暗雲が渦を巻いていく。それは一人の魔女による仕業だった。
魔女は言う。
「これより世界は変革される。偉大なる王によって統治される《完全なる世界》。貧困で喘ぐ者はいなくなり、傷病に苦しめられる者もいなくなる。あまねく理不尽は淘汰され、誰もが幸福に生きられる未来がやってくる」
夢見る乙女の如く、彼女は天を見上げる。
暗雲は広がっていく。どこまでも、どこまでも、どこまでも……。
「ハリー・ポッター。ああ、愛しき我が王よ」
やがて、地上に雨が降り始める。
「あなたの為に世界を壊しましょう。あなたの為に世界を創りましょう」
その雫に触れた者は呪われる。
「共に人類の明るい未来を築きましょう!」
呪われた者に未来はない。
「この世界に祝福を!」
この世界に未来はない。
「ああ、ようやく……」
第百九話『ファースト・コンタクト』
―――― 質問をしてはいけない。
物心がついて直ぐに掛けられた言葉だ。人は思考する生き物であり、思考とは疑問を抱く事から始まる。疑問を抱く事を禁じるという事は、人である事を禁じるという事だ。
禁を破れば、容赦のない折檻が待っている。殴られ、蹴られ、食事を抜かれる事もしょっちゅうで、一メートル四方の物置に外側から鍵を掛けられて閉じ込められる事も日常茶飯事だった。
―――― お前は普通ではない。
人格を否定する言葉を事ある毎に浴びせ掛けられる。両親もイカれていたのだと言い聞かせられた。醜悪で悪辣な人間だったと教え込まれた。だから、天罰が下ったのだと信じ込ませられた。
人としての尊厳を踏み躙られ、自尊心を折られ、自由を奪われて、未来には絶望しかなかった。
―――― よーし、お前達! しっかり、コイツを押さえとけよ!
その日、ダドリーは取り巻きに
辛くても、苦しくても、誰にも相談する事が出来ない。心を許せる人なんて、一人もいない。家にも学校にも居場所なんてない。この世界はまさしく地獄だった。
僕の人生は始まった時点で詰んでいた。底無しの沼に浸かったまま、抜け出す事が出来ない。藻掻けば藻掻く程に沈んでいく。
意識を失っている間の僅かな時間だけが僕を地獄から解放してくれた。暗闇だけが安息を与えてくれた。そこには誰もいない。
痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。この地獄から抜け出したい。
残された道は二つだった。
だから、僕は……、
◆◇◆
あの頃、オレ様は世界のすべてを敵だと思いこんでいた。傷つけられたくなければ、傷つける側に回らなければならない。そう思っていたからこそ、ナイフをマーケットでくすねた砥石で研いでいた。刃と共に己の心も鋭く尖らせていった。殺人に対する恐怖を削り取っていった。
あの時、おじさんやおばさんを殺していたらオレ様は刑務所に送られていた。きっと、ホグワーツに入学する事も無かった。《生き残った男の子》として、超法規的措置で入学を許されていたとしても、オレ様は二度と正道を歩めなかった筈だ。
―――― ハリー・ポッター。あなたは魔法使いです。
母さんが迎えに来てくれたおかげでオレ様の運命は大きく変わった。
暗黒こそ安息だと信じていたオレ様に、彼女は光の安息を教えてくれた。
―――― ヘイヘイ! どうだい? オレってば、ハンサムだろ? この店一番のナイスガイだぜ? 買ってかないかい?
ゴスペルはオレ様から孤独感を永遠に拭い去ってくれた。己を偽る必要のない、真に心を許せる存在を得られた事で心に余裕を持てるようになった。彼が居なければ、きっと全てが違っていた。ホグワーツ特急ではロンとの相席を拒絶して、エグレの存在にも気づく事はなく、ヴォルデモートと対決するのもずっと後になっていた事だろう。ドラコやハーマイオニーとの関係も浅いまま、只管に孤独のままだった筈だ。
―――― や、やあ。ここ、空いてるかい?
ロンはオレ様の視野を広げてくれた。オレ様がヴォルデモートのように純血主義やスリザリンである事を絶対の正義と信じなかった理由は彼にある。グリフィンドールのロンと友達でいたい。そう思ったから、オレ様はスリザリンである事に拘らなかったし、純血主義にも染まらなかった。
―――― やあ、どうしたんだい? ここは監督生用のコンパートメントなんだけど、なにか困り事かな?
パーシーは人と人の絆が実在する事を教えてくれた。どんなに悪態を吐かれても弟を大切に思う姿を見て、母さん以外にもリスペクトするべき人がいる事を知る事が出来た。
出会う度に世界が広がっていく。新しい自分に生まれ変わっていく。
オレ様は幸運だった。そして、幸福だった。
ダンブルドアや魔法省の懸念は間違ってなどいなかった。オレ様はヴォルデモートと同じ道を辿る筈だった。
オレ様とヴォルデモートは表裏一体だ。些細なキッカケでオレ様がヴォルデモートになり、ヴォルデモートがオレ様になっていた。
みんなが居たから、オレ様はヴォルデモートにならなかった。
だから、覚悟は決まっている。
◆
ドラコやアステリアと共にグリンデルバルドの尋問が行われている地下牢の扉を開く。
「ああ、待っていたよ」
スクリムジョールが迎え入れてくれた。どうやら、尋問は既に終わっているらしい。
「グリンデルバルドは抵抗しなかった。『すべてを知るがいい。そして、識るがいい』と言って、己の記憶を我々に差し出してきた」
「中身は見たのか?」
「まだだ。あらゆる可能性を考慮して、わたしと君が最初に見るべきだと考えた」
「あなたが最初に……いや、あなたではダメだな」
あらゆる可能性を考慮するならば、グリンデルバルドの言葉が正しい可能性も考慮するべきだ。
それならば、最も中立的に判断を下す事の出来る人間が最初に見るべきだろう。
「闇祓いの中でオレ様に疑念を抱いている者が居るだろう。先にそいつに見せた方がいい」
「駄目だ」
ドラコやアステリアが口を開きかける前にスクリムジョールはにべもなく言った。
「……局長」
以前から思っていた。スクリムジョールはオレ様に対して過保護になり過ぎている。
ありがたい事ではある。
彼は初めて会った時から一貫してオレ様を信じ抜いてくれている。守ろうとしてくれている。共に手を取り合おうとしてくれている。
けれど、それは……、
「もういい……」
「ハリー?」
「もういいんだよ、局長」
戸惑っている彼にオレ様は言った。
「あなたがオレ様を頑なに信じようとしたり、守ろうとして来た理由は分かってる。魔法省がオレ様を攻撃していたからだ」
魔法省はオレ様を常に邪悪な存在として扱って来た。一年生の時にヴォルデモートのオリジナルを滅ぼした時から、第二のヴォルデモートという烙印を押して、様々な攻撃を加えて来た。
スクリムジョールはオレ様と手を取り合う為に彼らとは違うという事を示さなければならなかった。
「あなたの事は信頼している。それに、尊敬もしている。だから、もういいんだ。オレ様ではなく、世界を優先してくれよ」
「……君は」
スクリムジョールは表情を歪めた。
「エグレを処分しようとした事については別だが、オレ様に対する魔法省の方針は間違っていない。彼らは個人より国や世界を選んだ。政府組織として、それは正しい在り方だと思う」
「黙れ!!」
スクリムジョールは声を荒らげた。その顔には憤怒が浮かんでいる。
「違うぞ! 間違っている! 魔法省のこれまでの方針は誤りだ! 世界を選んだ? 違う! ただ凶行に走っただけだ!」
「……そうやって、これまでの魔法省の行動を否定する事に固執している事が何よりの証だな」
「なんだと!?」
「お、おい、ハリー! さっきから君は何を言ってるんだ!?」
それまで呆気にとられていたドラコが掴みかかってきた。
「魔法省が正しい!? 馬鹿言うな! あんな特殊個体のホーンテイルをけしかけたり、アズカバンで囚人達に包囲させるような暴挙を正しい事だと? 正気か!?」
「正気だとも」
シーザーに対する仕打ちについては思う所がある。だが、アズカバンについては悪くない計画だった。あの状況、オレ様で無ければ確実に詰んでいた。しかも、仮にオレ様が返り討ちにした所で、連中は罪人だ。消費した所で社会的には何のデメリットもない。むしろ、それを口実にオレ様を罪人へ仕立て上げる事も出来た。
「第二の試練のアズカバン送り。あれは見事な処刑方法だった。効率的で無駄がない。罪人共の練度がもう少し高ければ、あるいは上手くいっていたのだろうな」
「……何言ってんだよ、お前! さっきから変だぞ!? なんで、そんな……」
ドラコの言葉が途切れた。
「お前、何を考えているんだ?」
その顔には恐怖が浮かんでいた。
「……あーっと、すまん」
深く息を吐きながら気持ちを整理する。どうやら、まだ揺れている部分があったようだ。
実に情けない。
「余計な事を言ったな。さっさと記憶を見てしまおう」
「ハリー……?」
地下牢には
「……時間もない。さっさと確証を得るとしよう」
「おい待て、ハリー!」
ドラコを無視して憂いの篩を覗き込む。すると、オレ様の精神は肉体から抜け出して、そのままグリンデルバルドの記憶の世界へ落ちていった。
◇◆◇
灰色の世界に一人の男が立っている。グリンデルバルドだ。けれど、どこか様子がおかしい。
『……死の秘宝。やはり、素晴らしい』
彼は蘇りの石を手の中で転がしていた。
『魂に干渉する魔法はいくらか存在している。だが、これほど手順を簡略化させる事など……』
素晴らしい。そう呟きながら、彼は不服そうな表情を浮かべている。
グリンデルバルドじゃない。あの表情を浮かべている彼はきっと、ヴォルデモートだ。
この記憶はヴォルデモートがグリンデルバルドの肉体を支配していた時の物なのだろう。
『……この石は何だ?』
彼は蘇りの石を分析しようと試みていた。
天然の物ではない。死靈に対して反応する石が無いわけではないが、意図的に特定の霊とコンタクトを取り、強制力を働かせるものなど自然界には存在しない。つまり、この石は賢者の石と同じ人工物という事になる。
彼は自分なら解明できる筈だと思った。ダンブルドア殺害の為の計画を練り上げる傍らで、研究を重ねていった。
けれど、結局は解明に至らなかった。
『一体何者なのだ? これを作った者は……』
彼は調べた。はじめ、死の秘宝の製作者はお伽噺で死から秘宝を授かったというペベレル家の三兄弟だと考えて、彼らの足跡を追った。
『違うな。彼らではない』
秘宝を生み出す程の優れた魔法使いならば、他にも逸話を残している筈だ。長男のアンチオクはそれなりに戦士として名を馳せていたようだが、それだけだった。
『ペベレル三兄弟は製作者ではなく、継承者だ。与えた者が別にいる。物語では《死》と表現されていた者だろう』
片手間での調査でありながら、彼は僅かな時間で《死》という存在に気づいた。
尋常ならざる推理力と調査力だ。
彼は更に《死》の正体にも辿り着いた。
『……面白いな、これは』
死の正体を掴む為に歴史を紐解くと、似たような話が一定の周期毎に存在している事が分かった。
そして、彼が《死》に迫った時、この記憶の主は目を覚ました。
グリンデルバルドはヴォルデモートに肉体を明け渡していた。けれど、精神は別だった。
どこかの丘を思わせる自身の精神世界で彼はヴォルデモートの調査結果と推理を吟味していた。
そして、彼は見た。
『これは……』
最初、何が何だか分からなかった。あまりにも唐突に映像が変化したからだ。
はじめ、紅蓮の業火が視えた。次に人の死が視えた。積み上げられた死体の数に吐き気を覚えた。そして、その女を視た。
彼女は慈愛に満ちた笑顔でオレ様を見つめた。
灰色の世界が唐突に色を持ち始める。何かおかしい。紅蓮の業火と積み上げられた死体の映像まではグリンデルバルドの記憶だった。けれど、これは違う。
「ええ、違います。さっきまでの映像はグリンデルバルドの予言。まあ、わたくしが見せたものですが」
この記憶の世界で、彼女は当然のように語りかけてきた。
「はじめまして、ハリー・ポッター。我が王よ」
「貴様が……」
「わたくしの名はロウェナ。ロウェナ・レイブンクローです」