次で最後の予定です。……多分。
時は遡って。
間桐邸当主の意向で、アサシンが衛宮士郎の盗撮を行い、その行為がバレた後の事。
死ぬかと思った。
冗談も嘘も抜きにして。ただただ、ただただただただただただただただアサシンはそう思った。衛宮邸の面々の恐ろしさを――そして、間桐家ヒエラルキートップの恐ろしさを、これでもかというほど身に刻まされた。
……念のために断っておくが、アサシンが皆にボコられた時の話ではない。
その後の事である。
「まぁ、お婆様ったら……私、言いましたよね? 『逃げようとしても無駄ですよ』って」
逃げられぬ様に縛り上げられ、余計な事を言わぬ様に猿轡を噛ませられ。
そんな様相で、部屋の隅に転がされた状態で。
アサシンは見た。
「もう一度言いますね、お婆様。『手を煩わせないで下さいね?』」
……何があったのか、何が行われたのか、そして何を彼が見たのかは、口にするのも憚れるので割愛する。
但し。アサシンは恐怖のあまりに失神しそうだった。猿轡を噛ませられていなければ、恐怖で舌を噛み切っていたかもしれなかった。
遠き日に。暗殺者の頂点になるべくして積んだ修練は、大いなる恐怖の前には何の役にも立たなかったのだ。
「それではアサシンさん。後の事は宜しくお願いしますね?」
その瞳の奥。何も映さない漆黒の闇。映し出されている筈のアサシンすら飲み込む様な、黒よりも黒い闇。
アサシンは無我夢中で首を縦に振った。断れば死ぬのは間違いなかった。或いは死ぬ方がマシと思うような目にあうかもしれなかった。目前で今しがた目にした光景を思うと、アサシンが受けた痛みや仕打ちなんてものは、存分に加減をされ、慈悲を加えられた代物だったのだ。
そう、と。アサシンの様子を見て、桜は満足そうに微笑んだ。だがそれは先ほどまでの無表情よりも恐ろしかった。この少女に内に秘めた激情を垣間見た今、感情を向けられることを、何よりも恐ろしいと思った。
「それではよろしくお願いします」
にっこりとか、ふんわりとか。可憐で女性らしくて、それでいてこの場には絶対にそぐわない笑顔を最後に残した彼女を見て。
アサシンは固く決意をした。
間桐桜には絶対に逆らわない。
それからは。臓硯は呆然自失と言った状態で一日を過ごすことが多くなった。
元々聖杯戦争の後遺症で、痴呆気味ではあったが、桜の折檻で加速したらしい。
ぶつぶつと虚空に向かって何かを呟いたり、何もいないところで見えない誰かと楽しそうに話す姿も多くなった。飼っている蟲と他愛もない話をしている様子もあった。
一見すれば狂人の所業ではある。が、そもそもの話からして、臓硯は狂人であったのでアサシンは気にもしなかった。
そんな臓硯を、アサシンは桜の言いつけ通りに世話を行っていた。と言っても、行っている事は普段とほとんど変わりはない。何なら痴呆気味だったのが加速したおかげで、今まで当然の様にあった性的な介護と言うか奉仕が無くなった分、寧ろ精神的には楽だった。
流石はお嬢様だ。アサシンはそう思った。何があったとしても、相対的に結果が楽ならそれでいいじゃん。喉元過ぎれば何とやらだった。
「……何がホワイトデーよ」
だから。
ある日突然、その眼を憤怒の色に染めて部屋から出てきた臓硯のその一言に。
思考がフリーズしたアサシンは決して悪く無いし責めちゃいけない。
「何が素敵なホワイトデー、何が忘れられない大切な日にしよう、何が純白の贈り物……数少ない男を取り合うだけの欲望に塗れた浅ましき一日に、よくもここまで理想と希望と願望を詰め込めるものよ」
カツ、カツ、カツ。臓硯は怒りを隠そうともせずに杖で床を叩いた。
「此方と――――? ……ああ、いや、全く、反吐が出る……反吐が出るっ!」
カツンッ!
一層強く床を杖で打ち付け、怒りをこれでもかと表現する。だがアサシンにはいったい何がそこまで臓硯を怒りに駆り立てているのか分からないし、なんなら分かりたくも無かった。
「桜も桜よ……儂がこれまでどれだけあ奴を思ってやってきたのだと思うか。魔術師としてその才を伸ばしたのは誰だと思うとる、マキリに相応しいふるまいを教育したの誰だと思うとる、衛宮の子倅の家に通う事を許したのは誰だと思うとる……それを、それを、恩を仇で返すような真似を――――」
逃げたいと。アサシンはそう思った。気配遮断A+を惜しみなく使い、部屋の隅で息どころか心音すら潜めて、彼は時間が過ぎるのを待った。
「あぁ、反吐が出る、反吐が出る、反吐が出るッ! 何故儂があんな小娘共に脅されなければならないのだッ! 何故儂が迫害を受けねばらぬのだッ! 何故儂がこんな目に合っているのに世界は喧しいのだッ!」
カサカサカサッ。
臓硯の怒気に呼応するように、彼の足元から湧き出る大量の蟲たち。苦手な人が見れば、それだけ失神するくらいに気持ちの悪い光景である。
「おぉ、お前らも同じ想いか……そうよなぁ、何故に儂らだけこんな世界の隅で生きる様な目に遭わなければならないのだ。口だけ開けて雨と埃だけ食って生きてろとでも言うのか」
カサカサカサッ、キシッ、キシャッ
意志を持つかのように、蟲は喚いた。それはまるで相槌を打つかのようだった。
「うむ、うむ。やはりそうよなぁ……何が清純よ、何が純白よ。人は誰しも汚さずにはおれぬもの。自分の色に染め上げたいと思うものよ。だからこそ、染まってないものに価値をつけるのだ」
ロクな事にならないな。まだ思惑は分からないが、そうアサシンは結論付けた。何せ聞いている事だけを要約すると、ただの逆恨みとモテないやつの僻みである。
「気高く美しいモノ、清純で清らかなモノ、純白で汚れの無いモノ……そういったモノを、思い思いに汚して、貶めて、歪めて、乏して、堕とす。その楽しみが分からぬ小娘共が、愛がどうのこうの、知った気になって口にする事が愚かしいわ」
随分と長い口上だなぁ、早く終わらないかなぁ、どうせお嬢様に10分の9殺しされるのがオチでしょうに。早々に見えた結果を前に、アサシンは今日の夕ご飯の献立を考える余裕すらあった。
……この時までは。
「手始めに衛宮の子倅を汚そうか」
ぐふっ、ぐふっ。感情を隠すかのように背を丸め、くぐもった笑い声を零す臓硯。嫌な予感がアサシンの背筋を這い上り、冷たい汗が落ちて行く。
「あの気の強さ、折れぬ意思、穢れを知らぬ眼……それを一つ一つ溶かし、へし折り、這いつくばらせて、堕とす。そしてその暁には……ぐふふっ」
主殿はとうとう気が触れて、御乱心されたのかな? アサシンはそう思った。何故によりにもよってお嬢様の想い人である衛宮士郎かという話である。あんな目に遭ったと言うのによく口に出来るものだ。次は10分の9殺しじゃ済まなくなるぞ。
「近頃耳にする『男騎士』とやらにお誂え向きなシチュエーションよ。ぐふふっ」
じゅるり。垂れた涎を臓硯は乱暴に拭きとった。男騎士たる言葉が意味するものは分からないが、妄想上では大分危ないところまで進んでいるらしい。
これはお嬢様にお伝えした方が良いだろうか。だがそれは主である臓硯を裏切る行為でもある。
うんうんと迷っていた――と言っても殆ど裏切る方で決まりかけていた――アサシンだったが、次の臓硯の一言で、完全に迷いを捨て去った。
「……先ずはこの火照りを慰めておこうか。のぉ、アサシン?」
■ こんなふぇいとはいやだ ほわいとでーとくべつへん ちゅうへん ■
この後にどんな目に遭わされたかは言いたくないし考えたくもないし思い出したくもなかった。
ただアサシンは、絞るだけ絞りつくされたことは記しておく。どんな手法かは割愛するが。
ともかく。アサシンは逃げ出した。一昼夜の責め苦の後。臓硯の一瞬のスキを付き、まだ日の出ている時間帯にも関わらず、彼は間桐邸を命辛々脱出した。そしてそのまま、何処へともなく走った。
そう、走った。アサシンは走ったのだ。悍ましいそれから逃げるべく。全力を振り絞って。道だろうが道じゃなかろうが、ただ只管に、直感に任せて。
そんな彼が結果的に衛宮邸に辿り着いたのは、何の因果か、或いは運命か……いや、こんな汚い運命嫌だな。うん。
まぁそんなアサシンの実情や、間桐邸で何が起こったのかとかなんてのは、この場にいる士郎からすればどうでも良い話である。
士郎は手に持った干将莫邪を器用に扱い、向かって来る蟲を切り落とした。縦に一閃、横に一閃。哀れにも蟲は4つの塊に切り分けられて、士郎の柔肌に触れる前に地に落ちた。
4つに切り分けたのは、真っ二つ程度あれば、蟲は動くことができるからだ。脅威を確実に払うのであれば、もう少し細かくしたいところだが、そこまでの余裕は士郎にない。
都合7匹が、いずれも斬り刻まれて地に落ちる。
「……ふぅぅ」
葛木宗一郎は、向かって来た蟲を何れもその拳で砕いた。彼の手には、常時キャスターによって強化の魔術が掛けられている。神代の魔女の魔術を前には、幾ら丹精を込めて育てられた蟲であろうと為す術はない。加えて彼の独特な軌道の拳は、細かな機動を誇る蟲を、全く誤たずに捉えていた。
都合3匹を砕き潰し、宗一郎は呼吸を整えるべく深く息を吐き出した。
「呵呵呵呵ッ! やるではないか!」
臓硯は嘲るように嗤った。余裕たっぷりの笑み。それもその筈で、彼女の背後にはまだ大量の蟲が浮いている。たかだか10匹程度が戦闘不能になろうとも、何も慌てることは無い。
ほれ、次だ。そう言って、臓硯は次の蟲を向かわせる。数は――――恐らく、先ほどの倍。
「チィィッ!」
士郎は歯を固く食い縛り、呼吸を止めた。そしてそのまま一歩を踏み出て迎撃に入った。
士郎の持つ干将莫邪は、投影魔術によって創り出された模倣品である。つまりは本物の宝具ではない。だが本物に迫った代物ではある。ならば当然、幾ら外骨格が強化されていようと、蟲程度を斬り刻むのは訳はない。
眼にも止まらぬ速さで、彼は双剣を振るった。小手先だけの力ではない。踏みしめた地面を通して生じた力を、上へ上へと流す。足から膝へ、膝から腰へ、腰から肩へ、肩から肘へ、肘から手首へ、手首から指先へ。そうして握りしめた干将莫邪に、十全の力を乗せて振るった。
「フッ!」
宗一郎は短く息を吐き出し、向かって来る蟲を叩き落とした。士郎が斬り漏らした蟲、或いは士郎を無視して襲ってくる蟲を、彼は一匹残らずに屠った。只の人であればまず不可能な術ではあるが、彼にはそれを可能にする為の技量にして術がある。
暗殺拳・「蛇」。
道具として育てられた空虚な自分を象徴するかの様な、彼が持ち得る唯一にして最大の武器。独特にして特異な軌道を描き、確実に人体の急所を打ち抜く拳。初見であればまず見切られることは無く、戦の時代に生きたサーヴァントすら屠れる、文字通りの暗殺拳である。
「ほうほう、20でも足りぬか……では、40と行こう」
だが2人の奮戦も空しく、既に臓硯は次の行動を終えていた。倍々ゲームのように、彼女の背後には数えるのも嫌になるほどの蟲が浮いている。……流石にここまでの数になると、2人で捌くのは不可能な数だ。
「……臓硯。アンタ、何が目的だ」
時間稼ぎの意を込めて、士郎は問いかけを口に出した。士郎からすれば目的も理由も分からぬままに襲われている状況である。納得のいく理由が欲しいと思っていた。勿論、聞きつつも脳内ではこの状況で効果を見込めそうな武器の設計図を検索する事を忘れやしない。
呵呵呵呵ッ、と。一方で臓硯は嗤った。士郎の問いかけに対して、楽しくて仕方がないと言わんばかりの態度であった。
「儂の目的か。……そんなのは先に言ったであろう?」
「あのふざけた口上を本気にしろと」
「ふざけた? ……ふぅむ、分かっておらぬ用だのぅ。これはますます調教のしがいがありそうじゃ」
ぞわり。背筋を駆け上がる悪寒。久々に感じる生々しい意志。
「小僧よ。ちぃと世間知らずにも程があるのではないか? まぁ蝶や花を愛でるが如く、崇め奉られていればそうもなるということか」
「……何が言いたいんだよ」
「む? なぁに。キャベツ畑とコウノトリの話を信じているような、何も知らぬ純粋無垢な子供に、どんなポルノを見せつけようか……そんな下卑た気分なだけよ」
回りくどい言い分だが、なんとなく大凡の事は察した。つまりは前回の間桐邸での一幕と同じである。
士郎はロックオンされている。野獣に。性的に。
相も変わらず全く嬉しくない話だ。
「……アンタの慰みモノになるつもりはねぇよ」
「おほぉ!? 良い眼をするではないか。ぐふふっ」
会話になりゃしない。士郎はそう思った。いや、元より会話なんて望めない。最初から無駄なのだ。
歪みに歪んだ500年の妄執。彼女を救う手立てはきっとこの世に存在しないのだろう。
士郎は干将莫邪を破棄すると、一本の斧剣を投影した。それはあまりに大きく、士郎たちを臓硯から隠すかのようにして、地面に突き刺さった。一目見て、人間が振るうには規格外だと分かる代物であった。
バーサーカーの、斧剣。
その取っ手を、掴む。
「ほう? アインツベルンのサーヴァントの武具か。……その腕で、振るえるのか?」
「振るうさ」
士郎は生身である。当然このままではこの巨大な斧剣を扱う事は出来ない。
士郎は半人前である。当然この巨大な斧剣を扱えるほどの強化を自分には掛けられない。
だが士郎は男である。当然このままむざむざと慰みモノになるつもりはなかった。
「無抵抗の趣味は無いんだよ」
真っすぐに。士郎は視線を向けた。その気高い意志に、一切の陰りを見せる事無く。琥珀色の瞳に、力を込めて。
「……それでは貴様の気高き意思に敬意を表し。一つ一つ、丁寧に折っていこうかのぅ」
獲物の抵抗に、臓硯は堪え切れずに笑みを零した。可愛いものである。既に勝負は決しているのと同じなのに、尚もみっともなく足掻こうとする精神性。穢れへの拒否。大好物だ。
あぁ、もうすぐ……そう、もうすぐこの坊主が手に入る。気高く純白で無垢な坊主が手に入る。手に入れたらどんな風に調教しようか、どうやってマキリの色に染め上げようか。考えるだけも心が高鳴って仕方がない。
しかも衛宮士郎には性的な利用以外にも大きな価値がある。彼を楯に取れば、孫娘でもある桜を筆頭に、サーヴァント共に、遠坂やアインツベルンの他の御三家、封印指定執行者に聖堂教会の者と、一癖も二癖もある面々を言い聞かせる事は容易くなる。戦力的な旨味の面でも、士郎は逸材である。今から臓硯は笑いが止まらない。
「さぁさぁ、それでは……精々抵抗をしてもらおうかのう。貴様も、そこの男も、アサシンも……ぐふっ、ふふふふふふっ」
さぁもうすぐだ。成果を考えれば、抵抗など安いもの。精々みっともなく足掻くがいい。余裕を見せる様に臓硯は両腕を広げた。迎え入れる準備は万端であった。
「「あらぁ?」」
「士郎君に」
「宗一郎様に」
「いったい」
「何を」
「しているの」
「かしら」
「「ねぇ?」」
■
全くの余談であるが。葛木宗一郎には、キャスターの手によって、防護の魔術が付与されている。その種類は多岐にわたり、一つ一つの解説は面倒なので割愛するが、要は自動展開の防犯ブザーであったり障壁だったりする。ちなみに作動する条件は、キャスター以外の女性に話しかけられる事である。
当然衛宮邸に宗一郎が赴くにあたって、この防護魔術は絶え間なく作動した。だって長身痩躯の影のあるイケメンとか、女性が放っておくわけが無いじゃん。尤も声をかけた面々は、キャスターお手製の防護魔術により、自動で記憶消去や暗示をかけられてしまう羽目になるのだが、それは自業自得と言う奴である。人の男に手を出す奴は、獅子に噛み殺されても文句は言えまい。
閑話休題。
「「ぶち殺すわ」」
サーヴァントはマスターと似た者が召喚されると聞くが、成程その通りだなと士郎は思った。
目の前。雲一つない空でありながら、鳴り響く万雷。そして貫かれるご老体。逃げ場を失い炭となる蟲。逃げても細切れにされる蟲。
全くの無表情で、感情を失くした声で。士郎の目前で2人の女性がその卓越した腕を振るっていた。
キャスターのサーヴァント、メディア。
アサシンのサーヴァント、宮本武蔵。
「よくも宗一郎様に手を出したわね……万死に値するわ」
「よくも士郎君に手を出したわね……一片の肉片も残さないわ」
キャスターは悔いていた。宗一郎がホワイトデーの事で士郎に相談をした際に、その本心を聞いて、幸せの余りにイってしまった事を。そしてそのせいで、宗一郎の危機に気が付くのが遅れてしまった事を。
何故かセイバーたちと追いかけっこをしている武蔵を令呪で衛宮邸に飛ばし、自身も空間転移で飛んだことで何とか間に合ったが……もしものことを思うと、言葉に出来ない怒りで気が狂いそうだった。
「――――」
「あらあら、何を言っているのか分からないわ」
「謝るのなら慈悲をくれやろうと思ったけど」
「そのつもりもないのなら、相応の罰を与えないと」
「ねぇ?」
「「蟲めが」」
彼女たちの怒りを表すかのように、殺戮は留まる事を知らない。
いつのまに結界を張ったのだろう。雷から、そして剣技から。自身の命を刈り取らんとする凶器から逃げようと飛ぶ蟲たちだったが、そのいずれもが然程も飛べぬうちに何かにぶつかったかのように後退する。中に入れない結界ではなく、外に出さない結界。さらにこれは、そこらの魔術師ではなく、神代の魔術師による結界である。蟲程度がどうにかできるなんて、考えるのも烏滸がましい。
そして、当然。そんな無様に晒された隙を見逃してもらえるなんて、そんな夢物語などあるはずもなく。
「あらあら、これで最後ね」
「全く、余計な手間をかけてくれるわ」
そうして残ったのは、這いつくばる一匹の蟲。斬り刻まれ、炭と化した残骸とは別に、あきらかに意志を以って見逃された存在。
但し。先ほどのような、甲虫ではない。
アレを想起させる、気色の悪い芋虫の様な、蟲。
それを絶対零度の眼で見下ろし、2人は口を開いた。
「まぁどうせ、これも本体じゃないでしょ」
「でしょうね。そんな見上げた根性をコレは持っていないもの」
「でもこれを通して見てはいるんでしょ?」
「それは間違いないわ。……遠隔魔術で、目を離せないようにもしたし」
「流石ね。それじゃあ、伝言よ」
「アナタの孫娘からよ」
「「『待っているわ、お婆様』」」
「宗一郎様~♡ あっ、あっ、あはぁぁぁぁぁぁ……」
「助かった、キャスター。感謝する。いつもすまない」
「そんな……私には、勿体ない御言葉です」
俺はいったい何を見せられているのだろうか。士郎はそう思ったし何なら吐きそうだった。目の前で繰り広げられる甘い甘いもうクッソ甘い光景に、砂糖が口から出てきそうだった。
キャスターは宗一郎の膝元で声を震わしながら、彼に甘えていた。人の家で。衛宮邸で。なんなら居間で。士郎と
「いやはや、メディアと言えば悪名高き魔女として名が残ってはおりますが、その本性はただの恋する女性であったという事でしょうか」
「まぁ逸話からしてそうでしょ。国を混乱に陥れたり、弟を切り捨てたりと、ちょーっと盲目的過ぎなところはあるけどね」
「盲目的なところは同意ですな。英雄譚には所謂盛られた部分もあると聞きますが……あの様相を見るに、決して誇張された話では無かったのでしょう」
「なんか……このままだと赤ちゃんプレイに移行しそうね。……雇い主の性癖を見せられるのは勘弁なんだけど」
「殺すわよ」
ハサンと武蔵はキャスターの醜態を見ながら溜息を吐いた。間髪入れずに剣呑な殺意が2人に飛ぶがどこ吹く風。武蔵に至っては、舌を出して辟易と言った表情を零す余裕すらあった。
「キャスター、口を」
「あ、宗一郎様♡」
「これはマカロンと言うものらしい。甘さの加減はどうだ? 少し甘すぎたか? 生憎と器用ではなく、中の具を変える程度しか私にはできていないのだが」
「そんなことはございません。いえ、寧ろ勿体ない御言葉です。頂けるだけでも、私には過ぎた幸せだと言うのに」
「お前こそ何を言うか。どれだけお前に助けられてきたか……それに、これでも私はお前の夫なのだ。私の方こそ、お前に報いる働きをしなければならない」
「そんな……」
「感謝をしている。私なんかの為に、いつもすまない」
うへぇ。武蔵は思いっきり顔を顰めた。知った仲のラブロマンスなんか、見ていて反吐が出る。周囲の状況を考えずに自分たちの世界に浸る様を見せつけられるとか、一体全体何の罰ゲームだこれ。
放っておいたら乳繰り合いそうな空気である。渋めのお茶が欲しいと思った。空になった容器を見て思う。甘いものはもう要らん。
「お茶、お代わりいるか?」
「えっ!? あ、いや、その、士郎君の手を煩わせるほどじゃないわ! 自分で入れるから!」
「いや、俺立ってるしさ。てか場所とか分かんないだろ」
あとこれ、お茶請け。そう言って士郎は常備している煎餅などを2人の前に出した。そしてそれに目を奪われた武蔵の隙をつき、その手に握った湯呑を受け取る。
「冷たい方がいいとかあるか?」
「ア、イエ、ダイジョウブ、デス……ハイ」
「? じゃあ、さっきと同じで良いか?」
「ハイ、ハイッ!」
さっきまでしかめっ面を隠そうともしてなかったのに、士郎の登場で急にしおらしくなる武蔵。目を合わせる事も出来ず、顔を赤らめてマカロンと湯呑に忙しなく視線を送り、もじもじと身体を震わす様相は、所謂いじらしいとでもいうのだろうか。ハサンには全く分からないが。
恋する女性は大変ですなぁ。ハサンはお茶を飲みながらそう思った。彼はもう女性と言う存在はこりごりだった。
「は、はわわわ……これ……もしかしてだけど、所謂逆求婚ってやつ?」
……頑張ってくだされ、魔術師殿。ハサンは何も言わずにお茶を啜った。そして恩人の行く末に心の中で祈りを飛ばした。お人好しの彼に幸福な未来がありますように。
■
「それでは私たちは帰るわ。坊やも戸締りを忘れず、外敵には気を付けるのよ」
「衛宮、世話になった。この恩は必ず返す。何かあれば言いに来ると良い」
「じゃあね。あ、あとアサシン。いえ、そっちじゃなくて私の方のよ。今日、
にっこり。キャスターは惚れ惚れする様な笑みに反して、トンデモなく物騒な言葉を口にした。そして士郎の耳では聞き取れない何かを呟く。
途端にキャスターと宗一郎は、3人の視界から消えていなくなる。空間転移の魔術。魔法級の術を、彼女は惜しみなく使って退散をした。普通の魔術師が今この場にいたら、この奇跡の大安売りを前に卒倒するに違いない。
「あ、しまった。……お礼忘れてた」
士郎は消えた2人の跡、つまりは光の粒子が完全になくなるまでの時間が経過してから、自身が忘れ物をしたことを思い出した。
窮地を救ってくれた事への感謝。例えキャスターにとっては宗一郎のついでであろうとも、だ。
あの後のキャスターと宗一郎のゲロ甘な空気とかで、すっかり伝え損ねていたのだ。
「相変わらず魔術師殿はお人好しですなぁ」
別に士郎がお礼を言う必要はないだろうに。ハサンはそう思っていた。何せ彼は士郎と違って、この世界に染まり切っている。つまりは女性の恐ろしさを知っているのだ。
無闇に愛嬌を振りまいたところで返って来るものは重すぎる愛情。まぁキャスターには想い人がいるから問題ないかもしれないが、これが他の面々であればどうなるか分からない。例えば武蔵とか。
「武蔵もありがとうな。助かった」
そんなハサンの前で、簡単に士郎はハサンの危惧を踏み抜いた。武蔵に笑顔でお礼の言葉と、ゲロ甘空気に耐えながら作っていたカップケーキを渡す。しかもしっかり丁寧にラッピングされている奴だ。
ひえっ。ハサンは自分の喉から引き攣る様な音が鳴ったのを自覚した。何故この魔術師殿は、簡単に地雷を踏み抜けるのだろうか。今の士郎の発言及び行為は、武蔵に喰われても仕方がないものである。
「来てくれなかったら……ははっ、どうなっていただろうな」
今が既にどうなるか分からない状況である。ハサンの背を冷汗が伝っている。このままだと据え膳云々で士郎が喰われるのは確定事項である。そしてその場面を阻止出来なかったという事で、ハサンが桜にボコられるのも確定事項。
ハサンは脳内で、自分が助かる為のシミュレートの算出を開始した。ちきちきちき、ちーん。全シミュレート、一振りで破壊。慈悲は無し、諦めろ。
「本当に、ありがとう」
最後の一押しだろう。微笑みと共に発せられた一言で、ハサンは全てが終わった事を察した。もう桜による10分の9殺しは確定である。
せめて士郎を護るべく行動しよう。ハサンは僅かに腰を浮かした。武蔵が飛び掛かったら邪魔をするためである。どうせ折檻は確定しているのだ。何もせず桜に10分の9殺しにされるか、武蔵の邪魔をしてボコられるか。そんなの考えるまでもない。
だがハサンの危惧とは裏腹に、武蔵は動こうともしなかった。ピクリとも。身動ぎ一つもない。
士郎も士郎で彼女の異変に気が付いたのだろう。怪訝な表情を浮かべ――――すぐに、驚いたように目を見開いた。
「へ、鼻血? ……っ、危ない!」
ぐらり。傾く武蔵の身体。支えるべく手を伸ばす士郎。ギリギリで間に合い、何とか倒れるのだけは阻止をした。流石は男の子である。
ひょっこりと。ハサンは後ろから武蔵の顔を見て。ははぁ、なるほど、と納得する。
どうやら士郎の真っすぐな言葉と頬笑みは、精神的処女には刺激が強すぎたらしい。
「疲れたのでしょうかね? とりあえず寝かせとけばよろしいのではないでしょうか」
顔を真っ赤にし、眼を回している武蔵。これは暫く立ち上がれまい。
士郎に一先ず何てことの無い言葉をハサンは投げた。そして心の中でほくそ笑む。いやぁ、ラッキーラッキー。武蔵の気絶により、士郎の貞操は護られた。つまりは完全童貞のままだ。臓硯にも武蔵にも奪われなかったのだ。これで10分の9殺しは免れたと言っても過言ではない。棚から牡丹餅? ふん、結果が全てであるのだよ。
「ただい――――あらぁ? これはどういうことかしら?」
まあ、そんなわけないんだけどね。うん。
背後から聞こえた、死刑執行者の面々の声を聞いて。
ハサンは心の中でさめざめと涙を流しながら覚悟を決めた。
そもそもの話。幸運Eの2人が、身に過ぎた幸運を享受しようと言う、そんな姿勢自体が烏滸がましいとは思わないかねと言う話であるのだ。うん。
おまけ(と言う名のNGルート)
え ぬ じ い る ー と け い ぞ く ち ゅ う に つ き あ り ま せ ん 。