第六十一話『エグレ』
『オレ様、思うんだけどさ』
『どうした?』
大広間での食事が終わった後、ハリーは腕にゴスペル*1を巻き付けて、エグレに会うために秘密の部屋へ向かっていた。
『相棒の炎、でっかくなってね?』
『ああ、大きくなっている。ダーズリー家に対する憎悪なんて、ほとんど消えかけている筈なのに……』
憎悪を糧に燃え上がる炎。それが悪霊の火という呪文だ。
ハリーは常にダーズリー家で過ごした屈辱の十年を悪霊の火の火種にしている。
けれど、時が経つに連れて、ハリーの中でダーズリー家に対する憎悪は薄れ始めていた。消えたわけではないが、ペチュニアの幸福を祈るようになり、バーノンやダドリーの事を思い浮かべても一々怒りが込み上げてくる事もない。
それなのに、悪霊の火の威力は使う度に上がっていく。
『……まあ、心当たりはある。それに、威力が高まる事は歓迎するべき事だ。問題があるとすれば、完成に至っていないという点だな』
『完成って?』
『オレの炎は《真なる悪霊の火》には至っていないんだ』
『どういう事だい?』
『そのままの意味さ。今の炎では、触れる物すべてを焼き尽くしてしまう。だが、真なる悪霊の火ならば、燃やすべき物のみを燃やし、燃やすべきではない物を燃やさないように出来る筈なんだ。ニュートに聞いたんだけど、ゲラート・グリンデルバルドの悪霊の火は敵のみを燃やしていたという。まさに、完成されていたらしい。業腹だが、オレの炎はそこまでに至っていないんだ』
『相棒ならその内出来るようになるさ!』
『ッフ! まあ、その通りだ。すぐに完成に至ってやるさ』
『それでこそだぜ!』
ハリーはゴスペルを愛おしそうに撫でると、秘密の部屋の入り口へ入っていった。
第六十一話『エグレ』
『マスター、頼みがある』
秘密の部屋に入るなり、エグレが言った。
『もちろん、お前の頼みならばなんでも叶えてやる。外に出たいのか? それとも、食べたい物があるのか?』
『違う。一つ、魔法薬を調合してもらいたい』
『魔法薬……?』
『そうだ。我が父、サラザール・スリザリンが考案した至高の秘薬の一つだ。非常に難しい物だが、マスターならば問題なく作れる筈だ』
『サラザールの……!』
ハリーは鳥肌を抑える事が出来なかった。
偉大なるホグワーツの創設者の一人にして、エグレを生み出した男。
エグレの話を聞く内に、ハリーはサラザールを尊敬するべき偉人であると認めていた。
そのサラザールの考案した秘薬。ハリーの好奇心は否応もなく掻き立てられた。
『おそらく、これから戦いは激化する筈だ。我は汝を守り抜く力を求めている。その為に、秘薬は必ずや力となる。どうか……、頼む』
エグレの言葉にハリーは大きく目を見開いた。
『待て! オレはエグレを戦わせる気はないぞ! オレを守る必要などない! お前が少しでも幸福に生きられる事こそ、オレの望みなんだ!』
『ならば、何も問題はあるまい。我も汝の幸福を願っている。これまでの主とは違う。名を与えられ、我の幸福を願い、多くの愛を注いでくれた汝に我は報いたいのだ。今や、汝の命は我の命だ。汝が死ねば、我も死を選ぼう』
『巫山戯るな!! オレの死などで命を断つなど許さんぞ!! 報いる必要など無いんだ!! オレがお前を愛しているんだ!! 愛に見返りなど不要なんだ!!』
『我も汝を愛している。我が父と並ぶ程の愛だ。最愛の主よ……、我がマスターよ! 汝が何を言おうとも、我は永劫を抜け出し、汝と同じ時に身を置く決意を固めた! 我の死を厭うならば、汝の命を永らえよ! その為に、我に新たな力を与えよ!』
『……エグレ』
エグレの言葉はハリーの心の奥底にまで響き渡った。
嬉しくない筈がない。けれど、だからこそ、ハリーは頷けない。秘薬を作り出す事で、エグレに無茶をさせる可能性が生まれる事が恐ろしくて堪らなかった。
愛しているのだ。この偉大なる蛇の王を、ハリーは心から愛している。
ゴスペルと同様に、ハリーの心の最も深い部分にその存在が刻みつけられている。
失う事など考えられない。エグレの言葉は、そのままハリーの心に置き換えられる。
エグレの命こそ、ハリーの命だ。エグレやゴスペルが死ねば、ハリーは耐えられない。他の誰の死よりも、二匹の蛇の死は重い。
『……相棒。エグレの気持ち、受け取ってやってくれよ』
『ゴスペル!?』
ゴスペルはハリーの首に体を擦りつけながら言った。
『オレ様もエグレとまったく同じ気持ちなんだ。もし、相棒の窮地に、出来る事があるのに出来なかったら……、それで相棒に万が一の事があったら……、そんなの……、悲しくて……、怖くて……、耐えられないよ』
『マスター……、頼む。我は汝を守りたい』
エグレもハリーの胸に額を押し付けてきた。
愛おしくて堪らない二匹の蛇。
ハリーは逡巡し、そして、長い時を掛けて決断した。
『……分かった、エグレ』
ハリーはエグレの首を抱きしめて言った。
『オレを守ってくれ。代わりに、お前の事を守らせてくれ』
『……イエス、マイロード』
それから、ハリーはエグレから秘薬の材料と調合方法を教えられた。
材料の中には、とても珍しい物や危険な物が多くあった。
「……ニュートやスネイプ教授に助力を求めるか」
この秘薬はエグレが飲む事になる。
絶対に失敗など許されない。
◆
翌日、ハリーはスネイプの研究室を訪れた。そこには授業の準備を行う家主の姿があった。
「お忙しいところを申し訳ありません」
そう言うと、ハリーはスネイプの前で頭を下げた。
「先生、どうか力を貸してください」
ハリーの言葉にスネイプは目を丸くした。
「……どういう事かね?」
「サラザール・スリザリンの秘薬を調合する為に、必要な材料があるんです。それに、オレ一人では完成が難しい。どうか……」
その言葉にスネイプは再び驚いた。
プライドの高いハリーが自分一人では出来ないから力を貸して欲しいと頼んでいる。
その上、その内容は偉大なる創設者の秘薬の調合。
情報を処理する為に、スネイプは瞼を閉ざし、数秒の間熟考した。
「……詳しい事情を話しなさい」
「はい!」
ハリーは語った。エグレがハリーを守る為に力を求め、彼にサラザールの秘薬の調合を依頼して来た事、その秘薬が引き起こす効果、そして、ハリーがエグレの為に決して失敗出来ないと考えている事を。
その話を聞いて、スネイプは暫し考え込んだ。
サラザール・スリザリンの秘薬を調合出来る事は非常に魅力的であり、ハリーとエグレの意志も尊重するべきものであり、これからの事を考えればエグレの強化は歓迎するべき事かもしれないと。
けれど、同時に秘薬の引き起こす効果が彼を悩ませる。その秘薬は、魔法界に激震を走らせるものだ。おそらくはバジリスクにのみ適用出来るものであろうが、完成させてみなければ分からない。そして、もしも他種に適用可能であれば、法律や常識を塗り替える程に革新的なものであった。
「……先生、どうか」
スネイプは深く頭を下げるハリーを見つめた。
彼の心にあるものはエグレという偉大な蛇の王に対する深い愛情のみ。
その事を理解して、ようやくスネイプは決断を下すに至った。
「良かろう。我輩もサラザール・スリザリンの秘薬には興味がある。だが、この件は他言無用だ。我輩以外、例え何人たりとも教えてはならぬ。効果に関しては、バジリスクに隠されていた固有魔力によるものとでも言い訳をしておけ」
「はい、そのつもりです」
ハリーの言葉にスネイプは微笑んだ。秘薬の危険性を彼はしっかりと理解していたからだ。
「……ただ、材料の入手の為にニュートには話を通すべきかと考えているのですが」
「たしかに……、彼の協力は必要だな。我輩が入手出来る物が殆どだが……、この3つはな」
スネイプと話し合った後にハリーはニュートを研究室に連れ込んだ。
そして、三人でサラザールの秘薬の調合を開始した。
ニコラスやダフネとの共同研究についてはニコラスが受け持っている工程が終了するのを待つ必要があり、時間は十分にあった。
そして、一月半が経過した。
◆
魔法薬のエキスパートであるスネイプの助力によって、金色に輝く秘薬は見事に完成した。
けれど、ハリーは更に秘薬が間違いなく完成している事を確認する為に解析を行った。
その為に更に半月が経過し、
城中がドタバタしている中で、ハリーは秘薬を持って、ゴスペルと共に秘密の部屋を訪れた。
『……持って来たぞ』
『感謝する』
ハリーはすぐにエグレに秘薬を渡さず、調合の過程でまとめたレポートをエグレの前で読み上げて、間違っている部分が無いかを入念に確認した。
薬とは、毒と表裏一体の関係にある。
万が一があれば、エグレの身に大いなる災いが降りかかる事になる。
それだけは何があっても避けなければならない。
『……大丈夫のようだな。だが、しかし……』
ハリーは恐怖の表情を浮かべていた。普段の自信に満ち溢れた表情は見る影もなく、今直ぐに秘薬を地面に叩きつけてしまいたい衝動に襲われた。
『やはり……、これは……』
『案ずるな、マスター。その金色の輝きは間違いなく、秘薬の完成を示している。さあ、我の口に秘薬を注いでくれ』
ハリーの前で口を開くエグレ。それでも、ハリーは躊躇った。
青褪めながら、調合の過程を一から思い出した。僅かなミスを見つけ出し、この秘薬を失敗作だと断定して捨てられる理由を見つけようと躍起になっている。
けれど、どうしても見つからない。これは完成しているのだと記憶が訴えている。
『……だが……、だが!』
これほどまでに恐ろしい事があるとは思っていなかった。愛する者に対して、必要不可欠とも言い難い理由の為に危険な賭けに出なければならない事が堪らなく辛い。
『相棒。勇気を出すんだ。大丈夫さ! 相棒が自分を信じられなくても、オレ様やエグレは信じてる! オレ様やエグレが信じる相棒を信じてやってくれよ!』
『その通りだ、マスター。我は汝を信じている』
ハリーは息を荒らげた。まるで、自分の心臓にナイフを突き立てているかのような……、その方がずっと気が楽に思える程の恐怖と戦いながら、ゆっくりと秘薬をエグレの口に近づけていく。
『……エグレ。お前の死はオレの死だ』
そう呟くと、ハリーはエグレの口に秘薬を注ぎ込んだ。すると、変化は直ぐに起きた。
エグレの鱗が輝く金色に変わったのだ。そして、直ぐに夜を思わせる鮮やかで暗い青に変化した。
『これで、我は新たなる力を得られた』
そう呟くと、エグレは身を捩り始めた。
すると、エグレの体は再び金色に輝き始め、気がつくと――――、
「ほあっ!?」
裸の少女が立っていた。
ハリーは慌てて顔を背けた。
「……オエア? ……オロ……ド? ド……ジ……ドーシ……ドウシダ……、どうシた?」
喉を確かめながら、少女は問いかけた。
「……人語が話せるようになったんだな。さすがだ……」
ハリーは顔を背けたまま言うと、マーキュリーを喚び出した。
「お呼びでございますか?」
「ああ、すまないが女性用の服を用意してくれないか?」
「かしこまりました」
マーキュリーは少女を一瞥すると、何も問わずに姿くらました。
そして、すぐに戻って来た。その手には女生徒用の制服がある。
「お待たせ致しました」
「は、早いな。ありがとう」
「……コれをキるのカ?」
「あ、ああ、着てくれ」
しばらくして、少女が服を着ると、ハリーはようやく彼女を真正面から見る事が出来た。
夜を思わせる鮮やかで暗い青の髪、真紅の瞳。口元には鋭く尖った牙が覗いている。
「……エグレなんだな?」
「ソうだ。コれで、マーきゅりぃたチともかイわがでキル。……れンしゅ、ひつヨうダがな」
エグレが求めたもの、それは人の姿だった。マーキュリー達と連携する為であり、他にも手と足を得る事で可能な選択肢の幅が増えた。
「その姿はサラザールの娘の姿なのか?」
「アあ、かノじょをいメーじシた。すゴしチがうが」
人の姿になる時、イメージが必要となるらしい。
エグレはサラザールの娘の姿をイメージして人の姿となった。本人とは会ったことがないらしいが、その姿をサラザールに魔法で見せてもらったらしい。
「あ、あの……」
マーキュリーが恐る恐る口を開いた。
「エグレ様……、なのですか?」
「ソうだ。ずっト、はなシたかっタ。あリがとウ。いツも」
「そ、そんな! とんでもありません! わ、わたくしも……、お、お話が出来るなんて……、ゆ、夢のようでございます……!」
マーキュリーは大粒の涙を零しながら言った。
ハリーはそんな二人の姿をゴスペルと共に見つめていた。
『……オレ様も人間になれるのかな?』
『なりたいのか?』
『うーん……、相棒を守る為なら……。でも、正直言うと……、なりたくない』
『そうだろうな……』
慣れる事は出来るのだろう。けれど、その為には大いなる覚悟が必要となる。
その覚悟をエグレはハリーの為に示した。
「……オレも覚悟を示さねば」
ハリーは杖を振るった。すると、ハリーの姿は一匹の蛇に変化した。
それまで、あと一歩のところで上手くいかなかった動物もどきへの変身が成功した。
『エグレ』
『マスター』
人間だった蛇と、蛇だった人間。
奇妙な状況の一人と一匹は見つめ合うと、クスリと笑いあった。
そして、蛇は人間に戻り、人間は蛇に戻った。
『やはり、こちらが落ち着くな』
『オレもだ』
一匹と一人は再び笑いあった。