人生とは分からないものだと、ハリーは思った。
「ドラコ! それはこっちよ!」
「はぁ? こっちに置いた方が便利だろ!」
「本棚なのよ!? 日差しが直接当たる場所なんて駄目に決まってるでしょ!」
「分かったから、怒鳴るな!」
「あ、あの、こちらはどこに置きましょう?」
「それは向こうの棚の近くにお願い、マーキュリー」
ハリーはドラコとハーマイオニー、そして、マーキュリーと共に十メートル四方の広々とした部屋にいた。
そこはハリーの新しい部屋だった。今、彼らは部屋の模様替えに勤しんでいる。
最初はハリーが主導で行っていた筈なのに、いつのまにかハーマイオニーに主導権を奪い取られて仕切られていた
「ハリー! ゴスペルの棲家を設置する前にちゃんと湿度調整呪文と温度調整呪文を床に掛けて! さっきメモを渡しておいたでしょ!」
「とっくに掛けてる!」
折角、理想の部屋を作ろうと思っていたのに、このままではハーマイオニーにとっての理想の部屋になってしまう。
ハリーは面白くなかった。けれど、反抗する事も出来なかった。
ゴスペルが快適に過ごせるように必要な呪文をリストアップしてくれたり、結局はハリーが住みやすいように一生懸命考えてくれている事が伝わってくる事も理由の一つだったけれど、最大の理由は別にあった。
ようやく家具の設置と荷物の整理が終わった頃、部屋の扉をノックする音が響いた。
入ってきたのはマクゴナガルだった。
「ハリー。模様替えは終わったのですか?」
「はい、先生!」
ハリーが応えると、マクゴナガルは困ったように微笑んだ。
「もう、わたしは先生ではありませんよ」
「……は、はい、その……、えっと」
ハリーは顔を真っ赤にしながら言い淀んだ。
ハーマイオニーとドラコがニヤニヤ笑っている。
「……か、か……、母さん」
ハリーは絞り出すような声で言った。
第三十二話『女帝』
時は数ヶ月前に遡る。
大広場で暴れた後、図書館にやって来たハリーはローゼリンデに「もう大丈夫だ」と言って、大広間での大立ち回りについて語った。
すると、彼女に勉強を教えてあげていたハーマイオニーは深くため息を零した。
「このおバカ!!!」
図書館の中だと言うのに、マダム・ピンスが怖い表情で睨んできてもお構いなしにハーマイオニーは怒鳴り声をあげた。
「ば、バカだと!?」
ハリーが怒鳴り返そうとすると、ハーマイオニーはハリーのおでこを人差し指でツンツンしながら言った。
「あなたは何てバカなの! あまりにも考えなしな行動だわ!」
「なんだと!? 相手はロゼを傷つけた連中だぞ! それを許せと言うのか、貴様ぁ!!」
「言ってないでしょ!! このおバカさん!!」
他の人間ならば誰もが縮み上がるハリーの殺気を受けても、ハーマイオニーはなんのそのだった。
それどころか、彼女の全身から発せられるエネルギーはハリー以上の迫力だった。
「あなたの行動の愚かさは後の事を何も考えていない事よ!!」
「あ、後の事だと!?」
「そうよ! 言っておくけど、あなたの事じゃないわ! ロゼの事よ! よりにもよって、学校中の人間が集まっている大広間で彼女が虐められていた事を公表した挙げ句、怒りに任せて暴れまわるなんて! そんな事をしたら、ロゼが余計に困ると想像が出来なかったの!?」
「そ、それは……」
あまりの剣幕にハリーはたじろいだ。
「ロゼを虐めていた子達の名前は分かっていたんでしょ!? だったら、どうして先生に報告しなかったの!? ロゼはこれから卒業まで七年間をホグワーツで過ごすのよ! それなのに腫れ物に触れるような扱いを受ける事になったらどう責任を取るつもり!?」
「ぐぅ……」
ハリーは反論する事が出来なかった。彼女の言葉に正しさを感じてしまったからだ。
「……ボクは許せなかったんだ。どうしても……」
唇を噛み締めながら呟くハリーにハーマイオニーは肩を竦めた。
「気持ちは分かるわ。わたしだって、腸が煮えくり返っているもの。だけど、犯人が分かっているなら他の方法を取るべきだったわ。一人一人呼び出して二度とバカな真似が出来ないようにするとか、ドラコのお父さんは権力者なんだから、その権力で脅しを掛けるとか、他にもいろいろ……」
ハーマイオニーは結構怖い事を呟いた。
「とにかく! あなたも、あなたを止めなかったドラコも軽率過ぎます! 反省しなさい!」
ハリーは顔を上げ続ける事が出来なかった。俯いてしまった。愚かな事をしたのだと認めてしまった。
怒りに身を任せて、一番に考えるべき事を忘れていた。ローゼリンデの未来こそ、何よりも優先しなければならないものだった。
「……すまない、ロゼ」
ハリーはローゼリンデに頭を下げた。いつもの自信に満ち溢れている彼からは想像もつかない程、弱り切った表情だった。
その一言に含まれていたものは大広間での愚行だけではなかった。
―――― お前が危険に晒される事は決してない。このボクの配下なのだからな。ボクが必ず守ってやる。
以前、ハリーはローゼリンデにそう言った。それなのに、守ってあげる事が出来なかった。
それが許せなかった。自分自身と彼女を虐めた者達に対する怒りで我を見失っていた。
結局、ハリーは彼女の為ではなく、自分自身の為に暴れてしまったのだ。
その結果がこれだ。ハーマイオニーの言う通り、実に愚かだとハリーは思った。
「い、いえ、だ、ダメです! あ、頭を上げて下さい!」
ローゼリンデは縋るように言った。
彼女にとって、ハリーは特別な存在だった。
卓越した存在であり、崇高な存在であった。
そんな彼が謝る事など、あってはならない事だった。
「わ、わたし……、わたし、嬉しいです! は、ハリー・ポッター様がわ、わたしの為に怒ってくださるなんて……だから、どうか謝らないでください!」
「ロゼ……」
ハリーは苦い表情を浮かべた。
彼女に対して、彼は負い目を抱いている。けれど、彼女は謝罪など求めていない。
ハリーはモヤモヤした気分になり、危うく、謝罪を受け入れようとしないローゼリンデを責めてしまいそうになった。
この期に及んで更に自分の事ばかり考えてしまっている事に、ハリーは愕然となった。
「は、ハリー・ポッター様……?」
ローゼリンデに見つめられて、ハリーは咄嗟に顔を背けてしまった。
あまりにも情けない気分だった。
「ハリー」
ハーマイオニーはそんなハリーの肩をポンと叩いた。
反射的に振り向くと、彼女はハリーの頬を叩いた。
「なっ!?」
「な、何をするのですか!?」
ハリーとローゼリンデが目を見開くと、ハーマイオニーは悪びれた表情も浮かべずに「満足?」とハリーに問いかけた。
謝罪を受け入れてもらえないのなら、責めて欲しい。そんな彼の考えを彼女は汲み取ったのだ。
「……ああ、ありがとう」
「ほえ!?」
そんな二人の心理を知らないローゼリンデは目の前で起きた事に混乱した。
いきなりビンタをかましたハーマイオニーに、頬を赤くしたハリーが感謝したのだ。
そして、ローゼリンデは思った。
もしかしたら、ハリーは叩かれると嬉しい人なのかもしれないと。
彼女はハリーの謝罪によって、頭があまり働かなくなっていた。
「……て、ていやー!」
「ゴフッ!?」
不意打ちだった。ハリーのみぞおちにローゼリンデの正拳突きがクリーンヒットした。
「あ、あの……、こ、これでいいですか?」
悪意の欠片も見当たらない表情で小首を傾げるローゼリンデ。
ハリーは彼女もハーマイオニーのように自分の気持ちを汲んでくれたのだろうと勘違いをした。
「あ、ああ……、ありがとう。満足だ」
ローゼリンデはドン引きしそうになったけれど、必死に踏み止まった。
相手は他ならぬハリー・ポッター。彼女にとって、最も偉大なる存在だ。
例え、彼が叩かれると喜ぶ奇妙な一面を持っていたとしても、それは変わらない。
故に、彼女は後ろにさがりそうな足を前に踏み出した。
「ていやー!」
「ゴヘッ!?」
まさかの追撃にハリーは目を白黒させた。
追撃が来るとは欠片も考えていなかった為、完全に油断していたのだ。
「ロ、ロゼ……?」
「も、もっとですか? もっとなんですね!?」
「ロゼ……?」
「わ、わたし、がんばります!」
「ロゼ!?」
ハリーはローゼリンデにボコボコにされた。実はそこまで怒っていたのかと、ハリーは必死に耐えた。ローゼリンデの気が済むまで、彼女の拳を受ける事が償いになるのだと考えたのだ。
そして、ローゼリンデは途中から少しだけ楽しくなっていた。けれど、その事に気が付かないままハリーをボコボコにした。
ハーマイオニーは「わ、わたし、しーらない」と顔を背けた。
◆
「……おバカさん」
ハーマイオニーは保健室で治療を受けているハリーを呆れたように見つめた。
「う、うるさい……」
ハリーは消毒液の匂いに顔をしかめた。
「ほらほら、治療中はお静かに」
マダム・ポンフリーに窘められて、二人は口を閉じた。すると、保健室にはマダム・ポンフリーが治療をする音と隣のベッドから響くローゼリンデの寝息だけが響いた。
彼女はハリーをボコボコにする為に体力を使い果たしてしまったのだ。思わぬアグレッシブを発揮するには体力の方が足りていなかったらしい。
治療が終わると、ハリーとハーマイオニーはローゼリンデのベッドの隣に椅子を並べて座った。
「頭は冷えた?」
「……まあな」
ハリーはしばらくローゼリンデの寝顔を見つめた後、マダム・ポンフリーが奥に引っ込んでいる事と他のベッドで寝ている生徒がいない事を確認するとハーマイオニーに頭を下げた。
「……ありがとう、ハーマイオニー」
「今日は素直ね、ハリー」
「……うるさい」
ハリーの言葉に覇気は無かった。
過ちを指摘してくれた事や気持ちを汲んでくれた事に対する感謝を別にしても、どういうわけか、彼女に対して強気に出る事が出来なかった。
「ボクは弱いな……」
「ハリー?」
気づけば、ハリーは自分の弱味を曝け出していた。
「ロゼの為に怒ったつもりだったけど、ボクはボクの為に怒っていた。謝罪を受け入れてくれないロゼに理不尽な怒りを向けようとしてしまった。ボクは……、君の言う通り、愚かだ」
その言葉と彼の浮かべる苦悩の表情にハーマイオニーは目を細めた。
穏やかに微笑みながら、彼女は言う。
「大丈夫よ、ハリー。あなたが間違えそうになったら、今日みたいにわたしが正してあげる。どんな時でも、何度でも、絶対に。だから、安心しなさい」
「……ありがとう」
◆
その翌日、ハーマイオニーはドラコの事も叱りつけた。そして、二人をマクゴナガルの下へ引き摺った。
このままではハリーとマクゴナガルの関係が壊れてしまうと思ったからだ。
彼にとって、マクゴナガルが特別な存在である事を彼女は知っていた。
ただの教師と生徒ではなく、もっと深い絆がある事を見抜いていた。
「ほら、二人共!」
マクゴナガルはすっかりハーマイオニーの尻に敷かれている二人を見て目を丸くした。
「す、すまない、先生。愚かな事をした。それに……、暴言を吐いてしまった……。撤回させて欲しい」
「……僕も怒りに振り回されていた。申し訳ありません」
過ぎてしまった事はどうにもならない。
彼女がドラコの要求を呑んだ事実は変わらず、そのツケを支払う時は遠からず来る事になる。
けれど、あれほど怒りに狂っていた二人がそのまま歪む事なく謝りに来た事にマクゴナガルは安堵した。
同時にハーマイオニーの勇気と思い遣りの心に胸を震わせた。そして、彼女は一つの決意を抱いた。
それからの数ヶ月、ローゼリンデに対する虐めを行った者達に対する処罰は現代の基準のものに変更されたけれど、マクゴナガルに対するバッシングの声は多かった。
そして、ハリーとドラコに対する世間の評価も厳しかった。一度は魔法省の役人と共に闇祓い局という魔法界における対テロ特殊部隊の人間がやって来て、二人をアズカバンに収監しようとした。
その時はダンブルドアとドラコの父であるルシウス、そして、ロンの父親のアーサーが動いて事態を沈静化させた。
それでも、彼らの行動を問題視する声は多く、二人もそれを当然の事として受け止めていた。唯一の救いは、この期に及んでもローゼリンデに対してちょっかいを掛ける愚か者がいなかった事だ。そして、コリンとジニーは変わらずハリーを慕い、ローゼリンデとも友情を結んだ事だった。
二人の勇気に、ハリーはグリフィンドールという寮が掲げる《勇気ある者が集う寮》という言葉の意味を噛み締め、敬意を抱いた。
◆
学年末試験、ハリーとハーマイオニーは同率一位だった。
唯一100点以上の点数を取らせたスラグホーンがハリーに対して怯え切ってしまい、100点満点を厳守した為だ。
三年生からの選択科目では例年100点以上の点数を叩き出す者が居るという。そこで決着をつけようと二人は誓い合った。
そして、ホグワーツの二年目が終わりを迎える。
そこで、スラグホーンとマクゴナガルが教師を辞任する事が生徒達に伝えられた。
ハリーとドラコは青褪めた。どう考えても、ハリーとドラコのせいだったからだ。
「せ、先生!!」
ハリーはドラコとハーマイオニーと共にマクゴナガルの部屋に急いだ。
すると、部屋はすっかり片付けられていて、マクゴナガルがホグワーツを去る準備を終えてしまっている事に気がついた。
青褪める三人に対して、マクゴナガルは微笑んだ。そして、謝ろうとするドラコとハリーを止めた。
「たしかに、あなた達はやり方を間違えました。けれど、そう何度も謝ってはいけませんよ。あなた達の怒りはすべてが間違っていたわけではないのですから」
彼女は言った。
「親しき者が傷つけられて怒りを覚えるのは当然の事です。そして、少なくともわたし達教師は責めを負う義務があります。わたしの退任に対して、あなた方が責任を感じる必要はありません」
「で、でも!」
ハリーは言いたい事があった。けれど、口に出す事が出来なかった。
そんな資格は無いと思ったからだ。
―――― 行かないで欲しい。
そんな身勝手な事を考えてしまう自分の愚かさが嫌になった。
こうなった原因はハリー自身にある。それなのにそんな事を考えるなんて恥知らずも甚だしいと思った。
「……ハリー」
そんな彼にマクゴナガルは些か緊張した様子で声を掛けた。
「先生……?」
「その……、もしですよ? もし、あなたさえ良ければ、一つ提案があります」
「提案?」
ハリーは首を傾げた。
「あなたは去年、ダーズリー家を飛び出して、ミスタ・マルフォイの家に厄介になりましたね?」
「は、はい」
「今年も戻るつもりはない。そう考えて、間違いありませんね?」
「……はい」
頷きながら、ハリーは彼女が何を言いたいのか分からなくて困惑した。
「今年もミスタ・マルフォイの家に厄介になるつもりですか?」
「そ、それはその……」
ハリーがドラコを見ると、ドラコは頷いた。
「僕はそのつもりです。父と母もハリーを歓迎しますよ」
「……すまないな、ドラコ」
「君と僕の仲じゃないか。水臭い事は無しだよ、ハリー」
二人の友情に対して、マクゴナガルは少し気まずそうに咳払いをした。
「なるほど、分かりました。ですが……、ハリー。あなたに、もう一つの選択肢を用意しています」
「もう一つの選択肢……?」
ハリーとドラコは首を傾げた。そして、ハーマイオニーは「あっ」と口元に手を当てた。
「ハリー。わたしの家に来ませんか?」
「……え?」
ハリーはマクゴナガルが何を言ったのか、少しの間分からなかった。そして、理解した後は聞き間違いかと思った。もしくは自分の耳がイカれたのかとも思った。
「い、今……、なんと?」
聞き返すと、彼女は少し頬を赤らめた。
「わたしがあなたの後見人になる、という事です。あなたにはしっかりと躾の出来る保護者が必要であると判断しました。もちろん、選ぶのはあなたです。ただ、そういう選択肢もあると……」
「……ボ、ボクの保護者に……、先生が」
ハリーはポカンとした表情を浮かべた。
「い、嫌ならいいのです! 聞かなかった事にして下さい。あくまで、あなたが望むなら、という事です」
「ボ、ボクは……」
ハリーが戸惑っている後ろでハーマイオニーはドラコを小突いた。ドラコも無言で頷くと静かに部屋を出て行った。
◆
そして、数日後である現在。
ハリーはマクゴナガル邸にいた。
ドラコとハーマイオニー、そして、ホグワーツから付いて来てくれたマーキュリーに引っ越しを手伝ってもらい、自分の新しい部屋を手に入れた。そして、同時に母親という存在を手に入れた。
「……か、か……、母さん」
「……ハリー。さあ、引越し祝いの御馳走が出来ていますよ」
「う、うん!」
ハリーはマクゴナガルの後ろについていった。ドラコとハーマイオニーはニヤニヤ笑い続けた。マーキュリーも嬉しそうに微笑んだ。