中学生になって、少しだけ変化が訪れた。
乾太郎という男は相変わらずぼっちだったし、生きているだけで親から愛され続けたし、世を恨んだりも楽しんだりもしていない。変わったことはといえば、さくらとは別の教室に割り当てられた事ぐらいだ。
寂しい、とは思わない。ただ時折、上手くやれているのかなと考えることはある。
小学校ではツイてないの連続だったのだ。せめて、中学校では青春を謳歌して欲しいものだと、太郎はらしくもなく願っている。
そうして早朝から教室に入り、数人のクラスメイトと目が合う。ただ一人として、友人と呼べる者はいない。
――ただ、これだけは言う。
「おはよう」
「おお、おはよう、乾」
何事もなかったかのように、太郎は席につく。適当に教科書の一冊を引っ張りだし、適当に教科書の1ページを目にする。
□
昼休み。
太郎は何の感慨もなさそうな目つきで、教室をゆっくり見渡す。お喋りに興じる女子二人に、休日の予定を立てている四人グループ、読書をしている男子、机の上で眠りこけている女子と、それぞれがやりたいことをやっている。
暇だ、と思う。
早く授業が始まって欲しい、とすら思う。
時計を見てみれば、次の授業まであと二十分ほどの間が空いている。
いつもなら居眠りをしているか、意味もなく教科書を読んでいるか、校内をふらついているか――席から、ゆっくりと立ち上がる。
今日は、何となく散歩してみるか。
背筋をきっちり伸ばしながら、教室の出入り口を潜り抜けていく。誰も、そんな太郎のことを気にも留めない。
難なく廊下から出てみれば、カップルらしき二人組が前を通り掛かる。一瞬だけ羨んではみたものの、すぐに「関係ないな」と思いながら、適当に歩む方向を決めて、ろくに考えもせずに校内を歩き回る。
そんな間でも、生徒たちの姿がよく伺えるのだ。誰も彼もが楽しそうな顔をして、時には小突いたりする奴もいる。本人たちからすれば「たったそれだけのこと」だろうけれど、太郎からすれば一生かかっても出来ないことだ。
他人との接し方が分からない、けれども他人嫌いではない。
これでは、孤高にすらなれない。
中1の分際で、将来が心配だなと思う。
1-D前を横切ろうとした時、引き戸が音を立てた。
太郎が「あ」と声を漏らし、
「あ」
「あっ」
引き戸を開けた生徒の顔を見て、思わず大きめの声が出た。
「あ、久しぶりだね、乾君。こんにちはっ」
「え、あ、」
源さくら。
数カ月ぶりに、その顔を見たと思う。距離だって、そう離れてはいない。
動揺のあまり、上ずった声しか出せない。これがもし、名も知らぬ生徒か何かだったら、何事もなかったかのように逃げ出していただろう。
けれど、自分の目の前にいるのは、他でもない源さくらだ。
自分に、礼儀というものを教えてくれた人だ。
「こ、こん、こんにちは」
「うん、こんにちは」
体を強張らせてまでの、渾身の一言だった。
それを、さくらは笑顔で返してくれた。
「乾君は今、何してたの?」
「え、あ……散歩、かな」
「そうなんだ! いいね、校内で散歩っていうのも」
「そう、かな」
「うんうん」
屈託もなく、うんうんと頷かれる。
「み、源さんは何を?」
「あ、私? 私は水を飲みに行こうかなって」
「水?」
「うん。勉強ってエネルギーを使うから、ここ最近は水ばっかり飲んでるの」
「へ、へえ。勉強」
「そう!」
さくらが、ぐっと握りこぶしを作る。
「私、Z高校に向けて勉強を始めたんだ」
ボンクラ気味だった脳ミソに、静電気が走る。
「Z高校って、あの?」
「うん、あの」
その名前は、太郎ですら知っている。
Z高校とは県内屈指の名門校で、ここに入れれば就職には困らないだの、威張れるだの、入って損はないだのと、とにかくポジティブシンキングな評価がついて回る高校なのだ。
もちろん、太郎からすれば逆立ちしたって入学は出来ない。
けれどもさくらは、その領域に足を踏み入れようとしている。何の疑いもなく、目をきらきらさせながら。
「だからこの三年は、勉強に費やそうと思って」
「す、すごい」
「えへへー」
思う。
これまでのさくらは、何の努力も報われない人生を送り続けてきた。それなのにさくらは、努力というやつに絶望したりせず、叶うかどうかも分からない目標まで立てているのだ。
自分には、一生できそうにもないことだ。
だからこそ太郎は、振り絞ってまでも言う。
「み、源、さん」
「なに?」
ひと呼吸、
「がん、ばって」
「あ……うん! ありがとう、乾君!」
――そうしてさくらは、水飲み場まで立ち去っていった。
太郎は何となく、その後姿をしばらく見届ける。
―――
休み時間。1-Dの前を通り過ぎようとした時、太郎は「また」見た。ひたすらにノートと戦っているさくらの姿を。
そう、まただ。休み時間、昼休み、更には放課後も、さくらはずっと勉強に明け暮れている。さくらのことだから、本当に三年間はこのままぶっちぎるつもりでいるのだろう。
――何をそこまで。
そう思って、何となく「ああ」と思った。
さくらはきっと、今度こそ勝者になりたいのだと思う。小学校の頃は散々だったものだから、今度こそは揺るぎない成功を得たいのだろう。
――何度も頑張れる人なんだな。
一度きりの努力すら、自分にとっては難しいというのに。それなのにさくらという人は、何度も何度も努力積み重ねることが出来るのだ。幾度も幾度も、結果をへし折られようとも。
太郎は、らしくなく思う。あの人こそ、報われるべき人だと。
―――
中学生活も三年目を迎え、あっという間に試験日が降りかかってきた。
太郎は勤勉というわけではないが、かといって極端な馬鹿というわけでもない。少なくとも赤点を取らない程度の成績は保ち続けていたし、先生からも「R高校ならいけるだろ」というお墨付きもいただいている。
Z高と比べるとランクはガク落ちするが、別に一流を目指しているわけでもなし、どこかに合格出来ればそれでいいやと太郎も思っている。
そんなわけで、太郎は試験会場まで歩んでいた。体を震わせながらで。
いくばくかの保証があるとはいえ、やはり試験というものは緊張してしまう。一歩進むごとに、一つの不安が腹の底から芽生えてくる。忘れたらどうしよう、シャーペンを落としたらどうしよう、漢字を書けなかったらどうしよう、試験会場まではこの道程で良いんだよな――
頭をぶんぶん振るう。ここまできたからには、もうやるしかないのだ。
そうして、横断歩道が目に見えてきた。あそこを通れば、試験会場まで一直線だ。
歯を食いしばり、握りこぶしを作り、深呼吸して――
そして、太郎は見た。横断歩道の向こう側、老婆を背負っている源さくらの姿を。
「み、源、さん」
「あ――乾君、おはよう」
重いだろうに。それでもさくらは、何でもないように笑って、挨拶をする。
「お、おはよう……そ、それで、その」
「あ、ああ。おばあさんね、道端で倒れていて……それで、近くの病院まで運んでいるんだ」
「そ、そう、なの?」
さくらが、「そうなの」と頷く。未だ、笑みを絶やさないまま。
――何をやっているんだ自分は。
こういう力仕事は、男がやるものだろうが。
「み、源さん。そ、それなら僕が」
「え」
「い、いいから。僕なら大丈夫だから」
言うべきことは、言ったはずだ。
「――ううん、私は大丈夫。それよりもほら、乾君も試験でしょ? 早く行ったほうがいいよ?」
それなのに、さくらからはこう返されてしまった。
「で、でも」
「私は大丈夫だから。うん、気を遣ってくれてありがとう、乾君」
そして有無を言わさず、さくらは太郎の横を通り過ぎていった。
振り向く。
さくらは、何の迷いもなく病院へ歩んでいく。三年ぶりの栄光よりも、誰かの命を救うために、その身を差し出している。
――太郎は、心の底から思う。
神様が見ているのなら、ぜひ、源さくらを報わせてほしい。あんな優しい子が救われないなんて、うそだ。
さくらの後ろ姿が、遠いものになっていく。力なく肩で呼吸した後で――太郎は、横断歩道を渡る。
―――
無事に志望校へ合格し、長い長い入学式を無事に乗り越え、あくび交じりに教室へ足を踏み入れる。
――やはりというか、中学時代とそれほど代わり映えはしない。けれど、それがかえって気が楽というか。
雑談と期待に盛り上がる生徒たちをよそに、太郎は適当な席に腰かける。席の割り振りは、少し経ってからだ。
はあ。
ここまで来るのに、何だか長かった気がする。ここへ入るのにそれなりの勉強はしたし、試験だって緊張しなっぱなしだった。合格を確認した時は、親ときたら一晩中大騒ぎしていたっけ。
背もたれに、身を預ける。
ふと、思い出す。
さくらは、無事に合格できただろうか。人助けをしたのだから、報われて欲しいものだけれど――
「あ、乾君」
物思いが、ぶっつりと断ち切られた。
「同じクラスだったんだねー。今年もよろしくね」
「あ、あ、」
太郎の目の前に、源さくらがいてしまった。
不意な現状に、言葉が上手く回らない。何を言うべきか、気の利いた一言でも口にするべきか、頭の中で何度も何度も考えて、
「う、うん。よろしく、源さん」
「うん」
そしてさくらは、前の席へゆっくりと腰かけた。
――さくらの存在に気づいたのだろう。中学時代からの同級生だった女子が、「あ、さくらじゃーん」と近づいてきた。
「おひさー、でもないか。同じ高校だったんだねー」
「うん、まあねー」
「……てことは?」
「あはは。まあ、そゆこと」
「そっかぁ」
さくらは笑っていた、どこか力なく。
――太郎は、ため息をつく。
なんでだよ、
なんで。
―――
「おはよー、乾君」
「おはよう」
高校に進学してからというもの、やることは全く変わらない。
笑顔で親と過ごし、勉強もそれなりにこなして、苦手な体育を乗り越えながら、けだるげに休み時間をやり過ごす毎日。自分は一生このままなのかなと、他人事のように思う。
そして、頬杖交じりで覗き見える光景はといえば――ぐったりと席に身を預けている、さくらの姿だ
相変わらずの人気者だし、部活の勧誘もしょっちゅうやってくるが、さくらはひとたびも関心を向けない。ただただ、机の上に横たわるばかり。
――休み時間になって、
「ねえさくら、あんた体育得意でしょ? 水泳部に入ろうよー」
うつ伏せ気味だったさくらが、クラスメイトに首だけを向けて、
「あ、あー……いいよいいよ、私はこのままでいい」
「えー?」
「いーの、ろくなことにならないから」
「そお?」
「そお」
「うーん……まあ、気が向いた時にでも、来てみてよ」
「うん」
そうして、クラスメイトが去っていく。さくらが、力なく「あー」と唸る。
その様子を見て、太郎は「だろうな」と思う。
彼女は今まで、あまりにも報われなさすぎた。今までは気丈だったさくらも、志望校から落ちたことによって遂に紐が切れてしまったのだろう。
額に、手を当てる。
中学時代に、さくらは言った。この三年間は、勉強に費やすと。
さくらのことだ、本当にそうやって生きてきたのだろう。目標へ向けて、文字通りその身を捧げてきたはずだ。
それなのにさくらは、当日になって人助けを優先してしまった。できてしまった。
そのせいで、時間に遅れでもしたのだと思う。或いは、疲れでもしたか――いずれにせよ、さくらは志望校に落ちた。またしても報われなかった。
とても、優しい人なのに。
今日も挨拶を交わしてくれたあの子に、何か言ってあげたい。
けれど、自分ごときの慰めなんて煽りにしかならない気がする。
クラスメイトが、笑った。
さくらは、やるべきことをやれる人だ。それなのに、降って湧いた不運がさくらの積み重ねを台無しにしてしまう。
全力でやってみて、勝てばそれでよし、負けてしまったとしても「次は頑張るぞ」と奮起は出来るはずだ。さくらはそういう人だ。
さくらの真に不幸なところは、「機会すら与えられない」という点だ。
これは堪える。勝ち負け以前に、実力すら発揮出来ないままで本番の時を流されてしまうのだ。努力した分だけ、なおのこと腹が立つだろう。
それを何度も何度も味わわされれば――そりゃあ、人生なんてクソどうでもよくなる。
ため息。
さくらとは、去年も今年も挨拶で繋がってきた仲だ。それだけじゃなく、これまでに何度か、さくらの「いいところ」を目にしてきた。
そんなさくらに、何かできれば。
けれど、ただ生きているだけの自分の言葉なんて、これっぽっちも響きはしないだろう。
今はただ、せめて、さくらの後ろ姿を見守るしかない。
―――
それからというもの、太郎はまたしてもさくらの後ろで座ることになった。
家と学校の距離は少しだけ遠くなったものの、あくまで少しだ。むしろ授業開始までの時間が短くなって、丁度いいとすら思う。
友達付き合いに関しては、やはりこれまた皆無だ。何を今更だから、悲観ぶったりはしないのだけれども。
――高校生活になって、変わったことはといえば、
「おはよう、松尾」
「お、おはよーっす、乾」
自分から、挨拶をするようになった。
だからか、クラスメイトからはとくべつ嫌われたりなどはしていない。そのお陰からか、体育教師から「二人組になってー」と言われようが、自然とクラスメイトが誘ってくれたりもする。
無味無臭の学校生活を送っていることに変わりはないが、少なくとも陰鬱としていないだけマシだ。
そしてさくらはといえば、机の上で頬杖をつく日々が続いている。最初は部活の勧誘もあったのだが、何度も何度も流していくうちに、それもなくなっていった。
ただ勉強をして、普通に体育を受けて、友達とドラマの話なりをして、放課後になればすぐに帰宅する。勉強熱心だったさくらの姿は、もうどこにもない。
そんなさくらを見て、太郎は、「おせっかい」をしようと思った。
――さくらが、教室に入ってくる。太郎が、おそるおそるさくらに視線を向けて、
「おはよう、源さん」
「あ、」
ほんのちょっとの間を置いて、
「おはよう、乾君」
さくらが、にこりと笑ってくれた。
――さくらは自分に、挨拶の大切さを教えてくれた。だから、嫌われ者にならずに済んでいる。
少なくとも、さくらは自分のことを変えてくれた。何も成してないなんて、そんなことはない。
自分に出来るのはここまでだけれど、これだけは主張したかった。
それでさくらが笑ってくれるのなら、自分はいくらでも挨拶をしよう。
―――
高校一年になって、はやくも半年が過ぎた。
やはり太郎の学園ライフに、劇的な変化などは訪れていない。なるだけ挨拶を交わし、たくさんの授業を潜り抜けて、放課後になればすぐに帰る。これの繰り返しであるから、まるで変わりようがないのだ。
たぶん、一生このままなんだろうなと思う。それでも、派手に嫌われたりするよりはマシであるはずだ。
そんなふうにして、太郎は今日も生き残っている。
源さくらはといえば、ここ最近になって、よく笑うようになった。
「さくらー」
「なにー?」
休み時間。
今もさくらと付き合い続けている松尾が、さくらの机にまで近づいてくる。
「今日さ、時間があったらどっかに遊びに行かない? せっかくの金曜だし」
「あー」
さくらが、松尾に対して両手を合わせる。
「ごめんっ。今日もダンスの練習をするつもりで……ね?」
そう言うさくらは、机の中から黒いCDケース――アイアンフリルのジャケットを、松尾めがけ掲げる。
「おー、やるねえ。やっぱ本気でアイドルを目指してるんだ」
「うん! アイアンフリルのような、きらめくアイドルになるんだ。絶対に!」
松尾が、ほほーとニヤつき、
「ま、目標があるのはいいこってす。……しっかし、アイドルか。難しそーね」
「うん……」
そこは否定できないのだろう。さくらはうつむき、
「でも、アイアンフリルは、水野愛は言ってた」
すぐに首を整え、すぐに笑顔になる。
「失敗をしてもいい、後悔をしてもいい。だからこそ、次に繋げられるんだって」
後ろの席からでは、さくらの横顔しか伺えない。
それでも、太郎はわかる。さくらは、いつも通りの前向きさを取り戻せたのだと。
「その言葉を聞けて、思ったんだ。こんな失敗ばかりの私でも、諦めなければ、今度こそ生まれ変われるんじゃないかなって」
「……へえ」
「私は絶対に、アイドルになるよ。今度は私が、みんなに笑顔を与えたい。アイアンフリルのように」
「そっか。うん、いいんじゃないかな」
テレビ事情には疎い太郎でも、アイアンフリルの名前は聞いたことがある。
今をきらめくトップアイドルグループで、どのメンバーにも熱心なファンがついているのだとか。クラスメイトの口からも、そういった話が飛んでくることがある。
どうして、ここまでの人気があるのか、正直よく分かっていなかったのだが――今のさくらを見て、心の底から納得した。
「じゃ、アイドルになったら優先券ちょーだいな」
「あはは、いいよー」
「っしゃー」
その時、チャイムが鳴った。
「あ、時間だ。ちゃおー」
「ちゃおー」
アイドルには、アイアンフリルには、人を立ち直らせる力がある。その事実を、太郎は今ここで実感した。
――みんなに笑顔を与えたい
それでもやっぱり、さくらは「他人」のことを忘れない。らしいなと、太郎は微笑し、
「あ」
さくらが、机の中から教科書を引っ張り出そうとした時だろうか。さくらの手が、ついCDケースにぶつかって――固い音が、床から鳴り響く。アイアンフリルのCDジャケットが、太郎の足元に落ちていた。
一瞬だけ、触っていいものかと迷う。
いや、挨拶をする仲じゃないか。
そう開き直って、そっと、CDケースを拾い上げ、
「これ」
「あ、」
さくらは一瞬だけ、意外そうに目を丸くする。
――そしてさくらは、こんなにも近くから、
「……ありがとう、乾君」
僕に向けて、太陽のように笑ってくれた。
――何も考えられないまま、CDケースをさくらに渡す。さくらが、小さく頭を下げる。
「……あ、あの」
「うん?」
衝動的に、使命感めいたものが芽生えたのだと思う。
熱に浮かされたまま、けれども言うべき言葉は決まっていた。
「そ、その……アイドル、がんばって。僕も、応援するから」
ひどくたどたどしかったけれども、言いたいことは全部口にできた。
――さくらは、
「あ……ありがとう! うん! わたし、頑張るよ!」
こんな僕の言葉に、笑顔で応えてくれた。
授業が始まったが、ぜんぜん頭に入らない。アイアンフリル、さくら、さくらの笑顔、この3つが頭の中でずっとずっと回り続けている。
―――
「太郎」
味のしないシシリアンライスを口にしている最中に、父から名前を呼ばれた。
ついびっくりしてしまいながらも、父の方へ目を向ける。
「どうした。今日は何か、あったのか?」
「え……ま、まあ、うん、まあ」
何もない、と嘘をつくことだって出来た。けれど太郎はあえて、「ある」と返事してしまう。
たぶん、否定なんてしたくなかったのだと思う。そうしてしまえば、大切な感情が取り消しになってしまうような気がして。
「なんだ、友達と面白いことでもしたのか?」
「あ、いや、そういうわけじゃないんだけれど」
これは本当だ。
――父は、ほほおと笑って、
「好きな人でも、できたか?」
それは本当だ。
自分はきっと、みっともない顔をしてしまっているのだろう。父も母も、実に実に楽しそうな表情を浮かばせている。
太郎はただただ、黙秘権を貫くしかない。
「まあ」
父が、湯気の立った味噌汁を口にする。
「相談があったら、いつでも言うんだぞ」
「はいはい」
あえて、半ば投げやりに返事をしてやる。
それでも父と母は、いつまで経っても笑顔を崩そうとはしない。
―――
やるべきだろうか。太郎は、今になって心底悩んでいた。
これから自分は、さくらに対して一世一代の大勝負を仕掛けようとしている。前の席に座っているさくらを凝視しながら、机の中に手を突っ込みつつ。
手順はこうだ。自分からさくらに声をかけて、出すモノを出して、正直な感想を述べて、あとは何やかんやで話を繋げられれば「勝ち」。
それだけだ。
もちろん、とてつもなく難しい。
散々シミュレートしたくせに、今になって不安が積りに積もってくる。失敗したらどうしよう、下心を見抜かれたらどうしよう、嫌われたらどうしよう、クラスに知れ渡ったらどうしよう――
数分考えて、やっぱりやめようかなとさえ思う。他人付き合いを面倒くさがっていた自分に、いっちょまえの恋をする資格なんてあるはずがないのだ、とすら思う。
口から、マイナス思考のため息を吐く。
意味もなく、うつむく。
さくらは明るく、元気よく、これから歌って踊れるようになる女性だ。対して自分は、ただただそれなりに生きてきただけ。
明らかに釣り合わない。下手に接触しようものなら、さくらに迷惑をかけてしまうかも。
クラスのどこかで笑い声が響いてくる、アイアンフリルについての語り合いが聞こえてくる、「乾君」と呼びかける声が聞こえてくる、
「乾君」
目から覚めたように、首をがくりと上げる。
「どうしたの? 何か、凄く元気がないようだけれど……」
いつの間にか、さくらが振り向いていた。太郎に対して、しかも声までかけて。
対して太郎は、「あ」とか「あ」とか「いや」としか口に出来ない。
「大丈夫? 無理しない方がいいよ?」
首を、横に振るう。
そして、さくらのきょとんとした顔が、視界いっぱいに映り込んだ。
「それとも、何か悩んでるの?」
太郎は未だに、口ごもんだまま。けれどもさくらは、そんな太郎に対して、
「私で良かったら、相談に乗るよ?」
まるで友達のように、笑いかけてくれる。
――それだけでもう、だめだった。
自分のものにしたいという邪な感情が、止まらなかった。
「あ、いや、」
いや、じゃない。
太郎はすかさず、かつゆっくりと、机の中から「それ」を取り出す。
「これ、聴いてみたんだ」
机の上にソレを置いた瞬間、さくらの顔が輝いた。
「これ、アイアンフリルの! どうだった? どうだった?」
前のめりになるさくらを前にして、太郎の体温はもはや爆発寸前だった。
けれども、少しも嫌ではない。
「えっと、凄く良かった。元気が出てくる、というのかな……聞き心地が凄く良い」
「でしょでしょ?」
だって、つい笑ってしまえているから。
さくらといえば、まるで自分のことのように二度頷き、同意してくれている。
「音楽のことはよく知らなかったんだけれど、これは良いと思う」
「うん、いいよねえアイアンフリル。私も、家の中ではずっとかけっぱなしだよー」
「僕もそう。音楽をかけながら何かをするのって、こう、いいよね」
「ねー、いいよねー。私なんて、つい創作ダンスしちゃう」
「へえ、いいね」
「まだ下手だけどね」
さくらが、えへへと笑う。
「でもいつかは、アイアンフリルのようになりたいなあ」
「なれるよ」
間髪入れず、本能的に答えた。
「なれる、かな?」
「うん、なれると思う。だって源さんは、頑張れる人じゃないか」
「そ、そう? まあ、肝心なところで持っとらんかったけど……」
「でも、今度は上手くいくとおも、」
首を、横に振るう。
「今度は上手くいくよ。僕も、その、応援するから」
「本当!?」
さくらの笑顔が、もっと明るくなる。
太郎のすべてが、鷲掴みにされた。
「ありがとう、乾君!」
また、その言葉を聞けた。
「うん。よーし、乾君のために、もっと頑張らないといけないねー」
「無理はしないでね。怪我とかしたら、大変だし」
「うん、そこは気をつけてる。経験もあるしね」
さくらが、苦笑いをこぼす。
今のさくらにとって、過去の失敗は単なる思い出でしかないのだろう。それを知れて、太郎は小さく頷けた。
「……源さん」
「なに?」
言おう。
持っていないと思い込んでいるさくらに対して、遠回しでささやかな励ましを。
「源さんのお陰で、こんなにも良い曲を知ることが出来たんだ」
「え、私?」
「うん。源さんの話を聞いて、アイアンフリルに興味を抱いて。それで、ね」
「本当?」
「ほんとう」
「そっかー……それはいちファンとして、うれしいなあ」
「うん」
さくらは、間違いなく持っている。
「ありがとう、源さん。良い曲を教えてくれて」
人を、変えてしまえるほどの力を。
「――こちらこそ、聴いてくれてありがとう。乾君」
僕を、恋に落としてしまう笑顔を。
チャイムが鳴る。たぶん、授業の内容なんて頭に入らない。