?」

「ほんとう」

「そっかー……それはいちファンとして、うれしいなあ」

「うん」

 

 さくらは、間違いなく持っている。

 

「ありがとう、源さん。良い曲を教えてくれて」

 

 人を、変えてしまえるほどの力を。

 

「――こちらこそ、聴いてくれてありがとう。乾君」

 

 僕を、恋に落としてしまう笑顔を。

 

 チャイムが鳴る。たぶん、授業の内容なんて頭に入らない。

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