青白い光に満たされた世界で、ロウェナ・レイブンクローは虚空に浮かぶ映像を見つめていた。
「おやおや、困ったものですね」
「なにが?」
同居人であるヴォルデモートの分霊、トムが問い掛けると、ロウェナはやれやれと肩を竦めた。
「《血の呪い》はわたしが考案した魔法の中でも非常に完成度の高いものです。それ故に研究したくなる気持ちは分かりますが、解呪するなど……」
実に不可解だと、彼女は言った。
「別に不思議でもないだろ? 血の呪いを受けた者は短命となる。親友の想い人がその呪いを発症したから解呪する。至って自然な成り行きだと思うけど?」
「愚かですね、トム。いいですか? 血の呪いを発症する者は親の才能を越える事の出来なかった失敗作なのです。親友がそのような欠陥品に懸想していると知ったのなら、むしろ放置するべきでしょう。欠陥品と子を作っても、生まれる者は欠陥品でしかない。それでは、親子共々不幸に陥るだけではありませんか」
ロウェナの言葉にトムは顔を引き攣らせた。
「やはり、まだまだ子供という事ですね。好奇心に突き動かされ、取り返しのつかない事をしでかしてしまう。未熟者によくある事です。ここは、少しお節介を焼いてあげましょう」
「何する気……?」
「ドラコ・マルフォイには肉体を間借りしている恩があります。彼の未来がより良きものになるように、あのアステリアという少女を処分してあげましょう」
「うわぁ……、言うと思った」
トムは悍ましいものを見る目をロウェナに向けた。
「おや、なんですか? その妙な反応は」
「ボクが言うのもなんだけどさ。そっとしておいてあげたら?」
「……やれやれ、あなたという人は」
困ったものだとロウェナは溜息を零した。
「わたくしは悪意というものを否定しません。それもまた、人の心より生み出される感情なのですから。その感情によって発動する魔法もある事ですし……」
そう言いながら、彼女は子供を諭すような眼差しをトムに向けた。
「ですが、人の未来を悪戯に閉ざしてはなりませんよ、トム。あのような欠陥品と結ばれても、ドラコは幸福になどなれません。彼に最も相応しい母胎はダフネ・グリーングラス、あるいは……、ジネブラ・ウィーズリー。彼女達ならば優秀な子を産み落とすでしょう。その際には老婆心ながら、母胎の生命力をすべて注ぎ込む事で赤子の能力を飛躍的に伸ばす魔法を掛けてあげましょう。次代を託すに相応しい優秀な子供を得られれば、これ以上の幸福など無いでしょうからね」
「……でも、アステリアを処分したら、彼女の未来は閉ざされてしまうんじゃないの?」
「既に未来のない者です。閉ざされるも何もありません。そんなモノに未来ある若者が足を引っ張られるなど許される事ではありませんよ」
「でも……」
「トム」
ロウェナはトムを見つめた。
「何度不純物を取り除いても、あなたは悪の道に走るのですね……」
憐れむような口調にトムは首を傾げた。
「不純物……?」
「……そうだわ。そんなに処分する事が不服ならば、あなたの肉体として再利用しましょう」
「はぁ……?」
目を丸くするトムに構わず、ロウェナは虚空の映像に手を伸ばす。すると、揺れ動いていた映像が停止した。ドラコの肉体がロウェナの干渉によって制止したのだ。
「な、なにしてるの……?」
「魂に干渉しているのです。あなたのおかげですよ、トム」
「え?」
「魂に対する研究に、この空間とあなたという存在は打って付けでしたからね」
「それ、どういう……」
問いただそうとして、トムが伸ばした手が光に変わっていく。
「なっ!?」
「少し眠っていなさい、トム。目が覚めた時、あなたは自由よ」
第五十四話『邪悪』
「ん……、んん?」
遠のいていた意識が戻ってくると、トムは奇妙な事に気がついた。
普段、彼がロウェナと過ごしている空間は青い光とドラコの視界を映す映像以外に何もない。
それなのに、土や草の匂いがする。それに、土や草の感触がある。
ゆっくりと瞼を開けば、そこは森の中だった。
「ここは……?」
声を発して、その違和感に目眩を覚えた。
「まさか……」
辺りを見回すと、近くにドラコの姿があった。彼らしくない冷たい笑顔を浮かべている。
「どうですか? 欠陥品とは言え、再び受肉した感想は」
「欠陥品って事は……」
視線を下げれば、そこには女の子らしい衣服が映り込む。それは、アステリア・グリーングラスが身に着けていた服に酷似していた。
「トム。あなたには期待していますよ」
「期待って……?」
ドラコは微笑むと、その場で倒れ伏した。
「お、おい!?」
ドラコに駆け寄ろうとすると、近くの茂みから一人の少年が姿を現した。
「き、君は……」
現れたのは、幾度となくドラコの視界を通じて見てきたハリー・ポッターだった。
彼はトムを見るなり、表情を歪めた。
「貴様……、ヴォルデモートか?」
「なっ!?」
まさか、一瞬で見抜かれるとは思っていなかった。
「貴様、アステリアの肉体を奪ったのか!?」
ハリーの表情が憤怒に染め上げられていく。
「まさか……」
そして、トムは気づく。ロウェナ・レイブンクローの悪辣な企みに。
アステリアを処分する。血の呪いを解呪しようとするハリー・ポッターを改心させる。その二つを両立させる為に、彼女はトムをアステリアの肉体に憑依させたのだ。
ハリー・ポッターにアステリアをトムごと処分させる。それが彼女の思惑なのだ。
「待て! 話を聞いてくれ、ハリー・ポッター!」
「黙れ」
ハリーは震えていた。寒気を感じているわけでも、恐怖を感じているわけでもない。
あまりの怒りに体が震えているのだ。
「貴様……、ドラコをアステリアの肉体で傷つけたのか!!」
ハリーの怒声に、トムは表情を歪める。
彼の怒りを最大まで煽るために、彼女はわざわざここでドラコの肉体を横たわらせたのだ。
話し合いの余地など無い。彼の理性は怒りに呑み込まれてしまっている。
そうなるように、ロウェナは計算したのだ。
「許さんぞ……」
ハリーは声を震わせながら言った。
「絶対に許さんぞ、ヴォルデモート!!!」
彼が放つ圧倒的な覇気にトムは息を呑んだ。
これが本物のハリー・ポッター。偉大なるヴォルデモート卿を三度に渡り滅ぼした少年。
今、四度滅ぼそうと彼は杖を引き抜いた。
「クソッ、死なせるわけにはいかないんだ!」
トムはアステリアの肉体から抜け出そうと試みた。けれど、まるで、この肉体こそがトムの本来の肉体であるかのように馴染んでしまい、抜け出す事が出来ない。
「ヴォルデモート!!!」
ハリーが杖をトムに向ける。
「仕方ない……」
トムはアステリアの杖を振るった。攻撃する為ではない。逃げる為だ。
姿くらましによって、トムは一瞬の内にクィディッチ・ワールドカップの会場からロンドンの民家の屋根に移動した。
「最悪だな、あの女……!」
とにかく、一度どこかに隠れよう。そう考えた矢先、すぐ傍でバチンという音が響いた。
「なっ!?」
そこに立っていたのはハリーだった。傍には屋敷しもべ妖精の姿がある。彼はドラコの家のドビーだ。その表情は怒りで歪んでいる。
「よくも坊ちゃまの想い人を!! 許しませんぞ、絶対に!!」
まさか、追いかけてくるとは思わなかった。
「待て! これは罠だ! アステリアを殺すな!!」
「殺すなだと……? アステリアを殺すなだと!? 貴様が……、貴様がそれを言うのか!!」
ハリーの怒りは極限に達している。
このままでは本当にアステリアを殺してしまう。
「それはいけない。そんな悲劇をみすみす起こさせるわけにはいかないんだ!」
方法はある。アステリアの意識が浮上すれば、おそらくは彼女の肉体から離脱する事が出来る。
だが、それにはどうしても時間が掛かってしまう。
「如何に屋敷しもべ妖精だろうと、人を抱えては飛べまい!!」
トムは大地を蹴った。そして、そのまま天に向かって飛んでいく。
「なんだと!?」
これこそ、ヴォルデモート卿が考案した秘術である。
箒を必要としない飛行術。これならば追ってこれまい。そう考えて、トムは自らの心に向かって叫んだ。
―――― 目覚めろ、アステリア・グリーングラス! 目覚めるのだ! 貴様の肉体を取り戻せ!
何度も何度も叫び続けた。
この肉体の本来の持ち主は彼女だ。主導権は彼女にある。今はロウェナによって眠らされている彼女の意識さえ目覚めれば、彼女の卑劣な企みを挫く事が出来る。
「ヴォルデモート!!」
「なにっ!?」
ところが、アステリアが目覚める前にハリーが現れた。なんと、彼はヒッポグリフに跨っている。その上、彼の周囲には四体もの屋敷しもべ妖精が惑星の周りを回る衛星の如く付き従っている。
「箒も無く飛べるとは驚かされたが、ボクにはベイリンがいる!! さあ、覚悟しろ!! ヴォルデモート!!」
「クソッ、はやく起きろ!! アステリア!!! 間に合わなくなっても知らんぞ!!!!」
トムが叫ぶと、途端にトムを飛行を支えていた魔力が途切れた。
そして――――、
「およよ? 誰か、わたしを呼んで……って、ほえぇぇぇぇぇぇ!?」
『いかん! ハリー・ポッター!! ボクは抜け出した!! 彼女を助けろ!!』
「なっ!? どうなっているんだ!?」
『いいから早くしろ!! 彼女が死んでしまうぞ!!』
徐々に光の粒子となり、その輪郭をおぼろげにしながらもトムは必死に叫んだ。
そして、ようやくハリーの理性は憤怒と憎悪を踏み越えた。
「ベイリン!!」
「キュィィッ!」
悲鳴を上げながら落ちていくアステリアにベイリンが追いつく。そして、ハリーが抱きとめると、彼女は完全に目を回して気絶していた。
「……お前」
ハリーは頭上に浮かぶトムを見た。彼の肉体は既に消える寸前となっていた。
『ハハッ……、依り代を失うと、分霊はこうなるんだね』
トムは苦しげな表情を浮かべながらハリーを見つめた。
そして、完全に消える寸前に言った。
『気をつけろ、ハリー・ポッター。敵はボクだけじゃない……――――』
その言葉を最後に彼は完全に消滅した。
取り残されたハリーは困惑した表情のまま彼の消えた虚空を見つめ続けていた。
◆
その頃、森の中ではジニーが横たわるドラコを見つけていた。
「ドラコ!?」
慌てて駆け寄ると、唐突にジニーの手は杖を掴んだ。そして、ドラコを
「……ほう、あなたは」
ドラコは面白がるようにジニーを見つめた。そして、ジニーは言った。
「覗き見は良い趣味とは言えないよ」
そして、彼女はドラコの胸に杖を押し当てた。
「……よもや、わたくしに気づくとは」
「去るがいい」
杖から黄色の閃光が迸ると、ドラコは一瞬目を見開き、そして意識を失った。
「……あ、あれ?」
そして、ジニーはキョトンとした表情で辺りを見回した。
「わ、わたし、今……って、ドラコ!? どうして森の中で寝てるのよ!? ちょっと、ドラコってば!!」
慌てふためくジニー。そして、そんな彼女の下へハリーが四体の屋敷しもべ妖精達とベイリンと共に姿現した。
「ハ、ハリー!?」
「ジニー! 良かった、丁度いい。アステリアを頼む」
「え? え? え?」
目を回しているアステリアを押し付けられて、ジニーは混乱した。
そんな彼女を尻目に、彼はドラコの下へ向かった。
「おい、起きろ!」
「……ん、んん?」
目覚めたドラコに安堵の表情を浮かべながらハリーは彼に頭を下げた。
「ハリー……?」
「すまない、ドラコ。アステリアを危険に晒してしまった……」
「は? なっ、どういう事だ!?」
ドラコが掴みかかると、ハリーは直前に起きた事を話した。
アステリアを殺そうとした事を聞いた時には思わず殴りかかりそうになったドラコだったけれど、ハリーに抵抗する気がない事を悟ると拳を止め、苦しそうな表情を浮かべた。
そして、アステリアの肉体に取り憑いたトムに殺意を抱いた事は事実でも、彼女に対して呪文を一度も放たなかった事をドビーが必死な表情で説明した。
「……ドラコ、すまない」
「僕に謝ってどうするのさ……」
ドラコは深々と溜息を零した。傍若無人が常であるハリーにこうまで下手に出られては、ドラコとしても怒りを持続させる事が出来なくなった。
「……一つだけ聞かせてくれ。どうして、アステリアの呪いの事を話してくれなかったんだ?」
「ドラコには呪いの事など気にせずにアステリアと幸せになって欲しかった……。太古の呪詛が君の幸福に水を差すなど許せなかったんだ……」
「君ってヤツは……」
ドラコは再び溜息を零した。そして、ジニーに介抱されているアステリアを見つめた。
「……彼女の呪いは解けるんだよな?」
「ああ、必ず」
「そっか……。ありがとう、ハリー」
ドラコは言った。
「それと、ごめん」
「……こっちこそ」
ドラコとハリーは軽く握った拳をぶつけ合った。そして、ジニーとアステリアの方に向かって行った。
遠くで花火が上がる。いよいよ、クィディッチ・ワールドカップの会場への入場が開始されたようだ。
ドラコが目を覚ましたアステリアと話し始めるのを見届けた後、ハリーはそっと夜空を見上げた。
「……アイツは一体、何だったんだ?」