魔法生物学の教師、シルバヌス・ケトルバーンはため息を零した。
本当なら、去年で教師を引退する予定だった。片腕と片足を無くして久しく、残る手足を失う前に隠居してしまおうと考えていたのだ。
それなのに、マクゴナガルに先を越されてしまった。彼女が抜けた穴は大きく、特にグリフィンドールの寮監を誰にするかで揉めに揉めた。
誰もやりたがらなかったのだ。最終的には押し付け合いになり、ケトルバーンが就任する事になった。
「ったく、わしはハッフルパフだったのに、なんでグリフィンドールの寮監なんぞ……」
ケトルバーンとしては、ハグリッドを魔法生物学の後継者に据えて、そのままグリフィンドールの寮監にしてしまえばいいと考えていた。彼は中退したとはいえ、在学時はグリフィンドールだったのだ。ダンブルドアも乗り気だった。
それなのに、自分でやるのは嫌がる癖に、ハグリッドにやらせるのも反対する面倒な連中のせいで却下されてしまった。
偉大なる魔法生物学者のニュート・スキャマンダーがサポートに就くのだから、寮の事でも彼に相談させれば上手くやっていけると反論しても暖簾に腕押しだった。
「ええい! あのわからず屋共め! 今に見ておれ!」
今年一年は諦めよう。けれど、来年こそはハグリッドを教師にして、ついでにグリフィンドールの寮監にしてみせる。
ケトルバーンは静かに闘志を燃やした。
「ケトルバーン先生! 準備が出来ました!」
ハグリッドが魔法生物学の授業の準備室に入って来た。相変わらず、大きな体だ。部屋が小さくなってしまったかのように感じる。
来年までに部屋を広げないといけないとケトルバーンは思った。
「うむ! では、授業にいくぞ! 今年の三年生はバジリスクを見慣れておるからな! 度肝を抜かせてやろう!」
「へい! フラッフィーなら間違いねぇです!」
「ホーッホッホッホ! 生徒の驚く顔が楽しみじゃわい!」
二人の会話を後ろで聞いていたニュートは頭を抱えそうになった。
「くれぐれも安全対策は万全にして下さいよ?」
「もちろんじゃ!」
「抜かりはねぇです! スキャマンダー先生!」
笑顔が眩しい。この笑顔にニュートは弱かった。
第三十七話『新しい授業』
生徒達は絶句した。
魔法生物学の授業を受ける為にやって来た場所には、3つの頭を持つ巨大犬がいたのだ。
「ケ、ケケ、ケ……、ケルベロス!?」
「ウッソだろ!?」
「こ、殺される!?」
阿鼻叫喚の地獄絵図が広がった。
ケルベロス。ギリシャに存在が確認されている冥府の番犬。
その危険度はバジリスクにも引けを取らない。
そんな化け物が寝息を立てていた。その隣には竪琴が置かれていて、勝手に音楽を奏でている。
「シーッ! バカ! 起こすな!」
「あんたもうっさい!」
「だまれ! 頼むから黙ってくれ! 静かに逃げるんだ!」
パニックが起きていた。誰もが我先に逃げ出そうとしている。
すると、爆竹を鳴らしたような音が鳴り響いた。
生徒達はギクリと固まり、ギギギと音を立てるような動きで振り向いた。
「ホーッホッホッホ! 諸君! 初めての魔法生物学の授業で浮かれるのは分かるが、あんまり騒ぐのは感心せんぞ!」
「おう! フラッフィーに会えて感激しとるのは分かるが、授業は真面目に受けんといかんぞ!」
ケトルバーンとハグリッドの言葉に、生徒達は一斉に表情を歪めた。
―――― こいつら、何を言ってるんだ?
どこをどう見たら浮かれているように見えるのかサッパリ分からない。
「は、ハグリッド。フラッフィーってのは、そいつの事か?」
ハリーが顔を引き攣らせながら問いかけると、ハグリッドは嬉しそうに頷いた。
「そうだぞ! 可愛いだろう! パブでギリシャ人から買ったんだ!」
「パブで!? 買った!? そいつを!?」
ツッコミどころが多過ぎて、ハリーは目眩を感じた。
「ま、待ってくれ、ハグリッド! ケルベロスって、相当に希少な筈だろ!? しかも、滅茶苦茶危険な生き物なんだろ!? なんで、そのギリシャ人は連れ歩いてたんだ!? っていうか、パブで取引きって……、それ、合法なのか!?」
ドラコが青筋を立てながら問い詰めると、ハグリッドは視線を逸した。明らかに都合の悪い事を聞かれたかのような態度だ。
「おいコラ、ハグリッド!! ボクが無罪を証明してやったのに、おもっくそ有罪じゃねーか!!」
「ゆ、有罪じゃねぇ! ケルベロスを取り引きしたらいかんって法律は無いんだぞ!」
ハリーは額に手を当てながらため息を零しているニュートを見た。
「ニュート! 本当ですか!?」
「……ああ、本当だよ。ケルベロスは数自体が少ないし、生息地から動かす事がそもそも不可能に近いんだ。彼らは自らの領域を絶対のものと考えている。彼らの領域に足を踏み込んだ者は必ず冥府へ送られる。だから、冥府の番犬などと呼ばれているのさ。……だから、取り引きなんて出来ない筈だし、そんな事を考える人間なんて居るはずもないと思われていたんだ。まさか……、居るとは……」
ニュートは悲壮な表情を浮かべていた。
ハリーとドラコは顔を引き攣らせたまま何も言えなくなった。
「……つまり、ここって」
「ケルベロスの領域なんじゃ……」
「私達……、足を踏み込んじゃってるんだけど……」
「……短い人生だったな」
「去年の遺書……、残しとけば良かった」
「マジでホグワーツってイカれてるぜ」
「ハリーよりヤバイのがいやがった……」
「ははっ、これだよ。これがホグワーツだぜ! 命の危機と隣り合わせ! そのスリルがたまんねぇ!」
「やべー、ジャクソンが壊れた!」
「……っていうか、あの犬……、目をパチパチさせてんだけど……、起きてね?」
一瞬にして広場は静まり返った。竪琴の奏でる旋律さえ、聞こえなくなっていた。
「……あれ? ケトルバーン先生? 竪琴の魔法……、切れてませんか!?」
「しもうた! 途中でかけ直すのを忘れておった!」
ペシンと自分のおでこを叩きながらテヘッと舌を出して笑うケトルバーン。
ニュートは絶句した。ハグリッドはあたふたし始めた。
「た、たた、助けて、ハリー!!」
「ヴォルデモートみたいにぶっ殺してくれ!」
「無敵のバジリスクで何とかしてくれよ!?」
「悪霊の火でもなんでもいいから!! お願い!!」
「まだ死にたくないよー!!」
生徒達は一斉にハリーに縋り付いた。そして、そうしている間にも目を覚ましたフラッフィーは雄叫びを上げた。間近にいたケトルバーンは吹っ飛んだ。
「ケトルバーン先生!?」
ニュートが目を見開きながら叫ぶ。
そして、フラッフィーの三対の眼がそれぞれニュート、ハグリッド、そして、生徒達を睨みつけた。
甘い期待など許されない圧倒的な殺意。ここは既に現世ではなく、冥府魔道であると誰もが悟った。
「は、ハリー!!」
「助けてー!!!」
必死の命乞いに、ハリーは「仕方ねーなー!!」と叫びながらフラッフィーの前に飛び出した。
すると、ハグリッドが慌てた。
「は、ハリー! ふ、フラッフィーを殺さんでくれ!!」
そんな妄言を吐いたハグリッドはフラッフィーの振り下ろした前足に潰されてしまった。
「ハグリッド!?」
ハグリッドは潰されながらもハリーにウルウルとした眼差しを向けた。
「は、ハリー。フラッフィーを殺さんでくれー……」
「おまっ……、この状況で……、おまっ!! だぁぁぁ、どうすればいいんだよ!?」
「音楽だ!! ケルベロスは音楽を聞くと眠ってしまうんだ! だから、竪琴を再び奏でれば――――」
ニュートが叫んだ瞬間、ケルベロスの左の頭がくしゃみをした。竪琴が吹っ飛んでいく。校舎に激突して、竪琴は壊れてしまった。
「おぃぃぃぃ!! 壊れちゃったぞ!?」
ドラコは悲鳴を上げた。
「だ、誰でもいいから変身術で楽器を作れ!! それまでは何とかしてやるから!!」
ハリーは叫んだ。
「エクスペクト・フィエンド!!!」
ハリーの杖から炎のバジリスクが飛び出す。その威容にフラッフィーは僅かにたじろいだ。
「い、今だわ!!」
フレデリカは咄嗟に近くの岩に杖を向けた。
「フェラベルト!!」
すると、岩はピアノに変身した。
「お、俺達も続くぞ!!」
ダンの掛け声に、生徒達が次々と近くの物を楽器に変身させていく。
そして、一斉に音を奏で始めた。
力強い太鼓の音。陽気なトランペットの音。優雅なバイオリンの音。カスタネットのパチパチという音などなど。
そして、フレデリカのピアノの旋律が融合して、なんとも言えない不協和音が轟いた。
「貴様ら真面目にやれ!!!」
フラッフィーを牽制しながらハリーはキレた。彼はハグリッドの懇願を律儀に聞き届け、フラッフィーに怪我をさせないように慎重に悪霊の火を操っている。
「わたしがピアノを弾くから、みんなはストップ!! ゴイル!! 太鼓のバチを捨てなさい!! ダンも!! あと、カスタネットって何を考えてるのよ!?」
普段は天使のように優しいフレデリカが怒鳴ると、みんなちょっとだけショボンとなった。
そして、改めて奏でられたフレデリカのピアノの旋律によって、ケルベロスは眠りについた。
後日、ケトルバーンとハグリッドは謹慎処分を受け、その間はニュートが教える事になるのだった。
◆
魔法生物学の授業の後、まるで戦場から帰って来た英雄のような表情を浮かべながら生徒達はそのまま占い学の教室に向かって行った。
「生き残ったぜ、俺達……」
「わたし……、遺書を常に持ち歩く事にする……」
「油断出来ねぇぜ、ホグワーツ……」
「ハリーがいなかったら、確実に誰か死んでたよね……」
「さすがは俺達のハリーだぜ!!」
「……貴様のカスタネットをボクは絶対に忘れないからな、ジャクソン!!」
喋りながらたどり着いた占い学の教室は噎せ返るような熱気に包まれていた。まるでサウナのようだと生徒達はゲンナリした。
ウンザリした気分のまま、喫茶店のような間取りのテーブルの周りに座り込み、授業の開始を待っていると、猫背の老婆が入って来た。
「占い学にようこそ」
囁くようなか細い声が響く。
「あたくしがシビル・トレローニー教授です。たぶん、あたくしの姿を見るのは初めてでしょうね。俗世にはあまりかかわらないようにしていますの。心眼が曇ってしまいますからね」
トレローニーは不吉な予言を次々に呟いた。
ダンの父親が元気とは思えないだとか、エドワードが狼に襲われるだとか、ドラコが炎の呪いを乗り越えられるか心配だとか。
それが彼女なりのユーモアなのだろうと理解したものは、そのあまりのセンスの無さに更にウンザリした。
トレローニーは一番前の席に座っていたフレデリカにティーセットを準備させた。
彼女はどことなくウキウキした様子だった。
「フリッカはこういうの好きなのよ……」
パンジーは呆れたように隣のダフネに囁いた。
そして、配られたティーカップに先生がそれぞれ紅茶を注いだ。
「最後に滓が残るまでお飲みなさい。そして、左手でカップを持ったら三度回しましょう。それからカップを受け皿に伏せるのです。最後の一滴が切れるまで待ってから、御自分のカップをパートナーに渡し、読んでもらうのです」
ハリーは非常に胡散臭く思いながらドラコに自分のカップを渡した。
「こんなので何が分かるってんだ?」
ドラコはぶつぶつ文句をいいながら教科書を開いた。
「えっと、なになに? これは人っぽいな。向かい合ってる感じか? それで……、これは杯か? こっちは鎌っぽい? えっと、意味は……、君は《最も信頼している者に最も残酷な事をする》? うわぁ……」
「うわぁってなんだ! うわぁって!」
「いやー、なんだろうねー」
ドラコは乾いた笑い声を上げた。
すると、トレローニーが近づいてきた。
ハリーのカップを覗き込むと、彼女は大げさにたじろいだ。
何事かとハリー達が見つめると、彼女はハリーが《死》に魅入られていると予言した。すべてを焼き滅ぼし、自らの身すら焼き焦がすだろうと。
誰も驚かなかった。
「……焼死って、すごく辛いらしいよね」
「遺書は燃えない紙に書こうかな」
「悪霊の火で燃えない紙なんてあるかな……?」
「やかましいぞ、貴様ら!!」
ハリーはキレたけれど、他の反応がつまらなかったからか、トレローニーは渋い表情を浮かべるのだった。