ローゼリンデ・ナイトハルトの朝は早い。
夜明けと共に起きると、談話室でハリーと合流する。二人で欠伸をしながら静かな廊下を歩き、秘密の部屋へ向かう。
中に入ると、そこにはマーキュリーが居て、軽食とホットココアを用意してくれている。
少しゆっくりした後、三人で秘密の部屋の掃除を始める。四年間の成果で、秘密の部屋はほぼピカピカだ。
掃除を終えると、朝食まで勉強の時間となる。勉強と言っても座学ではなく、実技の方だ。
生まれつき魔力の少ないローゼリンデは一つの呪文を徹底的に効率化しなければならない。技術を磨く事で人並みに至る。その為の苦労は尋常ではない。けれど、ハリーは辛抱強く付き合い続け、ローゼリンデも努力を惜しまなかった。
「アクシオ! リンゴ!」
ローゼリンデが呪文を唱えると、見事にリンゴが飛んできた。
「やった!」
喜ぶローゼリンデにハリーも頬を緩ませる。
「素晴らしいぞ、ロゼ。これで四年生の範囲は終わりだな」
ローゼリンデは三年生だ。だけど、四年生の終わりの範囲までの呪文をすべて会得している。
これで、もう彼女を馬鹿に出来る者などいない筈だ。
「あとはいつも通り、一から順番に繰り返すぞ。折角会得しても、忘れてしまっては意味がない」
「はい!」
誰も邪魔をする者がいない二人っきりの時間。他のみんなと一緒に勉強をする時間も嫌いではないけれど、この時間は特別だった。
「そうだ、ロゼ。もう直ぐ、ヒッポグリフレースが始まるだろ? 今年、オレは参加を控える予定だ。だから、がんばって一位を取れ」
「はえ? ど、どうして参加を控えるのですか!?」
ハリーは去年の優勝者だ。レースに前年度のチャンピオンが出場しないなどあり得ない。
「校内だけのイベントなら問題無いが、今年は魔法省がちょっかいを掛けてきているからな。オレが参加すると、オレ以外に危害が及ぶ」
「そんな……」
ローゼリンデは悲しくなった。
元々、ヒッポグリフレースはハリーがローゼリンデの為に考案した遊戯だ。
それなのに、あまりにも理不尽だ。
「……ハリー・ポッター様が参加しないなら、わたしも参加しません」
「いや、お前が遠慮する事じゃない。これはオレの問題だからな。ロゼはヒッポグリフレースを楽しんでくれ」
その言葉は彼女を気遣ってのものだったのだろう。けれど、ローゼリンデは泣きそうな顔で首を横にブンブンと振った。
「イヤです! わたしはハリー・ポッター様と一緒がいいです!」
それは滅多に自分の意見を主張しない彼女の珍しい我儘だった。
ハリーにとって、それは嬉しいものだった。出来れば、叶えてあげたいとも思った。
「……すまないな、ロゼ。だが、今年だけだ。来年は元に戻るさ」
「でも……」
「オレの優勝杯、今年はお前が持っていてくれよ。来年、返してもらうからよ」
悪戯っぽく言うハリーにローゼリンデは少し悩んでから「……はい!」と応えた。
「こ、今年の優勝杯はわたしがお預かり致します!」
その言葉にハリーは彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。
一昔前の彼女はこんな風に言えなかった。少しずつ、成長している。
「ああ、頼むぞ」
第七十五話『開催! 第三回・ヒッポグリフレース!』
クリスマスを目前に控え、ヒッポグリフレースは予定通りに開催された。
今回のレースにはダームストラングとボーバトンの生徒も参加する事になっている。
事前にハリー・ポッターが出場辞退の旨を伝えてあった為か、ピリピリした空気は無かった。
「あれ? ロゼ、ベイリンに乗るのかい?」
ドラコはローゼリンデが相棒のバックビークではなく、ベイリンの手綱を引いている事に気付いて目を丸くした。
「はい! ハリー・ポッター様の代わりに、わたしは優勝杯を手に入れるのです!」
「……そっか、頑張れよ」
「はい!」
ハリーの出場辞退に対して、ドラコも不愉快な思いをしていた。他のレースの常連達も同様だ。
特に、このレースの原点が《内気なローゼリンデに自信をつけさせたいというハリーの想い》である事を知っている者達は尚更だ。
ハリーとローゼリンデが揃っていなければ、このレースは本末転倒なのだ。
「……まったく、外野が余計な事ばかり」
ドラコは愛馬であるアグラヴェインに跨がりながら呟くと、ヒッポグリフの門へ向かう。
「ふざけんなよ……」
そもそも、彼は第一の試練の事で深い憤りを感じていた。
明らかに魔法省はハリーを殺すつもりだった。ハリーが真っ向から圧倒した事で有耶無耶になり掛けているが、冗談じゃない。
ハリー自身が『背後にヴォルデモートがいるから連中は暴走しているんだ』と言って、大して気にしていなくても関係ない。
「……ドラコ。気持ちは分かるが、あまり声に出さない方がいい」
エドワードが愛馬であるグスタフに乗りながら近づいてきた。
彼も嫌悪感を隠していない。
怒りを感じているのはドラコだけではないのだ。スリザリンの生徒の多くが同じ思いを抱いている。
彼らは四年もハリーと一緒に過ごして来た。彼を恐ろしいと思う事もある。けれど、仲間なのだ。
スリザリン寮の最も大きな特徴は結束にある。
仲間が殺されかけて、笑っていられる者などいない。
ローゼリンデが他寮の生徒達に虐められていた事にハリーが激昂した時も、恐怖と共に怒りを覚えた生徒が殆どだった。
「落とし前はつけさせる。だけど、今じゃない。だろう?」
ダンもヴァーサに跨がり近づいてきた。
「わたし達がするべき事は一つよ、ドラコ。このレースの主役が誰なのか、分からせるの」
フレデリカも、いつもとは違って、険しい表情で他校の生徒達を見ていた。
「そうそう、ドラコ! 我らがハリーの一番の配下! ローゼリンデ・ナイトハルト様こそが真の王者である事をモブ共に教えてやろうじゃないの!」
ジャクソンはニヒヒと笑いながらドレッドヘアーをかき上げた。いつもおちゃらけて、ハリーを怒らせる彼も、今回ばかりは本気の様子だ。
「……君達こそ、熱くなり過ぎだ。このレースに協力プレイはない。全力でぶつかり合って、ただ一人の勝者を決める。みんなで協力してロゼを優勝させるなんて、それこそロゼの決意を踏みにじる事だ」
「ドラコ……」
「け、けどよ!」
ドラコは傍に寄って来たスリザリンの生徒達とグリフィンドールやレイブンクロー、ハッフルパフの一部の生徒達に向かって静かに言った。
「忘れたのかい? 初代優勝者は誰か? 何もしなくていいんだ。ただ、正々堂々と戦う。それだけでいい。それだけで十分なんだよ」
ドラコの言葉に誰もが頬を緩ませた。
そうだった。勘違いしていた。
ローゼリンデという少女は助けてあげなきゃ誰にも勝てない弱虫などではない。
彼女は正真正銘、ハリー・ポッターの一番の配下なのだ。
「エドの言う通りだ。落とし前を付けるのは今じゃない。どうせ、いずれは戦う事になるんだ」
「……うん」
「そうだよな」
「そうよね……」
「そうだ!」
「おう!」
「そんじゃ、ここは切り替えていきますか!」
ジャクソンの言葉に全員が声を揃えて『オウッ!!』と叫んだ。
いずれ、ハリーは魔法省と戦う事になるだろう。魔法省がヴォルデモートの手に落ちている以上は絶対だ。
その時、どちらにつくか、既に腹は決まっている。
―――― お前達の敵をハリーだけだと思うなよ、ヴォルデモート。
◆
ヒッポグリフレースがスタートした。
ハリーは観客席からその様子を見つめていた。
「……何の用だ?」
その隣に一人の男が座った。
「警備の関係でな。ここが俺の管轄なんだよ、ボーイ」
闇祓いの一人、ダリウス・ブラウドフットは気さくに応えた。
「……そうか」
ハリーは舌を鳴らすと競技場の中央に浮かぶ巨大スクリーンに意識を戻した。
丁度、トップに躍り出たローゼリンデが最初のリングを潜り抜ける所だった。
「よし……、いいぞ」
「……ずいぶん、彼女を気にかけているようだな」
「あん?」
ハリーはダリウスを見た。
「……用があるならさっさと言えよ」
「おいおい、彼女に向ける優しさを俺にも少しは分けてくれないか?」
「ざけんな。なんで、見知らぬおっさんに優しくしないといけないんだ?」
「ヘヘッ、違いない」
ハリーの返しに肩を震わせて笑うダリウスに彼は鼻を鳴らす。
「……用がないならオレは移動するぞ。お前はここが担当らしいからな」
「おっとっと、待ってくれ。用ならあるさ。もちろん! 次の試練についてだ」
「どうでもいい」
ハリーは席を移動するために立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待てよ! 聞いておけって! マジで次の試練はヤベェんだよ」
「オレの言った言葉が理解出来なかったのか……? なあ、ダリウス・ブラウドフット」
「……俺、名乗ったかな?」
ハリーは答えず、ダリウスに背を向けた。
「だ、だから待てよ! 次の試練の内容をお前さんは知っとくべきなんだ! 知っててもやばい内容なんだよ! だから!」
「ダリウス。オレは無駄な事が嫌いだ。だから、同じ事を何度も言わせるなんて無駄な事をさせるなよ」
そう言うと、ハリーはダリウスを睨みつけた。
「け、けどな!」
「一つ、教えてやるよ」
ハリーは言った。
「誰が何を企もうと、オレは勝つ」
「お、おい!」
それっきり、ハリーは振り返らなかった。
手を伸ばしたまま、呆然となるダリウス。そんな彼に近くの生徒が言った。
「ハリーが試練の内容を聞くなんてあり得ないよ」
「あん? なんでだよ!」
「だって、そんなのズルじゃないか」
その生徒は言った。
「ハリーは言ってたよ。『勝利とは、屈服させる事だ! 徹底的に敗北感を刻みつける事だ! その為には相手の土俵で戦わなきゃいけないんだ! 相手が最高のコンディションの時に、相手にとって最高に有利な状況で叩き潰すんだ!! それが一番気持ちいいんだ!! それ以外の勝利に価値など無い!!』って」
素晴らしい演技でハリーのセリフを諳んじた少年は楽しげに笑った。
「おい、ロン! お前も来いよ! 何してんだ!」
すると、ハリーが戻って来た。ロンと呼ばれた少年に手招きしている。
「今行くよ!」
ロンは立ち上がり、ダリウスを見つめた。
「それがハリーなんだよ」
そう言って、彼は笑いながらハリーと共に去って行った。
「……おいおい」
ダリウスは乾いた笑みを浮かべながら座り込んだ。
「ガキ共の方がよっぽど肝が据わってるじゃねーの」
呟きながら、彼はレースの中継に視線を向ける。そこには先頭を翔けるローゼリンデ・ナイトハルトの姿があった。
警備の合間に耳に入った話によれば、彼女はハリーの代わりに優勝杯を手に入れようと頑張っているらしい。
元々はとても内気な性格だったと聞く。
「……おいおい、情けねぇ話じゃねーかよ」
ロンやローゼリンデを見れば、ハリー・ポッターという男の本質も見えてくる。
それは、あの二人がハリー・ポッターにきちんと向き合って接しているからだ。
大人達がこぞって放棄した事を子供達はしっかり行っている。
「って、腐ってる場合じゃねぇか」
ダリウスは顔を上げた。
やるべき事は変わらない。局長はハリーを守り、ヴォルデモートを滅ぼすと決断した。
だから、ハリーを守る。その為に出来る事をする。
「大人だって、かっこ悪いままじゃいられねぇのよ」
そう呟くと、彼は立ち上がった。