そこは白い世界だった。
本来は暗闇であるべき場所。ただ、そこに渦巻く魂の色が白かった。そして、魂は世界を埋め尽くす程に膨大だった。
ある者はアカシックレコードと呼び、ある者はアストラル界と呼び、ある者は《混沌》と呼ぶ世界。そこはすべての始まりにして、すべての終わりであり、そこには全てが存在する。
彼女はそこで自我を得た。
それは赤ん坊のように無垢な人格では無かった。
彼女は初めから怒っていた。初めから喜んでいた。初めから悲しんでいた。初めから苦しんでいた。初めから楽しんでいた。初めから憎んでいた。
誰に? 何に? どうして?
そんな事は彼女自身にも分からない。ただ、彼女のそれらの感情はすべてが極まっていた。
世界を滅ぼしたい。世界を救いたい。
人を傷つけたい。人を癒やしたい。
草木を愛でたい。草木を焼き払いたい。
男でありたい。女でありたい。
死にたい。生きたい。
極まった矛盾。それこそが彼女の本質。
願いを叶える彼女の善意と破滅を齎す彼女の悪意に嘘はない。
第百三十八話『ハリー・ポッターは邪悪に嗤う』
「ピーブズよ。混沌より現れし、混沌を愛する者よ」
アルバス・ダンブルドアは空間毎凍結させたポルターガイストのピーブズをまっすぐに見つめながら言った。
「ありがとう。知りたい事がすべて分かった」
『……ひ、人でなし! アルバス・ダンブルドアは人でなしだ!』
「その通り。わしは人でなしじゃよ」
ピーブズは常にホグワーツの教師や生徒を悩ませていた。とにかく悪戯が好きでひっきりなしに騒動を起こしていたからだ。
けれど、ハリー・ポッターが入学してからはピタリと悪戯を止めていた。それどころか気配を消してハリーに見つからないように隠れていた。
ヴォルデモートを殺害し、バジリスクを使役する彼を恐れたのだろうと誰もが考えていた。けれど、真の理由は他にあった。
ロウェナはあの時点から既にハリーに目をつけていた。そして、彼女の背後にはヘルガがいた。
彼はヘルガの存在に気付いていた。混沌そのものであるヘルガをピーブズは愛していた。そして、同時に恐れていた。
彼と彼女ははじまりを同じくしている。賢者が生み出したピーブズ。人類の集合無意識が生み出したヘルガ。
その在り方は分霊箱に近い。結局は混沌から分かたれた存在だ。分霊同士が惹かれ合い、一つになるように、彼らも惹かれ合い、そして一つになる。
個を失う恐怖。それはピーブズにとっても例外ではない。なによりも恐ろしい。
「すまぬが時間が惜しい。失礼するよ、ピーブズ」
ダンブルドアはピーブズを拘束したまま後ろに控えている者達に振り返る。
「ピーブズはそのままに?」
スクリムジョールが問う。
「少なくとも、ヘルガとの決戦が終わるまでは拘束しておいた方が良かろう」
冷酷な一面を隠さなくなったダンブルドアにスクリムジョールはゴクリと生唾を呑み込んだ。
「わしらに出来る事は限られておる。お主等は悪に染まる事を決意したのじゃろう? ならば、貫き通す事じゃ。わしも君達に倣おう」
ヘルガの本質を理解した。ロウェナを救い、人類を救い、世界を救う。その為には混沌を要する。
「より大きな善のために、より大きな悪を為そう」
その言葉にグリンデルバルドは震えた。
あり得たかもしれない可能性。もし、彼が家族を捨てて自分と共に歩んでいたら至っていたかもしれない道の果て。
魔王・ダンブルドア。その気になれば、彼はあまねく人を屈服させ、支配する事が出来る。
己やヴォルデモートなど比較にならない程の人類に対する脅威となっていた。
それこそ、人類を絶滅に追い込んだロウェナの如く。
「共に地獄へ堕ちてもらうぞ、二人共」
「……アルバス。お前となら、どこへでも」
「……それで世界が救えるなら、是非もない」
◆
ロン・ウィーズリーは剣の使い方を考えていた。
「割となんでもアリなんだよね、コレ」
相談相手はドラコとハーマイオニーだった。大人達は忙しそうにしていて、他に頼れる相手がいなかったのだ。
「あなたは何に悩んでいるの? 卑劣な策で取り逃がしてしまったけれど、あと一歩のところまで追い詰めていたじゃない」
ハーマイオニーの言葉にロンはうーんと唸った。
「アレは不意打ちだったからね。それに、多分だけどヘルガは対応していたと思うんだ。ロウェナに変身しなくても」
「どういう意味だい?」
ドラコが尋ねるとロンは言った。
「動いていたんだよ。目でしっかり僕を捉えていて、回避行動に出てた。それでも倒せると思って踏み込んだんだけど、倒しきれなかった可能性も高いと思う。少なくとも、あの時と同じ方法は通じないよ」
「なるほどね。それに、サラザール……に化けていたヘルガは自分を格闘特化と言っていたけれど、変身術を使用した。ブラフだったわけよね。恐らく、格闘に絞って対策を練っていた所に魔法で攻撃っていうパターンがあった筈よ」
「実に厄介だな。決戦前から情報戦を仕掛けてくる辺り、他にもありそうだ。たしかに、色々と考えておく必要があるね」
「とりあえず、剣が出来る事を教えてちょうだい。何が出来るのか分からないと、取捨選択も出来ないわ」
「う、うん!」
ロンは剣に内包された奇跡を語った。それらをハーマイオニーが逐一羊皮紙に記入していく。
剣の奇跡。それはゴドリック・グリフィンドールを筆頭に、数々の継承者達が戦ってきた脅威の力。
魔法生物だけではない。剣は亜人や人間も斬り続けてきた。
剣そのものがニワトコの杖にも匹敵する術法増幅装置であり、肉体はエグレにも匹敵する程に強化する事が出来、最大出力の一撃は国を消し飛ばす。
そして、剣にはゴドリックのすべてが宿っていた。
「……ゴドリックは自分で自分を刺したんだ」
見せろと望めば、剣はゴドリックの最後をロンに見せた。
ヘルガの悪意。ロウェナの変心。サラザールの死。己の狂気。
彼は絶望に暮れていた。そして、狂っていた。
彼の最期は自決だ。己を剣に刻み込み、ロウェナとヘルガを止める者の出現を祈っていた。
「僕達の前に現れたゴドリック。彼もシャドウだったんだ」
ゴドリック・シャドウ。前にジニーに取り憑き、エグレに襲い掛かった存在。
彼もまた、剣に刻み込まれていたゴドリックそのものだった。
勇者であり、狂人。彼の目的はロウェナの破滅の道を阻む事だった。剣はその為にシャドウを生み出した。あれは一種の暴走だったのだ。
けれど、真の担い手に相応しい男が現れた事で暴走は鎮まり、本来のゴドリックの意志が蘇った。
「正直、ずっと胡散臭い奴だって思ってた。だけど、ロウェナを助けようとしていた思いは本物だった。だから、ゴドリックの為にも絶対にロウェナを助けないといけないんだ!」
故事曰く、男子三日会わざれば刮目して見よ。
愛の為に戦う決意を固めた彼の姿に、ドラコとハーマイオニーはハリーの姿が重なって見えた。
「……凄いな、ロン」
ドラコは呟いた。
正直に言えば、羨ましい。最終決戦の舞台でハリーの隣に立てるのはロンだ。
結局、彼はそこまでたどり着く事が出来なかった。
「ドラコ」
悔しくて、涙が滲みそうになっている彼にハーマイオニーが声をかけた。
「あなたとハリーは正面で向き合う関係でしょ」
やれやれと肩を竦めながら言う彼女にドラコは頬を掻いた。
ドラコはハリーを追いかけているわけではない。彼の隣に並び立ちたいのは、彼を守りたいからだ。助けてあげたいからだ。それが出来ないから悔しいのだ。
正面で向き合う関係。その言葉はストンと胸の内に入って来た。
互いに誰よりも信頼し合っている確信がある。ハリ―が最後に頼る相手は他ならぬドラコであり、ドラコが最後に頼る相手もハリーだ。
「そうだね」
相手に自分の死を背負わせても構わないと思う程の信頼関係。
ハリーとドラコの絆は互いの恋人よりも強い。
「ハリーにとって、あなたは唯一無二の存在よ。ロンを羨ましいと思うなんて、お門違いもいいとこ。そうでしょ?」
「……分かった。分かったから、あんまり言わないでくれよ。今はロンのお悩み相談が優先。だろ?」
「ドラコ、ハリーの事が好き過ぎだと思う……」
ロンはちょっと引いていた。
「なんだと!? 親友ならこの程度、当然だろ!」
ハーマイオニーは視線を少し逸した。
◆
「いよいよ最後だね」
コリン・クリービーは言った。
「う、うん」
彼に告白されたばかりのローゼリンデ・ナイトハルトは頬を赤く染めながら頷いた。
「……長い一年だったね」
「うん」
入学してから三年。初めの二年に比べて、この三年目はやたらと長く感じた。
あまりにも濃密な出来事の連続だった為だ。
「ハリーの伝記を見てよ! 今年の分だけで10冊目だよ!? それまでは一年分が二冊程度で収まっていたのに!」
「す、すごいね!」
「もう、ほんと今年は凄すぎるよ!」
「……あはは」
ローゼリンデとしてはそれなりに分厚い羊皮紙の冊子を十四冊分も書き上げたコリンの熱意と努力もかなり凄いと思った。しかも、これは初板ではなく、三度目の改稿なのだ。更に言えば、まだ完成していない。後一冊分くらいは書く予定らしい。
「そ、そう言えば、タイトルを付けたんだね!」
「うん! 色々考えてみたんだけどね。いろんな人に読んでもらいたいから、キャッチーなタイトルを考えてみたんだよ!」
どれどれとローゼリンデはタイトルを指でなぞりながらタイトルを読み上げた。
「《ハリー・ポッターは邪悪に嗤う》」
ローゼリンデはクスリと微笑んだ。
ハリーはよく邪悪な笑みを浮かべる。けれど、彼の本質はどこまでも善良だ。そのギャップこそ、彼の魅力なのだ。
彼の本当の姿を知って欲しい。そんなコリンの祈りが籠もった伝記。そのタイトルとして、これはとても相応しいものだと彼女は思った。
「うん。いいと思うよ、コリン」
「ありがとう、ロゼ」
◆
「完成したぞ!」
魔法薬学の教室では遂に変身薬が完成していた。
ニュートが最初の被検体としてクスリを手に取ろうとすると、ハリーはすばやく試験管を奪い取り、空中に放り投げた。
そして、自らは蛇に変身していく。
「お、おい、ハリー!」
ニュートは慌てふためき、トムは「やると思った……」と額に手を当て、ダフネとスネイプは「ちょまっ!」と手を伸ばした。
そして、
「いくぜ、超変身!」
蛇になったハリーは落ちてくる試験管を口でキャッチして、その中身を飲み干した。
黄金の輝きが室内を満たしていく。